臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

古雑誌を読む(角川「短歌」1015年1月号・そのⅡ)

2016年04月26日 | ビーズのつぶやき
 昨夜の十一時過ぎ、「通りすがり」と称する方からアドレスの無いコメントが寄せられた。私は、正体不明の方々から寄せられたコメントやメールは、一読したあと削除しているので、その全貌を此処に示すことは出来ませんが、察するに、その趣旨は、私が昨日の記事で「角川『短歌』などの商業誌に作品を発表している『プロ歌人』」と書いたことに対して、件の「通りすがり」の方が大きな怒りを感じたことが原因で、その「通りすがり」なる御仁は、当ブログの管理者たる私に抗議をしたかったのであるらしい。
 ところで、私は昨日の記事の中で、「角川『短歌』などの商業誌に作品を発表している」歌詠みの方々のことを、単にプロ歌人と呼んだのでは無くて、鍵括弧付きで「プロ歌人」と呼んだのでありました。
 鍵括弧の在る無しに応じて、言葉の意味には少なからぬ違いが生じて来る、ということは件の御仁は知らなかったのでありましょうか?
 それとは別に、例えば「小説新潮」などの商業誌に小説を掲載している方々のことを、世間では「プロの小説家」と呼んでいることは何方に聞いても間違いのない事実である。
 ならば、小説と短歌との違いがあるにせよ、角川「短歌」は、紛れも無い商業誌であるから、その商業誌に作品を発表している(投稿欄は除く)歌人のことを「プロ歌人」と呼ぶことに何の問題がありましょうか?
 だとするならば、件の「通りすがり」の方は、私か「プロ歌人」と鍵括弧付きにしたことを問題にし、抗議するべきである、と、件の記事の執筆者の私は思うのであるが、当ブログの愛読者の方々のご意見は如何なものでありましょうか?
 また、「商業誌に小説を発表している小説家」が「プロの小説家」であり、「商業誌に短歌を発表している歌人」が「プロの歌人」でなかったとしたならば、「短歌第二芸術論」の再来とも言うべき事態とは相成るのでありましょう。


〇  新聞を切りてスクラップするのみのはかなき日課頼りてゐたり   大滝貞一
〇  久しぶりに「現の証拠」を見つめゐて譲らむものはたくましく生く

 本稿の目的は、掲載作品の<悪口>を言うことにあったはずなのであるが、その目的を忘れて、思わず<納得>させられてしまう作品でありました。
 但し、掲出の二首にブロ歌人たる大滝貞一氏の力量が充分に発揮されている、とは私は思いもしませんが。


〇  朝起きて朝また起きて紺ふかき子が郵便の配達に行く  佐伯裕子

 「朝起きて朝また起きて」とは、「毎朝」という意味でありましょうが、「紺ふかき」に込められている作者の「思い寄せ」がいま少しはっきり解りません。
 それにしても、プロ歌人・佐伯裕子氏の御祖父殿は、あの日本陸軍での謀略部門のトップとして満州国建国及び華北分離工作に中心的役割を果たした人物・土居原賢二である。
 土居原賢二氏は、大方の世評とは別に、「家庭の人」としては、温厚で優しいお父さんであり、お爺さんであった、とのこと。
 その土居原賢二氏の曾孫さんが郵便配達をししている世の中になってしまったのである。
 この事実を以って、私・平成の逸民は「民主主義」と称しているのでありましょうか?


〇  雑草の騒立ちやまぬ戸のめぐり何処にでも在る不幸が匂う  佐伯裕子

 「何処にでも在る不幸が匂う」という下の句の断定は、「雑草の騒立ちやまぬ戸のめぐり」という上の句の光景からの必然的、即ち、「予定調和」的に導き出されたものである。
 プロ歌人中の「プロ歌人」としての佐伯裕子氏作らしからぬ凡作である。


〇  郵便配達研修に行く子の背中 世間は怖くてただ懐かしい  佐伯裕子

 世の中はすっかり変わってしまったのですから、土居原将軍の曾孫さんが「郵便配達研修に行く」ことだって少しも不思議なことではありません。
 それなのに、ママったら「世間は怖くてただ懐かしい」なんちゃってる?   

古雑誌を読む(角川「短歌」1015年1月号・そのⅠ)

2016年04月25日 | ビーズのつぶやき
 退屈で退屈で生きる時間を持て余している、という訳ではないが、またもや去年の角川「短歌」の1月号を拾い読みしている。
 件の古雑誌には、昨年度の「角川短歌賞」の受賞作「革靴とスニーカー」(鈴木加茂太作)が掲載されていて、今回、私がこれを押し入れの底から引き摺り出して来て拾い読みしている理由の一つは、この連作を再読して、その出来栄えとやらをとっくりと拝見したかった、という点にもあるが、それとは別に、「短歌総合誌」と言われているこの商業誌に作品を発表している、いわゆる「歌人」たちの作品がどれぐらいのものなのか?という点にもあったのである。
 そこで今回は、この雑誌に掲載されている「プロ歌人」たちの作品を鑑賞してみて、その出来栄えなどに就いて触れてみたいのであるが、そんなに風呂敷を大きく広げてしまったら収拾がつかなくなってしまうので、今日のところは、この雑誌に掲載されているプロ歌人たちの作品の中でも、特にプロ歌人の作品らしからぬ作品だけを抜き出し、それらの「作品の何処がプロ歌人らしからぬ表現であるか?」といった点に就いて、斯道の素人ながらも触れさせていただきたいと思います。
 それではページを追って、掲載作品の論評ならぬ<悪口>を述べさせていただきます。


〇  葉を茎を腕もてはらひつつ走りわが血のいろを見て目覚めたり  横山未来子

 巻頭グラビア「華道家×『短歌』」に掲載されている、横山未来子さんの作品3首の中から、2首目の作品を抜き出してみました。
 横山未来子さんは、「硬質の抒情と透明感溢れる歌の世界」で以って、多くの短歌ファンから注目され期待されている歌人であり、斯く申す私も、彼女の持ち前の「言語感覚の鋭さ」や「言葉の選択の細やかさ」に就いては、かねてより感服していて、彼女こそは、現在の私が最も期待し、羨望している若手歌人(否、彼女は今や中堅歌人)の一人なのてある。
 ところで、掲出の作品には取り立てて指摘しなければならない程の欠点が見当たりませんし、むしろ傑作と言っても宜しくくらいの出来栄えなのである。。
 しかしながら、この作品を、今回の企画「華道家×『短歌』」から離して、屹立した一首の作品として、解釈し鑑賞した場合、言葉の選択及び斡旋の粗雑さが、少しく指摘されないではありません。
 横山未来子さんと言えば、私が直ぐにイメージするのは、車椅子に乗った痩身美顔のあの妖精のような姿である。
 掲歌中の「葉を茎を腕もてはらひつつ走りわが血のいろを見て」までは、作中主体の夢中の出来事の報告でありましょうが、この叙述からイメージされるのは、「一人の美しい少女が諸腕を血で染めながら藪漕ぎをしている光景」である。
 私もかつては世間並の山男でありましたから、<藪漕ぎ>の経験ぐらいはありますが、藪漕ぎをする場合は、樹木の「葉や茎を腕もてはらう」のでは無くて、「鬱蒼として生い茂る樹木の鋭い棘のある枝葉を腕もて」払い、時には、全身まるごと傷付きながら、それこそ一艘の小舟が荒い波間を漕ぎ分けて行くようにして、鋭い茨や笹藪の中を搔き分け搔き分けしながら進んで行くのである。
 掲歌は11ページに掲載されていて、それと見開きの関係にある10ページには、池坊流・華道家の原道子氏が活けられた立花のカラー写真が掲載されているのであるが、角川「短歌」の巻頭グラビア「華道家×『短歌』」は、<生け花と短歌という我が国伝統の二大芸術のコラボレーション>が売りものであり、横山未来子さんの作品3首は、原道子さんの生け花と互いに照らし合い、共に光り輝かなければならない関係にあるのでありましょう。
 だが、他の二首はともかくとして、「葉を茎を腕もてはらひつつ走りわが血のいろを見て目覚めたり」という掲歌の内容は、一読して解る通り、「諸腕さながら血塗れになっての藪漕ぎの光景とそれに気が付き目が覚めた時の作中主体の驚き」に他なりませんから、その点に就いては、車椅子生活の作者・横山未来子さんの経験不足が災いしての作品と判断せざるを得ないのである。
 と、まで申し上げましたが、原道子さん作の生け花は、見方によっては、「藪漕ぎ」するに相応しいジャングルのようにも見えましょう。
 したがって、掲歌が、仮に「枝や葉を腕もてはらひつつ走りわが血のいろを見て目覚めたり」となっていたとしたら、私は是を傑作として褒め讃えたことでありましょう。

 16ページから21ページに掲載されている岡野弘彦作の連作31首「わがの蓮はな咲け」は、いずれも氏の年齢を感じさせない佳作・傑作揃いである。
 それにしても、師・釈迢空直伝のあの一字空けや句読点の見られる表記はどうにかなりませんかね!
 岡野弘彦氏と言えば、今や我が国歌壇の総帥、いつまでも恩師・折口信夫に呪縛されていることはありません。

 本稿の所期の目的は「作品の何処がプロ歌人らしからぬ表現であるか?」といった点に就いての指摘にあったのでしたが、22ページから27ページにかけての尾崎左永子氏の連作「時を刻む」を拝読していたら、その目的を失念してしまいそうになりました。
 尾崎左永子氏の作品としては、取り分けての傑作とも言えないかも知れませんが、「遺すべきことば記すと筆持てど事務処理のほか何ありといふや」には、全く以って降参。
 「事務処理のほか何ありといふや」と言われてみれば、私も茫然としてパソコンのキーを叩く左手の指をポケットにしまうしか術がありません。

 岡井隆作の31首連作「ぼくに似た人」の19首目「妻は(でも)ひよどりの声を聴いたつて言ふ雨の中 ぼくは聴かない」にも「ぼく」なる人物が登場しますが、彼も亦「ぼくに似た人」でありましょうか?

 三枝浩樹氏も今や、老舗「沃野」で<代表>という肩書付きの歌人である。
 それかあらぬかは判りませんが、彼も亦、大御所・岡野弘彦氏、岡井隆氏並のスペースを与えられて31首連作「二〇一五年夏物語」を発表している。
 それにしても「二〇一五年夏物語」とかいうタイトルは、流行遅れの同棲ソングみたいで工夫が感じられません。
 彼も間もなく七十歳、「ポタリング」なんかやらかしていていいのかな?
 ずっこけて骨折したりしたら、山本かね子先生が悲しみますよ。

 大滝貞一作「葡萄実りぬ」及び、佐藤通雅作「逆走」は、「可もなく不可も無し」といったところでありましょうか?
 佐藤通雅作の一首「空色のランドセル負ふ男子女子性差の吃水としてのこの色」は、「男子女子」を「をのこめこ」と読ませているが、やや無理がありませんか?
 それとは別に、「空色(のランドセル)」を「(男子女子の)性差としてのこの色」とした点には、着眼点の良さが感じられます。

土岐友浩第一歌集『Bootleg』を読む 書き込み中

2016年04月24日 | ビーズのつぶやき
 <著者プロフィール>土岐友浩(とき・ともひろ)1982年8月、愛知生まれ。歌人、精神科医。京都大学在学時に「京大短歌」に入会し作歌をはじめる。2009年、瀬戸夏子、服部真里子、平岡直子、望月裕二郎、吉岡太朗の5人と同人誌「町」を立ち上げる。同誌は2011年に合同歌集『町』を発表して解散。2013年より同人誌「一角」を個人発行している。2015年、連作 “WALK ALONE” 30首が第26回歌壇賞候補作品に選ばれる。『Bootleg』は、2009年から2015年までの作品206首を収めた彼の第1歌集である。

〇  いまはもうそんなに欲しいものはない冬のきれいな木にふれてみる

〇  牛乳を電子レンジであたためてこれからもつきあってください

〇  生活というのはわからないけれどあなたと水を分かち合うこと

〇  本棚の上に鏡を立てかけてあり合わせからはじまる暮らし

〇  一台をふたりで使うようになるありふれたみずいろの自転車

〇  自転車はさみしい場所に停められるたとえばテトラポッドの陰に 

〇  クーラーを消してお米を磨いでいる今日という一日のほとりに

〇  ゆびさきに春の砂糖をつけながらドーナツの輪をちぎる仕草は

〇  もうひとりではなくなって青々と苔のひろがる神社を歩く


〇  階段を転がるように降りていく枯れ葉は風の靴であること

〇  フルーツのタルトをちゃんと予約した夜にみぞれがもう一度降る

〇  この道が暗くなったらぴかぴかの雪をあなたの役に立てたい

〇  粉雪が落ちてくる夜、よく撮れた月の写真を見せてもらった


〇  まるでそこから浮かび上がっているようなお菓子のそれでこそビスケット

〇  暗くしたホールのなかのいちまいのスライドに映されるみずうみ



〇  例えれば冬のカラオケボックスの電話口から伝える言葉

〇  つま先を上げてメールをしていたらかかとで立っていたと言われる

〇  人びとが代わるがわるに手を伸ばし橋から突き落とされたひかり

〇  この街でもしもあなたとはぐれたらリンデンの木を目印にする

〇  八月の僕だけがいる教室の机のかどではじけたひかり

〇  ぴったりの場所はどこにもないけれど海の浅瀬をあなたは歩く

〇  公園がいちおうあって森があるあなたが蛇を見たという森

〇  すずかけの枝葉に傘がぶつかっていちめんにシルエットをおとす

〇  ヴォリュームをちょうどよくなるまで上げる 草にふる雨音のヴォリューム

〇  摘みとった白詰草のくびすじの、リラックマとかもう飽きました



〇  空白について考えようとしてそのひとが立つ窓辺を思う

〇  そのひとは五月生まれで「了解」を「りょ」と略したメールをくれる

〇  勧めようとしている本を読み返す傘とかばんを近くに置いて

〇  マッチ売りの少女にもしも手袋と母があればと思う街角  
    

〇  あざやかな記憶のしかし桜草死を看取ったらあとは泣かない



〇  夜になるたびに姿をかき消してしまうビジネスホテルも山も   

〇  いつまでも暑い九月の坂道を降りたところに立っている蔵

〇  いつまでも雨にならずに降る水の、謝らなくて正解だった

〇  あしもとを濡らしてじっと立ち尽くす翼よりくちばしをください



〇  発泡スチロールの箱をしずかにかたむけて魚屋が水を捨てるゆうぐれ



〇  ぼんぼりがひと足先に吊るされてやがて桜の公園になる

〇  習作のようにたなびく秋雲を見ているうすく色が注すまで




〇  やり方は知らないけれど春先のゲートボールをころがるひかり

〇  ゆっくりと時は流れているけれどなにもできそうにない雨の日

〇  少年の世界のすべてではないが秋の野山が近づいてくる



〇  なにもわかってない、あなたは。というのを思いがけずほめ言葉でつかう

〇  さっきまで鳥がとまっていたような配電線をたどって帰る

〇  ほの暗い森を歩いているように湿った土が足につく墓地

〇  することはそれほどなくて図書館の利用カードの住所を変える

〇  乗客は乗り込んだのに雨の日のドアをしばらく開けているバス

〇  つまさきを上げてメールをしていたらかかとで立っていたと言われる

〇  ライラック思い描けばえがくほどさようならこの手を離れゆく

〇  てのひらを風にかざしているようにさびしさはぶつかってくるもの

〇  鳴き声を設定したらよさそうな亀のかたちの飛び石を踏む

〇  まっさらなノートのような思い出が音もなく降りこぼれる僕に

〇  ため息を眺めていたら指差したゆびが消えたら春の花々


〇  ライラック思い描けばえがくほどさようならこの手を離れゆく

〇  てのひらを風にかざしているようにさびしさはぶつかってくるもの

〇  おのずから輝くゆえに影のない黄金の樹の真下に僕は



〇  僕の手を離れて水になっている母を亡くした春の記憶は

〇  入れておいたバケツのなかをゆっくりとゆっくりとウニはのぼって逃げた

〇  八月の僕だけがいる教室の机のかどではじけたひかり

〇  生まれ変われるというのは嘘だからてんとう虫をあなたに渡す

〇  台形にととのえられた水田がかぼそく電柱をうつしとる

〇  こうやって座っていても草上の午餐を僕が知ることはない

〇  予報では雨がもうすぐ降るという青いシートのある田んぼ道

〇  ため息を眺めていたら指差したゆびが消えたら春の花々

〇  ほの白く月のひかりがさしている川原に虫の声真似をする

〇  狼が、僕がそのとき訪れる世界一大きなレストラン



〇  牛乳を電子レンジであたためてこれからもつきあってください

〇  歩いたらそこまで行けるものとしてたとえば宇宙センターがある

〇  海に来て何もできずに立っている海の生きものではない僕よ

〇  できるならこうしてずっとプリンタを買わずに済ませたい雨上がり

〇  あの海の音がきこえてくるだろういまの電気がなくなったとき

〇  あの水の音が聞こえて聞いている夜明けの川を流れる水の

〇  風速を平均したら4ノット もらった梨と買ってきた梨 

〇  どちらかと言えばおとうとより父と遊んでばかりいたような夏

〇  ああ僕が思い出すのは島で見たあの星空だ、あの海よりも

〇  遠くから見てもそれとはわからないけれど桜の木が立っている

〇  雨らしきものはけっきょく降らなくてスクールバスが県道を行く

〇  肝心なことはともかく夏草を見てきたことを話してほしい

〇  することはそれほどなくて図書館の利用カードの住所を変える

〇  夕暮れがもうすぐ終わる対岸に雪柳ふっくらとかがやく

〇  歩いたらそこまで行けるものとしてたとえば宇宙センターがある

〇  ようこそ、新しい家へ。両耳に鈴の入っているぬいぐるみ

〇  帰るときかなり明るくなっているけやき並木をふたたび歩く

〇  あきらかにちょっとおかしい看板を広い通りに出しているカフェ

〇  この道が暗くなったらぴかぴかの雪をあなたの役に立てたい

〇  遠くから見てもそれとはわからないけれど桜の木が立っている

〇  あの島で食べた魚のからあげを思い出すとは思わなかった

〇  よく冷えた缶コーヒーを飲みながら違いがわかることのかなしさ

〇  まっすぐに伸びた線路が表情をあかるく変えるように曲がった

〇  清明神社近くの新築オール電化マンションの登場です

〇  届いても届かなくなるこの声が夕焼けのなか手を上げている

〇  習作のようにたなびく秋雲を見ているうすく色が注すまで

〇  あの長いロンダルキアの洞窟を抜け出たような冬のゆうぐれ

〇  言葉にはできないことが多すぎて菜の花の〈菜〉のあたりに触れる

〇  来た道を歩いて帰るさっき見た花火のことをずっと話して

〇  なんとなく空がぼんやりしはじめる山と山とが重なるあたり

〇  砂浜はまだつめたくてあなたなら僕よりもっと遠くまで行く

〇  夕空が酸化していくこの道を血だらけになるまで歩きたい

〇  あざやかな記憶のしかし桜草死を看取ったらあとは泣かない

〇  ヴェランダは散らかっていて六月の台風がもうじきやってくる

〇  帰るときかなり明るくなっているけやき並木をふたたび歩く

〇  ローソンで缶コーヒーと水を買う日常という時に備えて

〇  夕食を終えてしばらくしたあとに普通の服で見に行く蛍

〇  ゆっくりと時は流れているけれどなにもできそうにない雨の日

〇  ひそやかな暮らしのなかで中継の名人戦を見ているゆうべ

〇  どうしようもなく暑い日にあおぐ手を止めてうちわの柄を噛む子ども

〇  はてしなくつづく世界の片隅に光のふりそそぐ半夏生



 ◆下掲の「一首評」は<早稲田短歌会>のブログから転載したものであるが、土岐友浩の短歌を「読む」に際しての参考資料として無断転載させていただきました。。

    〇  風速を平均したら4ノット もらった梨と買ってきた梨 (土岐友浩)

 早稲田短歌会の4人(瀬戸夏子・平岡直子・望月裕二郎・服部真里子)と、京大短歌会の2人(土岐友浩・吉岡太朗)によって創刊された同人誌、『町』から引いた。「by moonlight」と題された、10首連作の2首目の歌である。
  
 まず上句で、この作中主体は「風速」というものをごくあっさりと「平均し」てしまう。「風速(ふうそく)」「平均(へいきん)」の長音に似た音(厳密には長音とは呼べないだろう)の少し軽い感じや、「平均したら」の「た」音のぺったりとした感じ、そして「4ノット(よんのっと)」というオ行音・「ん」音・促音で構成されるどこか間の抜けた音とリズムが、作中主体の「平均」するという行為を「ごくあっさりと」したものに見せるのに貢献しているように思われる。
 「平均し」た結果、その「風速」は「4ノット」という穏やかな値をとる。「4ノット」の穏やかな風を感知するのは、作中主体の肌だ。肌、即ち「自己と世界との境目であるもの」が感じるはずの風を「平均し」、ひとつひとつの風の微差にはあっさりと目を瞑ってしまうことによって、この作中主体を取り巻く世界は、どこまでも「フラット化」される。
 平均4ノットの穏やかな風が吹く、「フラット化」された世界に登場するのは、「もらった梨と買ってきた梨」というふたつの「梨」である。イメージ的には、梨がふたつころん、ころんと並んでいる状態だ。「もらった」「買ってきた(かってきた)」というカタカタした韻律も手伝ってだろうか、非常にかわいらしい。
 しかし、一見何でもない平凡な図であるようなのだが、考えているうちにだんだん「この世界はどこかおかしいのではないだろうか」という気分にもなってくる。そのような静物画的な魅力も、この下句は備えていると言っても良いだろう。
 このふたつの「梨」に対して、作中主体は、ただひたすらに穏やかで静かな視線を向けているように思える。傍から見れば大差ないようなふたつの「梨」であるのだが、誰かから「もらった梨」と、自ら選び取って「買ってきた梨」とは、作中主体にとっては全く別個の存在であるようだ。全く別個の存在ではあるのだが、そのいずれもが、彼(とは限らないが、便宜上「彼」としておく)にとって大切なものであるように感じられる。大切なものであるからこそ、彼は穏やかで静かな視線をそれらに向け、それらの「微差」(「もらった」/「買ってきた」)を認めているのであろう。
 ふたつの「梨」の「微差」を認めるという下句における作中主体の態度は、「風速」をあっさり「平均し」てしまう上句の態度とは、少々異なるものだと思う。それは、上句・下句それぞれで、作中主体が向き合っているものが異なるからなのであろう。
 上句において、作中主体は世界に向き合っている。その世界に対して、作中主体は「風速を平均」するという処理を行う。前述の通り、世界を「フラット化」しているのである。下句において、作中主体が向き合っているのはふたつの「梨」、すなわち彼にとっての「大切なもの」だ。それらに対しては、彼は穏やかで静かな視線を注ぎ、「微差」までをしっかりと感知する。
 このように考えると、自己の認識によって「フラット化」された世界において、自分にとっての「大切なもの」に対しては穏やかで静かな視線を注ぎ、その「微差」までもを確かに認めるという、作中主体の姿が浮かび上がってはこないだろうか。
 しかし、同時に考えておきたいのは、この作中主体による世界の「フラット化」が、決して悪意に基づいている訳ではないように思われる点である。ここで言う「フラット化」とは、世界に対しても穏やかで静かな視線を向けている、と言い換えても良いだろう。その視線は、ふたつの「梨」に向けられるものとはほぼ同質のもので、違いは「微差」を認めるか否かという一点である。
 とは言え、世界に対して「微差」を認めないのも、決して作中主体の世界に対する抵抗などではないように思える。作中主体のそのような世界に対する態度も、ふたつの「梨」に「微差」を認める態度と同じように、どこまでも自然体であるように見えるのだ。
 おそらくは、「平均」するという行為がごくあっさりとしていて、何となく穏やかな手つきに感じられるからだとは思うが、このような世界に対する処理に悪意がほとんど感じられないのは、現代短歌においてはかなり珍しいケースなのではなかろうか。――と、くどくどと説明してきた後にこんなことを言うのもおかしいが、穏やかな「風」のイメージと、ふたつの「梨」のイメージを重ね合わせるだけでも、シンプルに十分魅力的な歌なのではなかろうか、とも思う。寧ろ、こうやって筋道を立ててきっちり読もうとするよりも、前述した「この世界はどこかおかしいのではないか」と思わせるような、静物画的な魅力を味わうほうが、より適切な鑑賞だったのかもしれない。



    

結社誌「かりん」2016年2月号より(若月集)訂正版

2016年04月18日 | ビーズのつぶやき
〇  レントゲンでの存在感はいまやなし五つに打ち砕かれた奥歯よ    (川崎) 青山香澄

 「小春日和」という平凡極まりないタイトルの八首連作(掲載分)中の第一首目。
 川崎市在住の青山香澄さんの作品が結社誌「かりん」に登場したのは今号からである。
 察するに、彼女が「歌林の会」に入会したのは昨年末あたりのことであり、出詠は今月からのことでありましょう。
 それにしても驚くのは、本首に限らず、掲載作品全ての完成度の高さであり、口語・現代仮名遣いに拠る作品、しかも字余り作品でありながらも、そのリズム感覚の素晴らしさである。
 作中主体(=作者か?)は、自らの「奥歯」が齲歯状態になっているので、昨年の年末の数日間を歯医者通いをしているのでありましょう。
 「レントゲンでの存在感はいまやなし」という、軽快な口語で以って詠い起こされている本首は、「奥歯」を抜いた後の、虚脱感にも似た何か異様な感覚、ある種の欠落感を述べているのである。
 歯科医師が、抜歯に先立って患者の治療予定箇所を「レントゲン」撮影することは、歯科治療の定番である。
 また、昨今の歯科医師は、商売上手でなのかどうかは定かではないが、患者さんの治療を急ぐことは決してありません。
 その初診時には、歯科医院特有の、あの電気椅子みたいな椅子に座らせられた患者さんに口を大きく開けさせて観察し、「あなたの奥歯は虫歯になっていて、このままの状態で放っていては、年若くして歯欠け婆さんになってお嫁にも行けなくなってしまいます。だから、あなたはしばらくの間、当歯科医院に通って治療しなければなりません。」とか「あなたの奥歯は歯槽膿漏状態になっていて、このまま放っておくと、未だ三十歳前なのに歯欠け婆さんみたいになってしまいます。あなたはもしかして、奥歯だから大丈夫だと思っているのかも知れませんが、奥歯が歯槽膿漏に罹ってしまうと、頬っぺたの辺りが、あの不二家のぺこちゃんのみたいに凹んでしまい、女性としての魅力が十分の一以下になってしまいます。私の見るところ、あなたは十人並み以上に美しく、魅力的な女性です。だから言うのであるが、この美しい女性がたった数本の歯が原因で、これから先、お嫁にも行けないで不幸な人生を歩まなければならないとしたら、人の命を守り、人間社会に倖せと健康を齎す存在としての医師たる私の信念に背くことにもなり、第一に私の美学と正義感が、あなたをそうした惨めな状態に落し込んでしまうことを許しません。そこでお願いですが、あなたは当分の間、そう、一週間に一度ぐらいずつ、当院に通って奥歯の治療することに専念なさっては如何でありましょう。こうした私の提言にあなたがご同意なさるならば、今日のところは、先ずは奥歯のレントゲン撮影と行きましょうか。でも、何も怖がることはありませんよ。レントゲン機械があなたの顔に嚙み付いて来るような事態に見舞われることは決してありませんから。」とか何とか仰って、早速、彼女の頬を強引にレントゲン機械の受け台に据え付け、治療予定箇所の撮影に及ぶのである。
 仮に事の運びがこうしたことであるとしたら、その翌週の通院日には撮影結果の報告が為され、肝心要の抜歯は翌々週の通院日に行われることになり、その後数回の歯医者通いを、本作の作者・青山香澄さんは余儀なくされたことでありましょう。
 抜歯後、未だ残っている部分麻酔の秘めやかな匂いに酔い痴れながらも、患者さんが、自分の舌先で以って、抜歯したはずの奥歯の辺りを探ってみるのが、抜歯された患者として、人間としての常であるが故に、本作の作者も亦、当然のことながら、そうした探索行為を敢行したことでありましょう。
 然るに、何と驚いたことに、在るべきものが在るべき箇所に無い!
 彼女の奥歯は、彼女が部分麻酔の香りに酔い痴れていた間に、忽然として彼女の口中から消え失せてしまっていたのである!
 その事を確認した一瞬、彼女は敏感にも、「レントゲンでの存在感はいまやなし」と感じ、それと同時に「五つに打ち砕かれた奥歯よ」と、永遠に失われてしまった自らの奥歯に対して、限り無い愛おしみの情を感じ、ある種の欠落感をも感じたのでありましょう。
 女性が自分の奥歯を失ってしまった時に感じる欠落感は、或いは、処女喪失とも共通していることなのかも知れません?
 それはともかくとして、この佳作を「レントゲンでの存在感は→いまやなし←→五つに打ち砕かれた奥歯よ」と、三行詩のリズムで音読し、その後、短歌としての句切れを確認するようにして、「レントゲン/での存在感は/いまやなし/五つに打ち砕/かれた奥歯よ」と、句割れ句跨りの見事さに酔い痴れながら音読する時に味わう、筆者のゴツゴツした爽快感は、他に比類がありません。
 短歌結社「歌林の会」の主宰・馬場あき子氏も、今や、九十路を歩む人となってしまったのである。
 人間、誰しも、二百歳の生命を造物主から約束されている訳ではありません。
 詠歌生活の晩年、主宰人生の晩年を前にして、私の尊敬する馬場あき子氏は、良き若者、素晴らしき後継者、将来、我が国の短歌世界を背負って立つような若い人材を獲得なさったのである。
 馬場あき子先生、真に以っておめでとうございます。
 才媛、青山香澄さんのご指導をこれからも宜しくお願い致します。

  
〇  舎人ライナーの最後尾に座れば五年間の思い出から私遠ざかっていく

 作中の「舎人ライナー」の正式名称は、「日暮里・舎人ライナー」であり、「東京都荒川区の日暮里駅と足立区の見沼代親水公園駅を結ぶ、東京都交通局が運営する案内軌条式鉄道路線」である。
 作者の「私」は、「舎人ライナーの最後尾に座」っていて「五年間の思い出から」「私」が「遠ざかっていく」ような感覚に陥っているのであるが、これは、それまでに経験したことのない事態に見舞われて、自らの過去からの遊離感覚とでも言うべき、特殊な精神状態に陥っていることを示しているのでありましょう。
 作者は、現在、川崎市に居住しているとのことであるが、過去に於いて「東京の下町中の下町」とも言うべき、東京都荒川区か足立区界隈で「五年間」の学生生活を経験なさっていたのかも知れません。
 だとしたら、「五年間」とは、大学の通常の就学期間の「四年+一年」ということになり、作者の学生生活は、一年の留年期間も含むものであっただけに、いろいろと喜怒哀楽・愛別離苦に満ちた期間であったのでありましょう。
 だとしたら、作者は今しも「舎人ライナーの最後尾に座」し、通り過ぎて行く沿線風景のとの別れ、自らの過去との別れを惜しんでいるのでありましょう。
 「舎人ライナー〈の〉最後尾に座れば→五年間の思い出から→私→遠ざかっていく」という、短歌の定型リズムを破らんとする、大胆なる試みが感じられる傑作である。
 ところで、昨今の「かりん」誌上に見られる旅行詠には、海外旅行詠があまりにも多い。
 その一因は、為替レートとの関わりで、国内旅行と比較して海外旅行が格安な点にもありましょうが、穿った見方をすると、自らの貧しい詩想を以ってしては、国内から詠歌対象とするに相応しい光景を喪失してしまった凡百の歌人ちゃんが、自らの詩想の貧困を棚上げにして、目新しい海外の光景に着目した結果としての現象でありましょう。
 然るに、本作の作者・青山香澄さんは、たかだか十キロ未満の近距離を走行するに過ぎない「舎人ライナー」に乗車して、斯くもゾクゾクと興奮し、斯くも完成度の短歌作品を詠んでいるのである。
 そういった次第で、私はこの際、本作の作者・青山香澄さんにお願いしておきますが、結社・歌林の会の会員の中には、お金と暇を持て余し、ヨーロッパ旅行ならまだしも、「この際、南米かアフリカにでも足を運んで、何か目新しい題材を手に入れ、斬新な作品を発表して、歌仲間に自慢してやろう」などと企んでいる、不心得な歌人ちゃんが存在するやも知れません。だが、貴女は決して、彼らの尻馬に乗ったりしてはしてはいけません。
 驕る平家は久しからず、ゆめゆめ油断してはなりませんぞ!
 

〇  抜いて間もない親知らずが今まであった場所舌でなぞれば感傷的になる

 「抜いて間もない親知らずが→今まであった《場所=舌》でなぞれば→感傷的になる」と読まれ、抜歯後のセンチメンタリズムをよく表し得ている一首である。
 今の作者(=作中主体)は、確かに何か大事なものを失ってしまったのであり、今の彼女は、そうした処女喪失にも似た感覚に酔い痴れているのでありましょう。
 本作は、巧まずして鑑賞者の私に品格の高いエロを感じさせる佳作である。
 得ることに拠って得られる満足感よりも、失うことに拠って得られる喪失感の方が、女性を詩人にする度合いが格段に高いのである。
 〔反歌〕  失った後のさびしさが彼女を詩人にさせ娼婦にもするのである  鳥羽省三


〇  十二月の間違いみたいな春の日は四月のことに思ひ巡らす

 やや強引な言い方ではあるが、「『十二月の』『春の日』」とは<小春日和>のことであり、その小春日和は、「『十二月』としては『間違いみたいな』な好天に恵まれた一日」であるだけに、作者をして、「四月のことに思ひ巡ら」せしめるのでありましょう。
 八首連作中の唯一の凡作とも思われるが、作者は「四月」に如何なる思い出を有しているのでありましょうか?
 まさか、五年間同棲していた頭の悪い男性と飛鳥山に花見に出掛けた、といったような「四月の思い出」ではありませんよな?


〇  期待と不安の感触は似ている春の日に足の裏から這い上がる予感

 「期待と不安の感触は似ている」という提言には納得させられます。
 「春の日に足の裏から這い上が」って来るのは、如何なる種類の「予感」でありましょうか?
 「春の日に足の裏から這い上が」って来るのは、水虫、田虫、蠍に蚯蚓に蛇の類でありましょうが、作者は、或いは、蛇蝎にも似た男性が目の前に現れて、自分の身体を舐めたり、摩ったりすることを期待しているのでありましょうか?
 生々しい性感覚が感じられる一首ではある。


〇  知らない土地で迎える朝は好きだけど夜は泣きたくなったりもする

 才媛とは言えども、作者も亦、若い女性に過ぎませんから、そうしたことも在り得ましょうか?
 〔反歌〕  知らない土地で巡り合った女性と褥を共にした後朝の別れの朝は嫌い  鳥羽省三


〇  浴びせるような愛情よりも素っ気なさの中のふとした優しさがいい

 才媛の詠歌力を以って為した作品としては、やや甘さが目立ちますが、若い女性の心理としてはそうしたものかも知れません。


〇  便箋に書かれた文字も内容もそっけないのに何度も見返す

 直前の一首に類似した内容であるが、「便箋に/書かれた文字も/内容も/そっけないのに/何度も見返す」との、言葉の運びの見事さが魅力である。