臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

古雑誌を読む(角川「短歌」1016年10月号・そのⅡ)

2016年10月30日 | ビーズのつぶやき
 「春日真木子作『蝉と蟬』連作三十一首」より十首抜粋

○  投稿歌の「蝉」は自由に泣かすべし「蝉」より「蟬」へ直しつづけつ
○  地の底の焔のことば伝ふべく腹を震はせ鳴き立つ七日
○  身を折りて拾ふ空蟬透きとおりわが現し身は影ふかきかな
○  ふたたびは蟬の帰らぬ小さき穴 しづかに夜気が埋めゆきたり
○  検閲を受けにし有無を探るべく戦中戦後のわが小誌繰る
○  自主規制 編集の上になしゐしやわれの小耳に父の嘆息
○  きはまりは編集後記含みある言葉かこれは深く汲むべし
○  検閲を憚り書きし悔しみを師が詠み得しは三十年の後
○  平和とふ時の埃をかぶりたる小誌に光る反骨のうた
○  卸し金の棘を宥めむ八月の大根はまるくなでて摩るなり





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日暦(10月28日)ヨナ抜き音階(前川清歌唱歌脱胎)この失態を笑ってやってくださいませ!

2016年10月28日 | 我が歌ども
 朝起きて、久しぶりに佐藤しのぶの声でも聞こうかな、と思って〈YouTube〉を開こうとしたら、出し抜けにあの前川清の野郎が現れて、あろうことか十曲も歌い続けに歌ったのである。
 私はどちらかと言うと、前川清の声よりは佐藤しのぶの声が好きなタイプの人間なので、その間、「早く終わってくれ!お願いだから止めてくれ!頼むから歌い終わってくれ!」といった思いで、彼の歌声に耳を塞いでいたのでありましたが、その裡に、彼の歌う曲の歌詞がそのまま安手の短歌になっている事に気が付いたのである。
 以下の言葉の羅列は、前川清が歌う歌謡曲の詞を換骨奪胎して詠んだ短歌紛いの短歌である。


○  アカシヤの甘い香りに誘はれてほつつき歩いた札幌の街  鳥羽省三

○  身を任せ燃えて火となる柔肌の甘い香りに誤魔化されるな

○  神戸屋のフランスパンは美味しいが明日は要らない今夜が欲しい  

○  うまい嘘ひとつ吐けないあたいでも夢の続編ぐらいは見たい

○  アカシヤの甘い香りに誘はれて中の島まで歩いてみたい

○  限りあるこの世なりせば時折は優しい花で包んでほしい

○  泣きたくも泣くに泣けない夜はひとり夢を肴に飲めばよろしい

○  変はり行く景色の中でひたすらに夢を探した神戸の街で

○  いつまでも逢はず愛せる恋ならばいついつまでも金は要らない

○  胸ふかく傷を宿して怯えてた僕に明日などあるはずもない

○  止せ止せよ慰めなんかいらないよどうせ私は噂の女

○  嘘と泪の染み付いた女だけれど捨てたりしないで下さい

○  札幌の街の噂にされちやへば褪せてしまうよ唇さへも

○  この春を恨むことさへ諦めて生きるしかない噂の女

○  話すなと甘える指にからみつく酔ひどれ男の煙草の煙

○  さみしさをなだめすかしてもぐり込む床に染み付くあなたの匂ひ

○  ああせめて夢のかけらを散りばめむ逢はずに愛して下さるならば 

○  長崎は行けどせつない石畳ぬれて今夜も雨降るばかり

○  男どち掌をもて愛せたら女なんかはもはや不要さ

○  女どち指先をもて癒し合ひ男なんかは要らないと言ふ

○  傷ついた心がさらに醜くて巧い嘘つく相手探した

○  神戸まで無理矢理足を運んでは濁つた水に捨てた泥靴

○  訪ねても冷たい雨が身に沁みて夜の丸山こころ乱れつ

○  今更に酒に恨みはないもののオランダ坂は今日も雨降る

○  降る雨よ愛しき人は今どこでどうして居るか教へてほしい

○  捨てたはず恋も命も長崎の頬を濡らしてそぼ降る雨に

○  飲んでああ飲んで酔い痴れ乱れても長崎は今日もまた雨だつた  
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岩田正作『ケアセンター・木曜日』特別作品二十首(角川「短歌・十月号」掲載)

2016年10月27日 | 古雑誌を読む
○  さてここはいづくぞわれはなになるや目覚めてまづはわが思ふこと

 この連作を鑑賞せんとする、私たち読者に対しての作者・岩田正翁からご挨拶で以て、本連作は始まるのである。
 本作の作者・岩田正翁は、かねてから毎週一度、木曜日にご自身が通われているデイケアセンターで義務付けられている小一時間の昼寝から、今しも目覚めたばかりなのである。
 そして、起き抜けの岩田正翁の口から発せられたご挨拶の内容は以下の通りである。
 即ち、「私はたった今、当センター定例の午後の昼寝から目覚めたばかりではありますが、この際、本作の読者諸氏を肇とした、この広い宇宙空間に棲息している全ての生き物の方々に親しくご挨拶申し上げます。とは申しましたが、扨て、そもそも、私が斯くしている此処は、一体全体、何処の地であり、私は如何なる存在として此処にこうして居るのでありましょうかと、今の私は、斯く思っている次第であります」という訳なのである。
 この広い宇宙空間に棲息している生き物仲間に対してのご挨拶としては、少々惚けたような内容ではあるが、今年九十二歳になる後期高齢者の彼の起き抜けのご挨拶の言葉としては、なかなかに味のある言葉としなければなりません。  


○  こけさうな杖の男がよぎりたり支へんとしてわれはよろめく

 斯くして、我が国を代表する素っ惚けた味わいのある歌風を特質とする歌人・岩田正翁のデイケアセンターでの活動振りを見学する事を、私たち本作の鑑賞者は、作者の岩田正翁ご本人、及び、当センターの誇り高いセンター長様からご許可いただいた次第なのでありますが、なにせ作者はご承知の通りのご高齢でありますので、その語り口が朦朧としていたり、その内容が、時計回りに進行しなかったりするのであるが、其処の辺りの事情に就いては、私たち読者側が適当に斟酌した上で事に当たらなければなりません。
 扨て、岩田翁がこれから語られる一件は、彼ご自身が当センター差し回しの送迎車に乗せられて当センターに辿り着いてから約二時間後の事と思われる。
 今しも杖を突いた一人の老人が、彼・岩田翁の前を過ぎ行こうとしているのであるが、何せ、この老人は、岩田正翁と同年輩なので、辺りの人の目からすると、いかにもこけそうな感じなのである。
 それを見かねた男こそは私たちのヒーロー・岩田正翁なのであるが、止せばいいのに、人の好い彼は、彼の歳の頃は、彼と同年輩と思しき、件の「こけさうな杖の男」の身体を受け止め「支へん」としたのでありましたが、如何せん、皆様ご承知の通りの高齢者でありますので、彼の「こけさうな杖の男」の身体を「支へんとして」、逆にご自身がよろめいてしまったのである。 
 世に謂う「年寄りの冷水」とは、こうした事態を指して言う言葉でありましょうか?


○  センター長の朝のあいさつ重重と今日のお昼の献立つぐる

 二十首連作の三首目なのにも関わらず、彼・岩田正翁の話す内容は、時間の流れを益々無視しようとする傾向が見えて来るのである。
 さて、これから話す内容は、彼・岩田正翁が、当センター差し回しの送迎車を下車して、当センターの集会室に到着してから間もない時刻に発生した一件に就いてのものである。
 時は午前九時、今しも、当センターの誇り高きセンター長様が、私たちのヒーロー・岩田正翁を肇とした、後期高齢者の男女諸氏を前にして、持ち前の美声を発して「朝のあいさつ」に言葉を語り掛けているのである。
 彼の言葉は如何にも誇り高い彼に相応しく、「重重」とした調子で後期高齢者の男女諸氏に向かって発せられてはいるものの、その内容たるや何と驚いたことに、いつもの何ら変わり映えしない、「お昼の献立」に就いてであったのである。


○  左手にて杖たにぎればむかしわが竹刀とびて横面をうつ

○  右に寄り左にそれてまた戻るケアセンターの老いの歩行は

○  思ふでも考へるでもなく足とまる恍惚はきぬ数秒の間

○  駱駝には王子と王女月の砂漠老いとうたへば涙はにじむ

○  「帰ろかな」うたふ気ままな老いのこゑしはがれだみごゑ迫力がある

○  ちまたには戦争法案通りたりケアセンターでひとり焦れり

○  のうてんきまだらぼけなど老婦人十人寄ると圧力である

○  職員が子をつれくればしみじみと可愛いと泣く老いもありけれ

○  センターの窓に空見え鳥がゆくこころ遊ばす若き日のごと

○  マンションのベランダのシーツが雨に濡れいらだちてをりセンターのわれ

○  役立たずおのれを笑ひ飯くらふここセンターのお昼絶品

○  飯終へて飯はまだかとつぶやけり痴呆の老いの定番せりふ

○  とろとろと眠りはきたる午後一時ケアセンターはいのちの眠り

○  馬鹿正直ひとは笑へど自を守り戦中戦後たのしかりしよ

○  センターのボールにかはる紙風船撞きあふうちに真剣となる

○  七十超え八十超えいま九十二歳死神にわれ見放されたり
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日暦(10月27日)

2016年10月27日 | 我が歌ども
○  新橋でホルモン噛み噛み酎を飲み明日を信じてバイトせし日々  鳥羽省三

○  ヘイトスピーチのこゑ鎮もりし西口に外れ馬券よ風花と散れ
 
○  ほやほやと命の匂ひの馬の糞パドックで見たり府中の森の

○  監獄に収監されざる吾なれど囚人たちの辛さは解る

○  新聞の求人欄を眺めても高齢者吾の勤め口は無し

○  ドア開くる刹那匂ひ来 今晩はカレーライスを食ぶるにあらむ


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今週の「朝日歌壇」から(10月24日掲載分・其のⅡ)北方四島以南大公開!乞う、ご一読喝采!

2016年10月27日 | 今週の朝日歌壇から
[馬場あき子選]
○  今世紀も戦いやめぬこの星の寒き夜に読む防人の歌  (石川県)瀧上裕幸

 山種美術館に収蔵されている速水御舟が描く「名樹散椿」は、紅白二本の椿の銘木の背景を〈金砂子を竹筒に入れて濾して振り撒くという技法〉即ち〈撒きつぶし〉という特殊な技法で描いた日本画の名作として知られ、近代絵画ながらも重要文化財に指定されている名画である。
 これを描いた日本画家・速水御舟は、1894年に東京の浅草で生まれ、1935年に僅か四十歳で腸チフスで亡くなっているが、その四十年という短い生涯の中で次々と描画の新しい技法や作風に挑み、日本画の発展や普及に努めた功績者である。
 彼の残した言葉の中で、私に取って最も刺激的なのは、「私が一番恐れることは型が出来るということである」という言葉である。
 そんな事をつらつらと思ってみるに、本作に見られる「今世紀も戦いやめぬこの星」、「寒き夜に読む防人の歌」といった月並みな修辞の安易さには、評者の私としては〈虫唾が走るような思い〉がしてならないのである。
 先人の手垢で汚れた言葉で以て飾り立てた作品、既に〈型〉と化している言葉使いで以て成り立っている作品は、瀧上裕幸さんともあろうこの道のベテラン歌人が詠むべき作品ではありません。
 また、こうした月並みな作品を佳しとして、これを首席入選作品として推された馬場あき子先生にも、少なからぬ問題がありましょう。
 [反歌]  今宵も瞬き止まぬ蛍光灯LEDに替えたいけれど  鳥羽省三


○  退院し二カ月ぶりに見上げおり百二十段の自坊の石段  (三原市)岡田独甫

 「自坊の石段」が「百二十段」もの険しさであるとすれば、重病を患った後のご住職様としては、これから先のこのお寺のご住職様としてのお勤めにも何かと差し支えがありましょう。
 名のある寺院の責任者たるご住職様ともなれば、「自坊」の庫裏に逼塞して、お大黒様のお尻にしがみついているばかりが能ではありません。
 檀家に死人が出た場合の読経やご回向は勿論のこと、その他にも、居住区域の有識者として文化人としてのお努め、更には、お寺さんとて水を飲み、空気を吸って生きて居られる時代ではありませんから、時には、お大黒様と一緒に山を下りて街のスーパーや食料品店などに生活必需品の買い出しに赴かれることも有り得ましょう。
 そうした折々には、ご退院なさった時に、呆然として眺めた「百二十段」もの石段を下りて下界にお出ましになられ、用件が終わったら再びその険阻な石段を上って「自坊」にご帰還にならなければならないのでありましょう。
 そうした際には、本作の作者の岡田独甫大和尚は、如何にしてその難関の解決を図られるおつもりなのでありましょうか?
 お大黒様のお手を携えられて、石段の下に呆然として突っ立って居られたからといって、決して、決して事態の解決が図られる訳ではありません。
 であるならば、この際、いっそのこと、「自坊」を本山にお還ししてご住職様としてのお務めから解放されて、下界に下りて詠歌三昧の暮らしに入られたら如何でありましょうか?
 思うに、そもそも我が国の仏教寺院の堕落やそれに伴っての檀家制度の崩壊の根底には、悟りを得てない生臭坊主どもの「自坊」意識が在るのではないのでしょうか?
 即ち、手厚い檀家制度に守られたこれまでの我が国の仏教界に於いては、仏教布教の殿堂としての寺院が、仏様に仕えるべき僧侶の修業の場たる寺院が、ともすれば、特定の家系の世襲的な住居(即ち、寝座)となりがちであり、本作にも見られる「自坊」という意識の本質は、現在のその寺院のご住職様方のお持ちになって居られる既得権意識、即ち「自らの死後も、ご子息などの自分の直系の者がこの寺の住職としてこの寺に住み、檀家の方々から寄せられたお布施などで以て、生活して行くはずである」とする、安閑かつ確固たる意識である。
 彼の明治の昔の〈石川一禎和尚〉の例を見ても、平成の今の世の〈福島泰樹和尚〉の例を見ても、仏教寺院はご本山や檀家衆からの借り物であり、住職は、是を布教や修業の為の仕事場として本山や檀家衆から預かり、住職が住職としての勤めを怠ったり、理財に走ったり、或いはお寺に境内の杉の大木を伐採して製材業者に売却したりすれば、その勤務先にして修業道場たる寺院から直ちに追放されて、住職の資格を取り上げられるのが、本来的な形ではありませんか!
 喝!喝、喝、喝!喝ちゅうの大喝!
 [反歌]  怠勤し茶屋酒飲んでのらくらと暮らした挙句のご病気ならむ  鳥羽省三


○  ほやほやと生命の匂いを立てながら乳吸う赤子の確かな力  (広島県府中市)内海恒子

 本作中の「乳吸う赤子」に「確かな力」という修辞も亦、あまりにも月並みで安易なものである。
 何か確かな発見や表現上の工夫の見られない作品は〈凡作〉と評するしか評価しようがありません。
 その点に就いては、朝日歌壇の選者諸氏も十分に心得た上で選歌に当たらなければなりません。
 [反歌]  ほやほやと命の匂ひの馬の糞パドックで見たり府中の森の  鳥羽省三
 

○  監獄の敷地の上はいきなりに大空ありて秋の虹立つ  (ひたちなか市)十亀弘史

 「監獄」や〈ホームレス〉を売り物にした短歌もそろそろ読み飽きた頃ではありませんか!
 題材が「監獄」であれ何処であれ、一首の中に並々ならぬ発見と表現上の工夫が見られない短歌は、私・鳥羽省三を含む、多くの短歌評者にとっては、詠むにも読むにも評価するにも値しない〈短歌ならぬ蟬の抜け殻〉である。
 ところで、本作の場合は、「(監獄の敷地の上は)いきなりに大空あり(て秋の虹立つ)」が、私の言うところの〈並々ならぬ発見〉であり、〈表現上の工夫〉でもある。
 私は、大方の読者の方々の予想に反して、たったの一度として入獄した事はありませんが、思うに、「監獄」という所は、その内部と外部とを隔てる〈鉄筋コンクリート造りの塀〉があまりにも高くて険しいが故に、その「敷地」が比較的に狭く感じられ、その内側に長く収監されている囚人が上空を見上げた場合、「敷地の上はいきなりに大空ありて秋の虹立つ」という仕儀とは相成るのでありましょう。
 言わば、本作の作者の十亀弘史さんは、ある日、ある時、「監獄の敷地の」内側から上空を一望し、自分が狭隘な古井戸の底にでも取り残されたような感覚に襲われたのでありましょう。
 本作の修辞上の優れた点をもう一点だけ上げるとすれば、「監獄の敷地の上は」という歌い出し二句の末尾の係助詞「は」の存在が、この一首を佳作たらしめている要因でありましょう。
 [反歌]  監獄に収監されざる吾なれど囚人たちの辛さは解る  鳥羽省三


○  求人欄ながめいろんな制服の自分を想う落ちこんだ日は  (東京都)上田結香

 今週の朝日歌壇の入選作に、彼の松田短歌姉妹や、現在は兵庫県芦屋市にお住まいの室文子さんなどの年少者の作品が見られないのは、私・鳥羽省三としては、何か寂しいような気持ちがすると共に、それとは裏腹な「これで良かったのだ」という気持ちがするのである。 
 ところで、本作の作者・上田結香さんは、本作を通じて「(ご自身が内定を貰えないで)落ちこんだ日は」、「求人欄」を「ながめ」て「いろんな制服の自分を想う」と仰って居られますが、同じ「制服」に関わる作品としても、松田わこさんや室文子さんなどの少女が、「自分が合格した第一志望校の制服を着た姿を想像してみる」といった内容のそれとは異なり、晴れがましさが無くて、むしろ、寂しく哀れな気持ちさえ感じさせますが、上田結香さんとてまだまだ若く、前途有望な女性なのである。
 従って、落ち込んだり凹んだりする必要は一切無く、あの安倍総理の豪語して止まない、「これからは国民総活躍時代である。特に女性の方々の活躍無くして、我が国の経済復興はあり得ません」という言葉を信じて居て下さい。
 昨今の私には、少し軽口気味の傾向が見られるのであるが、それも初期的段階と思われますから、本ブログの愛読者の方々に於かれましては、一切ご心配なさる必要はありません。
 [蔭の声] 「ほら、それが軽口だってば!」
 [反歌]  新聞の求人欄を眺めても高齢者吾の勤め口は無し  鳥羽省三


○  ドア開くせつな色あり部屋の闇夏は青帯び秋は漆黒  (名古屋市)長尾幹也

 いくら短歌を上手に詠んだって、職場で尊敬されたり、上司から高く評価されたりするとは限りません。
 朝日歌壇の入選者席の常連中の最常連とも言うべき長尾幹也さんは、現在、元の職場から不当配転されて、現在の職場たる「部屋」の「ドア」を開く一刹那、「夏は青帯び秋は漆黒」の「闇」を感じながらも定年退職の日まで、必死に働こうとご努力ご忍耐なさって居られるのでありましょう。
 「一億総活躍時代」とは名ばかりの現代社会であればこそのご難儀を担って居られる長尾幹也さんの唯一無二の楽しみは、短歌を詠み、朝日歌壇にせっせせっせとご投稿なさることなのでありましょう。
 [反歌]  ドア開くる刹那匂ひ来 今晩はカレーライスを食ぶるにあらむ  鳥羽省三


○  食肉処理場にホルモンもらひにバケツ下げ通ひき友の眼を逃れつつ  (大阪市)金 亀忠

 本作こそは、知る人ぞ知る、金亀忠ワールドの真髄を往くような内容の傑作である。
 それにしても、あの卓越した歌人・金亀忠さんが「友の眼を逃れつつ」も「食肉処理場にホルモンもらひにバケツ下げ通ひき」とは、真実、泣かせますよね!
 [反歌]  新橋でホルモン噛み噛み酎を飲み明日を信じてバイトせし日々  鳥羽省三
      ヘイトスピーチの声鎮もりし西口に外れ馬券よ風花と散れ 


○  算数の宿題こそは楽しけれ掛け算駆けっこ世は割りきれぬ  (長野県)千葉俊彦

 「算数の宿題こそは楽しけれ」と歌い出し、「掛け算→駆けっこ」と連想ゲームを楽しんだ序でに、「掛け算→駆けっこ→世は割りきれぬ」と、最後に「算数」に関わる言葉としての「割り算」に繋がる言葉を置いて、一首の締め括りとしたのでありましょう。
 [反歌]  体育の宿題こそは苦しけれチョップ首絞め父の身持たぬ  鳥羽省三


○  森の木の伐られた後の明るさは一本の木の占めていた空  (鈴鹿市)森谷佳子

 「一本の木の占めていた空」という表現に疑義あり!
 即ち、「森の木の伐られた後の明るさは」、「一本の木の占めていた空」ならぬ「数多くの木が伐られた事に依って生じた空の明るさ」ではありませんかしら?
 つまり、本作に於いては、原因と結果が等号で結ばれていないのである。
 [反歌]  一本の杉が伐られて生じたるその木の占めし空の明るさ  鳥羽省三


○  水楢の根元に舞茸盛り上がり舞い上がりたり利根の深山  (前橋市)萩原葉月

 今は亡き私の父親・鳥羽翔三郎は、茸狩りや山菜採りの名代の名人であり、彼の死後、彼が茸や山菜を採集していた秘密の場所を受け継ぐ者は、大方の見方としては、私の長兄の鳥羽彰一郎と予測されていたのでありましたが、豈に図らんや、そうした大方の予測は見事に外れ、彼の山菜や茸の秘密の採集地は、父の生前の知人にして・米穀販売業者の高山恒太郎さんのご子息、高山憲治さんに掠め取られてしまった次第でありました。
 と言うのも愚かな事に、私の父親・鳥羽翔三郎が、まもなく死期を迎える年頃になるのを見計らって、彼・高山憲治さんは、毎年、山菜の採れ頃ともなると我が家に遣って来て、老齢の件の名人に向かって「この頃、爺様の姿がさっぱり見えなくなったので町内の方々が心配しているので、私が町内の方々の代表として、今朝、こうして爺様の家を訪ねてみたのであるが、まずまず生きていたので一安心した所である。でも、いつもいつも家に居てテレビばかり見ていると、今は立っている腰もそのうちに立たなくなってしまうぞ!それを防いで長生きする為には、たまにはテレビから目を離すことも大事!たまには外出する必要もあるぞ!今朝、こうして俺が爺様の家を訪ねて来たのも何かの縁に違いない。幸い今日は上々の天気であるから、俺の運転する軽トラの助手席に腰掛けて、爺様のお馴染みの三本槍にでも行ってみないか!無理に勧めるのではないが、是非にとあらば、俺だって爺様とはまんざらの他人ではないから、軽トラの運転ぐらいの労は取るぞ!なーに心配する事はない!ガソリン代ぐらいはたいしたことはないからな!」などとの長口上をたらたらとお述べになられ、その頃は既に腰が曲がってしまっている私の父親を山菜採りに駆り出すのでありました。
 当然の事ながら、彼・高山憲治さんはのそうした長口上は、山菜の採れ時の春ばかりでは無くて、茸狩りの最盛期が近づいて来ると、例の長口上が少しも変わることなく展開されるのでありました。
 ところで、私の父親・鳥羽翔三郎の命は意外な事に、腰が立たなくなってからも五年以上も続いたのであり、その間、件の高山憲治さんは、毎年、山菜と茸の採れ時ともなると、例に依って例の如く我が家を訪問し、死期間近の名人を言いくるめて、山菜採りや茸狩りの穴場を根刮ぎ掠め取ってしまったのでありました。
 [反歌]  松茸狩りの穴場すべてを掠め取り高山憲治は間も無く死んだ  鳥羽省三 
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日暦(10月26日)

2016年10月26日 | 我が歌ども
○  相対的にクリントンの方がよりまともな大統領候補ではある  鳥羽省三

○  今宵も瞬き止まぬ蛍光灯LEDに替えたいけれど

○  怠勤し茶屋酒飲んでのらくらと暮らした挙句のご病気ならむ  
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日暦(10月25日)『閑吟集』に寄する十首

2016年10月25日 | 我が歌ども
      『閑吟集』に寄する十首

○  人買ひの舟は沖へと漕ぎ行くも吾は舟漕ぐ青バスの席  鳥羽省三

○  月影もさながら汲まむ夜のうみ酒仙李白の純米吟醸

○  潮汲ませ網を引かせて儲けたる黄金注ぎ込み建てたる館

○  数ならぬ吾の命のはかなくて情けならでは君を頼まず

○  よしや辛かれどなかなかに人の情けは病める身なればこそ知れ

○  するがよし宇津の山辺のうつつにも夢にも逢へぬ君と逢ふとき

○  夢路より原節子佳しと誰ぞいふ夢路も節子も今は亡き人

○  夕まぐれもしもそれかと尋め行くも扉閉ざせる夕顔の家

○  薫物の匂ひ飛ばせる木枯しの一夜吹き荒れ寝もやらざりき

○  雨にさへ訪ひにし中野駅前の〈さいころ〉も好き〈ようすけ〉も好き



  
 
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今週の「朝日歌壇」から(10月24日掲載分・其のⅠ)北方四島以南、本日大公開!乞う、ご一読賛嘆!

2016年10月25日 | 今週の朝日歌壇から
[永田和宏選]
○  「山月記」の李徴の虎の咆哮が聞こえた気がしたコンビニのレジ  (神奈川県)九螺ささら

 中島敦作の小説『山月記』は、かつて、高等学校の現代国語の教科書の定番とされ、是を掲載していない教科書は教科書検定を通らないとも噂されていたのである。
 ところで、この必ずしも現代社会の若者好みとは言えない小説が、自民党政権の文教政策の要とされる彼の〈教科書検定の検査官たち〉に何が故に好まれたかと言うと、それは、この小説の「長い者には巻かれろ」式のテーマが〈教科書検定の検査官〉及び彼らを操る保守政党の文教族の好みと一致していたからである。
 時代が時代でありましたから、このような時期に高校生活を送られた方々の中の何方かが、「『コンビニのレジ』から『山月記の李徴の虎の咆哮が聞こえた気がした』」などと仰ったとしても、私としても頷かざるを得ません。
 しかし、小説『山月記』の人気が冷めかかっている現代社会に於いて、仮にでも何方かが、「コンビニのレジ」から「『山月記』の李徴の虎の咆哮が聞こえた気がした」などと仰ったならば、それは、その方の現在の生活状態や精神状態に問題が在るのではないでしょうか?
 例えば、三度三度の食事の内容に問題がないか?
 例えば、過度な喫煙や過度な飲酒,或いは覚醒剤や違法薬品の使用、或いは、身体に負担が掛かり過ぎる運動を頻繁に行う、などの理由に因る、身体の異常や精神異常などである。
 いずれにしろ、掛かり付けのドクターやスクールカウンセラーなどの方々ともご相談なさり、ご自身の生活態度や精神状態の抜本的な改善を図らなければなりません。
 

○  絶対はありえないのに絶対にあり得ないよと「は」を「に」に変える  (横浜市)田口二千陸

 「絶対はありえない」事の一例を挙げれば、「原発事故は絶対に再発しない、させない」といった〈自公連立政権の与太話〉は勿論の事、「金王朝は絶対に崩壊しない、させない」と言う、〈隣国の首脳の夢物語〉などは、その類の都市伝説でありましょう。
 [反歌]  相対的にクリントンの方がよりまともな大統領候補ではある  鳥羽省三


○  起つためにあるのかいや坐るため椅子から総立ち議場の議員  (岐阜市)臼井 均

 例の一件に取材した作品とは思われるが、絶対的にそうだとは言い切れない側面も無しとせず。
 という事は、本作は文意不明瞭な凡作である、という事である。
 但し、「文意不明瞭=凡作」という訳では無く、文意不明瞭な側面が当該作品の奥行きの深さを保証し、作品の最大の魅力となっている作品もありましょう。
 だが、本作の場合は、そうした類の作品とは異なります。


○  疲れ果て最終電車に乗り込めば今夜は車庫まで行きたい気分  (守口市)小杉ぎんなん

 本作の作者は、お名前から推察しても、「腐れ易く疲れ果て易い」身体の持ち主でありましょう。
 従って、通常の乗客の場合は、自宅の最寄駅で確実に下車して、確実にご帰宅なさる方が、疲労解消策としてより有効な方策でありましょうが、本作の作者の場合は、「今夜」に限って「車庫まで行きたい気分」になられるのと、当然の事でありましょうし、また、それが許されるのでありましょう。
 一人の人間が「疲れ果て」ているか否かの判断は、その人間の体から発する匂いに依って為すことが可能であります。


○  秋がふる月光がふるサラサラとさみしき者のガラスの屋根に  (福島市)美原凍子

 「秋がふる」、「月光がふる」と動詞「ふる」の連発、そして「サラサラとさみしき者のガラスの屋根に」という下の句に、本作の作者お得意の「被害者意識」が覗われるのであるが、題材が一先ず、〈被災地-フクシマ〉から離れた点に就いては、美原凍子さんの作品としては、大いに評価しなければなりません。 


○  あなたには透明人間のわれなれど熱き血潮も牙もあります  (鹿嶋市)児矢野雅恵

 「おお、怖!」とだけ、一言申し上げます。


○  半生を捧げし会社へ回り道する霊柩車天高きかな  (沼津市)石川義倫

 本作に詠まれているような形の葬儀は、何かの団体や組織を支配していた独裁者がお亡くなりになった場合、それに伴って次の支配者たらんと企む輩がよくする葬儀の定番みたいなものでありますが、一般的に言うと、亡くなってからそんな事をしてもなんの足しにもなりませんから、いっそのこと、ご葬儀の参列者や焼香客の方々が持って来られたご仏前や御霊前の黒い熨斗袋の中身の中の幾分かを沼津市の社会福祉協議会にご寄付なさったら如何でありましょうか。


○  仰向けにモグラ一匹ころがりて秋の林道弔いすすむ  (横須賀市)梅田悦子

 本作も亦、文意不明瞭な側面が無しとしません。
 仮に何方かが「モグラ」の「弔い」を「秋の林道」で挙行したならば、それは神をも恐れぬ所業、その者の増上慢の証しでありましょう。


○  死んでいた小鳥の名前調べても分からずにいる空は重たい  (小牧市)白沢英生

 本作も亦、文意不明瞭のみならず、中身が空白の凡作である。


○  きっかけがあれば木の実は落ちてくる声をかけても笑いかけても  (館林市)阿部芳夫

 「万有引力の法則」に逆らうような作品を詠んではいけません。
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うつせみのわが息息を見むものは窗にのぼれる蟷螂ひとつ

2016年10月24日 | 今日の短歌
○  うつせみのわが息息を見むものは窗にのぼれる蟷螂ひとつ  斎藤茂吉(『小園』より)

 『小園』は、昭和二十四年に岩波書店から刊行された斉藤茂吉の第十五歌集であり、昭和十八年年頭(茂吉・61歳)から、同二十一年一月(同・64歳)に疎開先金瓶村を去り、更なる疎開先である大石田町に赴くまでの期間の作品・782首(初版)が収められていて、昭和二十四年八月に刊行された『白き山』と共に茂吉短歌の頂点を成すと言われている名歌集である。
 掲出の一首は、その裡でも尤も巷間に流布されている作品であり、『白き山』所収の「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」などと共に、斎藤茂吉の代表作品とされている名作短歌である。
 この時期に彼・斉藤茂吉が詠んだ作品が如何に充実していたかを証明する手立てとして、今、『小園』所収の彼の名作の中の数首を列挙してみると、以下の通りである。
  かへるでの赤芽萌えたつ頃となりわが犢鼻褌をみづから洗ふ
  このくにの空を飛ぶとき悲しめよ南へむかふ雨夜かりがね
  穴ごもるけだもののごとわが入りし臥處にてものを言ふこともなし
  くやしまむ言も絶えたり爐のなかに炎のあそぶ夕ぐれ
  沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ
  あかがねの色になりたるはげあたまかくの如くに生きのこりけり

 掲出の短歌「うつせみの〜」は「残世」と題して詠まれた連作中の一首であり、その時期(昭和20年)の作者・茂吉は、実妹・なほの嫁ぎ先である山形県金瓶村の旧家・斎藤十右衛門家の蔵座敷に居住していて終戦の日を迎えたのであるが、出征地から帰還するはずの家主・斎藤十右衛門の子息たちにその蔵座敷を明け渡さざるを得ない立場に立たされていて、文字通り「身の置き所なき」状態に置かれていたのである。
 作中の「息息」は、辞書的には「呼吸」と同じ意味であるが、本作に於いては「うつせみのわが息息を」で以て、「(行く所も住む所もなく、その上に生命力が衰えて)、細々と息を吐いている私を」といった意味に解釈されましょう。
 「息息」は「そくそく」と読むのであるが、同音の語としてこの一首の解釈の参考にしなければならないのは、形容動詞「則即(と)」である。
 形容動詞「則即と」は、「則即と悲しみが募って来た」などという例に見られる通り、「悲しみいたむさま・身にしみていたましく感じるさま」を表す語であるが、掲出の斎藤茂吉作中の「息息」は、この「則即」と同音であるが故に、作者の斎藤茂吉は、自作中の「息息」にも、「則即(と)」の意味を含めて掲出の一首を詠んだに違いありません。
 ならば、掲出の一首は「私は戦災で東京の家を失い、歌壇での地位も失い、現在、故郷・金瓶村の義弟・斎藤十右衛門の土蔵に逼塞しているのであるが、この肩身の狭い蔵座敷住まいからも間も無く追い出されようとしているのであり、しかも、現在の私は老齢であるが故にいつ死ぬかも知れない身の上である。斯くして、則即として息を吐いているだけの私の哀れな命を見つめているものは、この土蔵の窓に上って鉄格子にしがみついている蟷螂一匹だけである」といった風に解釈されましょうか。

 [反歌] 散る散らぬ紅葉に任せ吾のみは道の奥にて息息と生く  鳥羽省三
      山脈の深さ覚ゆる写し絵に命託して息息の呼吸(いき)

 上掲・二首の反歌は、本来は、山形県天童市にご在住の風流人兼カメラマンの今野幸生氏の写真ブログ「天童の家」所収の昨日の記事「蔵王紅葉6」に取材して詠ませていただいたものでありますが、本日・朝、その今野氏ご当人より、我がブログ宛てに「息息(そくそく)と/息息の呼吸(いき)/同じ意味でしょうか、違う意味なのでしょうか、教えてください」のいうコメントが入りましたので、この機会に、私の拙い作品にも登場する語「息息」の取材源となった斎藤茂吉作の紹介・解説かたがた、拙作中「息息と生く」及び「息息の呼吸(いき)」の解説をも兼ねて掲載させていただいた次第である。
 拙作、一首目中の「息息と生く」は、私としては「ハアハアと哀れな息継ぎをしながらも、やっとこさ私は命を繋いでいる」といった意味で、二首目中の「息息の呼吸」の方は、「哀れなことに、私はハアハアとやっとこさ呼吸をしながら(も生きている)」といった意味で使っているである。
 当然の事ながら、「ハアハアと哀れな息継ぎをしながらもやっとこさ命を繋いでい」たり、「哀れなことに、ハアハアとやっとこさ呼吸をしながらも生きている」存在は、作者の私・鳥羽省三であり、天童市の今野幸生氏では、決して、決してありませんから、何卒、宜しくご理解賜りたくお願い申し上げます。
 事の序でに述べさせていただきますと、今次、第二次世界大戦中に、歌人・斎藤茂吉は「国こぞる大き力によこしまに相むかふものぞ打ちてし止まん」「『大東亜戦争』といふ日本語のひびき大きなるこの語感聴け」といったような数々の戦争詠を詠み、軍部に協力し迎合していた事は、人も知る事実であるが、こうした彼の戦時中の言行が、いざ敗戦の運びとなるや、一転して非難されることになり、昭和二十一年一月発行の雑誌『人民短歌』第二号に掲載された小田切秀雄の「歌の条件」や、同年五月発行の「展望」五月号に掲載された臼井吉見の「短歌への訣別」などの評論文で以て槍玉に挙げられたことは、戦後に発行された斎藤茂吉の歌集「小園」や「白き山」に盛られた斎藤茂吉作の短歌にも大きな影響を与えたものと推測される。
 ならば、掲出の一首「うつせみのわが息息を見むものは窗にのぼれる蟷螂ひとつ」に見られる語「息息」にも、その影響が見られるものと判断され、この時期の歌人・斉藤茂吉が「息息」として暮らさなければならなかったのは、単に、斎藤十右衛門家の蔵座敷から追い立てを食らって宿無しになる事に対する心配だけでは無く、老いさらばえての健康事情に加えて、戦後復興せんとしていた歌壇での位置を失ってしまう事に対しての心配なども挙げられましょう。
 斯くして、斎藤茂吉の傑作中の傑作たる「うつせみのわが息息を見むものは窗にのぼれる蟷螂ひとつ」中の一語「息息」は、さまざまなる意味が含められ重なり合った意味深な一語である。






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今週の「朝日歌壇」から(10月24日掲載分・其のⅢ)北方四島以南、近日大公開!乞う、ご期待!

2016年10月24日 | 今週の朝日歌壇から
[佐佐木幸綱選]
○  エスカレーターの角度で飛行機昇ってくビルの凹凸秋の青空  (富山市)徳永光城

 「飛行機」が「エスカレーターの角度」で「昇って」行くと共に乗客としての、あの市議会議員の涜職で以て今話題の富山市にお住まいの徳永光城さんも亦、天空へと「エスカレーターの角度」で「昇って」行くのでありましょう。
 従って「ビルの凹凸」は側臥位で以て見下ろした光景であり、「秋の青空」は仰臥位で以て見上げた光景なのである。


○  鹿鳴草こぼるる路肩ゆふはり舞ふ紋黄蝶二匹気流に乗りゆく  (横浜市)松村千津子

 「鹿鳴草」が「秋の七草の一つ、萩の美称である」などという七面倒臭い講釈などはどうでも宜しいが、本作は、「鹿鳴草こぼるる路肩」という歌い出しの表現といい、「路肩ゆふはり舞ふ紋黄蝶」という中間部の表現といい、「紋黄蝶二匹気流に乗りゆく」という下の句の表現といい、なかなか目新しい発見があって言葉の運びも巧みな傑作である。


○  鼻歌のおさるのかごやを絶叫に変えた熊手の先のシマヘビ  (佐渡市)藍原秋子

 「熊手の先」に突如として現れた「シマヘビ」如きに驚いて「鼻歌のおさるのかごやを絶叫に変えた」としたら、アベノミクスの暴風が吹き荒れているこの世の中を生きて行かれませんよ!
 絶海の孤島・佐渡島にお住まいの藍原秋子さんよ、もう少ししかっりしなければなりませんぞ!


○  菜園に浜茄子一群咲いており天橋立見える菜園  (宮津市)細見愼二

 日本三景の一つである「天橋立」が「見える菜園」に「浜茄子」が「一群咲いて」いる光景ったって、それほど珍しい光景ではありません。
 何故ならば、「浜茄子」は、日本海側、太平洋側を問わず、日本全国の海岸の荒地に無闇矢鱈に生えている植物だからである。


○  ここからは掛け声なしのランニング朝の部活に苦情来たれば  (横浜市)島巡陽一

 「朝」の「ランニング」に「苦情」が寄せられて、止む無く「掛け声なしのランニング」をしなければならなかった経験は、斯く申す私・鳥羽省三にもあります。 
 と言うのは、今から三十年余り前に、私は横浜市内のある大規模団地に於いて、早一番に、少年野球のメンバーである小学生たちを十数人集めて、ランニングから始まって守備練習を行い、打撃練習も行うといった軟式野球のコーチ紛いのことをしていたのでありましたが、その際、その大規模団地の二丁目の五号棟の一階にお住まいの方の奥様から、「朝早くから子供たちを集めてランニングをなさって居られるご様子。大変ご苦労様です。実を申しますと宅の主人にとっては、その時間帯が熟睡時間なんです!」という言葉で以てやんわりと「苦情」を寄せられた次第でありました。
 あれから三十年余りの歳月が経ちましたが、その後間も無く、その奥様のご主人様が定年退職の日を前にしてお亡くなりになった、というニュースに接したのは、私たちが八年間に及ぶ田舎暮らしから抜け出して、川崎市内に住むようになってからしばらく経った後のことでありました。
 知らないで遣ったことではありましたが、今から思うと、全く近所迷惑のランニングであったと、深く反省している次第であります。


○  ふるさとの熊本よりの今年米「森のくまさん」心して研ぐ  (横浜市)高橋嘉子

 「ふるさとの熊本より」「今年米」の『森のくまさん』が届いたので、「心して研ぐ」との趣旨の一首でありましょうが、もしかしたら、


○  ふくしまは黄金の穂波の揺れるころか赤とんぼ舞ふわが里を恋ふ  (国立市)半杭螢子


○  最新のカットで微笑む美容院の裏口にいる胴なき首は  (熊本市)星ひかり


○  活きがいい弾丸あり舛の看板を掲ぐ後方支援を言ひて  (名古屋市)浅井克宏


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今週の「朝日歌壇」から(10月24日掲載分・其のⅣ)北方四島以南、近日大公開!乞う、ご期待!

2016年10月24日 | 今週の朝日歌壇から
[高野公彦選]
○  増え続く敬老会の参加者よされど減りゆく元兵士たち  (長野市)青木武明
○  卒寿とふ自負も自戒も遠ざけて誰かに甘えてみたき秋霖  (名古屋市)林 和枝
○  太陽光パネルの並ぶ関ヶ原の何処に鎮むや鬨の声ごえ  (加賀市)敷田千枝子
○  瓶の中ミニチュア帆船浮いているマルコポーロの野望のように  (神奈川県)九螺ささら
○  蟋蟀も代々ならん歯科医師の車庫に鳴けるは良き音響かす  (松本市)牧野内英詩
○  ヒトもまた自然のひとつ街を行く喪服が増える季節のはざ間  (横浜市)毛涯明子
○  シャッターをたまに少しは開けている 閉じた店にも生きてる証し  (香川県)藤井哲夫
○  ごまかしを鋭いメスで抉り出す凄腕外科医のやうなり百合子  (東久留米市)関沢百合子 
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日暦(10月24日)

2016年10月24日 | 我が歌ども
○  ヤーコンは明日掘ればよし蔵王名残りの紅葉狩りせむ  鳥羽省三

○  散る散らぬ紅葉に任せ吾のみは道の奥にて息息(そくそく)と生く

○  山脈(やまなみ)の深さ覚ゆる写し絵に命託して息息の呼吸(いき)
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挑発族今し歌林の聖域を侵さむとす!覚醒せよ、会員諸氏!

2016年10月23日 | 結社誌から
○  ささやかな本能 雨のはじまりを腕の毛がさやと教えてくれる  (名古屋)辻 聡之

 パソコンに「辻聡之」と入力し、検索ボタンを押してみると、何かの宴席と思われる雑然とした室内風景をバックにして結社誌「かりん」主宰の馬場あき子先生と並んだ一人の男性の姿が映し出されるが、件の男性は、角形の大きな伊達眼鏡を掛けて、今風な頭髪をしていて、必ずしも似合うとは思われない蝶ネクタイで首を縛られてはいるが、意外な事に「むくつけきおのこ」といった感じの大丈夫であり、過去の辻聡之作の短歌からイメージされる男性のそれとは明らかに異なるのである。
 本作は「ささやかな本能」という印象鮮やかな9音の歌い出しで以て始まるのであるが、件の実物写真を見てしまった今となっては、本作の歌い出しは「ささやかな本能」ならぬ「動物的な本能」と翻訳して読まなければならないのかも知れません。
 本作の意は「『雨のはじまり』を、私の『腕の毛がさやと教えてくれる』のであるが、それと言うのも、瀟洒な男性たる私自身の『ささやかな本能』が齎すところなのでありましょう」といったところでありましょうが、今の私は、作中の「腕の毛」を「豪腕剛毛」と翻訳して読み、「さやと教えてくれる」を「じわりと教えてくれる」と翻訳して読みたいような気がするのである。


○  驟雨あり選挙ポスターざんざんとほころびてゆく紫陽花の陰

 我が家の前の百段余りの石の階段を下りて行けば、かつては殷賑を極めた大山道に辿り着くのであるが、その傍らに、その季節ともなれば涼しい色して紫陽花が咲いている空き地があり、その空き地と大山道とを隔てるコンクリート作りの壁が、各候補、各政党の「選挙ポスター」の掲示スペースとなっているのである。
 私は、この度、この作品に接して、つい数十日前の6月の中頃に、前述の私の近所の「選挙ポスター」掲示スペースで展開されていた光景を思い出してしまいました。
 然り!
 梅雨時の驟雨に見舞われると、紫陽花の木陰に設置された掲示スペースに貼られた「選挙ポスター」は、今を盛りとして咲く「紫陽花の陰」に隠れて「ざんざんとほころびてゆく」のである。


○  雨、ランチルームに充つる沈黙に香を放ちたりわがカレーパン
○  直方体にとどめられたる牛乳のこの世のかたち提げて帰りぬ
○  しみじみと包丁は愉し内側を見せることなき日のキッチンで
○  空洞に砂糖がしみる七月のグレープフルーツくりぬきながら    
○  蕎麦、もやし、うどん、豆苗、細長きものばかり食う暮らしにも慣れ

 件の「馬場あき子先生とのトゥーショットの写真」を拝見する以前の私だったら、掲出の五首の作中主体(=作者)を「細面のソース顔の美青年」であると思ったに違いありませんが、件の写真を拝見してしまった今となっては、これらの作品の解釈に就いては、少なからず困惑して居ります。
 「雨」の日に「カレーパン」を作って「ランチルームに充つる沈黙」の中にその「香」を放つ青年。
 「直方体にとどめられたる」パック入りの「牛乳」を「この世のかたち」としみじみと思いながら「提げて帰」る青年。
 「内側を見せることなき日のキッチンで」、包丁を使って野菜を切りながら「しみじみと包丁は愉し」と思いつ呟く青年。
 「七月のグレープフルーツ」を「くりぬきながら」、「空洞に砂糖がしみる」としみじみと見入る青年。
 「蕎麦、もやし、うどん、豆苗」と、「細長きものばかり食う暮らしにも慣れ」て来た青年。
 こうした青年たち、即ち、掲出の五首の作品から読み知れる青年像は、あの「馬場あき子先生とのトゥーショットの写真」に映っている青年像とは、あまりにも隔たっているのである。
 斯くして、彼の塚本邦雄氏が、かつて『短歌考幻学』で仰った「もともと短歌といふ定型短詩に、幻を見る以外の何の使命があらう」という仮説の正しさが証明されて行くのでありましょうか?

 

○  薄もののすかーと銀河を曵くやうに渉るひとあり見惚れてしまふ  (横浜)黒木沙椰

 作者ご自身が実見なさった現実の風景ではありましょうが、あまりにも美し過ぎて、私・鳥羽省三も亦、思わず「見惚れてしまふ」のである。
 表現上の細かい点に就いて言えば、「薄もののすかーと」は、敢えて「薄もののスカート」とする必要が無く、このままの方が「すかーと」なる女性の穿き物の〈柔らかさや美しさをよく映し得ていると思われるのである。
 また、「銀河を曵くやうに渉るひとあり」の「渉る」がなかなかに宜しい。 
 何故ならば、「渉る」とは、単なる〈路上での直線的な移動〉ではなく、〈水の上を歩いて渡る〉という意味なのだからである。 
 作中の「薄もののすかーと」を身に纏った「ひと」は、横浜市緑区の〈こどもの国〉の芝生の上を渡り歩いていたり、川崎市麻生区の新百合ケ丘駅裏の跨線橋を渡り歩いていたりするのでは無くて、他ならぬ「銀河」の上を「薄もののすかーと」を「曵くやうに」して「渉る」のであり、もっと正しく言えば、「薄もののすかーと」そのものが「銀河を曵くやうに」して「銀河」の上を「渉る」のであるから、この作品に於ける動詞「渉る」の存在は、決して忽せにする事が出来ません。
 一首の末尾の「見惚れてしまふ」という七音に込められた、作者の手放しの褒めようも素晴らしい。

 
○  傍観者に終はらぬ生き方この先にもあるはず低く梅雨入りの雨

 「傍観者に終はらぬ生き方」とは、その対象が何であれ、ともかくも対象に積極的に関わって行く「生き方」である。
 問題は、関わって行くべき対象なのであるが、本作の作中主体とほとんど同一人物と思われる、本作の作者・黒木沙椰さんは、案外、その対象の何たるかをご存じで無いのかも知れません。
 であるならば、本作の作者は、この作品を通じて、日常生活の中で鬱積している得体の知れない欲求不満に対して儚い抵抗を試みただけのことでありましょう。
 黒木沙椰作の短歌の中で、目立った特色として挙げられるのは、一首全体の表現に漂う〈欠落感〉であり、〈喪失感〉である。
 作者・黒木沙椰さんは、「梅雨入りの雨」の中に身を置きながら、「傍観者に終はらぬ生き方この先にもあるはず」などと、希望とも不満ともつかない寝言めいた言説を弄して居られるのであるが、ならば問う。
 一体全体、本作の作者・黒木沙椰さんは過去に於いて、その対象が何であれ、それに対して積極的に関わった事がただの一度でもあるのでありましょうか?
 その回答が「NO」である事は聴かずして既に判って居りますが、人間という者は、老若男女を問わず、一般的に「本日、ただいま為すべき事を為そうとせずに、その解決を明日へ明日へと先延ばしする」ものであり、そうした自らの怠惰が原因で、日常生活の中に不満や失望を齎し、究極的には、それが得体の知れない〈喪失感〉や〈欠落感〉を彼に感じせしめるに至るのである。
 この事は単なる文学的な修辞の問題ではなく、一人の人間の生き方の問題である。
 ならば、本作の作者は、今、現在、何を為すべきか!
 その回答も亦、言わずして、作者ご自身が既に解って居られることでありましょうが、
 




○  子には子の語らぬ世界ありながらみんなで家族、紫陽花が咲く

○  やまもものジャム煮詰めればつぶつぶと本音は怒りにちかきものにて

○  過剰なる愛厭はれてほどかるるわが二の腕の猫の爪あと

○  いざとなればときが来ればとカタツムリひとりの覚悟背に負ひゆく

○  盆踊りの提灯昼を揺れてをりひとりにひとつの完結がある

○  砂を吐けば海の記憶も薄れゆきああ真水では生きられぬ貝  (鴻巣)江川美恵子

○  スーパーの袋を両手に提げてゆく直火で炙るような路地裏  (草加)かしたにみかこ

○  小気味よき音ひびかせて芋がらを食みてひとりの部屋の静けさ  (茨城)櫛田如堂
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日暦(10月23日)

2016年10月23日 | 我が歌ども
○  ふるさとの秋田魁新報の「お悔やみ欄」の罪の大きさ   鳥羽省三

○  蜘蛛の巣の如き支店網張るも尚イオンは逃がす多くの顧客

○  虫籠の開け放たれて逃げ得たり僕の血族昆虫マニア

○  菩提樹の下草みたいな家に生ひ年から年中チャンバラごつこ

○  「俺のだ」とレッテル貼られし妹が婚家を逃げて横手で開店

○  一枚は朝日歌壇の投稿にあとの四枚後日の為に


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今週の「朝日歌壇」から(10月3日掲載分・其のⅠ)決定版、急遽再掲!乞う、ご再読!

2016年10月22日 | 今週の朝日歌壇から
[馬場あき子選]
○  囚友のJAМALが今朝出所する硬くハグすれば別離が惜しき (アメリカ)郷 隼人

 「ここだけの話だがら、他さ行ってあんまりぺちゃくちゃ喋らねでけろな!郷隼人さんの短歌は、横文字とそれさ振った振り仮名だけが魅力の歌だど、あんたがだは思いませんか?」
 「私は、とっくのむがしからそんなふうに思ってだんだけんど、作者の環境が環境だがら、はっきり言うのを遠慮してだんですよ!」
 「この作品の場合も、二句目の『JAМAL』に〈ジュモーム〉なんちゅう、あんまり必要だどは思われない振り仮名を振ってるし、それに五句目の『別離』なんかは、そのまま素直に〈べつり〉ど読ませでもいいし、どうしても〈わかれ〉と読ませだいなら、『別離』と書かねで、〈別れ〉と書げばいいだげの話でありんしょう。わだしの歌詠み仲間の、大分県出身の老人の詠む作品が、郷さんの作品と同じように、あまりにも度の過ぎた振り仮名頼みの作品ばっかりだがら、わだしはいつも苦虫を噛み潰すような思いで歌会に出でいだんですよ!今だがら、他ならぬあんただから打ち明けますけんどね!」


○  大学の死体解剖教室や数百年の静けさのあり  (静岡市)篠原三郎

 「『大学の死体解剖教室や』なんて書ぎがだは、俳句を想わせる書ぎがだですね!三句目の終わりに、間投助詞の〈や〉を持って来る遣りがだは、正直言ってわだしはあんまり好ぎになりません。わだしは古典文法をある程度おべでるがら、この〈や〉が間投助詞の〈や〉だど、すぐに解ったけど、わたしよりも不勉強で馬鹿な奴らならば、この〈や〉が、〈あれやこれや〉などと言うどきの〈や〉であるど、すなわじ、並立を表す副助詞の〈や〉だど誤解したりするごどだって考えられますよ!いずれにしても、この〈や〉には少なからず問題があります!」
 「それに、内容面についで言えば、『大学の死体解剖教室』に『静けさ』があるのは、よぐよぐ考えでみれば、極めであだりまえのごどではありませんか?それにしても、『数百年の静けさのあり』とは、あまりにもオーバー過ぎますよ!わだしの言う〈オーバー〉は、ゆぎ降ったどきに着る〈オーバー〉どは違いますよ!」


○  大洪水水面に浮ぶ玉葱の涙の河水畑をおほふ  (北海道)大戸秀夫

 「作者の大戸秀夫さんとやらは、あの北海道の畑作地帯を襲った『大洪水』の被害者なんですかね?」
 「もしかすて、そうで無がったりするど、作者は他人が受げだ災害を短歌を詠むネタにしてる、などと、抗議のメールや電話がじゃがすかじゃがすかと来たりして、困るようなごどだってありますよ!他所様のごどながら、わだしには、その点が、とでもとでも心配ですよ!」


○  不安なる一夜の明けてわが道路泥なまなまと土石流の痕跡  (岩手県)山内義廣

 「作者の山内義廣さんは、『不安なる一夜の明けて』『なまなま』と『泥』が溜まっていで、『土石流の痕跡』が見られるのは『わが道路』である、などと仰ってるけども、その『道路』とやらは、私道なんですかね?」
 「もしかすて、そうで無がったりすると、『山内義廣さんは歌詠みのくせして、私道と公道との区別もつかない馬鹿者だ』なんて笑われちゃいますよ!」


○  豆腐とは思い出せない記憶たち崩してもくずしてもただ白く  (神奈川県)九螺ささら

 「いい年してカッコ付けちゃって、神奈川県の九螺ささらさんってキザな奴だって、このブログの読者から笑われますよ。」
 「同じ神奈川県内でも、九螺ささらさんのおすまいの在るどごろは、横浜市や川崎市とはとことん違った、ど田舎なのかも知れませんね。」
「わだしの友だぢの一人が山北町という、同じ神奈川県内の町に住んでいるので、わだしはあるどぎ遊びに行ったごどがありますが、何と驚いたごどに、その町は山一つ跨げば静岡県という、ど田舎だったんですよ。」
 「わだしがつらつらと思うに、本作の作者の苗字が〈九螺〉だがら、彼女の住む町の住民は、未だに田螺を沼がら採ってきて、晩餉のおかずにしてるんではありませんか?」


○  秋祭りの流鏑馬終わりしずかなる社に馬の残り香のする  (仙台市)沼沢 修

 「この作品の中に出て来る『馬』って奴は、同じ『馬』でもサラブレットではなくて、農耕馬か、いずれ〈馬刺し〉にされる食肉馬か、どんなに高く見積もっても、せいぜい地方競馬出の廃馬程度のものでしかありませんね。」
 「なにしろ、奴らのまげる糞ったら、臭くて臭くてたまりませんからね!」
 「作者は、澄まし顔して『しずかなる社に馬の残り香のする』なんちゃってますが、『しずかなる』も道理、まかり間違って、件の『社』の境内に足を踏み入れようものなら、足の爪先がら頭のテッペンまで黄色く染まってしまって、その後、十日ぐらいは、あの独特な匂いが取れませんからね!」


○  ひぐらしの声のかなたに母の声そのかなたにもひぐらしの声  (館林市)阿部芳夫

 「実体験に基づくものであったかどうかは存じ上げませんが、流石に館林市の阿部芳夫さんである。」
 「ここまで巧みにお詠みになられると、私・鳥羽省三としても、潔く脱帽せざるを得ません。」
 「でも、禿頭のわだしが帽子を脱ぐと『稲妻が走ったような気がするから脱がないで!』と妻が言うがら、やはり脱がないでおごうかしら?」


○  転んでも走り続ける級友はこの夏休みで一皮ぬいだ  (芦屋市)室 文子

 「室文子さんよ!あんたは『転んでも走り続ける級友はこの夏休みで一皮ぬいだ』なんちゃったりしてますけんど、人間の『皮』というものは、〈脱いだり剥いだり〉するものではなくて、〈むける〉ものですよ!それなのにも関わらず、あんたは『一皮ぬいだ』なんちゃったりする。あんたも歌詠みを志しているなら、ここのあだりで、『一皮』も二皮もむけなければダメでござんしょ!」


○  「ごんぎつね」教えし生徒らも父母となり意のままならぬ子育て嘆く  (舞鶴市)吉富憲治

 「一体全体、当朝日歌壇の入選作作者の常連中の常連歌人・吉富憲治さんの本職は何なのがしら?」
 「この作品を素直に読めば、彼は過去の一時期、小学校の教壇に立っていたようにも推測されるのであるが、わだしの知る限りを於いでは、彼はつい先年まで、大きな革鞄を抱えで、アメリカ大陸を歩ぎ回って、何かを売るセールスマンを遣っていだように思われるのですが?」
 と、ここまで書いてそのままに放置していたところ、昨日の深夜、「吉富先生不肖の生徒」と仰る方より、次のようなコメントが寄せられましたので、以下の通り、それをそのままに転載させていただきました。

 即ち、「(吉富先生不肖の生徒)/2016-10-22 03:00:47/はじめまして、ここに書かれている吉富先生の不肖の生徒です。/http://www3.osk.3web.ne.jp/~seijisya/seijisya_tsuushin/seijisya_tsuushin_013.html///
↑にも書かれていますが、彼はもともと大手真珠・宝飾品会社の駐在員として米国に赴任し、独立後は現地で学習塾を経営していました。/(土日に現地の日本人学校があってそこでも教鞭をとっていました)/私が教えていただいたのは20年程前で、その時にはセールスの仕事はやっていなかったはずです(汗)」とのこと。

 深夜にも関わらず、このような真に貴重な情報をお寄せになられた(吉富先生不肖の生徒)と仰る方には、篤く篤く御礼申し上げます。
 

○  体育祭子供みたいに日焼けしたほんとの大人になっちゃう前に  (富山市)松田梨子

 「富山市議会が政務活動費の件でてんやわんやの大騒ぎをしている折りも折り、わだぐしだぢのヒロインの松田姉妹のお姉さんの梨子さんは、またぞら、いきなし『体育祭』などと名詞を冒頭に置いだ歌を詠んでる。」
 「あんたのつもりとしては、この『体育祭』という名詞は、本歌の総タイトルとして置いだ名詞、青春ドラマが展開される場面を先ず最初に設定して置ごうどして置いだ名詞、とでも思っているのかも知りませんが、ここ最近は少し違ってはきたけれど、あんたの過去の入選作の多くは、これと同じような手法、一首の冒頭に一個の名詞を於いて時間設定だどが場面設定だどがをする、極めて安易にして、極めて常套的な手法に依る作品なんですよ!」
 「そうした点に於いでは、あんたの妹の松田わこさんも同じで、もしかすたら、こうした安易な手法で歌を詠むのは、富山市の松田家の父祖伝来の手法、短歌の家・松田家に漂っている臭みなのがも知れませんね。」
 「と、いうわげで、ここの辺りで一皮も二皮もむけなければ点に於いては、あんたがだ松田姉妹も、前述の室文子さんと全ぐ同じですね。」
 「えっ、わだしとしたごどが、まど外れでよげいなことを言ったのかしらん?」
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