臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の朝日歌壇から(12月23日掲載・其のⅢ・笑い納め版)

2013年12月31日 | 今週の朝日歌壇から
[馬場あき子選]

(石川県・瀧上裕幸)
〇  泥葱の束を洗へば真白なる光の中に亡き母は見ゆ

 「泥葱の束を洗へば真白なる」とは、「何かの啓示か?」とも思われる、含蓄の深い十七音である。
 〔返〕  泥葱の泥を漱げば濁りたる泉の底に潜める巨鯉
 庭の泉に飼い置いた鯉の命を頂いて、洗いにしたり、甘煮にしたりしていた故郷の正月。
 ブログを通じて今年新たに便りを交わすようになった天童市ご在住のKさんのお住いの庭にも、鯉魚を飼い置く泉が在ったように思われるが、Kさんも亦、かつての私たちのように、正月の肴として、「鯉の洗い」や「鯉の甘煮」をお召し上がりになるのでありましょうか?
  

(佐世保市・近藤福代)
〇 人工授精に生れし子健やかに草を食む乳牛の群れにおだやかな冬

 「草を食む乳牛の群れ」の中に「人工授精に生れし子(牛)」が交じっている景色を詠んでいるのであるが、「人工授精に生れし子牛)よ、柔らかな草を沢山食んで健やかに育て!乳牛の群れたちにおだやかな冬よ来たれ!」との、作者の祈れるような気持ちが込められている一首である。
 私たち読者は、大幅な字余り作品であるのにも関わらず、この一首を敢えて二席入選作とした、選者・馬場あき子氏のご配慮とご心境とに思いを致すべきでありましょう。
 選者の馬場あき子氏は、昭和三年一月二十八日生まれであり、明けて八十八歳の米寿の春をお迎えになるのである。
 〔返〕  多摩の岡柿生の里に住まひゐていとも健やか馬場あき子氏は


(気仙沼市・千葉迅太)
〇  廃線の鉄路踏まえて親しげな羚羊の瞳に今朝もまた会ふ

 詠い出しの「廃線の鉄路踏まえて」から連想されるのは、過ぎし「3・11」の東日本大震災の惨禍である。
 斯かる大惨禍を踏まえた上での「親しげな羚羊の瞳に今朝もまた会ふ」という、穏かな措辞には、安らぎと癒しとを感じさせられるのである。
 東日本大震災に取材しながらも、震災そのものをストレートに詠もうとしないのは真に宜しい。
 敢えて申し上げますが、美原凍子さんなどの朝日歌壇の常連作家諸氏は、この際、掲歌の作者・千葉迅太さんの創意あふれる作風を見習うべきでありましょう。
 東北の山間部には、数多くの日本羚羊が棲息しているのであり、私も、八年間の田舎暮らしを通じて、彼ら・羚羊たちの澄み切った瞳に度々見据えられたことでありました。
 〔返〕  敗戦の惨禍乗り越え六十余平成甲午の春迎へむとす  


(西条市・亀井克礼)
〇  冬の日に乱反射するビニールハウスクロイツェルソナタ流れ苺が太る

 「永田和宏選」九席を参照されたし。


(静岡市・篠原三郎)
〇  芽鱗とう言葉に出会い辞書を引く橅の林の早春待たる

 作中の「芽鱗」とは、改めて辞書を引くまでも無く「植物の冬芽を包んでいるうろこ状の微小な葉」である。
 ところで、掲歌の作者・静岡市ご在住の篠原三郎さんは、「芽鱗」という「言葉に出会い」、その意味が解らないままに「辞書」を引いたのでありましょう。
 通常、言葉の意味を知らなかったりすると、思わぬ恥を掻いたりする場合が多いのであるが、篠原三郎さんの場合は、「芽鱗」という「言葉」の意味を知らなかったが故に「辞書を引く」機会を得、その結果、朝日歌壇の「馬場あき子選」に入選作となるような短歌を詠むを得たのであるから、時に拠っては、言葉の意味を知らない方が、知っているよりも幸せを齎すものである。
〔返〕  冬樹なほ芽鱗で以って芽を守る東京電力政府が守る

 
(東京都・大村森美)
〇  山見ずはいつもと変わらず磯菊が土石流禍の島を彩る

 詠い出しの「山見ずは」とは「もしも山を見ないのならば」という意味である。
 即ち、打消しの助動詞「ず」に下接して「ずは」という形を取る時の「は」は、順接仮定条件の接続助詞「ば」と同じような働きをするのである。
 結社に所属されているベテラン作家の方々の中には、係助詞「は」のこうした用法を、正しくご理解なさらないままに使っていて、しかも意味の通じる作品を詠んでいる方がまま居られるのであるが、理論的な裏付けが出来ていて使っている場合と、その逆の場合とでは大きな違いがありますから、この機会に、連語「ずは」の用法を正しくご理解なさいますように。
 即ち、一首の意は「今は秋、磯菊がいつもの年と変わらずにこの島の秋を彩って咲いているのであるが、実の事を言うと、この島は、過ぎし『3・11』の東日本大震災に見舞われ、未だに上流から押し寄せた土石流に拠って埋められている島なのである。この島の山は至るところ崩壊状態に置かれているのであるが、そうしたこの島の山の実態を見なかったとしたならば、未だに土石流禍に泣かされているこの島の悲惨な状態が解らなく、いつもと変わらないように思われるのでありましょう」といったところでありましょうか。
 〔返〕  家ごとに〆飾り居て例年と変はらざりける正月風景


(つくば市・池上晴夫)
〇  共に病む身を庇い合い歩みきし深まる秋を惜しむかに似て

 「深まる秋を惜しむかに似て」とは、老齢にして他病に悩む私としては、涙無しには読めません。
 〔返〕  共に病む吾にしあれば涙して一首哀しく拝読し居り


(岡山市・北村文男)
〇  西行の越えたる海の浜に立ち讃岐望めばさざ波ばかり

 素朴な疑問ではあるが、地名としての「海の浜」は存在するのでありましょうか?
 存在するので無ければ、「西行の越えたる海の浜に立ち」という表現は、極めて恰好の悪い表現でありましょう。
 西行は、その当時、文字通りの小島であった「吉備の児島」から四国へと渡海した、との説が在りますが、そうした事柄なども頭の中に入れながら、更なる推敲が望まれるのである。
 〔返〕  西行の渡海せるとふ児島から讃岐望めばさざ波ばかり
 今日は大晦日、今年新たに黄泉路を行く存在となった、歌手・島倉千代子が、「日本レコード大賞・特別賞」受賞曲「愛のさざなみ」を引っ下げて、紅白の舞台に立ったのは昭和四十三年の大晦日のことでありました。
 それにしても、どのように改作しても、「さざ波ばかり」という五句目の恰好悪さには変わりがありません。


(西宮市・室文子)
〇  先生も一緒にとんだ大なわはスリル満点体ポカポカ

 「スリル満点体ポカポカ」という七七句は、作者が学童であることを考慮してみても、あまりにもお粗末である。
 〔返〕  おなご先生一緒に大縄跳びましょうおとこ先生視ているからね


(海老名市・川上益男)
〇  ものごとに相性あるは常ならむ小樽の夜は雪降るがよし

 「ものごとに相性あるは常ならむ」という鹿爪らしい上の句と言い、「小樽の夜は雪降るがよし」という低俗歌謡めいた下の句と言い、真にくだらない作品が入選したものである。
 作者の川上益男さんとしては、それなりの思い入れがあるのでありましょうが?
 選者の馬場あき子先生も、少々焼きが回ったのでありましょうか?

 〔返〕  伊呂波似歩屁吐常奈良夢有為乃奥山毛布肥絵丹鳧
 当返歌を以って、巳年の笑い納めとさせていただきます。
 読者の皆様、よいお年をお迎え下さい。

今週の朝日歌壇から(12月23日掲載・其のⅡ・決定版)

2013年12月30日 | 今週の朝日歌壇から
[永田和宏選]

(アメリカ・大竹幾久子)
〇  真珠湾の報復という原爆を落とした国に帰化せり我は

 「真珠湾の報復という」という、理由にならない理由で以って「原爆を落とした国」に「帰化」することへの戸惑いと辛さと悲しみと!
 自らの生い立ちを省みた時、作者の大竹幾久子さんにとっては、米国への帰化は一種の裏切り行為とも思われ、少なからぬ罪の意識も感じたのでありましょう。
 しかしながら、結局のところは、帰化条件を満たしているからこそ帰化したのであり、帰化した方が、これからの暮らしに何かと有利と判断したからこその帰化でありましょう?
 米国への帰化に伴う「悲しみ」と「打算」。
 私は、名曲『ラプソディ・イン・ブルー』の作曲者「ジョージ・ガーシュウィン」の生涯を思い遣る時、いつもそうした悲しみと打算とを感じるのである。

 掲歌に就いて、今少し拘ってみましょうか。

 作者・大竹幾久子さんは掲歌をお詠みになるに当たって、「真珠湾の報復」という、大義名分にならぬ大義名分で以って「原爆」という「悪魔の殺戮兵器」を、祖国・日本の広島と長崎に「落とした国」、即ち「アメリカ合衆国」に「帰化」せざるを得なかったご自身の哀しみの情を私たち読者に伝えようとしたのであり、それと同時に、そうした自覚の元にこれからの人生をアメリカ合衆国の一市民として生きて行こうとする覚悟のほどをも語ったのでありましょう。
 しかしながら、読者の一人である私・鳥羽省三にとっては、この作品に接することを通じて、作者・大竹幾久子さんのそうした創作意図を充分に感得すると共に、世界一の経済大国にして国際警察国家を自認している国、即ち、我が国の同盟国たる「アメリカ合衆国」に帰化した、一女性の打算的な気持ちをも感得せざるを得ないのである。
 その理由は、掲歌がこうした主題を扱った作品としては、稀に見る傑作であったからでありましょう。
 短歌作品で謂う「傑作」とは、「作者ご自身が自覚なさっている自らの顔、即ち『作品の鑑賞を通じて直接的に覗い知れる顔』とはもう一つ別の作者の顔が透かして見えるような作品」を指して謂うのでありましょう。
 〔返〕  ほくそ笑む仲井真知事の顔を見よ!「して遣ったり!」の顔ではないか!
      沖縄をスケープゴートに栄えたる日本国の民なる吾は  


(松阪市・こやまはつみ)
〇  あの時に止められなかった大人たちと未来の人から言われたくない

 「あの時に止められなかった大人たち」は、我が日本国や福島県や宮城県や福井県や佐賀県に限らず、日本全国各地、世界中に、今もなお、遍く生存しているのでありましょう。
 〔返〕  人類に未来があらば言ふならむ「止められなかった大人憎し」と


(横須賀市・戸村健児)
〇  湾側の鎧戸閉ざし房総を旅せし日あり秘密保護して

 たかが横須賀から房総半島に行くのに「湾側の鎧戸閉ざし」とは、余りにも用心深く、あまりにも大袈裟な言い方ではありませんか!
 戸村健児さんがお住いの横須賀市から房総半島までは、東京湾フェリーに乗ってしまえばたかだか一時間三十六分!
 東京湾アクアラインを使って自家用車を飛ばせば、 川崎から木更津までは、わずかに一時間足らずの距離ではありませんか!
 それに、「湾側の鎧戸」を閉ざして「保護」しなければような「秘密」は、お宅様の何処に在るんですか!
 床下に千両箱でも埋まっているとでも言いたいのでありますか?
 いくら「特定秘密保護法」が制定されたからといったって、それに便乗して勝手なことを言ってはいけません。
 〔返〕  湾側の雨戸を閉めて出掛けよう三崎港まで鮪を買いに
      湾側の鎧戸閉じて出掛けよう三浦大根三本買いに


(東京都・白倉眞弓)
〇  子を思い押されるようにデモに来たと夜の公園のママと赤ちゃん

 「デモ」と言ってもさまざまであり、つい先日、私が、新大久保駅前で目にした「デモ」は、いわゆる「反韓デモ」とかで、「韓国≠悪・韓国=敵・拠って殺せ」などと書いた看板をでかでかと掲げ、旭日旗とか言う大旗を振り廻し、悪魔の口から吐き出される呪文めいた言葉を大声で叫びながらの、ものすごく気持ち悪い「デモ」行進でありました。
 日本国憲法第21条に「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」と記されていて、私たち日本人は、「言論の自由」を保障されてはおりますが、もの事には限度というものが在り、「言論の自由」を拡大解釈して、いわゆる「ヘイトスピーチ」の自由を主張せんとする輩が存在しているのである。
 私たち良識ある日本国民は、彼らの存在を決して許してはなりません。
 願わくは、掲歌中の「デモ」が、私がすぐる日に新大久保駅前で目にしたような類の「デモ」では無からんことを!
 〔返〕  冬のデモは身体に悪い願わくばメーデーのデモに参加されたし


(津市・西東南北)
〇  多い方がみんな良いとは限らない五分の一の酸素に生かされ

 警歌の作者・西東南北さんの仰る、「みんな良いとは限らない」ところの「多い方」とは、具体例を挙げて説明すれば、東北楽天イーグルスのそれと比較した場合の今年の読売ジャイアンツの先発投手陣でありましょう。
 背番号順に指折り数えてみれば、「澤村拓一(15)/杉内俊哉(18)/菅野智之(19)/スコット・マシソン(20)/内海哲也(26)/高木京介(28)/福田聡志(29)/宮國椋丞(30)/今村信貴(45)/クリス・セドン(49)/公文克彦(57)/小山雄輝(59)/江柄子裕樹(62)/笠原将生(63)」などと、一ダース余りも居た筈の先発投手候補が、新入りの菅野智之以外は誰一人としてものの役にもたたなくなってしまい、マー君一人の東北楽天イーグルスに、見事に負けたではありませんか。
 ところで、本作は、穿った読み方をすれば、衆参両議院に於いて過半数を遙かに超える議席を擁する、与党・即ち「自由民主党及び公明党を皮肉った作品」のようにも思われるのであるが、作者の西東南北さんが「五分の一の酸素に生かされ」ている状態の療養者であるとするならば、「多い方がみんな良いとは限らない」のは、酸素吸入器で以って、西東南北さんが吸入する酸素の濃度乃至は吸入量なのかも知れません。
 〔返〕  敵・前科・借金・面皰・顔の皺、少なければ少ないほど良し
      肉眼ではっきり見える星の数師走の空にもっと多かれ


(富山市・松田梨子)
〇  足の裏さわれば温か笑ってる私も泣いてる私も乗せて

 マラソンランナーがレースから脱落すれば、主催者側の用意した選手収容車両に乗せられて出発地点まで回送される、という話を聴いたことがありますが、掲歌の作者・松田梨子さんがマラソンに出場する訳は無いし、恥ずかしながら、現在の私は、全くお手上げ状態である。
 と、言うよりも、意味不明の凡作なのかも知れません。
 〔返〕  足の裏触れば肉刺が出来ていて痛くてとても走れん私


(桐生市・村松正敏)
〇  父逝きて三年動き今朝止まる不意に形見となる腕時計

 ごく普通の意味からすると、「何方かが亡くなって、時計など、故人の愛用した品物が残されたとする。その愛用の品を、故人と縁のある誰かが形見分けとして受け取った時点に於いて、その品物は『形見』と呼ばれる」のでありましょう。
 然るに、作者の村松正敏さんは「父逝きて三年動き今朝止まる⇒不意に形見となる腕時計」とお詠みになっているのである。
 ということは、村松正敏さんにとっては、「父逝きて三年動き」、そして「今朝止まる」、その止まった時点に於いて、「父」の「腕時計」は「不意に形見」となったということになる。
 真に不合理な認定ではありますが、父を亡くしてから三年が過ぎ、今また、父の形見の腕時計にまで止まられてしまった、村松正敏さんのご心境は、私にとっても実によく解ります。
 〔返〕  父逝きて三年動いた腕時計 突然壊れた形見の時計


(柏市・秋葉徳雄)
〇  延命の治療は絶対しないでね又聞き流し落葉を鳴らす

 五句目の「落葉を鳴らす」が意味不明瞭であり、再考を擁する七音である。
 〔返〕  「延命の治療は絶対しないでね」言いつつもまた涙浮かべる


(西条市・亀井克礼)
〇  冬の日に乱反射するビニールハウスクロイツェルソナタ流れ苺が太る

 「苺を栽培しているビニールハウスの内部に音楽CDを持ち込んで麗しい音楽を流すと栽培している苺が太ったり甘くなったりする」といった類の話は、よく耳にすることであり、実証的な研究も為されている、とか。
 しかしながら、そうした場合の「音楽」とは、「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト」の室内楽もしくはピアノ曲、或いは「ヨハン・ゼバスティアン・バッハ」などの軽快なバロック音楽に限られましょう。
 然るに、掲歌の作者・亀井克礼さんは、「冬の日に乱反射するビニールハウスクロイツェルソナタ流れ苺が太る」とまで仰る。
 「クロイツェルソナタ」と言えば、あの苦悩と悲しみの権化のような「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」作曲のヴァイオリンソナタである。
 あの矢鱈にけたたましいくせして悲愴めかしたヴァイオリンの調べを聴いて「太る」者がいたとしたら、私が早速、大相撲の伊勢が浜親方に注進に及びましょう。
 以上、苺栽培とクロイツェルソナタの取り合わせは、ミスマッチもいいところでありましょう。
 〔返〕  冬空にクロイツェルソナタ流れておずおずと杉の裂け目に我は手をやる


(山口市・中村ヒデ)
〇  うれしくてとび上がるほどうれしくて時には地球をはなれてみたい

 「『とび上がるほどうれし』いから『時には地球をはなれてみたい』」と、言いたいのでありましょうか?
 それとも、「『時には地球をはなれて』みたら『うれしくてとび上がるほどうれしくて』たまらなくなるだろう」と、言いたいのでありましょうか?
 推敲不足である。
 〔返〕  嬉しくて跳び上がるほど嬉しくてステップ踏んで泣き笑いした

今週の朝日歌壇から(12月23日掲載・其のⅠ・決定版)

2013年12月30日 | 今週の朝日歌壇から
[高野公彦選]

(福岡市・宮原ますみ)
〇  秘密保護法案衆院通過せりひつそりと枇杷の花咲く日に

 「高野公彦選」の首席入選作たる宮原ますみさんの御作を前にして、私の胸中はいささか複雑である。
 何故ならば、今週の「高野公彦選」には、昨今の朝日歌壇の最もトレイディーな題材とも言える「特定秘密保護法」に取材した作品が上位入選しているからである。
 掲歌に就いて言えば、「秘密保護法案衆院通過せりこっそりと枇杷の花の咲く日に」という作品は、一見して分かる通り、極めて月並みな題材に取材した極めて単純な手法の作品である。
 作者の宮原ますみさんは、掲歌の上の句に「秘密保護法案衆院通過せり」と、朝日新聞の第一面の見出しのような昨今の政治問題に取材した句を置き、下の句にはそれとは対照的に「こっそりと枇杷の花の咲く日に」と、ご自身の生活身辺に取材した、細やかながらも心温まる光景を描いた句を置いているのであるが、こうした手法は、今さら私が申し上げるまでも無く、万葉以来の我が国の歌詠み人が飽くこと無く使い続け、使い古された手法であり、「短歌史の底辺に堆積している柩の中で白骨化しているが如き手法」と言わなければなりません。
 こうした古典的手法を用いた作品でありながら、宮原ますみの御作には、他の類想歌とは異なり、作者ご自身の平凡な日常生活と、優しくて理性的な性格の一端を覗わせるような側面が示されていて、そうした側面が示されているが故に、私・鳥羽省三は、掲歌を一概に月並みな作品と評して排斥しようとはしないのである。
 下の句に置かれている「ひつそりと枇杷の花咲く日に」とは、掲歌の作者・宮原ますみさんの平凡な日々の中に在る、ささやかな喜びと心のときめきを表した措辞でありましょう。
 それとは対極的に、上の句に置かれている「秘密保護法案衆院通過せり」とは、心穏やかな生活をしようと常々願っている、宮原ますみさんの心に逆らうようにして、この頃まま在る、忌まわしい事件に対する怒りの感情を表わした措辞でありましょう。
 〔返〕  穏かな日々にてあれと願ふのみプリムラの鉢を日向に置かむ

 
(松阪市・こやまはつみ)
〇  あの時に止められなかった大人たちと未来の人から言われたくない

 私たち常民は、いつの世にも「あの時」の政治権力者の横暴を止める力も無く、「あの時」の激しい流れに抵抗することも出来ないままに生きて行かなければならない存在なのかも知れません。
 したがって、どんなことが在っても、何を言われても、ただひたすら生き続けて行くことだけが、私たちの示し得る、唯一最低の抵抗姿勢なのかも知れません。
 とは言え、「あの時に止められなかった大人たちと未来の人から言われたくない」といった気持ちぐらいは備えていなければならないとは、常々思ってはいるのですが・・・・・・・・。
 〔返〕  ままならぬ日々続き居る極月に愚息購ひ来し文旦一顆


(熊本市・近藤史紀)
〇  特別な君が産まれた特別の日は穏やかな日常にあり

 ご多忙なる御公務の中、ご子息様ご一家に就いてのご配慮など、何かと御心配なご様子である。
 下々の国民の一人としての私は、只々「穏かなご日常であれかし」と禱るのみである。
 〔返〕  静かなる午年来たれと願ふのみ師走日曜川崎市晴れ


(福岡県・北代充明)
〇  黒と赤夫と妻がそれぞれのベンツに乗りて鍼うけにくる

 「黒と赤夫と妻がそれぞれのベンツに乗りて鍼うけにくる」とは、真に贅沢三昧な暮らしをしている馬鹿夫婦である。
 そんな馬鹿夫婦には、この際、きついお灸を据えてやらなければなりませんが、生憎、掲歌の作者のご職業は「灸師」では無くて「鍼師」であるから、きついお灸を据えてやることは出来ません。
 したがって、今回は我慢に我慢を重ねて、件の馬鹿夫婦に「スタンダールご夫妻」との渾名を奉って、治療所のスタッフ共々「笑い納め」と洒落込みましょうか。
 〔返〕  『赤と黒』スタンダールとちゃいまんねんただのあほどす笑うておくれ

 
(ホームレス・宇堂健吉)
〇  紙上では市民権ありホームレスわが歌載れり初めて載れる

 宇堂健吉さん、二度目のご入選、真におめでとうございます。
 掲歌は、自らを「ホームレス」と称しながらも、「紙上では市民権あり」「わが歌載れり初めて載れる」と、自作の初入選を喜んでいる様子を隠し憚ること無く言い表していて、真に好感の持てる爽やかな一首に仕立て上げられているのである。
 しかしながら、貴方が何時までも「ホームレス歌人」のままでいるのは宜しくありません。
 初代ホームレース歌人の公田耕一さんが、突如神隠しに遭ったようにして紙面から消えて以来、既に二年余りの歳月が経過し、主宰の朝日新聞社及び選者諸氏は、朝日歌壇の次代を担うスター探し躍起になっている現状もあれば、貴方がホームレスのままでいることは、彼らにとっても貴方ご自身にとっても真に好都合といった側面もありましょう。
 しかしながら、それでは、貴方は客寄せパンダの役割りを果たしているだけであり、真実の歌人と評価された訳ではありません。
 貴方が「ホームレス」と称しているが故に、貴方が朝日歌壇に於いて特別扱いされている現状を、貴方ご自身はどのように思っているのでありましょうか?
 朝日歌壇の投稿規定は、「投稿は(中略)作品の横に住所、氏名、電話番号を明記してください」となっているのであり、「ホームレス」という言い方は、決して「住所」を表した言い方ではありません。
 〔返〕  宇堂さんの食う寝る所が住むところ是非ともされたし住民登録


(横浜市・中西紀子)
〇  不意打ちの如く笑窪がかわいいと恋した人の今にして言う

 出し抜けに、そんな惚気話をされたって、こちとらが困ってしまいますよ!
 それに四句目の「恋した人の」という言い方は、短歌表現としてはあまりにも幼稚な言い方ではありませんか?
 あんたさんは、阿呆とちゃいますか?(笑)
 惚気話はどうでもよろしおすが、もう少し推敲しなさいよ!
 あんたさんは、推敲するってことをご存じですか?
 推敲するってことは、Hするってこととちゃいますねん!(笑)
 〔返〕  不意打ちの如く参拝に及びしは売名以外の何ものでも無し  


(アメリカ・大竹幾久子)
〇  真珠湾の報復という原爆を落とした国に帰化せり我は

 「慙愧の念に堪えない」と言いたいのでありましょうか?
 それとも、単なる形式的な言い訳をしているのでありましょうか? 
 そのどちらにしても、今となっては「遅かりし由良之助」ということになりましょう。
 〔返〕  敗戦を促す為に原爆を落とした国に縋る他無し


(東京都・狩集祥子)
〇  紅葉の間にしぶく袋田の滝の香りは天からのもの

 三句目以降の措辞を「袋田の滝の香りは天からのもの」とした点が惜しまれる。
 「滝の香りは天からのもの」とは、あまりにも幼稚で、あまりにも俗な表現ではありませんか?
 掲歌は、取材源が観光土産の絵葉書擬きの風景ですから、表現に工夫を凝らしたとしてもそれほど多くのことを望めません。
 だが、三句目以降の措辞を「袋田の滝の香りは天からのもの」とした為に、観光土産の絵葉書以下の作品になってしまったのである。
 〔返〕  紅葉散るまにまに繁吹く袋田の滝の水こそ天与の恵み


(福岡県・住野澄子)
〇  両替の紙幣確かめ深々と機に礼をして媼は去れり

 さしたる根拠も無しに「両替の紙幣」と言い切ったのは、千慮の一失ともいうべき失態でありましょう。
 掲歌の作者・住野澄子さんにお訊ね申し上げますが、「貴女は、件の媼が現金自動預け払い機の前に立って『両替』ボタンを押すのを、確かに目視していたのでありましょうか?それとも、件の媼に『両替なさったんですか?』と訊ねたのでありましょうか?」「そのどちらにしろ、貴女は件の媼に対して真に失礼なことをしてしまったということになりましょう。お年寄りだからって、馬鹿にしてはいけません。」
 と、つい、うっかり、冗談めいたことを記してしまいましたが、件の媼の行為が両替であったか否かの問題を別にすれば、掲歌は、なかなかの傑作である。
 偶数月の十五日は、年金の支払日(振り込み日)であるが、当日の九時過ぎになると、銀行や郵便局のATM装置の前には、高齢者の男女が「門前市を成すが如き」状態で並ぶのであり、彼らの一人一人は、自分の順番が来るとつかつかと近づいて行って不慣れな手付きでATM装置を操作し、暫らくして件の装置から紙幣やコインが吐き出されるや否や「早く取らなければ、鳥羽省三めに盗まれてしまうから!」と言わんばかりに、わずかばかりの紙幣やコインを抜き取り、その後、おもむろに彼の不愛想なATM装置に向って深々としてお辞儀をしながらも、「受け取った紙幣の数に間違いが無いか?」とばかりに、「一枚、二枚、三枚」と数えながらもその場をいそいそと立ち去るのである。
 「澄子さんは見て来たような嘘を言う」とは、昨今の川崎市内の流行語であるが、掲歌を通じて住野澄子さんが仰っている事には、「両替の」の件以外には、嘘偽りがございません。
 〔返〕  お辞儀して「ありがとさん」と言ったとて返事もしないATMよ


(富山市・松田わこ)
〇  予定よりずいぶん早く目が覚める東京の雨が窓をたたいて

 東京スカイツリーに登るのを楽しみにしていたのに、「東京の雨」が夜明け前からホテルの「窓をたたいた」のでありましょうか?
 掲歌の作者・松田わこさんは、ご自身が思っている以上に田舎っぺなので、世界一の大都会・東京に来たら、興奮のあまり「予定よりずいぶん早く目が覚める」のは当然ですから、「予定よりずいぶん早く目が覚め」た責任を「東京の雨」の所為にしてはいけません。
 それに、今日の「東京」は久しぶりの雨天なので、東京スカイツリーに登っても富山市は勿論、世界遺産の富士山だって見えませんよ。
 〔返〕  窓の外は霧が懸って何も見えず東京スカイツリー登っただけ損

今週の朝日俳壇から(12月23日掲載・其のⅣ・決定版)

2013年12月29日 | 今週の朝日俳壇から
[長谷川櫂選]

(静岡県函南町・中谷しのぶ)
〇  かぐはしき心のかたちラ・フランス

 果物屋やスーパーマーケットなどから、一パックを買って来て食べる程度では、「かぐはしき心のかたちラ・フランス」などと、暢気なことを言っても居られるのでありましょう。 
 だが、「ラ・フランス」の生産農家の手伝いを八年間もしていた私としては、「およそこの世の中で、ラ・フランスほど扱い難い果物はありません」とでも、言いたくなるのである。
 「ラ・フランス」は摘み取りの時期が問題であり、タイミング良く摘み取ることが出来たとしても、その後の措置が頗る難しいのである。
 仮に、選果場や農協の職員の判断が宜しくなくて、市場への出荷の時期を間違おうものなら、二足三文以下の価格で買い叩かれてしまうのである。
 かくして、「ラ・フランス」という季節限定の果物は、生産者泣かせの果物なのであるが、これを市場から仕入れて販売する、果物店やスーパーマーケットなどの販売店側にも問題無しとしません。
 「ラ・フランス」という、日持ち、品持ちの良くない果物は、早朝に仕入れた品物を店頭に並べて販売しようとしても、お客様の手に触れたが最期、極めて簡単に傷が付き、売り物にならなくなってしまうのである。
 それに売り残そうものなら、その翌日に一山幾らの特価販売品にしても、お客は殆ど寄り付かないのである。
 「ラ・フランス」に限らず、物事の全ては、その外形を見てその実質を判断しようとしても、それはほとんど不可能なのである。
 疑う者は安倍首相の、先般の行状をご覧下さい!
 彼のこの度の蛮行は、我が国の平和と安全と国際的な信用を危機に陥れたのみならず、我が国の経済に、一体全体、どれだけのマイナス効果を齎したことでありましょうか?
 その罪は、数百兆弗に値すると言わなければなりません。
 〔返〕  かくすればかくなるものと知りつつも止むに止まれぬ靖国参拝
      かくすればかくなるものと知りもせでかくなりにけり安倍馬鹿チャンリン


(横浜市・守安雄介)
〇  残されて妻の布団に潜りけり

 我が国の自然主義文学を代表する作品の一つとされている、田山花袋作の小説『蒲団』を思わせる作品である、とまで述べたならば、あまりにも褒め過ぎでありましょうか?
 作中の「残されて」とは、「妻に死に遅れて」という意味であるということは、何と無く解るのであるが、掲句の読者の全てが、私のような物分りの良い人間とは限りませんから、もう少し解り易い作品に仕立て上げなければなりません。
 〔返〕  死に遅れ妻の布団に潜るやらメスのワンコと共寝するやら


(敦賀市・村中聖火)
〇  雪吊の百万石の高さかな  

 加賀・前田百万石のお膝元、金沢市の名勝・兼六園の「雪吊」に取材した作品である。
 「雪吊の百万石の高さかな」という句に接した瞬間、私たち読者は、樹木の先端から四方八方に張り巡らされた「雪吊」を、その先端まで見上げるような思いに捉われるのであるが、それと共に、前田利家以来の加賀百万石の歴史にも思いを巡らせるのである。
 と言うと、私が、句中の「百万石」という語の働きの絶大さを説明しているようにも思われるのでありましょうが、実はその逆である。
 「百万石の」という語をこの句の中七とした時の作者の魂胆は、あまりにも見え見えであり、この句を秀句とする事が出来なかった原因をなしているのである。
 〔返〕  加賀鳶の面子懸けたる梯子乗り諸手広げて雪吊りバンザイ


(フランス/ルブラン・レア)
〇  冬隣りニッキのかほり母の手や

 「冬のある日、隣家の人から『ニッキのかおり』のするキャンディをプレゼントされて、それと同じ香りをしていた『母の手』を思い出した」というだけのことでありましょうか?
 だとしても、国際親善及び斯道普及の為には、掲句が入選作とされたのも問題無しとしなければならないのかな?
 〔返〕  外つ国のサンタさんから貰ひたるニッキの香り清きキャンディ


(東京都・望月清彦)
〇  炭詰まりゐて生き生きと炭俵

 米櫃に来春まで食えるだけの白い米が詰まっていて、炭小屋に雪消えの頃まで使っても使い余る程の炭俵が積み上げられ、しかも、その一袋一袋ごとに膨れるほどにも黒い木炭が詰まっていることを知った時の嬉しさよ!
 私たち日本人の欲望が、衣食住の充足だけに拠って満たされていた、古き良き時代を、懐かしく思わせるような作品である。
 「感覚が古い!」と言って笑う奴らには、勝手に笑わせておけばいいのである。
 〔返〕  炭小屋に隠れ潜みし吉良殿が首討たれたる元禄辛巳


(岐阜市・阿部恭久)
〇  熱燗で最後の晩餐致し度く

 「熱燗で最後の晩餐致し度く」などと、心細いことを言わないで下さいよ!
 〔返〕  熱燗で大関飲むのも宜しけれ出世叶わぬ十両力士


(東京都・金子文衛)
〇  牡蠣鍋の機嫌よき音出しはじむ

 「機嫌よき音出しはじむ」との着意着想が頗る宜しい。
 〔返〕  鴨鍋の鴨の素首断つ時の哀しき声を思へば喰へぬ


(取手市・御厨安幸)
〇  来年は貸し出すといふ冬田かな

 来年のことは分りません。
 自公連立政権が瓦解でもしようものなら、先行きの短い農業政策なんかは、何処にぶっ飛ばされるかも判らないからである。
 〔返〕  線引きの思惑外れ五反歩の田圃耕す者など居らぬ


  (大和郡山市・宮本陶生)
〇  敵国はどこかも知らず開戦日  

 今から72年前の昭和16年12月8日、我が国・日本は真珠湾攻撃に拠ってアメリカ合衆国との戦争に突入したのである。
 掲句の作者・宮本陶生さんは、その当時、未だ若年にして、「敵国はどこかも知らず開戦日」を迎えた、という訳でありましょうか?
 〔返〕  仮想敵此処と決めての演習に駆り出されてはならぬ我が国
 

(君津市・染谷昇)
〇  椿ひとつ大き音たて落ちにけり

 椿の花が散る時の様子をよく表し得た作品である。
 ところで、「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人もひとなれ」とは、細川ガラシャ夫人の辞世の歌である。
 〔返〕  散りぬべき時知らずしてどの面を下げて参るか靖国神社

今週の朝日俳壇から(12月23日掲載・其のⅢ・決定版)

2013年12月28日 | 今週の朝日俳壇から
[金子兜太選]

(ドイツ・ハルツォーク洋子)
〇  窓外に狸あそべる治療かな

 少し大袈裟に言えば、掲句の作者・ハルツォーク洋子のいらっしゃる「ドイツ連邦共和国」での治療院の置かれた環境とか実態とかが、それとなく解るような作品であり、のどやかな光景を描いた作品でもある。
 〔返〕  窓外に狸遊ばせ鍼治療ばんげのしゃこは狸汁だべ
                <注> 「ばんげのしゃこ=ゆうしょくのおかず」 


(えびの市・川野一広)
〇  闘病記仔細を極め日記果つ

 無惨なる哉、「仔細を極め」たる「闘病記」の「果つ」るとは!
 〔返〕  見し夢を語り尽くして日記果つ菅原孝標女儚し
      弁解を極め尽くして辞職せり猪瀬都知事の哀れな末路
               <注> 「菅原孝標女=すがわらたかすえのむすめ」


(相馬市・根岸浩一)
〇  紫陽花の即身仏のごと枯るる

 枯れてなお閑寂として庭の一隅の景物を成す、即ち「即身仏」なり。
 〔返〕  楓なほ即身仏とは謂ひ得ざる枝に残れる一葉麗し


(川越市・横山由紀子)
〇  福島を置き去りに街クリスマス

 「福島の現在は過去の福島県民に拠って既に選択されていたのである」といった側面も在ることを忘れてはいけません。
 政府首脳や財界人との間に太いパイプを持つと称して、福島原発誘致の為に明に暗に蠢き回った地元出身の代議士及び、彼ら政治屋を支えて権益を得よう、利得に与ろうとして暗躍した地元の小物政治屋、そして、彼らの愚かな策謀を見逃していた地元住民にも責任が無いとは言えません。
 「3・11」の東日本大震災自体は、確かに天災である。
 しかしながら、その震災に伴っての原発事故は、福島原発を巡ってのそれらの悪徳悲喜劇を一挙に清算し、あからさまにするが如くに発生したのであり、天災では無く、むしろ人災である。
 「3・11」以前の福島には、「福島県には福島原発が在るから、福島県は東北地方の県に非ずして首都圏に属する県である。福島県民は首都圏民であり、先進県住民である」などと豪語した、不逞の輩が存在していたでは無いか!
 過去の事とは言え、斯かる傲慢極まりなき事を口にしていた不逞の輩も含めて、福島県民の全てが被災者なのでありましょうか?
 その反省無くして、福島の復興は叶いません。
 〔返〕  除染とて今また無駄金注ぎ込んで悪徳業者を肥らせるのか!

 提言① 福島原発の所在地を中心とした一定の地域を、現代科学の粋を集めた防護壁に拠って包囲し、その内部に、今後、国内各地から陸続として生産(?)されることが予測される核関係廃棄物の半永久的な処理施設を建設すること。
 提言② <提言①>に拠って定められた区域を、核廃棄物の処理に当たるなどの、特殊な任務を帯びた者を除いた一般国民の半永久的な立ち入り禁止区域とすること。
 提言③ <提言①及び②>に拠って定められた区域を、一億年後の我が国の首都候補地と指定し、以って半永久的に故郷を失う地域住民の慰藉に宛てること。
 「補則」 <提言①及び②>及び③>に拠って定められた区域に宛てる土地の提供者に対する補償金などの、この提言に関わる細々とした事項は、現今の国民の総意に基づいた国会の審議に拠って決定すること。また、今後一切、除染などの名目で以って国庫金を支出しないこと。   
 
 
(白岡市・高井元一)
〇  極月やスタントマンの掠り傷

 「掠り傷」の有無はともかくとして、「スタントマン」などという、特殊な業務に当たる者は、そんじょそこらに滅多矢鱈に存在するものではありません。
 掲句の作者・高井元一さんがお住いの白岡市は、埼玉県中東部に在る人口5万1千人余りの田舎町である。
 ここ数年の間に、日本全国各地に、映画撮影やテレビ番組撮影の利便に供するための施設が、雨後の筍の如く設置されているのであるが、埼玉県白岡市も亦、そうした施設を設置して雇用促進策の一端としている地方公共団体でありましょうか。(笑)
 〔返〕  爾後我ら埼玉県の住民を「ダさいたま」などと呼ぶこと勿れ


(フランス・バジル歩美)
〇  焼き栗の香り見下ろすエツフエル塔

 私は寡聞にして、「焼き栗」などという下賤な食べ物は、「上野のアメ横」といった我が国の汚らしい盛り場でしか買えない物と思っていたのでありましたが、この度、掲句に接することを得て、件の超庶民的な食べ物が、「花の都・パリ」の、しかも「エツフエル塔」直下の地に於いても販売されていることを知りました。
 なお、インターネットで検索したところ、我が国の言葉で謂う「栗」に相当するフランス語は「Châtaigne」であり、同じく「焼き栗」に相当する語は「Châtaigne de rôti」であることを知りました。
 お蔭様にて、さまざまなる勉強をさせていただきました。
 真に有り難うございます。
 尚、私が眠れないままに、毎晩のように耳を傾けている、NHKラジオの「ラジオ深夜便」の報じるところに拠ると、バジル歩美さんのいらっしゃるフランスのパリの気温は、私の住んでいる日本の川崎のそれよりもかなり低めとのこと。 
 就きましては、お風邪など召されませんように十分にご注意なさって下さい。
 外出の際は、少々恰好が悪いとは存じますが、「ベン・ケーシー型」のマスクなどをお召しになられた方が宜しいかと存じます。
 重ね重ね指示らしきことを申し上げ、大変失礼致しました。
 それでは「さようなら」、フランス語では「Au revoir」。
 〔返〕  犬の糞踏んで歩いて花のパリ焼き栗などは食べたくもなし


(秦野市・熊坂淑)
〇  力そば餅は二切れ世はなさけ

 国際親善かたがたフランス語学習なども致したく存じ、インターネットで、我が国で謂う「力そば」に対応するフランス語の表現を検索したところ「Propulsez le côté」なる回答を得ましたが、果たして是で宜しいのでありましょうか?
 冗談は扨措き、掲句の構造に就いて説明しますと、上五の「力そば」は発語であり、掲句の作者・熊坂淑さんは、その発語から手掛かりを得て、「力そば」とはお餅の入った蕎麦であることを認識するに至り、更には、「力そば」に入れるに相応しいお餅の数が「二切れ」ぐらいであろうとも認識し、「力そば餅は二切れ」と気負い込んで口にしてしまったのである。
 その後は言葉の勢いであり、流れである。
 「力そば餅は二切れ世はなさけ」とまで一気に言ってしまった作者の脳裏には、曾てマスコミの話題となった、栗良平作の短編小説『一杯のかけそば』のストーリーのみならず、伊呂波歌留多に見られる「旅は道連れ世は情け」といった格言なども掠めていたのでありましょう。
 〔返〕  食う客を呼び込んでから蕎麦を打つ三輪街道の弥助そば屋


(光市・原美智子)
〇  青みかん空気パキツと黙したり

 「どんなに酸っぱいだろうか!」と思いながらも、友人から貰った「青みかん」を口に入れようとした瞬間の、悲壮な決意と緊張感を言い表そうとしたのでありましょうか?
 〔返〕  青みかん口に入れれば酸っぱくない昔の蜜柑と全然違う


(宇治市・植山俊宏)
〇  逆光の役人と犬十二月

 「警察の犬」と謂い、「特高の犬」と謂い、「火つけ盗賊検め方の犬」とも謂う。
 また、それとは別に、世に謂う「役人」を蔑視して「犬役人」とも謂う。
 斯くして「役人」及び「犬」には、忌まわしく蔑視するべきイメージが常に付き纏っているのである。
 掲句は、「役人」及び「犬」に付き纏う、そうしたマイナス・イメージを前提にして成立した作品でありましょう。
 〔返〕  逆光に犬吠え捲り役人が威張り腐って通り行く五時


(札幌市・樋山ミチ子)
〇  割りきれぬ失せもの左の手袋

 「失せもの」が「右の手袋」であったならば、割り切れるのでありましょうか?
 〔返〕  左手であそこ掴んでおしっこし汚したがゆえ捨てた手袋

今週の朝日俳壇から(12月23日掲載・其のⅡ・決定版)

2013年12月27日 | 今週の朝日俳壇から
[稲畑汀子選]

(東かがわ市・桑島正樹)
〇  古暦過去を捨てたる軽さかな

 十二月の下旬ともなると、身ぐるみ剥がれてしまった今年の暦も「古暦」とされてしまうのでありましょうか?
 それはともかくとして、「過去を捨てたる軽さかな」とは、なかな含蓄の深い御認識である。
 「昨年の初夏、元カレに振られたとかで泣きの涙でひと夏を過ごし、私の遠縁に当たる祖母を心配させていた新潟県長岡市在の浮かれ娘が、来春早々一児の母になる」とか。
 彼女の人騒がせな振る舞いなどは、それを是とするにしろ、否とするにしろ、「過去を捨てたる軽さかな」と呼ぶに相応しい一件でありましょう。
 また、定年後の私が、一度ならず二度、三度に亘る転居の結果、現役教師時代に稼いだ金の大方を注ぎ込んで買った土人形などの蒐集品や書籍などを棄てて、再び首都圏暮らしを始めたのも、今斯くしてブログの記事を綴っているのも、「過去を捨てたる軽さかな」と呼ぶに相応しい愚行なのかも知れません。
 ところで、昨日の午前中、我が日本国の総理大臣閣下・安倍某氏が、「積年の念願を果たし、不戦の誓いを堅持する決意を新たに」して、「痛恨の極み」の靖国神社参拝の愚行に及んだとのこと。
 彼・安倍某のこの度の愚行は、私たち国民としては「過去を捨てたる軽さかな」と言って笑ってばかりは居られない程の愚行なのかも知れません。
 〔返〕  安倍ちゃんの過去を忘れた軽さにはUSAも静観出来ず
      安倍ちゃんのなりふり構わぬ愚行にて日本経済先行き真っ暗


(長岡市・長谷川回天)
〇  口に皮残り種無し葡萄かな

 「虎は死んでも皮残す」とは、昔から知っていることであるが、「種無し葡萄は口に皮残す」とは、掲句を接して初めて知ったことである。
 それはともかくとして、「種無し葡萄」と言えば、どうしても忘れることが出来ないのは、葡萄栽培農家に嫁いで半世紀余りも汗水流して働いた挙句、児胤に恵まれないままに一昨年の秋に亡くなってしまった、私の姉のことである。
 残された夫も、その後を追うようにして昨年の三月に亡くなってしまいましたので、あの広大な葡萄畑は、碌に手入れも為されないまま、今頃は豪雪の下敷きとなっていることでありましょう。
 〔返〕  種無しの葡萄栽培半世紀胤も残さず逝きにし姉よ


(京都市・久世幸子)
〇  毛糸巻くよそ見の夫を叱りつつ

 「毛糸巻」の手伝いは、小学時、私もよく遣らせられたものである。
 ただ単に両手を広げていればいいだけのことであるが、「よそ見」をしたりすると、たちまち「毛糸」がこんがらがってしまうので、油断しては居られませんでした。
 〔返〕  毛糸巻く手伝いぐらいは出来るから無為徒食の輩では無し


(香川県琴平町・三宅久美子)
〇  極月の両手を零れゆく時間

 私たち人間の手は二本。
 その二本しかない手で以って、私たち人間は、正月様を迎える為にあれもこれも遣らなければならないのである。
 「大晦日まではまだ二週間ある!」「まだ十日はある!」「まだ一週間ある!」などと言って、手を拱いているうちに、今日は十二月の二十七日であり、大晦日まではもう中三日しかありません。
 「師走」といい「極月」といい、昔の人はよく言ったものである。
 〔返〕  きんとんも膾もゴマメも買えばよしお金で買えぬは愛情ばかり
      愛情もお金を出せば買えるとてキャバクラ通いを止めない従弟


(福山市・広川良子)
〇  聞き役に徹する耳の寒さかな

 「聞き役に徹する」ことの難しさ!
 聞き役に徹して居たって居なくたって、「耳」はただものも言わずに黙っているだけなのであるが、聞き役に徹して居る時の「耳」は、凍り付くような「寒さ」を堪えて居なければならないのでありましょうか?
 〔返〕  聞き役に徹する耳を持たぬため町内会長連続三期


(静岡市・松村史基)
〇  自転車の正面にある寒さかな

 掲句の作者・松村史基さんは、乗り慣れないマウンテンバイクに乗って、今しも、風上の三島方面に向かってひた走りに走っているのである。
 〔返〕  自転車の前籠重くハンドルを捌き損ねて路肩に衝突


(東京都・藤森荘吉)
〇  街角にちらほらポインセチアなど

 掲句は、「稲畑汀子選」の12月23日掲載分としては、かなり旧作に類する作品と判断されるのである。
 〔返〕  街はいま〆飾り売りの真っ最中ポインセチアは訳有り処分


(八代市・山下しげ人)
〇  すべきこと山のごとくに十二月

 二人暮らしの我が家に於いては、煤払いと言ったって、ほんの形式だけの事。
 障子貼りをする必要もありませんし、ドブ浚いをする必要もありません。
 また、お節料理と言ったって、わずか三万円も出せば三段重の豪華なものが買えます。
 年賀はがきは、病気で長期入院していた四年前から出さなくなってしまいました。
 それに、年始客と言ったって、長男一家四人に独身の次男を加えた五人だけ。
 したがって、「すべきこと山のごとくに十二月」とは、「一体全体、何処の世界の話だろう?」などと思っているのである。
 〔返〕  書くべきこと山の如くに十二月「一首を切り裂く」今年は割愛


(岡山市・伴朋子)
〇  著ぶくれて我の背中の遠さかな

 「我の背中の遠さかな」とか仰いますが、「我の背中」に手が届かなくなったのは、「着ぶくれ」た事だけが原因ではありません。
 その原因の主たるものは、パソコンのキーを叩いているばかりで、両手を開いたり後ろに回したりする運動を遣らなくなってしまったことにありましょう。
 今から十数年前の事でありますが、年金に関わる相談が有って、私は、社保庁の某地方出張所に足を運んだことがありました。
 その折に知ったことでありますが、社保庁の高給取りの木っ端役人たちは、相談客を百人以上も自分の机の前の椅子に座らせたり、立たせておいたりして、時折り席を外して自席に戻ろうとしないのであった。
 その当時、私の家の隣家のご子息が社保庁の某地方出張所に勤務していたので、そのご子息に、その件に付いて質問したところ、そのご子息曰く「年金相談担当職員は、パソコンのキーを叩くのが仕事であるから疲労が激しい。そこで、組合側と社保庁側との取り決めで、『パソコンの前に四十五分間座っていたら、必ず座席を離れて十五分間の休憩を取ること』との内規が在る」とのこと。
 私は、掲句の作者・伴朋子さんに向って、「あなたも社保庁の木っ端役人どもに見習って、パソコンの前に四十五分間座ったら、十五分間休憩を取りなさい!」などということは、例え、口が腐れても言う気がありません。
 しかしながら、物事というものは程々にしなければなりません。
 〔返〕  着膨れて仕事もしない公務員全員馘首行政改革


(姫路市・蔭山一舟)
〇  光とは飛んでゆくもの散紅葉

 我が目を掠めて、ちらちらと輝きながら散って行く「紅葉」を眺めていると、「光とは飛んでゆくもの」ということが、実感として解るのである。
 〔返〕  お金とは飛んで行くもの去年今年物見遊山の余裕など無し

今週の朝日俳壇から(12月24日掲載・其のⅠ・決定版)

2013年12月26日 | 今週の朝日俳壇から
[大串章選]

(山形県西川町・板坂歩牛)
〇  冬耕や世直しのごと鍬を打つ

 「世直しのごと鍬を打つ」とは、なかなかなる心意気を示したものである。
 二十一世紀も十年余りを経過した今、自ら「鍬」を打って「冬耕」に勤しんでいる、東北・山形県の兼業農家の御隠居様のお気持ちとしては、「坂本龍馬が無理ならば、この際は、橋下某でも我慢しますから、何卒、世直しをして下さい!あの農家の敵、安倍とか謂う馬鹿総理を叩き潰して下さい!」といったところでありましょうか?
 掲句の作者・板坂歩牛さんがお住いの山形県西川町は、「月山のある町」をトレードマークとしている田舎町であるが、銘水百選に選ばれている月山の豊富な湧水と寒暖の差を利用して、同町の農家が生産している美味しい山形県産米「ひとめぼれ・はえぬき・つや姫・コシヒカリ」の四銘柄は、「米の食味ランキング」に於いて、最高ランクの「特A」を連続受賞して、首都圏を中心とした消費地の方々から絶大なる支持を集めているのである。
 〔返〕  「ひとめぼれ・はえぬき・つや姫・コシヒカリ」山形産米「特A」受賞!  


(松戸市・大井東一路)
〇  野晒しの能舞台より雪女

 寸評に「落語の『野晒し』に出てくるのは若い女の幽霊であるが、ここに登場するのは雪女」とあるが、掲句中の「野晒し」とは、「(建築物などが)野外で風雨にさらされた状態」を指して謂うものと判断される。
 察するに、掲句の作者は、「風雨に曝されて荒れ果てた能舞台」を目前にして、「この野晒しの能舞台から白くて艶めかしい雪女が現れ出たならばどんなに嬉しいことか!私は氷り付いて死んでもも本望であるから、彼の雪女の胸にしがみ付いて行きたい!」といった、真冬の夜の幻想に耽っているのでありましょう。
 尚、謡曲の『雪鬼』『雪』などが掲句の成立に関わっているかも知れませんが、何分、不勉強の為に詳しいことは分りません。
 〔返〕  不思議やな是なる雪の中よりも女性一人現れ給う  
                      <注> 女性一人(にょしょういちにん)
  

(輪島市・大向稔)
〇  湯豆腐の昆布のやうなひとなりし

 掲句中の「ひと」の性格に就いての比喩にしても、姿態に就いての比喩にしても、「湯豆腐の昆布のやうなひとなりし」とは、なかなか味わい深い比喩である。
 仮に「性格に就いての比喩」だとしたら、「酸っぱさも苦さも辛さも甘さも噛み分けた味わい深い女性」ということになりましょうか。
 〔返〕  味噌汁の出汁じゃこの如き女にて骨が固くて食う気はしない

  
(大村市・小谷一夫)
〇  雪女月を鏡に化粧せり

 「月を鏡に」とは、あまりにも有り触れた比喩である。
 グーグルの検索窓に「月を鏡」と入力して検索ボタンを押してみたところ、「月を鏡にした金星観測」、「月を鏡に―樽屋三四郎言上帳 (井川香四郎著・文春文庫)」、「月を鏡のように映す水面を見て(東方鏡蛟紀)」、「月を鏡にしてみる小樽(まみすけのラストショー/月を鏡にしてみる)」といった記事が続出するのである。
 しかしながら、「雪女」が「月を鏡」にして「化粧」をしているといったイメージは、季節柄、備えるべき能力を備えた男性ならば、誰でも抱く幻想でありましょうか?
 〔返〕  大村の五家原岳に月が出た明日の競艇ツキが来るかも


(奈良市・田村英一)
〇  着ぶくれてユトリロの絵の坂のぼる

 「モーリス・ユトリロ(1883/12/26~1955/11/5)」と言えば、格別な西洋絵画史通ではない私の感覚としては、我が国の明治から大正ごろに掛けて、酒と女に溺れて、サクレ・クール寺院の見えるモンマルトルの坂道をふらふらと歩き廻っていたアルコール依存症の青年のように思われるのである。
 だが、彼が七十一歳の人生を閉じたのは1955年11月5日のことであるから、彼・ユトリロと私たちとは時代を同じくしていた、と言っても過言ではありません。
 酒に纏わる彼の噂は、数え上げたらきりがありませんが、その代表的なものは、1911年4月12日に「公道を泥酔状態で歩いていて性器を露出した」との恥辱的な罪で逮捕されて「軽犯罪の罰金50フラン、法規違反の罰金50フラン」を課せられた、あの一件でありましょうか。
 その破廉恥なユトリロが描いたのは、坂道であったり、三叉路であったり、路地裏であったり、教会の見える風景であったりして、二十世紀初頭の何一つ変わり映えのしないパリの街の月並み風景であったが、彼・ユトリロの手に掛かると、そうした平凡な風景が急に詩情を帯び、私たち日本人をも郷愁に誘うような風景に変化するから、真に不思議なものであり、アルコール依存症の破廉恥な男・ユトリロと言えども、同時代の常識人たる私たちは、そう軽蔑していてばかりは居られないのである。パリの坂道を描いたユトリロの作品として、私・鳥羽省三が一番好きな作品は、「パリのサン・ヴァンサン通り」(1912年描・50x61cm)というタイトルのパリ国立美術館所蔵の小品である。
 「着ぶくれてユトリロの絵の坂のぼる」とは、掲句の作者・田村英一さんの見た、真冬の夜の夢でありましょうか?
 だとしても、彼・田村英一さんは、ユトリロとは異なり、公衆道徳を弁えた男性でありましょうから、決して、決して「公衆の面前で自らの男根を曝け出す」などという恥辱的な行為には及ばないことでありましょう。
 〔返〕  奈良坂に神輿担ぎて荒法師 尻捲るやら魔羅見するやら 


(福岡市・井上正和)
〇  煮凝りに妣の気配のありにけり

 後漢の許慎の著『説文解字』の「巻十二」に、「妣=殁したる母なり」とあるとか。
 掲句の作者・井上正和さんは、奥様のお作りになった「煮凝り」に、今は亡き御母堂様の面影を感じたのでありましょうか。
 〔返〕  仕込まれて亡き母の味覚えたる女房辛し惨き姑(はは)なる


(新潟市・佐藤五生)
〇  百歳を天寿と決めて新酒酌む

 「百歳を天寿と決めて新酒酌む」とは、剛毅な事を仰る俳人ではある。
 しかしながら、二十一世紀の今となっては「百歳を天寿と決め」たりする必要は更々にありません。
 酒は飲みたい時に飲みたいだけ飲めばいいのである!
 〔返〕  百歳は冥途の旅への一合目 酒は飲め飲め五百歳まで飲め


(岩沼市・佐藤久子)
〇  万雷の拍手の如き猛吹雪

 「猛吹雪」の直喩として「万雷の拍手の如き」とまで仰るとは、佐藤久子さんという女性は、何という大胆にして真に迫った言葉遣いをする俳人でありましょうか!
 〔返〕  「驚愕」のドラムの如き豪雨かなハイドン作曲シンホニー№94


(香芝市・土井岳毅)
〇  討入の人にそれぞれ母のあり

 「討入の人にそれぞれ母のあり」とは、是は亦、真に迫った一句である。
 しかしながら、討ち入りに加わることが出来なかった浪士たちにも「それぞれ母」が在ったんですよ。
 さして、「母」在るが故に晴れの「討入・に加わることが出来なかった彼らにも、彼らなりの理屈が在るんですよ。
 たまたま、今日、十二月二十六日の午前中に、あの馬鹿総理が靖国神社参拝という愚行を遣らかしたのであるが、あの馬鹿総理にも馬鹿総理なりの理屈が在ったと見えて、いろいろと並べ立てていたのであったが、日本国民の一人としての私としては、憤懣やる方無き思いである。
 〔返〕  母在れば討ち入り寸前脱盟し結局自害の高田郡兵衛
      国思えば心で拝むべきである慰霊心とは心の問題


(尾張旭市・古賀勇理央)
〇  脳といふ小さき宇宙に鮫を飼ふ

 私は「鮫」までは飼っていませんが、「脳」の中に小鳥が迷い込んで行ったような感じがして、時々頭がきりきりと痛みます。
 〔返〕  脳といふ囲いの中に鳥が棲み餌を啄ばむ頭が痛い

今週の朝日歌壇から(12月16日掲載・其のⅣ・決定版)

2013年12月25日 | 今週の朝日歌壇から
[馬場あき子選]

(福島市・美原凍子)
〇  キャスク、プールまた新たなる語彙ふえて廃炉始まる三度目の冬

 「高野公彦選」の三席を参照されたし。  


(熊谷市・内野修)
〇  木木の幹光を吸へり木木の枝光り合ひけり冬の渓谷

 たまに足を運ぶ渓谷。
 たまに触れてみる自然。
 その渓谷の美しさ、その自然の営みへの驚きが、一見、稚拙とも思われる「木木の幹光を吸へり木木の枝光り合ひけり」という繰り返し表現に、よく言い表されているのである。
 〔返〕  冬木なほ明日来る春を忘れざる染井吉野の枝ふくらみつ


(摂津市・内山豊子)
〇  地味に咲くびわの花にも蜂はきてわれさえ地味に老境に入る

 「地味」とは「滋味」なのかも知れません。
 内山豊子さんの「地味」な作風の背後からはいつでもしみじみとして深い味わいが感じられるのである。
 〔返〕  八手さへ花持ちたれば蜂も寄る虻蜂寄らぬ我の老残


(福山市・武暁)
〇  耳掻のような黄色の花をつけタヌキモひっそり虫を食む沼

 「高野公彦選」の六席を参照されたし。


(佐世保市・近藤福代)
〇  茶髪から黒のウィッグに替えられしマネキン和風の服を着るらし

 「マネキン」と言えども、着衣に合わせて頭髪の色やヘアスタイルが替えられるのでありましょうか?
 だとしたら、ずいぶん贅沢なもんですね。
 私などは年から年中「着た切り雀」で、こないだはパジャマ姿で社交ダンスを踊りましたよ。
 尤も、ベッドの上で見た夢の中の出来事でしたけれど。
 〔返〕  遮二無二にランジェリーまで脱がせられ真夜のマネキンお召し替へせり
 


(富山市・松田わこ)
〇  冬の夜弾いても聴いても歌ってもいいね「キラキラ星変奏曲」

 掲歌中の「キラキラ星変奏曲」とは、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1778年に作曲した「主題提示部と12の変奏曲」から成るピアノ曲である。
 フリー百科事典『ウイキペディア』の解説に拠ると、「ドイツ語に拠る原題(12 Variationen über ein französisches Lied "Ah, vous dirai-je, maman" )」は、直訳すると「『フランスの歌曲“ああ、お母さん、あなたに申しましょう”による12の変奏曲』」ということになるとか。
 我が国に於いては、『キラキラ星変奏曲』という通称で以って知られ、私の孫娘・Mがピアノ教室の発表会で弾いたのもこの曲でありました。
 ところで、掲歌の作者・松田わこさんは、作中表現で以って、松田わこさんらしからぬ、一つの嘘を吐いているのである。
 因って、評者としての私は、この際その点に就いて説明し、彼女の悪行を糾弾しなければなりません。
 掲歌に於いて作者の松田わこさんは、「『キラキラ星変奏曲』という曲は、『冬の夜』に『弾いても聴いても歌ってもいいね』」といった意味の事を仰っているのであるが、『キラキラ星変奏曲』という曲は、タイトルから受けるイメージからしても内容的にも、「夏の夜」に「聴い」たり「弾い」たりするよりも、「冬の夜」に「聴い」たり「弾い」たりした方が宜しい。
 それは確かな事ではあるが、問題は、作中の「歌ってもいいね」という件に在るのである。
 何故ならば、松田わこさんを含めた私たち日本人が歌う、童謡『きらきら星』の歌詞が付けられているのは、『キラキラ星変奏曲』の主題部分であって、それに続く「12の変奏」部分には、歌詞が付いていないのであるから、「冬の夜」だろうが「夏の夜」だろうが、いくら松田わこさんでも歌えるはずがないのである。
 松田わこさん、調子に乗って、嘘を吐いたりしてはいけません。
 松田わこさんに限らず、私たち短歌作者は、短歌創作に於いて「嘘」と「フィクション」とを厳然として区別しなければなりません。
 寺山修司が「売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき」と詠い、藤原龍一郎が「疲れてもなお夢見よとマリオンの人形時計時を告げたり」と詠う時、彼らは「フィクションの世界に遊んでいる」のではあるが、決して「嘘を吐いている」のではありません。
 それに対して、松田わこさんが、「冬の夜弾いても聴いても歌ってもいいね『キラキラ星変奏曲』」と詠う時は、彼女はささやかながらも「噓を吐いている」のであり、決して決して「フィクションの世界に遊んでいる」のではありません。
 〔返〕  わこちゃんが新聞歌壇で嘘を吐く嘘を吐くのは泥棒の始まり


(三次市・佐藤昌樹)
〇  お手製のぼたもち旨し先代も多喜二に作りしと老女将笑む

 そのかみの非国民も、今となってはプロリタリア文学を代表する作家であり、名作『蟹工船』の作者である。
 したがって、掲歌の作者・佐藤昌樹さんが「お手製のぼたもち旨し先代も多喜二に作りしと老女将笑む」と仰るのも、決して嘘ではありません。
 〔返〕  お手製の手袋巧し我が妻は暇に任せて20組も作った


(町田市・冨山俊朗)
〇  「来春は赤字決算」の報出でて手持ち弁当増えた気がする

 今や、「手持ち弁当」よりも、「コンビニ弁当」の方が、美味しくて栄養価が高くて価格が廉い時代なのである。
 したがって、「手持ち弁当増えた気がする」というのは、作者ご自身が「愛妻弁当」と称して、美味しくもない手造り弁当を無理矢理食べさせられているから、そんな気がするのでありましょう。
 〔返〕  来春は賞味期限ぎりぎりのコンビニ弁当買って食べよう


(東京都・大村森美)
〇  崩壊し黒きV字の荒れ谷を赤き冬蝶ひらひら渡る

 「V字の荒れ谷」という語句に接して思い出したのであるが、その昔、私たちが使っていた『社会科地図帳』には、「扇状地」とか「三角州」とか「V字谷」とかの地理用語が写真入りで解説されていたのであるが、その中の「V字谷」の写真は、「富山県の黒部峡谷」のそれが定番でありました。
 ところが、「昨今の我が国に於いては、地震、洪水、積雪に拠る陥没といった、思わぬ災害に因って生じたV字谷が、日本全国至る所に存在している」とか。
 掲歌の題材となっている「V字の荒れ谷」も亦、そのような類の「新出来のV字谷」でありましょう。
 〔返〕  埋立地・住宅地内のV字谷 首都圏内に無数に在るとか


(ドイツ・ハルツォーク洋子)
〇  介護されつつ小学唱歌をうたう母日本あかるき正午となりぬ

 掲歌の作者・ハルツォーク洋子さんがお住いのドイツと、私が辛うじて生き長らえている日本との時差は、「-8時間」である。
 したがって、ハルツォーク洋子さんが、「そろそろベッドからは這い出さなければ!」と思っている時刻には、「介護されつつ小学唱歌をうたう母」のいる「日本」は、「あかるき正午」となっているのである。
 〔返〕  我が国の時刻が午前八時ならドイツの時刻は午前零時だ
 今日はクリスマスである。
 遅れ馳せ乍ら、私・鳥羽省三も、別居している二人の孫娘のサンタさんにならなければなりません。
 贈り物は「ベルグの四月」のケーキと絵本と洋服と手袋である。
 プレゼントの品々は、たまプラ駅前まで出掛けて買い、その足で溝の口まで電車に乗って行って手渡さなければならないのである。
 忙しい、忙しい。
 今日はブログの記事を書けないかも知れません。

今週の朝日歌壇から(12月16日掲載・其のⅢ・決定版)

2013年12月24日 | 今週の朝日歌壇から
[永田和宏選]

(茅ヶ崎市・喜島成幸)
〇  王様は裸なんだと叫ぶことできない時代がやってくるんだ

 選者の永田和宏氏が寸評の範囲を越えるような長い寸評を加えているので、先ずはそれを見てみたいと思う。
 曰く「十分な議論のなされないままに強行採決されてしまった特定秘密保護法案。強行突破ありきで進められた採決に、国民の多くは持って行き場のない怒りを覚えている。個人もジャーナリズムも『王様は裸だ』と叫べなくなる時代」と。
 上掲の寸評は、掲歌の解説としては十分過ぎるほど十分な文章ではあるが、限られたスペースを一首の解説だけで使ってしまったら、他の作品の解説に使うスペースが無くなってしまいましょう。
 ところで、喜島成幸さんの謂う「王様は裸なんだと叫ぶことできない時代」は、「特定秘密保護法案」が「十分な議論のなされないままに強行採決されてしまった」事が理由で遣って来るのでは無く、同案が法律として成立してしまった事が理由で遣って来るのである。
 その点に就いては、マスコミ各社や有識者と称する人々の態度は極めて曖昧であり、「国会の会期を延長して、十分な時間を掛けて審議を重ねた上でなら同案が法律として成立するのも止む無し」、或いは「同案が法律として成立するのが当然である」といった所が世論の大方であり、同案の成立に真っ向から反対しているのは、国民の中の微々たる人数である。
 上掲の選者の寸評も、数多くの字数を費やした割りには勢いが弱く、世論の大方の意見と大差の無い事を言ったに止まっている、とせざるを得ません。
 掲歌の作者・喜島成幸さんが危惧しているような事態が早晩到来するだろうということは、第46回衆議院議員選挙で自民党が大勝利を収め、続いて行われた第23回参議院議員通常選挙に於いても自民党が大勝利を収めた時点、即ち、「憲法改定や特定秘密法案に反対する勢力が、自公連立政権の横暴を阻止する事が出来る力を失った時点」で既に予測されていたことである。
 したがって、世に謂う有識者たちが、真実に憲法改正に反対し、真実に特定秘密法の成立に反対し、真実に原発依存政策に反対しているのであるならば、昨年の衆議院議員選挙及び今年の参議院議員選挙に際して、自らの立場を明らかにして立ち上がり、国民有権者に向って警鐘を鳴らすべきだったのである。
 然るに、二十一世紀の我が国の運命を左右する二大選挙の際は、彼ら識者は、自らの立場を明らかにして警鐘を鳴らすどころか、既に水に落ちていた民主党政権の足を引っ張り、自公連立政権とその補完勢力の後押しをするような論調を展開していたのである。
 こと此処に至っては、未だ足元も定まらない「朝日歌壇」の選者如きが、それ以上に足元不確かな朝日新聞社の意図に迎合するようにして、掲歌の如き短歌作品で以って、国民世論を導こうなどと思っても、所詮無駄事であり、何の足しになりましょうか?
 朝日新聞が真の意味で社会の木鐸であり、真の意味で我が国の明日を担うべき若者の味方であり、真の意味で我が国の今日を憂う新聞であったならば、この際は、斯かる姑息な手段に拠らずして、社説や記事やコラムで以って、自公連立政権に手足を奪われてしまっている現今の世情の危険性を訴え、自公連立政権打倒運動の要としての役割りを果たすべきである。
 〔返〕  国民が王様なんだと叫べ今 朝日新聞警鐘鳴らせ  


(宇都宮市・渡辺玲子)
〇  黒塗りの書類ばかりが増えてゆき秘密は秘密裏に処分されゆく

 然り、全くその通りである。

(川越市・橋本峯)
〇  湯気に曇る眼鏡は晴れる晴れざるは憲法九条、秘密保護法案

 然り、全く以ってその通りである。

(名古屋市・諏訪兼位)
〇  初対面、無利子、無担保、五千万しぶしぶ返す知事もありたり

 そんな知事が存在することは、絶対に許されない事であるが、それ以上に許されないのは、自らの都合に拠ってそんな知事の存在を許したり、首の挿げ替えをしようと画策したりする保守勢力の存在である。
 自公連立政権を支える国会議員であり、東京都議会議員である者の中に、彼の猪瀬氏に比べて自分の方が潔白であると自信を持って言える者が居たとしたら、この際、自ら名乗り出て、彼の知事の汚れた猪首を銀座四丁目の時計台の前に晒し者にするべきである。

(角田市・佐藤清吉)
〇  大本営発表再び聞きたくなし一方的な空域設定

 私も、あの忌まわしい「大本営発表」などは、二度と再び聞きたくはありません。

(アメリカ・古田パーキンス和子)
〇  「敗戦」がスポーツ競技の負けを指す世代にとうとう代わりし祖国

  今週の「永田和宏選」の入選作は、首席の喜島さんの御作から始まって、六席の古田パーキンス和子さんの御作まで、「政治問題」乃至は「社会問題」を題材とした作品であり、作者諸氏は、短歌表現の一側面としての「批評精神」或いは「抵抗精神」を遺憾無く発揮なさって居られるのである。
 しかしながら、斯かる作品は、ややもすると新聞記事やテレビ報道の受け売り、乃至は、焼き直しの如きものに傾きがちであり、仮に、新聞歌壇の主宰者たる新聞社自体が、斯かる作品を以って、国民世論を特定の方向に導こうと画策していたとしたら、それこそ社会問題であり、作者諸氏の「批判精神」とやらは、所詮「蟷螂の斧」でもありましょう。
 朝日新聞は、社説や自前の記事やコラムで以って国民大衆に向って我が国の現状を正しく訴え、「黒塗りの書類ばかりが増えて」行くような世の中の到来を阻止し、平和憲法の改悪を阻止し、特定秘密法の施行を阻止し、某経済大国の空域設定が一方的なものであるとするならば、それを国際世論に訴え、スポーツ競技にうつつを抜かしている事ばかりが若者の生き方で無いことを若者たちに力強く訴えて、国民世論を正しく導くべきであり、「朝日歌壇」の投稿者諸氏は、「短歌に拠る批判精神と何か?短歌表現とは何か?」ということを、この際、じっくりと腰を据えて考えるべきである。
 〔返〕  新聞記事そのままに詠むを佳しとせず頭を磨けシャンプーをしろ


(奈良市・古味直香)
〇  寂しさの極みは寒いと知ったのはどの寂しみのときだったろう

 政治絡みの題材に取材した作品ばかりが横行する中に在って、掲歌は、作者個人の日常生活の中から取材した作品であり、その点が好ましい。
 「寂しさの極みは寒いと知った」のは、掲歌の作者に拠る一つの発見であり、一つの新しき認識でありましょう。
 「貧寒」及び「素寒貧」という言葉が在る通り、「寂しさの極みは寒い」ということなのかも知れません。
 それとは別に、「どの寂しみのときだったろう」という七七句の表現に就いては一考を要しましょう。
 〔返〕  われ既に素寒貧に身を置くも寒さ厳しく灯油は高値 


(新居浜市・東京子)
〇  独り居はさみし二人は尚さみし黙つて二人テレビを観てゐる

 選者は、どうやら連想ゲームを楽しみながら選歌に当たって居られるらしい?
 「寂しさの極み」を詠んだ歌に続いて「独り居」の寂しさを詠んだ歌を選んでいるのである。
 「独り居はさみし二人は尚さみし」というのも、作者独自の発見であり、一つの認識でもある。
 ところで、掲歌の作者・東京子さんとその同棲者の方とは、一台の「テレビ」に映っている同じ番組を二人で観ていながらも、互いにものも言わずに黙って観ているのでありましょうか?
 だとしたら、「独り居はさみし二人は尚さみし」と言うのも極めて当然のことでありましょう。
 人間は選ばれて言語を操るべく産まれているのですから、独り居の場合でも独り言を、二人居の場合は、二人で会話を交わさなければなりません。
 お互いに黙っていては、会話は永久に成り立ちません。
 相手が黙っていたら、自分の方から話し掛けるようにしなければなりません。
 自分の方から話し掛けたら、必ずや、相手側も心を開いて返事をするようになるものです。
 一方が「山」と言えば、他方が「川」と応える。
 斯くして会話というものが成り立ち、お互いに心を開き合い、家庭平和の礎が築き上げられて行くのでありましょう。
 たまたま、今日、十二月二十三日は、今上天皇のお誕生日である。
 今上天皇ご一家の平和も、天皇と皇后との心を開いての話し合いから成り立っているのでありましょう。
 〔返〕  二人居て心開きて話し合ひ世界平和の基礎を築かむ(笑)


(太田市・川野公子)
〇  三枚橋治良門橋は無人駅からっ風の中単線は行く

 「三枚橋治良門橋は無人駅からっ風の中単線は行く」などと言えば、口が固くて、財布の締まりが固いだけが取り得の総務課長が創業者社長に向って、今日一日の業務報告をしているように聞こえるのであるが、私たち読者は、掲歌の鑑賞を通じて、掲歌の背後にどっかりと横たわっている重くて長い時間を感じ、作者・川野公子さんの風土への心のときめきと軽い失望感を感じるべきである。 
 掲歌中の「三枚橋」とは、「群馬県太田市鳥山下町に実在する、東武鉄道桐生線の駅の名称」であり、「治良門橋」とは、「群馬県太田市成塚町に実在する、東武鉄道桐生線の駅の名称」である。
 掲歌の作者・川野公子さんは、始発の太田駅から東武鉄道桐生線に乗車して、わたらせ渓谷の紅葉狩りにお出掛けの途中、「三枚橋」「治良門橋」と、二つの「無人駅」を通過したのでありましょう。
 ところで、「東武鉄道桐生線」の前身は「太田軽便鉄道」であり、「太田軽便鉄道」の前身は「薮塚石材軌道」である。
 フリー百科事典『ウイキペディア』の解説するところに拠ると、「薮塚石材軌道は石材採掘販売をしていた薮塚石材を改組したもので、社長は葉住利蔵であった。太田と薮塚との間に軌道を敷設し、人力で石材の運搬をしていたが、呑竜様の開山忌などには参詣客の輸送もしていた。やがて一般旅客及び貨物の輸送をするため軽便鉄道敷設を出願し、1911年7月に免許状が下付されると10月に太田軽便鉄道に改称、さらに蒸気機関車に変更するべく、翌年に東武鉄道専務を社長に迎え、東武鉄道出資により改築工事をはじめ、やがて東武鉄道に鉄道部門を譲渡することになった」とのことである。
 「困った時の『ウイキペディア』」という格言がありますから、再度『ウイキペディア』の記事を引用させていただきますが、「東武鉄道桐生線」の前身・薮塚石材軌道の創業者・「葉住利蔵」氏は、「慶應2年7月6日(1866年8月15日)に、上野国・太田の商家の長男として生まれた。明治18年(1885年)3月、横浜商業学校を卒業して帰郷し、家業に励んだ。明治21年(1888年)、太田町商工会の設立に奔走し、会頭に推された。明治31年(1898年)には新田銀行(現群馬銀行)を設立して頭取となり、同43年(1910年)には利根発電を設立して社長に就任し、電灯を太田に灯した。この間、同41年(1908年)には藪塚石材軌道(後の太田軽便鉄道、現東武桐生線)を開き、社長として運輸業の発展にも貢献した。政界においては明治31年(1898年)から県会議員として2期務めた。同45年(1912年)、群馬県郡部の第11回衆議院議員総選挙で当選し、立憲政友会の衆議院議員として2期6年間務めた。晩年は新田郡教育会長を務め、金山図書館(市指定重要文化財)を設立するなど教育の振興にも尽力した。大正15年(1926年)9月14日、病没」とのことである。
 斯くして見ると、現在の「東武鉄道桐生線」は、葉住利蔵氏という一人の立志伝中の人物の地元振興策の一環として興されたものであり、「薮塚石材軌道」が「太田軽便鉄道」と名称を替え、その「太田軽便鉄道」が更に「東武鉄道桐生線」と名称を替えるに当たっては、関係者たちの並々ならぬ努力と経済的野望を要したのであり、その蔭に在る、沿線住民の期待感も決して忘れられてはならないのである。
 したがって、私たち読者は、本作に接するに当たって、「東武鉄道桐生線」を巡るこうした歴史に思いを巡らせ、作者の川野公子さんの「三枚橋治良門橋は無人駅からっ風の中単線は行く」と叫ぶ声からは、地元・群馬県南部の消長と作者の期待と失望の思いを感じなければならないのである。  
 〔返〕  そのかみの石材軌道の桐生線創業社長は葉住利蔵


(川西市・市森晴絵)
〇  たまに出る「俺」って言い方勝海舟みたいでなんだか素敵でしたよ

 勝海舟の写真が現存しているが、その写真から判断すると、勝海舟という明治維新の元勲は、自分のことを「俺」と言い、相手側の人間を指して「おめえ」とか「おまえさん」とかと言ったような気がします。
 〔返〕  多摩に出るお化けがとても怖いから二十三区の外には出ない

今週の朝日歌壇から(12月16日掲載・其のⅡ・決定版)

2013年12月23日 | 今週の朝日歌壇から
[高野公彦選]

(東京都・三戸悠紀)
〇  小春日をニコライ堂に登る道バッハのチェロ曲似合う道なり

 寸評に「御茶ノ水の或る坂をのぼる時のロマンチックな気分を手渡してくれる歌」とある。
 「御茶ノ水の或る坂」という言い方に疑問を感じる。
 坂の名称を特定して言うことが出来なかったら、「ニコライ堂の見える坂を登る時のロマンチックな気分」、或いは「御茶ノ水のとある坂をのぼる時のロマンチックな気分」と言えばいいだけのことである。
 また、「ロマンチックな気分を手渡してくれる歌」という言い方にも疑問がある。
 「気分を手渡してくれる」とは、何という幼稚な言い方でありましょうか?
 件の寸評は、「ニコライ堂の見える坂を登る時のロマンチックな気分を言い表した歌」、或いは「御茶ノ水のとある坂をのぼる時のロマンチックな気分を言い表した歌」とすればいいだけのことであり、新聞歌壇の寸評のような字数の限られた文を書く場合は、「寸鉄人を刺す」が如き表現をしなければなりません。
 それが出来なくなったら潔く選者を辞めるべきである。
 如何でありましょうか?
 ところで、御茶ノ水界隈をして「楽の音が洩れて来る街」とした詩歌にはこと欠きませんが、その代表的な存在としての、「藤村渉・作詞/小椋佳・作曲」の『春なんだなあ』の詩を、本ブログに無断転載して掲句の鑑賞文に代えさせていただきたく存じます。

  『春なんだなあ』 作詞・藤村渉 作曲・小椋佳

 学生が自分らの青春に気付かずに
 街なかをさざめいて歩いている昼休み
 春だ 春なんだなあ
 老人の顔にも赤みがさして
 肉屋ではコロッケをあげている人だかり
 花屋にはアネモネがわれ先に溢れてる

 若者がすれちがう娘らをふりかえる
 何気ない素振りして駿河台一丁目
 春だ 春なんだなあ
 老人の肩にも陽射しが踊り
 楽器屋はレコードを流してる愛の唄
 本屋では新しい教科書を売り出した

 娘らはお互いに腕を組み語り合う
 一せいに笑い出し立ち止まり笑い継ぐ
 春だ 春なんだなあ
 老人の顔にも微笑みが浮び
 実験の器具を売る店先のフラスコに
 アネモネの赤い花 空の雲映ってる

 学生の流れには新しい顔がある
 鈴懸の並木道 芽がうるむ 背伸びする
 春だ 春なんだなあ
 春だ 春なんだなあ

 「学生が自分らの青春に気付かずに/街なかをさざめいて歩いている昼休み」とは、何という情感に溢れた言い方でありましょうか。
 小椋佳歌唱の『春なんだなあ』が、シングル盤でリリースされたのは1977年のこと。
 私は、この詞章に接した瞬間、「自分にも間違いなく、青春と呼べる時代があつたんだなあ」と改めて感じさせられました。
 作詞者の「藤村渉」とは、先般お亡くなりになった、西武流通グループ元代表の堤清二氏である。
 彼は。流通業界の総帥という多忙なる本業の傍ら、「辻井喬」というペンネームで詩や小説を書き、デビューして間も無い、歌手・小椋佳に詞章を提供などの働きをしていたのである。
 歌謡詩『春なんだなあ』の舞台となっているのは、「JR御茶ノ水駅の御茶ノ水橋口」を出て、直ぐ左側に折れ、明治大学の駿河台校舎を右側に見て下る坂道の商店街と、その先に在る駿河台下(神保町通り)の商店街なのである。
 また、掲歌に登場する「ニコライ堂に登る道」とは、JR御茶ノ水駅の聖橋口を出て、さだまさしの歌に歌われた聖橋とは逆方向に向かった先の、神田駿河台四丁目界隈の坂道を指して謂うのでありましょう。
 青春とは、まさしく「あの街で展開される日々」の別名なのである。
 あの街に不案内で居ながら「朝日歌壇」の選者面をしているとは、高野公彦氏という歌人は、何という不届き者でありましょうか。(笑)
 〔返〕  鈴懸の落葉散り敷く御茶ノ水バッハの曲を口遊み往く 
   

(姫路市・加納良男)
〇  もう妻の眠りを覚ますこともなくイヤホン外し「深夜便」聴く

 『ラジオ深夜便』を「聴く」のは、私たち高齢者の「眠れぬ夜」の最高・唯一の楽しみであり、心の癒しでもある。
 しかしながら、「もう妻の眠りを覚ますこと」も無くなって気楽かも知れませんが、「イヤホン」を外して一人だけで「聴く」のは、なんだか寂しい気がしませんか?
 〔返〕  二時台は「ロマンチックコンサート」<シャル・ウィ・ダンス>をパジャマで踊る
 昨夜(12/21)の『ラジオ深夜便』アンカーは、栗田敦子アナでありました。
 就床時からラジオを付けっ放しにしていたのでしたが、午前二時のニュースの時刻に目が覚めたので、二時台の「ロマンチックコンサート」は最初から最後まで耳を澄まして聴きました
 昔懐かしき「シャル・ウィ・ダンス」が流れて来た時にはあまりにも嬉しくなって、思わずパジャマ姿でベッドの中で踊ってしまいました。


(福島市・美原凍子)
〇  キャスク、プールまた新たなる語彙ふえて廃炉始まる三度目の冬

 「国民の大多数の反対意見に耳を傾けようともせずに、原発依存政策を推進しようとする自公連立政権」及び「有害放射性物質を世界中に撒き散らし、未だにその責任を取ろうとしない、横暴極まりなき東京電力」に対して、自作の短歌を通じて断固として抵抗し、厳然として抗議をしようとする、作者・美原凍子さんの試みや抵抗の精神に就いては、高く評価されなければなりません。
 しかしながら、掲歌中の語、「語彙」の「彙」は「集める・集り」の意であり、「語彙」とは、「ある言語、ある地域、ある分野、ある人、ある作品など、それぞれで使われる単語の総体を指して謂う語」であり、「キャスク」、「プール」といったような、個々の語(単語)を指して謂う語ではありません。
 もう少し丁寧に説明すると、「語彙がふえて」という言い方は、正しい言い方であるが、「新たなる語彙ふえて」という言い方は、正しい言い方ではありません。
 したがって、掲歌、「キャスク、プールまた新たなる語彙ふえて廃炉始まる三度目の冬」は、「語彙」という語の意味を正しく理解せずに詠まれた作品と判断される。
 作者・美原凍子さんのそうした誤解を正し、作者の言わんとするところを充分に汲み取った上で掲歌を改作すれば、次の返歌のようになりましょう。
 〔返〕 キャスクまたプールとふ語の産まれ出で廃炉始まる三度目の冬
     キャスクまたプールとふ語の産まれ出で廃炉始まる三度目の冬
     キャスクとふ新しき語の増殖し廃炉始まる三度目の冬
 如何でありましょうか? 


(取手市・嶋田丈夫)
〇  妻逝きて二十年その弟の毎年呉るる新米富有柿  

 「妻が亡くなってから既に二十年の歳月が流れたのであるが、その間、毎年欠かさずに新米と富有柿とをクロネコヤマトの宅急便で送って呉れる、亡き妻の弟の律義さに対する感謝の念」を一首の歌に託したのでありましょうか?
 だとしたら、この際、私の偽らざる気持ちを申し上げますが、「奥様の弟さんのそうした律儀な心に対しては、有り難さを感じると共に、いささかならぬ煩わしさも感じられる」とも思われるのですが、その点に就いては、如何でありましょうか?

 東京オリンピックのマラソン競技で三位入賞の栄誉に輝いた、故・円谷幸吉氏は、自死するに際して、お身内の方々に宛てて次のような遺書を遺された、とのこと。

 父上様、三日とろろ美味しゅうございました。干し柿、もちも美味しゅうございました。
 敏雄兄、姉上様、ブドウ酒、リンゴ美味しゅうございました。
 巌兄、姉上様、しそめし、南ばんづけ美味しゅうございました。
 喜久造兄、姉上様、ブドウ液、養命酒、美味しゅうございました。
 幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて頂き有難うございました。
 正男兄、姉上様、お気をわずらわして大変申し訳ありませんでした。
 幸雄君、英雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、立派な人になってください。
 父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切って走れません。
 なにとぞお許し下さい。
 気が休まる事もなく、御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。
 幸吉は父母上のそばで暮らしとうございました。

 マラソンの円谷幸吉選手は、掲歌の作者・嶋田丈夫さんの今は亡き奥様の弟様と同様に、極めて律儀で真面目な性格な好青年であった、ということである。
 私の教師時代の同僚であったYさんは、教職に就く前に、ユニバーシアードやアジア大会などでも大活躍した棒高跳びの名選手であったが、海外遠征や国内合宿などの際、彼は円谷幸吉選手と同じ部屋の隣り合わせのベッドに就寝する機会が多かったとのことであり、私に、円谷幸吉選手に関するエピソードを、こと細かに語ってくれたことがありました。
 Yさんの話に拠ると、合宿生活中の円谷幸吉選手は、毎晩毎晩、就寝前に自分の着衣をきちんと畳み、同宿の一人一人に丁寧に挨拶してからベッドに入ったそうで、彼のそうした律儀な性格が、自らの選手生命を縮めさせ、尊い生命をも縮めさせた原因であろう、とはYさんの言葉でありました。
 円谷幸吉選手に限らず、大人の男性の真面目さや律義さは、ともすれば、周囲の者に煩わしさを感じさせ、自分自身の行動半径を狭くするものである。
 〔返〕  学窓を巣立ちし後の五十年賀状寄せ来る友をば厭ふ  


(東京都・高橋義子)
〇  スマホをば二十一世紀の阿片とは言い得て妙なり今日の車内は

 「『今日の車内』にだって、『スマホ』を後生大事に懐に入れたり、膝の上に載せて検索やメール打ちに余年の無い若者が、一車両あたり少なくとも五十人ぐらいは居たに違いない。それを承知していながら、『スマホ』を『二十一世紀の阿片』呼ばわりする者がいたとしたら、その中に袋叩きされる運命が待ち構えているに違いない」とは、「蔭の声」である。
 〔返〕  スマホをば「馬鹿者どもの笏」と言ふ神主の在り<罰当たりめが!>


(福山市・武暁)
〇  耳掻のような黄色の花をつけタヌキモひっそり虫を食む沼

 掲歌に接して、私は初めて「タヌキモ」が食虫植物であることを知りました。
 それとは別に、掲歌中の「タヌキモ」とは、「シソ目タヌキモ科タヌキモ属に分類される植物の中の一つ」を指しているのであり、通称「タヌキモ」の中には、「耳掻のような黄色の花」を付けたものもあり、耳掻とは似ても似つかぬ形の黄色の花を付けたものもあり、紫色の花もあったりして、ひと口に「タヌキモ」と言っても、いろいろ様々な植物が在る、ということも知りました。
 いろいろと学習させていただいて、真にありがとうございます。
 〔返〕  星型の紫色の花を付けタヌキモひと鉢水槽に在り


(東京都・西田玲子)
〇  乗り慣れし小田急線の響きなり減速の音病室に聞く

 私の掛かり付けの整形外科医院も「小田急線」の線路の傍らに在り、私がウオーターベッドに乗せられている間の十分間にも、四、五回も往き来して、煩くて煩くてたまりません。
 掲歌の作者・西田玲子さんは、「乗り慣れし小田急線」の「減速の音」を「病室に聞く」と仰って居られますが、一体、どんな気分で聴いているのでありましょうか?
 〔返〕  乗り慣れているとは言へど小田急のロマンスカーの警笛うるさし


(東京都・上田結香)
〇  「おばさん」と呼んでくれてかまわないイケてるおばさん目指してるから

 「イケてるおばさん目指してるから」なんて、負け惜しみを言ってやがんの!
 上田のおばさん、バカみたいなおばさんだね!
 イケてるおばさんでは無くて、イレてるおばさんかも知れないよ!
 〔返〕  おばさんと呼ばれたってかまわない!緑のおばさん子供の味方!


(西条市・村上敏之)
〇  アーケード壊して内科歯科の入るマンションの建つ老多き街

 昭和二十年代の半ば過ぎから我が国の地方都市に於いては、「アーケード商店街」と称して、道幅の狭い商店街を採光や照明などの措置も図った上で一続きの屋根で覆い、買い物客の利便を図るような形式の商店街が雨後の筍のように出現して、瞬く間に全国的な流行を見たのである。
 然るに、その後、自動車運転の大衆化されて、その上に、日本全国至る所の消費者をも顧客として扱い、その懐を狙う大型スーパーの開店ラッシュに伴って、そうした形式の商店街には買い物客が訪れなくなってしまったのである。
 掲歌の作者・村上敏之さんがお住いの愛媛県西条市に於いても、「西条うち抜きTロード」と称する、大規模な「アーケード商店街」が出現して、西条市内は勿論、近郷近在の買い物客を集めて、一時期は大入り繁盛の趣きを呈していたのであったが、近年は買い物客の激減に伴って、その一部の商店が閉店の止む無きに至り、件の商店街全体が、日本全国何処の地方都市の商店街と同様に、「シャッター街」という蔑称で呼ばれるような運命を招いたのでありましょう。
 斯くして、今や「アーケード商店街」の運命は風前の灯である。
 「アーケード」を「壊して内科歯科の入るマンション」が「建つ」のは、日本全国あらゆる地方都市に於いて共通して見られる現象である。
 したがって、「昔は良かった、ああだった、こうだった」などと老いの繰り言などを呟いたりしないで、新しい時代に即応して生きて行かなければなりませんよ。
 自分も高齢者のくせして、知ったかぶりして、押し付けがましいことを口にしてご免なさい。
 怒らないで頂戴!
 〔返〕  ドリップにコロボックルに亀生堂・ごんべ・たこ八・とらやに白馬


(福山市・金尾洵子)
〇  ひとり鍋もこのごろ楽し夫逝きて十二年過ぐきょうはタラ鍋

 「ひとり鍋もこのごろ楽し」なんちゃって、掲歌の作者・金尾洵子も亦、一人前の負け惜しみを仰る方である。
 冬の味覚・鱈は元々生臭みの少ない魚ですが、それでも、わずかに残る生臭さと身崩れを防止する為に、食べごろの大きさに切った身の両側に軽く塩を振り、十五分ほどラップをかけて放置し、表面に出た水分をキッチンペーパーでふき取るなどの細やかな下処理をした方が美味しく食べられますよ。
 それに、何よりも、一人で食べるよりも、二人で食べる方が美味しいに決まってますから、隣近所の一人暮らしの方々にお声を一言掛けてやって、みんなで食べれば、話の花も咲くだろうし、思わぬ花が咲くかも知れませんよ。
 〔返〕  「ればたらの話はするな」とは言うがみんなで食べれば美味しいタラ鍋

今週の朝日歌壇から(12月16日掲載・其のⅠ・:決定版)

2013年12月22日 | 今週の朝日歌壇から
[佐佐木幸綱選]

(半田市・榊原めぐみ)
〇  地下鉄の路線図のごと枯れ枝の絡まり合って十二月の空

 「東京都内の『地下鉄の路線図』は、幾層にも複雑に絡まり合い、重なり合っていて、恰も『十二月の空』に浮ぶ闊葉樹の枝の如し」という訳である。
 師走ともなると、人の心が急に忙しなくなり、その日その日の予定や約束なども、当事者さえも何か何だか判らなくなる程にも、複雑に絡まり合ったり、重なり合ったりするのでありましょうか?
 ならば、掲歌中の「十二月」という語は、単に季節を表すだけでは無く、押し詰められたような気持ちに陥っている、作者の心理状態をも表している、と言わなければなりません。。
 ところで、手元に在る「メトロネットワーク」なるパンフレットを見たところ、「サンケイ前」なる蔑称で以って知られる「大手町駅」には、東京メトロの「丸ノ内線、東西線、千代田線、半蔵門線」の他に、都営地下鉄の「三田線」も乗り入れていて、地上から透かして見ると四層、五層ならぬ六層という、複雑怪奇なる地下構造を成しているのである。
 〔返〕  大手町駅「サンケイ前」と蔑まれ奈落の底の六層を成す


(いわき市・馬目弘平)
〇  津波にて壊れし墓石棄てられて逆さに横に戒名の山

 何分、老耄の身である故、今となっては記憶も定かではありませんが、しばらくの間、思い付くままに昔物語をさせていただきます。
 今年の晩春のことでありましたが、私は、魯直なる出家名を持つかつての学友と共に、「雑司ケ谷の儒者棄て場」から「音羽の護国寺」、更には足を上野まで延ばして「寛永寺の境内」や「谷中の墓地」まで、文学散歩と称して歩き周ったことがありました。
 「雑司ケ谷の儒者棄て場」と言えば「雑司ヶ谷墓地」の異称であり、夏目漱石や永井荷風の墓所として知られた、都内有数の墓地なのであるが、その一廓に、大小さまざま、それぞれ苔生した石を積み上げた暗所が在りました。
 その暗所に積み上げられている石には、それぞれ、戒名や享年と思われるような文字が刻まれて居て、供養するべき家系が断絶してしまったり、行方不明になったりしてしまったようにも思われたのである。
 そして、その傍らには、「これらの墓石に就いて思い当たる者が居られましたら、〇月〇日まで管理事務所まで出頭されたし。出頭者の無い墓石については、無縁として処理する」という、無情な立札が立てられていたのである。
 それとは別に、この件は、一昨日、即ち、十二月十九日のことであるが、「私の連れ合いの妹一家・Y家では、突然、墓所の改葬を行った」とのこと。
 Y家の墓地は、元々横浜市内の「〇〇霊園」なる名称の大規模霊園の一廓に在ったのであるが、その霊園を所有し、管理に当たるべき「××墓園」なる宗教法人が、「株式投資に失敗したとの不当なる理由」で以って、管理者が不在となってしまったのであり、「私の連れ合いの妹一家・Y家の突然なる墓所の改葬」は、その件に関連しての措置だったのである。
 私は、Y家の墓所に墓参したことが無いので詳しいことは知りませんが、「〇〇霊園」に在ったY家の墓石は、「墓地の広さに相応しく、その建立価格が三百万円以上の大枚を要した」とか。
 定年退職後間も無くの夫が、わずか六十一歳で亡くなった後、母一人子一人の寂しい暮らしの中から、亡き夫の退職金のほとんど全てを叩いて購入した広い墓地は、今となっては只の雑草の繁る草原と化してしまうのであり、改葬と同時に、作業トラックの荷台に載せられて運ばれて行ったに違いない墓石は、何処かの空き地に苔生して野積みされているのでありましょう。
 〔返〕  「俗名・まさ、安政元年没」と刻まれて野積みされたる無縁の墓石

 
(福岡市・城島和子)
〇  場所終り急に淋しき博多の街力士の姿消えて木枯し

 「不入り・赤字」続きの「大相撲九州場所」の開催の是非に就いては一考の余地あり。
 即ち、「大相撲十一月場所」は、「名古屋・福岡・札幌・仙台・金沢」といった地方の大都市に開催地を移して、隔年開催または数年置きの開催にしたら如何でありましょうか?
 〔返〕  櫓太鼓の音も絶へ玄界灘から木枯しが吹く師走の博多


(横浜市・原田彩加)
〇  履歴書を茶色いペンで書いてきたマスブチ君が職場に馴染む

 「マスブチ君」とやらに物申す!
 「履歴書を茶色いペン」で書くなどという不届き千万のことを度々遣らかして居たら、今後一切、再就職は望めませんから、今の職場の人間関係を大切にして、真面目に勤務されたし!(以上)
 〔返〕  履歴書を茶色のインクで書くなんてふざけるのにも程がありましょう  


(伊那市・田邊幸子)
〇  ふるさとではひっつきもっつきみすずかる信濃の国ではどろぼう草と言う

 「ひっつきもっつき」という即物的な言い方は、「キク科オナモミ属の一年草・オナモミ(耳、巻耳、学名:Xanthium strumarium)」を指して謂う、広島などの西日本の方言であり、私の連れ合いの生れ在所の秋田県横手市の山の手地区に於いては「のさばりこ」と呼んだとか。
 「のさばりこ」とは、「母親にぴったりくっ付いて離れない幼児」を指しても謂うのであり、これ亦、オナモミの方言しては極めて即物的な言い方である。
 ところで、「みすずかる信濃の国」では、その「ひっつきもっつき」こと「オナモミ」を称して「どろぼう草と言う」とか?
 所変われどその呼び名には、それほどの変わりはありません。
 〔返〕  みすずかる信濃の国のオナモミはあばにくっ付く泥棒草だ       <注> 「あば」とは、東北方言で謂う「母・妻」の意。


(三原市・岡田独甫)
〇  木枯しに車を誘導する男車とだえて足踏みしおり

 この「木枯し」の吹き荒ぶ中での「車の誘導」は、極めて辛い作業でありましょうから、「車とだえて足踏みしおり」という場面は、私も再三目にしております。
 〔返〕  紅葉狩り女車に衣出だし匂宮の心狂はす              <注>  「女車」とは、「宮中の女房などが乗る牛車。男性用より少し小さく、簾(すだれ)の下から下簾を出して垂らす。」


(山口市・山本まさみ)
〇  二時間で一巻の糸が変わりゆくわが編み込みのぬくぬく帽子に

 たった「二時間」の「わが編み込み」で、「一巻の糸」が手編みの「ぬくぬく帽子」に「変わりゆく」とは、まるで魔法みたいである。
 察するに、掲句の作者・山本まさみさんは編物の名人でありましょう、とまで言ったら褒め過ぎであり、手編みの「ぬくぬく帽子」ぐらいは、女子高生は勿論、会社勤めの男性だった編めますからあんまり見せびらかさないで下さい。
 〔返〕  手編みとて自慢たらしく歌に詠む中国製なら105円だぞ


(宇都宮市・渡辺玲子)
〇  黒塗りの書類ばかりが増えてゆき秘密は秘密裏に処分されゆく
(浜松市・松井恵)
〇  つぶやけば薄気味わるく暗むなり「特定秘密保護法」なるは
(川越市・橋本峯)
〇  湯気に曇る眼鏡は晴れる晴れざるは憲法九条、秘密保護法案

 「これはこれはとばかり花の芳野山」とは、貞門派の俳人・安原貞室の名吟である。
 第5代将軍・徳川綱吉の治世下、元禄の世、毎春の花見頃ともなれば、江戸や上方の暇を持て余した風流人たちは、我も我もとばかりに「花の吉野山」に押し掛け、今を盛りと咲く桜花を愛で、美酒に酔い痴れた挙句、酒に足を取られて転んでも尚且つ、和歌を詠み、俳諧の筵に連なり、満天下の人々に向って「我が世の春」を謳歌したものでありました。
 自公連立内閣が、この度の第185回国会に提出し、去る12月25日に参議院を通過して成立した「特定秘密保護法(通称)」も亦、「花の吉野山」と同様に、並み居る平成の歌人たちに、恰好の題材を提供したものと思われ、このところの数週間の「朝日歌壇」の入選作には、一分咲き程度の出来栄えの「特定秘密保護法」関連の作品が、ちらほらと混じっているのである。
 就きましては、この際、関連作品について纏めて評言などを記させていただきますので、何卒、お許し下さい。
 渡辺玲子さんの御作に就いて申せば、「黒塗りの書類ばかりが増えてゆき」とは、「墨塗りの教科書」をお使いになった、経験に基づいての表現でありましょうか?
 松井恵さんの御作に就いて申せば、「つぶやけば薄気味わるく暗むなり」とは、あまりにも言語感覚が細やか過ぎはしませんか?
 橋本峯さんの御作に就いて申せば、「晴れざるは憲法九条、秘密保護法案」とは、如何なる意味でありましょうか?  
 以上、思い付くままに、一言ずつ申し上げましたが、さればとて、私は自公連立政権支持者ではありません。
 〔返〕  これはこれはとばかりに投稿し花の入選勝ち取れる歌  

今週の朝日俳壇から(12月16日掲載・其のⅣ・決定版)

2013年12月21日 | 今週の朝日俳壇から
[金子兜太選]

(いわき市・馬目空)
〇  零戦の兄よ日本はまた凍る

 「特定秘密保護法」関連の作品でありましょうが、全国的な雪空の昨日(12/19)ならばまだしも、テレビの天気予報に反して、くっきりと晴れ上がった今日(12/20)の空の下で暮らしていると、「『零戦の兄よ日本はまた凍る」とは、余りにも時代錯誤的で、あまりにも大袈裟な言い方である!」と言いたくもなるのである。
 でも、ゆめゆめ油断はなりません。
 朝日新聞・朝刊の第一面に「首都直下地震/国想定/死者最悪2.3万人/経済被害95兆円」という見出しの記事が掲載されていました。
 末恐ろしい世の中になったものである!
 〔返〕  厄災が足音立てて遣って来る首都直下地震襲来必至


(三郷市・岡崎正宏)
〇  人といふ孤島に住みて冬に入る

 「人といふ孤島」とは、何という申し状でありましょうか!
 私には、呆れ果てて、ものを言う気もありません。
 「『人』という字は、一人と一人とがお互いに凭れ合い、支え合っている姿を象って造られているのですよ!」、なんちゃったりして。(笑)
 〔返〕  自我といふ孤高に籠り句を詠める金子兜太は九十五歳


(長野県蓑輪町・小川節子)
〇  励まされこらえし涙程の雪

 「励まされこらえし涙」とは、「ともすれば、激しく音を立てて流れ落ちてしまう程の熱い涙」なのでありましょうか?
 だとすれば、「励まされこらえし涙程の雪」とは、「今日、十二月二十日に、裏日本に住む人々の家々の屋根の上に重く圧し掛かる程にも降り積もる雪」の意ということになりましょう。
 それはともかくとして、「励まされこらえし涙」とは、「長野県蓑輪町にご在住の小川節子さんのお宅の屋根の上に厚く積もる雪」の比喩であって、掲句は、一句全体の全重量が、末尾の「雪」という弱々しい語に、どすんと音を立てて圧し掛かって来るような構造の作品である。
 〔返〕  励まされ堪へし程はよけれども堰を破りて流るる涙
 

(神戸市・豊原清明)
〇  冬鹿や旅人鬱鬱歯を磨く

 村野四郎作の詩『鹿』をご存じでしょうか?


    鹿      村野四郎

 鹿は 森のはずれの
 夕日の中に じっと立っていた
 彼は知っていた
 小さい額が狙われているのを
 けれども 彼に
 どうすることが出来ただろう
 彼は すんなり立って
 村の方を見ていた
 生きる時間が黄金のように光る
 彼の棲家である
 大きい森の夜を背景にして      (村野四郎作・詩集『亡羊記』より)
    

 「鹿が増え過ぎて、農作物に及ぼす被害が、近年、激増した」との報道が為されている。
 でも、その「鹿」さえも、「小さい額がねらわれているのを」知りながら、「生きる時間が黄金のように光る、大きい森の夜を背景にして、すんなりと立って」いるのである。
 それにも関わらず、我らが「旅人」は、「鬱鬱」として「歯を磨く」ばかりなのである。
 我ら人間にとっての、日本人にとっての、「黄金のように光る」「時間」とは、何時、如何なる時でありましょうか?
 年、七十三歳六ヶ月にして、日々老いさらばえて行くばかりの身で以って、迫り来る首都直下地震を前にして、私は、ただ鬱鬱として佇んでいるばかりなのである。
 〔返〕  「王将の社長、銃撃されて死す!」鹿は死せずして害を及ぼす!


(松江市・三方元)
〇  雲州の粘着質の時雨かな

 「稲畑汀子選」六席の田中静龍さんの御作「雪起し石見の海に居座れる」と、異工同曲とも謂える一首であるが、「雲州の粘着質」とした点には、「出雲の国の人々の気質は粘着質」といった言い方が為されているのかも知れません。
 過ぐる「山陰地方の大吹雪」の際は、斯かる趣旨の詩歌が如何に多く詠まれたことでありましょうか?
 〔返〕  山陰の石見出雲に居座れる寒冷前線豪雪を呼ぶ


(高岡市・池田典恵)
〇  本当は自由が苦手懐手

 「本当は自民が苦手公明党」と行きたいところである。
 〔返〕  本当はお金が欲しくてたまらない猪瀬に先を越された輩
      味〆し与党の椅子が柔らかく断つに断たれぬ連立政権


(廿日市市・頼経正道)
〇  電球の一つ切れたる神楽かな

 掲句の作者・頼経正道さんがお住いの広島県廿日市市は、尊くも「延喜式」に記載されたる「安芸国総鎮守・速谷神社」の鎮座まします所であり、毎年の10月12日に行われる「例祭」に際しては、「氏子による神輿の渡御や広島県内に伝わる神楽の奉納なども盛大に行われる」とか。
 掲句は、その例祭に際して奉納された「神楽」の中の一つに、「電球」の切れた八岐大蛇が登場して、目玉が光らなかった、という訳でありましょうか?
 だとしても、それはお愛嬌であり、神楽団の怠慢を憎むに値しません。
 それにしても、「電球の一つ切れたる神楽かな」とは、さすがに頼経正道さんである。
 頼経正道さんは、中国電力傘下のさる電化製品販売企業の役員をお務めになって居られますから、「眼の付け所」が、余の俳人とは厳然として異なるのでありましょう。 
 昨年の一月二十二日に行われた、「NHK全国俳句大会」に於いて、掲句の作者・頼経正道さんは、「甲板にコック出てをり後の月」という御作で以って、見事、大賞を受賞されたとのこと。
 頼経正道さん、大賞、御受賞、真におめでとうございます。
 遅れ馳せながら、この際、私・鳥羽省三からもお祝いの一言を申し上げます。
 〔返〕  電球が一個切れても火を噴いて八岐大蛇は暴れて止まず


(東京都・佐瀬はま代)
〇  鯖雲や先頭集団は黒人

 「先頭集団は黒人」という言いぐさはありませんよ!
 それに、オリンピックだって、世界選手権だって、我が国で行われる冠大会だって、マラソンや陸上の長距離レースの際に、「先頭集団」を形成するランナーは「黒人」ですよ!
 黒人に伍して「先頭集団」に割り込む勢いのあるランナーは、埼玉県立春日部高校職員のあの市民ランナーだけですよ。
 そもそも、マラソン選手を黒人ランナーだの白人ランナーだのと区別すること自体が、差別意識の権化のような者の為す行為だと思いませんか?
 それに、あの川内優輝選手を、未だに市民ランナー扱いにしているマスコミの連中や陸上競技界のボスどもは、気が狂っているとしか思われません。
 彼・川内優輝選手は、今年、正式なマラソンレースだけでも11大会に出場し、そのことごとくのレースで入賞しているんですよ。
 それに、彼の場合は、マラソンが開催されない週は、各地のハーフマラソンなどの長距離レースに出場して、それを練習代りにしているんですよ。
 名のあるマラソン選手と言えば、やれ、米国コラロド州のボルダ―での高地トレーニングだとか何とかと、お金の掛かることばかりを想像してしまいますが、彼の場合は、勤務先への往復が毎日のトレーニングであり、週末に、日本全国各地で行われる、各種の長距離レースにも、トレーニング代わりに出場しているんですよ。
 彼の真似は誰が出来ますか?
 彼こそは、我が国唯一のプロフェッショナル・マラソンランナーですよ!
 本当ですよ!
 私はたまには嘘を言いますが、この件に限っては、真実、ありのままに述べているんですよ!
 〔返〕  川内もそれなりに恰好付けるのか?「埼玉県庁」のマークを付けて!
 

(熊本市・寺崎久美子)
〇  面倒はかけないつもり寒卵

 不肖・私は、ゆで卵を1個を食べるにしたって、殻を剥いてもらったり、食べた後の皿を洗ってもらったりして、周囲の者に「面倒」を掛けています。
 尤も、第二婦人が居る訳はないし、息子二人は独立していますし、周囲の者と言ったって、その範囲は自ずから限られますけどね。
 それはどうでも、私には、「面倒はかけないつもり寒卵」なんて、ご立派なことはこれっぽっちも言う気がありませんよ。
 〔返〕  面倒は掛けるつもりだ死ぬまでは死んだらお骨を埋めて頂戴


(松戸市・大谷昌弘)
〇  或る阿呆無人駅にて落葉焚

 この頃、私が一番にしたい事の一つは「落葉焚」なんですよ。
 バス通りから私の家に来るまでの道路は、百段余りの石段になっていて、その石段は、私の家を通り過ぎてからも百段弱続いていて、その天辺はささやかな公園になっていて、公園の周りには、数十本の染井吉野や欅などの巨木が生えているのである。
 それから、言い忘れていましたが、併せて二百段弱の石段の両側にも花水木が植樹されていて、毎年、秋になると、紅葉した落葉が毎朝のように降り積もるのである。
 それらの紅葉した落葉を、花水木のも、染井吉野のも、欅のも、その他、名前の知らない樹木のも、みんな拾い集めて、上の公園で「落葉焚」と洒落込んだならば、どんなに気持ちがいいことだろうか?
 でも、消防署の方々に捕まって、牢屋に閉じ込められるのが怖いから、今のところは止しときましょうか。
 芥川龍之介に『庭』というタイトルの短編小説がある。
 その小説の梗概を示せば、「世間的には『或る阿呆』としか言いようの無い鰥の道楽男が、甥に当たる少年に手伝わせて、元の本陣であった自分の生家の零落し荒廃した庭を、池を掘ったり、樹木を植えたりして整備をする」というだけのことであるが、『或る阿呆の一生』の作者たる、芥川龍之介の自伝めいた趣きがあって、私の大好きな芥川龍之介作品である。
 インターネットの「青空文庫」でもお読みになることが出来ますから、一度、お読み下されたく、伏してお願い申し上げます。
 〔返〕  石段に落葉散り敷くわび住まい滑って転べばそれでイチコロ
 今のところは、石段を上り下りして外出することも出来ますが、それが出来なくなったら連れ合いと別れて然るべき介護施設で暮らすしか手がありません。
 したがって、石段の上り下りには、急がず、焦らず、まかり間違っても転ばないようにと、心して居る次第です。

今週の朝日俳壇から(12月16日掲載・其のⅢ・決定版)

2013年12月20日 | 今週の朝日俳壇から
[稲畑汀子選]

(東京都・山内健治)
〇  くつきりと富士が見えたら十二月

 「くつきりと富士が見えたら十二月」と断言するところが潔くて宜しい。
 とは言え、今日、十二月一九日の首都圏は、あいにく昨日来の雪模様であり、首をいくら長く伸ばしても、富士山はおろか、その手前の丹沢さえも見えません。
 つい先刻、猪瀬直樹氏の東京都知事辞任の記者会見の模様がテレビ放映されていたが、あの傲慢な猪瀬氏も、「世界遺産の富士山に恥ずかしい!」と言わんばかりに平身低頭して、弁明に是れ努めていた。
 彼の口から「私は少し傲慢になっていたのかも知れません」、「私は政治家としてアマチュアでした」などという殊勝なる言葉が零れて来るとは予想だにしなかったことであるが、彼が追われるようにして辞めた後、彼の跡を襲うプロの政治家は、自公の推す「元・スケート選手」であろうか?
 それとも、民主の推す「№2女史」であろうか?
 「くつきりと富士が見えたら十二月」などと景気のいいことを仰る、山内健治さんは、東京都の住民と言っても、土方歳三の生まれ在所・多摩の日野界隈にお住いなのかも知れません。
 〔返〕  くっきりと疑い晴れたら辞めぬはず猪瀬直樹はやっぱり臭い


(泉大津市・志賀道子)
〇  紅葉狩京の駅より始まりし

 大阪府泉大津市にお住いの方がわざわざ京都まで足を運び、「紅葉狩」をすると言えば、「高尾・清滝方面」か「嵐山・嵯峨野方面」に限られましょう。
 で、泉大津市から「高尾・清滝方面」に向う場合は、「泉大津駅から南海本線で新今宮駅、新今宮駅からJR大阪環状線で大阪駅、大阪駅からJR山陽本線で京都駅、京都駅からはバス便」ということになりましょう。
 また、「嵐山、嵯峨野方面」に向う場合は、「京都駅からJR山陰本線に乗車して嵯峨嵐山駅下車」ということになりましょう。
 掲句に、「紅葉狩京の駅より始まりし」とあるが、この場合の「紅葉狩」が「高尾・清滝方面」でのそれを指すのであれば、そのスタート地点となる「京の駅」は、「京都駅」を指すことになり、「嵐山、嵯峨野方面」でのそれを指すのであれば、「嵯峨嵐山駅」を指すことになりましょう。
 ところで、掲句に限らず、俳句や短歌を鑑賞する場合、鑑賞者としては、出来るだけ事柄が明確になるような作品であって欲しいと望むものである。
 然るに。掲句の作者・志賀道子さんは、生まれつき言葉数をケチるお人柄なのかも知れませんが、「紅葉狩京の駅より始まりし」としか仰らないのである。 
 「京の駅」と言っても、さまざまな駅が在るはずであるから、「紅葉狩」のスタート地点となる駅が「京都駅」ならば、「紅葉狩京都駅より始まりし」と、「嵯峨嵐山駅」ならば、「紅葉狩嵯峨の駅より始まりし」と、言葉をケチらずに具体的に仰って欲しいものである。
 その点に就いては、如何でありましょうか?
 冗談半分に、いろいろと書き連ねて来ましたが、要は「京の駅より始まりし」では、具体性に欠けるということである。
 〔返〕  紅葉狩り京都駅から始まって嵯峨野・落柿舎・大覚寺まで


(神戸市・岸田健)
〇  ぬばたまの今宵またたく冬の星

 「ぬばたまの」の「ぬばたま」とは、「ヒオウギの種子」を指して言うのであり、「ヒオウギの種子」の「黒さ」から想を発して、「ぬばたまの」が「黒・夜・夕・宵・髪」などに係る枕詞になり、更には、夜に関わるところから「月・夢」などに係る枕詞として使われるようにもなったのである。
 ところで、掲句の「ぬばたまの」は、それを受ける語が「今宵」及び「星」以外に見当たらないのであるが、万葉以後の和歌・短歌を検証してみても、「宵」や「星」に係る枕詞として「ぬばたまの」を用いた例歌が見られません。
 短歌に枕詞を用いる、ということは、「万葉以来の和歌の伝統を踏襲する保守的な立場に身を置く」という事であり、その遣り方は、前例に則って遣る事である。
 然るに、「宵」や「星」に係る枕詞として「ぬばたまの」を用いた前例は無いのである。
 したがって、掲句に於ける「ぬばたまの」は、枕詞と言うよりも、「暗さをイメージする語」として、ただ漫然として用いられたものと判断せざるを得ません。
 となると、掲句の実質的な意味を持つ部分は、「今宵またたく冬の星」だけとなりましょう。
 俳句作者は、わずか十七音で以って、自らの意図するするところを余すこと無く表現しなければなりません。
 わずか十七音という限られた音数の中の「ぬばたまの」という五音は、如何にも無駄事のようにも思われますが?
 〔返〕  「ぬばたま」は無駄玉ならむ言葉にて「今宵またたく冬の星」のみ


(豊中市・堀江信彦)
〇  暁闇の歩に初霜の音を踏む

 「暁闇の歩に初霜の音」を「踏む」のでは無く、「暁闇の歩に初霜」の霜柱を「音」を立てて踏んだのでありましょう。
 それをそうと承知して居ながらも、「暁闇の歩に初霜の音を踏む」とした、作者の心映えを汲み取らなければなりません。
 〔返〕  暁闇の歩に初霜の音を踏み黄泉路の旅のしるべと為さむ  


(西宮市・黒田國義)
〇  大日向緋のきもの映え七五三

 「大日向」に「緋のきもの」をお召しになって、えびす宮総本社・西宮神社の境内を映え映えとして闊歩なさって居られるのは、今年三歳になるご息女様では無くて、御年・三十三歳の奥様ではありませんか?
 だとしたら、誰の為の「七五三」であったのか、判別出来なくなってしまいましょう?
 〔返〕  七五三 附け下げ姿の愛しくて娘を見ずに妻の顔見き  


(浜田市・田中静龍)
〇  雪起し石見の海に居座れる

 青森、秋田、山形、新潟といった裏日本の県の住民にしてみれば、「『雪起し』が『石見の海』に居座ったままであってくれればいいのに!」と思っているのでありましょう。
 〔返〕  雪起し石見の海に居座るは出羽百姓の願ひなりけり
 <注> 「出羽百姓」は、「でわひゃくしょう」と訓むべからずして、「でわひゃくせい」と訓むべし。 即ち、「出羽百姓」とは、いにしえの出羽国(今の山形県・秋田県)の住民の総員を指して言う言葉である。


(東京都・田治紫)
〇  もてなしは利休の心炉を開く

 教科書どおり、型どおりの語句を並べ連ねただけの作品であり、面白くも可笑しくもありません。
 〔返〕  「お・も・て・な・し」徳洲会の五千万今はあだなり猪瀬氏辞任


(芦屋市・山岸正子)
〇  少しだけ遠回りして落葉ふむ

 「その心掛けや佳し!」としなければなりません。
 〔返〕  殊更に遠回りして歩まむか今日も息災クロとお散歩



(大阪市・友井正明)
〇  大綿の暮るる御陵をさ迷ひて

 「大綿」とは、綿虫の俗称であり、俳句に於いては冬の季語である。

    日に失せし大綿影に浮かみをり    稲畑汀子
    大綿のひとかたまりに通りけり    石脇みはる
    大綿の空に紛れし白さかな      稲畑廣太郎
    大綿の浮遊銅鏡より出しか      長田等
    大綿の指にふれたる身のしまり    武藤嘉子
    大綿に弱法師われ導かる       木村杏子
    大綿を吹き放ちたる水の上      小山森生
    軽々と風の大綿流さるる       稲畑汀子
    武蔵野に大綿舞へり波郷の忌     水原春郎
    大綿の罷りいでたる能舞台      立石萌木
    大綿のただの浮遊と思へざり     杉本美智江
    大綿の日のさす方へ消えゆきぬ    小山尚子
    大綿の遊行のごとき浮遊かな     中島知惠子
    大綿の綿引きずって飛んでをり    綿谷美那
    笙の音や大綿浮ける神の庭      長谷川通子
    大綿に濡れ紙いろの日暮来る     藤岡紫水
    鐘楼門入るに大綿ついてくる     杉本美智江
    大綿の綿あたためて大夕日      花岡豊香
    大綿の失せて無聊の顔となる     水谷芳子
    大綿の出入自在に詩仙の間      中島知恵子
    大綿の俄に急ぐ意志見たり      安達風越
    図書館を出で大綿にぶつからる    小島みつ代
    大綿のついて乗り込む特急車     品川鈴子
    大綿や病棟古りし神経科       西郷利子
    大綿の行方定めぬ行方かな      橋本之宏
    大綿の瓢々然と逢ひに来し      大橋敦子
    大綿のひとつが視野を遠ざかる    佐藤淑子
    大綿を部屋に獲へて運が憑く     泉田秋硯
    大綿の飛び来て髪に溺れけり     橋爪隆
    傾ける日を大綿の惜しみとぶ     吉年虹二
    ぶつかつて大綿ふつと消えにけり   高橋将夫
    何ならむ大綿すいと流れゆき     石垣幸子
    大綿の日暮のいろを負ひ来る     岡淑子
    大綿の湧いて離れぬ面ひとつ     小形さとる
    大綿やしまひつつ売る古本屋     竹内水穂
    大綿や筆禍流罪といふがあり     小形さとる
    大綿舞ふ老いの吹く息いなしつつ   北尾章郎
    大綿の回向の舞ひと思はずや     上山永晃
    大綿や引き際が頭を離れざる     田中貞雄
    大綿や燭ささげゆく行者堂      山田春生
    先導の大綿につき行きにけり     加藤みき
    大綿のただよふ暮色鍵をさす     宮川みね子
    大綿や魂どこに輪廻する       江島照美
 〔返〕  大綿のふわふわとして手応えを感じること無く過ぎ行く師走


(横浜市・橋本青草)
〇  落葉踏み絵タイル踏んで港町

 港町・横浜の「絵タイル」と言えば、「赤い靴」に「帆船」に「黒船」に「岡蒸気」に「外人さん」に「ランドマークタワー」に「シナ服を着たおさげ髪の女の子」に「キングの塔」に「クイーンの塔」に「ジャックの塔」に「馬車道」に「汽車道」と、いろいろ様々でありますが、私も旧宅のキッチンの壁面に、それらの瀟洒な「絵タイル」を貼り詰めて、三十年余り過ごした横浜を偲ぶよすがとしていたのでありましたが、現在は、その旧宅を泣く泣く人手に渡して、川崎市の住民として淋しく暮らしております。
 〔返〕  落葉踏み絵タイル踏んで汽車道を真っ直ぐ行けば赤煉瓦街

今週の朝日俳壇から(12月16日掲載・其のⅡ・決定版)

2013年12月19日 | 今週の朝日俳壇から
[大串章選]

(可児市・金子嘉幸)
〇  綿虫の掴めそうなる日々続く

 掲句中の「綿虫」とは、「アブラムシ(カメムシ目ヨコバイ亜目アブラムシ上科)のうち、白腺物質を分泌する腺が存在するものの通称」とか。
 体全体を綿で包んだようにして飛ぶので「綿虫」と呼ばれる一方、晩秋の晴れ上がった日の夕方の空に、突然、初雪が舞い降りて来たようにして飛ぶので、北海道などの北国に於いては「雪虫」とも呼ばれている。
 掲句の作者・金子嘉幸さんのお住いの在る可児市は、岐阜県の中南部、木曽川南岸に位置する盆地町である。 
 近年、名古屋市のベッドタウンとして急速に発展しつつある可児市に於いては、毎年、十一月半ばになると晴れ上がった日が続き、夕方になると木曽川に面した往来には、綿虫がひらひらと飛び舞っていて、冬の訪れが近いことを人々に予測させるのでありましょう。
 「綿虫」は、晴れ上がった夕空の手を伸ばせば届きそうな高さを飛び舞うのであるが、掴もうとして手を伸ばしてもひらひらと身軽く逃げ回るので、掴めそうで掴めないのである。
 したがって、「綿虫の掴めそうなる日々続く」という句は、「綿虫」という昆虫の生態をよく捉えていると共に、木曽川南岸の盆地町という風土と、初冬という季節をもよく表しているのであり、更に言えば、その風土に包まれて暮らしていながらも、冬を迎えようとしている作者の心理、何かに憧れ、何かに携わろうと欲している人間心理をもよく表し得た佳作である、とも評価されましょう。
 〔返〕  綿虫の掴めそうなる高さにて掴めざりける名古屋嬢かも
 即興作とは言え、なかなかなる傑作ではありませんか。(なんちゃって、笑)
 でも、下手にあの気位の高い名古屋嬢を掴んだりすると、土地柄が土地柄だけに、結納金や何やらで大変な物入りであろうし、結婚後も嫁さんの尻に敷かれてしまう怖れが大である。
 因って、何かを掴もうとするならば、むしろ木曽街道を江戸方向に下って、信州馬籠の本陣の一人娘の心を掴んだ方が宜しいかも。(再び、笑)
 そうそう、信州馬籠は、いつの間にか岐阜県中津川市に吸収されてしまいました。
 したがって、島崎藤村は、岐阜県出身の偉人ということになるのである。


(埼玉県皆野町・宮城和歌夫)
〇  養生の行き着くところ新走り

 「養生の行き着くところ新走り」とは、お惚けもいいところであり、本当のところは「不養生も極まりにけり新走り」としなければなりません。
 ところで、掲句中の「新走り」とは、新米で醸造した酒、即ち「新酒」を指して言うのである。
 昔昔、未だ東映時代劇が全盛を極めていた頃、私は未だ郷里の田舎町の住人で、格別に遣ることも無い週末の一日を、東映映画を三本立てで上映するU劇場に入り浸って過ごしていたのであったが、やくざ者や浪人どもが往来する街道沿いの造り酒屋の軒に杉玉が吊るされていて、「新走り売り〼」、「新走り出来」などとの看板がぶら下がっていたりするのを白黒画面で目にして、華の東京に心を躍らせていたものである。
 それに、好色本全盛の昔から、不養生者の多くは「酒好きで女好きで博打好き」と相場が決まっておりますから、其処の辺りの事情を勘案すると、掲句も亦、なかなかなる傑作と申せましょう。
 重ねて言うが、「養生の行き着くところ新走り」とは、なかなかなるご立派な申し状である。
 〔返〕  不養生の行き着く先の新走り杉玉下がる冬の賑ひ
 自分から言うのも何ですが、これ亦、なかなかの出来栄えではありませんか?  
 宮城和歌夫さんの御作が宜しいから、それに合わせて返歌も宜しいのである。


(玉野市・勝村博)
〇  冬の蠅日向の芯を動かざる

 「梶井基次郎作の短編小説・『冬の蠅』をご参照されたし」とだけ申し上げておきましょう。
 〔返〕  冬の蠅日向欄間を動かざる伊豆の湯ヶ島放蕩三昧


(神戸市・豊原清明)
〇  透明な雪の言葉や狂詩曲

 「狂詩曲」とは「ラプソディー」、即ち「民族音楽風な叙事詩的な、特に形式が無く、自由奔放なファンタジー風の器楽曲」を指して言うのであり、その代表的なところは、リスト作曲の『ハンガリー狂詩曲』(全19曲)、同『スペイン狂詩曲』、ラフマニノフ作曲の 『パガニーニの主題による狂詩曲』、ガーシュウィン作曲の 『ラプソディー・イン・ブルー』でありましょう。
 掲句は、ガーシュウィン作曲の 『ラプソディー・イン・ブルー』に取材しての作品でありましょうか?
 思うに、ガーシュウィン作曲の 『ラプソディー・イン・ブルー』こそは、「透明な雪の言葉や」と褒めて詠むに相応しい名曲でありましょう。
 〔返〕  謂うなれば「ぐうたら男の冬の夢」ガーシュウィン作曲『ラプソディー・イン・ブルー』


(大阪市・森田幸夫)
〇  般若湯古酒も新酒もなかりけり

 「般若湯古酒も新酒もなかりけり」とは、よくしたものである。
 昔から「お寺の台所を預かる大黒様は大の吝嗇家である」と相場が決まっていて、檀家の一昨年の法事の折に本堂や門前の六地蔵に供えられた酒なども後生大事に隠しておき、「般若湯」と称して亭主の住職に飲ませたり、檀家総代などの寄り合いの際に飲ませたりしたものである。
 〔返〕  般若湯酔ひし挙句に抱き付きぬご本尊なる白衣観音


(岐阜県揖斐川町・野原武)
〇  善悪を見抜き梟目を瞑る

 「善悪を見抜き梟目を瞑る」とは、胸に覚えがあるからこその言い条でありましょう。
 ミネルヴァの聖鳥たる「梟」こそは慧眼の士、胸に一物有るが如き輩は、あの「梟」に一睨みされたら、胸の裡の何もかも曝け出してしまうのである。
 〔返〕  ミネルヴァの神の使いの梟は圓楽師匠の心を見抜く


(川崎市・山根繁義)
〇  百歳の訃報の張られ時雨れけり

 物事は考えようであり、「百歳」まで生きてから亡くなったと思えば、「大往生」と言って、祝宴を開くのであるが、「百歳」までしか生きられなくて死んだと思えば、涙雨の一粒や二粒ぐらいは流したくもなるのである。
 掲句の題材となっている「百歳の訃報」は、時雨のそぼ降る夜に、町内会館の前の掲示板に、遺族の方々に拠って泣く泣く張られたものでありましょうか。
 彼の死は、そのまま、是までに彼に支給されていたささやかな年金の消滅を意味するものであって、収入の当てのないままに、彼亡き後の暮しを支えて行かなければならない遺族の方々にとっては、到底耐え難いものでありましょう。
 〔返〕  百歳の訃報貼られし夜さへも猪瀬追及都議会止まず


(八王子市・田中きよ子)
〇  冬将軍皇帝ダリアを一撃す

 あの背高のっぽの「皇帝ダリア」こそは、まさしく裸の王様である。
 あの高さで、しかも防御体制さえも整わない状態で、「冬将軍」に来襲されたらひと溜りもありません。
 〔返〕  皇帝の名に負ふダリア丈高く街灯を避け栽培すべし


(旭川市・坂東きよみ)
〇  美術展熱き問い掛けありにけり

 掲句に、「美術展熱き問い掛けありにけり」とあるが、莫大なる「円」を注ぎ込んで、世界各国の美術館の所蔵作品の出開帳の会場みたいな役割りを果たしているに過ぎない我が国の美術館は、今や、私たち美術愛好者に「熱き問い掛け」をしているようには思われません。
 掲句の作者がお住いの旭川市内には、北海道立旭川美術館が在り、札幌市内にも幾つかの美術館が在りますが、北海道内の美術館は、私たち美術愛好者に向って、「熱き問い掛け」を出来るような「美術展」を企画・開催しているのでありましょうか?
 私が美術館と言えるような美術館に足を運んだのは、その当時、開館したばかりの上野公園の国立西洋美術館であり、私が上京後、間も無くの事でありました。
 その折に接した、松方コレクションの美術品の数々は、まさしく「美術展熱き問い掛けありにけり」といった感じでありましたが、その後、我が国経済の発展に伴って、東京都内のそれを中心とした我が国の美術館は、ヨーロッパ各国などの世界各国の美術館の分館のような趣きを呈し、世界各国・古今東西の美術作品が、入場料金さえ出し惜しみしなければ、居ながらにして鑑られるようになりました。
 しかしながら、その頃になると、私たち美術愛好者の心を揺り動かし、私たちの心にストレートに「熱き問い掛け」をして来るような美術展には出逢うことが無くなってしまったような気がするのでありますが、その点に於いては、皆様方は如何お考えでありましょうか?。
 私・個人としても、「ルーブル美術館」や「エジプト国立博物館」の名品は、あらかた見尽くしたような気がしますが、今になってみると感激らしきものが少しも残っておりません。 
 東京都内の美術館を中心とした我が国の美術館は、過去に於いて、「ウィーン美術史美術館/ニューヨーク近代美術館/ベルリン美術館/プラド美術館/エルミタージュ美術館/パリ国立近代美術館/ワシントンナショナル・ギャラリー/アムステルダム国立美術館/プーシキン美術館」等など、世界各国の美術館の選抜展を開催しましたが、それらの出品作品の殆どは、既に画集などで目にした作品であったので、私の素朴な心に「熱き問い掛け」をするようには思われませんでした。
 個々の画家の選抜展に就いても同様に思われます。
 以上、掲句の鑑賞に名を借りて、徒に作品の趣きを損ね、読者の方々を困惑させるような事柄を書き連ねて来ましたが、作者の坂東きよみさんに於かれましては、宜しくご許容下さい。
 ところで、北海道立旭川美術館では、来春、2月16日(日)から4月6日(日)まで、「『無言館』所蔵作品による戦没画学生〈生命いのちの絵〉展」を開催する、とのこと。
 果たして、「美術展熱き問い掛けありにけり」といった趣きを呈するに至るのでありましょうか?
 〔返〕  美術展・出開帳の趣きを呈するばかりと成り果てにけり


(川西市・上村敏夫)
〇  セーターの色ほど若くなかりけり

 この稿を記しながら、只今、私・鳥羽省三が着ているセーターは、真っ赤な地肌に灰色の毛糸で雪の結晶を描いたようなユニクロの特価販売品であり、古希を三年半も過ごしてしまったような私の年齢に相応しいものではありません。
 「セーターの色ほど若くなかりけり」とは、よく言ったもの。
 作者の上村敏夫さんのみならず、不肖・私もよくよく心しておきましょう。
 〔返〕  セーターの色ほど若くはないけれど一日万歩は歩きたいもの

今週の朝日俳壇から(12月16日掲載・其のⅠ・決定版)

2013年12月18日 | 今週の朝日俳壇から
[長谷川櫂選]

(新潟市・岩田桂)
〇  七十年七十回の冬に処す

 「鶴は千年、亀は万年、岩田桂は七十年」という訳でありましょうか? 
 ところで、日本人の平均寿命(2012年)は女性が86.41歳であり、男性が79.94歳である。
 こうした現状に在っては、「七十年七十回の冬」を生き抜いてみたからとて、格別に威張れるような事ではありません。
 然るに、掲句の作者・岩田桂さんは、「七十年七十回の冬に処す」などと四角張ったことを仰せ、毅然として憚る事無き態度を示して居られるのである。
 因って評者は、この際、岩田桂さんに対して猛省を促さんとする。(笑)
 〔返〕  張某、汝、№2の分際を弁へざるは僭越至極因って宮刑に処す!
      岩田某、汝、古希の分際で生意気至極佐渡送りに処す!
 
     

(静岡市・松村史基)
〇  熱燗の三十人を染め上げて

 剣菱の「熱燗」は、松村派結成の宴に臨んだ「三十人」の同志の顔を、桜色に「染め上げ」たのでありましょうか?
 〔返〕  熱燗にいつしか顔を真っ赤にし「よしみ日和見」と叫びて止まず
  
 
(玉野市・三好一彦)
〇  湯上がりの髪の真上を冬通る

 シャンプーして逆立った「髪の真上」を、今年の「冬」が一直線に吹き抜けて行くのである。
 〔返〕  湯上がりの髪を逆立て腰を振り冬将軍の夫人が不倫


(伊万里市・田中秋子)
〇  紙を漉くめしひなれども勘で漉く

 「めしひなれども勘で漉く」と詠んでいるが、「めしひであれば勘で漉く」と詠むべきでありましょう。
 〔返〕  紙を漉く椎葉平家の落人の村はダム底帰れずに泣く


(米沢市・草刈邦雄)
〇  飼主とこころよりそひ冬の犬

 夏の犬は、飼主の意思に殊更に逆らうが如く、あちらをうろつき、こちらをうろつきして、さっぱり歩数が捗らないのであるが、「冬の犬」は、「飼主」の「こころ」とびったり「よりそひ」、ただひたすらに距離を稼ぐことに専念しているかの如くに、歩を運ぶのである。
 〔返〕  急くほどに白き息はき冬の犬オーナー我の意思に寄り添ふ


(千葉市・相馬晃一)
〇  湯豆腐やあの泣き上戸死にたると

 「軍事の天才と呼ばれ、草創期の我が国の軍事制度の基礎を創った大村益次郎は、周防国吉敷郡鋳銭司村の村医者・村田孝益と妻うめの長男として文政8年5月3日に生まれたのであるが、幼時より湯豆腐を大好物としていて、後年、我が国最高の軍学者として名を成してからも、故郷の鋳銭司村に帰省した折りには、一丁の湯豆腐をつまみにして濁酒を嗜んでいた」とか。
 また、「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」とは、文豪・久保田万太郎の代表句である。
 事ほど然様に「湯豆腐」は、私たち日本人の嗜好に叶った食物であり、私・鳥羽省三は、昨夜も湯豆腐をつまみにして、ドイツワインの赤をグラス三杯も飲みました。

  湯豆腐や酒中の約の覚束な      能村登四郎
  湯豆腐や裏に瀬の鳴る吉野建     星野秀則
  湯豆腐や古りし象牙の夫婦箸     古川利子
  湯豆腐や日々今日ひと日似て非なる  朱間繭生
  湯豆腐や一件落着せし夫婦      山本涼
  湯豆腐や錦繍帶びし渓望み      河本利一
  湯豆腐や言はで事足る夫なりき    長沼恒子
  湯豆腐や猫は人より猫が好き     佐藤喜孝
  湯豆腐や講釈ながき人とゐし     小梅順
  湯豆腐や一人に大き鍋なりし     谷寿枝
  湯豆腐や小糠雨降る夜となる     國保八江
  湯豆腐やながらふほどに味深し    村上克哉
  湯豆腐や自虐の七味振り掛けて    小山田子鬼
  湯豆腐や手相に出たる苦労性     水原春郎
  湯豆腐や市井に老いて恙無く     田中春子
  湯豆腐や嵯峨野の水のよろしきと   池田倶子
  湯豆腐や今の幸せかみしむる     棗怜子
  湯豆腐や単身赴任重ねけり      市橋香
  湯豆腐や主客どちらも耳遠き     松田泰子
  湯豆腐や友あのころの顔になる    伊吹之博
  湯豆腐や会話のをどる湯気の中    板倉安正
  湯豆腐や土鍋のひびの美しき     二宮一知
  湯豆腐や掴みどころのなき人と    川村清子
  湯豆腐や昨日のことに拘らず     松本周二
  湯豆腐や素直な気持まだありし    吉田政江
  湯豆腐や隠れ遊びもひと仕事     小沢昭一
  湯豆腐や死を忘れたる嫗たち     吉村摂護
 こうして列挙してみると、湯豆腐の好きな人は善人揃いのようである。
 〔返〕  湯豆腐や淡くなりたる妻の萌え若き頃には二交三交


(堺市・奥村英忠)
〇  鴨の陣戦意全くなかりける

 「狩猟免許」所持者の減少及び高齢化が社会問題になっている。
 熊狩りや猪狩りならまだしも、「鴨の陣戦意全くなかりける」とは、だらしないのにも程がありましょう。
 日本海の向こうからミサイルが飛んで来たら、一体全体、どうするつもりなんでしょうか?
 〔返〕  鴨の陣戦意全く無き中に幸妃一人勇み立ちをり


(山形県最上町・松田佳津江)
〇  雪を掻く余計な事は考へず

  掲句の作者・松田佳津江さんのお住いの在る「山形県最上町は、周囲を奥羽山系の山々(神室山・小又山・火打岳・八森山・杢蔵山・禿岳・翁山)に囲まれた盆地(小国盆地)の真っ只中に位置していて、地理的に他の町村と隔絶している上、夏はやませが吹き、冬は我が国有数の豪雪地帯である」とか。
 「雪を掻く余計な事は考へず」とは、掲句の作者・松田佳津江さんが、自らの経験則に拠って知り得た「生活の知恵」とでも謂うべき教訓でありましょうか?
 〔返〕  町の名に相応しからぬ最上町最上川の流域でなし 


(大川市・中原南大喜)
〇  花といふ一番海苔の糶を待つ

 「花」とは何か?
 「一番海苔」を競り落とす行為自体を「花のある男の行いとして『花』」と言うのか?
 それとも、「一番海苔」が高値であるが故に「花」とされているのか?
 或いは、「一番海苔」の異称が「花」であるのか?
 〔返〕  花といふ一番海苔の糶を待つ花の競り人中原南大喜氏


(和歌山市・佐武次郎)
〇  ドロップは青春の味寒雀

 色彩鮮やかな「ドロップ」こそは、まさしく「青春の味」というべきでありましょう。
 〔返〕  ドロップは青春の味 君と飲むカルピスこそは初恋の味
      寒雀ドロップ食べるか食べないか喉に引っ掛けしゃっくりするな