臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

一首を切り裂く(038:空耳・其のⅡ)

2010年07月31日 | 題詠blog短歌
(夏実麦太朗)
   聞こえないはずなんだけどふと何か聞こえたようなそれが空耳

 「空耳」を<お題>として詠んだ短歌の中で、「空耳」という語の意味を解説するところに、本作の作者・夏実麦太朗さんの真面目さとユーモアセンスが感じられる。
 しかしながら、「空耳」には、夏実麦太朗さんがこの作品の中で解説した意味の他に、「聞いても聞かないふりをすること」という意味もあるから、彼のせっかくのご努力も水泡に帰してしまった訳である。
 夏実麦太朗さんは、本作を通じて、「ことほど然様に短歌創作ということは難しいものだ」ということを、「題詠2010」の全参加者にご教授下さったのでありましょう。
  〔返〕 「聞いてても聞かないふりをすること」も「空耳」という言葉の意味だ   鳥羽省三


(西中眞二郎)
   目覚ましは空耳なるに起こされてぬるき布団に惰眠続ける

 深夜まで役所で働き、帰宅して、ほんの数時間眠ったかと思うと亦、昨日と同じ役所に出勤して働かなければならないのがお役人の宿命である。
 本作の作者・西中眞二郎さんは<元・高級官僚>、と言えば、聞こえはいいが、本作によると彼は、<目覚まし>の音を<空耳>に聴くのだと言う。
 可哀想な<元・高級官僚>ではある。
  〔返〕 空耳に<ゲゲゲの女房>の主題歌を聴いて飛び起きテレビをつける   鳥羽省三
 NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」も宜しいが、私は、あの連ドラの主題歌の歌い出しの「『ありがとう』って伝えたくて」の部分が苦手である。
 「ありがとう」の後の部分が何をどう言ってるのか、さっぱり分からないからである。
 あれは、<国営テレビ・NHK>による、意図的な日本語破壊策である。
 即刻、放映禁止。
 でも、歌い手の「いきものがかり」そのものは、かなりいい線行ってるぞ。
 何よりも、あの歌い手の、三流高校の合唱部員のような糞真面目な歌い方が宜しい。


(藻上旅人)
   窓の外川べりに立つ子供たち空耳友にひとり旅する
 
 「ああ 日本のどこかに/私を待ってる 人がいる/いい日旅立ち 夕焼を探しに/母の背中で聞いた 歌を道連れに」
 「ああ 日本のどこかに/私を待ってる 人がいる/いい日旅立ち ひつじ雲を探しに/父が教えてくれた 歌を道連れに」
 「ああ 日本のどこかに/私を待ってる 人がいる/いい日旅立ち 幸せを探しに/子供の頃に歌った 歌を道連れに」          (谷村新司作詞『いい日旅立ち』より)
  〔返〕 二匹目の泥鰌狙って旅立ちぬ汝が空耳の<ipod>淋し   鳥羽省三   


(蝉マル)
   最低でも県外移設?五月末必ず決着?空耳でしょう

 古い、古い。
 この作品も、「空耳」で聴いたことにしましょう。
 先般の参院選で、選挙民は<ねじれ国会>による国家財政の損失を考えないで自民党に投票したのである。
  〔返〕 谷垣かダニ餓鬼野郎か知らねども天に唾するばら撒き批判   鳥羽省三


(穂ノ木芽央)
   君なほも空耳と云ひ拒むのか白き日傘のひらく音して

 穂ノ木芽央さんは、<彼>の立場に立ってこの作品をお詠みになったのであろう。
 「ねえ、君、いま何か言った。僕と結婚したいって、言ったんでしょう。えー、何も言っていないって。僕と結婚したいって、言っていないって。うそ。うそ。そんなことうそ。君はまた、『空耳』のせいにして、僕のたった一つの希望を拒むんでしょう。白い『日傘』なんか『ひらく音』を、殊更に大きく立ててさ」と彼は言う。
  〔返〕 今日もまた空耳と言い拒むのか私は君の手ごろな玩具   鳥羽省三


(中村梨々)
   空耳をなくしてからは雨ばかり聞いてました 記憶の底で

 「空耳」まで「なくして」しまったら、もはや何も聞こえません。
 目の前で降っている「雨」の音だって、「記憶の底」で聞いているしか無いのである。
  〔返〕 「リリ、リリ」と呼ばれたような気がしたが空耳だったことさえ昔   鳥羽省三


(南葦太)
   もういいかい? まぁだだよ って空耳に人でいられた時間をおもう

 南葦太さんは、大阪から<人で無しの国>に引っ越して行って、その昔、大阪で、「もういいかい? まぁだだよ」って言いながら、人間の友だちと<かくれんぼ遊び>をした時の声を「空耳」に聞いているのである。
 「人でいられた時間」の、何と懐かしく、何と素晴らしかったことよ。
 思うに、南葦太さんに限らず、私たち人間は、もはや「人」でなくなっているのである。
 あの「もういいかい? まぁだだよ」が、この頃、しきりに懐かしく思われるのは、私たちが、人でなくなっていることの何よりの証拠であろう。
  〔返〕 人で無く女であるか風俗嬢 我が子二人を飢え死にさせて   鳥羽省三


(珠弾)
   いきなさいそのまままっすぐすすむのよこずえ見上げる空耳の丘

 あの中国東北部になら、「こずえ見上げる」「空耳の丘」が、きっと在ったに違いない。
 我が歌友の珠弾さんは、敗戦の引き揚げのどさくさの中で、ご両親から、その「空耳の丘」を「いきなさいそのまままっすぐすすむのよ」と言われた、哀しい記憶を持っているに違いない。
 それこそ、体裁のいい<口減らし>、亦の名は<児童遺棄手段>である。
  〔返〕 「生きなさい。そのまま真っ直ぐ生きなさい。」我が子に残す我の遺言   鳥羽省三
 なんちゃって。


(生田亜々子)
   マンションの上に広がる青空が今日の空耳発信元です

 マンションの上空が真っ青だったりすると、何と無く、その青い空から「ピー、ピー、ピー」と宇宙人からの伝言が響いて来るような気がします。
 でも、それは、「空耳」というやつですから悪しからず。
〔返〕 「ピー、ピー、ピー、アアコサン、アアコサン、テス、テス」と宇宙人から君への空耳   鳥羽省三


(黒崎聡美)
   鯵を焼き大根を煮る振りむけばまた空耳の台所にいる

 「台所」に居て、「鯵を焼き大根を煮る」とは、何と安直な家庭サービスであることよ。
 それでは、振り向いても誰も居ません。
 猫一匹すら居ません。
 聞こえるのは、「空耳」のせいでしょう。
  〔返〕 パンを焼きカフェオレ入れて振り向けば妻がにっこり我が家の朝餉   鳥羽省三


(希屋の浦)
   青い空耳に聞こえる潮の音待ちくたびれた夏が始まる

 本当に「待ちくたびれた」としても、作品上では「待ちくたびれた」と言ってはいけません。
 作風が作風だけに、これでは、せっかくの「夏」がだいなしになりますよ。
 題材も発想もありふれたものであるだけに、確りと抜かり無く詠まなければなりません。
  〔返〕 青い空耳に聞こえる潮鳴りが待ちに待ってた夏を知らせる   鳥羽省三


(こゆり)
   教室の窓開け放つ 空耳がえいえんみたいに響いて泣いた

 「えいえんみたいに」が効いている。
 「教室の窓」を「開け放つ」と、何処からか音が聞こえて来て、「空耳」に「えいえんみたい」に響くのである。
 その響きを聞いていると、何故か泣けて来るのである。
  〔返〕 教室の窓から見えたブルマーは純情われを永久に泣かせる   鳥羽省三


(冥亭)
   かはたれの土手を駆け逝く空耳よオグリキャップは白きたてがみ

 あのハイセーコーも死んだ。
 あのオグリキャップも死んだ。
 生きて、縄目の辱めを受けているのは、あの駄馬のハルウララだけだ。
  〔返〕 たそがれは誰(たれ)も空耳あの西空にまなこ濡らして   鳥羽省三

一首を切り裂く(038:空耳・其のⅠ)

2010年07月31日 | 題詠blog短歌
(tafots)
   言い返すかわりに笑う 舌打ちは空耳だって思おうとした

 誰かが、本作の作者の様子を見ていて「舌打ち」をしたようだ。
 作者としては、「なんですか、舌打ちなんかしちゃって。この私の何処が気に食わないと仰るんですか。この私を気に食わなかったら、この世界中で、あなたの気に食う人なんて、ただの一人だって居るはずがありませんよ。なんだったら、お互いにとことん言い合いましょうか。この際、徹底的に白黒を着けましょうか」とでも言い返したいところである。
 ところが、本作の作者は、インターネット歌壇で名だたる人格者であるから、「言い返すかわりに笑う」ことにし、「舌打ちは空耳だって思おうとした」のである。
 この日本に、こんな人ばっかり居たとしたら、争いごとは何一つ起きるわけがありません。
 警察も、日米安全平和条約も必要がありません。
 だが、本作の作者のような気の優しい人は例外中の例外であって、「やれ、足を踏まれた」、「やれ、お尻に触られた」、「やれ、舌打ちされた」、「やれ、一代の傑作に難癖を付けられた」、「やれ、国境を侵犯された」などとお互いに言い合って、すぐさま丁々発止をやらかすから、気の弱い評者などは、言いたいことも言えず、書きたいことも書けずに居るのである。
 「空耳」という<お題>で一首をものするのは、それほど簡単なことではない。
 凡百の歌人ならば、<お題>に振り回されて、「『まぶいね』と言われたような気がしたがキスもしないし空耳かしら」などと、ありきたりの一首を仕立て上げて、してやったりと投稿してしまうのである。
 そうした中に在って、この作品の出来栄えはなかなかのものである。
 この作品の良さは、ごく普通の人間がごく普通の日常生活の中で体験したり思ったりすることに取材しながら、発想が俗を脱している点に在る。
 すれ違いざまに「舌打ち」されたことが明らかになった時、人は誰でも「舌打ち」をやり返したり、強烈なカウンターパンチを浴びせたりして、憂さ晴らしをする。
 そうした遣り方が、俗中の俗に染まっている者のやり方であり、発想であるのだ。
 それなのにも関わらず、本作の作者は、「言い返すかわりに笑う 舌打ちは空耳だって思おうとした」などと詠み、悲惨な争いごとが発生する危機を、未然に防いでいるのである。
 こうした処世法は、俗人の処世法では無く、神に近い人の処世法である。
 本作の作者は、市井に身を置いている神なのかも知れない。
  〔返〕 公約は「空耳かしら」と思ってて国民誰もが当てにしてない   鳥羽省三
 あの<鳩ぽっぽ>も亦、神のような考え方をする人であったが、その彼の考え方は、人々に理解されること無く、あの<マニフェスト>とやらは、神ならぬ一片の紙切れと化してしまった。


(菅野さやか)
   既婚者に愛してるとか言われても空耳のふりするしかないよ

 俗人中の俗人の登場である。 
 この世に<鉄面皮>という言葉が在る。
 「既婚者」でありながら、未婚の女性に「愛してる」とか言うやつは面の皮が頗る厚いやつ、いわゆる<鉄面皮>なやつだから、「空耳のふり」をしたぐらいでは、君を誘惑することを諦めてはいないのである。
 鉄面皮な中年既婚者男性に掛かったら、バージンなんて幾つ有っても足りません。
  〔返〕 既婚者に「愛してる」って言われたら「おとといおいで」と啖呵を切りな   鳥羽省三


(わたつみいさな)
   凍えてるひとにかぎって空耳に似合うピアスをさがす春さき

 「空耳」の「空」が完全な<遊び>になっているところが面白い。
 発想の原点は、「春さき」に「ピアス」を刺したら、「耳」が凍みるような気がした、という点にあるのだろう。
  〔返〕 肥えている人に限って空耳をほんとのことと思うようだね   鳥羽省三


(コバライチ*キコ)
   石笛の奏でる音色に龍神がはもれる夕べ空耳でなし

 この楽の音は空から聞こえて来るのではなく、水底から聞こえて来るのだから「空耳でなし」というわけである。
  〔返〕 村長(むらおさ)の一人娘に龍神が恋をしたから辰子が生まれた   鳥羽省三 
 あの有名な田沢湖伝説である。


(リンダ)
   しんとした図書館で聞く空耳は見つけて欲しい本のささやき

 いくら「見つけて欲しい」からといって、「本」が囁くわけは無いから、「しんとした図書館」で耳にした「ささやき」は、「空耳」であったに違いない。
 それとは別のことであるが、数多在る「図書館」の蔵書の中には、「この私を見つけて欲しい」と囁いているような本が必ず在るものである。
 本を本当に愛する人と目立たないけど本当に素晴らしい本との出会いとは、こうしたものである。
  〔返〕 午後二時の教壇で聴く空耳は明日は休めと甘いささやき   鳥羽省三


(周凍)
   山ぎはを雲の飛びゆく夕暮は鐘の音さへ空耳にきく

 「山ぎはを雲の飛びゆく夕暮」ともなると、鳴るはずの無い「鐘の音」を「空耳」に聴いてしまうものである。
  〔返〕 山の端をかすめて雁が飛ぶ夕べ越後生まれの女が泣いた   鳥羽省三


(青野ことり)
   からからとだれか笑った 空耳を空耳として憶えておこう

 「『からからとだれか』が『笑った』ように思ったが、それは私の『空耳』だった。だが、『空耳』は『空耳として憶えておこう』」と、本作の作者は独り言を言っているのである。
 ところで、「空耳」には、「① 声や物音がしないのに聞いたように思うこと。 ② 聞こえても聞こえないふりをすること。」と、二通りの意味がある。
 そのうち、「ことりごと」の世界に棲む少女たちがよく使う「空耳」の意味は、①では無く、②である。
 其処の辺りのご事情を、評者は、その昔の少女の青野ことりさんから、とっくりとお伺いしたいものである。
  〔返〕 空耳を空耳として憶えると言ってた人のピアス眩しい   鳥羽省三


(虫武一俊)
   振り向いて ああ空耳と納得をするまで耳は街を見ている

 「いくら『納得』出来ないからといって、『耳』が『街を見ている』わけが無いでしょう」、と作者に食って掛かって行ったら、「その『耳』はピアスを刺す『耳』では無く、女性の名前としての『耳』だ」と言われてぎゃふーん。
 と言うのは冗談。
 物音が聞こえたような気がした時、人間は、その物音がする方向に耳を向ける。
 そして、その物音が「空耳」であると「納得」するまで、物音がして来たと思われる方向から「耳」を動かさないのである。
 本作の作者は、人と変わった奇妙な言い方をよくするが、見るべき点は見ているのである。
  〔返〕 肯いて「ああ空耳」と納得をしてもなかなか耳を貸さない   鳥羽省三   

今週の朝日歌壇から(7月26日掲載分・其のⅣ)

2010年07月30日 | 今週の朝日歌壇から
○ 領収書要らぬビールで乾杯す昔愚痴った女将の店で  (新潟県) 岩田 桂

 インターネットで検索したところ、「岩田 桂 <スローフードにいがた 代表副幹事>」とあった。
 おそらくは、本作の作者の岩田桂さんと<スローフードにいがた 代表副幹事>の岩田桂氏とは同一人物でありましょう。
 作中に「領収書要らぬビールで乾杯す」とあるが、「領収書要らぬビールで乾杯す」る場合があれば、その反対に、「領収書」の要る「ビールで乾杯す」る場合もあったに違いない。
 このように、作品中の記述を深読みして行くと、「領収書」の要る「ビールで乾杯す」る場合とは、どんな場合であったのか、だとか、「領収書」の要る「ビールで乾杯す」る場合があった、岩田桂さんの前身についてや、「昔愚痴った女将」と岩田桂さんとのご関係など、いろいろなことを詮索したいという欲望に駆られるのが、「昔」変わらぬ評者の困った性癖であるが、古希に達したことでもあるから、今回はぐっぐっぐっと堪えて、そのような性癖を表面に出さないようにして、筆を擱くと致しましょう。
  〔返〕 酒<久保田>佐渡の岩がき魚沼の<コシヒカリ>召せ御酒もたっぷり   鳥羽省三


○ 水に入る素足美し身すべてを母と呼ばるる人であれども  (野州市) 馬渕兼一

 本作の作者・馬渕兼一さんは、何歳にお成りなのか?
 「身すべてを母と呼ばるる人」の「水に入る素足」を美しいなどと仰って居られる。
 彼女を「母と呼ばるる人」にしたのは、他ならぬ貴方ご自身ではありませんか。
 貴方ご自身によって、「母と呼ばるる人」となった彼女は、「水に入る素足」のみならず、「身すべて」が美しいのではありませんか?
 なんでしたら、「身すべて」を、「素足」ならぬ<素っ裸>にしてみなさい。
 ご自分で出来なかったら、他ならぬ私が代行致しますよ。
  〔返〕 温泉(ゆ)を浴びる裸形うるわし身の全て我のものなるこの女性(にょしょう)はも   鳥羽省三


○ レンブラントの「夜警」の隅に片目しか描かれなかった一人の男  (坂戸市) 山崎波浪

 「レンブラントの『夜警』の隅」には、「片目しか描かれなかった」「男」が、少なくとも三人は居る。
 右側の「隅」に二人、左側「隅」に二人である。
 これら三人の「男」たちは、何れも片目しか持っていないのでは無いと思われるが、右側の「隅」の二人の「男」は左側を向き、左側の「隅」の「男」は右側を向いているから、目については「片目」しか描かれていないのであるが、横顔や鋭い鼻も描かれているから、「レンブラントの『夜警』の隅に片目しか描かれなかった一人の男」との、作者のご指摘は、それほど特筆するべきご指摘とは思われない。
 選者・永田和宏氏の「そう言われればそんな男が居たような気もする。人の気づかないところに気づくのも作歌の楽しみの一つ」というご選評は、真にお気楽なご選評かと思われる。
  〔返〕 レンブラント描きし『自画像』は生涯通じて六十枚とか?   鳥羽省三 


○ 貸し金庫1001番のケースには誰も知らない岬と入江  (塩釜市) 佐藤幸一

 「貸し金庫1001番のケース」に納められている「誰も知らない岬と入江」は油絵であり、その油絵は、本作の作者のご両親のお墓から見下ろした「岬と入江」を描いたものだったりして。
 何やら、謎めいた作風が買われたのでありましょうか?
  〔返〕 岩盤湯「信玄の湯」の脱衣場に忘れて来にしステテコ一枚   鳥羽省三


○ 猫の死を悲しむ我を励ませり吾子は二十歳の言葉を持ちて  (ひたちなか市) 猪狩直子

 此処に、<子離れ>に加えて<猫離れ>も出来ていない女性が居る。
  〔返〕 猫の死を悲しむ母などほっといて受験勉強しっかり遣りな   鳥羽省三


○ 理科室もろう下もプールも暑くって夏が寝そべっている感じだ  (富山市) 松田梨子

 この作品の魅力は、「夏が寝そべっている感じだ」という下の句の措辞に在る。
  〔返〕 図書室もトイレもプールも暑過ぎて校長室に潜り込んでる   鳥羽省三   

今週の朝日歌壇から(7月26日掲載分・其のⅢ・決定版)

2010年07月30日 | 今週の朝日歌壇から
○ 原発と火発を抱くふるさとの真野の萱原海風渡る  (下野市) 若島安子

 本作の作者の若島安子さんは、現在は栃木県下野市にお住いであるが、彼女の「ふるさと」は福井県越前市味真野町でありましょう。
 福井県越前市味真野町一帯には、2007年3月時点で十三基の「原発」が密集している他に、火力発電所も在ると言う。
 それらの発電所施設は、日本海からの「海風」が吹き付ける「萱原」の中に建てられているのでありましょう。
 「海風」の吹き荒れるに任せる他無く、水稲耕作や畑作も思うままにならない荒地に「原発」を誘致して、市財政の不足を補おうと考えた人々や利権に与ろうとした人々と、「原発」の自然破壊や健康被害を憂慮した人々の間には、激しい意見の対立や長い抗争の歴史があったのである。
 その為、「原発」誘致派が勝利して、この土地が<原発銀座>などという蔑称で呼ばれている現在に至っても、その激しい<対立>と<憎悪>の記憶が、この土地に住んでいる人々の心の中ばかりでは無く、この土地に生まれ、この土地から離れている人々の心の中にも、鮮明に残っているのでありましょう。
 したがってこの一首は、今となっては<原発銀座>となってしまった「ふるさと」に対する限りない郷愁と、複雑な心情を込めて詠まれているのである。
 「ふるさとの真野の萱原」には、日本海からの冷たい「海風」が「渡る」のであるが、その「ふるさと」は「原発と火発を抱くふるさと」なのである。
 「萱」という植物は、水田にも畑にもならないような<荒地>に生える植物である。
 <荒地>とは、単なる土地の荒れる様を言い表わしている言葉であるだけではなく、人間の心の荒れる様を言い表わしている言葉であるかも知れない。
 「原発と火発を抱くふるさと」と言う表現は、裏返しにして言えば、「原発と火発に抱かれたふるさと」という表現になる。
 人によってはこの越前市味真野町のことを、「原発と火発」に抱かれているが故に、ありとあらゆる福祉施設や文化施設が揃っていて、全国有数の暮らし易い土地として羨む向きもある。
 それなのにも関わらずに、本作の作者・若島安子さんは、その懐かしく豊かな「ふるさと」のことを、「原発と火発に抱かれたふるさと」と言わずに、「原発と火発を抱くふるさと」と言ったのである。
 「原発」を抱いている者は、何時いかなる時に、自分が抱いている「原発」に、しっぺ返しを食らわせられるかも知れない。
 本作の作者の「ふるさと」が、何時いかなる時に、チェルノブイリ化するかも知れないのである。
 ささやかとも思われるそうした表現の違いに、本作の作者・若島安子さんの「原発」に対する否定的な姿勢が感じられ、読者としては、一首全体に込めた、作者・若島安子さんの切ない心情を感得するべきでありましょう。
  〔返〕 原発に抱かれている故郷の物の豊かさ心の貧しさ   鳥羽省三


○ 屋上より見れば路上を行く人がある角度にて伸び縮みする  (豊橋市) 鈴木昌宏

 評者は、「路上を行く人がある角度にて伸び縮みする」という表現の正確な意味を把握している訳では無い。
 だが、その意味はなんと無く分かるような気もする。
 「屋上より見れば路上を行く人」が<蟻ん子のように見える>とか<豆粒のように見える>といった表現は有り触れているが、「屋上より見れば路上を行く人がある角度にて伸び縮みする」という、という風景の捉え方と表現とは、短歌表現としては全く目新しいものである。
 着眼点及び表現が素晴らしい。
  〔返〕 屋上に夜景望めば東名は赤い尻尾の蛍のラッシュ   鳥羽省三
 鈴木昌宏さんの傑作に較べれは、私の<返歌>は極めて俗っぽい。
 発想や着眼点を鈴木昌宏さんの作品に倣いながら、このような駄作しか詠めないところに、評者の歌才の限界が感じられる。   


○ スーパーに初めて並ぶ「青森牛」産地いっきに北へと移る  (防府市) 尾辻のぶほ

 これ亦、着眼点良し。
 肉牛も、これまでは<前沢牛>や<羽後牛・三梨牛>といった名称は耳にし、食べたこともあったが、それより北の「青森牛」と言う名の牛肉は、食べたことも聞いたことも無かった。
 沈むものが在れば浮かぶものが在る。
 大変不躾な言い方ではあるが、「スーパー」に「青森牛」が並び、肉牛の「産地」が「いっきに北」へと移ったのは、一種の<口蹄疫>効果、<宮崎>効果でもありましょう。
  〔返〕 大間まぐろ林檎と太宰の青森に牛が居たとはつゆも知らない   鳥羽省三


○ 鹿児島は今頃きっと梅雨ならむあの鬱陶しさがいまは恋しき  (アメリカ) 郷 隼人

 本作の作者・郷隼人さんの現在の居住地は、湿度が低くて空気の爽やかな、あのアメリカ西海岸の刑務所である。
 などと言えば、「アメリカ西海岸の空気は爽やかであっても、刑務所内の空気は決して爽やかではありませんよ」などと仰って、本作の作者・郷隼人さんや、心あるその知人の方々は、大変ご立腹なさることでありましょう。
 それはともかくとして、台風銀座とも言われ、「梅雨」がいち早く訪れる、あの「鹿児島」の「梅雨」の頃の「あの鬱陶しさ」が、今となっては、大変懐かしくて恋しいと、カリフォルニアの刑務所に服役中の郷隼人さんは仰っているのである。
 そうした気持ちは、今は塀の外に居る評者の私にも、決して解らないではありません。 
  〔返〕 刑務所は今頃は未だ真夜中で眠れぬままに隼人は歌作   鳥羽省三
 この<返歌>は、日本時間の七月二十八日午後一時に詠みました。


○ 真珠束ネルにくるみて彼の広きテキサス巡りし日々もまぼろし  (舞鶴市) 吉富憲治

 今でこそ舞鶴湾に釣り針の付いていない釣り糸を終日垂れている吉冨憲治さんではありますが、つい先年までは、アメリカ在住の傑出した歌人として、<朝日歌壇>を毎週のように賑わしていたものでした。
 その吉冨憲治さんの滞米中のご職業が、「真珠」販売業者であったことを評者は初めて知りました。
 察するに、吉富憲治さんは、日本産「真珠」を輸入して、「テキサス」に限らず、北米全土に、いや世界中に販売する商事会社の経営者であったのであり、今では功成り名を成し遂げて、故郷・舞鶴で悠々自適の生活をお楽しみになって居られるのでありましょう。
 しかし、その吉冨憲治さんの口から、「真珠束ネルにくるみて彼の広きテキサス巡りし日々もまぼろし」などと言う、渡世人めいたお言葉をお聞きすると、評者は、往年の名画『テキサス無宿』を思い出してしまうのである。
 おそらくは作者ご自身も亦、その事を多分にご意識なさった上で、この一首をお詠みになったのでありましょう。
  〔返〕 プラ製の二丁拳銃腰溜めに西部劇など演じたことも   鳥羽省三  
 この<返歌>は、若年の頃、素人劇団の<斬られ役、撃たれ役、振られ役>専門の俳優をやってたこともある、評者の実体験に基づいて詠んだ駄作である。


○ 公田さん居ること願い炊き出しの冷麺くばる寿地区センター  (横浜市) 大須賀理佳

 作者の大須賀理佳さんとしては、<朝日歌壇>の入選作たり得んとの目算があって、この作品を大真面目にお詠みになったのではありましょうが、その策略に嵌って、これを入選作とした、二人の選者の酔狂(か狂態かは存じませんが)には呆れる。
 <朝日歌壇>に、<ホームレス歌人・公田耕一>を名乗る人物が投稿し、毎週のように入選していたのは、今となっては半年以上も前の出来事であり、インターネット歌壇の一部や他紙の読者からは、<ホームレス歌人・公田耕一架空説>なども囁かれていたのである。
 それを今更、何をか言わんや。
 仮に、<ホームレス歌人・公田耕一>が実在していたとしても、それはあくまでも<朝日歌壇>内での実在に過ぎなかったのである。
 それなのに、事もあろうに、「公田さん居ること願い炊き出しの冷麺くばる寿地区センター」とは何たる言い条。
 仮に、「寿地区センター」の「冷麺」の「炊き出し」が、本作に詠まれた如く、「公田さん」が「居ること」を願って行われたものだとすると、「寿地区センター」という行政機関の行事が、一個人の為に行われたことになり、この「炊き出し」の恩恵に与った「公田さん」以外の人々は、「公田さん」の余禄に与ったことになりましょう。
 そんなことでは、「寿地区センター」という行政機関が、「公田さん」以外の<ホームレス>の方々を、どのように考えているか、と言うことが問われることになりはしませんか?  
 いずれにしろ、この作品が<朝日歌壇>の二人の選者によって選ばれて紙面を飾ったのは、<夢よもう一度>という、朝日新聞社の愚劣な宣伝策以外の何ものでも無い、と評者は思うのである。
  〔返〕 看板に「公田さんへ」と書いてたか? 地区センターの冷麺炊き出し   鳥羽省三 


○ 観光バスにわれらは行けり山道の歩き遍路を追ひ越しながら  (東京都) 長谷川瞳

 私が<四国霊場・八十八ヶ所>の巡礼を企てた頃には、「遍路」と言えば、<自転車遍路>も<タクシー遍路>も無く、ただひたすら自前の足で歩くしか無かったのである。
 だが、<国家財政の危機>が声高に叫ばれているわりには、人々が贅沢な暮らしをしている昨今では、かつての私のように自前の足で歩く遍路を、(尊んでのことなのか卑しんでのことなのかは判然としないが)「歩き遍路」などと、二重表現とも思われるような言い方をしていて、その他に、<バスツァー遍路>や<タクシー遍路>や<自家用車遍路>といったような、およそ「遍路」の名に相応しくない紛い物の「遍路」も在り、察するに、紛い物のそちらの方が、<四国霊場・八十八ヶ所巡り>の主流を占めているらしい。
 本作の作者・長谷川瞳さんは、どうやら昨今の主流派の<バスツァー遍路>であったらしく、その途中で、本来の意味での「遍路」たる「歩き遍路」を「追い越し」たと、(得意げにか、得意げにでは無いか、その胸の内は判然としないが)仰っているのである。
 斯く仰る、<似非遍路・長谷川瞳さん>の胸の内や如何に。
  〔返〕 歩き遍路の貧乏たかれを追い越すとスカッとするねベンツ遍路は   鳥羽省三
 本当は、「ベンツ遍路」よりも「歩き遍路」の方が数倍も経費が掛かり、数十倍もありがたいのである。
 ところで、「歴代の総理大臣中、最も<貧乏たかれ>の総理大臣」と言われている、現在の総理大臣は、あの<四国霊場・八十八ヶ所>のごく一部を巡った時、<テクシー遍路>だったのでしょうか、<タクシー遍路>だったのでしょうか?
  〔返〕 建前は<テクシー遍路>現実はバスもタクシーも使った遍路   鳥羽省三


○ 空高くドクターヘリで運ばるる吾が身に響くエンジンの音  (八戸市) 山村陽一

 本作から「ドクターヘリ」という言葉を除いた時、一体何が残るのだろうか?
 仮に、「ドクターヘリ」を除いて、<護送用ヘリ>にすると、「空高く護送用ヘリで運ばるる吾が身に響くエンジンの音」となり、作者が山岳犯罪の容疑者みたいな感じの一首となり、物語性が更に増大するかと思われる。
  〔返〕 空高く「警察ヘリ」で運ばるる我が身は願ふ墜落すること   鳥羽省三


○ 人、車、猫も通らぬ夜半の辻に信号四機が和して色変う  (和泉市) 長尾幹也

 着眼点や発想は大変宜しいが、「信号四機が和して色変う」という下の句の表現中の「変う」に疑問在り。
 「変う」とは、「変える」の意の文語「変ふ」を、現代仮名遣いで表記したものでありましょうが、それは幾らなんでも、あんまりな仮名遣いでありましょう。
 評者は必ずしも、短歌の表現中に文語を用いるのを否とする者ではありません。
 しかしながら、一首中に助動詞や動詞など、やむを得ず文語を用いなければならないような場合は、一首全体の仮名遣いを、<古典仮名遣ひ>に統一するべきであると思う。
 それが道理というものであるが、その道理が道理で無くなっているのは、昨今の短歌結社の選者や幹部クラスの歌人の不勉強と怠慢と会員獲得への飽く無き執念の賜物以外の何ものでもありません。
 評者がこんなことを言い出すと、「そんな些細なことはどうでもいいでは無いか。短歌表現とは、もっと気楽で自由なものだ」などと異論を称える者が続出し、中には、血相を変えてコメントを寄せたり、メールを遣したりする者も居りますが、そんなお馬鹿な<自由党員>の言い分を、私は一切認めませんから悪しからず。
 一首の短歌が、口語短歌であるか、文語短歌であるかを判断する材料は、ひとえに使用している語に依るべきでありましょう。
 本作の場合は、第五句目が「和して色変える」では無く、「和して色変う」となっている以上は、これは明らかに<文語短歌>と看做すべきでありましょう。
 それを「色変ふ」と表記しないで、敢えて「色変う」と表記したのは、不勉強が原因の小手先細工としか言いようがありません。
 この作品を投稿した作者も愚かであり、これを入選作とした選者も亦、愚かである。
 <朝日歌壇>の長尾幹也さんと言えば、その詠歌力は、今や日本全国有数のものである。
 今からでも遅くはありません。
 糾すべきところは、潔く糾しましょう。
 この傑作の表現について、もう一言申し述べると、三句目の「夜半の辻に」は、場所を示す格助詞
「に」を除いて、「夜半の辻」とするべきかも知れません。
 この点は、好みの問題でもありましょうが。
  〔返〕 人、くるま、蟻も通さぬ非常線 口蹄疫が易々越える   鳥羽省三


○ 本当に時間はあるの? さわれるの? めぐる円環? 永遠の直線?  (八尾市) 水野一也 

 こんな場所で、こんな大きな声では言えないような事なんですけれども、「時間」というものは、「本当」は、砲丸をもっともっと大きくしたような<球>が坂道を転がって行く状態なんですよ。
 中に人が入れるような空洞が出来ている巨大な球が、緩やかだったり急だったりする坂を転がって行く状態が「時間」なんですよ。
 その中に僕らが入って坂を下る時、ぼくらは「時間」を感じるのである。
 巨大な球の空洞の部分に入って坂を下る時、恐怖の余りに僕らは思わずその巨大な球の内側に触れる。
 僕らが「時間」を感じるということは、要するにそういう事なんですよ。
 したがって、「時間」というものに、僕らは「さわれる」。
 いや、僕らが「時間」に「さわれる」と言うよりも、僕らが巨大な鉄の球の中に居て、その内側の部分に触っていること自体が、「時間」を感じるということですから、「さわれる」とか<さわれない>とかについて、あれこれと議論するべきではありません。
 それから、時間は「めぐる円環」か、それとも「永遠の直線」か、という点ですが、それは「時間」というものを感じる、各個人の認識の問題でありまして、何とも言えません。
 あのウィーン名物の観覧車に乗って、円環状の空間をひたすら前へ前へと向かって行く間だって、「時間」というものは、確実に、直線的かつ円環的に過ぎて行くのですから。
  〔返〕 時間とは有限にしてかつ無限百年生きても一睡の夢   鳥羽省三  

今週の朝日歌壇から(7月26日掲載分・其のⅡ・訂正版)

2010年07月29日 | 今週の朝日歌壇から
○ CGのごとき豪雨の大被害夕餉の箸をとめて見入りぬ  (奈良県) 久米朋尚

 「CG」とは、和製英語<コンピューター・グラフィックス (Computer Graphics) >の略である。
 本作の作者は、豪邸の食堂に置かれたテレビの大型画面に映った「豪雨の大被害」の様子を「CGのごとき」と詠んでいるのであるが、この場面での本作の作者の気持ちはそれほど単純では無い。
 先ず、本作の作者は、その「豪雨の大被害」を視て驚いているに違いない。
 しかし、その<驚き>の質は、その「豪雨の大被害」が、やがてはそれに見入っている自分たちにまで及ぶものであるから恐ろしい、といった質の<驚き>とは異なった<驚き>である。
 つまり、本作の作者は、テレビ画面に映る「豪雨の大被害」のニュースを、言わば<対岸の火事を眺める視点以下の視点>に立って眺めているのである。
 本作の作者がこのニュースを、仮に<対岸の火事>を眺めるような視点に立って見入っているのだとしたら、そのニュースから作者は、何事かを得るに違いない。
 例えば、最低でも、「地震・水害・火事・家内」とか、「備え無ければ憂いあり」とか、「天災とは忘れざるべからざるものなり」といった、世俗的教訓程度のものは得られるに違いない。
 しかし、本作の作者の、この「豪雨の大被害」に対する対処の仕方は<対岸の火事を眺める視点以下の視点>に立っての対処の仕方であるから、間も無く、自分が視ているテレビ画面からその図柄が消えると、「豪雨の大被害」のことなどすっかり忘却してしまい、やがて、自分の視ているテレビ画面に『お馬鹿女性タレント勢揃い』といったタイトルの番組が映ると、本作の作者の目線は、出演する<お馬鹿女性タレント>たちの、顔や胸元に集中するに違いない。
 それにも関わらず、歌詠み上手の作者は、本作の下の句を「夕餉の箸をとめて見入りぬ」などとして、実社会の出来事を詠んだ作品らしく、作者自身も亦、実社会に立脚した歌人らしく装って詠んで魅せるのである。  
  〔返〕 バーチャルな世界の豪雨の大被害<対岸の火事>とふにも足らず   鳥羽省三


○ 梅雨晴れの大忙しのついでにと黒猫洗ふシャワワと洗ふ  (土岐市) 澤田安子

 束の間の「梅雨晴れの大忙し」だったならば、「ついでに」と「黒猫」を洗ったりしないで、緊急を要する別の作業をすればいいのに、とも、人の良い評者などは思ったりもする。
 しかし、「大忙し」と言いながらも、その「ついでに」と、緊急を要しないことをやったりするのが、人間心理の面白いところである。
 そこの辺りに事情を、極めて限定された評者の過去の実体験に基づいて説明すると、学生時代の怠惰な生活に慣れた作者が、あの川端康成の『雪国』の世界に痺れたのは、再履修した「仏語Ⅱ」の再試験を明日の午前中に控えた、昭和三十九年一月末の深夜のことであった。
 「黒猫洗ふシャワワと洗ふ」という表現が宜しい。
 「黒猫」という漢字と「シャワワ」というカタカナの、バランス乃至はアンバランスが大変宜しい。
 久し振りの沐浴の気持ち良さと水の冷たさに、「黒猫」が「シャワワ」と身震いしているような感じなのである。
  〔返〕 梅雨晴れの大忙しに背を向けて詰め碁している亭主憎らし   鳥羽省三


○ 子蛙を狙いて鼬のひそみおり葦の葉しげる古墳の濠に  (岸和田市) 南 与三

 大阪平野一帯は、言わば「古墳」の巣である。
 その<巣>状態を成している「古墳」に巣穴を作って棲息している「鼬」が、「古墳」周りの水辺に生い「しげる」「葦の葉」を掻き分けて、時折り出没し、「古墳の濠」に棲む「子蛙」の哀れな命を餌にしようとして狙うのである。
 とまで、述べてしまったが、本作をよくよく熟読すると、本作に詠われている内容は、あくまでも、作者・南与三さんの極めて限定された過去の見聞に基づいてなされた推測に過ぎないのであり、現実には、未だ「鼬」が出没していないし、「子蛙」の命も貪欲な「鼬」の食欲の犠牲になっては居ないのである。
  〔返〕 子蛙を狙ふ鼬を捕らへんと罠を仕掛くる岸和田をとこ   鳥羽省三
 この<返歌>も亦、南与三さん作から齎される極めて限定された情報を基に、極めて限定された評者の想像力に基づいての想像を加えての想像の産物なのである。


○ 田植機の後ろを母は早苗持ち足擦るやうに補ふてゆく  (神戸市) 小田玲子

 作中の「母」は、水田の中の狭過ぎて「田植機」が入れない箇所や「田植機」が植え損なった箇所に「早苗」を補植しているのである。
 新型「田植機」の運転台にデンと鎮座ましまして、田植機を自在に操っているのが、その「母」のご亭主殿の<父>である。
 その<父>の妻である「母」は、哀れにも、「田植機の後ろ」から「早苗」を「持ち」、泥濘に「足」を取られながらも、身を「擦るやうに」して、「早苗」を水谷に補植して行くのである。
 「農家に嫁にやるな、農家から嫁を貰え」という諺がある。
 農業の機械化が進んだ挙句に農業が基幹産業の座を退いた今、「田植機」が植えた水田の<補植>は、農家の主婦か、主婦に代わる女性の仕事であり、絶滅寸前の日本の農家の家族制度や農村の後進性のシンボルのような仕事である。
 「足擦るやうに」が、<補植>という仕事の困難さと農家の主婦の座に在る者の辛さを物語っているのである。
 「補ふてゆく」と言うだけの表現は、一般読者にとっては、意味が極めて不分明であると思われるから、「補植して行く」にした方が宜しいかも。
  〔返〕 補植する母の姿は騎馬武者の後に随ふ家来の如し   鳥羽省三              

今週の朝日歌壇から(7月26日掲載分・其のⅠ)

2010年07月27日 | 今週の朝日歌壇から
○ 少年は海獺のごとく背で泳ぎ日に仰け反りて喉仏見す  (高石市) 木本康雄

 馬場あき子選の一席作品である。
 背泳ぎをしている様を「海獺」に例えた作品は、以前にも何度か読んだことがあるが、「『少年』は『仰け反りて喉仏見す』」と、「少年」が背泳ぎをしながら未だそれほど成熟しているとは思われない<男性・性>を誇示している様を描写した作品は初見である。
 先日、大阪の単身赴任先から一時的に帰宅していた長男から、「小学校三年と幼稚園の年長の二人の(孫)娘を近所のプール施設に連れて行くから、成長振りを見に来たらどうだ」と電話が入った。
 そこで、私と妻は、「あいつの娘自慢にも付き合い切れないな。でも、今日はあいつの誕生日だから、孫の顔というよりも、あいつの顔を見て置くのもなんらかの罪滅ぼしになるのかな」などと零しながら出掛けた。
 私と妻とは水着も着ないで、彼ら三人が水と戯れている様子をプールサイドで見ているだけだったが、終わり頃になると、上の孫娘が背泳ぎをしながらプールを数回往復して見せた。
 それを目にしていると、「この孫は父親が単身赴任赴任している間にずいぶん成長したな」などと思われて、「わざわざバス賃を掛けてやって来たことも無駄ではなかった」という気がした。
 この孫娘がクロールや平泳ぎをしている時には、そんな気はしなかったのであるが、背泳ぎをし始めたら、俄然、そんな気になったのである。
 背泳ぎをすることは、少年にとっては、<男性・性>を誇示することであり、少女にとってと、<女性・性>を誇示することであるのかも知れない。
  〔返〕 少年は胸に貝殻抱かずに喉仏見せ背泳ぎをする         鳥羽省三
      孫・雪菜祖父母われらに笑み見せてプールを泳ぐ背中で泳ぐ     々     


○ 山荘を脱走せし犬「モル、モル」と呼べば狐がひょっこり顔出す  (鎌倉市) 正田敬子

 「山荘」という言葉を用いている点などは、いかにも鎌倉在住者の作品らしい。
 「脱走」した「犬」に呼び掛けようとして「『モル、モル』と呼べば狐がひょっこり顔出す」とは、なかなかの意外性である。
  〔返〕 犬の名は<モルモル>でなく<モル>である「モルモル」と呼べば狐顔出す   鳥羽省三
 評者は川崎市に居住しているから、鎌倉市在住の作者に対して少しぐらいは嫉妬心を感じている。 したがって、この<返歌>は、評者から作者に対してのささやかな意趣返しである。(笑)


○ 早苗饗の庭に捌きし手許より鰻攫ひぬ鳶あざやかに  (四万十市) 島村宣暢

 「鰻」を捌いた場が「早苗饗の庭」とあるから、この「早苗饗」とは、農家個人が田植えの後で行った饗宴を指して言ったのでは無く、四万十市の何処かの地域で伝統的に行っている、本格的な神事としての「早苗饗」でありましょう。
 <神事>たる「早苗饗」に於いて、神聖な「庭」という場で捌いて、神にお供えする供物としての「鰻」を攫って行ったのは、一羽の「鳶」である。
 しかし、神への供物を横取りした、その「鳶」のお手並みが余りにも見事であったから、本作の作者と、ただ「あざやか」と感嘆しているのである。
  〔返〕 神様の饗を攫った鳶なれど手並みあざやか憎む気もせず   鳥羽省三  


○ げた箱に入りきらない長靴が横向きで待つ下校の時刻  (広島県) 底押悦子

 連日の豪雨続きに対処するため、普段は物置の隅に置かれている「長靴」が、急遽登板の段に至ったのでありましょう。
 学校の「げた箱」は、非常事態用の履物を入れることを想定して作られてはいないから、「長靴」を履いて登校した学童たちは、それぞれ自分の「長靴」を「横向き」にして「げた箱」に入れて置くしか無いのである。
 昨夜来の雨がすっかり上がった「下校の時刻」、その「長靴」たちが、それぞれ「横向き」のままで、ご主人様たる学童たちを出迎えるのである。
  〔返〕 横向きで長靴は児を待っている梅雨の上がった下校時刻に   鳥羽省三


○ 鏨と槌と楔持ち四百粁金山掘りし鉱夫ら短命  (名古屋市) 諏訪兼位

 「鏨と槌と楔」を「持ち」、「四百粁」の長距離をものともせずに「金山掘り」に歩いた「鉱夫ら」の「短命」振りは、江戸時代の<鉱山町・院内銀山>の記録などで夙に知られていることである。
 鉱塵に肺をやられてしまうのである。
  〔返〕 鉱塵で肺をやられた鉱夫らの墓累々と院内銀山   鳥羽省三


○ 校庭で君のハンカチ拾いしは翡翠の鳴く分校の夏  (横浜市) 芝 公男

 素朴な詠風ながら、切なくも爽やかな思い出を詠んでいるのである。
  〔返〕 校庭で拾ひし君のハンカチに微かに残るレモンの匂ひ   鳥羽省三


○ 四足をふんばり親は雨に耐え子は流される川の猪  (神戸市) 有馬純子

 実景なのか?
 テレビ画面で視た風景なのか?
  〔返〕 四足でふんばるばかりで子をば看ず激流中の猪の親   鳥羽省三 

庄司天明さんの歌(『かりん』4月号掲載)

2010年07月26日 | 結社誌から
 去る7月19日の<朝日歌壇>馬場あき子選に「戦死にて骨なき墓を祀りたるわが村四戸に一戸の割合」という作品が掲載されていた。
 作者は山形県東根市在住の庄司天明さんであり、私も亦、それに感銘を受け、数行の観賞文をものしたのである。
 朝日歌壇での彼の入選作については、それまでにも触れたことがあり、それは「バレンタインのチョコを頬張り雛僧は托鉢へ発つ涅槃会の朝」という傑作であった。
 その作品を読んだ時、私は、作者名が<庄司天明>であることや、その作品内容から推して、作者の職業はお寺の住職ではないかと思ったのであるが、この度、インターネットで検索したところ、昭和三十四年の山形県立天童高校の野球部員名簿に「庄司天明(東根市)」と在り、山形県東根市にお住いの<庄司天明>という歌人が僧侶であるかどうかは別として、往年の彼が甲子園を目指して白球を追った、高校球児であったことは知ることが出来た。
 私が何故、庄司天明さんのストーカー紛いのことをしたかと言うと、昨日たまたま目にした、結社誌『かりん』の四月号の「作品Ⅰ・A」欄に彼の六首詠が掲載されていたからである。
 そこで今日は、それらを本ブログに転載させていただいて、観賞に及ぼうと思うのである。
 暇だから、見ず知らずの歌人の作品について云々しようとするのでは無い。
 一日の時間を四十八時間にしたい程に多忙ではあるが、『かりん』四月号に掲載された庄司天明さんの作品が、私の観賞意欲をそそるような内容の作品だから観賞したいと思ったのである。
 『かりん』に掲載されている彼の作品については、これからも注目して行くつもりである。


○  重箱の隅に残りし草石蚕(ちょろぎ)だけふるさと産のおせち食材

 「重箱の隅」を突付くのは評者・鳥羽省三であり、おせち料理にも食べ飽きた頃、「重箱の隅」に残った「草石蚕だけ」が「ふるさと産」の「おせち食材」であって、それ以外の食材、即ち<蒲鉾・きんとん・田作り・昆布巻き・伊達巻・数の子>などの「食材」は、全て他県産か外国産であることを知って、驚き悲しみ嘆いているのは、郷土愛の権化のような、本作の作者・庄司天明さんである。
 とは言え、庄司天明さんの愛する山形県は、隣接する東北各県と比較すればなかなかの研究上手、商売上手で、近頃は果物を中心とした農産物の一大生産地として、また、山形県産米「はえぬきどまんなか」の生産地として、更には、本酒の酒蔵などを観光客に公開するなどして、一躍観光地としても注目されている。
 その中でも、特に有名なのは、庄司天明さんの故郷の東根市であり、この地を主産地とする<さくらんぼ>や<ラ・フランス>は、東京市場の人気を独占しているのである。
 それにしても、JR東日本の奥羽本線の駅名が、いつの間にか「さくらんぼひがしね」になっていたのには、呆れてものが言えない。
  〔返〕 駅の名は<さくらんぼひがしね>乗客は両手に花の佐藤錦持ち   鳥羽省三


○ 夕陽背に犬引く影が畦わたるジャコメッティの「歩く男」が

 「夕陽背に犬引く影が畦わたる」とは、夕方、犬の散歩かたがた稲田の見回りをしている年老いた農夫の姿を写したものであろう。
 その農夫の姿が余りにも痩せこけていて、骨と皮ばかりで出来ているように思われたから、それを、手足や胴体が針金のように異常に細い、<アルベルト・ジャコメッティ>の彫刻作品に見立て、下の句で「ジャコメッティの『歩く男』が」と詠んだのでありましょう。
 <アルベルト・ジャコメッティ>はスイス出身の20世紀の彫刻家であり、具象彫刻から出発した彼が、数年の習作期間を経て第二次世界大戦後に創り始めた、<手足や胴体が針金のように極端に細く、異常に長く引き伸ばされた人物彫刻>は、「現代に於ける人間の実存を表現した抽象芸術」として、フランスの実存主義の哲学者<J・P・サルトル>によって高く評価されるなどして、世界的な人気を得た。
 それにしても、<人間の実存を抽象的に表現した>彫刻家・ジャコメッティに関心を抱く歌人が、<さくらんぼひがしね>という、現実的、即物的な駅名を持つ駅の在る田舎町に居住して、人付き合いして行くことは、なかなかの力業でありましょう。
 わずか十年足らずではあるが、庄司天明さんと同様に、お米や果物の生産地に暮らし、夕方になると、犬にこそ牽かれないが、妻に牽かれて稲田の畦道を散歩することを、雪が消えてから雪が降るまでの間の日課としていた評者にとっては、「夕陽背に犬引く影が畦わたる」という上の句の措辞に詠まれた風景は、涙無しには読めないような、懐かしく切ない風景である。
 「夕陽」を「背」に受けて、稲田の「畦」を渡るのは犬を連れた人では無く、犬に牽かれた人の「影」なのである。
 その「影」とは、他ならぬ庄司天明さんご自身の「影」なのかも知れない。
 北東北地方に於いては、犬の散歩のお供をしている人間の殆んどは、「ジャコメッティの『歩く男
』」のように、老いさらばえ、骨と皮ばかりになってしまった<後期高齢者>であり、彼らは、犬を牽いてと言うよりも、犬に牽かれて、田圃の畦道に「影」を落としてとぼとぼと歩いているのである。
 ところで、かく言う私は、病み上がりの身の上とは言え、決して「ジャコメッティの『歩く男』」のような痩身では無い。
 昨日の昼過ぎ、この頃の日課の一つとして、毎日出掛けている温泉施設の浴室で体重測定をしたら、何と64㎏も有ったのである。
 これでは幾らなんでもあんまりである。
 「ジャコメッティの『歩く男』」程には痩せたくないが、最低でも、もう6kgないしは7kg程度は体重を落としたい。
  〔返〕 愛妻に牽かれ水田に影落としそれが日課の散歩にぞ行く   鳥羽省三


○ この世には居るはずのなき友ひとりふたりが加わる還暦の会

 昭和三十四年に高三か高二であったとすれば、作者の今の年齢は、六十八歳か六十九歳でありましょう。
 したがって、本作は、数年前に行われた作者らの「還暦の会」を回想して詠んだ作品かと思われる。
 「この世には居るはずのなき友ひとりふたりが加わる」とは、その時の「還暦の会」が、その日が来るのを唯一の楽しみとして待っていながら、その日を迎えないままに亡くなってしまった同級生、「ひとりふたり」の話題で持ちきりとなったからであり、彼らの不幸な人生に同情する余り、その話に熱中し、いつの間にか、彼らが生きて居て、その「会」に出席しているようなかのような気分に、作者ご自身が陥ったからでありましょう。
 「良馬と晋作が死んだなんて信じられないなあ。中学時代、人一番元気だった彼らが黄泉路を行く人となって、彼らに苛められて小さくなっていたこの私が、ジャコメッティの『歩く男』のように痩せこけながらも生きているなんて、誰が思っただろうか。今日、この祝宴に来ている者の誰一人として、そんなことは思わなかったに違わない。ああ、彼らが生きていれば、この祝宴もどんなに盛り上がったことか。どんなに楽しかったことか」などと、お人良しの本作の作者・庄司天明さんが言えば、「野球少年、なにを言うか。今さら死んだ者の話をしたって、しょーがねーだろう。それに何だ、おめーの話に出て来る『ジャコメッティ』ちゅうヤツは。<ざっこ蒸し>なら、おらも知ってるけど、『ジャコメッティ』など誰も知らねーど。おめーは、何処の大学に入ったか知らねーが、時どき訳の分からないことを言うから、未だに人に嫌われていて、市会議員にもなれないで居るのだ。この俺だって、<どんべ大学>ぐらいは三回も入ってるど。そんな訳の分からない話ばかりしてねーで、先ず、飲め、飲め、この旨い酒を。俺の盃を受けられねーが、この馬鹿の差し出す酒など飲まれねーが」などと、その昔、クラスでげっぴりだったが、今では<ラ・フランス>作りの名人と言われている田仲一郎さんが、声を荒らげて言う。
 その隣席では、田仲一郎さんの家に手間取りに行って稼いでいる鷹嘴登さんが、田仲一郎さんの言葉に、しきりに相槌を打っている。
 「還暦の会」の下準備を殆んど一人でし、当日の宴会の司会者でもあった高階肇さんは、「いつ<中締め>をしようか。校長を定年退職した蠣崎栄作さんにいつ挨拶させようか」と、気が気で無いような状態に陥っている。
 宴会はいよいよ盛り上がり、いつ果てるとも知れない。
 そのうちに、ゲロを吐く者や宴席に居ながらおしっこを洩らしてしまう者などもいて、元の美少女たちが甲斐甲斐しくお世話をするのであるが、元の美少女たちの中には、甲斐甲斐しくも甲斐甲斐しく無くもお世話をしない<つわ者>が二、三人いて、彼女らはめぼしき男にダンスをせがんだり、宴果ててからの行動をしめし合わせたりもしているのである。
 田舎住まいの人々の<還暦祝い>に賭ける情熱はすさまじいものがある。
 彼らはその数年前から下準備に掛かり、当日の朝には、参加者全員が夏の熱い盛りに一張羅を羽織ってお宮参りをし、それと並行して、生存者と同数の昼花火を揚げ、それが終わると、死者への手向けと称して、一尺球や二尺球と言った、馬鹿でかい音響を伴った大花火を揚げるのである。
  〔返〕 亡くなった関晋作のカラオケでいよよ酣<還暦の会>   鳥羽省三


○ 葬列は本道歩み訣別す帰路は裏路わらぢ脱ぎ捨て

 本作は、例えば実の父母など、作者に極めて近い関係の者の葬式の次第をお詠みになったのでありましょうか?
 亡骸を棺に納め、火葬場に運んで行って荼毘に付し、骨上げをし、<三十五日>と称する<飲食の供>に至るまでの次第には、全国各地、様々の習俗が在るという事であるが、本作の作者が居住する山形県東根地方に於いては、亡骸を火葬場に送って行く際に、喪主などの主だった者が草鞋履きで行き、行きと帰りでは道を変え、草鞋履きの者は帰りの道の途中の何処かでその草鞋を捨てて、下駄や靴などに履き替えてから帰宅する、という習俗が、今でも行われているものと思われる。
 そうした習俗は、死者がこの世との繋がりの一切を断ち切り、迷わずに成仏するように、との願いを込めてのことだと言われている。
 「葬列は本道歩み訣別す」とは、「亡骸」を火葬場まで運んで行き、荼毘に付すまでの次第を説明したものである。
 「帰路は裏路わらぢ脱ぎ捨て」とは、火葬が終り、骨上げをして、死者に追いつかれないようにと、行きとは別の道、即ち「裏道」を選んで帰り、その「裏道」の途中で、さり気無くそれまで履いていた「わらじ」を脱ぎ捨て、靴か下駄か他の履物に履き替えたことを指して言うのでありましょう。
 庄司天明さんの居住地の辺りでは、火葬場へ向かう道を「本道」と称し、火葬場からの帰りの道を「裏路」と称しているのかも知れません。
  〔返〕 しずしずと歩むは行きで荼毘終えて帰る裏路すたこらさっさ   鳥羽省三


○ しがみつき急かされ進むおもむろに棺は出口で黄泉こばむ

 鑑賞者泣かせの一首である。
 先ず、詠い出しに「しがみつき」とあるが、これは、「誰が何にしがみつく」と言うのであろうか?
 これに続く言葉と合わせて考えると、「しがみつき急かされ進む」のは、作者たち、亡骸の近親者たちが、亡骸を納めた「棺」に「しがみつき」、予定時間に「急かされ」ながらも、火葬場への道を「おもむろ」に進んで行く、という意味ではないかと思われる。
 ここの辺りの表現には、「亡骸とは言え、自分たちがしがみつくようにしている「棺」の中に納められている者は、自分と血の繋がりを持つ者であるから、なるべくならば簡単には別れたくない。しかし、この葬式に関わって下さる、血縁者以外の方々のご迷惑を考えたら、葬式は予定時間通りに、いや、予定時間よりも速やかに進行させなければならない」といったようなジレンマに立たされた作者の、微妙な心理が反映されているものと思われる。
 此処までのところは何と無く解るが、その後の表現については判断に苦しむのである。
 「棺は出口で黄泉こばむ」とあるが、「棺」に納められている亡骸は、どうして「入り口」では無く「出口で黄泉」に行くことを「こばむ」のであろうか?
 事ここに至っては、今更じたばたしたって仕方が無いではないか。
 それも、「入り口」でなら未だしも、火葬場の「出口」でじたばたしてまで「黄泉」に赴くのを「こばむ」のは、所詮、無駄な抵抗と言うべきではありませんか。
 思うに、「棺」は竈の入り口で「黄泉」に行くのを「こばむ」としないで、「棺は出口で黄泉」に行くのを「こばむ」としたのは、焼き上がって消火された後、お骨が竈から出て来るまでの間の時間の長さを言ったものであり、死者がお骨になってからまでも無駄な抵抗を試みているものと思ってのことかとも思われる。
 早々に別れたくないのは、使者のみならず、生きて息をしている近親者の於いても同じことだろうと思われる。
  〔返〕 しがみ付き別れ難きは生者にて骨の熱さに命感じる   鳥羽省三


○ 人だれもわれといふ名の迷子連れひとり歩めり哀しさに堪へ

 本作の作者は、一首目から五首目までの作品の背景となった出来事を経験して、「『人』は『だれもわれといふ名の迷子』を『連れ』て、たった『ひとり』で『哀しさに堪へ』ながら、この世の道を歩いているのだ」と、感じるところがあったのでありましょう。
 「人だれもわれといふ名の迷子連れひとり歩めり哀しさに堪へ」。
 全くその通りである。
 「重箱の隅」に残った「草石蚕だけ」が「ふるさと産のおせち」の「食材」だなどと、下らないことを言って嘆いている者は、「われといふ名の迷子」を「連れ」て、「ひとり」「哀しさに堪へ」ながら、あの世に続くこの世の道を彷徨い歩いている者である。
 ジャコメッテイの『歩く男』のように痩せこけながら、「夕陽」を「背に」して「犬」に牽かれる自分の「影」を畦道に落として歩いている者は、「われといふ名の迷子」を「連れ」て、「ひとり」「哀しさに堪へ」ながら、あの世に続くこの世の道を彷徨い歩いている者である。
 「還暦」の祝宴の賑わいに酔えずに居る者も、酔っている者も、「われといふ名の迷子」を「連れ」て、「ひとり」「哀しさに堪へ」ながら、あの世に続くこの世の道を彷徨い歩いている者である。
 火葬場からの帰り道の途中で「わらぢ」を下駄に履き替えて、「ああ、これで喪主としての責任を無事に果たした」と、ほっと胸を撫で下ろしている者は、「われといふ名の迷子」を「連れ」て、「ひとり」「哀しさに堪へ」ながら、あの世に続くこの世の道を彷徨い歩いている者である。
 火葬場の竈から、身内のお骨がなかなか出て来ないことを気にしている者は、「われといふ名の迷子」を「連れ」て、「ひとり」「哀しさに堪へ」ながら、あの世に続くこの世の道を彷徨い歩いている者である。
  本作の作者ばかりか、評者である私もまた、「われといふ名の迷子」を「連れ」て、「ひとり」「哀しさに堪へ」ながら、あの世に続くこの世の道を彷徨い歩いている者である。 
 その孤独の道、彷徨いの道は、遠く遠く何処までも続くのである。
  〔返〕 人はみな犬に牽かれて杖突いて田圃の畦を歩むとは知る   鳥羽省三      

『NHK短歌』観賞(米川千嘉子選・7月25日放送)

2010年07月25日 | 今週のNHK短歌から
○ ふうせんになりたいと言ふ子供ゐて療舎の窓を五月へひらく  (小松島市) 関政明

 関政明さんと言えば、<NHK短歌>の常連中の常連であり、今や全国区の投稿歌人である。
 長期療養中というご不自由な身の上にありながら、ご自身の周辺から歌材を探し出し、各種の発表メディアに優れた作品を発表している。
 「ふうせんになりたいと言ふ子供」は、関政明さんと同じように長期療養中の子供さんでありましょう。
 その子の切ない願いが聞き届けられ、看護士さんなどが「療舎の窓」を、折りからの季節、「五月へ開く」のである。
 「五月へひらく」が宜しい。
 「五月」の空には元気よく鯉幟が上がり、「五月」の庭からは、五月の花の香りを湛えた涼しい風が「療舎」内に吹き込んで来たに違いない。
  〔返〕 独房に風に焦がれる男居て天井近き窓ばかり視る   鳥羽省三


○ 縦長に口をひらきて歌垣のプリマドンナの埴輪は歌う  (福岡市) 大西隼人
 「埴輪」を「歌垣」の歌い手に見立て、しかも、その歌い手のことを「プリマドンナ」と呼んだことが素晴らしい。
 唐津市浜玉町の仁田古墳群で発見された「埴輪」は、「縦長に口をひらきて」とまでは言いかねるが、その表情や手つきや口つきは、歌劇の「プリマドンナ」さながらである。
 本作に登場する、「プリマドンナ」にも似た「歌垣」の女歌い手、即ち「埴輪」は、誰に向かって、どんな恋心を歌い上げようとしているのだろうか?
  〔返〕 口まろく大きく空けてマリア・カラス「ある晴れた日に」を朗々と歌ふ   鳥羽省三


○ コンビニで小さき声で「ひらけごま」スーと開きてのどあめを買う  (中野市) 増田きみ江

 児戯めいた事ながら、私もまた美術館の自動扉の前などで、「ひらけごま」をよくやる。
 美術館の自動扉は、格別な呪文を唱えなくてもごく自然に開くのであるが、私が「ひらけごま」をやると、いつもより元気に、いつもより速やかに開くような気がするからである。
 本作の場合は、「のどあめを買う」ために訪れた、コンビニのガラス扉前で行う「ひらけごま」である。
 「スーと開きてのどあめを買う」が宜しい。
 「ひらけごま」と呪文を唱えると、「コンビニ」の扉が「スー」と開くのも気持ちいいが、「スー」と扉が開いたので「コンビニ」の中に「スー」と入り、躊躇いも無く「スー」と買った「のどあめ」を口にしたら、喉の詰まりが「スー」と相手、スースー息が出来るに違いない。
 そうなったら、どんなに気持ちがいいだろうか。
  〔返〕 劇場のトイレ扉に「ひらけごま」前の利用者の何が匂ってた   鳥羽省三
 

○ 父母の逝き恩師の逝きしふる里の海開き見るテレビの中に  (倉敷市) 妹尾政恵

 「父母の逝き」、「恩師の逝きしふる里」とは、半ば以上「ふる里」でなくなった「ふる里」である。
 その「ふる里の海開き」の光景を「テレビの中に」視た時、本作の作者・妹尾政恵さんは、どんなに切なく、どんなに懐かしくお思いになったことでありましょうか。
 私見ながら、私が私の故郷の光景をテレビ画面の中で視た時は、「あんな故郷はさっさと財政破綻してしまえ」とさえ思うのである。
  〔返〕 父母持たぬ私に辛き故郷のシャッター通りに群れる野良猫   鳥羽省三


○ 紅をさし稚児行列の女の孫はほんのり口をひらきてゆきぬ  (日進市) 植手芳江

 「孫自慢と南瓜自慢は喧嘩相手の家の婆さんもする」とは、私の口から即興的に出た諺である。
 「紅をさし」「ほんのり口をひらきて」「稚児行列」の中の一員となっている「女の(お)孫」さんの様子は、喧嘩相手の家のお婆さんの目には、虚ろで薄馬鹿めいて映るに違いないであろう。
 だが、その子の御祖母様の目には、この地上でこれ以上美しく、これ以上可愛らしいものは無い、ように映るに違いない。
 かと言って、それは人間の本能に基づいたものであり、御祖母様にもお孫さんにも、なんらの罪も無いわけである。
  〔返〕 紅さして稚児行列の中を行く孫は小憎き嫁の娘だ   鳥羽省三


○ 拘縮に結んでしまう夫の指今日のリハビリそのてをひらく  (牧之原市) 鈴木道子

 「拘縮」とは「① 筋肉が持続的に収縮すること。 ② 関節の近くの傷のために関節がうごかなくなること。」(『新明解国語辞典・第五版』参照)である。
 その「拘縮」のために、持続的に「結んでしまう夫の指」が「今日のリハビリ」に依って、「そのてをひらく」までに快復した、と言うのである。
 おめでとうございます。
 もうしばらくの辛抱です。
 ご油断なさらずに、リハビリにお励み下さい。
  〔返〕 チャリンコで転倒したため動かない肩も治ったリハビリ励み   鳥羽省三
 昨年の晩春から今年の晩春にかけて、一年がかり毎週二日のリハビリ通いでした。  


○ 箱ひらくときめきこそがプレゼント中身はつまらぬものであります  (横須賀市) 丹羽利一

 その通りです。
 近頃は特に、ラッピング用品専門店なども在って、贈答品の包装が益々過剰になるような傾向が見られます。
  〔返〕 ボルドーの一番安い赤なれどラッピング一つで付加価値も付く   鳥羽省三


○ 息つめてテレビに見入る三澤拓のパラリンピックの立位の転倒  (日野市) 御子柴万里子

 片足のスキーヤーとして有名な「三澤拓」選手は、バンクーバー・パラリンピック大会に金メダル獲得を目指して参加したが、残念ながら、「立位」レースの途中で転倒してしまい、悲願が叶わなかった。
 その「三澤拓」選手の滑るのを、本作の作者・御子柴万里子さんは、「転ばないで、転ばないで」と神様に祈るような気持ちで応援していたのでありましょう。
  〔返〕 神ならぬ人にありせば転倒も三澤拓は転んでも起き   鳥羽省三


○ 藤の花に似るジャカランダ見てみむとパソコン開く若葉の窓辺  (町田市) 坂井暁子

 本作の作者・坂井暁子さんは、「藤の花に似るジャカランダ」の花を、マイ・パソコンのテンプレートとして咲かせているのでありましょうか?
  〔返〕 表紙絵のジャカランダ咲く藤に似たその花見んと千客万来   鳥羽省三


○ シャガひらく白にむらさき黄の点あやめの子ども姿勢のよい子  (佐倉市) 水野清子

 「あやめ」とは、あの<菖蒲>のことでしょうか?
 それとも、「あやめ=彩り・模様」で、数多色ある「シャガ」の花の中で、「黄の点」の彩りをした「シャガ」だけが「子ども」みたいに小さく、他の彩りをした花の中に直として立っていて、「姿勢のよい子」みたいだと言うのでしょうか?
  〔返〕 シャガと言えば白い花だと思ってた紫色のシャガも在ったか   鳥羽省三


○ 名前なき草はないよと野の花の図鑑ひらけば段戸襤褸菊  (ふじみ野市) 芝谷庸子

 「雑草という名の植物は無い」とは、何処の何方のお言葉であったかしら?
 「名前なき草はないよ」と、何処かの何方かから教わったのであるが、「本当かしら」と思って、「野の花の図鑑」を開いたところ、「段戸襤褸菊」という名の花が目についた。
 本作の作者・芝谷庸子さんは、「名前が有っても、その名前の一部が『襤褸』では、無いよりも良くない」と思ったのでありましょう。 
  〔返〕 くずと言ふ名前背負へる花も在り秋の野山を彩りて咲く   鳥羽省三


○ こんなにも軽くひらいてよいものか鉄の箱なりエレベーターは  (土浦市) 興津甲種

 「エレベーター」は、確かに「鉄の箱」であることは間違いない。
 その堅く頑丈な「鉄の箱」なる「エレベーター」が、ボタン一つ押すと、あまりにも簡単に、「軽く」開くので、「こんなにも軽くひらいてよいものか」と、本作の作者は、半ば不思議がり、半ば叱責しているのである。
  〔返〕 こんなにも気軽に読んでいいものかこれで終りと観賞も急く   鳥羽省三

今週の朝日歌壇から(7月19日掲載分・其のⅡ・決定版)

2010年07月24日 | 今週の朝日歌壇から
○ えんぴつの誤字の訂正わが字ゆえ売りし本なり買う古本は  (八王子市) 相原法則
 
 佐佐木幸綱選一席の作品である。
 「古書店でむかし自分が処分した本を買うというのだ。本好きの人ならではの出会いと感慨」とは、選者の評言である。
 選者の佐佐木幸綱氏は、評者などとは頭の出来が違っていらっしゃる方だと聴いているから、この作品に接した瞬間、その大意を即座に把握され、更には、本作が今回の投稿作の中で最も優れた作品であるとご判断なさったのでありましょうか?
 それとも、ある程度時間をお掛けになってご観賞になり、その結果として、本作を投稿作中第一の傑作として推奨するに至ったのでありましょうか?
 そうした点については、未だに娑婆っ気から脱却出来ないで居る評者としては、頗る気になるところではある。
 ところで、頭脳明晰ならざる評者の意見を述べさせていただくと、この作品は<言語能力発達途上人>の発したカタコトみたいに感じられる。
 勿論、<朝日歌壇>に投稿してくるような方が、<言語能力発達途上人>であろうはずがない。
 したがって、本作がこのような舌足らずの表現になってしまったのは、数多の材料を<五七五七七>という短歌形式に無理矢理詰め込もうとしてのことでありましょう。
 しかし、いくらなんでも、これでは<朝日歌壇>に投稿して入選を果たすどころか、まともな短歌とは言えないでしょう。
 わずか三十一音の中に、これだけの内容を盛り込もうとすれば、どうしても文意不分明になってしまうのである。
 「捨てて捨てて捨てまくり、ぎりぎり、これ以上捨てられない言葉だけを纏めて一首とする」とは、他ならぬ短歌創作の要諦ではありませんか?
 詠わんとしている内容が悪くないだけに極めて残念なことである。
  〔返〕 五年前我が手放せし書と知りて『赤光』初版を古書店で買ふ   鳥羽省三
      誤字三字脱字二箇所を補訂せし文字に明らか我の書き癖       々      

 
○ 手捕ったる青大将をゆっくりと腕よりはがし森へとかへす  (笠間市) 北沢 錨

 「ゆっくりと腕よりはがし」という措辞には、「青大将」を「手捕った」者の得意そうな様子ばかりか、手捕られた「青大将」の様子なども髣髴とされて、脱帽の思いがある。
 「森へとかへす」のは、「青大将」という蛇が、人間に格別な害毒をもたらす蛇でないことを知っているからであり、無益な殺生を好まないからでもあろうが、蛇という動物を神聖視する気持ちの表れかとも思われる。
 最終的には「森へとかへす」のにも関わらず、一旦は手捕り、「腕」に絡み付かせたりするところが、人間という動物の救い難いところであり、その執念深さは蛇に勝るとも劣らないとも思われる。
  〔返〕 絡み付き必死にもがく青大将腕よりはがし森へと還す   鳥羽省三


○ 口重な主に似たる鬼魚よし煮姿くずし骨までしゃぶる  (浜松市) 松井 恵

 元・横綱審議委員のあの有能な女性にも似た、あの独特の威厳ある面貌をした「鬼魚(おこぜ)」は、嫉妬深い山神様の怒りを鎮め、その加護に与ろうとして、その昔、阿仁のマタギたちが熊狩りに向かう折りに、山神様をお祀りしている祠に恭しくお供えした魚である。
 その「鬼魚」を、ご自身の「口重な」ご亭主殿に「似たる」魚と言い、また「よし」とも言い、そして、それを砂糖醤油で煮しめ、「煮姿」を「くずし」て「骨までしゃぶる」と、得意げに仰るのは本作の作者のサディスティックなご性格の賜物かとも思われる。
 その昔、私の大嫌いな、ある男性歌手がヒットさせた歌のタイトルが、確か『骨まで愛して』であった。
 「口重な主に似たる鬼魚」を「煮姿くずし骨までしゃぶる」のは、本作の作者・松井恵さんにとっては、可哀想なご亭主殿を<骨まで愛して>いるからなのでありましょうか?
 松井恵さんは、あの浜松市にお住いとか。
 浜松市と言えば、浜名湖名産の鰻。
 本作の作者・松井恵さんは、あの奇怪な顔をした「鬼魚」などをお召し上がりにならないで、どうせのことなら、浜松名産のあの<鰻重>をたっぷりとお召し上がりになったら宜しいのに。
 <ゲテモノ食い>という言葉は、松井恵さんの為に用意された言葉なのでありましょうか?  
  〔返〕 鰻重も鬼魚も我には高価過ぎ養殖鯛の骨まで愛す   鳥羽省三 


○ 吸ひつける蓋をとるよりだし汁の底まで見ゆる加賀の塗り椀  (東金市) 山本寒苦

 「蓋をとるより」の「より」は、直前に置かれた動詞、本作の場合は「とる」によって示される動作が<蓋を取るや否や>と、即時的に行われたことを表わす格助詞である。
 あの金彩銀彩を散りばめて豪華な「加賀の塗り椀」。
 「塗り椀」の中身は熱々の「だし汁」である。
 「だし汁」は熱々だから、「塗り椀」の「蓋」は「椀」本体にぴたりと吸い付いている。
 その<ぴたりと吸い付いた>「蓋」を取るや否や、「加賀の塗り椀」に盛られた「だし汁」は、その「底」まで見える程に透き通っていた、と言うのである。
 本作の作者は、「加賀の塗り椀」の豪華さを誉め、その豪華な「塗り椀」に盛られた「出し汁」の美味しさを誉めようとしているのである。
 この一首に接して、評者は「器自慢は相撲部屋の馬鹿女将でもする」という諺を思い付いた。
 誤解されると困るから、予め申し述べておくが、その場合の「器」とは、文字通りの「器」、即ち「加賀の塗り椀」の如きものを指すと同時に、ご亭主たる元力士の心と身体を繋ぎ止める女将ご自身のご自慢の、女性としてのあの「器」をも指すのである。
  〔返〕 貫けばぴたりと吸ひ付く器にてご亭主殿は身動きならぬ   鳥羽省三


○ 仕事終えし山伏峠の岩のうえ角厳しく鹿の見送る  (秩父市) 高橋秀文

 「山伏峠」と称する峠は、有名無名を合わせて全国に十数箇所在ると聞いているが、本作に登場する「山伏峠」は、埼玉県飯能市(旧入間郡名栗村)と秩父市(旧秩父郡横瀬町)とを結ぶ峠を指すものと思われる。
 その秩父山塊の「山伏峠」の「岩のうえ」に、トレードマークの「角」も「厳しく」、「鹿」が立っている。
 その厳しい「鹿」に見送られ、本作の作者・高橋秀文さんたちは、一日の激しく苦しい山仕事から解放されて、下山しようとしているのである。
 この一首からは、荘厳な風景に見惚れながら、一日の厳しい山仕事から解放されて一息吐いている作者たちの様子が読み取れ、作者たちを見送るようにして「岩のうえ」に立っている「鹿」に対して、敬虔な気持ちで対峙している、作者の気持ちなども読み取れるのである。
  〔返〕 そのかみの山伏たちの修練道越えんとすれば鹿が見送る   鳥羽省三


○ 鮎釣りの竿先水面を飛ぶ鳥は鶺鴒・燕・大葭切ら  (金沢市) 栂坂幸雄

 居ながらにして、渓流釣りの醍醐味が満喫出来る作品である。
 鮎釣り竿の「竿先」が「水面」すれすれまで延びているのである。
 その「竿先」とも「水面」ともつかない所を掠めるようにして「飛ぶ鳥」の名は、「鶺鴒」「燕」そして「大葭切」である。
 狙いとする天然物の大鮎が首尾よく囮に掛かるのを待つ間、作者は、「あっ、今、私の竿先を掠めるようにして飛んで行ったのは鶺鴒だ。あっ、今度は燕だ。そして大葭切も今、私の竿先にぶつかるようにして飛んで行った」などと思っているのである。
 釣るも醍醐味、釣らぬも醍醐味、そして、渓流釣りの醍醐味を詠んだ、この一首を観賞するのが、評者の醍醐味なのである。
  〔返〕 ひるがえる燕の跡と竿糸が睦み合ってる峡の友釣り   鳥羽省三


○ 豆畑をするどく雷雨通り抜け遠き青田に虹の浮き見ゆ  (宮城県) 須郷 柏

 作者の須郷柏さんは、豆畑の<刳り掛け>作業の最中に、突然の「雷雨」に見舞われたのでありましょう。
 真夏の暑い最中の、<刳り掛け>作業中の「豆畑」を、一陣の「雷雨」が「通り抜け」たかと思うと、間も無く「豆畑」の上空が快晴となり、やがて「遠き青田に虹の浮き」立つのが見えたのでありましょう。
 田舎暮らしを捨てて来た者にだって、田舎暮らしの良さは解る。
 損得勘定をすれば、本作の作者・須郷柏さんは、わずか三十分足らずの作業休止の間に一首の傑作を得たのであるから、<プラス十五点>というところでありましょうか?
  〔返〕 突然の雷雨見舞ひて山畑の豆の緑葉いよよ色濃し   鳥羽省三


○ 二十六歳最後の週末螢追うごとくワールドカップ観ており  (福山市) 大塚繭子

 「二十六歳」の「最後の週末」だというのに、室内の照明も灯さずに、旧型テレビの小型画面に映る「ワールドカップ」を「観て」いる自分に、作者は何故か遣る瀬無さを感じたのでありましょう。
 「蛍追うごとく」は、テレビ画面に映っているサッカーボールが、あっちに飛んだりこっちに飛んだりするのを目で追って行くことを表わしていると同時に、照明を消している室内に、小型テレビの画面だけが輝いている様子を形容して述べたのでもありましょうが、当然のことながら、そこには、作者ご自身の遣る瀬無い気持ちも反映されているのである。
 青春は蛍火の如し。
 本作の作者・大塚繭子さんは、遅すぎる青春の、その「最後の週末」に、どのような切ない思いを抱きながら、「螢追うごとくワールドカップ観て」居たのでありましょうか?
 でも、二十六歳と言えば、まだまだ若い。
 人生はこれからですよ。
 暗がりで、映りの良くないテレビ画面ばかり見詰めていないで、たまには街へ出なさい。
  〔返〕 午前四時輝くものは画面のみ二十六歳最後の週末        鳥羽省三
      書を捨てて街へ出ようかユニクロとスターバックス君を待ってる   々


○ 父の日と云われ座りし食卓に大きなヒラメの一夜干しあり  (横浜市) 手塚 崇

 「ヒラメの一夜干し」とは、なかなか豪華で高価なお品ではありましょうが、「父の日」のお膳に載せるご馳走としてはいささか寂しいとも思われます。
 半ば干からびたような「父」のご心境を、こ子様たちや奥様は見て取ったのでありましょうか?
 「父の日と云われ」が効いている。
 作者ご自身は、格別にそれに執着していたわけでは無かったが、「お父さん、今日は父の日ですよ。たまにはブロク更新の手を休めて、お酒でも飲んだらどうですか」と言われて、お膳を前にしたら、そのお膳の真ん真ん中に、「大きなヒラメの一夜干し」が、どかりと座っていたのである。
  〔返〕 父の日の祝いと来にし孫たちに上トロ寿司を食べられにけり   鳥羽省三


○ 職安を出てヘルメットを被るたび美ヶ原の緑深まる  (松本市) 牧野内英詞

 この作品は素晴らしい。
 理屈抜きにして素晴らしい。
 ハローワークなどと、流行りの言葉で言わずに、「職安」と言うのが素晴らしい。
 その「職安を出て」、直ぐに被るのが「ヘルメット」であることが素晴らしい。
 「ヘルメット」を被って眺める風景が、「美ヶ原の緑」なのが、大きくて素晴らしい。
 「ヘルメット」を被って、小型バイクに乗って、この「職安」に、昨年の暮れから七月の今日まで、一体何回通ったことか?
 何回通っても、就職先は決まらず、「職安を出てヘルメットを被るたび」に、真向かいの「美ヶ原」の「緑」は、ますます「深まる」ばかりである。
 ああ、自然は美しく、人生は厳しい。
  〔返〕 真向かへる美ヶ原の緑濃し職無き我を責むるごと濃し   鳥羽省三


○ ひとぬりで消したい程の人生も一所懸命生きてゆくなり  (越谷市) 内山豊子

 客観的に言うと、「ひとぬりで消したい程の人生」なんてありませんよ。
 それは、ご本人の気持ちの持ち方であって、現にご本人が、「ひとぬりで消したい程の人生も一所懸命生きてゆくなり」と仰って居られるのでありますから、彼女の「人生」は、既に「ひとぬりで消したい程の人生」では無くなっているのである。
  〔返〕 ひと塗りで消されてしまってたまるかい! 私の人生わたしのものだ!   鳥羽省三


○ 幼顔そのままに子の帰り来てケープタウンより洗濯物も  (ドイツ) 西田リーバウ望東子

 馬場あき子選の一席作品である。
 試みに、本作中から「ケープタウン」という地名を除いて、別の地名に替えたらどうなるであろうか?
 例えば、「幼顔そのままに子の帰り来てあきる野市より洗濯物も」としたら、どうでしょうか?  本作が馬場あき子選の一席に推されたことの理由も、少しは其処に在るかとは思われるから、この際は、もう一度、作者の現住地と、作者のご氏名にも目を遣りましょう。
 本作の作者の現住地は<ドイツ>、作者のご氏名は<西田リーバウ望東子>。
 本作の作者は、現在、ドイツにお住いになられ、<リーバウ>というミドルネームもお持ちの女性である。
 このことを確認した上で、再度、馬場あき子選の一席に座った、西田リーバウ望東子さんの傑作と、それに基づいて何処かの間抜けが詠んだ戯作とを比較対照してみましょう。
 作者の西田リーバウ望東子さんの現住地の<ドイツ>から見ると、原作中の「ケープタウン」と、戯作中の「あきる野市」とは、距離に多少の違いがあり、その方向が南北と東西の違いはありましょうが、南アフリカ共和国の「ケープタウン」も我が日本国東京都「あきる野市」も、作者のお住いになっている、ドイツから遠いことは遠い。
 したがって、「幼顔そのままに子の帰り来て」「洗濯物も」もドイツ在住の作者に届いた時、「幼顔の息子とこの洗濯物とは、ずいぶん遠い国から遣って来たんだなあ」と、作者が認識し、感動するに違いない点に於いては、原作中の「ケープタウン」も、戯作中の「あきる野市」もそれほどの違いは無いと言えましょう。
 しかし、わずか<三十一音>、<五七五七七>の五句に過ぎない、短歌作品中の一句の大部分を占める語としてこれらを置く時、その両者の違いには歴然たるものがある。
 要するに、西田リーバウ望東子さんの、この傑作を<傑作>たらしめたのは、作中の「ケープタウン」というカタカナ書きの地名なのである。
 短歌という文芸は、良きにつけ、悪しきにつけ、結局はそうした性格を備えたものなのである。
 本作の表現について、もう一言述べて置こう。
 それは、本作の詠い出しの「幼顔そのままに」という語句に関わるものである。
 通常、ドイツ在住の女性が詠んだ歌に、「幼顔そのままに」「ケープタウンより」「子の帰り来て」とあったら、鑑賞者の大多数は、「ああ、この母と子は、子が幼い時に、なにかの事情で、ドイツと南アフリカとに別れて暮らすことを余儀なくされ、それから何年か経った今日、別れて暮らさなければならなかった、その事情が解消され、こうしてめでたく、あの日のままの幼顔で、遥遥とケープタウンから子が帰って来たんだなあ。何はともあれ、これはめでたいことだ。泣きなさい、泣きなさい。お母さんとお子さんと抱き合って泣きなさい」と解釈し、感動するものである。
 ところが、本作で詠われているのは、そうした有り触れた場面では無いことが、次に置かれている「ケープタウンより洗濯物も」という措辞によって、直ぐに解るのである。
 幼い時にドイツ在住の母と別れてケープタウンで暮らしていた子が、何年か経って母の待っているドイツに帰った時の手土産が「洗濯物」であり得ようはずは無い。
 南アフリカ共和国から帰って来た者の手土産ならば、国産のダイヤモンドの指輪か、さもなくば、中国産のあのブブゼラに決まっている。
 したがって、この母子は、子が幼い時に別離を余儀なくされたのでは無く、子が大人になってから、現地会社への単身赴任か何かの事情で、ほんの数年間、ないしは、ほんの数ヶ月間、別れて暮らしていたのに過ぎなかったのであり、なればこその「ケープタウンより洗濯物も」であったのである。
 つまるところ、本作の冒頭の「幼顔そのままに」という語句は、いつまで経っても、我が子を<子供>としてしか認識出来ない母親のエゴを表わしたもの。
 言わば、いつまで経っても<子離れ>出来ない母親の狂態を示したものに過ぎなくなるのである。
 選者の馬場あき子さんは、其処までお見通しになられた上で、この作品を入選作一席に推されたに違いない。
 しかし、そうした解釈は、果たして作者ご自身の意図していたものであったかどうかは、頭脳明晰ならざる評者には判らない。
  〔返〕 <うまい棒>手土産にしてロシヤから遊びに来たる息子の級友   鳥羽省三   

今週の朝日歌壇から(7月19日掲載分・其のⅠ)

2010年07月22日 | 今週の朝日歌壇から
○ 始まりに理由なけれど終りには理由がありて君を失う  (京都市) 敷田八千代

 永田和宏選の一席である。
 「成程、これは真理だろう。若い作者の自己省察には驚くが、その『理由』に思い当たるのが哀しく切ない」とは選者の評言である。
 「始まりに理由なし、終りに理由あり」を逆さまにすれば、「始まりに理由あり、終りに理由なし」となる。
 コントラストを成すこの二つの句は、古来から言い古された成句とも言え、今さら、歌壇の総帥たる永田和宏氏をして、「若い作者の自己省察には驚く」と言わしむるような表現では無いだろう。
 敷田八千代さんと言えば、<朝日歌壇>の常連として、<第二十四回・朝日歌壇賞>の受賞者として、<朝日歌壇>の読者ならば誰でも知っている逸材である
 もう一つ付け加えて申すと、彼女は、また<塔短歌会>の期待の星の一人でもある。
 と言うことは、本作を入選作一席に選んだ永田和宏氏と作者の敷田八千代とは、言わば、師弟関係にある。
 本作は、入選作の一首としては格別に劣る作品ではないが、これまでの敷田八千代さんの入選作や結社誌「塔」への投稿作と引き比べて、格別に優れた作品とも思われない。
 しかも、選者としての永田和宏氏のあの<評言>。
 もしかもすると、あの<朝○歌○観○会>辺りから、痛く無い腹を探られたりする危険性だってあるかも知れない。
  〔返〕 始まりに理由があって終りにも理由があって結句さよなら   鳥羽省三   
      始まりは屁理屈付けて終りには理由も無しのイラク戦争      々


○ 表情のたゆたひのごと萍は逃げ込む蝌蚪を匿ひてゆるる  (西条市) 亀井克礼

 外敵の襲撃から我が身を守る為に「蝌蚪」が無断で「萍」の葉陰に逃げ込み隠れたのであって、外敵に襲撃された哀れな「蝌蚪」を目にして、「萍」が慈悲心を発揮して「蝌蚪」を自分の葉陰に匿った訳ではあるまい。
 その是非はともかくとして、こうした突発的な出来事が起きた時、「萍」はわずかに揺れ、そのわずかな<揺れ>に対して、本作の作者・亀井克礼さんは「表情のたゆたひ」の如きものを感じ取った、のでありましょう。
 「たゆたひ」とは、「心が動いて定まらないこと。ためらい」である。
 つまり、本作の作者は、外敵から身を守ろうとして「蝌蚪」が葉陰に逃げ込んだことが原因で「萍」が揺れた時、「ああ、この『萍』は、可哀想な『蝌蚪』を匿ってやろうと思いつつも、本気になって匿ってやろうか、それとも、少し見え隠れにして、ささやかな意地悪をしてやろうかと、躊躇っているのに違いない」と感じたのである。
 わずか三十一音に過ぎない短歌形式の中に、これだけ多くの情報を詰め込み、これだけの微細な心の動きを表現出来れば立派なものである。
 <朝日歌壇>の常連・亀井克礼さんは、ただ飯を食ってはいない。
  〔返〕 萍の幽かな揺れに脅えつつ蝌蚪は尻尾竦めた   鳥羽省三 


○ 米寿なる母は転寝するときもハエタタキ持ち時時叩く  (山梨県) 笠井一郎

 誰に教わったのでも無く、生活の必要に応じて、自然に習い覚えた知識や習慣は、幾つになっても忘れられないものと思われる。
 評者は、「転寝するときもハエタタキ持ち時時叩く」という句を読むにつけても、習慣というものの恐ろしさを思い知るのである。
  〔返〕 風が吹き桐の木の葉が動くさへ我は脅ゆる婆っ子なれば   鳥羽省三


○ 「おかあさん」ただ呼んでみるわたなかの鯨のようにただ呼んでみる  (新潟市) 太田千鶴子

 この一首の不可解さと魅力とは、「鯨のように」という一文節の中に凝縮している、と評者は思う。
 即ち、「鯨のように」とは、作者が「鯨」という巨大な哺乳類に「おかあさん」のような温かさと包容力とを感じた、ということであり、だからこそ、「『おかあさん』」と「ただ呼んでみる」「わたなかの鯨のようにただ呼んでみる」と詠んだのであろう、と解釈される。
 またその一方、「鯨のように」とは、作者ご自身が小鯨にでもなったような気分になったことを指して言うのであって、その小鯨が、日本の調査捕鯨船に殺戮されようとしている母鯨に向かって呼びかけたことを想定して、「『おかあさん』」と「ただ呼んでみる」「わたなかの鯨のようにただ呼んでみる」と詠んだのである、とも解釈されるのである。
 作者の意図した解釈はその何れか?
 その何れの解釈も作者の意図したものとは異なっているか?
 その判断は作者にしても不可能かも知れないが、作者が「おかあさん」という存在を、何か巨大で、何か途轍もなく包容力のある存在、かつ、永遠に哀しい存在、として捉えていることは、よく理解される。    
  〔返〕 身の丈が五丈に余る鯨さへ母を慕ひて潮を吹くとふ   鳥羽省三


○ 午前四時隣の部屋も前の部屋も起きているらし喚声あがる  (箕面市) 遠藤玲奈

 少々時期遅れの感無きにしも非ずではあるが、ワールドカップ南ア大会関連の作品である。
 あの頃は、サッカー嫌いの評者でさえ、本作の作者・遠藤玲奈さんや彼女の「隣の部屋」の住人や「前の部屋」の住人と同じようにして、「午前四時」を過ぎてもテレビ画面に釘付けになり、時折り「喚声」すら上げていた。
 「喚声あがる」という表現とは裏腹に、女性の一人暮らしの侘しさが滲み出て来るような感じの一首である。
  〔返〕 <ベスト4>が<ベスト16>に終わっても南アのことは夢のまた夢   鳥羽省三


○ ほろ酔いは奥行一間間口二間亜鉛鉄板(トタン)の屋根に水無月の雨  (小浜市) 田所芳子

 せっかくの「ほろ酔い」気分も、「奥行一間間口二間亜鉛鉄板の屋根」を叩くようにして降る「水無月の雨」の音を聞いていたら、すっかり冷めてしまったのでありましょう。
  〔返〕 ほろ酔いを覚ます無情の五月雨の音を聴きつつ一首を得たり   鳥羽省三 


○ 児ら泳ぐ速度に合わせ校長は炎天のプールサイドを歩く  (前橋市) 荻原葉月

 文部科学省や教育委員会からのお達しを後生大事にお勤めしている、今どきの「校長」にお似合いなのは、「児ら」の「泳ぐ速度に合わせ」て「炎天のプールサイドを歩く」ことぐらいのものでありましょうか?
  〔返〕 鳥小屋の取り払はれし校庭に何故に蔓延る帰化植物は   鳥羽省三  


○ 縁の下の蟻地獄の巣に吹く風は昔々のかくれんぼの匂い  (松坂市) こやまはつみ

 「昔々」、鎮守の社の「縁の下」には「蟻地獄の巣」が一面に蔓延っていた。
 私たち子供は、その「蟻地獄の巣」に脅えつつも、「縁の下」特有のあの懐かしい「風」に吹かれながら、一日中「かくれんぼ」遊びに興じたものであった。
 あの「蟻地獄」は、今も在るのだろうか?
 あの懐かしい「風」は、今も吹いているのだろうか?
 「かくれんぼ」遊びに興じる子供の姿は、この日本の国の何処からも消えた。
 これを<神隠し>と言うのだろうか?
  〔返〕 縁下に隠れた児らは見つからぬ鬼が来るまで蟻地獄番   鳥羽省三


○ 大病を二つ乗り越え老い母は流行りの服で温泉にゆく  (横浜市) 滝 妙子

 この一首は、「大病を二つ乗り越え」て、今は元気になって、「流行りの服で温泉にゆく」「老い母」の娘さんの視点で以ってお詠みになられた作品である。
 同じ題材でも、「老い母」の娘さんでは無く、お嫁さんの立場に立ってお詠みになると、自ずから本作とは異なった趣きの作品となるのは、致し方の無いことでありましょう。
  〔返〕 大病を二度も患い姑は赤いべべ着て温泉に行く   鳥羽省三  


○ 放し飼い五羽のおんどりその一羽ときどき雌に突かれている  (和歌山県) 上門善和

 「おんどり」が「五羽」もいれば、その中の「一羽」ぐらいは、「ときどき雌に突かれている」こともありましょう。
 人間の雄が五人いれば、五人が五人とも、「ときどき」ならず、人間の「雌に突かれている」のである。
 かくして、鶏と人間とを問わず、雄と雌の関係は切なく哀しく激しいものである。
  〔返〕 人間の我は哀しく人間の妻にいちいち突かれている   鳥羽省三


○ 戦死にて骨なき墓を祀りたるわが村四戸に一戸の割合  (東根市) 庄司天明

 たまたまこの記事を書いている途中、隣室で妻の視ているテレビ画面に目をやったら、韓国からやって来た例の元・死刑囚の女性と、拉致事件の被害者のご両親である、横田さんご夫妻との対面のニュースが映っていた。
 横田めぐみさんのお母様のお話によると、亡くなったとされていた横田めぐみさんのご遺骨が、自民党政権下で返されたのであるが、DNA検査をした結果、そのお骨は、愛娘のめぐみさんとは異なる人物のお骨だったそうだ。
 東根市ご在住の庄司天明さんによって、「戦死にて骨なき墓を祀りたるわが村四戸に一戸の割合」と詠われた「わが村」とは、どんな規模の「村」でありましょうか?
 仮に、その「村」の戸数が四百戸であったとしたら、その中の百戸の家が「骨なき墓を祀」っていることになる。
 仮に、千二百戸の「村」であったとしたら、その中の三百戸の家が「骨なき墓を祀」っていることになる。
 これは想像だに出来ない哀しい出来事である。
  〔返〕 この村より徴発されし馬匹百 その大半は骨も還らず   鳥羽省三


○ ジャージーに暮らしの端を映しつつ孫は介護の職に就きたり  (群馬県) 眞庭義夫

 「介護」のお仕事に従事なさる若者たちの「ジャージー」での出勤は、今では、全国至る所で展開されているお馴染みの風景である。
 それを、本作の作者・眞庭義夫さんは、「ジャージーに暮らしの端を映しつつ孫は介護の職に就きたり」と捉えられている。
 ご祖父殿には、ご祖父殿なりに、ご心配になられる点がお有りなのでありましょうか?  
  〔返〕 介護士に気取りは無用 動き易く優しくし易いスタイルが好し   鳥羽省三


○ 百姓が好きで嫁ぎて五十年漁火映ゆる棚田守りぬ  (山陽小野田市) 浅上蕉風

 「百姓」とは、人代名詞か普通名詞か?
 人か職かは判然としないが、その「百姓」が「好きで嫁ぎて五十年」経った。
 「五十年」経った今でも、婚家で所有する「漁火」が「映ゆる棚田」を守っている、という訳である。
 「漁火映ゆる棚田守りぬ」が印象的である。
 「棚田」は、守ろうとして守らなければ守れないものである。
 <田毎の月>ならぬ<田毎の漁火>でありましょうか。  
  〔返〕 百姓が好きな女と五十年棚田守るは妻の道楽   鳥羽省三

『NHK短歌』観賞(東直子選・7月18日放送・改訂版)

2010年07月21日 | 今週のNHK短歌から
○ 風呂掃除終えたる宿の午前二時汽笛聞きつつ仮眠に入る  (兵庫県) 高橋雅之

 本作の作者は、瀬戸内海を航行する船の「汽笛」が聞こえる「宿」の経営者なのでしょうか、従業員なのでしょうか?
 それはともかくとして、私は、本作を途中まで読んで、「風呂掃除」を終えた後の「午前二時」に、「風呂掃除」をしたご当人が、昨日来の疲れを休めるべく入浴するのかと思ったのですが、それは私の早合点であり、「仮眠に入る」のでありました。
 でも、それも<致し方無し>ということでしょう。
 何故ならば、もう二時間もすれば泊り客たちの朝食の準備などで、宿の中はまた戦場のように慌しくなるのですから。
 それに、「風呂掃除」を終えた後の「午前二時」に、経営者であれ従業員であれ、宿屋の者が入浴してしまったら、せっかく綺麗にした一番風呂にお客様を入れられなくなるのですから、それも有り得ないことだと思って納得致しました。
 題材になった「宿」は、瀬戸内海に面した海辺の、夏蜜柑やオリーブなどが生えている山の斜面の一軒宿の温泉場でありましょうか?
 「汽笛聞きつつ仮眠に入る」という表現が、何とも言えない海辺の温泉宿の雰囲気を醸し出しております。
 特選一席に相応しい、素敵な雰囲気を湛えた傑作である。
  〔返〕 定年を迎へし後の我が夢の湯治場勤めをいまだ果たさず   鳥羽省三


○ 舗装路を割りてタンポポの花咲けり人間がいる大空がある  (富士宮市) 寺西静子

 特選二席。
 四、五句目は、固い「舗装路」を割って咲いた「タンポポの花」の目線からの観察である。
 「人間がいる大空がある」という、地面すれすれの位置から見上げているような表現が、一首全体を大きくして、本作の内容を豊かなものにしている。
  〔返〕 舗装路の割れ目に生ひしタンポポの綿毛ほけたり四月一日   鳥羽省三  


○ 宿かりを教えてくれし母はまだ若くて風のように立ってる  (玉野市) 浮田昌子

 「母はまだ若くて風のように立ってる」という、口語の現在形の表現が素晴らしいだけに、「教えてくれし」の「し」が惜しまれる。
 本作は、最初から口語的発想に基づいて詠まれた作品であるから、上の句を「宿かりを教えてくれし」と、口語と文語のごちゃ混ぜ表現にしないで、「宿かりを教えてくれた」と、口語で統一された表現にすればいいのである。
 それから、もう一点。
 初句を「ヤドカリを」としないで「宿かりを」としたことに縁って、この一首は、古き良き時代の母と娘の懐かしい物語に終わっていないことになるのである。
 何故ならば、「宿かり」とは、その字面からして、あの磯辺に棲息する「ヤドカリ」だけでなく、戦中戦後のあの苦しい時代に、娘を連れて、一夜の「宿」を求めて、転々とさ迷い歩く女性の姿をも髣髴とさせ、それが「母はまだ若くて風のように立ってる」という下の句と相俟って、頼りなく、か細く、か弱く、危なっかしく、それでいてどこか健康的で美しい、作者の「母」の、独特の雰囲気を醸し出すことに成功しているのである。
 果たしてそこまでのことを、作者ご自身は計算していたかどうか?
 その点については、作者ご自身から、又は選者から、或いは本作にご興味を持たれた方からのご意見を伺いたい。
 些細な欠点とも言えない欠点を論った評者ではあるが、この作品を特選一席として推奨したくもなるような傑作である、とさえ思っている。
  〔返〕 背に負へる貝殻も無く若き母ヤドカリのごと娑婆を彷徨ふ   鳥羽省三  
 
 
○ お土産に買い来し土鈴それぞれに鳴らして宿に夜を寛ぐ  (直方市) 下松京子

 こちらは、不潔さも、危なっかしさも、毒もなく、健康一方の作品である。
 「お土産に買い来し土鈴」とあれば、それぞれ綺麗な包装紙で包装されているはず。
 「お土産」ですから、せっかくの美しい包装を解かないままに自宅に持ち帰ればいいのに、そこはその品物に執着して買ったものであるから、何人か居る相部屋の者が、それぞれ、わざわざ包装を解いてお互いに見せ合い、その後は、部屋の中の風の吹いて来る場所に掛けて置いて、夏の旅の一夜の涼を楽しんだのである。
  〔返〕 夕食を鱈腹食べた後だから止せばいいのに羊羹を食べ   鳥羽省三 


○ 贈らるる一日の包み解くごとし尾瀬山宿の朝のカーテン  (高松市) 嶋本和子

 「尾瀬」の山小屋で一夜を過ごし、その翌朝、部屋の「カーテン」を開けた時の爽やかな気持ちを、「贈らるる一日の包み解くごとし」と、直喩的に述べているのである。
 「贈らるる一日の包み解くごとし」とは、なかなかに解釈が難しく、評価の分かれる表現である。
 本作の場合は、その後に「尾瀬山宿の朝のカーテン」という語句が在るから、その贈り物の「一日の包み」は、素晴らしい贈り物であった、ということが解るのである。
 一首全体の雰囲気が、世界遺産の「尾瀬」という一語に依って決定されるのである。
  〔返〕 木道を四十キロの荷を負いてまた一日の苦行始まる   鳥羽省三
 手放しの「尾瀬」礼賛には、少しばかり意地悪をしてみたくなったのでした。  


○ 目の前の海さえぎりて干されたる網はその目にみな海宿す  (下関市) 大見光昭

 葛飾北斎の版画に、そのような感じの作品がありました。
  〔返〕 目の前に干したる網は遮らず海と彼方の富士山の景   鳥羽省三


○ 君からの宿題全部やりました答えあわせをお願いします  (名古屋市) 杉 大輔

 作者が、何か物欲しげに「全部やりました」という、「君からの宿題」とは、どんな「宿題」だったのでしょうか?
 その「宿題」の内容によっては、「答えあわせ」の遣り方も自ずから違ってくると思われる。
  〔返〕 宿題は禁酒禁煙また賭博すべて止めたら一緒になろう   鳥羽省三


○ 背負ふかたち押さふるかたちに昼寝せる合宿中の柔道部員  (富士市) 梶原かつを

 この暑い盛りの柔道部の「合宿」は、本当に疲れますからね。
  〔返〕 負けた夢勝った夢などさまざまに浅い眠りの昼寝なるかな   鳥羽省三


○ そういえば雨宿りしない人だった咳きこむようなメールが届く  (綾瀬市) 高松紗都子

 選者の東直子さんは、「『咳きこむようなメール』とは、頻繁に届く、激しい内容のメールのことでしょうか」といったニュアンスの解説をなさいました。
 「東直子さんの仰ることもご尤もではありますが、『咳きこむようなメール』とは、やはり、『咳きこむようなメール』としか言いようの無い『メール』であって、『メール』が入ったタイミングやその内容に対しての、作者の不安定な感情や評価を含むものである」とは、評者の弁である。
 作者の高松紗都子さんは、その「咳きこむようなメールが」が届けられてから、ふと考えてしまったのである。
 「『そういえば』あの人は、私とデイトしている時、どんなに激しい雨に見舞われても、決して『雨宿り』をしない人であったし、また、恋人の私が時折り媚態を示しても、決して乗って来ない人であった。そんなあの人が、今頃になって、一体どんな理由で、こんなに切なく激しい『メール』を遣したのだろう」と。
 この一首について、放送当日のゲストの沢田康彦さんが「気になる一首」とのご感想をお洩らしになって居られましたが、評者にとっても、この一首は「気になる一首」であり、高松紗都子さんは、「題詠2010」に参加されている三百名余りの歌人中、最も気になる歌人の中の一人である。
  〔返〕 この頃はメール寄せ来ぬ雨宿りする気傘借る気も無き我に   鳥羽省三


○ 朝つゆを宿すトマトの赤からん我がふるさとの緑の中に  (荒川区) 影山 博

 都会に居て、「緑」滴る「ふるさと」の夏を想っているのである。
 あたり一面の<緑中の赤>とは、まさに唐詩の趣きである。
  〔返〕 夕映えを浴びてトマトの熟れ居らむ我が故郷の休耕田に   鳥羽省三 
 

○ はつ夏のうたぐりぶかい指としてきみに宿った蕾をつまむ  (東村山市) やすまる

 「はつ夏」は、我が「指」ならずとも、全ての面で「うたぐりぶかい」季節なのである。
 「きみ」とは何か?
 「きみ」とは花壇に咲く花であり、「うたぐりぶかい」我の恋人でもある。
 その花の「蕾をつまみ」、恋人の心に宿った疑惑の「蕾」を摘もうとしている我が夏は、炎々と燃えているのである。
  〔返〕 はつ夏の疑惑は赤く燃え滾りきみの蕾をたちまちに焼く   鳥羽省三 


○ 民宿への坂ふるさとと比べあい自己紹介の済んでしまえり  (高崎市) 野尻ようこ

 「民宿」への道には、必ず素晴らしい眺望の「坂」が在るのである。
 その「坂」と、自分の「ふるさと」の「坂」とを「比べあい」、本作の作者・野尻ようこさんは、たまたま「民宿」で出会った人と、初対面の挨拶や「自己紹介」を済ませてしまったのである。
 素朴な語を巧みに繋ぎながら、要領良く一首にまとめている。
  〔返〕 この坂を上れば見える海の家太平洋の飛沫の届く   鳥羽省三

一首を切り裂く(037:奥・其のⅢ)

2010年07月19日 | 題詠blog短歌
(穂ノ木芽央)
   奥多摩湖のほとりで食べたカレーうどんあとはまつすぐ帰るだけなの

 連休初日に、彼の車の助手席に乗って奥多摩湖までドライブした。
 気が弱く用意周到かつ倹約家の彼は、予め車の後部座席に私の好きなカレーうどんを積んでいた。
 そのカレーうどんは、熱湯を掛けて三分間待てば食べられるという、例のタイプの品だったので、私は、「こんなものを遥遥と奥多摩湖まで持って行っても、お湯を掛けて三分間待たなければ食べられないだろう。三分間待つのはいいとしても、これに掛ける熱湯はどうするのかしら。目的地の奥多摩湖に到着する前の、こんもりと繁った森の中に車を停めてリクライニングシートを倒し、私と彼とが一戦に及び、その余熱で以って岩間から流れ出る湧き水を沸かし、それをカレーうどんに掛けて食べるのかしら。そして、彼特製のカレーうどんが出来上がる三分間を待つ間、私は、いそいそとつわものどもの夢の跡の始末なんかして、それが終わってから食べるのかしら」などと、余計なことを心配していたら、彼は途中の格好の森の辺りでも車を停める気配を示すでも無く、私たちは、三軒茶屋の私のマンションを出発してからピタリ三時間で目的地の奥多摩湖畔まで辿り着いた。
 湖畔に駐車するや否や、彼は私に、「君のマンションを出発してから三時間も経ったから、お腹が空いているだろう。ドライブは運転している者より助手席に座っている者の方がいろいろと気を遣うから、君はお腹が空いているはずだ。さあ、この素晴らしい景色を見ながら、カレーうどんでも食べましょう」と優しく声を掛け、それからおもむろに車のトランクを空けて、時代物の魔法瓶を取り出したのである。
 それを見た私は、「なぁんだ、そういうことだったのか。お腹を十分に満たし、スタミナを蓄えてからリクライニングシートを倒そうという算段なのか」と、腹立ち半分、期待半分に思ったりもしたのであるが、こんな所で喧嘩してしまったら、私の生理に叱られると思ったから、湖畔の草原に自慢の美脚を投げ出して、彼の作ってくれたカレーうどんを、彼と一緒にずるずるずるずると音を立てて啜り合った。
 私は今、不用意にも、「彼と一緒にずるずるずるずると音を立てて啜り合った」と言ったが、それは、熱湯を掛けたインスタントのカレーうどんのことなのよ。
 いや、決して嘘ではありません。
 私と彼とが熱々になって、お互いのお口を啜り合ったとか、お口以外の箇所まで啜り合ったとか、決してそういうことではありません。
 それに第一、あのなんとか色をしたカレーうどんを食べた後で、そんなことをしたとしたら汚いではありませんか。
 不潔ではありませんか。
 だから、決して、あなたの想像しているようなことでも、私が密かに期待していたようなことではありません。
 平凡で安月給のサラリーマンの彼の、唯一の取り得は清潔たってことなの。
 そうした点は、彼の唯一の取り得とも言えるが、少しなんとかして欲しい私からすれば、彼の欠点でもあるのよ。
 私だって、生身の女性ですから。
 しかもこんなに美しい女性であったりして。

 要するに、この一首の<売り>は、「あとはまつすぐ帰るだけなの」でありましょう。
 だとすれば、その前の「奥多摩湖のほとりで食べたカレーうどん」という上の句は、それに続く下の句の忠実な引き立て役でなければなりません。
 上の句が下の句の忠実な引き立て役の役割りを果たし、下の句まで読んだ鑑賞者に猛烈な<肩透かし>を喰らわせる為には、上の句が、内容と韻律を伴った、厳粛・整然とした定型句で無ければなりません。
 上の句中の「奥多摩湖のほとりで食べた」は「奥多摩湖のほとりで食べた」でなければならなかったのでしょうか?
 少し嘘をついて、「相模湖のほとりで食べた」としてはいけなかったのでありましょうか?
 「カレーうどん」は「カレーうどん」でなければならなかったのでありましょうか?
 少し我慢して、「オムライス」にしてはいけなかったのでありましょうか?
 ここは、韻律を整えて、厳粛・整然とした上の句にする為に、もう一工夫も二工夫もあって然るべき場面ではありましょう。
 しかしながら、本作の作者・穂ノ木芽央さんは、あの通りの腹の底から真っ正直なお方であるから、「私と彼とがドライブしたのは、相模湖でも芦ノ湖でもなく、奥多摩湖だったから、奥多摩湖に詠んだまでのことよ。私と彼とが奥多摩湖畔で食べたのは、<レバにら>でも<牛タン>でも<オムライス>でもなく、<カレーうどん>だったから<カレーうどん>と詠んだまでのことよ」と、抗弁なさるに違いありません。
 本作の作者・穂ノ木芽央さんのブログ・タイトルが『白紙委任状』であったのに任せて、ここまでの曲解を試みたものの、書き終えた後で、首の辺りに手をやってみると、何故かひやひやするような感じがする。
 何はともあれ、見ず知らずの私に、此処まで書かせたのは、この作品が紛れも無い傑作である、という何よりの証拠である。
  〔返〕 奥多摩でカレーうどんを食べたきり別れた彼の結婚写真   鳥羽省三
 

(新井蜜)
   待つてゐる白い便器が薄暗い廊下の奥の狭い部屋には

 「刑務所の独房を詠んだのでありましょうか?」とは、本作の作者の才能を嫉んだ余りの揶揄でああって、本作は、親譲りの一軒家に<妻無し、子無し>状態で住んでいる安月給取りの、夕べ夕べの帰宅途中に催した切ない気持ちを述べた一首として、高く評価されなければならない、と評者は思うのである。
 この夕べも又、あの「薄暗い廊下の奥の狭い部屋には」、あの「白い便器」だけが私を「待ってゐる」のか、と思うと、男性は誰でも歌人になってしまいますね。
  〔返〕 独房の白い便器に跨ってなにする時はものをぞ想ふ   鳥羽省三


(新田瑛)
   薄暗い廊下が果てしなく続き奥からあれが近づいてくる

 こちらは、新井蜜さん作とは異なって、怪異小説、オカルト小説の世界である。
 「あれ」とは、何かしら?
 それを言わないで、鑑賞者の想像に委ねるのが極意なのでしょうか?
 東京・日本橋の三井記念美術館の建物には、こうした雰囲気を持った長い廊下がある。
 あの薄暗く長い廊下の雰囲気を利用して、その行き着く先の壁面に、国宝級の不動尊像とか、キリストの磔刑画などを一点だけ展示する、といった、奇抜で豪華な展示方法が考えられないかしら。
  〔返〕 薄暗い廊下を進み鉄扉開ければ迫る鬼子母神像   鳥羽省三


(nasi-no-hibi)
   懐かしい風が吹いてる引き出しの奥には広い中庭がある

 そんな「懐かしい風が吹いてる引き出し」のある机の上で、評者は今、この記事を書いている。
 「引き出し」を開ければ、その「奥には広い中庭」が在り、その「中庭」のベンチでは、在りし日の義母と我が妻とが語り合い、その傍らのブランコでは、私の二人の息子と二人の孫たちが遊んでいるのである。
  〔返〕 引き出しを我はも開けず懐かしき風も吹かなく庭も無いから   鳥羽省三


(青野ことり)
   耳の奥 知らないはずの声がしてあの日のことを責められている

 本作の作者・青野ことりさんは、「私の秘密は、誰も知らないはずだ」と思っているのでありましょうが、彼女が「あの日」に犯した過ちは、必ず誰かが知っているのであり、彼女は、生涯、生きている限り、その誰かから、「あの日のことを責められ」続けられなければならないのである。
 その<誰か>とは、誰か。
 その<誰か>とは、他ならぬ彼女自身のことである。
 青野ことりさんは、生きて息をしている限り、自分自身が犯した些細な過ちの故に、他ならぬ自分自身に責められ続けられなければならないのである。
 単なる<ことりごと>の世界の出来事として、誤魔化していてはいけません。
 自分が犯した罪は、自分で償わなければならないのですから。
  〔返〕 耳底で我を責めてる我の声 退屈しのぎの悪さをするな   鳥羽省三


(高松紗都子)
   耳の奥たゆたう海をあふれさせざざんざざんと歩く夏の夜

 昨日の<NHK短歌>で、私は「そういえば雨宿りしない人だった咳きこむようなメールが届く」という、紛れも無い傑作と出会った。
 作者は、本作の作者と同姓同名の神奈川県綾瀬市の住人・高松紗都子さんである。
 <NHK短歌>の四人の選者に対する私の評価は、肯定と否定と二分する。
 肯定する選者は、米川千嘉子さんと東直子さん。
 否定しなければならない方の二人の選者は、敢えて名前を挙げるまでもない。
 その東直子選に、私のブログにコメントをお寄せになって居られる高松紗都子さんの作品が入選した事が、私には大変嬉しいのである。
 高松紗都子さん、おめでとうございます。
 ところで、一昨日から、関東地方の梅雨も明け、私たちは、「耳の奥」に「たゆたう海をあふれさせ」て「ざざんざざんと歩く」「夏の夜」を過ごして居ります。
 この一首、「耳の奥」に「たゆたう海をあふれさせ」て居るというイメージは、いかにも作者らしい美しく爽やかなイメージと思われます。
 ところで、動詞「たゆたう」とは、「① 水に浮いている物などがなどが止まらずにあっちに行ったり、こっちへ来たりする。② 決しかねて、心があれこれと迷う」(『新明解・国語辞典・第五版』参照)ことである。
 とすると、本作の作者は、「『耳の奥』に、<あっちに行ったり、こっちへ来たりする>『海』を湛えていて、その『海』の水を、『あふれさせ』ようか、あふれさせまいか、と<決しかねて、心があれこれと迷う>のであるが、結局は『あふれさせ』て、『ざざんざざんと』と音を立てて『夏の夜』を彷徨い歩いた」ということになる。
 私は先刻、この一首を、「いかにも作者らしい美しく爽やかなイメージと思われます」などと、通り一片のことを言って済まそうとしたが、この一首の本当の素晴らしさは、ただ単に「美しく爽やかなイメージ」を詠んだことに終わらずに、「暑苦しく悩ましき夏の夜に、耳底に海を湛えて、その水を溢れさせようか、溢れさせまいか、と迷い、はたまた、行こうか戻ろうかとあれこれと悩みながらも、真夏の夜の街を彷徨い歩く美女」といった趣きが醸し出されている点に在る。
 一読しただけでは解らない趣きをも備えた佳作かと思われる。
  〔返〕 耳底に<iPod>聴き彷徨えばヘッドライトの光が眩し   鳥羽省三   


(五十嵐きよみ)
   奥付は昭和の日付け図書館の書架に黄ばんだ向田邦子

 この一首に接して、私は、ふとつまらない事に気が付いてしまった。
 それは、この作品中の語、「奥付」は、何故「奥付け」ではなく「奥付」でなければならないのだろうか、ということ。
 また、「日付け」は、何故「日付」ではなく「日付け」でなければならないのだろうか、ということである。
 それは、本作の作者・五十嵐きよみさんの、単なる書き癖の問題でありましょうか、それとも、一般的な決まりがあってのことでありましょうか?
  〔返〕 奥付けに昭和の日付け在る歌集持たぬ五十嵐きよみは気鋭   鳥羽省三


(酒井景二朗)
   本棚の奧は墓場だ青春の愚かな罪が眠り續ける

 本当は、自宅の「本棚の奥」に、今となっては恥ずかしい『太宰治全集』とか『サルトル全集』とかを隠してあるのでしょうが、誰が何をするか解らない昨今のことであるから、「本棚の奥」に在る本が、どれもこれも「青春の愚かな罪」の何よりの証拠の万引きの品々であったりすることだって、まんざら考えられない訳でもない。
 被害者意識に基づくような、負け犬意識に基づくような、大袈裟で卑屈な詠み様を示すのが、本作の作者の最大の特色であり、魅力でもある。
  〔返〕 青春の過ぎにし後も墓場なり知らず知らずに罪を深くす   鳥羽省三


(ワンコ山田)
   生存の奥行き想う両の手のたぶん「ちいさく前になれ」ほど

 何かと舌足らずの一首ではあるが、本作の作者の言わんとするところは、よく理解される。
 「生存の奥行き思う」とは、要するに、「全てのものを統べる神が、この私に対して、人間としての生存を許している深い理由が解る」ということでありましょう。
 だとすれば、この一首の意は、「私は未だ未熟者である。だが、この宇宙間の統べての事物を統べている神様が、この未熟者の私に、人間としての生存を許している深い理由の一端を、私は未熟者ながらも解った。幼い頃、私たちは幼稚園の先生に廊下などに並ばせられて、『はい、一列に並んで前ならえをしなさい。前ならえには、<大きな前ならえ>と<小さな前ならえ>がありますよ。今日は、両手の臂を両脇にしっかりとくっ付けてする前ならえ、つまり<小さな前ならえ>ですよ』などと、何度も何度も教えられたものであったが、未熟者としての解り方は、たぶん、あの<小さな前ならえ>ぐらいの解り方でありましょうが」と言ったところでありましょうか?
  〔返〕 生存の苦さを思う園児らの列の小さな前倣えほど   鳥羽省三  


(時坂青以)
   「欲しいのは奥さんかなあ」言いながらつないだ右手力入れんな

 一首の意は、要するに、「『あなたが欲しい。私と結婚して下さい』と堂々と求婚すればいいのに、姑息なあなたは、『お金よりも名誉よりも、強いて言えば、欲しいのは奥さんかなあ』などと言いながら、私の左手とつないだ右手に力を入れる。正々堂々と求婚出来ないあなたなんか嫌いだから、右手にそんなに力を入れるな」といったところでありましょうか?
 カマトト風の素朴な表現ながら、言いたいことはよく解る。
  〔返〕 「欲しいのはお金でしょうね」それならば寛一ぐらいにお成りなさいな   鳥羽省三

 
(珠弾)
   手詰まりになったようやく奥の手を使う場面がやってきたのだ

 「奥の手を使う」場面は、自分有利な局面である。
 そのタイミングを見損なって、「手詰まりになった」局面で「奥の手を使う」のは、自分の墓穴を自分で掘るようなものである、と心得ましょう。
 可能ならば、「奥の手」はあくまでも「奥の手」として、懐に仕舞って置くのが宜しいでしょう。
  〔返〕 奥の手の在るはざる碁にへぼ将棋 羽生名人は奥の手持たず   鳥羽省三
 

(龍翔)
   勘違いしないでほしい。奥よりも手前が良いの。奥より手前。

 「勘違いしないでほしい」と、最初から言っているのは、「勘違いして欲しい」と言っているようなものである。
 でも、私は素直だから、作者の言う通りに「勘違いしない」で言うと、本作は、夫婦者が互いに遣り合っている<耳掃除>の場面、その中でも特に、夫が妻の耳をくじってやっている場面である。
  〔返〕 耳穴に持つか女性はあの真珠 手前がいいの。奥では駄目よ。   鳥羽省三


(牛 隆佑)
   暗闇の出口付近は混み合います奥の方へとお進みやがれ

 上の句と下の句との文体の不統一が、この一首の<みそ>である。
 今となっては馬脚を現してしまったような感じの、あのお馴染みの<レナウン>の株主様セールの会場の横浜アリーナで、暗い入り口付近に居たガードマンが、これと似たような、乱暴なセリフを口にしていたような気がした。
  〔返〕 入り口の扉付近は掏り難い奥の方へとお進みやがれ   鳥羽省三
      入り口の扉付近は撮り難い奥の方へとお進みなさい     々
 

(ちょろ玉)
   哲学が好きな人らと付き合って「奥が深い」が口癖になる

 「『奥が深い』が口癖になる」なるくらいなら、本作の作者が「付き合って」いる「哲学が好きな人ら」の知能程度も知れたものである。
 私の見聞したところに拠ると、本者の哲学者は、「奥が深い」とも、「奥よりも手前が良いの。奥より手前」とも、「奥の方へとお進みやがれ」とも、言わないものである。
  〔返〕 こそ泥は十日で慣れる奥深く五年やっても慣れぬのはスリ   鳥羽省三


(丸井まき)
   奥歯から虫歯になっていくように見えない所が一番怖い

 何かの諭しみたいな一首である。
  〔返〕 麓から徐々に開いて最後には奥の千本見事な吉野   鳥羽省三


(柴田匡志)
   わが心の奥には闇もあるがゆえ短歌が詠えるのかもしれない

 「心の闇を持つ故に歌を詠む」という発想自体はそんなに悪くはない。
 しかし、その発想を具体化したはずの、本作の形式の何たることか。
 先ず、指折り数えて、形式を整えることから始めるべきである。
  〔返〕 深奥に闇を抱いた吾ゆへに歌詠むことは日々の溜め息   鳥羽省三


(じゃみぃ)
   ばあちゃんの泣く子をあやす奥の手は飴玉一つすっと差し出す

 「おばあちゃん子に一文の値打ち無し」とは、よく言ったものである。
 「泣く子をあやす奥の手」が「飴玉一つすっと差し出す」ことであったら、「ばあちゃん」は、虫歯製造元、駄々っ子製造本舗みたいなものである。
  〔返〕 今どきの泣く子に飴玉与えたら嫁が黙っているはずが無い   鳥羽省三

一首を切り裂く(037:奥・其のⅡ)

2010年07月18日 | 題詠blog短歌
(砂乃)
   冷静に話せそうには無いようで奥歯に挟まったままの「ごめん」

 作者ご自身は、それほど気に掛けていらっしゃらないかも知れませんが、「短歌とは内容と共に韻律が生命線である」という、未だ古典的な短歌観から解放されていない評者からすれば、この一首は、最終句の韻律の悪さが決定的である。
 塚本邦雄氏のように、<五七五七七>の定型的韻律とは異なった新しい韻律を創出しようという積極的な試みをなさろうとする場合なら別であるが、一首全体で<三十一音>になっていれば、それでいいという訳では無く、字余り字足らずを問わずに、一首全体から、<内在律>を含めた韻律が感じられなければ駄目なのである。
 本作の場合は何のことは無い、「ごめん」の後に「ね」を付けて、「冷静に話せそうには無いようで奥歯に挟まったままの『ごめんね』」とすれば、それで万万歳なのである。
  〔返〕 心から謝罪するので無いみたい奥歯に挟んだままの「ごめんね」   鳥羽省三

(梅田啓子)
   月の出ぬ山奥の夜はさびしかろ山桜のころ逝きてふたとせ

 「人間が死ぬということは山人になることだ」という、万葉以来の民間伝承を踏まえての作品である。
 相変わらず手馴れた詠風ではあるが、「山奥の月の出ぬ夜はさびしかろ桜散るころ逝きてふたとせ」としたら、いかがでしょうか?
 その理由①─修飾関係にある語句同士は特別な理由が無い限り、直結させて置いた方が良い事。本作の場合は、「月の出ぬ」と「夜」との関係。
 その理由②─内容から推してみて、必ずしも「山桜」に拘る必要は無い事。「人間が死ぬということは山人になることだ」という伝承が信じられていた頃の「桜」は<染井吉野>では無く、「山桜」などの在来種の「桜」が主流であり、本作の場合は、「山奥の」という形で、「山」という字が既に出ているから、特に「山桜」の「山」を除いた方が良い、と感じられる。
  〔返〕 今年また桜咲き初め偲ばれぬ山路踏み分け逝きにし君を   鳥羽省三

 
(野州)
   あけがたの本郷菊坂路地奥のあはれ井戸汲むいちえふ二十歳

 鏑木清方の絵に、路地裏の釣瓶井戸を汲む樋口一葉を描いた図柄が在るように記憶しているが、現実の樋口一葉はなかなか気位の高い女性で、店番や水仕事などの雑用の殆んどは、妹の邦子か母親に遣らせていたらしい。
  〔返〕 明け方の路地を駆け行く下駄の音田宮虎彦書きし『菊坂』   鳥羽省三


(藻上旅人)
   「奥の席空いていますか」「ええどうぞ」ひとり旅にもふれあいはある

 「奥の席」とは窓側の席のこと。
 新幹線などの自由席で、窓側の席に座らないで通路側の席に座っているのは、先ず在り得ないから、「『奥の席空いていますか』『ええどうぞ』」という次第にはならない。
 と言うことは、本作の作者は、お題「奥」に振り回されたことになりましょうか?
  〔返〕 「お隣りは空いていますか」「ええどうぞ」 女一人旅いま危機迫る   鳥羽省三


(揚巻)
   親の手の届かぬ場所へのぼりゆく奥羽本線18の春

 終着駅は<上野>である。
  〔返〕 カラオケで今も人気のナツメロの大下八郎『ああ上野駅』   鳥羽省三  


(原田 町)
   高野山奥の院には白蟻の供養塚まで建ちてをるらし

 <社団法人日本しろあり対策協会>という団体が建立したものだそうで、「しろあり やすらかにねむれ」と刻まれているとか。
  〔返〕 墓碑銘は「チロ」の二文字人間の増上慢ここに極まる   鳥羽省三

一首を切り裂く(037:奥・其のⅠ)

2010年07月18日 | 題詠blog短歌
(tafots)
   お互いの耳穴の奥の苦さまで覚えていたね ゆるし合ってた

 いやはや、驚きました。
 あまりのことに、驚きを越えて感動さえさせていただきました。
 御仲睦まじくて大変結構ではございますが、其処までやるとは、「耳穴の奥」底まで「ゆるし合ってた」とは、吸いも絡みも知り尽くしたお方同士のなさることはやはり違いますね。
  〔返〕 耳穴の奥の底まで舐め合って愛し合ってた許し合ってた   鳥羽省三


(中村あけ海)
   ひきだしの奥から出てきた便秘薬 課長のお茶に混ぜときました    

 いついかなる時、どんな難題を持ち掛けられるかも知れないから、庶務課・中村様の「ひきだし」には、なんでも入っているのである。
 つまりは、庶務課・中村様ご自体が<東急ハンズ>化していることを余儀なくされているのである。 
 それにしても、「ひきだしの奥から出てきた便秘薬」を「課長のお茶に混ぜときました」とは、庶務課・中村様もお人が悪い。
 もしかしたら、件の「課長」さんとは訳有りなんでしょうか?
  〔返〕 下の始末してやりますと言ったりしじわりじわりと復縁迫る   鳥羽省三


(西中眞二郎)
   アクセサリーじゃらじゃら提げしザック負いて初老の奥様お出掛けと見ゆ
 
 「アクセサリーじゃらじゃら提げしザック負いて」とは、「初老の奥様」の「お手掛け」スタイルとしてはなかなかのものである。
 それにしても、「初老の奥様」とは、どちらの御大家(ごたいけ)の「奥様」のことでございましょうか?
 西中家の「奥様」なら「初老」ならぬ<お中老>、もしかしたら<ご大老>かも知れませんから、本作の「奥様」は、西中家以外のお宅の「奥様」に違いありません。
  〔返〕 アクセサリーじゃらじゃら下げたザック負い御奥様の民情視察   鳥羽省三


(翔子) 
   英語では何というのか奥付をまず開いては妄想遊び

 四句目までは大変宜しいが、最後の最後になって、やや詰めを欠いたきらいが有る。
 「妄想」という語に拘るならば、「妄想遊び」よりは<妄想に耽け>としたらいかがでしょうか?
  〔返〕 羅甸語で何と言ふのか奥付を先づ開いては妄想に耽け   鳥羽省三


(リンダ)
   奥深いはずの歌詠み欲深い想いに左右された顛末

 評者の経験からしても、「奥深い」「歌詠み」よりは「欲深い」「歌詠み」の方が多い。
 種田山頭火や尾崎放哉が、俳人であって歌人でないのが何よりの証拠である。
 <五七五>と詠んだだけではまだ満足せず、<七七>を加えずに済まないのが、歌人と言う「欲深い」人種である。
  〔返〕 <七七>は音数わずか十四でその十四が尽きせぬ未練   鳥羽省三


(陸王)
   つなぐのもさしのべるのもあげるのもかすのもみんな有為の奥の手

 「つなぐのもさしのべるのもあげるのもかすのもみんな」と、四句目までを意味有りげな「手」尽くしにして詠い、それを五句目で、「うゐのおくやま」ならぬ「有為の奥の手」で纏めた手腕はさすがである。
  〔返〕 貸さぬのも差し伸べぬのも挙げぬのも有為の奥の手切りたいからだ   鳥羽省三


(綾瀬美沙緒)
   奥さんと 呼ばれ振り向く 魚屋で 何とはなしに 隠す左手

 「左手」を「隠す」のは、指輪を嵌めていないからなのでしょうか、それとも、指輪を嵌めているからなのでしょうか。
  〔返〕 左手の中指隠し買うときは八百屋魚屋出血サービス   鳥羽省三


(畠山拓郎)
   条約を改正したる切れ者は陸奥宗光なり海援隊の出

 「陸奥宗光」は、NHKの大河ドラマ『龍馬伝』で御馴染みの人物。
  〔返〕 不平等条約改正功労者小村寿太郎四尺五寸   鳥羽省三  

『NHK短歌』観賞(加藤治郎選・7月11日放送)

2010年07月15日 | 今週のNHK短歌から
○ わが名「房」房子房ちゃんふうちゃんと呼ばれしが今はふうばあちゃん  (練馬区) かしまふさ

 一般的に言って、自らを「ふうちゃん」の座に置いたり、「ふうばあちゃん」の席を納まっていたりするような傾向のある女性は、ご当人はそれで満足していても、心ある人たちからは嫌われているのかも知れません。
 そうした、女性特有の無知と嫌らしさとを曝け出して詠んでいる点に於いては、本作は、特選一席に相応しい傑作かも知れません。
 この一首から私は、「婆短歌」への嫌悪感と現実感とを余す所無く感じ取りました。
  〔返〕 名の如くお頭も未だふさふさといつも元気な<ふうおばあちゃん>   鳥羽省三


○ 「一ねん一くみ一ばんあらいくん」孫よ父さんも同じだったよ  (徳島市) 新井忠代

 好みの問題でもありましょうが、私は、この一首に見られるような、姑と夫と孫(息子)との関係が堪らなく嫌いである。
 と、言うことは、私は、姑との仲が上手く行っていない、主婦の目線で本作を観賞していることになりましょうか?
 しかし、この姑の息子であり、作中の「孫」の「父さん」である夫が<マザコン>だったり、姑の「孫」である息子が、姑から<猫可愛がり>されていたりしたら、母としても、妻としても、嫁としても、立つ瀬が無いことでありましょう。
 ある種の嫌悪感を催させる、という点では、この作品は、前掲の<かしまふさ>さん作とどうように、現実感に溢れた傑作かも知れません。
  〔返〕 番号は一番だったが成績はビリかも知れぬアライ父さん   鳥羽省三
   

○ さらさらと流れるような文字を書く転勤族の小川くん去る  (佐賀市) 河原ゆう

 「さらさらと流れるような」「小川くん去る」が、発想の全てある。
 だが、それを繋ぎ一首に仕立て上げる、「文字を書く転勤族」もなかなかである。
  〔返〕 さらさらと流れるようには仕事せず小川課長は下子会社出向   鳥羽省三


○ 銀行は我に与えし番号を人名のごとくやさしく呼びて  (篠栗町) 末松博明

 銀行の窓口嬢は、「百番でお待ちの方、三番窓口へどうぞ」と「やさしく」呼ぶのである。
 その優しさは、ある種の<癒やし>を感じさせる程ではあるが、無利子同然の預金利子のことを考えれば、その程度の優しさは当然過ぎるかとも思われる。
 何はともあれ、銀行ででも、市役所ででも、病院ででも、番号で呼ばれたら、番号になり切るしか無いのが、現代というデジタル社会に棲息する私たちに必要な心構えである。
  〔返〕 百番の番号札を取ったなら百番になる素直なわたし   鳥羽省三


○ 居眠りをしてはならじと頑張つてゐる人の顔みな団十郎  (堺市) 石井宏子

 選者の加藤治郎氏曰く、「『団十郎』の『顔』とは、勧進帳の弁慶か」と。
 小学生だった頃の長男が、勉強中に居眠りしたいのを堪えているいるのを見て、勧進帳の弁慶も、狩人たちの弁当入れのベンケイも知るばずの無い妻が、同じようなことを言っていたのを思い出した。
  〔返〕 遅刻して賃金カットはたまらんと駅から先は短距離選手   鳥羽省三


○ わたくしもじぶんのことを「さっちゃん」とよんでいました菫咲くころ  (伊賀市) 松永里美

 「菫咲くころ」にどんな意味があると言うのでしょうか?
 加藤治郎氏らしい、太っ腹な選歌である。
  〔返〕 札ちょんの<さっちゃん>こと実の名は桜井左千夫社会科教師   鳥羽省三


○ 市役所の職員名簿の索引に伊藤由美子が十二人いる  (名古屋市) 伊藤由美子

 名古屋市の行政改革に果敢に挑み、市民目線に立った名古屋市政を実現しようとしている河村名古屋市長の差し当たっての目標は、<名古屋市役所・職員名簿>から、「伊藤由美子」さんを半減させることである。
  〔返〕 裕美子やら弓子・優美子を含めたら一体幾人「伊藤ゆみこ」が   鳥羽省三


○ 馬場さんの名入りのトマト今日も買うシールの笑顔に呼び止められて  (杉並区) 青木孝子

 本作の作者・青木孝子さんは、いわゆる<付加価値付き野菜>のマジックに嵌められた訳である。
 同じ畑で収穫したトマトでも、大きさの揃わないのや、形のいびつなのを、「生産者直売・捥ぎたてトマト・生産者・馬場三太郎」という「名入りシール」を貼って、直販スタンドで販売すれば、売価一割り増し、販売手数料二割減で売れるから、嘘のような本当の不思議な話である。
 JA依存体制から脱却することが、農家自立の要諦である。
  〔返〕 生産者を女名前にする事が売れ足速める秘訣だと言う   鳥羽省三  


○ 生ゴミにちぎって捨てる封筒の窓からのぞく私の名前  (府中市) 神島艶子

 本作の作者は、ダイレクトメールなどによく在る、あの「窓」付き「封筒」の中に入っている手紙を、中身を見ずに棄てたものと思われる。
 そういうダイレクトメールに限って、「応募者全員をグァム島に招待」などという特典が付いていたりするものである。
  〔返〕 紙ごみと生ごみを一緒くたやめて分別ルール守ろう   鳥羽省三


○ 「きれいな名前ですね」と麻酔医にほめられ一、二…意識なくなる  (加須市) 花輪純子

 <花輪>という苗字なら、それに続く名前が<純子>でも<美子>でも<春子>でも<澄子>でも<豊>でも<潤>でも<清>でも「きれいな名前ですね」と言われるに違いない。
 私の知り合いの<花輪寿美子>さんは、<荒川清>くんと結婚して、<荒川寿美子>さんになるはずであったが、結婚寸前に二人で相談して、<花輪清・花輪寿美子>夫婦が誕生した。
 と言っても、<清>くんが<花輪>家に婿入りした訳では無く、<清・寿美子>との相性がいいという理由で、苗字として、<荒川>を選ばずに<花輪>を選んだという訳である。
 という話は、私の創作だとしても、本作は、今回の入選作中のピカ一の出来栄えである。
 私が選者なら、断然、この作品を特選一席として推奨するだろう。
  〔返〕 「いわく有り気なお名前・・・」と言われて失神 気づいてみたら手術終えてた   鳥羽省三


○ 男なら空女なら花にしようだからお腹を空、花と呼ぶ  (名取市) 河野大地

 「空」にしろ「花」にしろ、現代社会では最もトレイディーと考えられている名前ではある。
  〔返〕 をんな「空」をとこ「花」でも面白しいづれにしても健やかであれ   鳥羽省三


○ ユーミンの曲は思い出多すぎてピントが甘い写真見るよう  (札幌市) 星ゆう子

 少し意地悪く考えれば、本作の作者は、「ピントが甘い写真」を全面的に肯定しているようにも思われるが、ここは「ピントが甘い写真」を見る時の目くるめくような感じが、自分がかつて愛唱していて、「思い出」が多過ぎるくらい多く在る、「ユーミンの歌」と似ていると言うのでありましょう。
  〔返〕 ユーミンはいつもひらひら歌ってた独身時代のわたしのように   鳥羽省三