臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

一首を切り裂く(020:まぐれ)

2010年03月31日 | 題詠blog短歌
(西中眞二郎)
   気まぐれにはじめし選歌も五年経てば抜き差しならぬ関わりとなる

 「気まぐれにはじめ」た事とは言え、「五年」も「経てば」立派な老舗です。
 いや、老舗を通り越して、<元祖・本家>を名乗ってもどこからも文句が来ませんよ。
 なにしろインターネット歌壇そのものが、未だに海のものとも山のものともつかない現状ですからね。
 これを他の業界に例えてみると、「貞永元年創業」という金看板を掲げて杉玉の一つもぶら下げている蔵元のようなものでしょう。
 そんな老舗のご主人に対して真に失礼とは存じますが、本作の表現について一言口出しさせていただきます。
 三句目の字余りを解消するために、「気まぐれに始めた選歌も五年経ち抜き差しならぬ関わりとなる」となさったら、いかがなものでございましょうか?
 「抜き差しならぬ関わりとなる」とは、正しく言い得て妙なる表現でありましょう。
 今となっては、選者・西中眞二郎さんと私たち詠み手との関係は、がっちりと胸と胸とを合わせた相思相愛関係にあり、抜きも差しもならない関係になっていると申せましょう。
 また、「題詠blog2010」に参加されている歌人たちのほとんどは、西中眞二郎ブログに一首でも多くの作品を掲載していただこうと躍起になっているのが、その現状でありましょう。
 首尾良く十五首入選の栄誉に預かり、「題詠2010百人一首」に入集しようものなら、バンクーバー五輪大会で金メダルを獲得したような喜びとなるのでありましょう。
  〔返〕 こちとらはやっと二年目よちよちと薄利多売でやって居ります   鳥羽省三 


(飯田和馬)
   しまむらで鎖がおまけのシャツを買うこのままぐれてよろしいですか

 すこぶる難解な一首である。
 と申すのは、この短歌スタイルを採った一文が、どんな目的で、誰に宛てて書いた文章なのかまるで分らなかったからである。
 そこで、一旦は後述するような作品観を述べた後、私は再度この作品について熟慮し、その結果、次のような結論を得たのでそれを示して置こう。
 その結論を述べる前に、私が貴重な時間を割いて思考した、その思考の跡を辿るため、この作品の内容を手紙スタイルに書き改めてみよう。
 何故ならば、そもそも本作は、その手紙の要約に過ぎなかったからである。

 拝啓、ママへ。
 ママお元気。
 僕も元気です。
 最近はママからの仕送りがめっきり少なくなったけど、それにもめげず、僕は人並みの学生生活をやって居りますからママもご安心下さい。
 最近の学生生活がやり易くなった原因の一つに、服装に対する学生や若者たちの考え方の変化が在ります。
 このことをママの母校の神戸女学院の生徒さんたちを例にして説明してみますと、高校生当時は、僕も彼女たちにかなり憧れていたけど、神戸女学院の女子高生と言えば、あのかなりハイカラでそれ以上にとり済ましたあのやぼったい制服ですね。
 あの野暮臭い制服を可愛い彼女たちに、神戸女学院の先生方や理事や神父さんたちが強いている理由は、女子高生は女子高生らしい服装をしなければならない、という考え方ともう一つ、 良家の子女は良家の子女らしい服装をしなければならない、という訳の分からない考え方がその根底にあったのですね。
 でも、今の僕たち若者が持っている服装観には、完璧にそうした考え方が除去されているから、その点、今の若者たちの暮らしは自由で便利でお金も掛からないのです。
 僕たち若者は、服装について、こう考えます。
 即ち、「服装は身の丈に合わせて、出来るだけ動き易く、値段も廉く、その中でほどほどのお洒落を忘れず、個性的であれ」と。
 そういうわけで、「しまむらで鎖がおまけのシャツを買う」からお金を送って頂戴。
 不況を理由にして、もしもママがお金を送ってくれなかったら、僕はぐれちゃいますよ。 「このままぐれてよろしいですか」。
 「このままぐれて」宜しくなかったらお金を出来るだけ沢山送って頂戴。
 僕のママのことだから、持ち前の美貌と神戸女学院卒の知性とを利用して、ママにぞっこんのパトロンやお客様からお金をたんまりせしめているんでしょ。
 だからお金を送って頂戴。
 もしもママがお金を沢山送ってくれなかったら僕はぐれちゃいますよ。
 「このままぐれてよろしいですか」。
 「このままぐれて」宜しくなかったらお金を出来るだけ沢山送って頂戴。   敬具。
 
 何のことは無い、この一首は短歌に名を借りた、お金の無心状だったのである。
 いや、無心状と言うよりも、脅迫状と言った方が適切かも知れません。
  〔返〕 「金送れ、送らなければぐれちゃうぞ」僕からママへの脅迫状だ   鳥羽省三

 と、まあ、此処まで書いてはみたが、こうした明解な結論に辿り着くためには、私の思考はあれこれと乱れたのである。
 そこで次に参考の為に、このような結論に至る前の私のこの作品に対する考え方、今となっては完全に否定してしまった本作に対する私の作品観を記して置こう。

 あのシティボーイ(やりたい男)の飯田和馬さんが、「しまむら」で「シャツを買う」と聞いて吃驚した。
 <しまむら>と言えば、その昔は、農家の小母ちゃんたちの野良着や普段着の販売店に過ぎなかったからである。
 今から十五年ほど前、私の長男と同期で都内の某一流大学を卒業した青年が、その当時は今と同じような就職の氷河期であったから、あちらこちらの就職試験や面接で撥ねられた挙句、唯一内定を得ていた<しまむら>に就職をするはめになり、それを哀れんだ私の息子やその仲間達が彼の激励会を催したことを思い出したからでもある。
 それにしても、あの<しまむら>がねー。
 この一首に接して、私は、昨今の日本の消費者心理の変化を間近に感じました。
 それはそれとして、「しまむらで鎖がおまけのシャツを買う」ことが、一体どうして「ぐれ」に直結するのでありましょうか?
 ここの辺りの事情には、ごく当たり前の若者たちの感覚と飯田和馬さんのそれとの大きな隔たりを感じました。
 ごく当たり前の若者たちの感覚が正常で、飯田和馬さんのそれは異常なのです。
 それに第一に、昨今では、犬や猿だって堂々と鎖をぶら下げて大道を闊歩しているではありませんか。
 犬や猿が出来ることを、万物の霊長たる人間の飯田和馬さんがどうして出来ないんでしょうか。
 私には全く解りません。
  〔返〕 しまむらで買ったシャツ着て鎖下げ難波ストリート飛ばしてみなよ   鳥羽省三


(富田林薫)
   この星にひとが生まれたおそらくはまぐれ当たりの始まりだろう

 そうかも知れません。
 そうで無いかも知れません。
  〔返〕 この星の生まれたことがそもそものまぐれ当たりの始まりでしょう   鳥羽省三


(はこべ)
   気まぐれのメールがたてし漣は今日で三日も消えずにおりぬ

 「メール」は電波に乗せられて運ばれるものであるから、「漣」が立つと言うのは道理である。
 その「漣」が一旦立てば、その余波は三日や四日では消えないものでありましょう。
 例えばこの私が、本作の作者・はこべさんの彼と目されている何方かに、「紅はこべは私がいただいた。老いぼれはとっとと棺桶の中に両足を突っ込め」などという内容の「気まぐれのメール」を入れようものなら、その余波たるや三日や四日では到底治まらないことでありましょう。
  〔返〕 紅はこべは俺のもんだよ諦めろキミははこべを枯れさせたのだ   鳥羽省三


(砂乃)
   まぐれでもいいから君に触れたくて満員電車に滑り込む僕

 この一首で以って、作者の砂乃さんが、<作者=話者>というアララギの古典的な公式に縛られずに詠歌を自由にお楽しみになっていらっしゃることが理解されました。
 それにしても、現役女子高生のお母様たる者がいきなりの<痴漢宣言>とは吃驚仰天です。
 一体全体、ご息女様にはどういう言葉で申し訳をなさるつもりなんですか。
 それとも、ご息女様は、あのオリンピックの鈴木明子選手みたいに、「私も一生に一度くらいは痴漢の被害者になってみたいわ。私は痴漢列車と噂されている埼京線で毎朝通学しているんだが、ただの一度も触られたことがありません。私の乗っている列車は、痴漢の<通過列車>なのかしら。ねー、ママどう思う」などと嘆いていらっしゃるのでしょうか。
  〔返〕 娘よの思いで詠める一首なりどうぞ僕ちゃん触ってあげてね   鳥羽省三


(鮎美)
   うつくしきまぐれ当たりを胸にとめ生き来ぬといふひとを笑ふな

 問題が一点在り。
 申すまでも無く、「生き来ぬ」の「ぬ」を完了の助動詞と捉えるか、打消しの助動詞と捉えるか、という問題である。
 作者の鮎美さんとしては、おそらくは、これを完了の助動詞として用いられ、一首の意味は、「この世の中には、自分の美質に自信を持てない余りに、<美しいまぐれ当たり>みたいな僥倖を期待して生きて来た人が居るはずだ。そういう切ない思いを抱いて生きて来た人のことを世間の人たちは笑わないで下さい」というものでありましょう。
 私は、毎年六月一日の鮎の解禁日になると、自慢の釣竿を抱えて何処かの渓流に挑みます。
 と言っても、私の釣りは下手な横好きの典型みたいなものですから、多くの収穫は期待して居りません。
 でも、そんな私の釣竿にも、まぐれ当たりのようにしてヒットしてくれる美形の鮎が必ず居るものです。
 去年は病気のために川に入りませんでしたが、今年は必ず何処かの川に出掛けようと思っています。
 今年の鮎はどんな鮎でしょうか?
  〔返〕 美しきまぐれ当たりを期待して生き来し人を僕は笑わぬ   鳥羽省三


(梅田啓子)
   赤き実を鳥が啄むゆふまぐれ〈ひとさらひ〉とふ言葉のよぎる

 『ひとさらい』とは、昨年の一月に惜しまれつつ急逝された笹井宏之さんの第一歌集のタイトルである。
 しかし、本作を作者の意図した通りに読解するだけで無く、その奥に足を踏み入れて行くためには、笹井宏之さんの歌集については、「ああ、そう言えば、そんな歌集もあったっけ」といった程度に意識しておくのが適当かと思われる。
 本作を観賞する上でそれ以上に大切なのは、「赤き実を鳥が啄むゆふまぐれ」という上の句である。
 私は、この上の句の措辞から、あの懐かしく輝かしい児童雑誌『赤い鳥』を連想し、それに掲載されていた「赤い鳥小鳥、なぜなぜ赤い。赤い実を食べた・・・・・」という童謡の詞章を想い起したのである。
 あの物悲しい童謡が歌われていた時代には、「ひとさらい」という言葉が現実味を帯びた言葉として、児童生徒たちに恐れられていたのではないでしょうか?
 本作の作者の場合も、ご年齢に不足はありませんから、おそらくは、そのことと笹井宏之さんの歌集のこととを同時に意識され、「赤き実を鳥が啄むゆふまぐれ〈ひとさらひ〉とふ言葉のよぎる」という傑作をお詠みになったのでありましょう。
 作者の梅田啓子さんは、還暦を明日明日お迎えになる今となっては、ただの短歌小母さんとなっておしまいになられましたが、その昔は、我孫子小町として、あの町の若者たちの心をやきもきさせたに違いありません。
 その我孫子小町がもっともっと幼くて可愛かった頃の、「赤き実を鳥が啄む」秋の「ゆふまぐれ」には、あの侘しい我孫子の町にも「ひとさらひ」が横行していたのでありましょう。
 <我孫子>とは、可愛い孫子を安心して育てたいとの願いを込めて命名されたもの。
 その我孫子に、こともあろうに「ひとさらい」が横行しようとは、皮肉的、逆説的命名もいいところである。
  〔返〕 ひとさらいに攫われ売られサーカスでブランコ乗りの哀れな少女   鳥羽省三


(ましを)
   気まぐれにすくった海のこぼれるを「きんいろ、」と言う 曇りの午後に

 おそらくは、お子様連れで春の海にお出掛けになられた時の一こまをスケッチされたのでありましょう。
 一首の意は、「うっかり目を離した隙に、よちよち歩きのお子様が渚まで足を運び、可愛い両手で気まぐれに海水を掬ったのであるが、その海水が細い指と指との間から零れるのを見て、お子様が『きんいろ』と一言つぶやいた。その曇りの午後の日のひと時の事が私には今でも忘れられない」というのでありましょうか?
 その事を充分に承知しながらも、私はこの印象的な一首から、遠い遠い昔の、神々に拠る天地創造の一こまを連想した。
  〔返〕 気まぐれに掬ひし砂の零れるを<ヤマトシマネ>と名付けつ神は   鳥羽省三


(穂ノ木芽央)
   駆けぬける気まぐれ少女(をとめ)の標的にされんと願ふ春の下駄箱

 <バレンタイン・ディー>の日の少年の切なる願いを込めた一首である。
 本作の話者に見立てられる少年は、この傑作の作者のご子息様かお孫様かとも思われる。 しかし、そうした私の想像は、或いは全くの誤解であって、本作は、成人に達した女性である作者が、自分自身を少年に擬えてお詠みになったものとも思われ、そこの辺りの解釈は、本作の作者から、直接「白紙委任状」を委ねられた評者の勝手にさせていただこうと思う。
 陽春の午後の「下駄箱」は、「駆けぬける気まぐれ少女の標的にされん」と、激しく切なく願望しているのである。
 「あの魅力的な少女たちの中の誰か一人でも、私の心の空洞に手作りのチョコレートの一片でも入れてくれないものだろうか」と。
 表現上の問題点について述べると、詠い出しの「駆けぬける気まぐれ少女」から、それを受ける「の標的にされんと願ふ春の下駄箱」までの表現は、春の陽を浴びて輝くガラス玉にも例えたくなるような素晴らしい表現なのであるが、そのど真ん中に在って、その輝きを著しく減殺する「(をとめ)」という、カッコ付きの<ふりがな>が余りにも無粋なのである。
 この漢字「少女」を、文字通り<しょうじょ>と読もうが、少し気を利かして<をとめ>と読もうが、その中身の解釈には、些細な影響すら与えないのではないでしょうか。
 そうであるにも関わらず、わざわざカッコ付きのふりがなを施してしまうところに、本作の作者の、未だ確固たる自信を持って詠歌に当たっていない事情が見え隠れしているのである。
 それから、事の序でにもう一言申し添えますと、評者・鳥羽省三は見掛けに似合わず内気な性格ですから、その性格の裏返しのような気持ちで書いている、「一首を切り裂く」の中に、初めての方の作品を採り上げる際にはとても気が引けるのである。
 私は、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、この「一首を切り裂く」を掲載し始めた昨年の当初から、歌人・穂ノ木芽央さんのご力量を高く評価していたのであるが、その詠風とネーミングに少なからぬ恐さを感じてしまい、これまでは極力、選んだり論じたりしないようにして来たのである(それでも昨年はニ、三首程度恐る恐る選ばせていただいたかも知れません)。
 そうした事情が在ったので、今回の<REコメント>は大変思いがけなく、大変ありがたく拝読致しました。
 未だその存在を半ば認めなれていないような今日、インターネット上に発表された短歌やそれについての論評は、「読んでくれる人が居てなんぼ」といった感じなのです。
 そういった現状の中に在って、私は、「題詠blog2010」に投稿された皆様方の作品を、「ここにこういう者が居て、あなたのお創りになった短歌を、間違いなく読ませていただきましたよ」という切なる思いを込めて、こうした記事を毎日毎日飽きること無く書いているのです。
 その点をご理解下さいましたうえ、これからも宜しくお願い申し上げます。
 私の拙いブログにも、連日千通前後のアクセスがあり、その中の幾人かは、私の書いたくだらない文章を面白おかしくお読みになっていらっしゃるのでしょう。
 こうした盛況も、ひとえに「題詠blog2010」の主催者の五十嵐きよみさんのご努力と、それを支える皆様方のご協力と賜物かと存じます。
 インターネット歌壇やその精髄としての「題詠blog」は、此処の辺りが正念場と思われます。
 総合誌『朝日短歌』が廃刊となってから数年経ち、「NHK短歌」が明け方六時からの放送に追い遣られ、栗木京子さんの歌集『くもり水晶』がブックオフの105円棚に並んで埃を被っている今日、短歌発表の場としてのインターネット歌壇や「題詠blog」の存在は、益々重要視されなけれはなりません。
 それを支え、それを発展させて行くのは、西中眞二郎さんであり、髭彦さんであり、梅田啓子さんであり、伊倉ほたるさんであり、飯田和馬さんであり、穂ノ木芽央さんである、と私は理解して居ります。 
 その旨、何卒ご承知置かれ、短歌創りにお励みになられ、私の拙いブログもご愛読下さい。
  〔返〕 駆け抜けて光浴びたる穂ノ木芽央 真央もうつくし芽央もうつくし   鳥羽省三
 
 
(駒沢直)
   気まぐれに過ぎないことは知っていた行きの終電帰りの始発

 「行きの終電」「帰りの始発」の原因となったのは、彼女からの「気まぐれに過ぎない」メールでありましょうか?
 だとすれば、本作の観賞の要となるのは、そのメールの内容の推定でありましょう。
  〔返〕 「私こと今晩ひまで空いてます。来るなら来てみろ赤とんぼちゃん」   鳥羽省三
 
 返歌中の「来るなら来てみろ赤とんぼ」とは、戦時歌謡の一つ、「荒鷲の歌」の一節で、「ぶんぶん荒鷲、ぶんと飛ぶぞ。来るなら来てみろ赤とんぼ」と、私たちは歌ったものでした。
 荒鷲は日本の飛行機、赤とんぼはアメリカの飛行機を指すのです。


(青野ことり)
   気まぐれな春が一日やってきてほころびかけた蕾が照れる

 「赤とんぼちゃん」の次は「青野ことりちゃん」。
 今日はいろいろと可愛いお方ばっかり続くものである。
 今年に限らないことではあるが、花見時の天候は真に不順である。
 昨日は上々の天気で、気の早い桜の蕾が明日あたりは咲くだろうという状態になったかと思うと、今日になってみると底冷えのする寒さで、「ほころびかけた蕾が照れ」てしまうようなことにもなるのである。
 本作は、花見時のそんな天候についてお詠みになったのでありましょうが、もてない女性が「気まぐれな」男性にモーションをかけられ、ついその気になって、「明日わたしと映画を観に行きませんか」などと言ったら、「なにをしょってるのあなたは。僕を誘いたかったら、おとといお出で。」などと言われて、照れるしまっている状況を詠んだものとも解釈される。
 本作の作者・青野ことりさんは、どのような意図で以って、本作をお創りになったのでありましょうか?
  〔返〕 気まぐれな女子高生に踊らされ一家離散の憂き目にも遭う   鳥羽省三


(珠弾)
   妄想の春一番が吹き荒れる まぐれもあると風は囁く

 「妄想」は「春一番」に限らず、二番も三番も四番も次々に中年男の胸の中に「吹き荒れる」のである。
 彼らのほとんどはただの「妄想」に過ぎなくて、ほんの束の間に雲散霧消してしまうのであるが、ごくたまには「まぐれ」も在って、インターネットの出会い系サイトでまぶい女子高生を手に入れたなどと言って喜んでいる中年男性も居るが、それも結局は糠喜びに過ぎないのである。
 したがって、「妄想」の虜になってしまわれるようなお年頃の珠弾などは、よくよくご注意なされることが肝要でありましょう。
  〔返〕 妄想はまぐれも外れもあらずして中年男をずたずたにする   鳥羽省三


(れい)
   「まぐれだよ」「受かっちゃったよ」「僕もだよ」言葉交わして春の日は行く

 「まぐれだよ。まぐれで落ちちゃったんだよ。」「僕もそう思うよ。」「慰められたって、今さら受かるわけが無いから、かえって傷付くだけだから、もう僕のことは放っておいて下さいよ。」などという場合もある。
 五句目の「春の日は行く」を、「春の日を行く」にする手もあるが、それも考え方一つでありましょう。
  〔返〕 「まぐれでよ」「受けちまってよ」「慌てたよ」お笑いトリオの打ち明け話。   鳥羽省三   


(草野千秋)
   薄闇が表情隠す夕まぐれ 酔っちゃったのと腕につかまる

 「薄闇」が彼女を大胆にさせたのである。
 彼女も彼女だが、彼も彼である。
 彼はこの展開を予め想定していて、彼女をスナックに誘い、薄闇刻を見計らって店を出て来たのである。
 この一首に描かれている風景は、新宿から千駄ヶ谷に向かう通りで、毎晩のように展開されている艶なる風景である。
  〔返〕  薄闇が表情隠す夕まぐれ酔わせちゃったら一直線だ   鳥羽省三
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

『NHK短歌』観賞(加藤治郎選・2月14日放送)

2010年03月30日 | 今週のNHK短歌から
 もっともっと刺激的に書こう。
 時には攻撃的にも書こう。
 それが、寝惚け顔の短歌を覚醒させ、それが、絶滅寸前の短歌を蘇生させる唯一の方法だと信じて。


○ 新しい乗り物として魂はたまたま僕を選んだ、のか  (神戸市) 飯田和馬

 癌細胞やウィルスにとっては、人間の生身の身体は格好な「乗り物」なのだと言う。
 だとすれば、「魂」にとっては、繊細な知性を以って知られる飯田和馬さんの心の中は、格好な「新しい乗り物」に違いないのだ。
 だとしても、自分と他人とを厳然として区別し、自分の優位性を保証しているはずの自分の「魂」が、「新しい乗り物として」「たまたま僕を選んだ」のに過ぎないと認識した時の作者の驚愕と落胆とは、一体いかばかりであったでありましょうか。
 この哀しい認識こそ、彼をして現在の彼たらしめたのである。
 それかあらぬか、本作の作者は<元・引き篭もり>を自認され、未だに私たち短歌ファンの前に、その厳粛な歌人魂はおろか、持ち前の美顔さえ現そうとはしない。
 しかし、マイブログ「臆病なビーズ刺繍」の看板連載「一首を切り裂く」は、この際、遠慮会釈無く彼の作品を大衆の面前に引き摺り出し、彼の鶏冠の天辺から両足の爪先まで徹底的に分析する心算である。
 その旨、宜しくご承知おき下さい。
 前置きはこれくらいにして、本作の表現について一言申し上げれば、本作が、選者・加藤治郎氏によって、特選一席に選定された最大の理由は、「新しい乗り物として魂はたまたま僕を選んだ、のか」の「、のか」に在るのかと思われるが、この作品から「、」を除いて、「新しい乗り物として魂はたまたま僕を選んだのか」としたら、本作は、ただの散文と成り果ててしまい、余情も韻律も感じられなくなってしまうのである。
 かほど然様に効果的な「、のか」だったのである。
 わずか三十一音の短歌作品の創作に当たっては、ひらがな一字、句読点一個たりともゆるがせに出来ない。
 本作は、実作を以って、私たちにそのことを知らしめて下さったわけである。
 無用な付け加えながら、もう一言申し添えると、本作は「<identity>の喪失」を主題として詠んだ作品なのである。
  〔返〕 気休めの玩具の一つと蔑んで飯田和馬は歌を詠む、のか   鳥羽省三     

○ 坂氷という名の坂を下りゆくバスが大きくのめる。さよなら  (北広島市) 樋口幸子

 特選二席にランクされた作品。
 「坂氷」とは、埼玉県秩父市に実在する地名。
 この地を運行するのは<西武バス>であるから、本作の作者の樋口幸子さんは、秩父札所巡りの旅行か何かでこの地を訪れ、西武バスに乗って「坂氷という名の坂を」下ったのであろうか?
 「バスが大きくのめる。さよなら」という表現が新しく、選者・加藤治郎氏のハートを見事に射止めたのであろうか?
 「大きくのめる。さよなら」の「。さよなら」は、「坂氷という名の坂」に対して言う「さよなら」なのか、自分の命に対して言う「さよなら」なのか?
 このように、いろいろと考えさせられるところが、この作品の良さなのである。
  〔返〕 ただ独り<三途の川>とふ地を訪ぬ妻子を置いて死んでたまるか   鳥羽省三
   

○ 新宿に電車が集う雨上がり虹の色にはひとつ足りない  (北区) 阿部順子

 新宿駅は、JR東日本関係各線の他、京王電鉄京王線・小田急電鉄小田原線・西武鉄道新宿線・東京メトロ丸の内線・都営地下鉄大江戸線などのターミナル駅であるから、その操車場では、「新宿に電車が集う雨上がり虹の色にはひとつ足りない」という現象が起きることが充分に考えられる。
 本作の内容が実景だとすれば、さて、「虹の色にはひとつ足りない」と詠まれている、その「ひとつ足りない」色とは何色なんでしょうか?
 その答を出すのはしばらく措くとしても、「雨上がり」には電車の車体が洗われて輝くから、普段より車体の色が鮮明に見えるのであろう。
 特選三席の作品である。
  〔返〕 新宿に集ふ電車の一つなる小田急線の古代紫   鳥羽省三


○ 手に残るミカンの香りをかぎながら君とバス待つ冬の幸せ  (札幌市) 笹崎未歩

 本作の話者(=作者)は、この日彼氏と一緒に、札幌市内のあるデパートで行われていた、佐賀県物産市に出掛け、試食品の佐賀みかんを腹いっぱい食べちゃったのかも知れない。
 買う気も無いのに試食だけは欠かさないのが彼女の数ある欠点の一つである。
 だが、そのことについては彼も責めないし、彼女ご自身それで「幸せ」を感じているのだから、彼女の父親でも無く親戚でも無い私が、とやかく申し上げることも無いでしょう。
  〔返〕 舌が知る彼女の感触惜しみつつ一人で家路を急ぐ切なさ   鳥羽省三


○ 繰り返しへそくりの場所いう祖父を静かに乗せて救急車ゆく  (北海道) 三浦美香

 認知症もお金のことを口にするようになると本格的な段階に達したのだ、と何かの本で読んだことがある。
 不謹慎なことを言うようではあるが、もしかすると、作中の「繰り返しへそくりの場所いう祖父」は、本格的な段階に達した認知症患者ではないだろうか?
 もしそうだとすると、救急車の乗務員の方々は、そのことを充分に認識しているからこそ、この祖父を救急車に静かに乗せて行くのであろう。
 一所帯に発した不幸な出来事とその処理を巡ってのどさくさが、その渦中にあった作者の手によって、冷静に見事に活写されているのである。
  〔返〕 繰り返し言ってた金の隠し場所探してみたら寛永通宝   鳥羽省三


○ サイゴンの街ゆるやかに巡りゆき夕べ安らぐシクロに君と  (神栖市) 山上ふみ子

 東京の六本木に、「シクロ(CYCLO)」というベトナム料理専門レストランがある。
 私はこの二月末に、ベトナムでの駐在員生活から帰還した友人に誘われてこの店に行き、彼に薦められるまま、同店名物の「海老と豚の生春巻き」及び「バンセオ」などを食べてみたが、格別に美味しい食べ物とは思わなかった。 
 一首が「サイゴンの街ゆるやかに巡りゆき夕べ安らぐシクロに君と」となっているところから推すに、「シクロ(CYCLO)」を名乗るベトナム料理専門レストランは、ホーチミン市の店が本店で、我が国の六本木店はその支店なのであろうか?
 ところで、本作中には、レストラン「シクロ(CYCLO)」の所在地と思われる「街」の名を「サイゴン」としていて、ホーチミン市とはしていないが、現在のホーチミン市の旧称である「サイゴン」は、今でもまだホーチミン市の一廓として存在しているのであろうか?
 本作には、緩やかで穏やかで豊かな雰囲気が感じられるが、ベトナム戦争でのアメリカの敗北やサイゴン陥落などといったニュースは、未だに私の記憶に新しい。
 ベトナムという国や、その経済の中心地としてのホーチミン市は、あの戦争の痛手から完全に立ち直ったのであろうか。
  〔返〕 ベトナムと言えば今でも枯葉剤思い出すの痴れたる故か   鳥羽省三

 
○ 手袋の片方だけが落ちている何か不思議な決りのように  (世田谷区) 黒沢 竜

 本作の話者(=作者)は、何かのまじないか約束事として「手袋の片方だけ」を落として行く慣わしがあるのかしら、と思っているのだろうか?
 それとも、今日ここで「手袋の片方だけが落ちている」のを見てしまったことは、私の将来に決定的な意味を持つのだろうか、と思っているのだろうか?
 読者にいろいろな宿題を与えて考え込ませることは、優れた短歌が備えるべき条件の一つではあろうが、それも程度問題である。
 でも、この程度ならギリギリのセーフとするか。
 童話からヒントを得た作品とは思われるが、その原典を突き止める余裕が今の私には無い。
  〔返〕 弓手だけ赤いのだけが落ちている呪いの如し舗道の手袋   鳥羽省三 


○ 「将来の自分」と書いたノートあり隣に眠る青年の手に  (町田市) 北原正夫

 多分、電車内でのことであろう?
 私はこの一首に接し、あの近藤芳美氏の名作、「いつの間に夜の省線にはられたる軍のガリ版を青年が剥ぐ」(『埃吹く街』昭和23)を思い出したが、同じ電車内での風景を詠んだ作品といっても、本作と近藤芳美作とは、雰囲気がまるで異なる。
 あの時代の短歌に備わっていた緊張と厳粛は、いったい何処に消し飛んでしまったのであろうか。
 本作を入選作としたのが、近藤芳美氏の後継者の一人たる加藤治郎氏だけに、私はその点が気になって仕方がない。
  〔返〕 「将来の日本を憂う」記事を読む隣りの国を恐れる内容   鳥羽省三


○ 雨のなか濡れない器のかたちして閉ざされている車のふたり  (綾瀬市) 高松佐知子

 雨の中でのドライブを「濡れない器のかたちして」と言ったことだけが取り得の作品である。
 「濡れない器のかたちして」と言えば済むのに、それに重ねて「閉ざされている」と言い、更に「車の」とまで言うのは、単なる字数稼ぎの過剰表現ではないだろうか?
  〔返〕 雨のなか濡れない土管でくすぶって残り弁当食べてる私   鳥羽省三  
 

○ 助手席の位置にいつでも収まるのあなたの左隣がいいの  (金沢市) 黒崎恵未

 軽い。
 あまりにも軽過ぎるのである。
 <歌人ちゃん>が作った、「私は彼の助手席の女になりたい」といった内容の<なんちゃって短歌>は、この広い世の中にうじゃうじゃ在るではないか。
 こんな軽薄な作品を入選させて、加藤治郎氏は、「NHK短歌」をどういう方向に導こうとしているのだろうか?
 この作品の<軽さ>と、この直後の<高安みさほ>さん作の<軽さ>との違いに気付かないようでは、加藤治郎氏の歌人としての資質も、短歌評論家としての適性も知れている。
 馬鹿も休み休み言い、馬鹿なことも休み休みやりなさい。
 作者も選者も、あまりにも馬鹿げているから、返歌を作る気が失せた。
  〔返〕 助手席はチャイルドシートでありません君の座席はトランクだけだ   鳥羽省三


○ 鉄橋を渡る時には水となりポシャンポシャンと座席に揺れる  (八尾市) 高安みさほ

 この歌の話者(=作者)は、典型的な環境順応型、いや環境即応型の人物である。
 我が国には、このような人があまりにも多くいるから、<政権交代>などという現象がいとも容易く現出し、それから半年も経たないのに、「鳩山由紀夫は、もう賞味期限切れだ」などと言うやつが、うじゃうじゃ現れるのである。
 冗談は別として、<鬱社会>などと呼ばれる現代社会に於いて、他を押し退けて生きて行く為には、「鉄橋を渡る時には水となりポシャンポシャンと座席に揺れる」くらいでなければ駄目である。
 目の前に祭屋台が担ぎ込まれれば、その屋根に乗って八方を踏んで楽しみ、<毒を喰らわば皿までも >といった覚悟を備えた者のみが現代社会を生き抜いて行けるのである。
 <冗談は別として>と言いながら、またまた冗談を飛ばしてしまったが、本作の作者・高安みさほさんは、これまでに私が冗談交じりに述べたこととは、かなり逆方向の意味を込めて、この作品をお創りになられたに違いない。
 即ち、私がこの作品から読み取った内容は、「私って、直ぐこんな気持ちになっちゃうんだから、あまり軽くて困っちゃうわ。でも、私は、こんな私がとても好きなの」といったものなのである。
 文句無しの傑作です。
  〔返〕 SLの窓を閉めずに乗ったからトンネル出たら顔が真っ黒   鳥羽省三
 

○ 我を見てバスの中から笑ってた初恋の人にやがてなるひと  (小松島市) 渡辺健一

 純情な男が居たものである。
 彼のような存在を<絶滅危惧種>と言うのだろう。
 「我を見てバスの中から笑ってた」女性がいたからといって、その女性をいちいち「初恋の人にやがてなるひと」などと思っていたらたまらない。
 自慢して言うわけではないが、この私などは、東京と言わず、横浜と言わず、川崎と言わず、この広い日本中の至るところ「初恋の人にやがてなるひと」だらけである。
 「初恋の人にやがてなるひと」が、<日本中の至るところ>にいるのは、何もこの鳥羽省三だけでは無い。
 かく言う私の妻などは、散歩の途中にたまたま出会った人だけでなく、犬にまで尾を振られ、にこにこ笑いかけられると言うから、彼女の場合は、「初恋の犬になる犬」が<日本中の至るところ>にいる、と言うべきであろうか?
 これもまた傑作である。
  〔返〕 尾を振ってさも親しげに笑ってたから初恋の犬に決めちゃう   鳥羽省三 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

今週の朝日歌壇から(12)

2010年03月29日 | 今週の朝日歌壇から
○ 「よわいひとはやつぱりいぢめられるよね」むじやきなこゑのえきしやにひびく  (佐倉市) 横山鈴子

 「よわいひとはやつぱりいぢめられるよね」と言う話の内容が深刻なのにも関わらず、そをを話す人の声が「むじやきなこゑ」であり、しかもその話し声が「えきしやにひびく」ような大声であるところに面白さがある。
 このアンバランスが本作を優れた短歌としていると言っても過言ではないだろう。
 一首全体を<ひらがな書き>にした効果もそれなりに上げているものと思われる。
  〔返〕 弱いくせに虐められないやつが居る。虎の威を借る狐のようだ。  鳥羽省三


○ 店先で話し弾めり公田氏の安否気遣い客帰りゆく  (秋田市) 渡部栄子

 格別に出来の悪い作品というわけでは無いが、この種の作品には、投稿する者と選ぶ者の馴れ合った姿勢、更には選ぶ者の背後に居る新聞社の姿勢などが垣間見られて好きになれない。
 選者の永田和宏氏は、未だにこの種の作品を毎週のように採り続けているが、それを称して、私は<馬鹿の一つ覚え>と言いたい。
  〔返〕 公田氏は名前を替えて投稿し今ごろ何処かで笑っているかも   鳥羽省三


○ 四十年朝日歌壇の切りぬきを送りつづけし母が病むといふ  (アメリカ) ソーラー康子

 この作品もまた、私の好きになれない種類の作品である。
 朝日歌壇の<キャッチコピー>紛いの作品を敢えて入選させようとする選者の姿勢には、男芸者や幇間を前にした時のような嫌悪感を感じざるを得ない。
  〔返〕 幾年の選者稼業か知らねども未だ解き得ぬ幇間被り   鳥羽省三


○ 差し入れの焼き芋喰へば予算なきロケの現場に上がる歓声  (千葉市) 木村 昇

 現代の日本社会に於ける映画製作は、恐いもの知らずのお嬢さんたちや飢え死に覚悟の<映画野郎>たちの手によって賄われていると言っても過言では無い。
 したがって、その「予算」はギリギリまでケチられたものであり、主役クラスの有名スターを除いた、製作フタッフや出演者たちは、手弁当ないしはコンビニ弁当とペットボトル入りのお茶程度の食事で我慢して頑張っているのである。
 そうした折、出演者の縁者などから「焼き芋」が「差し入れ」られたので、「ロケの現場」に「歓声」が上がったのである。
 この作品をそのような意味に解釈して終りにしたら、それは極めて勿体無い話である。
 学生時代からエキストラ登録をしていて、ニ、三回は持ち前の美形が認められて大部屋俳優並みに、セリフ入りの役まで貰って、ありとあらゆる日本映画に出演したことのある私の経験からして言うと、ロケ現場に「焼き芋」に限らず、何かの食物の「差し入れ」があった場合、それには絶対に手を出さないで、現場の隅の物陰などに隠れて、黙然として煙草を吸っている者が必ず一人や二人くらいは居るものである。
 彼らは黄金時代の日本映画のロケ現場やスタジオの雰囲気を知っている者で、かつての自分が、<黒沢組>、<小津組>、<成瀬組>などの一人として活躍したことが忘れられないのである。
 いわゆる<腐っても鯛>、<渇しても盗泉の水を飲まず>というやつである。
  〔返〕 焼き芋は大根役者が食うもので演技自慢の俺に似合わぬ   鳥羽省三


○ 派遣切り告げられ更衣室に行き脱ぐものを脱ぎ着るものを着る  (大阪市) 加治屋恵

 「脱ぐものを脱ぎ着るものを着る」という、捨て身でさっぱりした姿勢が好ましい。
 <長いものには巻かれろ>の昨今、ぐずぐずしていても埒が明かないし、達観と諦念と相半ばした自分自身の気持ちを充分過ぎるくらい知っているからこその姿勢なのである。
  〔返〕 発つ鳥は後を濁さずとは言へど玄関扉を蹴りつつぞ発つ   鳥羽省三


○ 大正十年創業の日の写真あり棺桶の前に祖父母ならびて  (八戸市) 山村陽一

 「棺桶の前に祖父母ならびて」とあるところから推すに、葬祭店の「創業の日の写真」なのか?
 もしそうならば、今となっては、その「祖父母」もまた「棺桶」に入れられ、火葬場に曳かれていった人となってしまったのか?
 「棺桶」と言っても、その価格はピンキリである。
 先祖思いの話者(=作者)のことであるから、「祖父母」を入れた「棺桶」は最高級品であったに違いない。
 しかし、その価格は儲け無しの原価であるだろうから、市販価格の三分の一程度だった筈である。
 本作に詠まれた出来事の救いは、唯一その点だけである。
 題材のユニークさが評価されたのであろうか?
  〔返〕 実物の見本としての棺桶に時折り我も身を休めたり   鳥羽省三
 

○ ガラパゴス諸島の鰐となり果てて老人ホームの風呂に動かず  (岩国市) 蛭本博彦

 「ガラパゴス諸島の鰐」は、同島に棲息するイグアナなどの他の生物と一緒に、特別天然記念物として手厚く保護されているのではないだろうか?
 だとすれば、本作の作者は、「老人ホーム」での自分自身の生活に一応は満足しながらも、時折りは卑下し、羞恥心を抱いてもいるのである。
  〔返〕 ガラパゴス諸島の鮫となる時は職員どもに噛み付きもする   鳥羽省三   


○ まうしろの座席の人のおもき吐息六度まで聞きバスより降りつ  (和泉市) 長尾幹也

 「バス」などの「座席」に在って「まうしろの座席の人のおもき吐息」を耳にすることは、自分がすること以上に辛いものである。
 本作の話者(=作者)は、この「おもき吐息」を「六度まで聞き」、それから「バスより降り」てしまったと言うのであるが、完了の助動詞「つ」の意味に拘るならば、本作の話者は、その「おもき吐息」を「六度まで」我慢して「聞き」、その後は我慢して居られなくなったので「バス」から降りてしまった、ということになる。
  〔返〕 真後ろの溜息を吐く若者は試験に落ちた私の息子   鳥羽省三
  

○ ブルドーザーずかずかと来て百年の田んぼの土を剥がし始める  (群馬県) 小倉太郎

 これ以降の三首は、土木・農業機械を詠んだ作品である。
 米余りの今日と言えども、政府や県市町村からの補助金を頼りにしての、農村での耕地整理ラッシュは過熱の度合いを深めるばかりである。
 「ブルドーザーずかずかと来て百年の田んぼの土を剥がし始める」という、この一首の表現から推して、本作の作者は、農村での、こうした耕地整理ラッシュを醒めた目で見つめている人であることが想像される。
 「ブルドーザーずかずかと来て」及び「百年の田んぼの土を」が宜しい。
  〔返〕 ずかずかと奥の座敷に上がり来て一ヘクタール田強いる土地改良区   鳥羽省三  

 
○ ゆるゆると大型機械の掘る人参異国の人ら黙々拾う  (行方市) 額賀 旭

 <農業研修生>という名の低賃金労働者たちが、「ゆるゆると」進む「大型機械の掘る人参」を「黙々と拾う」のである。
 やる気も学ぶ気も無く、ただ拘束された時間まで務め、与えられる筈の賃金さえ手にすればいい、といった感じの「異国の人ら」の姿が目に浮かぶようだ。
  〔返〕 無農薬有機栽培人参を人畜無害の人らが拾う   鳥羽省三


○ 田を起すトラクターの音とおひさまを背負って畦で土筆摘みおり  (松阪市) こやまはつみ

 「畦で土筆摘み」に熱中している者からすると、「田を起すトラクターの音とおひさま」は、BGMや舞台装置の役割りを果たしてくれているのである。
  〔返〕 暮れ方の小一時間を畦に居て夕陽浴びつつ土筆摘みたり   鳥羽省三  


○ 吾妻嶺の雪解け水は靄呼びて阿武隈川をひねもす渡る  (須賀川市) 布川澄夫

 「雪解け水は靄呼びて」は、単なる短歌表現上の美的修辞では無くて、科学的根拠を伴った表現なのである。
  〔返〕 阿武隈に雪解け水の清みにけり吾妻嶺のはな今か咲くらむ   鳥羽省三


○ 息吹けば咲き出しそうな枝ばかりさくら木は今何かを待ってる  (大阪市) 石橋佳世子

 「息吹けば咲き出しそうな」が宜しい。
 「さくら木は今何かを待ってる」の「何か」とは、開花するに相応しい日和だけでは無いだろう。
 この一首中の「さくら木」を、既にその覚悟を決めて、彼の求婚の言葉を今か今かと待ち構えている、作者・石橋佳世子の象徴として捉えることも可能である。
 でも、肝心要の石橋佳世子さんが、今年米寿を迎えるお婆さんだったりして。
  〔返〕 息吹けば倒れてしまう私です。それでもいつも何かを待って。   鳥羽省三
  

○ 900CC(きゅうひゃく)のバイクは何と軽々と青空の下引取られ行く  (枚方市) 辻 修一

 「900CCのバイク」ともなれば、その価格は軽く百万円を超え、その重量もまた把瑠都級である。
 それなのにも関わらず、この「青空の下」、それが「何と軽々と」「引取られ」て行くのである。
 「引取られ行く」とは、下取り業者などの手によって、その「バイク」が、予想外の安値で買い取られ、軽トラックなどに載せられて「軽々と」運ばれて行く、ことを指して言うのであろうか? 
  〔返〕 900CC(きゅうひゃく)の<ハーレーダビッドソン・スポーツスター>はお買い得、2000年式です   鳥羽省三 


○ 水の上に水は走りて水底の青草なびく速き流れに  (静岡市) 堀田 孝

 早春の雪解け水が、激流を成して流れる様を映したのであろうか。
 「水の上に水は走りて」という一、二句が、その有様をリアルに表現している。
  (返) 梅花藻の小さき花はひれ伏して柿田の川の水澄みにけり   鳥羽省三


○ 見得を切る金毘羅歌舞伎の追出しは昏き奈落の花冷えのなか  (高松市) 小林八洲男

 私は、作中の「金毘羅歌舞伎」については、辞書的な知識しか持たず、まして、その「追出し」なる存在については何らの知識も持っていない人間である。
 したがって、この一首に接した瞬間、私はその鑑賞をスルーしてしまおうとさえ思ったのである。
 しかしながら、一般的に言って「追出し」とは、寄席や劇場などに居る<男衆>の一種で、彼らは「金毘羅歌舞伎」の演目が果てた後、「見得を切る」ような独特の声を張り上げて、お客の「追出し」にかかるのであろうと思われる。
 もしそうならば、その「追出し」役の男衆たちは、舞台上で演目が展開されている最中は、他にやるべきことも無いから、舞台の下の「昏き奈落」に居て、折からの「花冷えのなか」を、公演が終わって自分たちの出番が来るのを待っているのだ、というのが、本作の大意でありましょう。
  〔返〕 「さあ、さあ、さあ、お帰りにお足はいただきませんが、お足元にはご注意を。」   鳥羽省三  

 
○ のつそりと大工がしいたけ持つてきて仕事ありませんかと言うて帰れり  (埼玉県) 小林淳子

 「のつそりと」「大工がしいたけ持つてきて」「仕事ありませんかと言うて帰れり」という表現から覗われるものは、農業を営み、シイタケ栽培をしながら、その傍ら「大工」もやっている、といった、埼玉県辺りにはいかにも居そうな「大工」さんの生態である。
 本作の作者の小林淳子さんのお宅は、その地方を代表するような名家であるから、作中の「大工」さんが年中出入りしていて、大工仕事に限らず、庭仕事や畑仕事、それに冠婚葬祭の折りなどには、その手伝いなどもしているのであろう。
 〔返〕 のっそりと台所口より出入りしてお昼になればお茶なども飲む   鳥羽省三 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

『NHK短歌』観賞(米川千嘉子選・3月28日放送)

2010年03月28日 | 今週のNHK短歌から
 元々は日曜日の午前八時から放送されていた「NHK短歌」が、昨年からは午前七時から放送され、この四月からは午前六時から放送されることになった。
 しかも、これまでは三十分だった放送時間を二十五分に短縮するとも言う。
 三十分から二十五分に短縮された残りの五分には中国語初級講座でもぶら下がるのか?
 この果てし無い後退の歴史は何を意味しているのか?
 私たちに与えられた時間は残り少ないのだ。
 私たちは急がなければならないのだ。
 

○ 車椅子のモーター音は春の音GO、GO、GOと芽吹く道ゆく  (小松島市) 関政明

 車椅子にも手動式と電動式があるようで、本作の作者の乗っているのは電動式だから歩行中は、始終モーター音が鳴り響いているのである。
 同じモーター音でも「春の音」だから「GO、GO、GO」と鳴り、秋の音ならば「怨、怨、怨」と鳴るのか?
 その「春の音」を立てて鳴る、電動式の「車椅子」に乗って、作者は「GO、GO、GO」と道を行き、草花は「「GO、GO、GO」とばかりに「芽吹く」のであろう。 
 「NHK」短歌の常連中の常連の関政明さんの作品としては、<可もなく不可もなし>といった程度の出来の作品ではあるが、特選一席にランクされている。
 と、言うことは、私が今回の投稿作のレベルについてまで言及してしまったような格好になるのであるが、其処までの憎まれ口はこの私としても叩くつもりも無い。
  〔返〕 車椅子の回るにつれてくるくると風車回りて春の丘行く   鳥羽省三


○ 休符はもっとも大切な音冬越しの蝶の蛹の透けゆく時間  (八王子市) 岩垂由里子

 特選二席の作品ではあるが、上の句の大幅な字余りと破調とは、いくら何でもと思われる。
 選者の米川千嘉子としては、本来は音を出さないことを指示する符号である「休符」を「もっとも大切な音」とした表現の奇抜さと、その「もっとも大切な音」である「休符」を「冬越しの蝶の蛹の透けゆく時間」と言った隠喩の見事さを評価したのであろう。
  〔返〕 ト音記号はヴァイオリンに似て渦巻きの最中が<ト音>を指示すると言う   鳥羽省三
 
 
○ 息をのむ子らを見まはしおもむろに爺ポン菓子機のレバーをつかむ  (宗像市) 巻桔梗

 「子ら」は、次の瞬間に起こるであろう事態を予測し期待しているから「息をのむ」のである。
 その「子らを見まはし」て「おもむろに」、ポン菓子作りの「爺」さんは「ポン菓子機のレバーをつかむ」。
 今や、決定的瞬間が訪れようとしているのである。
 言い方を替えれば子供好きなお爺さんとも言えようが、世間知に長けた老人のずる賢く得意そうな顔つきや動作が目に見えるようである。
 特選三席の作品である。
  〔返〕 ポン菓子のポンと弾けて花が咲く峡の村にも春は来にけり   鳥羽省三   

○ 裏山の晩秋の空を響きくる亡き夫放ちし猟銃の音  (青森県) 小山内はま

 「亡き夫」が「猟銃」を放つはずが無いから、話者(=作者)の耳にした「裏山の晩秋の空を響きくる」「猟銃の音」は幻聴なのである。
  〔返〕 往還をどよもして鳴る銃のおと空閨託つ汝を泣かしむ   鳥羽省三


○ 観光で網ひく浜に労働歌「貝殻節」が波音に乗る  (福島市) 澤 正宏

 「観光で網ひく」ことも一種の「労働」には違いないから、「労働歌」としての「貝殻節」の伝統は、今に到っても、この地に脈々として伝えられていることになる。
  〔返〕 観光で網引くことを務めとし何の因果で貝殻節を   鳥羽省三
   

○ 「玉音」が「お言葉」になり往年の少年兵も八十路を歩む  (太田市) 大槻正好

 評者もまた、終戦の「玉音」放送を耳にした一人である。
 その「『玉音』が『お言葉』に」なった今日、「往年の少年兵も八十路を歩む」人となり、一体どんな気持ちで天皇陛下の「お言葉」を聴いているのであろうか?
  〔返〕 玉音を志学で聴きし少年兵その後一還傘寿を迎ふ   鳥羽省三
 

○ 人間にわからぬ音を聞きわけて時折そよぐコタローの耳  (松戸市) 豊本華乃子

 「時折そよぐ」とは、「人間にわからぬ音を聞きわけて」、「時折」「耳」を動かすことであろう。
 <動く>と言わずに「そよぐ」と言い、<犬の耳>と言わずに「コタローの耳」と言ったのが評価されたのであろうか?
  〔返〕 聞き分けて耳をそよがす小太郎に風の運べる春の楽の音   鳥羽省三


○ 本当に聞きたいことは聞けぬまま雨音だけを聞いて別れた  (鎌倉市) 遠藤初恵

 女性が男性に対して「本当に聞きたい」と思っていることはどんなことだろうか?
 その「ことは聞けぬまま」に、本作の話者(=作者)は「雨音だけを聞いて」、相手の男性と「別れた」のである。  
  〔返〕 本当に聞きたきことは聞けぬこと雨音だけを聞きて別れむ   鳥羽省三  

 
○ 防空壕に「空襲警報」聞こえ来て炒り豆かむ音はたと止みたり  (安城市) 将積 茂

 「炒り豆」は、食べ物の少ない時代にお腹を充たすために噛むのであるが、「炒り豆かむ音」から、私たち鑑賞者は時代色を感じるのである。
  〔返〕 晩餐として炒り豆をかみ居たりラジオは突如空襲警報   鳥羽省三


○ 泣き言や弱音が励みになるという老いの不思議を抱えて集う  (東浦町) 橋本英幸

 「泣き言や弱音が励みになるという」場合を想定することは、当事者以外にはなかなか困難なことであるから、「老いの不思議」と言わなければならないのである。
 その「老いの不思議を抱えて集う」場所とは、どんな場所であろうか?
 また、その場所に「集う」人々が抱えた「泣き言や弱音」は、どのように解決され、人々はどのように癒やされるのであろうか?
  〔返〕 泣き言や弱音を吐きに集ひ来るオアシスとなれ喫茶「まほろば」   鳥羽省三


○ 子の電話仕事中なれば寒ざむと倉庫に瓶を積み上げる音  (和歌山県) 助野貴美子

 「寒ざむと倉庫に瓶を積み上げる音」という表現からは、「仕事中」であるのにも関わらず「電話」を掛けて来た「子」の従事する仕事の内容が覗われ、「子の電話仕事中なれば」からは、その仕事に従事している「子」の気持ちが感じられる。
 また、一首全体の表現を通して、気の進まない仕事に従事している「子」に対しての話者(=作者)の気持ちが感じられる。
  〔返〕 寒ざむと倉庫に瓶を積む様に思ひ残してケータイを閉づ   鳥羽省三 


○ かすかなる音にも眉を動かして乳飲みしまま吾子は眠りぬ  (カリフォルニア州) 石
井志をん

 人間に備わっている五感のうち、聴覚は比較的早い時期に発達するから、乳飲み子たちは「かすかなる音にも眉を動かし」たりするのであろうか?
 一首全体の表現を通して、この時期の乳児の特徴を、乳飲み子の母たる本作の作者がリアルに把握していることが感じられ、リアルに表現していることが感じられる。
  〔返〕 這ひずりて母に寄り来るその途中小さきゴミを拾ひてかざす   鳥羽省三
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

一首を切り裂く(019:押)

2010年03月27日 | 題詠blog短歌
 もっと刺激的な記事を書こう。
 時には攻撃的な記事も書こう。
 それが、惰眠を貪っている歌壇を覚醒させる唯一の方法だと信じて。
 それが、絶滅を危惧されている短歌を救済する唯一の方法だと信じて。



(南野耕平)
   押すことにためらいながらそっと押すそんな扉が案外出口

 そんな「出口」が、<○○市民ホール><○○公会堂>などを名乗る、最近のコンサートホールなどには確かに在ります。
 財政困窮の今日では、何処の地方公共団体も人件費削減に懸命なので、その煽りが行政機関の最末端たる市町村などの文化施設に及んでいるからである。
 その為、それらの施設の職員は、必要最小限の者を除いては勤務時間が限られたパートタイマーで賄っている。
 そこで、そうした施設で夜間公演などが行われる場合でも、開閉頻度の少ない扉は予め閉鎖されたりしているのであるが、公演中に火災や地震などの災害が発生したら、一体どうするつもりなのだろうか?
 そういう現実を前にしては、そうした施設で行われる演劇や音楽会などを観賞しようとする場合は、予め下見などして避難経路を確認していたり、人間離れした<勘>で以って対処したりしなければならないことにもなるのである。
 作中の話者の場合は、その山勘が逆の作用をしているものと考えられる。
  〔返〕 山勘で押したら開いた。でも外はブロック塀で囲まれていた。   鳥羽省三


(木下奏)
   「押さないで」そう書かれてるボタン押しキミとの距離を確かめてみる

 「キミ」の胸の辺りに「押さないで」と書かれているわけでは無く、本作の話者が何となくそう感じただけのことである。
 たとえ<何と無く>だとしても、本人がそう感じたのならば押さなければいいのであるが、好からぬ魂胆を持っている話者は、「キミとの距離を確かめてみる」などとの理由をつけて、敢えて「キミ」の胸の辺りを押してしまったのである。
 その結果は無惨、彼と彼女との距離は<無限大>にまで拡大しまったのである。
  〔返〕 「食べないで」、そう書かれてると思うから○国餃子を買うとき迷う   鳥羽省三


(オオタセイイチ)
   「別れようか」と言ったのに待つ 押小路麩屋町の角いつもの時間

 「京都という街は、それらしい地名が多いから、作中にその地名を折り込めば、何と無く短歌らしいものが出来てしまうのです」と、ある女性歌人が仰っていた。
 本作もまた、その伝の一首であろう。
  〔返〕 「押し込もう」首領の合図で押し込んだ押小路麩屋町角の質屋に   鳥羽省三


(穂ノ木芽央)
   誰ひとり行き先ボタン押さぬまま動き続ける箱の行方よ

 「箱」とは、エレベーターのこと。
 乗客の誰一人として「行き先ボタン」を「押さぬまま」でも、最上階へと「動き続ける」エレベーターがある。
 <上へ>のボタンと<最上階>のボタンは自動的に押される仕組みになっているから、途中階のボタンを押した者が居なくともエレベーターは上昇するのである。
 で、本作の話者は、「誰ひとり行き先ボタン押さぬまま動き続ける箱の行方よ」と詠んでいるのだから、その「箱」の「行方」に不安を感じているのであろう。
 ならば、自分で自分の利用階のボタンを押せば、その不安から解放されるはずである。
 なのに、彼女はエレベーターのボタンを押そうとはしない。
 その理由を、彼女は「私は白紙委任状を預けているからだ」と説明するかも知れない。
 しかし、こうした場合の「白紙委任状」は誰に預けるのだろうか、と不安になる。
 なにしろ、最近のデパート業界は不況を理由にして、エレベーター嬢を乗せていないからである。
  〔返〕 乗客の全ての行き先最上階、「閉店投売り本日最終」   鳥羽省三


(映子)
   押入れの上と下とで呼び合った   「オクサン」と呼ぶ おくさんごっこ

 「押入れの上と下とで呼び合った」のなら、「おくさんごっこ」と言っても、それは子供の遊びだな。
 同じ「おくさんごっこ」でも、本格的なやつは本格的にやるのである。
 それにしても、この作品の句間の<空き>はどうにかならないものだろうか。
 内容に合わせて、わざと幼稚に見えるようにしているのだろうか?
  〔返〕 ぐいと抱き「おくさん」と呼ぶ。「いけません、主人が寝たら」と妻が合わせる。
                              鳥羽省三
 B級短歌評論家としての私の名誉と妻のそれとを守るために、敢えて一言申し添えますが、不肖・鳥羽省三とその妻・鳥羽翔子とは、上記の返歌から想像されるような際どい遊びは決してやったことがありません。
 これはあくまでも、鳥羽省三の想像の産物なのであります。


(zoe)
   判子を押したような人って意味は?左右が逆ってことじゃないよね?

 句切れ、句跨りは在るものの、ほとんど三十一音である。
 短歌を短歌たらしめる条件を最低限度守ろうとする、作者の姿勢とその努力に対しては、大いに敬意を表する。
  〔返〕 梃子でも動かぬってことは、<JameS Bond>で貼り付けたってことなの?   鳥羽省三


(西中眞二郎)
   乳母車押して前行く母親のジーパンの尻はつかに揺れる

 <痴漢>に関連する語として、<視姦>という語がある。
 私の尊敬して已まない西中眞二郎さんの、「乳母車押して前行く母親のジーパンの尻はつかに揺れる」という作品は、読みようによっては、<視姦>経験に基づいての作品かとも思われる。
 仮に、そうした見方が間違っているとしても、本作から一種のエロティズムを感じない人が居たとしたら、そういう人もまた、困った人である。
 西中眞二郎さんの過年度の作品に、「若き娘(こ)に引かれて午後の道を行く犬のふぐりの左右に揺れる」という傑作が在る。
 このお方は、よく女性の後から従いて行って、目にしてはならないものを目にしてしまうお方である。
 こういうのを、世間では<眼福>とか申すのでありましょうか?
 朴念仁の私も、ごくたまにでもいいから、その<眼福>とやらに与りたいものである。
  〔返〕 老人カー押して前行く婆さんに痴漢と間違われてしまった   鳥羽省三 


(飯田和馬)
    すぐそこに手が届くから大福を喰らって押尾語録を読んで

 <元引き篭もり>の飯田和馬さんは、またまた現役に還ってしまったのかな。
 「すぐそこに手が届くから大福を喰らって押尾語録を読んで」とは、横着極まり無し。
 無自覚極まり無し。
 「大福」は体に毒だぞ。
 「押尾語録」は心に毒だぞ。
 大福と押尾語録を捨てて、北野町の坂道を散歩しよう。
 <風見鶏の館>が君を待ってるぞ。
  〔返〕 大福とお塩語録をサラリー捨て北野坂道登れ、との沙汰   鳥羽省三


(砂乃)
   もう心決まったはずでも震えてた 婚姻届に押印する彼

 A、B、Cの段階を経て、つい先日、Dの段階にまで到達したのだから、実績は充分に積み上げ、その覚悟も出来ていたはずではあるが、「婚姻届に押印する」際には、「震えてた」「彼」なのである。
 <あのこと>と<このこと>とは別のことなのかも知れない。
 現役高校生のお母様の、今は昔の思い出ばなしである。
  〔返〕 貰うものもらってしまえばこっちのもの最後の場面で彼は迷った   鳥羽省三  


(冥亭)
   くちづけは烙印押すが如くにて汝(なれ)の背にある赫き火脹れ

 その昔、『炎の接吻』というタイトルの映画があった。
 本作中の彼と彼女が酩酊状態で行った接吻は、「火脹れの接吻」であった。
 「くちづけは烙印押すが如くにて」が宜しい。
 一旦、この「烙印」を押してしまうと、牛の背中に押す焼印と同じような効果を齎すものである。
  〔返〕 その後は真っ赤に焼いた鉄棒を貫く如く大胆にせよ   鳥羽省三


(龍庵)
   CLEARのボタン長押しする間消した言葉の行方を思う

 抹消してしまうデーターとて、それなりの時間を掛け、それなりの情熱を注いで書いたものである。
 したがって、「CLEARのボタン長押しする間消した言葉の行方を思う」のは、至極当たり前の人間感情というものである。
  〔返〕 あいつらはポアするなどと言ってたね。人間一人の命消すのを。   鳥羽省三


(鮎美)
   丑三つのファミリーレストラン白きボタンを押せば女来れり

 深夜のファミレス風景である。
 テーブルの端に白い呼び出しボタンが設置されていて、お客様がそのボタンを押せば、サービス係りの女性がメニューを手にして現れる、という仕組みになっているのである。
 その仕組みは、単に人件費節約のための仕組みでは無く、従業員の夜間の危険負担を軽減するための仕組みなのである。
 入店したお客様の店内での行動の一切は、店内一帯に張り巡らされた監視カメラ網で監視されているのである。
 したがって、店員が視ていないからといって、ナプキンを使い放題に使ったり、灰皿などをポケットに入れたりしてはいけない。
 これからのサービス業界では、経営者側がお客様の行動を監視するという、一方向的な監視体制が、益々増進して行くことが予測され、危惧されている。
  〔返〕 客側が監視されてるばかりではあまりに不当お客よ怒れ   鳥羽省三
 

(リンダ)
   問うことを止めた老女の押入れに二度と開けない行李がひとつ

 「問うことを止めた老女の押入れに」入っている「行李」の中身は<口>と<耳>と<心>である。
 彼女は、単に「問うことを止めた」だけでは無く、人間的感情の一切を「行李」の中に格納してしまったのである。
 その原因は明らかに、同女の所属するご家庭に在る。
 山本リンダ家の高年齢者に対する極端な虐待姿勢が、同女をそこまで追い込んでしまったのである。
 修復不可能と知るべし。
  〔返〕 人間の耳と口だけのみならず心も入れたお化け葛籠だ   鳥羽省三


(斉藤そよ)
   うまれつき思い出づくりに長けている妹が棲む春の押入れ

 「うまれつき思い出づくりに長けている妹が棲む」までは大変宜しいが、その後が宜しくない。
 「春の押入れ」は、むしろ「押入れの春」でなければならない。
 何故ならば、「春の押入れ」とした場合は、「春の」が、単に「押入れ」の字数稼ぎのための修飾語の役割りを果たすだけで、それ以外の意味はほとんど無いことになってしまうからである。
 それに対して、「押入れの春」とした場合は、狭いながらも楽しい我が家の「押入れ」に棲んでいて、それまでは自分以外の家族の為に犠牲となっていた「妹」にも、ようやく「春」がやって来て、恋愛話や見合い話に花が咲いている、といった感じになるのである。
 作者としては、最後の七音を「春の押入れ」と漫画チックにして、笑いを取ろうとしたのであろうが、この作品は、「春の押入れ」を「押入れの春」とすることによって、単なる漫画チック作品に終わらず、笑いとペーソスに溢れた文芸作品になり得る可能性を秘めていたのである。
 せっかくいい線まで追い込んでいながら、最後の詰めを忘れてしまったのは、はっきり申して、あなたの詠歌力はまだまだなのである。
  〔返〕 生まれつき忍びの術に長けていた弟がやる五度目の押し込み   鳥羽省三


(越冬こあら)
   押し合っているからとても大切なものから順に零れてしまう

 浮世の有様である。
 選挙公約たるマニュフェスト然り、官庁や会社の人事然り、それぞれの人々の思考や行動然りである。
  〔返〕 押しっ競らしながら堕ちる官僚の捨て場としての外郭団体   鳥羽省三


(あずさ)
   渾身の短歌の意図は伝わらず押し問答することの楽しさ

 「私は、そーいう意図でこの作品を作ったのではありません。こーいう意図です」などという「押し問答することの楽しさ」に惹かれて、敢えてこの一首を採り上げました。
 どうぞ宜しく。
  〔返〕 渾身の力を込めて詠むものに非ず短歌は気休めに詠め   鳥羽省三
      これのみを記してこれを読んだとの証しとしたし許せよ作者   鳥羽省三    
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

一首を切り裂く(018:京)

2010年03月26日 | 題詠blog短歌
(鮎美)
   ある夜は女なること呪ひつつ京つげぐしに油塗るなり

 鮎が美女に化けたのではなく、狐が美女に化けたのである。
 だが、二日三日すると、美女に化けた狐は現実に帰り、女になってしまった自分の今の身の上がつくづく嫌になってしまったのである。
 「あの頃は本当に面白かった。私がまだ雄狐だった頃、村の鎮守の杜から雌狐どもがわんさんわんさかやって来て、あの洞窟にたった一匹しか居ない雄狐の私を、下へも置かぬもてなしだった。厚揚げは持って来るわ、稲荷寿司は持って来るわ、お餅入りの薄揚げ巾着は持って来るわで、私は自分の胃袋を休める暇も無かったのだ。それなのに、私が人間の女になってしまった今はどうだ。食べ物と言えば、薄味のたぬき饂飩がたった一杯ぽっきり。お腹を空かした身体を赤いおべべで包み、日がな一日、千間格子の内に座らせられて、道行く助平な男どもにじろじろじろじろ見つめられていなければならないのだ。男どもの中には、女になった私を見つめているだけでは足りずに、『へい、おねーちゃん。一日中座り続けでは退屈だろう。たまには立ってみて、その着物の裾をぱっと捲り上げてみせたらどうだ。襦袢まで捲り上げたら、その中から、黒いものが出て来るか、白いものが出て来るかが楽しみだから』なんて、この私をからかう者もいるんだよ。アー、嫌だ、嫌だ、人間の女になるなんて嫌だ。私は大失敗してしまったのだ。それにしても、お腹が空いたわ。あっ、そうだ、私は自分の頭に、この店の女将から借りた京つげぐしを挿していたんだ。この京つげぐしに鬢付け油でも塗ったら、あの懐かしい油揚げの味がするかも知れない。そうだ、そうだ、早速試してみよう。」
 かくして、その美女狐は髪に挿していた京つげぐしに鬢付け油を塗りたくって、がりがりがりがりと音を立てて食べてしまったのだとさ。
 とっぴんぱらりのぷー。
 いっちがぽーんとさけた。
  〔返〕 京五条狐の嫁入り通り雨花嫁衣裳が濡れて破れた   鳥羽省三


(B子)
   濡れ髪の少女眠れる8月の京阪電車は塩素のにおい

 どげち商売で名を馳せた「京阪電車」とて、毎年一度の車体消毒は欠かせない。
 車内に立ち込めた「塩素のにおい」は車体消毒したときの残臭なのである。
 折りも折り、季節は「8月」。
 「塩素のにおい」と乗客の体臭が車内一面に立ち込め、悪臭の原因の一つなのにも関わらず、乗客たちは一刻も早く電車から降りて、鴨川の風に当たりたいと思っているのである。
 そうした中に在って、ただ一人「濡れ髪の少女」が先程から眠っているのである。
 この少女は、一体何者か?
 「濡れ髪」と面貌から察するに、彼女の正体は、あの洛北<みどろが池>の河童の化身に違いない。
  〔返〕 濡れ髪で少女は眠る滾滾と啼くのは河童みどろが池の   鳥羽省三


(橘みちよ)
   聖護院賀茂鹿ケ谷堀川や京野菜ゆかしアスパラ食めば

 「聖護院賀茂鹿ケ谷堀川や」と、知っている限りの京都の地名を適当に並べ立てた挙句、「京野菜ゆかし」と言い、お終いに「アスパラ食めば」で纏めて、笑いを取ろうとしたのである。
 本作の作者の<橘みちよ>さん、あなたはコンコン狐でも<みどろが池>の河童でもありませんから悪戯をしてはいけません。
 あなたぐらいの美女になったら、ただ黙って座っていて、にっこり笑っているだけで充分に存在感があるのですから、し慣れないことをするのは止めましょう。
 あなたは笑われる側の人間では無くて、笑う側の人間なのです。
  〔返〕 九条葱・壬生菜・海老芋・聖護院大根・水菜・賀茂茄子・酢茎   鳥羽省三


(ふみまろ)
   兵たりし人のこころはつゆ知らず南京町の饅頭を割る

 「兵たりし人」にとっては「饅頭」は<まんじゅう>では無くて<マントー>なのであった。
 かつて彼が「兵たりし」日、彼は現地の人々を脅して<マントー>を奪い取ってしまったことがあった。
 生まれてこの方、たった一回きりの悪事ではあったが、気の弱い彼にとって、この行為は、悔やんでも悔やんでも悔やみ切れない思い出となり、とうとうトラウマになってしまったのである。
 その事を薄々知りながら、作中の<わたし>は、彼を横浜の中華街に誘って、超特大の中華饅頭を買って、真ん中から真っ二つに割り、その一つを自分が食べ、残りの半分を彼に食べさせようとしたのである。
 「兵たりし人のこころはつゆ知らず」とは、作品を作品たらしめようとしたために已む無く吐いた作者の嘘であり、本作の作者は、「饅頭」という存在が「兵たりし人」にとってのトラウマであることを知りながら、敢えてこの挙に出たのであった。
 これは、善意に名を借りた犯罪なのだ。
  〔返〕 饅頭が人を狂はせ命さへ奪ぶことあり饅頭恐し   鳥羽省三
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

『NHK短歌』観賞(東直子選・2月21日放送)

2010年03月25日 | 今週のNHK短歌から
○ 亡き夫の植ゑし躑躅は咲き揃ひ目つむるわれを四方より見る  (一関市) 金啓子

 「目つむるわれを四方より見る」が効き目である。
 「目」を瞑って「われ」は「亡き夫」と対話しているのである。
 「あなた、今年もあなたが植えた躑躅が庭いっぱいに咲きましたよ。ほら、あんなに美しく、あんなに沢山咲きました。あなたの植えた躑躅があんなに美しく、あんなに多く咲いたので、私は何か躑躅たちに見つめられてるみたいで恥ずかしいんですよ。ほら、あんなに四方八方から私を見つめてるんですよ」と。
 見られる「われ」は「目つむる」状態。
 そして、その「われ」を「見る」「躑躅」には目がない。
 つまり、本作での「見る」ものと<見られる>ものとの関係は、本来成り立たないはずのものである。
 成り立たないはずの関係を成り立たせるのが、短歌という魔法ないしは詐術なのである。
 特選一席の作品としてはやや物足りないとは思うが、それは私の欲目というものであって、このレベルの作品を佳作としなかったら、私の前には佳作が無くなってしまうのだろう。
  〔返〕 目を瞑り躑躅に囲まれ見られてる我は目を持ち躑躅は持たず   鳥羽省三
      耳立てて私は躑躅を聴いている躑躅の花は金管楽器         々 
      目を瞑りわれはあなたに何話す躑躅の花が見つめてること      々


○ 星の庭一輪の薔薇まぶしかり王子ならずも旅に出るべし  (大垣市) 若山 浩

 特選二席の作品である。
 「星の庭一輪の薔薇まぶしかり」という上の句で描かれている「庭」の景色は、倦怠感を抱かせ、怠惰に誘う景色なのである。
 一首の意は、「むかしむかし、幸福の国に一人の王子様が居た。彼は『こんな退屈な風景ばかりを見ていたら、私は駄目になってしまう。そうだ、私は旅に出て行こう』と言って、北アフリカの砂漠地帯に向かって旅立って行った。その王子様のそれからのことは誰も知らない。だけど、王子様でも無いこの私も、こんな退屈な景色ばかり見ている生活には耐えられないから、旅に出て行かなければならない」というのであろう。
 日常生活の退屈と怠惰から脱却しようとする意志を表した歌であると同時に、そうした生活から永久に脱し切れない諦念を述べた歌でもある、と私は思う。
  〔返〕 花も無く紅葉も無かる石庭に錫杖一閃煩悩を断つ   鳥羽省三


○ 二人だけの秘密の庭に眠ってる金糸雀ビー玉わたしの前歯  (盛岡市) 砂花ことは

 特選三席の作品である。
 「二人だけの秘密の庭に眠ってる」物として、「金糸雀ビー玉わたしの前歯」を羅列した下の句については、「品物と言い、配列と言い、よく出来た下の句である」と評価される一方、「作り過ぎ、子供じみている」と一蹴される場面が考えられなくもない。
  〔返〕 星の庭 スリル求めて旅立った王子と君のお骨が眠る   鳥羽省三
 

○ 雪つりの庭木は耐えて守り切る夫と言う字に似た形して  (岩見沢市) 千葉まゆみ

 作者は勿論であるが、選者も亦、作中の文字について鈍感であってはならない。
 「雪つりの庭木は耐えて守り切る」という上の句中の「守り切る」は、「守り通す」という意味で用いられているのであろうが、話題の中心が「庭木」だけに、「守り切る」ではなく、「守りきる」とした方が適切であろうし、また、より相応しい他の表現に替えてみることも必要であろう。
 もう一点。
 「夫と言う字に」の「言う」は、発言するという意味ではなく、「夫」という語を引用するためのものに過ぎないから、「言う」ではなく「いう」としなければならないのである。
 こういうミスは、散文上ではまま在り得ることであり、見逃されることでもあるが、わずか三十一音でしかない短歌の中での場合は、決して見逃されてはならないことである。
 本作の作者は、「雪つりの庭木」の形と「夫」という「字」の形の類似に気付き、<してやったり>という気持ちになって本作を詠み、それ以上の推敲を怠ったのであろうが、その欠陥を見逃して、本作を入選作とした選者の罪は更に許し難い。
  〔返〕 雪吊りの松を縛れる縄切れて下枝上枝の笞の如し   鳥羽省三
          「下枝上枝」=「しずえほずえ」 「笞」=「しもと」

   
○ 小春日に蝶助けむと蜘蛛の糸切りし女房も庭ももう無く  (小田原市) 南雲長太郎

 何やら昔語りめいた、御伽噺めいたストーリーではあるが、本作は、作者・南雲長太郎さんの実体験に基づいての作品であろう。
 「小春日」ともなると、病気がちで普段はあまり床を離れることのない「女房」も、陽気にまかせて庭の辺りを散歩してみたくもなるのである。
 その散歩の途中で目にしたのは、「蜘蛛」の巣の「糸」に囚われた哀れな「蝶」。
 自分自身、病弱という哀れな境遇に置かれている「女房」にとっては、この「蝶」の不運は見捨て難かったのである。
 そこで彼女は、身動きも思うままにならない我が身を省みず、その「蝶」を絡め取っている「蜘蛛の糸」を切り、哀れな「蝶」を助けてやったのである。
 それから幾年かが過ぎて、今はそのドラマの主人公の「女房」は亡くなり、ドラマの舞台となった「庭」は人手に渡ってしまったのである。
 本作の作者・南雲長太郎さんは、今は何処に住み、どういう生活をしているのであろうか?
 今は亡き「女房」と彼女にまつわる思い出に浸る南雲長太郎さんのお気持ちはあまりにも哀れである。
  〔返〕 小春日に蝶を救ひし女房の思いを乗せて蝶が舞い来る   鳥羽省三


○ 薄れゆく視力のとらえし野イチゴをヒョイヒョイ食べたふる里の庭  (浜松市) 大須賀貞夫

 本作の話者(=作者?)の「視力」は日を経るにつれてますます「薄れゆく」のであったが、それに反比例するが如く、その記憶は日を増すに連れてますます鮮明になって行くのであった。
 「ヒョイヒョイ食べた」と擬態語を大胆に使っているところが評価されたのであろうか?
  〔返〕 ふるさとの庭面に生える野苺の赤きが美味き黄色きも好し   鳥羽省三


○ 園庭の草食む山羊の青き瞳(め)を想うことあり六十年経て  (大津市) 山口マリ子

 「山羊」という家畜を、専業として飼っている人は無く、農林業に携わっている人などが、自家消費用のミルクを搾乳するために、わずかに一、二頭飼っているのである。
 したがって、その世話は老人か子供の手に委ねられていることが多い。
 一家の世帯主からその世話を頼まれた者は、早朝に山羊小屋から山羊を引き出し、餌となる青草の生えている草原に連れて行き、杭などに繋いでおくのである。
 すると、その山羊はその杭を中心とした草原の草を一日がかりでのんびりと食べ、夕方になって迎えに来た者の手に牽かれて山羊小屋に帰って眠るのである。
 山羊の為すべき仕事は、年から年中その繰り返しであり、その合い間合い間に乳を搾られて飼い主の需要を充たすのである。
 作中の「園庭」とは、そうした山羊の餌となる青草の生えた広場であったに違いなく、その所有者はその幼稚園の経営者か関係者であったろう。
 この山羊の所有者たちは、その飼育を通して、園児たちに情操教育を施すという目的で、そのような場所に山羊を繋いでいたのであろう。
 山羊の性格はあくまでも温和であり、山羊の「瞳」は、彼が餌として食う青草の色よりも更に青かったのである。
  〔返〕 園庭に萌えたる草の芽の如く山羊の瞳紅しあかき芽映し   鳥羽省三


○ 老仕度母は育てし庭の木を一本一本伐ってゆくなり  (姫路市) 服部逸子

 私は、七年半に亘る田舎暮らしに終止符を打ち、昨年夏、首都圏でのUターン生活に入ったのであるが、転居に際しては、退職金のほとんどを叩いて建てた豪邸(?)を、涙金程度の価格で人手に渡し、七年半に亘って心血を注いで育てた樹木や草花を整理し、凡そ半生を掛けて蒐集した書籍なども徹底的に処分してしまった。
 それは転居に伴っての必要措置と言うよりも、「老仕度」「死に仕度」の一環として為したものであった。
 それだけに、私は本作を、身につまされながらじっくりと観賞させていただいた。
 作中の「母」が「老仕度」として、自らが「育てし庭の木を一本一本伐ってゆく」時の心境は自分自身のこととして理解され、涙なくして読めなかったのである。
  〔返〕 伐りしとき忍びに泣きぬ二階家を緑陰に為すプルーンの枝を   鳥羽省三 


○ 剪定を終へたる松に語らせる夕映えを背に寡黙の庭師  (山口市) 岡田貞義

 「剪定を終へたる松」は、「夕映えを背に」して「寡黙」を守っている「庭師」になり代わって、「寡黙の庭師」の為した「剪定」の見事なことと、「剪定剪定を終へたる」後の我が身の清々しいこととを語り、それに加えて、「剪定を終へたる」後の<寂しさ>をもちょっぴり語ったのである。
  〔返〕 剪定を終へたる後の松が枝にかかりて明き十五夜の月   鳥羽省三 


○ 音もなく雨降る暁の戸を繰れば雑草の庭はまるで深海  (高知県) 三木美和子

 たった一晩のうちにも、雑草は見違えるほど伸長するものである。
 その雑草に「音もなく雨降る暁」の「庭」の有様は「まるで深海」のようだと言うのであるが、未だ降り続いているかどうかという思いだけで「戸」を繰ったのであるから、眼前に予想だにもしなかった光景が広がった時には、話者(=作者)は驚愕の思いに捉われたのである。
  〔返〕 音も無く一夜降りたる春雨の上りし庭の清しさに佇つ   鳥羽省三


○ 十八歳(じゅうはち)の寝たきりの犬抱きかかえ庭見ゆる辺にしばし休ます  (柳川市) 山下雪江

 一首全体に、特に「庭見ゆる辺にしばし休ます」という表現に、「十八歳の寝たきりの犬」に注ぎ込んでいる作者・山下雪江さんの愛情の深さが感じられる。
  〔返〕 庭見ゆる辺りにしばし休らひて長く息引きその後犬は   鳥羽省三


○ 門口のペットボトルに頬ずりし野良猫は消ゆ隣りの庭へ  (大野城市) 野中早百合

 「門口」に水を満タンに入れた「ペットボトル」を並べて置くのは、何の呪いであろうか?
 それが何の呪いかは知らないが、少なくてもそれは、「野良猫」に「頬ずり」させる為に置くのではないことぐらいは、私にも解る。
 それなのにも関わらず、その「野良猫」はそれに「頬ずり」をして、「隣りの庭へ」と消えて行った。
 盛りがついて、隣の家の飼い猫に逢いに行ったのであろう。
 ネズミも捕れない助平猫め!
  〔返〕 お隣のペットボトルは空だから泥棒猫も頬ずりしない   鳥羽省三
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

今週の朝日歌壇から(11)

2010年03月24日 | 今週の朝日歌壇から
○ コンタクトレンズの如き鱗生え春告魚来たりぬ北の海より  (仙台市) 武藤敏子

 「春告魚」と言えば<鰊>のこと。
 北海道内を旅行していると日本海沿岸地域で<鰊御殿>なる豪壮な建物に出くわすことがある。
 それはこの魚が大量に獲れていた頃の名残で、その頃はこの魚を猫も食わない<猫跨ぎ>という蔑称で呼んでいたそうである。
 本作は、その「春告魚」の「鱗」を「コンタクトレンズの如き」と言った直喩が目新しいのである。
 あの形状と言い、色彩と言い、春告魚の鱗はコンタクトレンズと似てないでも無いから、言われてみればなるほどと思う。
 それともう一点。
 この魚を「春告魚」と書かずに<鰊>と書けば、「(コンタクトレンズの如き鱗生え)鰊来たりぬ北の海より」となり、「北の海より」「鰊来たりぬ」では、味も素っ気も無く、季節感がまるで感じられない平凡な表現となってしまうのである。
 春告魚と言えば、この魚と我が家との関わりで、私には忘れられない苦い思い出がある。
 私は卵を腹一杯に抱いた鰊が好きだから、その季節になると自分で魚屋に出掛けてこれを買って来たことが度々あった。
 ところが、私が定年退職して田舎暮らしを始めてから間も無くのこと、例によって、私が鰊を買って得意そうにして家内に差し出したところ、「あなたはこの頃、以前に増して頻繁に鰊を買って来るようになったが、私にとってはそのことがたまらなく気に食わないのよ」と、家内は大声で言い出したのである。
 そこで私がその理由を問い質すと、「一匹の鰊を夫婦二人の夕食のおかずとして、どのように分けて食べられると思う。頭の部分は切って捨てるとして、残りの部分を二等分して食べるとしたら、あなたは卵で膨れた胴体の部分を食べ、私は卵がちょっぴりしか入っていない尻尾の部分を食べるに決まっているじゃないの。私が今そう言うのは、私が鰊の卵がいっぱい入った方を食べたいから言うんじゃないのよ。違うの。鰊にしろ、鮭にしろ、魚の卵には人間の身体に毒なプリン体がうじゃうじゃ入っているから、どちらかと言うと、私は自分で食べないで、むしろあなたに食べさせたいの。だから、私が言いたいのは、もっと別のことなのよ。あなたは知らないと思うけど、鰊の尻尾の部分には目に見えないような小骨が沢山入っていて、とても食べ難いの。だから私は、この魚をあなたが買って来るのがとても嫌なのよ。私があなたに気付かれないようにして、鰊の小骨を一本一本抜きながら食べてる時の気持ちをあなたは解るの。そんな時の私の気持ちは、まるで華岡青洲の妻になったような気持ちなのよ。それに、あなたが華岡青洲のような立派な医者ならまだいいけど、現実のあなたは、ただの安月給の教師じゃないの。安月給教師の華岡青洲の妻ってこの世に居ないわよ」と、妻は血相を変えて言ったのであった。
 それを聞いて私は、言葉にして口に出しこそしないが、「女も還暦近くになると、あそこまで言うのか。世間で定年離婚ということが話題となっているのも宜なる哉」と密かに思ったものである。
 その晩、私は家内から無理矢理に鰊の尻尾の部分を奪い取って、生まれて初めて食べてみた。
 すると、鰊の尻尾は、目に見えないような小骨ばかりでとても食べられた代物ではなかった。
 あれ以来、我が家の食卓には春告魚が上らない。
  〔返〕 目に見えぬ小骨だらけの魚なる春告魚の尻尾を咽びつつ食う   鳥羽省三


○ メールでの会話がごくごく日常で声を失くした金糸雀になる  (古河市) 幸田悦子

 最近の若者たちは、「ごくごく日常」的な生活場面で、直接に会話を交わすこと無く、「メール」だけを交し合っているから、それでは、<歌を忘れた金糸雀>ならぬ「声を失くした金糸雀」になってしまうと、洒落て言ってみせただけの一首である。
 どなたかの仰る、<認識の歌>の一種である。
  〔返〕 京急の向かい合わせの椅子に掛け九人が九人メール打ってる   鳥羽省三 


○ 早世の子のお下がりを泣きながらまた詫びながら弟に着す  (福岡県) 福本弥生子

 「早世の子」に「泣きながらまた詫びながら」、その「弟」に「詫びながら」、「早世の子のお下がり」を着せているのである。
 親たる私の心が行き届かないで、この子の兄を「早世」させてしまった、という気持ちがあるから、「泣きながらまた詫びながら弟に着す」のであり、私の不注意であなたのお兄さんを亡くしてしまった、という気持ちがあるから、「早世の子のお下がりを泣きながらまた詫びながら弟に着す」のである。
  〔返〕 捨てるのを惜しむ気持ちも少しあり兄のお下がり弟に着す   鳥羽省三
  

○ 寝そびれてあなたのいびきを聞いている三十年など短いものです  (彦根市) 川畑としみ

 妻は「いびき」を掻かないが私は掻く。
 だから、この一首に込められた気持ちは、私の気持ちより以上に、我が妻の気持ちと一致していると思われる。
 但し、私たちの場合は、「三十年など短いものです」では無く、「四十年など短いものです」であり、また特に妻の場合は、「四十年は長かったよね」ででもありましょう。
  〔返〕 寝そびれて妻の寝息を聞いている四十年はかくして過ぎて   鳥羽省三  
  

○ 手術終えしわが身を乗せる車椅子廊下に緩き傾斜を知れり  (東京都) 福田孝子

 「廊下に緩き傾斜を知れり」が一首の核である。
 人間がそれまで気付かなかった何かを気付くのは、この作品のように、自分の置かれた立場が普段と異なった場合なのである。
  〔返〕 腰掛けて家内の鼻を見つめてる家内の鼻は我より高い   鳥羽省三


○ 自らを肯ふ心地す森に入り節分草など見つけしときに  (東京都) 江川森歩

 本作の作者では無いが、「自らを肯ふ心地す」という場面が確かに在るものである。
 一昨日、長男一家が拙宅を訪れ、私は孫娘たち二人を相手に、小一時間<花札ゲーム>に興じてボロ負けに負けた。
 その時味わった気持ちは、正しく「自らを肯ふ心地す」といった感じだったのである。
 作中の「節分草」とは、<キンポウゲ科セツブンソウ属の多年草であり、関東地方以西に分布し、石灰岩地域に多く見られる>と言う。
 私は、野生状態で咲いているこの花を未だ見たことが無い。
 したがって、本作の作者同様、「森に入り節分草など見つけしときに」は、「自らを肯ふ心地す」に違いない。
  〔返〕 負けて知る孫に繋がる我の血を花札遊びのボロ負けに笑う   鳥羽省三


○ 枯色の田は耕こされてその土に立つ青鷺の長き黙考  (新宮市) 山口時子

 「青鷺の長き黙考」が大変宜しい。
 「青鷺」が掘り起こされた「枯色の田」の中で、長い脚をして長い時間佇んでいる様子を見ていたら、確かに「黙考」という感じがするかと思われるのである。
 「枯色の田」の中で「長き黙考」に耽る長い脚の「青鷺」の姿は美しくかつ気高い。
  〔返〕 冬ざれた一町歩田に佇つものは青きひこばえ長き鷺あし   鳥羽省三


○ 来る度に工事エリアがまた増えて東京駅に今日も迷いぬ  (浜松市) 桜井雅子

 私は久しく東京駅構内に足を踏み入れていない。
 去年の夏に行った時には、八重洲丸の内を問わず、北口一帯が工事エリアになっていて、樹林風景をプリントしたビニール板が張り巡らされていた。
 あの状態が、今ではもっと拡大されたのであろうか?
 「また増えて」という表現は、一見すると大変ぎこちなく思われるのだが、熟考してみると、これはこれで真に適切な表現であることに気づかされるのである。
  〔返〕 緑なす樹海の中にレストラン 東京駅の工事エリアよ   鳥羽省三


○ 張りつめた海鞘は海から揚げられていぼ固くして我を威嚇す  (気仙沼市) 畠山登美子

 「この気色悪いものを初めて食した者の勇気を讃える」などと言われているのが、「海鞘」という生物である。
 あの生物は、魚介類という時の、<魚類>に分類されるのか、<介類>に分類されるのか、寡聞にして私は未だ知らない。
 その表皮を「張りつめた海鞘は海から揚げられていぼ固くして我を威嚇す」と言う。
 それは何とも恐ろしいことであり、何とも気持ち悪いことでもある。
 その恐ろしさや気持ち悪さを堪えて、その皮を剥ぎ、それを切り刻んで食べるのが人間。
 人間とは、この宇宙で最も恐ろしく気持ち悪い生物なのかも知れない。
  〔返〕 疣堅き海鞘の皮剥ぎ切り刻み甘酢を掛けて喰らう人間   鳥羽省三


○ 弱きわが逃げの遺伝子芽吹くのか登校拒否の子がみかん剥く  (和泉市) 長尾幹也

 長尾幹也さんと言えば、朝日歌壇の常連中の常連であり、この方の作品を目にしない週はほとんど無いくらいの歌詠みである。
 その長尾幹也さんの作にして「弱きわが逃げの遺伝子芽吹くのか」という措辞在り。
 これを以ってあれを思うに、歌詠みという人種は、本質的に「弱き」「逃げの遺伝子」ばかりを備えた人種であり、その「遺伝子」が詠歌というネガティブな行為を為さしめるのかも知れない。
  〔返〕 賭博好きの遺伝子誰に貰へるや私の孫は花札が好き   鳥羽省三  
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

『NHK短歌』観賞(米川千嘉子選・2月28日放送)

2010年03月23日 | 今週のNHK短歌から
○ スリッパに寄りて帰るを待ちくるるインコの孤独わたしの孤独  (浜松市) 新田えいみ

 特選一席にランクされた作品である。
 本作の作者の「わたし(新田えいみさん)」は一人暮らしで、家の中にインコを放し飼いにしているのでありましょう。
 その日、彼女は外出した。
 一通りの用事を済まして帰宅した彼女を出迎えてくれたのは愛鳥のインコである。
 インコは玄関フロアーに置いてあった彼女のスリッパに寄り掛かって、彼女の帰りを待ってくれていたのである。
 「わたし」の帰りを玄関の「スリッパに寄りて」待っていた「インコの孤独」、インコしか出迎えてくれる者の居なかった「わたしの孤独」なのである。
  〔返〕 スリッパに寄りて私を出迎えたインコに感謝一羽に感謝   鳥羽省三 
 
 
○ ふるえつつ「私、待つわ」を歌うひと末摘花に春めぐり来ぬ  (芦屋市) 中野陽子

 特選二席の作品である。
 末尾の「来ぬ」は「きぬ」なのか「こぬ」なのかが問題である。
 「こぬ」ならば「末摘花に」例えられている「ひと」に「春」はめぐり来ない、ということになる。
 「きぬ」ならば「末摘花に」例えられている「ひと」に「春」はめぐり来た、ということになるのである。
 源氏物語の「末摘花」に例えられているくらいだから、その「ひと」の境遇も容貌もしれている。
 それだけに、「ふるえつつ『私、待つわ』を歌う」時のその「ひと」の心境は切なく、私たち鑑賞者もまた、彼女に「春」が到来するのを切に願うのである。
 作中の「私、待つわ」とは、女性デュエット「あみん」の往年のヒット曲「待つわ」の詞中の一節である。
 「かわいいふりしてあの子/わりとやるもんだねと/言われ続けたあの頃/生きるのがつらかった/行ったり来たりすれ違い/あなたと私の恋/いつかどこかで結ばれるってことは/永遠の夢/私待つわ/いつまでも待つわ/たとえあなたが振り向いてくれなくても/待つわ(待つわ)いつまでも待つわ/他の誰かにあなたが振られる日まで」と歌う彼女らの歌声は、一時、日本全国に鳴り響いていたのである。
 「末摘花」に例えられた「ひと」に、春は巡り来なかったのでしょうか、来たのでしょうか?
  〔返〕 末に摘む花なればこそ春はいま君の巡りに来つつやあらむ   鳥羽省三


○ 待つことに慣れて幾度も火を入れるマーボー豆腐はまっ平らになる  (湖西市) 大矢礼子

 「幾度も火を入れる」から、「マーボー豆腐」の具材は潰れてしまって「まっ平らになる」のである。
 「待つことに慣れて」いるとしたら、帰宅するのを待って「マーボー豆腐」に「火を入れる」はずなのに、それをそうしないのが夫婦というものなのである。
 特選三席の作品である。
  〔返〕 待つことに慣れているから手を掛けぬ晩のおかずはレトルト食品   鳥羽省三  


○ 目も耳も空(うつ)ろになってゆく犬に「待て」とは言えなかったあの朝  (石巻市) 須藤徹郎

 作中の「犬」は死んでしまったのか?
 盛りが来て雌犬のところに入り浸りになってしまったのか?
  〔返〕 目も耳も虚ろになった犬ならば「待て」との声は聞かず聞こえず   鳥羽省三 


○ もはや治癒せぬ身ながらに若草のをとめのフィギュア夫は待ちをり  (水戸市) 永井真穂

 「若草の」という枕詞を用いているからには、作者の「夫」が待っている「フィギュア」の「をとめ」は村主章枝選手でないことは確かである、などと言って、この作品の鑑賞を糊塗するつもりである。
  〔返〕 若草の妹と愛しむ人無きか村主章枝はリンクを去らず   鳥羽省三


○ 大連の大桟橋に船待てばまだ見ぬ吾子を連れて妻くる  (袖ケ浦市) 石井重雄

 おそらくは、終戦時の引き揚げ場面を回想しての一首であろう。
 だとすれば、作中の何処かに過去回想の助動詞「き」を用いることも必要であろう。
  〔返〕 未だ見ぬ吾子を抱きて妻は来つ大連港で船待ちし日に   鳥羽省三


○ サスペンス主役は犯人(ほし)を闇に追う待つはずなきを「待て」と言いつつ  (長野県) 井上孝行

 四句目に「待つはずなきを」とあるが、誰が誰を、どんな理由があって、「待つはずなき」なのかが判然としない。
 それを埋めるのは、鑑賞者の想像力ということになるのであるが、その想像力も、多分にテレビドラマのストーリーなどに寄り掛かったものになるのであろう。
  〔返〕 犯人は昔の女に頼るはず女の営むスナックを張れ   鳥羽省三


○ 「来ぬ人をまつほの浦の」と読みあげる小三の孫はいつ身をこがす  (富山市) 島玲子

 今はその意味も解らぬままに百人一首に興じている彼もやがては・・・・・・・。
 〔返〕 「来ぬ人をまつほの浦の」と読みあげしあの日の彼は今は我が夫   鳥羽省三  

○ 約束のない未来待つそんなことうぬぼれとしか思えない冬  (岐阜市) 小川知美

 末尾に時刻や季節を表す言葉を置けばそれらしくなるが、それはある意味では詠歌上の禁じ手なのである。
 「うぬぼれとしか」思えないのに、「約束のない未来待つ」と言っているのは、おそらくは本作の作者自身なのであろう。
  〔返〕 密約のある未来待つ沖縄の人の全てはそんな気分か   鳥羽省三 
 

○ 燈火管制の暗き雪の夜待ち待ちて届きし合格通知忘れじ  (名古屋市) 小野田清久

 そんな時代のそんな季節にも、一通の「合格通知」は間違いなく本作の作者の元に届いたのである。
  〔返〕 窓の雪に照らして読んだ合格の通知刷れるは仙花紙なりき   鳥羽省三


○ 待つといふ秘めやかさ奪ひケータイはあつけらかんと光つてをりぬ  (伊勢市) 川口明代

 「ケータイ」の普及に伴って、何もかもがあからさまとなったが、その最たるものは人間の心であろう。
 「ケータイ」時代に生きる若者たちは、「待つといふ秘めやかさ」を何者かに奪われてしまったのである。
  〔返〕 ケータイはあっけらかんと輝いて公衆電話を死滅させなむ   鳥羽省三


○ 「待たせたな」もうすぐカッコつけながら来るはずおれのなかの勇気は  (枚方市) 虫武一俊

 いかにも虫武一俊さんらしい、無責任めかしたポーズで詠まれた秀作ではあるが、そんな消極的な姿勢では、「来るはず」はありませんよ、君の「なかの勇気は」。
  〔返〕 「お待たせ」と胸の中から飛び出して鉄面皮にも踊るか勇気   鳥羽省三 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

『NHK短歌』観賞(今野寿美選・3月7日放送)

2010年03月22日 | 今週のNHK短歌から
○ ふるさとの鄙はなにも変わりなく人が消えゆくほかには何も  (仙台市) 田宮智美

 特選一席にランクされた作品ではあるが、無遠慮に申し上げると、「この作品が何故、NHK短歌の特選一席に選ばれたのか」と言いたくなるよう駄作である。
 二句目句頭の「鄙」は<ひな>と読む以外に読みようが無い。
 したがって、この句は字足らずであり、この句の韻律の悪さがこの一首の決定的な欠陥となるのである。
 題材も陳腐この上無し。
 一首全体の表現にも大いに推敲の余地あり。
 思うに、この作品を特選一席として選んだのは、選者の詩想の枯渇と田舎コンプレックスが原因であろう。
  〔返〕 年毎に人が少なくなり行きていつ訪ねてもふるさとは鄙   鳥羽省三


○ 立ち昇る煙のごとく消えたいが今朝も錠剤一粒を飲む  (仙台市) 小野寺寿子

 特選二席。
 「立ち昇る煙のごとく消えたいが」という願望と「今朝も錠剤一粒を飲む」という現実との矛盾。
 それは正しく<矛盾>以外の何ものでも無いのであるが、そうした矛盾を抱えながら生きて行くのも、この世の人の常である。
  〔返〕 死にたしを口癖とせる人なるも錠剤一粒捧げてぞ飲む   鳥羽省三


○ 電話来てテレビの音を消したるもイチロー走るを目で追ひてをり  (船橋市) 楠井孝一

 特選三席。
 「テレビの音を消したるも」とあり、それと矛盾して「目で追ひてをり」とあるが、これまた人情の常。
 「イチロー」は、今や<国民的英雄>だからである。 
  〔返〕 ケータイでメールを送るふりをしてイチローの打席見つめ居りたり   鳥羽省三


○ 地吹雪に前行く子らの影消えて束の間高き声のみとなる  (北見市) 浅野昭久

 「地吹雪」とは、<激しく吹きつける風によって、それまでに積もっていた雪が地から巻き上げられて荒れ狂うこと>を指していう言葉である。
 本作は、「一瞬吹き荒れてその後はしばし治まる」といったような状態を断続的に繰り返す、雪国・北海道の冬の荒れ模様を見事に活写した一首である。
 「前行く子らの影消えて束の間高き声のみとなる」とは、事の実態を真に正しく、真に要領良く言い表していて、大変優れた表現である。
  〔返〕 地吹雪に前行く母のうろたえて幼き我に支へられにき  鳥羽省三   

 
○ 生涯を娶らぬ心算(つもり)と君は言い好きという字を見せ消ちにせり (金沢市) ふじのむらさき

 「生涯を娶らぬ心算」と言う心情と、「好きという字を見せ消ちにせり」という行為とは明らかに矛盾する。
 そこの辺りに、本作の話者と「君」との複雑な関係が示されているのであろう。 
  〔返〕 「好き」という見せ消ち故に賺されて生涯娶らぬ人に抱かれつ   鳥羽省三


○ 消しゴムの落款作り押してみる雪景色にも灯りのともる  (瑞浪市) 西尾久美子

 上の句と下の句との関わりが一切明らかにされていない。
 下の句で日曜画家たる話者の描いた日本画の概要を説明し、その日本画に「消しゴムの落款作り押してみる」というのであろうか? 
 或いは、「雪景色にも灯りのともる」というのは、本作の話者が「消しゴムの落款作り押してみる」という作業をしている時の背景ででもあろうか?
 <あまりにも分かり過ぎる作品は魅力に欠ける>とは言うが、<あまりにも分からない作品は魅力的だ>とは言わない。
  〔返〕 馬鈴薯で落款作って捺してみる寅を描いた年賀葉書に   鳥羽省三


○ かなしみをどこで区切ればいいのでせう灯の消えぬまに朝来るくにで  (岐阜県) 太田宣子

 一首全体の発想が口語的なのである。
 それなのに、「しょう」とすれば済むところを「せう」などとするのは全く無意味。
 その無意味さを指摘しないで、これを入選作とした選者の非常識にも呆れる。
 生半可な文法知識で歌を詠もうとする作者の愚かさ。
 その愚かさに気付かないで、それを推奨する選者の愚かさ。
 昨今の歌壇のあちこちで、「口語短歌の中に、<古典かなづかひ>や古典語の助動詞などを大胆に取り入れて詠歌の醍醐味を味わいませう」などという提唱が為されているが、それは、選者に人を得ない似非結社の、愚かな人寄せ策なのである。
 年間の借出料としての一億円が九千数百万円にまで値切られる今日、客寄せパンダには要注意である。
 「灯の消えぬまに朝来るくにで」という下の句も、余りにも漠然としていて、何がなんだか判らない。
 思うに、駄作であればあるほど、その構えが大袈裟なのだ。
 このような愚作を入選作として選ぶのは、選者自らが自分自身の詩想の枯渇を暴露しているようなものである。  
  〔返〕 灯を消さぬままに迎える朝もあり老老介護の家の侘しさ   鳥羽省三 


○ ガラス戸に残る小さき手の跡を消さずにおこう少しの間  (岡崎市) 加藤かつみ

 これでいいのである。
 わずか三十一音に過ぎない短歌の中に託せる内容は、せいぜいこの程度と心得て、我々は詠歌に当たるべきなのかも知れない。
 核家族社会の一こま、祖父母ふたりが住んでいる家に、幼いお孫さんが久々に訪れたので
ありましょうか?
 たまたま、春分の日の昨日、老人所帯の拙宅に、二人の孫娘を連れて長男夫婦が訪れた。
 〔返〕 絨毯をピンクに染めた滲み跡は孫がジュースを溢した記念   鳥羽省三


○ 戦死せし兄の消息もしやとて母聞きをりき「たづねびとの時間」  (神戸市) 瀧澤久子

 かつて、NHKラジオの夕方の番組に「たづねびとの時間」というのが在って、マリアナ海溝で戦死したと伝えられている従兄を持っている私も、それを熱心に聴いたものであった。
 あれから六十年以上も過ぎた今日、私はこの一首を、かなり近くなった黄泉路からの呼び声を聞くような思いに浸りながら読んだのである。
  〔返〕 「U町の鳥羽治樹さんご家族の方がお探しです」との放送   鳥羽省三


○ 詩のやうに消えてゆきたりわが町にたつた一羽で来し小白鳥  (赤穂市) 根来玲子

 湖沼や河川などの汚染がかなり解消された今日、冬になれば白鳥が飛来する水辺が全国至る所に遍在する。
 それなのにも関わらず、白鳥が飛来する水辺を地域内に持っている町や村の人々は、そのことを神から選ばれての僥倖みたいに思っていて、その事を地域の観光案内パンフレットにカラー写真入りで掲載して自慢したりしているのである。
 私が二年前まで七年半の歳月を過ごしていた北東北の某市の一廓にもそういう地域が在って、その地域の至る所に「白鳥の来る町、暴力団の来ない町、○○○町」という看板が掲げられていたことを思い出す。
 「詩のやうに消えてゆきたり」という上の句は、本作の作者の「得たり」とするところであり、選者もまた、その点を佳しとしたのではありましょうが、必ずしも目新しい表現とは言えない。
  〔返〕 釣り糸に縊られて死ぬ白鳥も時折り居りて淋しき村ぞ   鳥羽省三 


○ 解答を書き替えるなら消すことを一瞬だってためらっちゃだめ  (瀬戸内市) 小橋辰矢

 ご説ご尤もではございますが、散々迷った挙句に最初の案に帰って解答したところ、それが正解であったから合格したという話も再三耳にしている。
 また、初案とは別の案を解答として書いたのであるが、初案の部分を完全に抹消しないで、<見せ消ち>にしたところ、その部分が評価されて中間点をがっぽりと稼いだ、という事例も在るから、本作の作者が読者に与えようとしている教訓は、必ずしも万能ではない。
  〔返〕 消しゴムは在ると思うなじっくりと考えてかつ時間内に書け   鳥羽省三


○ 魚市のざわめきを消す緊張は競りの男の声にはじまる  (小松島市) 渡辺健一

 本作の作者が詠もうとしているのは、いわゆる<移動競り=現物競り(市場内を移動しながら現物の前で行う競り)>が行われている魚市場内の一種独特な雰囲気でありましょう。 私は本作に接した一瞬、一首の意を、「魚の下見やその噂などで、魚市場全体はそれまでざわめいていたのであるが、競り台に上った<せり人の男>が競りの開始を告げる大声を発した瞬間、魚市場全体に緊張が走り、それまでその市場を支配していた<ざわめき>がピタリと止まってしまった」と解釈したのであるが、残念ながら、それは贔屓目の解釈、つまりは本作の文意を無視した解釈である。
 何故ならば、「魚市のざわめきを消す緊張」という表現に即して解釈すると、前提となる条件として先ず「緊張」が在り、その緊張が「ざわめきを消す」という結果を呼んだ、という意味に解釈しなければならないことになるからである。
 魚市場での「緊張」と「ざわめきを消す」こととの関係は、必ずしも、原因と結果という因果関係で結ばれているものでは無いことを、本作の作者は知っているはずであり、そうである以上、本作の作者はおそらく、本作に私が先に記したような意味を託したのに違いない。
 そうであれば、「魚市のざわめきを消す緊張は」という三句は推敲不足の誹りを免れ得ないことでありましょう。
   〔返〕 競り台に男が立ったその刹那さかな市場のざわめきは消ゆ   鳥羽省三
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

『NHK短歌』観賞(東直子選・3月21日放送)

2010年03月21日 | 今週のNHK短歌から
○ まあだだよ声の余韻を探し行くひとりになりし鬼となる祖母  (徳島市) 武市尋子

 特選一席の作品である。
 奥行きの深さが感じられ、非常に趣き深い一首ではあるが、「ひとりになりし鬼となる祖母」という下の句の措辞の稚拙さは救い難い気がする。
 少し手当てをすると、「『まーだだよ』声の余韻を探り行く鬼となりたる祖母は独りで」となるが、これではどうであろうか?
 そのこととは別に、選者の東直子さんが本作を特選一席とした理由は、この作品のどういう点に在るのだろうか?
 この作品の背後には、少なくとも、本作の話者(=作者)の家系の親子四代に亘る人々の存在が想像され、その点が選者の東直子さんのハートを射止めたのでないだろうか?
 その人々とは、本作の話者(=作者)及びその子供たちと話者の親世代の人々と更にその親たる、本作に直接登場する「祖母」である。
 場面は、子供連れで久々に里帰りした話者の実家の敷地内であろうか?
 昼食後のひと時、話者の子供たちは、この家の隠居たる曾祖母を仲間に入れて、かくれんぼ遊びに興じているのである。
 その遊びが半ばに達した頃、あろうことか、話者から見れば「祖母」に当たる曾祖母(ご隠居)が「鬼」にされてしまったのである。
 「鬼」となった「祖母」の叫ぶ「かくれんぼ、もーいいかい?」の声に応えて、それぞれ思い思いの場所に隠れている子供(曾孫)たちは、「まーだだよ」「もーいいよ」と長い余韻を引いた可愛い声を張り上げるのである。
 その「声の余韻」を頼りに、「鬼」になってしまった曾祖母はたった「ひとり」で、可愛い曾孫たちを「探し」に「行く」のである。
 「まあだだよ声の余韻を探し行く」という上の句の措辞は、多少推敲の余地を残しながらも、事の次第が具体的に描いていて、それなりに優れた表現である。
 もう一点、かくれんぼの参加者としての「祖母」を、鬼役とした点も大変宜しい。
 この表現に拠って、鬼役の「祖母」が、この遊びに直接参加している子供たちばかりでは無く、自分の家系に繋がる故人たち、具体的に言うと、祖母の連れ合いやその両親たち、そして祖母自身の両親やそのまた両親たちにまで「もーいいかい」と呼び掛けていることが想像され、そしてそれに応える、「まーだだよ」「もーいいよ」の叫び声の余韻を頼りにして、隠れたままになっていて永久に姿を現そうとしない人々を、祖母が探し出そうとしていることが想像されるのである。
 祖母がその血の繋がりを、あの世からこの世まで広範囲に亘って探し求めている、といった感じが一首に醸し出されているのも、「祖母」を鬼役にしたことから生じた功名である。
 由って本作中には、<かくれんぼ遊び>に直接参加している祖母と子供及び話者ばかりでは無く、生者、死者の区別を問わず、二つの家系に繋がる多くの人々が登場していると言えるのである。
 この点に着目して、本作を特選一席に選んだことと、「ひとりになりし鬼となる祖母」という下の句の措辞の稚拙さを見落としたことと、東直子さんの選者としての業績は功罪相半ばする。
  〔返〕 鬼たりて誰にぞ祖母は「かくれんぼもーいいかい」と呼び掛くるらむ   鳥羽省三


○ 阿ー阿ーの声を言葉に吹き替えて妻の訴え充たすあけ暮れ  (姫路市) 大部良治

 特選二席の作品である。
 本作の話者(=作者)は、病床にあって「阿ー阿ー」と言っているばかりの妻の、声にならない声の意味するところを敏感に感じ取り、その訴えるところを「充たす」ことに忙しい「あけ暮れ」なのである。
 「阿ー阿ー」は、単に擬声語を漢字書きしたに止まらず、<阿鼻叫喚>や<阿吽>の「阿」の字を敢えて用いたのであろう。
  〔返〕 「阿ー阿ー」と声引き弱く言う時は下の始末を頼むの訴え   鳥羽省三 


○ 少女らの頭頂抜けし歌声に校舎ぬくもり春は近づく  (いわき市) 田崎正紀

 特選三席の作である。
 「少女らの頭頂抜けし歌声に」が宜しいのである。
 俗に<鶏冠から突き抜けるような声>とも言う。
  〔返〕 少女らの鶏冠より出る嬌声の聞こえずなりて下校時を過ぐ   鳥羽省三   

○ 雨の中ほのかに暗き第一室人面土器のくちびるを読む  (さいたま市)  島 駿

 雨の日の博物館の考古学展示室の風景である。
 「ほのかに暗き」が効いている。
 無生物の「人面土器」とは言え、その「くちびる」の形から察して、作者には、彼が何事かを言わんとしていることが解るのであり、それ故、話者は、その「くちびるを読む」のである。
  〔返〕 現世の耐へ得ぬ辛さ忍ぶごと人面土器は口を歪むる   鳥羽省三


○ 旅支度せんと浮き立つははの声聞こゆるごとし遺る日記に  (船橋市) 矢澤春美

 話者にとっては、その「日記」をひも解いて見るにつけても、在りし日の母の、元気で無邪気な姿が甦って来てならないのである。
  〔返〕 かくなると知らざりし故かなしかる旅へと浮ける母の日記は   鳥羽省三 

○ 連翹の黄の氾濫におぼれをり遠くに子らの遊ぶこゑして  (世田谷区) 長谷川瞳

 花たけなわの「連翹」こそ正しく「黄の氾濫」と形容するに相応しく、人はその美しさに「おぼれ」てもしまうのである。
 遠くに遊ぶ子らの声を耳にしているひと時は、本作の話者にとっては最も充実したひと時なのである。
 なればこそ話者は、「連翹の黄の氾濫におぼれ」て恍惚として居るのである。
 「遠くに子らの遊ぶこゑして」という下の句を頭に置いて読む時、「連翹の黄の氾濫におぼれをり」という上の句が、極めて確かなリアリティーを持っていることに気付く。
  〔返〕 遠くにて遊べる子らの声のして解るる如し連翹の黄は   鳥羽省三  


○ 伊吹颪に親が乗り出す奴凧「パパぼくにも」の声も吹かるる  (安城市)  内川英雄

 子供の手に負えないような激しさで以って「伊吹颪」が吹き募って来たので、やむなく「親が乗り出」して来て「奴凧」の糸を握ってしまったのである。
 ところがそれでは子供は面白くない。
 そこで思わず、「パパぼくにも」の声を上げてしまったのであるが、この声は、折から更に激しくなった「伊吹颪」に吹き飛ばされてしまって、「親」の耳には届かなかったのである。  
  〔返〕 「僕にも」の声吹き飛ばす激しさの伊吹颪に荒るる凧はも   鳥羽省三


○ なだれ来てじゃんけんぽんのかけ声に子らは爆ぜゆくグラウンドへと  (甲賀市)  山本美子

 「なだれ来て」及び「爆ぜゆく」は、「子ら」の突拍子も無く元気な姿をリアルに想像させ、極めて適切な表現と思われる。
 これから「グラウンド」で<手つなぎ鬼>でも始まるのでありましょうか?
  〔返〕 しなだれて先生の腰に縋り付き遊びに行けぬ子らもちらほら   鳥羽省三


○ 「またあした」ちいさな声でいいました靴ひも結ぶ君の背中に  (鳥取県)  中本久美子

 状況はまるで似つかないのに、何故か綿矢りさ作の小説『蹴りたい背中』を思い出しました。
  〔返〕 蹴りたくも蹴りたくなくもなる君の背中に向けて言った「さよなら」   鳥羽省三  


○ 声立てて笑いし後で躊躇いの指先の儘嬰児は眠る  (岡山市) 大家信次

 「嬰児」という生き物は、本当によく「笑い」、よく「眠る」、可愛い生き物である。
 「躊躇いの指先の儘」と言った辺りには、「嬰児」の実父としての作者の、観察眼の鋭さと愛情の深さが感じられる。
  〔返〕 なにごとを躊躇ふならむ右指を半ば虚空に嬰児は眠る   鳥羽省三


○ わたくしで良ければ共に人生をこの声成りて五十三年  (山陽小野田市) 内藤茂治

 本作を目にした一瞬、私は、四句目中の「成りて」に首を傾げた。 
 しかし、次の一瞬、この「成りて」は<成就して>の意味であることに気が付いて納得した。
 即ち、この歌の話者(=作者)は今から五十三年前、今の奥様に「(この)わたくしで良ければ共に人生を(送りませんか)」という「声」を掛けて求婚をし、<承諾>の「声」を得たのであるが、本作では、その達成感を「成りて」と表現したのである。
 あれから「五十三年」を過ぎたこの頃、作者があの時に感じた<達成感>は益々募るばかりなのである。
  〔返〕 成るものか成らざるものか知らざるも今日は我等の結婚記念日   鳥羽省三
 紆余曲折を経た上での結婚四十年でした。
 私にとってはともかく、妻にとってのこの四十年は、<成る><成らざる>を越えた苦難に満ちた道筋であったに違いありません。
 その辛さを忘れて、これからも宜しく。 


○ 度度の母の小言に黙したる子は無造作に鞄置き去る  (西条市) 一原晶吾

 本作中の「母」とは、作者のパートナー、即ち、作者の奥様でありましょうか?
 「子」はいつまでも「子」のままで居ないから、「母」としても「度度」の「小言」も言いたくなるのであり、「子」は「子」で、その「度度」の「小言」に「黙し」たり、「無造作に鞄」を置き去りしたくもなるのである。
 現代社会の何処の家庭にでも在り得る出来事を詠んでいるのであるが、「子は無造作に鞄置き去る」が実に効果的である。
  〔返〕 度々の無言にしびれ切らしたる母のビンタに子はなほ無言   鳥羽省三 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

『NHK短歌』観賞(加藤治郎選・3月14日放送)

2010年03月20日 | 今週のNHK短歌から
○ パンジーの種のふくろを振る音と同じ音する薬のふくろ  (小松島市) 関政明

 特選一席にランクされた作品。
 「パンジーの種」はとても細かく軽いから、それを入れた袋を振る時に聞こえる音は、粉薬を入れた袋を振る時に聞こえる音は同じように聞こえるのである。
 作者の関政明さんは長年病床にあるので、感受性に優れ音にも敏感なのであろう。
 3月22日付けの朝日新聞「朝日俳壇」の稲畑汀子選の入選作として、「紙だけの重さのやうな種袋」(島原市・中川萩坊子)が掲載されていた。
  〔返〕 パンジーの花咲く庭を見下ろして今朝も二錠のワーファリン飲む   鳥羽省三


○ この答案返せば彼らは卒業か記述解答はなまる付ける  (姫路市) 樋町加奈

 教師の大半はテストの採点を自宅で行う。
 在校時は児童生徒の世話や授業などに追われて忙しいからである。
 本作の作者の場合も、家族たちが寝静まった夜半、一枚一枚の解答用紙にそれぞれの生徒の顔などを思い浮かべながら採点作業をしていて、「この答案返せば彼らは卒業か」と思っているのであろう。
 「はなまる付ける」から推すに、「彼ら」は中学校を卒業するのであろう。
 特選二席の作品である。
  〔返〕 <はなまる>の形もそれぞれ異なりて卒業試験の採点急ぐ   鳥羽省三

 
○ いのちひとつここに消えしか十字路に萎れつつある花束ひとつ  (越谷市) 山本哲也

 本作の話者(=作者)は、交通事故発生現場に立っているのである。
 「萎れつつある花束」は、あの悲惨な日からの時間の経過を示しているのであるが、事件の生々しい記憶は人々の脳裡から容易に去ろうとしない。
 特選三席の作品である。
  〔返〕 ひと一人ここで轢かれて亡くなると教え諭すか一束の花   鳥羽省三
 

○ ジャスミン茶、玉子サンドをカゴに入れカンカン晴れの海へドライブ  (札幌市) 笹崎未歩

 「ジャスミン茶」「玉子サンド」「カンカン晴れ」「ドライブ」のカタカナ語に加え、本来は漢字表記にするべき「カゴ」までもがカタカナ書きされている作品である。
 「カンカン照り」という言い方はよく耳にするが、「カンカン晴れ」という言い方はあまり耳にしたことがない。
 選者の加藤治郎氏は、言葉遣いの奇抜さに興味を感じてこの作品をお選びになったようにも思われる。
  〔返〕 缶ビール・缶酒・缶詰・缶ジュース買いに行くのかカンカン照りに   鳥羽省三   


○ 雨女と呼ばれし人の葬送は通り雨来て傘の花咲く  (いわき市) 小林真代

 「雨女→通り雨→傘」及び「葬送→花」の<連想ゲーム>に惹かれての入選か?
  〔返〕 有態に明かせば飽かず悪行を焦りて為せる当り屋なりき   鳥羽省三


○ 僕たちも光合成をするらしい。植物図鑑で君の名を引く。  (渋谷区) 藤沢けんじ

 「恵梨花」「すみれ」「奈津菜」「茜」「真樹」「大樹」などといった植物に見紛う人名が、昨今ではごく当たり前の名前のようになってしまった。
 そうした点に着目して、本作の話者は「僕たちも光合成をするらしい」と言い、「植物図鑑で君の名を引く」と言っているのであろう。
  〔返〕 これまでは「さくら」という名で出てました。秋になるから「かえで」にします。   鳥羽省三


○ 「人間はもういや、花になりたい」と言った紀(のり)ちゃんお元気ですか  (世田谷区) 片山由加

 とぼけた口調ながら、<鬱社会>とも呼ばれる現代の日本社会の一断面を映し出しているのである。
  〔返〕 「この顔はもういや、鼻が低くて」と言った牛くん鼻輪下げてる   鳥羽省三


○ 花屋さん私がちょうど大切に出来る程度の花をください  (練馬区) 糸原ちひろ

 この作品を、いわゆる<ライトヴァース短歌>であるなどとして評したら、ライトヴァース短歌に携わった人々が泣くであろう。
 本作のような作品を称して、私は、<たんたん短歌><なんちゃって短歌>と呼ぶ。
 選者の加藤治郎氏は、<なんちゃって短歌>のパトロンなのか?
  〔返〕 加藤さん私も一緒に誉められる程度の歌を選んで下さい。   鳥羽省三


○ 虫くらいなんて事なくひさかたの雨にも負けぬ千の菜の花  (青梅市) 高橋千恵
 
 <害虫にも負けず、雨にも負けず>咲いている<いちめんの菜の花>を、「ひさかたの」という枕詞を巧みに用いながら詠んだ作品である。
  〔返〕 無視くらいなんて事無く人々の顰蹙を買う鳥羽の歌評だ   鳥羽省三


○ りんちゃんが「ママ」と言うとき花びらのようなくちびる光って揺れる  (横浜市) 小林千恵

 乳幼児の「くちびる」の形は、確かに「花びら」に似ている。
 「ママ」という言葉は、乳幼児が最初に口にする言葉だとか。
  〔返〕 いつまでも「ママ」などと言う 花びらに似ても似つかぬ唇をして   鳥羽省三


○ 顔色をうかがうような風のなかあなたの指が花にとまどう  (掛川市) 村松建彦

 「風」があまり強く吹くので、<わたし>は「あなた」の「顔色をうかがうような」ことをしているのか?
 その「風のなか」で「あなたの指が花にとまどう」のは何故なのか?
 その「花」とは何の「花」なのか?
 その他、本作に詠まれた世界は、評者にとって何一つ解らない世界なのであるが、何処と無く魅力が感じられる作品とも思われる。
 選者の加藤治郎氏は、この作品の趣きを全てご承知なさった上で、本作を入選作となさったのでありましょうか?
  〔返〕 加藤氏の顔色覗うようにしてこの作品の歌評書いてる   鳥羽省三


○ ハンドルにさくら花びらついていて我が自転車も春の装い  (豊中市) 武富純一

 ささやかな「春の装い」ではある。
  〔返〕 車輪にも花びら一輪絡み付き春の山道バイクで上る   鳥羽省三
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

一首を切り裂く(017:最近)

2010年03月19日 | 題詠blog短歌
 お題「017:最近」に寄せられた投稿歌には見るべき作品が極めて少なかった。
 私は、この<お題>に接した瞬間に、「ああ、このような、最初から方向性が定まっているような<お題>では、どんな名人上手だって碌でもない歌しか詠めないだろう。この分では『一首を切り裂く』も開店休業という状態になるだろう」と予測したのであるが、案の定、その通りの事態を招いてしまった。
 「最近」という<お題>が、いかに難しく、いかにつまらない<お題>であるかということを証明する材料として、次に私が普段から優れた歌人として尊敬してやまない三人の方がこの<お題>にお寄せになった作品を示してみよう。
 誤解を招かないように最初から申し上げておくが、私がこの方々の作品をここに示すのは、それで以ってこの方々の歌人としての実力の無さを証明しようなどと思っている訳では決して無い。
 いや、むしろその逆で、「最近」などというつまらない<お題>に出くわしたら、いくら名人上手でも、この程度の作品を投稿して緊急事態を逃れるしか手が無いことを示し、この<お題>のくだらなさ、つまらなさ、難しさをこき下ろすつもりで、かくなる挙に出ようとするのである。
 ものは序でという言葉もありますから、もう一言申し添えると、私は、この方々の作品を、普段からあまり頻繁に採り上げないようにしている。
 それは何も、この方々の歌人としての力量に私が嫉妬しているからでは無く(少しぐらいはその気持ちもあるかな?)、この方々の作品を私がいちいち採り上げて褒め上げるのは、かえって失礼というものであろう、と私が思っているからである。
 したがって今後も、この方々の投稿作品に関しては、私が脱帽し禿頭を曝け出し、以って他の方々の歌作りに資するような優れた作品以外には採り上げないつもりである。
 何卒その旨、宜しくご承知置きお願い申し上げます。
 
○  最近の歌は知らぬと前置きし昭和はじめのカラオケ歌う      西中眞二郎
○  最近はNHKまで視線をば目線と言ひて恥じる様子(さま)なし  髭彦
○  最近の女子大生はと言はれし日に「純潔」といふ言葉のありき   梅田啓子

 お三方それぞれに、それなりの工夫と趣向を凝らされての一首ではありますが、私の観るところ、これらの作品には、この方々の歌人としてのご力量が、その百分の一も発揮されて居られないのである。 
 だからと言って、この方々が、お題「最近」に限って、有り余るご力量の出し惜しみをなさった訳では決して無いでありましょう。
 かほど然様に、「最近」という<お題>が、くだらなく、つまらなく、難しい<お題>であったのである。
 もう一度、お三方の作品に視線を向けてみて気が付いたのであるが、これら三作は、期せずして、お題「最近」を<詠い出し>に用いているが、それも何かの象徴でありましょうか。
 以上を以って口上を終ります。
 西中眞二郎さん、髭彦さん、梅田啓子さんには、大変失礼致しました。

 
(鮎美)
   つばめの子最近孵りましたとふ手紙を載せて郵船が発つ

 「お題の拘束から解放されればもっともっと優れた作品になるのに」と思われ、その点だけが惜しまれる佳作である。
 何よりもいいのは、お題「最近」を詠い出しに用いなかったことである。
  〔返〕 「つばめの子孵りました」の手紙載せ郵便船は波止場出て行く   鳥羽省三
      「つばめの子孵りました」のメール載せインターネツトは星空翔ける   々


(飯田和馬)
   気付いたら顔がなかった。そういえば最近だれとも会ってなかった。

 私たち人間の生活が、特に若い人たちの生活が、かくまで圧迫され、かくまで押し潰されてしまった今日に於いては、<気付いたら財布にお金が入っていなかった><気付いたらマグロが食えなくなっていた><気付いたら反対車線に入っていた><気付いたら恋人を失っていた><気付いたらリストラされていた><気付いたら金属バットを握ってた><気付いたら誰かのお尻に触ってた>といったような非常事態が日常茶飯事のように起こりかねない。
 この傾向が更に増進して行けば、<気付いたら首相の名前が変わってた><気付いたら核の釦を押していた><気付いたら日本列島消えちゃった>などという、笑うに笑えない事態にさえ突入しないとも限らない。
 本作の上の句「気付いたら顔がなかった」という措辞は、そうした事態を比喩的、象徴的に表わしたものでありましょう。
 それに対応する、「そういえば最近だれとも会ってなかった」という下の句は、作者・飯田和馬さんがご自身の日常生活をそのまま言い表わしたものに違いないから、上の句と併せて、極めて現実感を伴った措辞となっている。
  〔返〕 気付いたら母から八億貰ってた鳩山総理の金銭感覚   鳥羽省三


(砂乃)
   君はつんと聖人君子を装ってあたしの愛を試すの最近

 口語に徹しているのは大変宜しい。
 
   君は
   つんと 
   聖人君子を装って
   あたしの愛を試すの 最近

 「五七五七七」の短歌の定型韻律とは異なった、新しい韻律が誕生しようとしているのです。
  〔返〕 妻はぷんと悪妻愚妻を装って忍耐力を試すの僕の   鳥羽省三
 

(斉藤そよ)
   不織布の袋はきれい 気がつけば最近とんとみない茶柱

 「気がつけば最近とんとみない茶柱」、その理由は、すっかり物臭になってしまった私たちが、茶筒から厳選した茶葉を茶匙で掬って急須に入れ、お湯の温度なども吟味してお茶を入れるといったような良習慣を捨ててしまったからである。
 <部活>から始まった言葉の省略化、短縮化もその極に達し、近頃は<就活><婚活>という見るも無残な短縮言葉が大手を振って大道をのし歩き、その無残な<就活><婚活>の結果として<OL>や<主婦>の座を射止めた女性が、職場や家庭で、「不織布」などという味も素っ気も無い言葉で示される袋の中に入った粉茶にお湯を注いで飲むようになってしまった。
 そのようなお茶には、「茶柱」が立たないことは理の当然である。
 「不織布の袋はきれい」の「きれい」が印象的である。 
 通常の茶葉から入れるお茶ならその後始末が必要であるが、「不織布の袋」に入ったお茶ならその後始末も必要なく、「きれい」で宜しいという訳なのである。
  〔返〕 不織布の袋のお茶はお臍には入らないから笑う気も無し   鳥羽省三 


(あずさ)
   最近の子供の名前は何なのと呆れる人の名前は恵梨奈(えりな)

 「恵梨奈」なら、取り立てて話題にするようなお名前では無いのではありませんか?
 格別に難しい<よみ>でもありませんから、わざわざ「恵梨奈(えりな)」などと、カッコ付きのふりがなを施す必要も無いのではありませんか?
 見栄えの良さにも注意しなければならない短歌作品に於いては特に。
 今から数えてざっと四十年前、私がコーチの真似をしていた少年野球チームに<飛雄馬>
<宇宙><亜都夢>という変わったお名前の少年たちが入団して来た時、私は余りにも驚嘆してしまい、ノックバツトを振るう手が痺れてしまったのであった。
 あれから四十年経ち、今となっては、<飛雄馬><宇宙><亜都夢>といった名前は、余りにも平凡過ぎて、かえって虐めにの対象にされるかも知れないと、親たちが心配するまでに世の中が様変わりしてしまったのである。
  〔返〕 平凡に由紀夫・邦夫と名付けしも鳩の喧嘩は久しく已まず   鳥羽省三  


(れい)
   最近は眠りを誘うために見る魁夷の描(か)いた真っ白な馬

 名画としての評価は絶大ではあるが、東山魁夷が後半生に描いた日本画は、余りにも単調、余りにも平和でありますから、「眠りを誘うために見る」という使い方は、案外理に適った使い方なのかも知れません。
  〔返〕 晩年はトイレマットに使おうか龍村美術の葡萄唐草   鳥羽省三


(チッピッピ)
   最近のことと思っていたけれどふた昔前「平成元年」

 平成ももう二十二年ですからね。
 後に棚から牡丹餅の総理大臣となったあの官房長官が「新しい元号は、平成であります」 と言いながら、新しい年号を墨書した台紙を示した姿を、二十インチのテレビ画面で視たのは、つい昨日のことのように思えますが。
  〔返〕 棚牡丹の娘が二児の母となり省庁預かる大臣となり   鳥羽省三


(珠弾)
   それっぽい顔して売り場に並んでる麦酒もどきが増えた最近

 本物のビールに加えて、その紛い物の発泡酒、更には、そのまた紛い物の第三のビールまで、昨今の酒類販売店の売り場の商品はさまざまである。
 価格の違いはあれ、どの商品の容器も似たようなものであり、それぞれ「それっぽい顔して売り場に並んで」いるから、突然の来客の為に酒屋に走った主婦などには、その違いが判らないのである。
  〔返〕 それっぽい顔もしないで総裁の椅子を汚すか谷垣禎一   鳥羽省三
 

(鳥羽省三)
   「最近はぼちぼちでんな」としょぼくれて人情刑事の真似する被疑者

 他人様の作品を論うばかりでは不公平であるから、自分の投稿作品も示そう。
 これもまた、他の方々の作品同様、お題「最近」を詠い出しに用いている凡作である。
 凡作を凡作と知りつつ投稿したのは、投稿日の前日に、「人情刑事」藤田まこと氏がお亡くなりになったからである。
 しかし、其れと此れとはまるで関係が無く、凡作はあくまでも凡作であり、さすがの藤田まこと人気もこれを救済してくれようとはしなかったのである。
 そこで、お題「最近」を折り込んだ作品をもう一、二首。

(鳥羽省三)
   最近は今の直ぐ過去 大過去の去年おととし最近で無し   
   最近はあくまでも過去 最近を振り捨て吾は独立独歩
   最近は今日を含まず 昨日から今日に繋がる昨今よろし
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

一首を切り裂く(016:館)

2010年03月18日 | 題詠blog短歌
(夏実麦太朗)
   宮崎県物産館のにぎわいをみやげ話として持ち帰る

 作中の「宮崎県物産館」とは、<新宿みやざき館KONNE>のことであり、JR新宿駅から徒歩約一分の東京都渋谷区代々木2-2-1の<新宿サザンテラス>内に在る。
 私はつい先日、新宿高島屋に出掛けた序でに足を伸ばし、あの<そのまんま東知事>ご推奨の宮崎県物産の品々をとっくりと拝見させていただいた。
 しかし、本作の作者・夏実麦太朗さんの場合のように「宮崎県物産館のにぎわいをみやげ話として持ち帰る」などと言うけち臭い振る舞いをする訳にも行かず、私は同館から宮崎県名産の地鶏・地頭鶏を天然塩で味付けをした「みやざき地頭鶏地鶏・炭火焼」(160g入り、1260円)なる品を、家内の妹宅用に一袋、長男の留守宅用に一袋、自宅用に一袋と合計三袋も買った他、併設のレストランで軽い食事もしたから、大枚一万円も費やしてしまったのである。
 私はこの夏、今の住居の最寄りの団地内に値頃な中古マンションを購入する心積もりもあるので、常々からの浪費癖は、この際極力抑えて行かねばならない立場にある。
 したがって今回この作品に接することによって、作者・夏実麦太朗さんのごく質素な生活振りを知って、年金生活者たる者は神奈川県の住民であろうと埼玉県の住民であろうと、かくあらねばならないと知らされた次第である。
 とは言え、昨今は民主党政府が、経済不況打開策の一環として内需拡大を声高に叫んでいる真っ最中なのである。
 こうした折に夏実麦太朗さんや私が、わざわざ新宿くんだりまで出掛けて行って、何も買わないで帰って来ても良いのでありましょうか?
〔返〕 <おいでませ山口館>で『ふくを呼ぶ食べ物・ふくの一夜干し』買う
    <ゆめぷらざ滋賀>に出掛けて『比叡ゆば・徳用』三袋張り込んじゃった
    <北海道どさんこプラザ>に足運び『炭焼さんま丼』も勝っちゃおう   鳥羽省三


(みずき)
   崩壊の館にローマの雨の降る耳そばだてつ古代史を行く

 本作は、三句目の「崩壊の館にローマの雨の降る」で切れているのだから、その後の「耳そばだてつ」で切る必要は無いはずである。
 それにも関わらず、四句目を<耳そばだてつつ>とせずに「耳そばだてつ」としたのは、おそらくは、本作の作者が、完了の助動詞「つ」と接続助詞「つつ」と混同したからでありましょう。
 それともう一点。
 この四句目は「耳そばだてつ」となっているが、「そばだつ」という動詞の原義からして、ここでその動詞を使うのはかなり無理である。
 本作の作者が、この作品中で「そばだつ」という動詞を使うに当たっては、多分にあの白楽天の詩の一節「遺愛寺の鐘は枕をそばだてて聴き、香炉峰の雪は御簾をかかげて看る」を意識なさったとは思われるが、白楽天の詩の場合は、「そばだつ」という動詞の原義に適った使い方であり、本作の場合はそれに反する使い方であるから、この点からも、本作の四句目の表現は明らかに無理な表現である。
 本作は、詠い出しから末尾までかなり大袈裟な構え方をして居り、あれもこれも詰め込みたいという、作者の願望が裏目に出た作品である。
 文法的知識にしろ、古典語や歴史の知識にしろ、生半可な状態で一首の短歌の中に詰め込むのは、大きな怪我のもとである。
  〔返〕 崩落の館を濡らす通り雨春のローマを耳澄まし行く   鳥羽省三


(アンタレス)
   図書館で只ひたすらに古文書の翻刻に生きし病いすすむ迄

 本作もまた、わずか三十一音の短歌作品の中に、あれもこれもと一緒くたに詰め込んだ結果、脆くも空中分解してしまった作品である。
 この作品の中で作者が述べたかったことは、「自分は病いの床に臥すまで、古文書の翻刻作業に熱中していた」ということでありましょう。
 さすれば、必要最低限の言葉を生かして、不必要な言葉は捨てるべきである。
 本作の場合の不必要な言葉とは、「図書館で」「只ひたすらに」「生きし」などの大袈裟な言葉である。
 一首の中で必要最小限のことを述べて、後は読者を信じて、読者の解釈に委ねるべきである。
 そうすれば、あなたという人が、最初から病いの床に臥す身の上の方で無かったことも、図書館か博物館に勤めていて、知的なお仕事に携わっていたことなども解るはずである。
 短歌というものは、「それが解らないくらいの馬鹿には私の作品は読んで貰いたくない」という自信とフライドを感じながら創るものである。
  〔返〕 かかる身になるとも知らず古文書の翻刻に耽けし健やかな日々   鳥羽省三


(あかり)
   タイトルに惹かれ幾度も手にしたが未だ未読の『緑の館』
   
 そうそう、短歌というものはこの程度で宜しいのである。
 「タイトルに惹かれ幾度も手にしたが未だ未読の『緑の館』」とだけ言えば、少なくとも本作の作者が自分の短歌を読んで欲しいと願っているレベルの読者なら、本作の作者がこの小説を今までは読んではいないが、これからも何回か手にして、結局いつかは読んでしまうだろうということや、作者の性格や趣味や読書傾向も解ってくれるに違いない。
 本作の作者は、最低、その程度のことを思って、その程度の自信を持って、本作を創り、投稿しているのである。
 私が私自身の面子をかけてこの作品にけちをつけるとすれば、作中の四句目「未だ未読の」が二重表現となっていることぐらいである。
 即ち、「未読の」と言えば「未だ」が不要、「未だ」を付ければ「未読の」では無く「読まない」で宜しい、と言うことぐらいのことである。
 「私は、古代史に興味を感じてローマに旅行した」「私は、図書館に務めていて、古文書の翻刻をすることに生き甲斐を感じていた」などと余計なことは言わずに、そのことを読者に感じさせるところに短歌を詠む醍醐味が在るのである。
 作中の「『緑の館』」とは、イギリスの博物学者として名高い、文豪W・H・ハドソンが1904年に発表した長篇小説であり、南米アマゾンを舞台に冒険好きな青年と野性の少女の熱帯雨林でのロマンスが主題である。
 アンソニー・パーキンス主演、オードリー・ヘップバーン、早川雪洲らが助演して映画化もされたのである。
 実を言うと、私は本作の作者と同じ理由で、岩波文庫版のこの作品を前後三回も買い、三回とも読了せずに他の人に呉れてしまったのである。
  〔返〕 題名と映画に惹かれ三度買い結局読まぬ『緑の館』  鳥羽省三 



(間宮彩音)
   雨上がり体育館から聞こえくるキュッキュと響くゴムの靴音

 「雨上がり体育館から聞こえくる」と、途中までは陳腐な表現であるが、「キュッキュと響くゴムの靴音」が素晴らしい。
 寡聞にして私は、「キュッキュと響くゴムの靴音」を短歌に詠んだ人を知らない。
  〔返〕 丑三つ時逢魔が辻から聞こえ来る絹裂く如き女性の叫び   鳥羽省三


(周凍)
   きみはいま雲居の空に旅寝して枕むすぶは月の館か

 発想も古風であるが、表現も古風である。
 しかし、歌人ちゃんたちの<なんちゃって短歌>の中に在っては、それなりの自己主張が感じられる。
 少し大袈裟に言えば、私はこの作品に接して、北村透谷の戯曲詩『蓬莱曲』を思い出した。
 今から半世紀ほど前、私はこの戯曲詩『蓬莱曲』が、ある演劇集団によって上演されたのを見たことがある。
 それは、そのストーリーの複雑さに比して、実に単調な劇の運びで、それほど多くない観客の中には、欠伸をしていたり、居眠りをしていたりする者も居た。
 それ以来、この戯曲が上演されたというニュースには接していない。
  〔返〕 汝はいま雲井の雁にお酌させ月の桂を召されて居らむ   鳥羽省三


(れい)
   開館まであと十五分、右足が短い鳩にパン与え待つ

 図書館の開館時刻は、誰もがこうして待っているかのようである。
 「右足が短い鳩に」と具体的に述べているところが特に宜しい。
  〔返〕 終鈴迄あと十五分 右肩が痺れてるけど我慢して解く   鳥羽省三


(虫武一俊)
   西夏文字の末路をきっと知っていた図書館跡の羽根の残骸

 「西夏文字の末路」については、井上靖作の小説『敦煌』にそれらしいことが書かれていたようにも思われるが、今となってはそれさえも忘れてしまった。
 衒学趣味の鳥羽省三さえ覚えていないことを、「図書館跡の羽根の残骸」が「きっと知っていた」と言うのは、いかにも<ストーリーテラー・虫武一俊>さんらしい結構である。
  〔返〕 その末路きっと哀れな図書館の書棚の下に巣食うゴキブリ   鳥羽省三


(秋月あまね)
   恋人は司書かもしれぬ図書館の閉架のような私を容す

 「図書館の閉架のような私」と言う直喩が面白い。
 しかし、「図書館の閉架のような私を容す」「恋人」は「司書」などでは無くて、もっと別の仕事をしている人に違いない。
 例えば、<弔い人>とか。
  〔返〕  恋人は世間知らずだこの俺を図書館の司書などと言うのだ   鳥羽省三


(原田 町)
   図書館の処分棚より貰ひたる本のおほかた読まないままに

 「貰い」を「貰ひ」と書き、「おおかた」を「おほかた」と書き、更に「たる」という文語の助動詞を用いているからには、作者はこの一首を、文語短歌と意識しているに違いない。
 もしそうならば、「読まないままに」を「詠まざるままに」とすれば、首尾一貫した文語短歌になるのである。
 題材がユニークで虚飾が無くて好感が持てる。
 返歌は徹底した口語短歌で。
  〔返〕 図書館の処分棚から貰ったが『週刊テレビ』は捨てるしか無い   鳥羽省三


(南葦太)
   どこまでも異物 首からぶら下げた入館証が作る結界

 話者は「入館証」を「首から」ぶら下げているのだろうか、ぶら下げていないのだろうか?
 ぶら下げているとすれば「入館証」が「異物」、ぶら下げていないとすれば話者自身が
「異物」ということになる。
 そのいずれにしろ、話者は、「入館証」を「首から」ぶら下げていなければ入れないその施設に違和感を感じているのである。
  〔返〕 僕自身異物 首筋に入館証をぶら下げたりして威張っちゃってる   鳥羽省三


(青野ことり)
   図書館の開架の本のすきまには見えない声がひしめいている

 「図書館の開架の本のすきまには」、閲覧室の「書架」に並べられないで、暗い書庫に死蔵されている書物の亡霊たちが潜んでいるから、「見えない声がひしめいている」と言っているのである。
  〔返〕 図書館の地下の書庫では開架から追われた本が咽び泣きする   鳥羽省三 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

一首を切り裂く(015:ガール)

2010年03月17日 | 題詠blog短歌
(砂乃)
   父さんの手帳にこそっと貼られてたモダンガールの写真は母さん

 「こそっと」が宜しい。
 「父さん」が「こそっと」貼っていたのを砂乃さんが「こそっと」盗み見したのである。 「母さん」の若い時は、今の砂乃さんよりもっともっと可愛かったから、「父さん」が「母さん」と巡り会えた時はとてもとてもうれしたったに違いないし、父さんはいまでもまだその時の余韻の中で生きているのでしょう。
 本作の作者・砂乃さんは現役高校生に違いない(本当のところは、さのヨイヨイって感じのお婆さんだったりして)。 
 しかし実の父親の物とは言え、他人の手帳を「こそっと」盗み見したりしてはいけませんよ。
 例えばその手帳に、「私は妻子に内緒で愛人の鴇子と千駄ヶ谷で逢った」「妻子には未だ知られていないのだが、会社の金を使い込みしてリストラされた。会社に行くふりをしてパチンコ屋通いをしたり、ハローワークに行ったりするのはとても辛い。」などと、のっぴきならないことが書かれてあったらあなたはどう対処なさるつもりですか?
  〔返〕 母さんの三面鏡の引き出しにジェームス・ディーンの写真が在った   鳥羽省三


(伊倉ほたる)
   お茶会に遅れた罪を着せられて三月うさぎはバニーガールに

 作中の「三月うさぎ(ウサギ)」とは、ルイス・キャロルの児童文学『不思議の国のアリス』のお茶会の場面に登場する架空のキャラクターである。
 「罪を着せられて」とあるが、<罪を着せる>という表現は、通常、<無実の罪を着せる>と言うように、<罪を犯していないのに罪人として扱う>場合を言うのであるから、作中の「三月うさぎ」は、民主党の大臣たちと違って、本当は「お茶会」に遅れて来たのではなかったということになる。
 だとすれば、その「うさぎ」ちゃんは、とても哀れな兎ちゃんである。
 「三月うさぎは罪着せられて、バニーガールの服着せられて、嫌なお客に胸触られて、挙句の果にキスまでされて、かわいそ、かわいそ、かわいそ過ぎる」と、私は、たちまち即興の歌まで創ってしまいました。
 この歌を唄うか主として最も相応しいのは<林あさ美>さんでしょうか。
 思わず脱線してしまったが、本作の表現上の特色を述べると、三句目の「着せられて」が、「罪を着せられて」と「バニーガール」の衣装を「着せられて」の掛詞となっていることである。
 この点は、もしかしたら、作者ご自身が意識してやったものでは無いかとも思われるが、それならばそれで大変素晴らしいことである。
 本作は、作者の伊倉ほたるさんとすれば、投稿を焦る余り、無理矢理に仕立て上げたような作品であり、快心の出来とは言いかねる作品では無いのかなとも思われる。
 私は、それぞれの投稿作をその作者のレベルで以って評価していて、他の作者の作品と比較した時には優れた作品と言える作品であっても、その作者の作品としてはどうかな、という作品である場合は、惜しみつつも採り上げるのを見送ることにしている。
 したがって、この作品の場合も、当初はスルーしようとしたのであるが、再読してみて、この掛詞の点が気になったので、それを問い質してみたくて、敢えて採り上げたのである。
 本作に接して私は、テレビ朝日のドラマ「交渉人〜THE NEGOTIATOR〜」に、主役の<宇佐木玲子>役として出演した米倉涼子を思い出した。
 「宇佐木玲子」という役柄は、『不思議の国のアリス』の「三月うさぎ」から着想されたのであろうと思うと同時に、米倉涼子に「バニーガール」の衣装を着せたら面白いだろうなどと、大変けしからんことを思ったからでもある。
  〔返〕 犯人に近づく手段と覚悟してバニーガールに化けた宇佐木だ   鳥羽省三
      生まれつきバニーガールの服を着てご機嫌伺いしてそう涼子    々

(アンタレス)
   チアガール応援なるかショーなるかコンテストあり美技競えり

 本作は、「チアガール・ショー・コンテスト」というカタカタ語(現代語)を用いてはいるが、その一方、「(応援)なるか(ショー)なるか(コンテスト)あり(美技)競えり」とあり、「なる・なる・ある・競へ(競え)・り」と、文語の助動詞や動詞に頼った表現である。
 一首を文語短歌と看做すか口語短歌と看做すかは、作中の体言(名詞)では無く、用言(動詞・形容詞・形容動詞)及び助動詞に着目して判断するのである。
 作中の用言や助動詞が文語である場合は文語短歌、口語である場合は口語短歌なのである。
 したがって、本作は文語短歌と看做されるから、末尾の「競えり」は「競へり」とすべきである。
 更にもう一言加えると、本作には、この問題とは別に韻律上の問題が存在する。
 既にお気付きではありましょうが、五句目「美技競えり」は、文法上の矛盾点を解決すると共に韻律上の欠点も解決しなければならないから、「美技を競へり」としなければならない。
 以上、大変細々しいことばかりを述べたが、これは出来る限りということであって、絶対にそうしなければならない、ということでは無い。
 現に、昨今の結社誌のほとんどは、文語と口語をごちゃ混ぜにした短歌の投稿を許容していて、主宰や幹部などが「文語と口語の違いや古典仮名遣ひと現代仮名遣いの違いなどを気にかけずに、どうぞご自由に投稿して下さい。短歌とは、ご自身がそれを短歌と思えば、それで短歌なのです」などといった甘い言葉を編集後記に書いて、客寄せしている場合も多いのである。
 本作は題材がユニークなので、<なんちゃって短歌>として捨てるには惜しいと思ったので、敢えて採り上げ、敢えて一言申し上げたのである。
 過分な口出しご許容下さい。
  〔返〕 チアガールは<アメ・フト><バスケ>の添え物でゲーム以上にスタンドが沸く   鳥羽省三 
 

(夏実麦太朗)
   照れながらガールフレンドと言うときの言葉もわれも消えてしまえよ

 夏実麦太朗さんは、もう「ガールフレンド」などという言葉を口にするお年頃では無いんですね。
 同じ言うなら<茶飲み友だちの婆さん>と言いたいのでしょうか。
  〔返〕 テレながら混浴風呂に入ってるボクの隣りは内舘牧子   鳥羽省三


(中村あけ海)
   五月蝿なすガールズトークかき分けてすみやかに湯を捨てねばならぬ

 「五月蝿(さばえ)なす」とは、陰暦五月頃の蝿の状態からの比喩的表現であり、<数多い有様>や<五月蝿い状態>を表わす語で、枕詞として用いたり副詞的に用いたりする。
 本作に於いては、<格別な用も無いのに社内の給湯室付近に集まっておしゃべりに耽っている女子社員>を見下して「五月蝿なすガールズトーク」と言っているのである。
 こうした点からも、将来を約束されたエリート社員としての<庶務課・中村>氏の会社べったりの嫌悪すべき姿勢が覗われる。
  〔返〕 五月蝿なすライバル社員を押し退けて出世街道驀進中村   鳥羽省三 
   

(飯田和馬)
   裏山の狐ガールが小肥りの人間どもに捕まる話

 <瘤取り爺さん>ならぬ<小肥り小父さん武勇伝>の一巻である。
 異常性欲の権化たる独身男性が雌鳥を犯すことを<鶏犯>と言うが、この場合は鶏犯ならぬ<狐犯>の対象として、「裏山の狐ガールが小肥りの人間どもに捕まる」のである。
  〔返〕 警官が鶏犯やらかすことも在り歳末警戒厳重注意   鳥羽省三


(庭鳥)
   思わずに聞き惚れ止まる急ぎ足谷山浩子「カントリーガール」

 こちらの<庭鳥>さんは、そう易々とは<鶏犯>されそうにはありません。
 それはともかく、そう言えば、たしかに居りましたよね、谷山浩子さん。
 あの当時は私も熱心に聴きましたよ、「ねこの森には帰れない」などを。
 でも、彼女はもう六十歳代なはず。
 今でも健在ですか、あの湖の底から聞こえてくるような爽やかな声は。
 表現について一言申し添えれば、語順にやや難在り。
 「聞き惚れて思わず止める急ぎ足谷山浩子の『カントリーガール』」としたらいかがですか?
  〔返〕 『お早ようございますの帽子屋さん』『ラ・ラ・ルウ』『ねこの森には帰れない』   鳥羽省三

 
(理阿弥)
   兄の子の眼差し早もガール的匂いを放つ訪ふが怖ろし

 つい最近までは、叔父と姪との結婚はごく当然のようにして行われていたのであり、法律的には現在でもそれは可能なはずです。
 とは言え、確かに難しい局面に立たされていますね、理阿弥叔父さんは。
 一むかし前なら、「兄貴んとこの娘は色気づきゃがって、あれは兄貴と言うより、かみさんが甘いからだ」などと、親戚同士の噂になるところでありましょうが。
  〔返〕 『新生』はあの藤村の小説で叔父と姪との泥沼描く   鳥羽省三


(周凍)
   いにしへの高みはるかな声ならむガール川越す橋の水音

 本当は自分の心を乱す猥雑な声なのに、「いにしへの高みはるかな声ならむ」などと言うのは、既に水の精に魅せられてしまっているからなのか?
 水音だけならともかく、あの五月蝿なす「ガール」どもが吊橋を渡る時に発する嬌声が、どうして「いにしへの高みはるかな声ならむ」なんですか?
  〔返〕 彼の岸の何処の岩より響けるか舟人魅するローレライの声   鳥羽省三 


(鮎美)
   ガール以外乗れないユーはガールぢやない降りて頂戴と詰め寄る媼

 本作をカタカナ語を使わないで書き改めると次のようになる。
       「『女以外乗れないの。君は女じゃない。降りて頂戴』と詰め寄る媼」
 でも、これではとても短歌とは言えないから、少し工夫すると、こうなる。
      「『この車両、女性専用車両なの。君は下りろ』と詰め寄る媼」
 そこで、さて、原作とこれとを比較してどちらが良いかとなると、問題無く原作に軍配を上げざるを得ない。
 となると、本作の作者・鮎美さんは、到底短歌にし得ないD級テーマを、軽業を使って短歌にしたことになるのか?
  〔返〕 地下鉄の女性専用車両なる座席に掛けてしょんぼりお杉   鳥羽省三
 

(虫武一俊)
   ボーイミーツガールを神の必然とみるとき少女めく兵器群

 「ボーイ・ミーツ・ガール(Boy Meets Girl)」とは、物語のパターンの一つであり、直訳すると<少年が少女に会う>物語である。
 本作の作者は、少年が少女に出会って恋に落ちるのは「神の必然」であると考え、そう考える時、近年、米露中などの大国を初めとした世界各国の為政者たちが血眼になって追い求めている「兵器群」が「少女」めいて見えると言うのである。
 こういう発想は、一種の倒錯した少女崇拝的な発想であり、自分自身が被虐的な発想から少女を追い求めているように、世界各国の為政者たちは「兵器群」を追い求めている、と言うのであるから、精神分析学的には、軍縮反対思想、好戦思想に結びつくものと判断される。
  〔返〕 「ガール・ミーツ・ボーイ」を神の導きとみる僕は極めて愚かな平和主義者だ   鳥羽省三


(牛 隆佑)
   エレベーターガールよ今は普段より【開】を少し強く押すべき

 この「エレベーターガール」は、トヨタ社製エコ・カーのオーナーなのであり、その父親は、米国・オレゴン州に大規模な牧場を所有し、牛乳搾取を業としている?
  〔返〕 牛乳搾取業者よ今は普段より牛のお乳をきつく搾りな   鳥羽省三


(水絵)
   昔なら秘めて隠した恋話(こいばな)を ガールズトークあっけらかんと

 発想そのものは大変宜しいが、「恋話(こいばな)」にかなりの無理在り。
 それとも、「こいばな」という言葉は、私のような高齢者の語感覚とは別に、若い人々の間に広範に流布している、一種の若者言葉なのでしょうか?
  〔返〕 そのかみは秘めて語らぬ醜聞をガールズトークのあっけらかんと   鳥羽省三 


(翔子)
   筍を抱え笑顔のマイガール髪の枯葉がリボンのごとし

 これぞ正しく平成版『竹取物語』である。
 「筍を抱え笑顔のマイガール」可愛いね。
 「髪の枯葉がリボンのごとし」という直喩にも、笹竹の葉があのような形をしているから、少しも無理が感じられない。
  〔返〕 紙おむつ抱え泣きべそユアーボーイ翔子母さん替えてくれない   鳥羽省三


(葉月きらら)
   もどかしい距離保たれて恋人になれないままのガールフレンド

 「もどかしい距離」とは、唇と唇が直接触れ合わない距離であるから、その長さはわずか数センチメートルでしかない。
 しかし、その数センチメートルは、数万メートル、数十万メートルにも等しい数センチメートルなのである。
  〔返〕 もどかしい距離は離れず縮まらず彼女は彼の恋人未満   鳥羽省三


(れい)
   浅田真央が「鐘」を響かせキムヨナの「ボンド・ガール」を撃つ日は明日(あした)

 着想は大変宜しいが、「キムヨナ」のプロ入りに伴って、その日は永久に訪れないことになりましょう。
  〔返〕 キムヨナの「ボンド・ガール」が一瞥すヤポン浅田のトリプルアクセル
      転んでも直ぐにまた起き浅田真央トリプレアクセル氷上の華   鳥羽省三 


(ぱぴこ)
   甘みから徐々にえぐみが滲み出て頬が引きつるガールズトーク
(佐倉さき)
   本当と嘘の境目もなくなった午前3時のガールズトーク

 これら二作品のうち、前者の作者は男性、後者の作者は女性と推定される。
 しかし、両者の内容は、期せずしてほとんど同一である。
 とすると、「ガールズトーク」の本質は、「甘みから徐々にえぐみが滲み出て頬が引きつる」ようなものであり、「本当と嘘の境目」も無くなってしまうようなもの、ということになりましょう。
 もしそうならば、フェミニストとしての私は、今日から一体何を信じて生きて行けばいいのだろうか分からなくなるのである。
  〔返〕 ガールらの醜さ酷さ見せられたこの世は何が真実だろう   鳥羽省三


(間宮彩音)
   日本語に訳せばただの友だちと思いたくないガールフレンド

 女性同士の親しい関係はただの「友だち」では無いですか?
 それなのに、「日本語に訳せばただの友だちと思いたくないガールフレンド」と言うのは、一体、女性である貴女は、同じように女性である「ガールフレンド」に、何を要求したいのですか?
 貴女と彼女の関係はどうならなければならないのですか?
 今の私には、疑問だらけです。
  〔返〕 男との関係ならばガールフレンドで女同士はただの友だち   鳥羽省三
コメント
この記事をはてなブックマークに追加