(1)
「内的」世界というとき、「内」側とは何か?
(2)
私にあるのは、内側だけだ。
(2)-2
私の身体は外側と思われるが、実は私の内側だ。私の身体が、私の見ている世界に属する限り、私の身体は、私の内側だ。
(2)-3
他者は、私の見ている世界について知ることができない。私とは、私のモナド(宇宙)だ。(「私モナド」!)
(3)
私の内側に、唯一、外への窓がある。外とは他者のことだ。他者とは、他のモナド(宇宙)だ。(「他者モナド」!)
(4)
私の内的世界に、唯一の窓がある。それは他者の身体だ。身体は物だから触覚において出現する。(触覚とは物の出現のことだ。)
(4)-2
相互に他なる物が接触面の両方の側に出現するという様態でしか、物は出現しない。(触覚とは、相互に他なる物の出現という出来事だ。)
(4)-2-2
かくて《私の身体(物)》が私のモナドに属する(内側である)だけでなく、(他者のモナドに属する=他者の内側にある)《他者の身体(物)》も、私のモナドに属する(内側である)。
(4)-2-3
私の身体と他者の身体の接触において、「他者モナド」(心)そのものと、「私モナド」(心)そのものが接触する。私の内的世界そのものと他者の内的世界そのものが接触する。他者の身体は私の内的世界そのもの(内側)であって、同時に他者の内的世界そのもの(内側)だ。
(4)-3
モナドを心と呼ぶなら、心と心が(※自他の)《身体という「物」》において、直接に接触する。内面と内面が直接に接触する。
(4)-3-2
接触した(※自他の)《身体という「物」》において他者の身体は私の内的世界そのもの(内側)となるが、その他者の身体を含む他のモナドの内的世界全体は推量されるだけだ。
(4)-4
心と心が(※自他の)《身体という「物」》において、直接に接触するとき(すなわち)以外には、「私モナド」(私の内的世界)と「他者モナド」(他者の内的世界)が、内的世界の直接的な接触という様態で出会うことが絶対にない。
(5)
心と心が《身体という物》において、直接に接触することは、触覚という出来事の内で起こる。
(5)-2
触覚(一般には《感覚》;触覚が感覚の中核だ;触覚以外の感覚は触覚の補足だ)とは相互に他なる物の出現だ。あるいは物とは、相互に他なる抵抗が発生する出来事のことだ。(Cf. 質量とはこの抵抗が連続的に生じることだ)。
(6)
他者モナドに属する物(他身体)は、それが触覚という出来事、つまり相互に他なる物の出現という出来事のうちで生じるがゆえに、「他」という規定を受け取るのではない。
(6)-2
物の出現という出来事(触覚)は、相互に「他」なる物を出現させるだけで、「自」という規定を出現させない。
(6)-3
《痛みの感覚が及ぶ範囲で、かつ感情・欲望・意図に従って動く「物」》、しかも《閉じている「物」》が常に宇宙の中心にある。このような「物」のみが「自」という規定を持つ。「自」という規定を持つ「物」が自己身体だ。(参照1582)
(7)
「物」が外的と呼ばれるのは、「他者モナド」が、「私モナド」(内面世界=内側)に対して外的なためだ。「物」の意味に《他者モナドに属する》という規定が含まれるので、「物」は外的世界と言われる。
(7)-2
だが「物」は同時に常に、私の内側だ。つまり「物」は、他者のモナドに属する(外的だ)とともに、同時に常に私のモナドに属する(内的だ)。
(7)-3
「物」(という意味)は、《他者のモナドに属する》という規定を持つ限りで外的だが、同時に常に《私のモナドに属する》ので内的だ!
「内的」世界というとき、「内」側とは何か?
(2)
私にあるのは、内側だけだ。
(2)-2
私の身体は外側と思われるが、実は私の内側だ。私の身体が、私の見ている世界に属する限り、私の身体は、私の内側だ。
(2)-3
他者は、私の見ている世界について知ることができない。私とは、私のモナド(宇宙)だ。(「私モナド」!)
(3)
私の内側に、唯一、外への窓がある。外とは他者のことだ。他者とは、他のモナド(宇宙)だ。(「他者モナド」!)
(4)
私の内的世界に、唯一の窓がある。それは他者の身体だ。身体は物だから触覚において出現する。(触覚とは物の出現のことだ。)
(4)-2
相互に他なる物が接触面の両方の側に出現するという様態でしか、物は出現しない。(触覚とは、相互に他なる物の出現という出来事だ。)
(4)-2-2
かくて《私の身体(物)》が私のモナドに属する(内側である)だけでなく、(他者のモナドに属する=他者の内側にある)《他者の身体(物)》も、私のモナドに属する(内側である)。
(4)-2-3
私の身体と他者の身体の接触において、「他者モナド」(心)そのものと、「私モナド」(心)そのものが接触する。私の内的世界そのものと他者の内的世界そのものが接触する。他者の身体は私の内的世界そのもの(内側)であって、同時に他者の内的世界そのもの(内側)だ。
(4)-3
モナドを心と呼ぶなら、心と心が(※自他の)《身体という「物」》において、直接に接触する。内面と内面が直接に接触する。
(4)-3-2
接触した(※自他の)《身体という「物」》において他者の身体は私の内的世界そのもの(内側)となるが、その他者の身体を含む他のモナドの内的世界全体は推量されるだけだ。
(4)-4
心と心が(※自他の)《身体という「物」》において、直接に接触するとき(すなわち)以外には、「私モナド」(私の内的世界)と「他者モナド」(他者の内的世界)が、内的世界の直接的な接触という様態で出会うことが絶対にない。
(5)
心と心が《身体という物》において、直接に接触することは、触覚という出来事の内で起こる。
(5)-2
触覚(一般には《感覚》;触覚が感覚の中核だ;触覚以外の感覚は触覚の補足だ)とは相互に他なる物の出現だ。あるいは物とは、相互に他なる抵抗が発生する出来事のことだ。(Cf. 質量とはこの抵抗が連続的に生じることだ)。
(6)
他者モナドに属する物(他身体)は、それが触覚という出来事、つまり相互に他なる物の出現という出来事のうちで生じるがゆえに、「他」という規定を受け取るのではない。
(6)-2
物の出現という出来事(触覚)は、相互に「他」なる物を出現させるだけで、「自」という規定を出現させない。
(6)-3
《痛みの感覚が及ぶ範囲で、かつ感情・欲望・意図に従って動く「物」》、しかも《閉じている「物」》が常に宇宙の中心にある。このような「物」のみが「自」という規定を持つ。「自」という規定を持つ「物」が自己身体だ。(参照1582)
(7)
「物」が外的と呼ばれるのは、「他者モナド」が、「私モナド」(内面世界=内側)に対して外的なためだ。「物」の意味に《他者モナドに属する》という規定が含まれるので、「物」は外的世界と言われる。
(7)-2
だが「物」は同時に常に、私の内側だ。つまり「物」は、他者のモナドに属する(外的だ)とともに、同時に常に私のモナドに属する(内的だ)。
(7)-3
「物」(という意味)は、《他者のモナドに属する》という規定を持つ限りで外的だが、同時に常に《私のモナドに属する》ので内的だ!