臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

うつせみのわが息息を見むものは窗にのぼれる蟷螂ひとつ

2016年10月24日 | 今日の短歌
○  うつせみのわが息息を見むものは窗にのぼれる蟷螂ひとつ  斎藤茂吉(『小園』より)

 『小園』は、昭和二十四年に岩波書店から刊行された斉藤茂吉の第十五歌集であり、昭和十八年年頭(茂吉・61歳)から、同二十一年一月(同・64歳)に疎開先金瓶村を去り、更なる疎開先である大石田町に赴くまでの期間の作品・782首(初版)が収められていて、昭和二十四年八月に刊行された『白き山』と共に茂吉短歌の頂点を成すと言われている名歌集である。
 掲出の一首は、その裡でも尤も巷間に流布されている作品であり、『白き山』所収の「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」などと共に、斎藤茂吉の代表作品とされている名作短歌である。
 この時期に彼・斉藤茂吉が詠んだ作品が如何に充実していたかを証明する手立てとして、今、『小園』所収の彼の名作の中の数首を列挙してみると、以下の通りである。
  かへるでの赤芽萌えたつ頃となりわが犢鼻褌をみづから洗ふ
  このくにの空を飛ぶとき悲しめよ南へむかふ雨夜かりがね
  穴ごもるけだもののごとわが入りし臥處にてものを言ふこともなし
  くやしまむ言も絶えたり爐のなかに炎のあそぶ夕ぐれ
  沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ
  あかがねの色になりたるはげあたまかくの如くに生きのこりけり

 掲出の短歌「うつせみの〜」は「残世」と題して詠まれた連作中の一首であり、その時期(昭和20年)の作者・茂吉は、実妹・なほの嫁ぎ先である山形県金瓶村の旧家・斎藤十右衛門家の蔵座敷に居住していて終戦の日を迎えたのであるが、出征地から帰還するはずの家主・斎藤十右衛門の子息たちにその蔵座敷を明け渡さざるを得ない立場に立たされていて、文字通り「身の置き所なき」状態に置かれていたのである。
 作中の「息息」は、辞書的には「呼吸」と同じ意味であるが、本作に於いては「うつせみのわが息息を」で以て、「(行く所も住む所もなく、その上に生命力が衰えて)、細々と息を吐いている私を」といった意味に解釈されましょう。
 「息息」は「そくそく」と読むのであるが、同音の語としてこの一首の解釈の参考にしなければならないのは、形容動詞「則即(と)」である。
 形容動詞「則即と」は、「則即と悲しみが募って来た」などという例に見られる通り、「悲しみいたむさま・身にしみていたましく感じるさま」を表す語であるが、掲出の斎藤茂吉作中の「息息」は、この「則即」と同音であるが故に、作者の斎藤茂吉は、自作中の「息息」にも、「則即(と)」の意味を含めて掲出の一首を詠んだに違いありません。
 ならば、掲出の一首は「私は戦災で東京の家を失い、歌壇での地位も失い、現在、故郷・金瓶村の義弟・斎藤十右衛門の土蔵に逼塞しているのであるが、この肩身の狭い蔵座敷住まいからも間も無く追い出されようとしているのであり、しかも、現在の私は老齢であるが故にいつ死ぬかも知れない身の上である。斯くして、則即として息を吐いているだけの私の哀れな命を見つめているものは、この土蔵の窓に上って鉄格子にしがみついている蟷螂一匹だけである」といった風に解釈されましょうか。

 [反歌] 散る散らぬ紅葉に任せ吾のみは道の奥にて息息と生く  鳥羽省三
      山脈の深さ覚ゆる写し絵に命託して息息の呼吸(いき)

 上掲・二首の反歌は、本来は、山形県天童市にご在住の風流人兼カメラマンの今野幸生氏の写真ブログ「天童の家」所収の昨日の記事「蔵王紅葉6」に取材して詠ませていただいたものでありますが、本日・朝、その今野氏ご当人より、我がブログ宛てに「息息(そくそく)と/息息の呼吸(いき)/同じ意味でしょうか、違う意味なのでしょうか、教えてください」のいうコメントが入りましたので、この機会に、私の拙い作品にも登場する語「息息」の取材源となった斎藤茂吉作の紹介・解説かたがた、拙作中「息息と生く」及び「息息の呼吸(いき)」の解説をも兼ねて掲載させていただいた次第である。
 拙作、一首目中の「息息と生く」は、私としては「ハアハアと哀れな息継ぎをしながらも、やっとこさ私は命を繋いでいる」といった意味で、二首目中の「息息の呼吸」の方は、「哀れなことに、私はハアハアとやっとこさ呼吸をしながら(も生きている)」といった意味で使っているである。
 当然の事ながら、「ハアハアと哀れな息継ぎをしながらもやっとこさ命を繋いでい」たり、「哀れなことに、ハアハアとやっとこさ呼吸をしながらも生きている」存在は、作者の私・鳥羽省三であり、天童市の今野幸生氏では、決して、決してありませんから、何卒、宜しくご理解賜りたくお願い申し上げます。
 事の序でに述べさせていただきますと、今次、第二次世界大戦中に、歌人・斎藤茂吉は「国こぞる大き力によこしまに相むかふものぞ打ちてし止まん」「『大東亜戦争』といふ日本語のひびき大きなるこの語感聴け」といったような数々の戦争詠を詠み、軍部に協力し迎合していた事は、人も知る事実であるが、こうした彼の戦時中の言行が、いざ敗戦の運びとなるや、一転して非難されることになり、昭和二十一年一月発行の雑誌『人民短歌』第二号に掲載された小田切秀雄の「歌の条件」や、同年五月発行の「展望」五月号に掲載された臼井吉見の「短歌への訣別」などの評論文で以て槍玉に挙げられたことは、戦後に発行された斎藤茂吉の歌集「小園」や「白き山」に盛られた斎藤茂吉作の短歌にも大きな影響を与えたものと推測される。
 ならば、掲出の一首「うつせみのわが息息を見むものは窗にのぼれる蟷螂ひとつ」に見られる語「息息」にも、その影響が見られるものと判断され、この時期の歌人・斉藤茂吉が「息息」として暮らさなければならなかったのは、単に、斎藤十右衛門家の蔵座敷から追い立てを食らって宿無しになる事に対する心配だけでは無く、老いさらばえての健康事情に加えて、戦後復興せんとしていた歌壇での位置を失ってしまう事に対しての心配なども挙げられましょう。
 斯くして、斎藤茂吉の傑作中の傑作たる「うつせみのわが息息を見むものは窗にのぼれる蟷螂ひとつ」中の一語「息息」は、さまざまなる意味が含められ重なり合った意味深な一語である。







今日の清水房雄鑑賞(其の8)

2010年11月17日 | 今日の短歌
○  われ一言も言ふことの無く終りたる会議のさまも記しとどめつ

 『風谷』所収、昭和四十六年作である。
 題材となった場は、結社<アララギ>の編集会議でありましょうか?
 それとも、勤務校の職員会議でありましょうか?
 評者は後者と思っているから、その線に沿って鑑賞を進めたい。
 学校の職員会議ほど愚劣なものは無いと評者は思っている。
 県教委からの通達があったりして、何かを決定しようとしている校長等の学校幹部は、事前に落とし処を決めて置きながら、「直面している事態の解決を計るために、ご聡明なる先生方のお知恵を拝借致したいと存じます」などと芝居がかった猫撫で声で口火を切るのであり、そうした幹部に取り入ろうとする平教員は、頃合いを見計らって、幹部等が<落とし処>と思っているらしい線に添った発言をして、<しゃんしゃんしゃん>という運びとなるのである。
 その結論に至る前に何か爆弾発言めいた発言をする元気な教員が居るが、実のところは彼もまた、学校幹部の追従者であり、会議終了後に校長室に立ち寄って、「あの時は、ああいう発言が何方かから出なければ、何か八百長めいた、白けたような雰囲気になりそうだったので、不本意ながらああいう発言をさせていただいたのです。私の苦しい立場と気持ちを、どうぞご理解下さい」などと釈明している始末なのである。
 そうした会議の場では、<沈黙は金なり>とばかりに、一切「口を閉じるに如かず」と、本作の作者・清水房雄氏はお思いになったのでありましょう。
 そして、「われ一言も言ふことの無く終りたる会議のさま」を、帰宅後に日誌に「記しとどめ」たのでありましょう。
  〔返〕 沈黙は銀<否>銅以下かも知れぬ当たって砕けろ揺さぶりかけろ   鳥羽省三



今日の清水房雄鑑賞(其の7)

2010年11月16日 | 今日の短歌
○  現実を現実として受入れるまでにこころは年経たるなり

 『風谷』所収、昭和四十七年の作である。
 作者の清水房雄氏は、「現実を現実として受入れ」なければならない、と言っているのでは無い。
 「現実を現実として受入れるまでに」、作者ご自身の「こころは年経たるなり」と言っているのである。
 つまりは、「現実を現実として受け入れる」必要性の自覚を主題にしたと言うよりも、「現実を現実として受入れるまでに」自分の「こころ」がなってしまう程に、自分は「年」を「経た」のである、という自覚を主題にしたのである。
 本作をお詠みになられた当時の作者のご年齢は五十七歳。
 わずか五十七歳にしてこの自覚。
 平成二十二年の今と昭和四十七年当時とは、日本人の平均寿命も違うし、時間の進行速度にも大きな差が在るのかも知れません。
 しかし、今年の夏に古希を迎えた私は、未だに「現実を現実として受入れ」られないで、うろたえて居るのである。
 本作の作者の「受入れ」なければならなかった「現実」とは、漸く命脈の極まりつつある<アララギ>。
 そして職業人として、教育者としての自分の果たすべき役割り。
 そして、渡辺家の家計の担い手としてのご自分のお立場など、色々様々でありましょう。
 作者の清水房雄氏は、五十七歳にしてその全てを「受入れる」ことが出来、それを「受入れる」ことが可能になるまでのご自分のご年齢の積み重なりをご自覚なさって居られるのである。
 さて、古希を過ぎたるこの鳥羽省三の「受入れる」べき「現実」とは何か?
 かつて明眸皓歯を以ってうたわれたわが妻は、額と目元とに無数の皺が寄り、歯と言えば、口中入れ歯だらけとなり、今日の午後、その命の綱の入れ歯の手入れをしていたら、その入れ歯が割れてしまったと言って、只今、妹の車に同乗させていただいて、旧居住地近くの歯科医にお出掛けになっていらっしゃるのである。
 そして、明日・水曜日になれば、私にとってのもう一つの「受入れる」べき「現実」としての次男が、はるばる鷺沼からプジョー(自転車)を飛ばしてやって来るのである。
  〔返〕 現実はかくの如くに重くして我は齢を重ぬるばかり   鳥羽省三

今日の清水房雄鑑賞(其の6)

2010年11月15日 | 今日の短歌
○  どのベッドか嗚咽する如く読む聖書夜深くさめて吾の聞くゐる

 何処で何時、身に付けた<芸>なのかは忘れてしまったが、私も世間の例に見習って、「今日の清水房雄鑑賞」の稿を草するに当たって、それが短歌鑑賞の文の約束と言わんばかりに、毎回毎回、「『風谷』所収」などと言うことを、前置き的かつ形式的に書いてしまっているが、ふと立ち止まって考えてみると、清水房雄氏の第三歌集たるこの歌集のタイトル『風谷』が、何とその内容に相応しいタイトルであることかと思い、思わず嘆息してしまうのである。
 そのうちにブックオフの<105円棚>に並べられる運命に曝されているに違いない歌集の多くは、それをほんの思いつきで命名したと思しく、集中の一首、それもその歌集を上梓するに当たって、師匠格の風袋絡みの人物の覚え目出度き一首に出て来るだけで、その歌集に盛られているその他大勢の作品内容とも、歌集全体の主題(らしきものが在ればの話であるが?)とも何ら関わりの無いタイトルを、その表紙に、そのカバーに、その扉に、その奥付けに、でかでかと印刷しているのである。
 だが、私が、この五日間の「今日の清水房雄鑑賞」に採り上げさせていただいた六首、即ち「金持たせ帰ししあとに押黙りしばしありたる妻たちゆきぬ」、「酒屋の角まがれば雨あとの路地くらき押上三丁目君すでに亡き家」、「いつ逢ひても威勢よかりし頃の君先生をかこみわれら若かりき」、「救急車に横たへられ寒きしばしの間いたく遊離せしこと思ひゐき」、「この世代の斯かる団結の意味するもの怖れて思ふときも過ぎたり」、「金ですむ事も多いと言ひしのみ向きあひてゐて暑きまひるを」及び、今日採り上げる「東京警察病院四首」のいずれもが、それらを納めた歌集のタイトル『風谷』に相応しい内容なのである。
 救急車に乗せられて身体の底からぞくぞくと湧き上がって来る寒さを堪えながら、当面している事態から遊離している事を考えている作者。
 同士と頼み、ライバルとも思ってきた年下の歌人たちに裏切られ、自分は身動きもならない状態に置かれていたことを思って悩み、それでも、この頃はやっとその苦しい束縛状態から解放されたかな、などと甘いことを思っている作者。
 誰とも名を言えない人物からの無心を断り切れずに、なけなしの金を与えてしまい、最愛の妻からだんまりを決め込まれてしまった作者及び、だんまりを決め込んだ結果、気の弱い夫を心理的に追い込んでしまった妻。
 そして首尾よく金をせしめた招かれざる来客。
 自分は女房子供に泣いてせがまれても、そんなことは決して出来ないのに、「この世の中の事は金で済む場合もあるさ」などと嘯いて言う教育者と、例によって、そうしたご亭主の態度に不満を感じながらも、相変わらず一言も発しない細君。
 清水房雄氏の苦心の作品を掴まえて、年下の後輩でありながら、「君の短歌はつぎはぎだらけ」だなどと威張って言った友を懐かしみ、その友がかって住んでいた東京の下町中の下町<押上三丁目>の酒屋の角を曲がった所に在り、雨の後には蛞蝓だらけになってしまう路地裏の家を思い起す清水房雄氏と、その口の悪い年下の友の<小宮欽明君>とその<小宮欽治君>がかつて住んでいた湿っぽい家。
 これらの歌に登場する人も事も物も何もかもが、「風谷」の世界に住む者であり、「風谷」の中の出来事であり物である。
 これら六首の中で唯一例外的なのは、「いつ逢ひても威勢よかりし頃の君先生をかこみわれら若かりき」という作品に登場する三人の人物なのであるが、彼ら三人とて、その周りには、轟々と音を立てて寒い風が吹いていたのでありましょう。
 要するに、彼らの生きていた時代そのものが「風谷」の世界なのである。
 前置きがやたらに長くなってしまったが、そろそろ本題に戻そう。
 ここに亦、「風谷」の住人とも言うべき二人の人物が登場する。
 その住人とは、言うまでも無く、深夜の「東京警察病院」の「ベット」で「嗚咽する如く」「聖書」を「読む」患者と、自分も同じ立場にありながら、その「嗚咽する如く」「読む」「聖書」を「さめて」「聞きゐる」作者の二人である。
 「東京警察病院」とは、まさか、何か犯罪を犯したと疑わしき人物ばかりを収容する、二重ロック付きの特殊な病院では無いだろう。
 恐らくは、警察関係者の互助会か福利厚生団体が経営する病院であり、ごく善良な警察関係職員や、場合によっては、評者や作者のようなごく善良な一般市民も治療を受けに訪れたり、入院することが出来たりする病院に違いない。
 だが、この四首連作が「東京警察病院」という言葉で統括されていたりすると、そこに登場する人物の全てが、真夜中に暗いベッドの上で「嗚咽する如く」「聖書」を「読む」迷える子羊的な人物も、それに耳を傾ける教育者兼歌人も、「泣くごとき声の北京語」で自分の「病状」を「電話」で「告げいるらしき」謎の人物も、「個室にうつされてゆく」に当たって、療養の友の「ひとりひとりにあいさつ」をしている「老いびと」も、登場する者の全てが、何か残忍な犯罪を犯して、その罰として、地獄の入り口の三途の河原で不毛の<石積み>をさせられている人物のように思われてならないのである。
 またまた、脱線してしまったが、この一首について述べると、四句目の「夜深くさめて」という表現が要注意である。
 「嗚咽する如く読む聖書」は、本作の作者たる「吾」が、単に痛みに堪えきれずに「夜深く」目覚めて聴いているだけのことであったならば、この作品の下の句は、おそらくは「夜深く覚めて吾の聞くゐる」であったに違いない。
 それがそうならずに、「夜深くさめて吾の聞くゐる」となったのは、「嗚咽する如く」「聖書」を読んでいる人物と同じ立場にある作者には、「人の弱みに付け込んで、イエス・キリストの廻し者の奴らは、可哀想な迷える子羊を騙しおって」といった穏やかならぬ気持ちが在ったのかも知れません。
 もう少し駄弁を弄しますが、私はかつて<横浜警友病院>という警察関係の総合病院で健康診断を受診したことがある。
 その時は、私は必ずしも<教員不適格者>とか<犯罪者>としてその病院に連れて行かれたのでは無く、私の雇い主の神奈川県教育委員会からの指示によって、私以外の大勢の善良かつ良識ある先生方と一緒に、<横浜警友病院>で健診を受診したのでありましたが、実を申し上げますと、その時の私には、心中穏やかならぬものが在ったことを、此処に包み隠さず報告させていただきます。
  〔返〕 祈るとも恨むとも無く呟ける聖書読む声深夜に響く   鳥羽省三


○  泣くごとき声の北京語病状を告げゐるらしき長き電話に

 ここにも「風谷」からの冷たい風が轟々と音を立てて吹いているのである。
 あの「北京語」は、本当は、産業スバイや麻薬取引の暗号なのでは無いかしら、などとも思ったりしてしまいます。
 私も亦、深夜の院内の公衆電話で、あと幾許も無い自分の命や病状について、細々とした声で告げていた声を聞いたことが何回かありました。
  〔返〕 入り婿で<おべこ>の名ある彼がせし真夜の病舎のケータイの声   鳥羽省三
 作中の「おべこ」とは、<知ったか振りをする者>を蔑視して言う東北方言である。 彼の博識振りに嫉妬心を抱き、彼が某家の「入り婿」であることを密かに軽蔑していた周囲の者から「おべこ」という在り難く無いあだ名を奉られていたS氏は、私のかつての知人でありましたが、私が郷里の病院に入院していた時期に、彼も三回目の癌摘出手術とかで入院中で、彼が真夜中に病廊の片隅で何処かに電話をしている声を耳にしたことが何回かありました。
 私が退院した後間も無く、彼はあの世に旅立ちましたが、あの時の彼の切々たるケータイの話し声は今でもまだ、私の耳底にこびり着いているような気がします。
 その後、たまたま聴いたところに拠ると、彼はその病気とそれが原因の失業ゆえに、婚家の家付き娘の奥さんとの仲が必ずしもすっきりと行っていなかったとのことでした。
 されば、彼があの入院中の、あの真夜中に掛けていたケータイ電話の話し相手は、いったい何処の何方だったのでありましょうか?


○  西の窓におこる讃美歌八月の十五日今日は日曜日にて

 本作が詠まれたのは、昭和四十六年の真夏と思われる。
 あれから二十六年後の暑い夏の盛りに、あの日のことを、本作の作者は、「西の窓に」突如「おこる讃美歌」によってまざまざと思い知らされたのである。
 詠い出しの「西の窓に」という表現は、真夏の西日の暑さを思わせると同時に、突如「讃美歌」が起こるに相応しい環境としての<西方>を意味するものでありましょうか?
 それはそれとして、その「讃美歌」に耳を傾けている作者は戦争体験者であるから、その「讃美歌」の歌い声を耳にすると同時に、彼の心はあの「八月の十五日」の世界に運ばれて行ってしまい、自分がやはり「風谷」の住人であることを意識せざるを得なかったのでありましょう。
  〔返〕 ナースらも唄っているか讃美歌を聖母の如き淡き胸して   鳥羽省三 


○  個室にうつされてゆく老いびとが一人一人にあいさつしたり
 病状が好転して「個室にうつされてゆく」などということは先ず在り得ない。
 入院患者が相部屋から個室に移されて行く場合は、その人が大金持ちであるとか、身辺を警護しなければならない大物政治家であるなどの特殊な場合を除いては、手術後で特殊な加療を要する場合とか、もはや手の施しようが無いほどに病状が悪化している場合などでありましょう。
 したがって、その「老いびと」は自分の残り少ない命を知って、今生の別れのつもりで、それまでの病床仲間の「一人一人にあいさつ」しているのでありましょう。
 「あいさつ」をする「老いびと」とそれを受ける同室の患者仲間。
 そして彼ら患者に同じ立場でその様を熟視している作者の心の中には、一様に「風谷」からの激しく冷たい風が轟々と吹き荒れているのでありましょう。
  〔返〕 握りたる力の弱き掌に残り少なき命感じる   鳥羽省三

今日の清水房雄鑑賞(其の5)

2010年11月14日 | 今日の短歌
○  金ですむ事も多いと言ひしのみ向きあひてゐて暑きまひるを

 『風谷』所収、昭和四十六年の作品である。
 「金ですむ事も多い」とあるが、清水房雄氏がこの作品を詠んだ昭和四十六年の夏は、昭和四十年の歳末頃から昭和四十五年の夏頃まで続いた、いわゆる<いざなぎ景気>も一段落を遂げ、長期安定期と呼ばれる時期の入り口に差し掛かった頃ではあるが、やがてやって来る<バブル景気>を前にして、私たち日本人の間に<世の中のことは万事金任せ>といった風潮が兆し始めた頃であるから、教育者としての清水房雄氏の心中にそうした思いがあったとしても不思議とは言えない。
 「金ですむ事も多い」とは、何か早急に対応しなければならない事態に直面して、例によってだんまりを決め込んでいる奥様に対して、清水房雄氏自身が仰った言葉でありましょう。
 その事態は、どんな事態であったのでありましょうか?
 格別親密な間柄でも無かった知人がお金を借りに訪れたのかも知れない。
 親戚や姻戚などの親しい間柄の者が何か事故でも起して、被害者たる相手側から現金での補償を要求されたのかも知れない。
 もっと大胆に言えば、清水房雄氏ご自身の女性問題であったかも知れない。
 作者ご自身が、それ以上の何事も仰って居られないのだから、作者をして「金ですむ事も多い」と言わしめた原因の何たるかは、この評者には知りようも無い。
 只でさえ暑い夏の「まひるを」、本作の作者・清水房雄氏とその奥様の二人は、会話と言えば、只一言「金ですむ事も多い」と言っただけで、それっきりご夫妻とも黙したままで「向きあひて」座っているだけだったのである。
 私たち鑑賞者からすれば、その当時の清水房雄氏は教育者であり、一応は名の知れた歌人でもあったから、その彼の口から、田舎政治家や渡世人の口からでも出るような「金ですむ事も多い」などという不謹慎な言葉が出ようとは、到底信じられない。
 しかし、その言葉は間違いも無く、世間に名の知れた歌人にして教育者の清水房雄氏の口から発せられたものである。
  〔返〕 金で済む事ばかりではない世の中は例えば自作の歌集の評価   鳥羽省三




今日の清水房雄鑑賞(其の4)

2010年11月13日 | 今日の短歌
○  この世代の斯かる団結の意味するもの怖れて思ふときも過ぎたり

 『風谷』所収、昭和四十六年作である。
 詠い出しに「この世代の斯かる団結」とあるが、「この世代」とはどんな「世代」を指し、「斯かる団結」とはどんな「団結」を指すのか、作者と無縁の人間としての私には、それを知る何の手立ても無い。
 しかし、短歌史を紐解いてみると、それまで新しい時代の『アララギ』のエースたらんとしていた近藤芳美(1913生)氏を中心に「未来短歌会」が結成され、その結社誌『未来』が創刊されたのは1951年(昭和26年)の6月であり、その創刊メンバーは、近藤芳美氏と志を共にする岡井隆(1928年生)氏、吉田漱(1922年生)氏、細川謙三(1924年生)氏、後藤直二(1926年生)氏、相良宏(1924年生)氏、田井安曇(193年生)氏・河野愛子(1922年生)氏など、本作の作者・清水房雄氏の一世代後の青年たちであった。
 1913年生まれの近藤芳美氏は、1915年生まれの清水房雄氏とほぼ同世代であるから別としても、近藤芳美氏以外の『未来』の創刊メンバーは、清水房雄氏の次の世代のアララギ派の歌人として大いに嘱望されていた若手歌人であったから、彼ら一同の「アララギ」からの大挙脱退は、彼らを信頼すべき仲間として頼む一方、彼らを密かにライバル視していた清水房雄氏にとっては大きなショックであり、自分に大きなショックを与えた彼らを一括りにして、「この世代」と呼ぶことは大いに在り得ることなのである。
 しかも、彼ら「この世代」の者たちの「アララギ」からの脱退理由が、その頃、東京都世田谷区奥沢の自宅を「アララギ発行所」とされ、その当時の『アララギ』の実質的な責任者とも目されていた、五味保義(1901年生)氏の独裁的なやり方に反発したからであるとの噂も立っていたから、その五味保義氏を先輩として仰ぎ、兄事していた清水房雄氏にとっては、その痛手は決して小さくは無かった筈であり、そうした彼らの挙を「この世代の斯かる団結」という言葉で以って表現することも、大いに考えられ得ることである。
 しかし、本作をお詠みになられた昭和四十六年当時は、清水房雄氏も既に還暦近いご年齢になって居られ、今更、『未来』創刊に掛けた彼らの「団結」を「怖れ」るような心境では無くなっていたものと思われる。
 作者ご自身が自分の年齢を自覚すると共に、その年齢に至る以前に体験した手痛い出来事について、「あの時は本当にびっくりしたなー。本当に身が縮まる思いをしたものだ」などと思うことは、清水房雄氏に限らず、何方にでも在り得ることなのである。 
  〔返〕 鳩山や菅や仙谷世代など怖るに足らずと石原ジュニアー   鳥羽省三

今日の清水房雄鑑賞(其の2)

2010年11月11日 | 今日の短歌
○  救急車に横たへられ寒きしばしの間いたく遊離せし事思ひゐき

 第三歌集『風谷』所収、作者五十七歳時の作品である。
 作者・清水房雄氏の経歴的なことには一切関知しない評者としては、何が故の「救急車に横たへられ」なのか、「思ひゐき」「遊離せし事」とは、どんな「事」なのかは、一切存じ上げないが、「救急車に横たへられ」「寒きしばしの間」「いたく遊離せし事」「思ひゐき」という、この一首に描かれている内容が、自分自身の過去の体験とも重なっていて、頗る興味深いのである。
 私は、これまでの半生に於いて、前後三回、救急車で運ばれたことがあるが、その二回目は、通勤帰りのバスの降車口で、他の乗客に押されるかして停留場の鉄柱に激突し、頭頂から大量の出血があってのことであった。
 その時、私の見知らぬ親切な人が公衆電話で救急車を呼んで下さったので、命を取り留めたのであったが、救急車が現場に到着して、病院に運ばれて行く間が、とても寒く、とても長く感じられたのである。
 その寒くて長い時間の間に私の頭にあったことは、私のコレクションの一つである、大量の銀行の貯金箱をどうしようか、友人油谷満夫氏の油屋コレクションに寄託しようか、それとも、町田天神の骨董市に行って売り捌こうかしら、ということであったのだ。
 命の瀬戸際に在って、自分のコレクションの処置をどうしようか、などという、不届きな事を考えるとは、それこそまさしく、清水房雄氏のこの一首にある「いたく遊離せし事思ひゐき」では無いでしょうか?
 清水房雄氏の場合の「いたく遊離せし事」とは、一体どんな「事」であったのでしょうか?
 と、申し上げても、相変わらず<ぶっきらぼう>の清水房雄氏のことであるから、何も語って下さらない。
 清水房雄氏が何も語って下さらないから、私は誰から頼まれたわけでもないのに、自分の思い出などを語って事態を収拾しなければならないのである。
  〔返〕 救急車で三度運ばれ三度とも生きて帰ってブログやってる   鳥羽省三 
      救急車に三度乗せられ三度生き面目無くて歌を詠んでる      々
      救急車に三度乗せられ三度生き細き命にしがみついてる      々
 

今日の清水房雄鑑賞(其の1)

2010年11月10日 | 今日の短歌
○  金持たせ帰ししあとに押黙りしばしありたる妻たちゆきぬ

 『風谷』所収、昭和四十七年、作者・五十七歳時の作である。
 時代が時代であるから、この頃には、清水房雄(本名・渡辺弘一郎)氏の下にも、金品の無心に現れる者の一人や二人ぐらいは居たに違いないし、その者が清水氏の戦友だったり、歌仲間だったりしても少しも不思議では無い。
 しかし、作者ご自身が何も語っていらっしゃらないのだから、お金の無心を目的として訪れた、その客と作者との関係は一切不明であり、その行く末も不明であるが、とにもかくにも、乏しい家計の中から、首尾よくなにがしかの現金を引き出すことに成功した客が帰ってから、ご主人たる清水房雄氏とその無心客とのやりとりの帰趨に注目していた清水氏の奥様が清水氏の書斎に入って来て、「あの男(女かも?)に、やっぱりお金をやってしまったのね。私は最初からそうなるものと分かっていましたのよ。あなたって人は本当に気が弱く、馬鹿みたいに人がいいだけの人なのね。でも、今月の我が家の暮らしはどうするの。私は知らないから」と言わんばっかりの顔をしながらも「押し黙り」、しばらくしてから部屋を立ち去って行った、というのである。
 「押黙りしばしありたる」という<五七句>が、本作の眼目でありましょうか?
 「しばし」という副詞で示される時間の長さは、物理的には、ほんの数分に過ぎないと思われるのであるが、その間に、夫婦の胸中に於いて、どれだけの激しい火花が散らされたことか?
 私・鳥羽省三の唯一の短歌の師とも言うべき森田悌治氏(故人・群緑の選者)は、生前、「今のアララギ系の歌人の中で唯一例外的に尊敬できるのは『青南』清水房雄氏だけである。清水房雄氏の良さは、あのぶっきらぼうなところに在る。あのぶっきらぼうな作品の中で、清水房雄氏は、一体どれ位多くの事を語らずして語っていることか。<言わぬは言うに増される>という格言は、清水房雄氏の為に作られたようなものだ」などと仰っていた。
  〔返〕 押し黙る妻の胸中推し量り清水房雄氏無言決め込む   鳥羽省三