臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の朝日俳壇から(1月27日掲載・其のⅣ)

2014年01月30日 | 今週の朝日俳壇から
[長谷川櫂選]

(新発田市・高木たかし)
〇  雁の群なりその後もその後も


(川越市・渡邊隆)
〇  寒の水寸寸にして沸かしけり


(埼玉県伊奈町・前田昌則)
〇  電柱の鴉ざわめき寒に入る  


(佐賀県有田町・松尾鉄仙)
〇  新玉の一枚敷の年の雪


(奈良県田原本町・高尾山昭)
〇  寒紅をこぼすが如く笑ふ妻


(東京都・朝田冬舟)
〇  凍蝶の夢かうつつか知らで舞ふ


(新潟市・岩田桂)
〇  パソコンの太郎にも置き鏡餅


(福島県伊達市・佐藤茂)
〇  北極のドア閉め忘れ冬将軍


(東京都・鈴木淑枝)
〇  懐かしやまた懐かしと年賀来る


(大東市・谷口東香)
〇  逃亡者自首したくなる寒さかな
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今週の朝日歌壇から(1月27掲載・其のⅢ)

2014年01月29日 | 今週の朝日歌壇から
[馬場あき子選]

(石川県・瀧上裕幸)
〇  浦町の八隻の船走りだす雪嶺浮かぶ初漁の海


(笠間市・北沢錨)
〇  風評は風評として地力増す畑に今年も牛蒡を作る


(枚方市・小島節子)
〇  「もう少しひとりでいてね」亡き父につぶやき母の健康願う


(香取市・嶋田武夫)
〇  空き待ちの特養ホームへ漸くに入りし百歳の母の空き部屋


(佐世保市・近藤福代)
〇  死ぬ時は母に逢いたいと百壱歳の母が答える少女の目して


(八戸市・山村陽一)
〇  「海ゆかば」歌いてトーチカ造りたる笹子の山は松の風鳴る


(富山市・松田梨子)
〇  豪快にママが笑っているようないなり寿し三つ模試の弁当


(富士吉田市・田辺義樹)
〇  「日本の東京」という言い方とニュアンス違う「フランスのパリ」


(霧島市・久野茂樹)
〇  をちこちに尿する音聞こえたり三日振りなる放牧すれば


(川越市・小野長辰)
〇  川原の二頭の牛は寄り添つてをり整然と降る寒の雨


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今週の朝日歌壇から(1月27日掲載・其のⅡ)

2014年01月29日 | 今週の朝日歌壇から
[永田和宏選]

(京都市・村上清子)
〇  成立より記事減りきたる秘密保護法朝日歌壇に十二首並ぶ


(春日井市・伊東紀美子)
〇  言い遁れも拡大解釈する余地もたっぷり残して法案通る


(静岡市・篠原三郎)
〇  戦争はかかるプロセスとりながらくるものなのか昭和史おもう


(岸和田市・西野防人)
〇  年の瀬に戦死の叔父の墓参り靖国なんぞに居るはずもなく


(瀬戸内市・安良田梨湖)
〇  うん、うん、と君が聞いててくれるからとまる涙もとまらない夜


(広島市・熊谷純)
〇  ずっとひとりよりもはるかにさびしいよふたりで分けたりんごの残り


(横浜市・折津侑)
〇  雪明かり幽けき底いの池の鯉鰭を畳みて相寄り動かず


(名古屋市・松尾利男)
〇  米兵の靴磨いてた若者が今日矍鑠と米寿を祝ふ


(笛吹市・荻原忠敬)
〇  入会いの山に焚き木を採りし父その荷車の納屋に掛かれり


(仙台市・坂本捷子)
〇  まとめれば三段の重は一段になりて正月二日更けゆく

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今週の朝日歌壇から(1月20日掲載・其のⅣ・決定版)

2014年01月28日 | 今週の朝日歌壇から
[馬場あき子選]

(東京都・松浦のぶこ)
〇  ながき獄父の青春奪ひにし治安維持法ゆめに現はる

 掲歌の作者・松浦のぶこさんの御ブログ「松浦のぶこの家」に次のような記事が掲載されている。
 即ち「秘密保護法/正月二日に/わが夢に顕ちし亡父が法案を貪り読みけり暗き獄舎に/ながき獄に父の青春閉じこめし治安維持法ゆめに現はる/父は昭和初期に治安維持違反で合計7年を獄に送った。正月二日に見る夢は『まさゆめ』と言われるが・・」と。
 引用文中の先頭の「秘密保護法」とは二首連作のタイトルであり、次に置かれた「正月二日に」とは詞書であり、それに続く二首は「正月二日に当たって『秘密保護法』というタイトルで詠んだ作品」であり、その後の二文は、二首の作品を詠んだ感想(後書き)でありましょう。
 〔返〕  まさゆめにならぬやうにと禱るのみ治安維持法再来御免
 
       
(町田市・冨山俊朗)
〇  誰しもが黙し頷くひとときあり天皇陛下の「孤独」聴く時

,過ぎし平成二十五年十二月十八日は、今上天皇陛下の「満八十歳」のお誕生日であった。
 「傘寿」という、このお目出度き日を迎えるに当たって、今上天皇陛下は、畏れ多くも、宮殿・石橋の間に於いて行われた、「宮内記者会代表質問」のマイクの前にお立ちになられたのであるが、当ブログの宮内庁担当記者の鳥羽省三は、その全貌を当ブログ上にありの儘に転載させていただきますので、読者諸氏は、何卒ご一読なさって、掲歌鑑賞の一助になされたくお願い申し上げます。

 質問一「陛下は傘寿を迎えられ、平成の時代になってまもなく四半世紀が刻まれます。昭和の時代から平成の今までを顧みると、戦争とその後の復興、多くの災害や厳しい経済情勢などがあり、陛下ご自身の二度のの大きな手術もありました。八十年の道程を振り返って特に印象に残っている出来事や、傘寿を迎えられたご感想、そしてこれからの人生をどのように歩もうとされているのかお聞かせ下さい。」

 天皇陛下のお答「八十年の道程を振り返って、特に印象に残っている出来事という質問ですが、やはり最も印象に残っているのは先の戦争のことです。私が学齢に達した時には中国との戦争が始まっており、その翌年の十二月八日から、中国の他に新たに米国、英国、オランダとの戦争が始まりました。終戦を迎えたのは小学校の最後の年でした。この戦争による日本人の犠牲者は約310万人と言われています。前途に様々な夢を持って生きていた多くの人々が、若くして命を失ったことを思うと、本当に痛ましい限りです。戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って,今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し,かつ改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います。戦後60年を超す歳月を経、今日、日本には東日本大震災のような大きな災害に対しても、人と人との絆きずなを大切にし、冷静に事に対処し、復興に向かって尽力する人々が育っていることを、本当に心強く思っています。傘寿を迎える私が、これまでに日本を支え、今も各地で様々に我が国の向上、発展に尽くしている人々に日々感謝の気持ちを持って過ごせることを幸せなことと思っています。既に八十年の人生を歩み、これからの歩みという問いにやや戸惑っていますが、年齢による制約を受け入れつつ、できる限り役割を果たしていきたいと思っています。八十年にわたる私の人生には、昭和天皇を始めとし、多くの人々とのつながりや出会いがあり、直接間接に、様々な教えを受けました。宮内庁、皇宮警察という組織の世話にもなり、大勢の誠意ある人々がこれまで支えてくれたことに感謝しています。天皇という立場にあることは、孤独とも思えるものですが、私は結婚により、私が大切にしたいと思うものを共に大切に思ってくれる伴侶を得ました。皇后が常に私の立場を尊重しつつ寄り添ってくれたことに安らぎを覚え、これまで天皇の役割を果たそうと努力できたことを幸せだったと思っています。これからも日々国民の幸せを祈りつつ、努めていきたいと思います。」

 質問二「両陛下が長年続けられてきた『こどもの日』と『敬老の日』に因む施設訪問について、来年を最後に若い世代に譲られると宮内庁から発表がありました。こうした公務の引き継ぎは、天皇陛下と皇太子さまや秋篠宮さまとの定期的な話し合いも踏まえて検討されていることと思います。現在のご体調と、こうした公務の引き継ぎについてどのようにお考えかお聞かせ下さい。」

 天皇陛下のお答「『こどもの日』と『敬老の日』に因んで,平成四年から毎年、子どもや老人の施設を訪問してきましたが、再来年からこの施設訪問を若い世代に譲ることにしました。始めた当時は二人とも五十代でしたが、再来年になると、皇后も私も八十代になります。子どもとは余りに年齢差ができてしまいましたし、老人とはほぼ同年配になります。再来年になると皇太子は五十代半ばになり、私どもがこの施設訪問を始めた年代に近くなります。したがって再来年からは若い世代に譲ることが望ましいと考えたわけです。この引継ぎは体調とは関係ありません。負担の軽減に関する引継ぎについては、昨年の記者会見でお話ししたように、今のところしばらくはこのままでいきたいと思っています。」

 質問三「今年は五輪招致活動をめぐる動きなど皇室の活動と政治との関わりについての論議が多く見られましたが、陛下は皇室の立場と活動について、どのようにお考えかお聞かせ下さい。」

 天皇陛下のお答「日本国憲法には『天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。』と規定されています。この条項を遵守することを念頭において、私は天皇としての活動を律しています。しかし、質問にあった五輪招致活動のように、主旨がはっきりうたってあればともかく、問題によっては、国政に関与するのかどうか、判断の難しい場合もあります。そのような場合はできる限り客観的に、また法律的に、考えられる立場にある宮内庁長官や参与の意見を聴くことにしています。今度の場合、参与も宮内庁長官始め関係者も、この問題が国政に関与するかどうか一生懸命考えてくれました。今後とも憲法を遵守する立場に立って、事に当たっていくつもりです。」

 関連質問「質問させていただきます。先日、陛下は皇后さまとインドを訪問され、日印の友好親善を更に深められました。五十三年ぶりとなったインド公式訪問の御感想をお聞かせ願うとともに、国際友好親善に際して陛下が心掛けていらっしゃることについても併せてお聞かせ下さい。」

 天皇陛下のお答「この度のインドの訪問は、インドとの国交六十周年という節目の年に当たっておりましてインドを訪問したわけです。インドを初めて訪問しましたのは当時のプラサド大統領が日本を国賓として訪問されたことに対する答訪として、昭和天皇の名代として訪問したわけです。当時は、まだ国事行為の臨時代行に関する法律のない時代でしたから、私が天皇の名代として行くことになったわけです。当時のことを思い起こしますと、まだインドが独立して間もない頃、プラサド大統領は初代の大統領でしたし、これからの国造りに励んでいるところだったと思います。ラダクリシュナン副大統領は後に大統領になられました。それからネルー首相と、世界的に思想家としても知られた人たちでしたし、その時のインドの訪問は振り返っても意義あるものだったと思います。そして、私にはそれまでヨーロッパと中国の歴史などは割合に本を読んだりしていましたが、その間に横たわる地域の歴史というものは本も少なく、余り知られないことが多かったわけです。この訪問によって両地域の中間に当たる国々の歴史を知る機会に恵まれたと思います。今度のインドの訪問は、前の訪問の経験がありますので、ある程度、インドに対しては知識を持っていましたが、一方で、日本への関心など非常に関心や交流が深くなっているということを感じました。ネルー大学での日本語のディスカッションなど日本語だけで非常に立派なディスカッションだったように思います。また、公園で会ったインドの少年が、地域の環境問題を一生懸命に考えている姿も心に残るものでした。そういう面で,これからインドとの交流、また、インドそのものの発展というものに大きな期待が持たれるのではないかという感じを受けた旅でした。」

 上掲の今上天皇陛下のお答の中で、掲歌の作者が触れた部分、即ち「天皇陛下の『孤独』」に、直接関連するお言葉は、第一質問のお答の中の「天皇という立場にあることは、孤独とも思えるものですが、私は結婚により、私が大切にしたいと思うものを共に大切に思ってくれる伴侶を得ました。皇后が常に私の立場を尊重しつつ寄り添ってくれたことに安らぎを覚え、これまで天皇の役割を果たそうと努力できたことを幸せだったと思っています。これからも日々国民の幸せを祈りつつ、努めていきたいと思います。」という部分と判断されるのであるが、そのお答の内容からみても、「天皇自らが孤独を託つ状態に置かれている」などと誤解されるような内容では無かったように思われる。
 掲歌の作者・冨山俊朗さんは、如何なる根拠に基づいて「誰しもが黙し頷くひとときあり天皇陛下の『孤独』聴く時」などという、今上天皇陛下御自らが、秘して語らない事柄に触れたような作品をお詠みになったのでありましょうか?
 掲歌の作者・冨山俊朗さんは、今上天皇陛下のこの度の「宮内記者会代表質問」に於ける、極めて穏当なるお答のお言葉の中に、「自らが孤独に苦しんでいる」などとそれとなく語っているような要素を感得することが出来るような、特別な能力、即ち「超能力」を備えているのでありましょうか?
 〔返〕  御仲が羨ましきほど睦ましく孤独を覚ゆる可能性ゼロ


(名古屋市・諏訪兼位)
〇  外堀と内堀じんわり埋め立てられ仲井真城落つ琉球処分

 名古屋大学名誉教授ともあろう識者が、こんな馬鹿馬鹿しいことを言っては、子供にも笑われましょう。
 詳しくは、「高野公彦選」の四席を参照されたし。
 〔返〕  仲井真の巡らせし措置こそは真の意味の琉球処分


(横浜市・井村浩司)
〇  もはや戦後ではなく戦前ですか暗くて重い孤立への道

 昨年末の、安倍総理の靖国参拝などは、我が国への宣戦布告の絶好の口実になる怖れ無しとしませんから、今が「戦後」であるか「戦前」であるかの判断は別としても、決して油断してはいけません。
 〔返〕  人はみな孤独の道を歩むもの天皇陛下も例外で無し


(水戸市・檜山佳与子)
〇  ほつとしてしまつていいのかスポーツのコーナーとなるニュース番組

 なにしろNHKの「ラジオ深夜便」までが、「沙羅ちゃんがまた勝った、また負けた」などという、どうでもいいニュースを開口一番に伝える昨今のことでありますから、今や、テレビ(特に日本テレビとフジテレビ)の「ニュース番組」は、「スポーツのコーナー」となってしまったような感じなのかも知れません。
 〔返〕  ほっといていい訳は無し日テレとフジテレビなど視るもの阿呆


(佐世保市・近藤福代)
〇  このひとから生まれて老いてこのひとと同じ白さになりし髪梳く

 「永田和宏選」の七席を参照されたし。


(富山市・松田わこ)
〇  「ほっといて」と急に言い出すねえちゃんに「ほっとくよ」って返事するママ

 掲歌の題材となっている一件は、あのシベリアからの寒風吹き荒ぶ、北陸は富山県富山市にご在住の、短歌一家・松田家の長女の高校進学を巡っての、漫画にもならない母子喧嘩の顛末であり、この一件を裁くべき行司は、松田家の次女のわこちゃんである。
 行司と検査役との五者が一体となっての厳正なる審査の結果、意外なる判定の結果が下されました。
 「『ほっといて』と急に言い出すねえちゃん」対「『ほっとくよ』って返事するママ」の勝負は「ママ」の勝。
 短歌を詠ませたら大人顔負けの松田梨子さんも、短歌はからっきし駄目なくせして、老獪極まりない「ママ」には、所詮勝てっこ無いのである。
 〔返〕  「ほっといて」と口にはするも準備万端怠り無き松田梨子さん   
 

(富山市・松田梨子)
〇  受験生鏡も見るしとてつもない空想もするし恋だってする

 たかが田舎町の中学三年生のくせして、「受験生鏡も見るしとてつもない空想もするし恋だってする」とまで抜かすのは、あまりにも生意気ではありませんか!
 「恋だってする」などと脳天気なことを仰いますが、短歌などという碌でもないことに現を抜かしている生意気な女に、今どき声を掛けて来るような間抜けな男は、富山県中の高校を探しても何処にもおりませんよ!
 それに大学に入ってからの方が、尚一層難しくなります。
 まかり間違って「スケこまし」だらけの都の西北の大学に入ろうものなら、たちまち彼らハイエナの餌食にされてしまいましょう。
 少しもの足りなさは感じられましょうが、この際は上京などしないで富山大学に入りなさい。
 富山大学の薬学部にでも入って、卒業後は、越中富山の万金丹本舗の馬鹿息子のお嫁さんにでもなりなさいよ。
 〔返〕  鼻糞を丸めて造るが万金丹一錠飲めば万病に効く


(高松市・菰渕昭)
〇  ある人に真面目さ買われある人に固さ厭われぬ税理士われは

 「税理士」は脱税指南役ではありませんから、そうそう矢鱈に誰にでも好きになられるとは限りません。
 「ある人に真面目さ買われ」、「ある人に固さ厭われぬ」とていったところが「税理士」としては丁度いいところでありましょう。
 〔返〕  税務署に真面目さ買われ顧客には固さ嫌われた税理士彼は


(大月市・小林順子)
〇  おとうさん呼べは応える夫在りて生き合う日日の有難きかな

 どうぞ、ご勝手に御仲宜しくお暮しになり、偕老同穴の契りでも結んでいなさいよ!
 〔返〕  「おい、こら!」と呼べば持って来る妻在りて毎日五升の晩酌止めぬ
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今週の朝日歌壇から(1月20日掲載・其のⅢ・決定版)

2014年01月28日 | 今週の朝日歌壇から
[永田和宏選]

(東京都・野上卓)
〇  振り返り見ればあの日の立法が転換点だと分かる日がくる

 「短歌は機会詩である」とは、何方の言であったのでありましょうか?
 それはともかくとして、何方かが仰ってように「短歌」が「機会詩」であればこそ、彼の斎藤茂吉も亦、「幻の歌集『萬群』」所収の、数々の聖戦歌を詠んだのであり、其れと同時に、この度の自公連立政権に拠る「特定秘密保護法」の制定が、日本国憲法に因って私たち日本国民に保障された「信教の自由・表現の自由・報道の自由」が有名無実化される怖れが在る、と感じたからこそ、私の畏敬して止まない戯作者・野上卓さんが、「振り返り見ればあの日の立法が転換点だと分かる日がくる」との、「言挙げ」を敢えてなさったのでありましょう。
 読者の方々から誤解されないように、この際、殊更に断わって置きますが、私は何も、斎藤茂吉の『萬軍』に見られる聖戦歌と、上掲の野上卓さんの御作とを同一視している訳ではありません。
 そんな訳では、決して、決してありませんから、決して、決して誤解なさらないようにして下さい。
 「いくら軍部からの要請があったにしろ『萬軍』所収の聖戦歌を詠んだこと」が、自らの若気の至りであり、歌人としても人間としても、一世一代の不覚であったことを知覚し、人様の前に顔を出すことを深く恥じ入ったからこそ、斎藤茂吉の山形県の辺境・大石田での流謫生活が在ったのであり、この度の野上卓さんの慎ましやかな「言挙げ」が、誰に強制されての挙でも無く、誰に恥じるべき行いでも無いと信じればこそ、野上卓さんは、歌人として俳人として、これからも素晴らしい作品を私たち読者の前にご披歴なさることでありましょうし、野上卓さんのお書きになった戯曲は、これからも度々、劇団『櫂』の舞台で上演されて、多くの観客の方々から拍手喝采を浴びることにもなりましょう。
 ところで、それとは別に、昨今の「朝日歌壇」の最もトレンディーな題材は「特定秘密保護法」関連であることも無視してはなりません。
 ならばこそ、先週に続いて今週も亦、この題材に関連する作品が数多く投稿されたと推測され、その中の一部の作品(と言っても、十首余り)が入選作品として、私たち読者の前に姿を現しているのである。
 そうした現状を見渡した時、私は、「私の敬愛して止まない野上卓さんに、上掲の作品を詠んで欲しく無かったとの思い」を堪えることが出来ません。
 何故ならば、題材が題材であるから、野上卓さんの御作を含めた「特定秘密保護法」関連の作品は、どれもこれも、私の家の近所の南生田第三公園の橡の木の下に転がっている、団栗のように類似しているからであり、「発想も月並み、表現も月並み」と、評せざるを得ないからでもある。
 朝日新聞社が、社運を賭して「特定秘密保護法」制定に反対する立場を取り、永田和宏氏などの選者諸氏と一体となって「朝日歌壇」の掲載作品で以って世論誘導を図ろうとしている現状に於いては、「猫も杓子も特定秘密保護法関連の一首をものして、あわよくば、永田和宏選の首席にでも選ばれて、今生の思い出にしてみよう」と思ったりするのも当然のことでありましょう。
 しかしながら、それら「猫」や「杓子」に伍して、戯作者・野上卓さんが敢えて「言挙げ」をなさる必要は、さらさらにありません。
 この点に就いては、如何でありましょうか?
 (返)  おゆびもて撫づれば哀しき音立つる秦琴とふは愛しき楽器


(群馬県・小倉太郎)
〇  沈黙はそれだけで罪まつすぐに声上げざればいつか軍靴が

 前掲の野上卓さんの御作を含めて、「特定秘密保護法」関連の作品は、「あまりにもまつすぐに声上げ」しているが故に、かえって風刺が効いていない憾みがある。
 私も、小倉太郎さんや野上卓さんや大建雄志郎さんや伊東紀美子さんと同じような思いを抱いているだけに、ストレートに「特定秘密保護法撤廃・自公連立政権打倒」と叫びたくもなるのであるが、そうした点に於いては、よほど心して掛からなければなりません。
 〔返〕  沈黙はそれだけで罪それだけに絶叫ばかりが意志表示では無し
 

(横浜市・大建雄志郎)
〇  卓袱台を覆すがに靖国神社へ吃逆止まりてニュースに見入る

 「卓袱台を覆す」のは、横暴極まり無き昔気質の馬鹿親爺の遣らかす事でありましょう。
 馬鹿親爺の彼曰く、「べらんめー!男一匹、この横浜生れの勇み肌の大建雄志郎様が、野菜サラダ如きで酒が飲めるか、ってんだ!、魚屋はまだ店を閉めていねえだろう!閉めていねえんだったら、あの魚屋の太助の所に行って、鮪の上トロでも買って来い、ってんだ!なに、財布が空っけつだって!財布が空っけつだたっら、何処かに行って自分で稼いで来て、このご主人様に大間鮪の刺身でも食わせろ、ってんだ!、なに、お金を稼ぐ方法を知らない、ってのか!、お前にだって身体ぐらいはあるだろう!身体が有るんだったら、その身体で以って道端に立っていれば、今時、一万円や二万円ぐらいはたちどころに稼げるだろう!お前の身体が金にならないのなら、娘の菜奈を道端に立たせるぐらいの算段をしたらどうだ!菜奈の身体だったら、今時、十万円や二十万円ぐらいは一時間もあれば稼げるはずだろう!いつまでも、そんな所に突っ立っていないで早くしろ、ってんだ!」(なんちゃったりして)
 ところが、過日、畏くも靖国の御社参詣の夢を果たして得意満面の彼は、幸か不幸かそのような類の馬鹿親爺では無くて、首相の椅子に座っていられる間に、「行かぬが損」とばかりに世界各国、アフリカの果てまでも小まめにおみ足をお運びになり、さしたる収獲も無かったのに、いにしえの新橋の鴉森口の飲み屋の女将みたいな顔をした奥様の手を携えて、政府差し回しの特別機のタラップを意気揚々として降りて来るようなテイタラクのご仁なのである。
 したがって、先般の彼のご仁の靖国参拝を「卓袱台を覆すがに」と比喩するのは、あまり適切な比喩とは言えません。
 「卓袱台」は、彼の手に拠って突然覆されたのではありません。
 彼に覆させようとして、予め誰かが準備していた「卓袱台」を、予測通り、愚かな彼が覆してしまっただけのことでありましょう。
 〔返〕  本質を見失ってはいけませんオタマジャクシは蛙の仔なり


(春日井市・伊東紀美子)
〇  「聞く耳」は考える耳じっくりと人の意見を吟味する耳

 「『聞く耳』は考える耳じっくりと人の意見を吟味する耳」であれば、もの凄く宜しいのではありますが、三年奈ことに、現実の私たち日本国民の「耳」は、未だに「右の耳から入ってきた情報が、すぐさま、左の耳から抜けて行くような段階」にしか達していないのである。
 〔返〕  国民の耳は兎ちゃんの耳であり宰相の耳は福耳である


(浜松市・松井恵)
〇  かんたんにカラシニコフで殺せるとふ少年兵にまなざしの闇

 昨年の十二月二十三日、世界史上、最も大量に製造され拡散している小銃である「AK-47」(別名・カラシニコフ突撃銃)の設計者であり、第二次大戦後の旧ソ連を代表する銃器デザイナーであった「ミハイル・チモフェエヴィチ・カラシニコフ」氏が冥界に旅立たれました。
 掲歌は、いち速くその一件に着目し、それと新聞やテレビなどで報道されている南スーダンなどのアフリカの戦場の悲惨な状況とをミックスして詠んだ作品でありましょう。
 作者の松井恵さんは、掲歌の前半部を「かんたんにカラシニコフで殺せるとふ」とし、 後半部を「少年兵にまなざしの闇」としておられますが、これらの表現は、新聞やテレビなどの報道を根拠にして為されたのでありましょうか?
 それとも「さもありなむ」とする、歌人特有の独断的な憶測に拠って為されたのでありましょうか?
 「まなざしの闇」という表現に関連して一言すれば、「まなざしの闇」を備えた存在は、敢えて遠い異国の戦場の少年兵に止める必要は無く、先般、川崎市内で発生した「検事局からの婦女暴行事件の被疑者の逃亡事件」など、我が国内に於いても数限り無く類例を求めることが可能かと思われますが、その点に就いては、識者の方々のお考えのほどは如何でありましょうか?
 〔返〕  造作無く選者の心を射むなどと思ふ歌人のまなざしの闇


(アメリカ・郷隼人)
〇  新しき暦を壁に掛けながら終身刑の期限をおもう

 「佐佐木幸綱選」の五席を参照されたし。
 
 
 (佐世保市・近藤福代)
〇  このひとから生まれて老いてこのひとと同じ白さになりし髪梳く

 掲歌の作者・近藤福代さんは、一体全体、誰の「髪」を梳きながら、これ程までも深い感慨に耽っているのでありましょうか?
 このままの表現では、作中の「髪」が作者ご自身の「髪」ということになり、作者が自分自身の「髪」を梳いていることになり、その結果として、「このひとから生まれて老いてこのひとと同じ白さになりし」という措辞が、作者自身の「髪」の来歴を説明する為だけの句となってしまうのであり、余りにも無駄の多い表現のようにも思われるのである。
 「このひとから生まれて老いてこのひとと同じ白さになりし」とまで言いながら、終わり五音に「髪梳く」という、自分が自分自身の「髪」を梳いているのである事を述べて、私たち純情な読者に「どんでん返し」を喰らわすとは、あまりにもつれない仕打ちではありませんか!
 この際、掲歌の作者・近藤福代さんは、是非、是非、深く反省するべきでありましょう。
 その点に就いての作者及び世の識者の方々のご意見は如何でありましょうか?
 〔返〕  この母に産み落されてこの母と同じ白さの髪梳く吾よ


(茅ヶ崎市・臼井彗)
〇  もういいにまだよくないが含まれていびつになった感情ひとつ

 たわいない夫婦喧嘩の一場面に取材した作品でありましょうか?
 臼井彗さん曰く、「そんなにいつまでも泣いているなよ!、襖の陰から子供だって覗いているし!それに、私がさっきから謝っているんじゃないか!さっきから、謝って、謝って、謝り通しで、首が痛くなるほど誤ってるんじゃないか!一体全体、いつまで謝らせれば気が済むんだい!もう、いい加減に許してくれよ!どうかお願いだからさ!」
 臼井彗さんの奥様曰く、「もう、いいよ!もういいから、あっちに行っててよ!あんたのまずい顔など、これ以上見ていたくないからさ!」
 〔返〕  あっちとはこっちの意味であるかもね!かまわず寄って抱いたげなさい! 


(瀬戸内市・安良田梨湖)
〇  赤信号を見上げるふたりさよならと言えばさよならになりそうな夜

 「高野公彦選」の六席を参照されたし。


(さいたま市・佐々木遙)
〇  どうしてと君は呟く 標識の白い矢印ゆびさしながら

 作中の「君」の指差す「標識の白い矢印」の彼方に見えるのは、見沼田圃の湿地帯に土盛りして建てられた、モーテル「さぎ山」の色褪せたネオンサインであった。
 〔返〕  今さらにどしてもこしても無いだろう乳繰り合った仲では無いか 
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今週の朝日歌壇から(1月20日掲載・其のⅡ・決定版)

2014年01月27日 | 今週の朝日歌壇から
[高野公彦選]

(宇都宮市・鈴木孝男)
〇  大正は兵を生みたる時代かな無言館に並ぶ生年「大正」

 大正の末年、即ち「大正十五年」は「昭和元年」と重複し「1926年」であり、日米開戦の「昭和十六年」は「1941年」である。
 ということは、昭和元年以降に生れた者は日米開戦時に最高齢者でも十六歳であり、徴兵検査を受ける年齢に達していない、という事になる。
 したがって、掲歌に「大正は兵を生みたる時代かな」とあるのは極めて妥当な推測である。
 「無言館」に展示されている戦没画学生諸兄の遺作である絵画作品には、死没年齢や出身地・学校名などと共に出生年齢も示されているのでありましょう。
 〔返〕 蜂谷清・大正十二年三月二日生れ『祖母の像』を描きて出征


(志摩市・九鬼英夫)
〇  無謀なる戦起こした戦犯を英霊たちは赦すだろうか

 当然のこと乍ら、到底、赦し難いところではありましょうが、何ぶん「英霊たち」は話すことができません。
  〔返〕  無謀なる戦の先棒担ぎたる妖怪野郎の孫が総理だ


(調布市・横山圭子)
〇  亡くなった父のせいですしゃべらない人を選んだのは反動で

 「反動で」とは?
 何もかも他人の所為にしてはいけません!
 自分が好きで連れ添った男性ではありませんか!
 〔返〕  これからはコミニケ力が必要だ喋らぬ者は偉くなれない!  


(名古屋市・諏訪兼位)
〇  外堀と内堀じんわり埋め立てられ仲井真城落つ琉球処分

 『科学を短歌によむ』の著者らしからぬ作品である。
 現・沖縄県知事の仲井真弘多氏は、沖縄県出身者とは言え、元々、通産官僚であり、2006年の沖縄県知事選挙に際しては、自民・公明の推薦を受け出馬し、野党8党の推薦・支持を受けた糸数慶子氏を破り初当選したのであり、彼の支持基盤は沖縄に米軍基地を置くことを佳しとする保守層であり、彼の本質は、基地容認派である。
 したがって、「外堀と内堀じんわり埋め立てられ仲井真城落つ琉球処分」と詠むのは、物事の本質を見失った遣り方と判断しなければならないのである。
 言うなれば、「仲井真弘多知事は、当初からの予定通り、平和を願う沖縄県民を裏切るべくして裏切ったのである」としなければならないのである。
 〔返〕  内堀を埋められたるふりをして琉球処分を果たした仲井真
   

(島田市・水辺あお)
〇  例外に例外重ね気がつけば戦争放棄を放棄する朝

 今一つ文意不明瞭ながらも、題材が題材であるために入選した作品でありましょう。
 〔返〕  何をもて例外として何をもて例外で無しとするのか不明


(瀬戸内市・安良田梨湖)
〇  赤信号を見上げるふたりさよならと言えばさよならになりそうな夜

 「ふたり」の中のどちらか一人でも「さよなら」と口にすれば、それっきり二人の仲が永遠の「さよなら」になってしまうような局面は、よく在ることである。
 「赤信号」とは、停止を指示する信号である。
 掲歌に於ける「赤信号」は、「『ふたり』の惰性的な交際を停止せよ」と指示するものであったのかも知れません。
 〔返〕  「さよなら」と言ってしまえば済むことだ蛆が湧くよな交際止めよ  


(ホームレス・宇堂健吉)
〇  ひたすらに舗石の間をつつきゐる鳩にわが餌パンの耳を頒つ

 いくら「パンの耳」とは言え、自分の口を入れる食物を「餌」とまで言うとは、あまりにも投げ遣りな表現である。
 このような言い方は短歌表現の技法と言うよりも、世間一般の人々に対する「面当て」とでも言うべき言い方でありましょう。
 「朝日歌壇」は、決して江戸時代の浅草奥山の見世物小屋でも動物園でもありません。
 何を目的としているのかは分りませんませんが、殊更に自分を蔑むような作品を入選作としないようにして下さい。
 〔返〕  ホームレスを売り物にしてはいけません食う寝る所を正しく記せ
 

(市川市・米田絹子)
〇  教育は方法でなく愛だよと教育学者の君は語りき

 悟り澄ましたようなことを仰る「教育学者」ではある。
 大阪市長の某氏や元都知事の某氏に言わせると、掲歌中の「君」こそは、まさしく「曲学阿世の輩」でありましょう。
 〔返〕  某曰く「教育は一に投資なり政策であり洗脳である」


(東京都・浅田友子)
〇  ホームレス唄う演歌が身に沁みる師走の地下道凍てつく夜に

 「特定秘密保護法題材」と共に「ホームレス題材」も亦、「朝日歌壇」のトレンドである。
 「地下道」で「ホームレス」の方々が「演歌」を歌っているような光景は、私たち日本人にとって、決して自慢出来るようなものではありません。
 然るに、「昨年末の午後九時過ぎに横浜市関内の地下道を通ったら無数の段ボールハウスが在り、あたり一面に悪臭が漂っていたので恐ろしくなって慌てて地上に出た」との話を隣人の一人から聴きました。
 この話を私にしてくれた隣人は、格別にホームレスの方々を異端視したり、毛嫌いしたりしている方とは思われません。
 したがって、ごく普通の市民の方々のホームレスの方々に対する見方は、こうしたところなのかも知れません。
 掲歌の作者・浅田友子さんの生活感覚も亦、これと大差が無いのかも知れません。
 だとすれば、掲歌は風俗詠でありましょう。
 〔返〕  ホームレス流浪の民を装ひて夜の地下道で演歌唄へり  


(富山市・松田梨子)
〇  受験生鏡も見るしとてつもない空想もするし恋だってする

 「とてつもない空想もするし恋だってする」と、少しだけ拗ねてみた(と言うか、ママに甘えてみた、と言うか?)だけのことでありましょう。
 受験本番が近付くといろいろな訳の分らない事を言ったりし遣ったりして、両親や家族たちの関心を引こうとするのは、甘やかされて育てられた少女がよくすることである。
 でも、内申書に拠って予め結果がほぼ分っている高校受験などは「受験」とは言えません。
 掲歌の作者・松田梨子さんが、いわゆる「受験地獄」を経験するのはこれから三年後のことでありましょう。
 高校に入ったら、つまらない「空想」に耽ったり「恋」をしたりしないで、ひたむきに勉強しなければなりません。
 尤も、昨今の大学受験は、文章の読解力や作文力を重視する傾向にありますから、松田梨子さんにとっては、楽な受験生生活になるかも知れません。
 何はともあれ、ご家族の方々共々、油断すること無く頑張って下さい。
 〔返〕  模試近し!ママのつくった稲荷寿司たっぷり食べて頑張ってね!
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今週の朝日歌壇から(1月20日掲載・其のⅠ・決定版)

2014年01月25日 | 今週の朝日歌壇から
[佐佐木幸綱選]

(東京都・松浦のぶこ)
〇  ながき獄父の青春奪ひにし治安維持法ゆめに現はる

 「治安維持法」に違反したとの不当な理由で以って獄窓の中に繋がれ無念の思いをしながら亡くなった人々がどれだけの数に達していたのか?
 A級戦犯被疑者として逮捕され、お目溢しに与って不起訴扱いにされた「妖怪」の孫に当たる人物が、「国民の圧倒的な支持を得た!」と称して、大威張りで国政を牛耳っている我が国でありますから、これからも何が起こるか分りません?
 揭歌の作者・松浦のぶこさんの「ゆめ」が正夢にならないように、と禱るのみの今日である。
 〔返〕  「戦後レジームからの脱却」などと嘯きて何を遣らかすラッキーのパパ


(ホームレス・坪内政夫)
〇  原発で夢稼がんか誘いくる男の背中のるまあるらし

 「佐佐木幸綱選」の入選作品に相応しい一首と謂うべきでありましょう。
 五句目が「のるまあるらし」となっているが、「のるま」がカタカナ言葉の「ノルマ」の意である事は辛うじて分かるのであるが、「ノルマ」を担っている人物が、「原発で夢稼がん」と言ってホームレスの方々を騙す「男」なのか、騙されるホームレスの方々なのか、このままでは全く判りません。
 毎週、数千通にも達する投稿葉書の中からこうした意味不明の作品を記した葉書を選んで、入選作品とする選者は、私にとっては神様みたいな存在である。
 今週は、「ホームレス」を自称する人物の作品が二首も入選しているのであるが、掲歌は、「ホームレスを自称する人物の投稿した作品の題材が『原発』であれば、無条件で入選作品となるのであろうか?」などと、皮肉の一つも言ってみたくなるような駄作である。
 〔返〕  「原発で夢を稼げ!」と誘ひ来し男の背中の倶利伽羅紋紋


(釧路市・佐藤恵美子)
〇  音もなき白一色の果てに佇ち蝦夷鹿二頭海を見ており

 釧路市にご在住の女性の作品ならではの題材の作品ではある。
 作中の「蝦夷鹿」の視線の先にあるのは、氷り付くような太平洋の波間にジャンプする大間鮪の巨体でありましょうか?
 〔返〕  音もなく氷塊寄する知床の浜に佇み初日仰げり


(松戸市・猪野富子)
〇  マンタはたシロナガスグジラ・ジンベイザメ巨きものらはプランクトン食む

 「巨きものら」が大量に「プランクトン」を「食む」様が彷彿として来るような表現であるならばまだしも、このままでは「それがどうしたの?」と言わざるを得ません。
 〔返〕  臥牙丸に大砂嵐・碧山・モンゴル出身以外の力士


(アメリカ・郷隼人)
〇  新しき暦を壁に掛けながら終身刑の期限をおもう

 「終身刑」には「期限」が無いとは知りつつも、それでも尚且つ「終身刑の期限をおもう」のが、獄窓に在る者の儚い夢なのでありましょう。
 〔返〕  幾度も壁の暦を眺めむも終身刑に期限は在らず


(神戸市・高寺美穂子)
〇  老人ホームの職員吾子はギターと歌の練習に励む聖夜に向けて

 「しあわせを願う相手がいることがしあわせなのだと何度目の桜」という一首は、掲歌の作者・高寺美穂子さんの昨春の「朝日歌壇」の入選作である。
 あれから八箇月余りの月日が経過して、今また、高寺美穂子さんは、「勤務先での『聖夜に向けて』『ギターと歌の練習に励む』、『老人ホームの職員』の『吾子』に幸せ多かれ」と願っているのでありましょう。
 〔返〕  幸せを願う相手が居る限り高寺さんは幸せである


(岡谷市・岩田正恭)
〇  芸多き猫の動画を見せられてわが家の猫は逃げ出しにけり

 これは亦、「無芸大食の猫」ではある。
 そんな不心得の猫などは、さっさと皮を剥いで破れ三味線の修理の具にしてしまいなさいよ。
 〔返〕  ゲイだけのカラオケバーで唄ったら美川憲一と間違えられた


(西海市・前田一揆)
〇  芋版で刷りし賀状を出し合った小学校も廃校となる

 掲歌の作者・前田一揆がお住いの西海市は、「長崎県西彼杵半島の北部に位置する市である。平成の大合併でできた市である。2005年(平成17年)4月1日に、西彼杵郡北部の西海町、西彼町、大島町、崎戸町、大瀬戸町の計五町が合併して誕生したばかりのほやほやの市」である。
 私・鳥羽省三は、今から三十数年前に「天草の松島」見物に出掛けた序でに、合併前の町内を数時間散歩したことがありますが、その際に感じたのは、いかにも「地の果てまで来てしまった!」といった、もの寂しい印象でありました。
 小学校とて箱物の一つに他なりませんから、入る者が少なくなって採算が合わなくなれば「廃校」にするだけのことでありましょう。
 時の流れには何方も逆らえません。
 それに、今どき、「芋版で刷りし賀状を出し」合うような相手などは居りませんよ。
 パソコンが一台有れば万事こと足りる世の中になってしまったのですから。
 〔返〕  西海橋を渡れば佐世保 芋版の賀状交はせし友の住む町


(光市・山本幸晴)
〇  何人の命奪うか一万の銃弾が行く南スーダン

 「無償提供申し出るも、有難迷惑とばかりに返却せられたる一万発の小銃弾」とは、笑うに笑えない悲劇でありましょうか?
 それとも、伏して笑うべき喜劇でありましょうか?
 〔返〕  一人の命を奪うことも無く返却されたる銃弾喜劇

 
(島田市・水辺あお)
〇  みづからは使はぬ武器を輸出せり「死の商人」となりたる我ら

 平和憲法を廃棄して、私たち日本国民を戦場に駆り立てようとしているのは、アッキーのパパさんではありませんか!
 〔返〕  誰ゆへに死の商人となりたるか?自公連立政権倒せ!
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今週の朝日俳壇から(1月20日掲載・其のⅣ・決定版)

2014年01月25日 | 今週の朝日俳壇から
[金子兜太選]

(仙台市・小野英雄)
〇  寂寥も初日も海のひびきかな

 名詞としての「寂寥」は、「心が満ち足りない状態。もの寂しい状態」を指して謂うのである。 
 掲句の作者・小野英雄さんは、元旦に当たって、それと知りつつも「己が『寂寥』も平成二十六年の『初日』も、あの『海のひびき』と中から湧くようにして出て来るのだ」と、極めて悲観的な事を仰るのである。
 私たち人間は「海の彼方に憧憬心を抱いたり、新しい年に儚い期待感を覚えたりする存在」であるが、現実の海の彼方は、震災の犠牲者の哀しい屍が浮かんでいるだけであり、現実の新しい年は、消費税が八%になり、震災からの復興が遅遅として進まないだけのことなのである。
 ならば、掲句の作者が、初日の出と共に寂寥感を感じるのは当然のことでありましょう。
 それと解るような言葉こそ使ってはいないが、掲句も亦、大震災に痛み付けられた心の状態を詠んだ作品でありましょう。
 〔返〕  元朝や寂寥感が湧いて来る太平洋の海の底から


(神戸市・豊原清明)
〇  吾輩は欠け歯の揺らぎ雪達磨

 「歯」が「欠け」ていると身体のバランスが取れないのでありましょうか?
 豊原清明さんは、それ故に「雪達磨」の前に立つと身体が「揺ら」ぐのでありましょうか?
 金欠病で入れ歯を入れることさえも出来ない自分自身を卑下しつつも、「吾輩は欠け歯の揺らぎ」と高飛車に語り出したところに作者のユーモアセンスが感じられると共に、作者の庶民性が表現されているのである。
 〔返〕  吾輩の入れ歯も揺るぎ昨今は沢庵さえも噛むこと出来ぬ


(東京都・井原三郎)
〇  独り棲みことり米寿の初炊ぎ

 何となく小林一茶の境涯詠などをも思わせる佳作である。
 「ことり米寿の初炊ぎ」の「ことり」が、作者の井原三郎さんが大都会の片隅に逼塞している状態を具体的に表していて真に宜しい。
 〔返〕  ことりとも音も立てずに飯炊くか?隣りの爺は死んだかも知れず?   <注> 「そよりともせいで秋立つことかいの」(上島鬼貫作)


(松阪市・奥俊)
〇  元旦や光と結ぶ人の声

 「元旦」を迎えるに当たっての上昇志向の「人の声」が、地上に降り注ぐ朝日の「光」と直線的に結ばれている、ということでありましょうか?
 何はともあれ、「目出度し、目出度し」と言わなければなりません。
 〔返〕  階下より謹賀新年とふ声聞こゆ平成二十六年の朝



(横浜市・本多豊明)
〇  タクラマカンの確かなる夢冬深む

 「タクラマカン」と言えば、「中央アジアのタリム盆地の大部分を占める砂漠地帯であり、中国の新疆ウイグル自治区に属する」とか。
 したがって「タクラマカンの確かなる夢」とは、茫漠たるモノクロの夢でありましょう。
 それはどうでも宜しいが、あの茫漠としたタリム盆地の砂漠地帯まで米国製軍用ジープを丸パクリした某経済大国製の軍用ジープで運ばれて来て、たった一人で灰色の砂の上に追っ放されたとしたならば、背筋が寒くなるような思いをすることでありましょう。
 末尾に「冬深む」という五音を加えたのは、作者ご自身が抱いた、そういう思いを表現したかったからでありましょうか?
 〔返〕  茫漠とタクラマカンに分け行くもスタイン・ヘディンの轍を踏まざる
 

(三重県菰野町・八朔陽子)
〇  昨日まであの空白に銀杏あり

 「昨日まであの空白に銀杏あり」とは、木枯しが吹き過ぎた朝に、学童か誰かに銀杏の裸木を指差しして教えている図柄でありましょう。
 昨日の今日の事であるから、とても信じられない思いがする「空白」なのである。
 〔返〕  脱ぐことが春の急ぎであるならむ公孫樹裸木元朝に佇つ


(横浜市・日下野禎一)
〇  人日や人滅ぼすは人ならん

 朝日新聞の本日(1/24)付けの夕刊の第一面に、「首相、集団的自衛権に意欲」という大見出しの記事が掲載されている。
 作中の「人日」とは「七種粥を食べる日」即ち「旧暦の一月七日」のことであるが、「人日」はともかくとして、「人」を「滅ぼす」「人」とは我が国の総理大臣閣下でありましょうか?
 〔返〕  集団的自衛権とは美名にて憲法改悪の口実である


(鎌倉市・岩崎雅子)
〇  初日の出ひとときここにいるわれら

 「ひとときここにいるわれら」とは、悟り切ったような言い方ではあるが、その「ひととき」があまりにも長過ぎて、私たち高齢者は若者たちから迷惑がられているのである。
 〔返〕  ひと時がいつのまにやら七十年余り四年の春迎へたり


(横浜市・水原柏尾)
〇  何いはれても煤逃げでありにけり

 「何いはれても」「逃げでありにけり」とは、是も亦、悟り切った「煤」殿でありますことよ。
 言われてみれば、私なども、この世知辛い世の中に於いては「煤」みたいな存在である。
 「何いはれても」「逃げでありにけり」という手で行かなければなりません。
 〔返〕  何言われても吾逃げる所無し煤みたいに生きねばならぬ


(茨城県阿見町・鬼形のふゆき)
〇  皆が皆まねることから初詣

 今週の「[金子兜太選」は、後半になってから俄然盛り上がって来たのである。
 六首目の八朔さんの御作から始まって掲句に至るまで、大傑作揃いではありませんか。
 一体全体、どうしたことでありましょうか?
 「皆が皆まねることから」始まったのは、「初詣」然り、「七五三」然り、「クリスマス」然り、「お中元・お歳暮」然り、「ホテルでの結婚式」然り、「猫も杓子も大学進学」然り、「下手の横好き俳句に短歌」然りである。
 〔返〕  皆がみな姉妹みたいな顔をして整形大国某国タレント
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今週の朝日俳壇から(1月20日掲載・其のⅢ・決定版)

2014年01月24日 | 今週の朝日俳壇から
[稲畑汀子選]

(川西市・上村敏夫)
〇  生きてゐることの確かな寒さかな

 「寒さ」を感じるのも「生きてゐる」からこそのことでありますからね。
 〔返〕  生きていてたまに電話をすればいい三分喋ってたった八円
  

(松原市・加藤あや)
〇  吞む言葉一気に白き息となる

 「言葉を吞む」という言い方がある。
 「感動をしたり驚いたりして、或いは、相手の気持ちを慮って、言おうとしたことが言えなくなる現象」を指して言うのである。
 で、掲句の場合のそれは、いかなる事態に際してのそれでありましょうか?
 〔返〕  言葉吞み一瞬其処に立ち尽くす満天星の七夕の夜


(荒尾市・鶴田幾美)
〇  悩むことなけれど淋し十二月

 むかし流行った川柳で謂うところの「また一つ年取るわいのお正月」を控えているからでありましょう。
 四十の坂を越してしまうと、正月が来るのを恐ろしがっている人だっていますから、そういう人にとっての「十二月」は淋しいどころは恐怖の月でありましょう。
 〔返〕  日捲りも残り少なき極月は十二単衣を剥がるる思ひ


(高槻市・会田仁子)
〇  夕鶴は心淋しき人に舞ふ

 劇作家・木下順二氏らと共に「ぶどうの会」を結成した新劇女優の山本安英さんは、木下順二作の『夕鶴』を1949年から1986年までの37年間に1037回も公演したと言う。
 山本安英さんが『夕鶴』の舞台に乗ったのも、「心淋しき人のため」という、切ない思いからであったのでありましょうか?
 〔返〕  身を削り千羽織為す妻つうの心こころに酒飲む与ひよう  


(敦賀市・村中聖火)
〇  幾万羽限りなき空ありにけり

 作者が敦賀市にお住いであり、直前の句に鶴が登場したので、題材となっている鳥は「鶴」かとばかり思っていたのであるが、よくよく考えてみると、鶴が「幾万羽」も「空」を飛んでいるはずはありません。
 掲句中の「幾万羽」とは、恐らくは「ツグミ」或いは「ユリカモメ」の類の冬鳥の数でありましょう。
 〔返〕  爆弾を数限り無く落されし三月十日を我ら忘れず

  
(枚方市・石橋玲子)
〇  凩や心を楯にして歩く

 「心を楯に」で、ふと思い出したのであるが、そう言えば「楯の会」という勇ましい団体が在りました。
 例の「三島由紀夫切腹事件」の後、生き残りのメンバーは何処へ行ったのでありましょうか?
 〔返〕  御心に我が身捧げて逝きしとふ従兄壮太の思ひ哀しき


(芦屋市・酒井湧水)
〇  冬木の芽母娘揃ひのベレー帽

 私が子供の頃は、「ベレー帽」と言えば、売れない画家のトレードマークのようなものでありました。
 そう言えば、最近「ベレー帽」を被った人を見掛けなくなりましたが、芦屋市辺りのお金持ちの御嬢様は未だに「ベレー帽」を被っているのでありましょうか?
 だとしたら、そう易々とはナンパできませんね?
 だから、お金持ちの女性に限って独身のまま年老いてしまうのでありましょう。
 〔返〕  「八月の鯨」を見たか!潮吹いて、銛で傷付き、独り身なるぞ!


(神戸市・岸田健)
〇  世の喧騒知らず寝たきり去年今年

 「世の喧騒」と言えば、その代表的な存在は、NHK総合テレビで大晦日の夜に放映される「紅白歌合戦」である。
 「去年今年」を「寝たきり」で過ごしたとすれば、あの馬鹿馬鹿しい「世の喧騒」とは無縁で居られたはずである?
 頭は生きている中に使うもんですな!
 〔返〕  「後輩の為に身を退く!」などと言う?「卒業をした」ガキも居たとか?


(姫路市・中西あい)
〇  赴任地へ夫送り出て息白し

 たかだか梅田駅まで足を運んだだけで「赴任地へ夫送り出て」とは、よく言うもんだ!
 その上「息白し」とは、君は何様になったつもりなのかい!
 〔返〕  むかつくぜ!暇があったら働けよ!姫路嬢かも知んないけれど!(なんちゃって・笑)


(西宮市・近藤六健)
〇  日向ぼこ宇宙の中に僕は居る

 「日向ぼこ」をして「宇宙の中に僕は居る」と嘯く男も居る。
 でも、時代が時代だから「その意気や善し!」としなけれはなりません。
 これからも大いに頑張って下さい。
 〔返〕  地球とて星の一つに違いなし宇宙の中に居るのは真
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今週の朝日俳壇から(1月20日掲載・其のⅡ・決定版)

2014年01月24日 | 今週の朝日俳壇から
[大串章選]

(立川市・植苗子葉)
〇  木枯しや文庫に人吹き寄せつ

 「文庫」を「ふみくら」と訓ませている。
 「文庫」とは「図書館」の意で、「木枯し」の吹く頃になると立川市の人々は暖房費を節約するために市内の九箇所に在る市立図書館に集まるのでありましょうか?(笑)
 〔返〕  木枯しに吹き寄せられて吾も来つ柴崎図書館冬は天国  


(北海道鹿追町・高橋とも子)
〇  万両の売れて千両のみ残る

 「千両」と「万両」とは見掛けは似ているが、「千両」は「センリョウ科・センリョウ属」の常緑低木であり、「万両」は「ヤブコウジ科・ヤブコウジ属」の常緑低木である。
 「万両」が黒っぽい赤の果実を下向きに付けて生えているのに対して、「千両」は明るい赤の果実を上向きに付けて生えているので、縁起が良いという理由で以って正月花として売れるのは「千両」である。
 ところが、掲句には「万両の売れて千両のみ残る」とある。
 その理由は如何ならむ?
 〔返〕  「せんりょう」と聴けば原発思はるる今年の正月「千両」売れぬ


(松山市・福山みどり)
〇  自動車に枯蔦絡む空家かな

 昔物語に登場する「荒ら家」を今に描いたような一句である。
 〔返〕  枯れ蔦の車輪に絡み急停車むかし通ひし荒ら家の塀


(山形県河北町・小山田恒吉)
〇  白鳥の骨まで鳴らし飛び立てり

 掲句の作者・小山田恒吉さんがお住いの山形県河北町は、かつては古代の氏族・大江氏の流れを汲む土豪・白鳥氏の居城が置かれた土地であり、江戸時代は最上川舟運の船着場として栄えた町であるが、その反面、我が国有数の豪雪地帯でもある。
 「白鳥の骨まで骨まで鳴らし飛び立てり」とは、如何にも、寒風吹き荒ぶ最上川流域の町に相応しい風景描写である。
 〔返〕 きこきこと鳴きつつ渡る白鳥の姿見えずて声のみ聞こゆ


(羽生市・小川正志)
〇  初日の出病みし心に子犬抱く

 「病みし心に子犬抱く」とは、真に痛々しい。
 抱かれた「子犬」が「病みし心」を癒やしてくれるのでありましょうか。
 〔返〕  子犬抱き眺むる初日さむざむし『田舎教師』の春の侘しさ
 島崎藤村と共に我が国の自然主義文学の開拓者として知られている作家・田山花袋の代表作品の一つである『田舎教師』は、掲句の作者・小川正志さんがお住いの羽生市を舞台として展開される小説である。


(立川市・越智麦州)
〇  輪飾りの藁の匂ひを飾りけり
 
 作中の「輪飾り」は、掲句の作者・越智麦州さんの手造りの「輪飾り」でありましょう。
 〔返〕  輪飾りの藁の匂ひもただよひて平成二十六年の春


(いわき市・馬目空)
〇  冬の蠅天井ばかり飛んでをり

 梶井基次郎作の短編小説『冬の蠅』に、「私は開け放った窓のなかで半裸体の身体を晒さらしながら、そうした内湾のように賑やかな溪の空を眺めている。すると彼らがやって来るのである。彼らのやって来るのは私の部屋の天井からである。日蔭ではよぼよぼとしている彼らは日なたのなかへ下りて来るやよみがえったように活気づく。私の脛へひやりととまったり、両脚を挙げて腋の下を掻くような模ねをしたり手を摩りあわせたり、かと思うと弱よわしく飛び立っては絡み合ったりするのである。そうした彼らを見ていると彼らがどんなに日光を恰しんでいるかが憐れなほど理解される。とにかく彼らが嬉戯するような表情をするのは日なたのなかばかりである。それに彼らは窓が明いている間は日なたのなかから一歩も出ようとはしない。日が翳るまで、移ってゆく日なたのなかで遊んでいるのである。虻や蜂があんなにも溌剌と飛び廻っている外気のなかへも決して飛び立とうとはせず、なぜか病人である私を模ねている。しかしなんという『生きんとする意志』であろう! 彼らは日光のなかでは交尾することを忘れない。おそらく枯死からはそう遠くない彼らが!」とある。
 肺結核のためにわずか三十一歳という若さで亡くなった梶井基次郎が、自らの代表作品で描いている通り、「冬の蠅」は、「天井」の辺りを飛んでいるのであるが、それでも尚且つ「彼らは日光のなかでは交尾することを忘れない」のである。
 〔返〕  憐れみを乞ふが如くに手を擦り日向で遊ぶ寒中の蠅


(仙台市・松岡三男)
〇  雪降りてこの町好きになりにけり

 「雪」が降ると言っても程度問題であり、仙台に降る程度の「雪」ならば、「雪降りてこの町好きになりにけり」などと寝惚けたことも言っていられましょうが、一山越えて秋田県側か山形県側に行ってみなさいよ!
 十二月の半ばから二月の末まで、毎朝起きてみると家の前に雪が山と積まれているんですよ!
 雪の無い国に家ごと引っ越したくなりますよ!
 〔返〕  広瀬川流れる岸辺 想い出も俵万智も帰らざる仙台


(名古屋市・富山貴政)
〇  被災地に歌う第九やクリスマス

 「被災地」と「第九」と「クリスマス」との揃い踏み。
 その昔に見た東映映画の『忠臣蔵』を思い出してしまいました。
 〔返〕  右太衛門・千恵蔵・橋蔵・錦之助・美空ひばりに大川恵子


(八王子市・大串若竹)
〇  面白き形の大根引きにけり

 「面白き形の大根」とは、淫猥な形をした「二股大根」のことでありましょうか?
 〔返〕  二股の大根一本盆に乗せお大黒様に捧げる祭
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今週の朝日俳壇から(1月20日掲載・其のⅠ・決定版)

2014年01月24日 | 今週の朝日俳壇から
[長谷川櫂選]

(三郷市・岡崎正宏)
〇  初旅や天地に一句届けたく

 「初旅」がお伊勢様への吟行になったのでありましょうか?
 だとしたら、その帰路の古市辺りの茶屋遊びがお楽しみでありましょう。
 三味線太鼓を景気良くじゃがすか鳴らして「伊勢音頭」でも遣らかすのでありましょうか?
 〔返〕  「そーれ♪伊勢は津で持つ津は伊勢で持つ♪芸者遊びの金は儂持つ♪」


(群馬県東吾妻町・酒井せつ子)
〇  山姥の如き態して大掃除

 「山姥の如き態して」とは、また、大仰に構えたものである。
 「師走の煤払いが原因となって、せっかく貰った息子の嫁さんに逃げられた」という話も聴いておりますから、あんまり働き過ぎてお嫁さんに嫌われないようにして下さい。
 「北関東地方の旧家の姑さんはあまりにも躾が厳しくて、婆抜きの男にしか娘を嫁にやらない」とは、世間の専らの噂なのである。
 〔返〕  山姥のごとき顔して八木節を踊る阿呆の姑われは


(新潟市・岩田桂)
〇  花嫁の来て村ぢゆうの春動く

 米どころ新潟の農家ともなれば、嫁の来手が皆無なのかも知れません。
 人間、誰しも最初から苦労すると分かっている農家の嫁にはなりたくないものでありましょうから。
 それなのに、農家の跡取り息子のところに、ほとんど数十年振りに「花嫁」が来たもんだがら、チュウリップの花が一斉に咲き出したのでありましょうか?
 〔返〕  越後へと米搗きに行く嫁も在り今の世の中とんと解らぬ  


(横浜市・込宮正一)
〇  草餅の正にその色そのかをり

 横浜界隈で道端に生えている蓬の殆どは、散歩する犬のオシッコ塗れである。
 それにも関わらず、「草餅の正にその色そのかをり」とは、何という言い条でありましょうか?
 そんな犬の小便臭い「草餅」は誰も食いませんから、どうぞ、食いたいだけ食って下さい。
 お願いします。
 〔返〕  草餅のオシッコ臭いその香り誰も喰わねがら全部喰ってけろ


(三重県南伊勢町・西村栄夫)
〇  命綱つけて客車の雪卸

 「客車」の屋根のサイズは、「全長は8.19m、幅は2.54m」ということでありますから、まかり間違って雪でも降ろうものなら、「命綱」を「つけて」「雪卸」をしなければならないことにもなりましょう。
 作者の西村栄夫さんは、三重県南伊勢町にお住いの方である。
 南伊勢町では、三年に一度ぐらいしか雪が積もることが無いから、「命綱つけて」の「客車の雪卸」風景は、とても珍しかったのでありましょう。
 掲句は、名詞三語と動詞一語を「て」及び「の」という二つの助詞で接続しただけの、極めて単純な構成の句である。
 その極めて単純な構成の一句の中に、「世にも珍しきものを目にした!」という、作者の驚きの気持ちが余すところ無く示されているのである。
 〔返〕  アイガーの北壁に登る覚悟にて御料列車の雪卸しせむ


(前橋市・萩原葉月)
〇  大寒の柴犬球となり眠る

 「猫はこたつで丸くなる」とは言いますが、「柴犬は大寒に球となる」とは言いません。
 でも、「大寒」ともなれば、しかも空っ風の吹く上州の「大寒」ともなれば、「柴犬」が犬舎の中で「球」となって眠っていたとしても、どちらからも文句が出る筋合いではない、のかも知れません。
 〔返〕  柴犬の犬舎の中で眠るのみ赤城颪の吹くが厳しく


(昭島市・大橋眞一)
〇  ゆずのゆにしづめばゆずのささやきぬ

 年に一度の柚子湯の中にどっぷりと我が身を沈めた時の安堵感と爽快感が、ひらがな書きの十七文字の中に余すところ無く表現されているのである。 
 蛇足ながら、掲句の作者は、「ゆずが柚子湯の中で囁く声は、『ゆず、ゆず、ゆず、ゆず、ゆず』と聴こえる」ことをご存じなのでありましょうか?
 〔返〕  ひたすらに「柚子、柚子、柚子」とささやきて柚子湯の中で抱き締めをり


(高岡市・池田典恵)
〇  生きてゐる火がひとつある氷点下
 
 寒暖計が「氷点下」を示している真夜中に、向い家の窓が一つ、ぽつんと灯っているのである。
 間も無くに迫っている「国立大学二次試験」の難行を克服せんとして、池田典子さんという女子高生が一人、試験勉強に熱中しているのである。
 彼女こそは、正しく、今、確かに「生きてゐる」のであり、あの灯りこそは命のともし火なのである。
 〔返〕  生きてゐる証しとしてのともし火を点し続けて行かむや吾も


(北杜市・北村和利)
〇  明星を一つ残して年新た

 東の空に、明けの明星、即ち金星が未だ輝いていて、その向こう側の山際に朝日が昇る気配が感じられ、やがて、東の山の稜線が赤く染まり始めた。
 即ち、平成二十六年の朝明けなのである。
 〔返〕  金星を一つ点して山焼けぬ平成二十六年の朝


(牛久市・長谷和江)
〇  賀状書く一枚一枚立ち止まり

 一枚、一枚と、宛先として手書きされた所番地にお住いの方との思い出に浸りながらも、日本郵政株式会社が定めた期日まで投函しようとして、頑張って居られるのでありましょうか?
 私は、正月二日の夕方に新百合ヶ丘駅前のイオンに買い物に出掛けましたが、その時、ふと目に着いて光景でありますが、駅前のバスロータリーの片隅に居て、二人の少女が何かを商っている様子で、折からの寒風の中で、しきりに売り声を張り上げているのでありました。
 それらの少女は、他ならぬ郵便局の臨時職員でありました。
 寒風吹き荒ぶ中での、「年賀葉書要りませんか!新年のご挨拶は年賀葉書でどうぞ!」という、あの少女たちの悲しげな呼び声は、未だに私の記憶の底に残っているのである。
 〔返〕  賀状読む一枚一枚立ち止まり私の方から出さなくなった
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「井原茂明氏の『読売歌壇』の入選歌」に就いて(其のⅡ)

2014年01月23日 | ビーズのつぶやき
〇  バレルとふ単位をつかひナノといふ単位つかひて職を退きたり  市原市・井原茂明

〇  パトカーが塀に隠れてじつと待つ対向車線に兎出ぬかと     市原市・井原茂明

 ブログ「天童の家」の記事に拠ると、「掲歌は、どちらも読売歌壇入選歌である。『単位』の歌は、1月13日に俵万智選で、『パトカー』は、20日に小池光選」とか。
 この二首の短歌の創作意図と解釈を巡って、件のブログの管理者・今野幸生さんと作者・井原茂明さんとの間に二通の私信(恐らくは、メール)が交わされ(と推測され)、その展開の大概を今野さんが「暗喩」というタイトルでブログ上に公開したところ、今野さんのブログ上の親友・ころさんと時田幻椏さんがコメントを寄せられ、それに対して今野さんや井原さんが応えるなど、上掲二首の短歌の中の、特に二首目(バトカーの歌)の短歌の解釈や創作意図や寓意を巡って、真に興味深い展開が見られたのである。
 読売歌壇にしろ朝日歌壇にしろ、新聞歌壇に掲載される短歌は、もともと「投稿」という形の「裸身・無防備」のままで投企されるのであり、その「裸身・無防備のままで投企された短歌」に、一定の意味を見い出し、普遍的な価値を認めた場合、それぞれの新聞歌壇の選者は、件の作品を「入選作」として紙面に掲載するのである。
 この場合、特に注意しなければならないのは、「入選作として新聞歌壇に掲載された作品も亦、選者に拠る寸評以外は、ほとんど裸身・無防備のままで読者の前に投企されている」という事実である。
 したがって、「〇〇歌壇の入選作」という名の短歌作品は、ただ単に新聞歌壇の中に「三十一音分のスペースを占めている」だけでは、「何らの社会的な意義を有していない」のである。
 その段階に於ける彼ら・入選作品の存在は、人間の踏み跡の無い密林の奥に咲いている幻の花と同等な存在でしかないのである。
 語句を替えて説明すれば、「読者の目に入る前の段階に於ける彼ら・入選作品の存在」は、「吉原遊郭の格子窓の奥にちょこんと座って居て、助平な男どもの訪れを今か今かとひたすらに待ち焦がれている、容貌の悪い年増花魁と同等の価値しか持たない存在」なのである。
 彼ら、新聞歌壇の入選作品が、社会的な意義を備えた作品に変化するのは、一人の読者の目に留まって、一人の読者の心に何がしかの感動を与えた瞬間である。
 一人の読者の目に留まって、一人の読者の心に感動を与えたとすれば、彼ら、入選作品は、一人分の社会的な意義を持ったという事になるのであり、二人の読者の目に留まって、二人の読者の心に感動を与えたとすれば、彼ら、入選作品は、二人分の社会的な意義を持ったという事になるのであり、彼らが、百万人の読者の目に留まって、百万人の読者の心に感動を与えたとすれば、彼ら、新聞歌壇の入選作品は、百万人分の社会的な意義を持ったのという事になるのでありましょう。
 仮に、「一首の短歌が、百万人の読者の目に留まって、百万人の読者の心に感動を与え、百万人分の社会的な意義を持った」とするならば、それは、社会的な一大事件であり、その作品の作者にとっては、「人間として生まれて、栄誉この上無し」といった事にもなりましょう。
 然るに、現実の世の中はそんなに甘くはありません。
 何故ならば、「読売新聞、一千万人の読者の中で、毎週月曜日の朝刊に掲載される読売歌壇の入選作品を読むことを人生の楽しみの一つとしている者は、数万人単位でしかないこと」は、夙に読売新聞社に拠る調査統計に拠って証明されているからである。
 長々と駄弁を弄して来ましたが、私の言いたい事の要旨は「一首の短歌が作者以外の誰かに拠って読まれ、読んだ者の心中に何がしかの印象を齎すことは、奇跡的と言ってもいい出来事である」ということである。
 而して、千葉県市原市にご在住の歌人・井原茂明さんが、過日、読売歌壇に投稿した二首の短歌は、見事に二人の選者のハートを射止めて「読売歌壇」に掲載される運びとなり、その結果として、ブログ「天童の家」の記事として公開されて、ブログの管理者「今野幸生さん」と「ころさん」と「時田幻椏さん」と四人、否、私・鳥羽省三をも加えて、少なくとも五人の読者を得たことになるのであり、先ずは以って、「目出度し、目出度し」としなければなりません。
 就きましては、ブログ「天童の家」に掲載されている記事及びコメントに拠って、上掲二首の短歌の解釈を巡って展開された問答の跡を追いながら、それに就いての私の意見なども述べさせていただきたく存じます。

 最初に転載させていただくのは、上掲二首の短歌の解釈に就いて、今野さんが井原さん宛てに私信(メール?)を発信された際の、今野さんへの井原さんの返信(メール?)である。

 井原さん曰く、「今野さん、ありがとうございます。/原油を処理精製するに当っては、バ-レル(バレル)という単位を使っていました。/今はバ-レルではなくキロ・リットルが使われていますが・・・また私が関わった有機ルミネセンス(テレビなどの発光色素)の取り扱いに当っては、ナノという単位を使っていました。/短歌はいろいろなジャンルから詠めますが、この一首は人生詠として携わった業務を具体的に単位という形で表白した点が評価されたのではないでしょうか。/単純・平明が短歌のいのちです。/(いささか自画自賛ぽくなりました・・・)/井原茂明」と。

 これに対して、今野さんは、ブログ上で件の返信を引用した上で井原さんに対する御礼の言葉と、件の返信に拠って解明された事柄に就いての感想などを、次のように記している。

 今野さん曰く、「掲歌は、どちらも読売歌壇入選歌である。/『単位』の歌は、1月13日に俵万智選で、『パトカー』は20日に小池光選の歌。/続けての入選は、なかなか難しい。なのに井原さんは毎週のように掲載されるから(凄いなぁ)と思う。/(中略)/作者の声を、このような形できけるのは、貴重なことで嬉しい。とても勉強になる。/次は、私の愚鈍さを如実に語る裏話......」と。

 今野さんがブログ上で記した記事は、まだまだ続くのであるが、それはひとまず擱いて、次に記すのは、これらの問答のある段階で、今野さん宛てに寄せられた井原さんの私信(メール?)である。

 井原さん曰く、「今野さん/『兎』は暗喩ですが、ちょっとしたあそび心です。/井原」と。

 次に引用するのは、前掲の今野さんのブログ上の記事の「次は、私の愚鈍さを如実に語る裏話......」以下に記載された記事である。

 今野さん曰く、「兎はスピ-ド違反の車/あぁ、そうなのですかぁ/そうとは知らず、そのまま兎と読んでしまいました/気が回らない兎です(笑)/それがし卯年生まれですから(爆笑)/今野拝/暗喩とは分からずに、兎そのものを待っていると読んだ。/パトカーが狙っているのは、違反車。と誰しもが思う。/ところが、作者は上手にはぐらかして『兎』だと言う。/読者の思い込みをウッチャリでかわす。/いわゆる『どんでん返し』が(手だったなぁ)と読んで、さすがと思ったのである。/と、ところが、そういう外道の手ではなく、奥ゆかしい暗喩!/それを知り、いまさらながら自分の愚鈍さを痛切に恥ずかしく思った次第である。/作者との交流があるからこそ、こういうことが明らかになる。/ボタンの掛け違いがあったり、笑いない誤解がわかったり....../でも、自分の愚かさを識ることが出来るのは、わるいことではないと心底思う。/
井原さん、ありがとうございます」と。

 上掲の四項目の記事は、いずれも、ブログ「天童の家」に記事として公開された事項を、無断転載させていただいたものでありますので、この場を借りて、無断転載に就いて、井原さん及び今野さんにお侘び申し上げます。

 話題は此処に至って、前掲の井原さんの御作中の二首目の短歌、即ち「パトカーの歌」に限定されたような感じである。
 以下の引用記事は、「パトカーの歌」の記事の解釈や創作意図を巡っての、ブログ「天童の家」に寄せられた「コメント」である。
 これらのコメントも亦、発信者の方々の許可を得ずに無断転載させていただきますので、関係者の皆様は、何卒、宜しくご許容下さい。

 ころさん曰く、「いわゆる『ねずみ取り』ですね。/ウサギと言うのはおしゃれですね。」と。

 今野さん曰く、「ころさん、コメントありがとうございます/ふ~む、いわゆる『ネズミ捕り』を肯定できません(したくない!)/もっと正々堂々と、正攻法でやるべき(笑)/結局、ウサギは、カメに負けてしまう/あの話を思い浮かべます」と。

 幻椏さん曰く、「羨ましい限りです。/井原様との御関係、羨ましい限りです。今野さんの御力ですね。/読売新聞を取っていないので、知る術を知らずにおりました。/実は、朝日歌壇も読んでいないのです。私は、基本的に自己主張の出来る短歌に向いていると思っておりますので、7・7のある短歌を読むと俳句が詠めなくなる事を思っております。/今野さんの御力と我が非力を思い知らされます。」と。

 井原さん曰く、「今野さん、こちらこそありがとうございます。/読売、朝日、毎日・・・ には毎週、歌壇・俳壇の欄がありますが、読んでいる人は一割程度かなと推測しています。/しかし、投稿という形で発表する機会が与えられていることは喜ばしいことです。/所属している結社誌の選をさせてもらっていますが、投稿はそのための勉強の場でもあります。(真剣勝負)」と。

 今野さん曰く、「時田さん・井原さん、ご両人さんは、優れた俳句・短歌 詠み人/こうした交流ができること、とても嬉しく、ありがたく思います/今後ともどうかよろしくお願いします/真剣勝負の生き方が羨ましく思います/ありがとうございます」と。

 而して、井原さんの御作・二首は、今野さん以下三氏の胸中に何がしかの印象を齎すことになり、それと同時に、この二首の歌に込められた、作者・井原さんの創作意図及び社会的な意義が明らかになろうとしているのである。
 然しながら、短歌の解釈を趣味としている私・鳥羽省三としては、井原さんの御作・二首中の「パトカーの歌」の解釈及び寓意に就いて、一言、二言、申し述べたい事がありますので、以下の通り、少しだけ恰好付けて記載させていただきます。

〇  パトカーが塀に隠れてじつと待つ対向車線に兎出ぬかと     市原市・井原茂明

 掲歌は、隣国・震旦の『韓非子』中の「守株待兔」から取材した寓喩歌であり、「ネズミ捕り」に明け暮れる無能な警察官の所業を風刺した風諭歌なのである。
 したがって、作中の「兎」とは、「道路交通法に拠って、取り締まり・検挙」の対象となる「スピード違反を犯した運転者」の暗喩である。
 然しながら、寓話とは「常に子供に説き聞かせる事を本質とする物語」であるから、最初から「兎=スピード違反を犯した運転者」などと解っていて鑑賞していたならば、面白くも可笑しくもありません。
 と言う訳で、前述の「パトカーの歌」の解釈を巡っての「事の展開」の中で、私が特に留意したいのは、ブログ中の今野さんの記事の中の「暗喩とは分からずに、兎そのものを待っていると読んだ」という件りである。
 掲歌に限らず、暗喩を用いた文芸作品の中の暗喩を用いての表現の部分は、最初から「暗喩だろう。したがって、兎とは『交通違反キップを切られる馬鹿者』の意味だろう」などと、独り決めして掛からずに、先ずは騙されて(或いは、騙されたふりして)、「怠け者の警察官の乗ったパトカーが塀の蔭に隠れて、対向車線の方から兎が出てこないか、と、先程からじっと待ち焦がれているのである」と、解釈することが必要なのであり、その次の段階として、作中の「兎」が、何かの「暗喩」であることに気付き(或いは、気付いたふりして)、暗喩の対象が「交通違反キップを切られる横着な運転者」である、と認識することが大切なのである。
 作中の「兎」を、本物の「兎」として捉える段階から、「交通違反キップを切られる横着な運転者」として捉えるまでの時間の長短は、読む者に拠って異なり、ある者にとっては、ほんの一瞬、ある者にとっては、一時間以上ということも有り得ましょう。
 だが、この場合の時間の長短は、敢えて問題にするには当たりません。
 とにもかくにも、短歌作品を含めた寓話の類の解釈は、かくの如き正しい手順に従って解釈が為されなければならないのである。
 したがって、ブログ「天童の家」の記事は「私の愚鈍さを如実に語る裏話」では無く、「今野さんの短歌解釈の正当性を如実に証明する裏話」に他ならないのである。
 もう一点、付け加えさせていただきますと、作者の井原さんが遭遇された現実の出来事とは別に、掲歌の取材源の一つとなった「『韓非子』中の“守株待兔”」とは、我が国に輸入されて「北原白秋作詞・山田耕筰作曲」の小学唱歌となった、例の『待ちぼうけ』の話である。
 この点に就いては、今野さんたちの話題にも出ませんでしたし、作者の井原さんも明らかにしませんでしたが、ご自覚なさっていると否とに関わらず、作者・井原さんの脳裏には「待ちぼうけ」の寓話が在り、掲歌は、「物陰に隠れていて、退屈任せに、かつ点数稼ぎにネズミ捕りを事とする、千葉県警の無能な警察官の所業を風刺する歌」としての役割も備えているのである。
 終りに、小学唱歌『待ちぼうけ』の歌詞を、以下の通り記載させていただきますから、井原さんの御作の鑑賞に際しては、拙記事の読者の方々は、何卒、件の小学唱歌に託された寓意なども考えてみて下さい。

(1)
 待ちぼうけ、待ちぼうけ
 ある日せっせと、野良稼ぎ
 そこに兔がとんで出て
 ころりころげた 木のねっこ
(2)
 待ちぼうけ、待ちぼうけ
 しめた。これから寝て待とうか
 待てば獲物が驅けてくる
 兔ぶつかれ、木のねっこ
(3)
 待ちぼうけ、待ちぼうけ
 昨日鍬取り、畑仕事
 今日は頬づゑ、日向ぼこ
 うまい切り株、木のねっこ
(4)
 待ちぼうけ、待ちぼうけ
 今日は今日はで待ちぼうけ
 明日は明日はで森のそと
 兔待ち待ち、木のねっこ
(5)
 待ちぼうけ、待ちぼうけ
 もとは涼しい黍畑
 いまは荒野の箒草
 寒い北風木のねっこ

 追伸
 是までに私は、掲歌の作者・井原茂明さん及び、ブログ「天童の家」の管理者・今野幸生さんに追従するが如き言葉のみを書き連ねて来ましたが、以下の文章に於いて、「パトカーの歌」の表現上の難点を、一点のみ指摘させていただきます。
 それと謂うのは、掲歌の下の句が「対向車線に兎出ぬかと」となっていることである。
 作中の「兎」が、「交通違反キップを切るべき横着な運転者」であるとするならば、そのような運転者は「対向車線」にのみ現れるのでありましょうか?
 或いは、「パトカー」が「隠れて」いる側の車線に現れても、その場合は捕まえたり、交通違反キップを切ったりすることが無いのでありましょうか?
 その点に就いては、全く納得が行きません。
 思うに、作者の井原さんが掲歌の下の句に「対向車線に」という語句を置いたのは、他に適当な語句が思い付かないままに置いた、急場凌ぎの措置なのかも知れず、本作は、作者の井原さんとしても、推敲不足の作品、未完成の作品なのかも知れません。
 〔返〕  パトカーが藪に隠れて待つてゐる速歩自慢の兎来ぬかと  鳥羽省三  
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「井原茂明氏の『読売歌壇』の入選歌」に就いて(其のⅠ)

2014年01月22日 | ビーズのつぶやき
 私はこの頃、山形県天童市にお住いの今野幸生氏の御ブログ『天童の家』に毎日のようにお邪魔しておりますが、件のブログの記事の中に、千葉県市原市にお住いの歌人・井原茂明氏の作品が度々登場し、それぞれ私の鑑賞意欲を刺激するような傑作揃いである。
 そこで、私はこの度、インターネットの検索機能を駆使して、同氏の作品を手当たり次第に検出させていただきました。
 就きましては、検出された作品を鑑賞した後の私の感想などを述べさせていただきます。
 何分、無断転載であり、作者の井原茂明氏や件のブログの管理者の今野幸生氏など関係者の方々には大変ご迷惑な事とは存じますが、何卒、宜しくご許容賜りたくお願い申し上げます。
 なお、検出された作品の凡そは「読売歌壇」の入選作であり、出来るならば、掲載年月日及び選者名を記して正確を期するべきでありましょうが、それが出来なかった作品もありますので、その場合は、読者の方々からのご指摘を俟って、後日訂正するなどの必要な措置を取らせていただきたく存じます。
 

〇  蜘蛛の巣のここにもそこにも現れて今日は一日霧雨のふる(俵万智選・2007/9/17)

 「ここにもそこにも現れて」と、作者ご自身が目前にしている「蜘蛛の巣」を指呼している様態を、客観的に捉えて詠んでいるのでありましょう。
 「ここにもそこにも」張り巡らせられている「蜘蛛の巣」の一本一本の糸に「霧雨」の細やかな雨粒がびっしりとくっ付いていて、淡い朝の光の中で微かに輝いているのでありましょう。
 「今日は一日霧雨のふる」とは、朝の空模様から判断しての作者ご自身の予測でありましょうか?
 だとすれば、人間は誰しも自分の体内に「気象予報士」を棲息させているのかも知れません。
 〔返〕  蜘蛛の巣に捕らへられたるキアゲハの翅の輝く霧雨の朝


〇  たたかひの肯定をして詠ひたりしにんげんとしての茂吉をおもふ (小池光選・2008/7/7)

 齋藤茂吉が数多くの聖戦歌を詠んで翼賛政権の協力者となった事は、今さら私如きが論う必要が無いほどの厳然たる事実であるが、平成二十四年(2012年)に岩波書店から刊行された、秋葉四郎氏・編著の「茂吉 幻の歌集『萬軍』」は、その一端を表沙汰にした書籍である。
 掲歌は、件の書籍の刊行に先立つ、平成二十年に詠まれたものであるが、「かしこみて勇みだちける十二月八日の朝を永久にさだめつ」などという、「幻の歌集『萬軍』」所収の聖戦歌を読む時、私・鳥羽省三のような歌詠みの末端に連なる者でさえも、「人間・茂吉」、「歌人・斎藤茂吉」の苦悩の深さを改めて斟酌せざるを得ないのである。
 ところで、掲歌が掲載されたのは「読売歌壇」であり、「読売歌壇」は、ややもすると世論を右寄りに誘導しようとする気配を見せている「読売新聞」の主宰する新聞歌壇である。
 ここの辺りの事情に就いては、選者の小池光氏などの世の識者は、如何お考えでありましょうか?
 〔返〕  色欲を隠すこと無く歌にせし人間茂吉の苦悩の軽さ


〇  脚を見てこの人強きとおもひをりテニスの試合5分間前 (小池光選・2011/10/24)

 「『テニスの試合』をしようとしたのであるが、試合開始の『5分間前』に、相手の選手の『脚を見て』、この人は私にとっては強敵だ、と思っている」という内容の作品であるが、相手選手の強さに臆している自分の心理を客観的に表現しているところが、この作品の優れた点でありましょう。
 また、「脚を見てこの人強きとおもひをり」という上の句には、作者の人間味とユーモア精神が窺われ、なかなかに好感の持てる表現となっているのである。 
 ところで、インターネットで検索したところ、掲歌の作者・井原茂明さんは、過日、千葉県館山市で行われた「第31回若潮マラソン大会」の「フルマラソンの部」に出場して、「四時間五十九分二十七秒」という、六十代という年齢にしては驚異的な好タイムで見事に完走なさった、とのこと。
 〔返〕  あと三十三秒遅ければ驚異的タイムなどとは言えなかったはず


〇  草もみぢ焼くる匂ひの流れ来て大山棚田の野焼きはじまる (選者不詳・2012/2/6)

 古泉千樫は千葉県鴨川市が輩出したアララギ派の大歌人であるが、彼の代表作品として知られる「みんなみの嶺岡山の焼くる火のこよひも赤く見えにけるかも」は、夙に「大山棚田の野焼き」風景を詠んだものと判断される。
 ところで、作中の「大山棚田(大山千枚田)」とは、「千葉県鴨川市の嶺岡山の麓、面積・約4ヘクタールの急傾斜地に階段状に連なる、大小375枚の田圃であり、『日本の棚田百選』にも選定されている南房総の文化的景観」である。
 一首の意は「紅葉した草の匂いが漂って来た。日本の棚田百選にも選ばれた、鴨川の大山棚田の野焼きが、今、始まったのである」といったところでありましょうか?
 だとしたら、作者の井原茂明さんは、少々欲張りである。
 何故ならば、本作は嗅覚的表現から成り立っている作品であるが、詠い出しの五音「草もみぢ」は、明らかに視覚的表現と言わなければならないからである。
 「上手の手から水が漏れる」という諺も在りますから、是も致し方の無いことでありましょうか?
 〔返〕  「草もみぢ焼くる匂ひ」とは如何に?鼻が色まで識別するか?(笑)


〇  大根の首の寒かろ白々と霜のあしたに立ち上がりをり(小池光選・2012/2/27)

 私たち読者は、「白々と霜のあしたに立ち上がりをり」という下の句の表現に込められた、哀切性を感得すると同時に、その表現の奥に潜んでいる卑猥性をも感得しなければなりません。
 御年、六十数歳にして、掲歌の作者の「大根」は、「霜のあしたに立ち上が」るのでありましょうか?
 〔返〕  だとしたら嫉妬羨望限り無し我が大根は立ち上がらずも(笑)


〇  「雨ニモマケズ風ニモマケズ」ああ其は辛き言葉だ押し黙り聞く(小池光選・2012/4/2)    

 「宮沢賢治のこの有名な詩の一節も、大震災を思ってきくと表情が変わる。重たい重たいことばに聞こえる。そのことの感慨を述べた。押し黙り聞くよりないのだ」という選者評が在る、とのこと。
 私・鳥羽省三としても全く同感であります。
 〔返〕  雨に負け風にも負けし我が生の終らむとして未だ終らず                   

〇  観念の海を泳ぐに疲れたり庭に伸びたる草引きに出づ (小池光選・2012/5/14)

 例えて言うならば、「読売新聞よ、悪辣な世論誘導をするな!」と思ったり、「細川某の本質が如何なるものであろうとも、この際は、彼を勝たせなけれはならない」などと思ったりするのも、「観念の海を泳ぐ」ところの「儚な事」なのかも知れません。
 とすると、掲歌の作者・井原茂明さんと同様に、私・鳥羽省三も亦、疲労困憊の極に達してしまうのであり、あたら、持って生まれた大根さえも立たなくなってしまうのである。
 まして、今は寒い冬、「庭に伸びたる草引きに出づ」ることさえも叶わぬ夢物語なのである。
 「たたかひの肯定をして詠ひたりしにんげんとしての茂吉をおもふ」と詠み、「資本論読み残したる悔いあれど世界の歴史変わり果てたり」と詠みながらも、名うての右翼歌壇「読売歌壇」に投稿している事も亦、作者をして「疲れ」せしめる「観念の海を泳ぐ」行為に他なりません。
 〔返〕  人はみな観念の海を泳ぐもの西方浄土と信じながらも


〇  油蝉鳴くあわただしさを受け止める生あるものに生ある時間 (選者不詳・2012/9/3)

 復興作業が遅遅として進まない夏の日であろうが、「道遠く、吾が生既に蹉蛇たる」時であろうが、私たち人間を急かすようにして「油蝉」は「あわただしく」「鳴く」のである。
 掲歌の意は、「『油蝉』は、僅かに七日間でしかない生の時間を、鳴くしか他にする事が無くて鳴くのである。したがって、私たち生き残った人間も、自分の生の時間を甘んじて受け止めていかなければならない」といったところでありましょうか?
 〔返〕  老い吾を急かす如くに鳴く蝉の命の時間儚き七日


〇  いかづちの後の雨音しづかなり犬を叱りて過ぐる人あり (俵万智選・2011/10)

 「雷、雨音、犬の鳴き声、そして人の声。四重奏のように、一首のなかで音が重なり合っている。耳を澄ますことによって世界を奥行深く構成しているところがみごと」という選者評が在る、とのこと。
 「雷がひとしきり鳴り響いた後、雨音も静かになって、静寂のひと時が訪れる」ということは、私たちの身辺にもよく在る事である。
 その静寂を微かに乱すようにして『犬を叱りて過ぐる人』が居る光景に着目するとは、正しく、目が肥え、耳が肥え、短歌神に拠って格別なる感性を付与された歌詠みにしか感得することが出来ないことでありましょう。
 私たち読者の全ては、この「三十一音・五句」の中に流れている永遠の時間と静寂とに耳を澄ますべきでありましょう。
 〔返〕  ひとしきり燥ぎまくった我が孫の去りにし後の静けさに堪ふ

         
〇  十月の月の光の染み込みてま白く庭に秋明菊咲く (俵万智選・2012/11/26)

 「秋明菊」と言えば、咲いている空間にしろ、咲いている時間にしろ、花そのものに本質的に備わって居るイメージにしろ、秋に咲く花としては、極めて地味にして、極めて目立たない花である。
 その地味で目立たない花「秋明菊」に、「十月の月の光」を配したのは、真に秀逸である。
 「秋明菊」こそは、正しく「十月の月の光の染み込みてま白く庭」に「咲く」のでありましょう。
 〔返〕  工事場のトイレの壁を彩りて白く咲きたり秋明菊は          


〇  「久留里町信販購利組合倉庫」右より書かれ今も現役 (俵万智選・2013/5/13)

 私よりも五歳くらい年配の方々は、「庫倉合組利購販信町里留久」と書かれている「看板」を、「久留里町信販購利組合倉庫」と読む習慣を持っていたのであり、それは、むしろ「習慣」と言うよりは「習性」と言った方が宜しいのかも知れません。
 〔返〕  「←京は右※左は江戸→」と刻まれし道標に沿ひ木曽路を急ぐ


〇  歯の検診終へて出づれば眩しかり空を食つてもよきかとおもふ (俵万智選・2013/7/30)

 「空を食つてもよきかとおもふ」とは、「歯科検診と称して、銀色の匙みたいな怪しげな検診器具で以って、そんなにも可愛くはない女性歯科医さんに、口の中をさんざん引っ掻き回された後の安心感を伴った気分」を詠んだのでありましょう。(笑)
 〔返〕  噂ほど可愛い顔の女医で無し全身麻酔で手術してくれ


〇  資本論読み残したる悔いあれど世界の歴史変わり果てたり(小池光選・2013/11/12)

 今や、マルクス主義も共産主義理論も、図書館の奥の書庫に仕舞われている、古色を帯びた一冊の書籍の中にしか存在しないのでありましょうか?
 それにしても、今更「資本論読み残したる悔いあれど」とは、余りにも未練がましい言い方ではありませんか?
 〔返〕  『資本論』読んだ覚えは無かりしも多摩図書館の書棚に在りき  


〇  コーヒーを飲むため座る流木を守谷の湾の海辺に拾う (選者及び掲載年月日不詳)

 作中の「守谷の湾」とは、千葉県勝浦市の「守谷湾」を指して言うのである。
 守屋湾西側の岬の先端近くに、隆起した岩碓が幾つか在るが、其処に出来た海蝕洞窟が守谷海蝕洞穴群であり、其処の辺りには、流木などが数多く堆積しているから、少し磨けば「コーヒーを飲むため」に「座る」椅子代わりになる「流木」を拾うことも可能でありましょう。
 〔返〕  ウーロン茶を飲むとき使ふコップにと「上撰金冠ワンカップ」を購ふ


〇  わがうちに「とこしへの川」騒立てり核廃絶の演説を聞く
                               
 上掲の一首は、角川書店主催の「角川全国短歌大賞」に於いて「篠弘選」の「秀逸」に選ばれた作品である。
 作中の「とこしへの川」とは、今さら私が説明するまでも無く、被爆者歌人・竹山広氏の第一歌集のタイトルである。
 竹山広氏は、『とこしへの川』(1981年・刊)で以って歌壇にデビューし、同年、第二回長崎県文学賞を受賞し、それ以後も、各文学賞を相次いで受賞し、多くの読者の支持を勝ち得たのであるが、 平成二十二年(2010)三月三十日にお亡くなりになったのである。
 ところで、掲歌の表現に就いて一言申し上げますと、「核廃絶の演説を聞く」という下の句は、少なからず皮肉っぽさを感じさせる七七句と思われるのであるが、作者ご自身の気持ちとしては如何でありましょうか?
 〔返〕  我が胸に佐川急便仕舞ひ置く細川候補を当選させむと


〇  ビートルズ世代としての自負一つ「イエスタディ」が持ち歌にあり

 上掲の一首は、『平成万葉集』所収の作品である、とか。
 インターネットで検索したところ、『平成万葉集』とは、「読売新聞が2008年に募集し、同年11月30日に締め切って、翌2009年4月に発表したものであり、その後、中央公論新社から書冊として刊行された」とか。
 〔返〕  吾輩もビートルズ世代の端くれで「レット・イット・ビー」など口遊み居り



 拙ブログ『臆病なビーズ刺繍』の「2010年08月13日」付けの記事に、「今週の読売歌壇から」として、次のような歌評を掲載させていただいているのである。
 この際、再掲させていただきますから、併せてご一読下さいますように、お願い申し上げます。


○  検針に来たるバイクのおばさんの勝ちましたねと大声にいふ  (市原市) 井原茂明

 私は常々、電気・ガス・水道の「検針」の方のご苦労の程は並大抵のものではないと思っている。
 以下の事柄は、最近、我が家に東京ガスの「検針」に訪れた男性の方からお聞きした話である。
 彼は現在のお仕事に就く以前に関東地方のある田舎町の水道局にお勤めになられ、上下水道使用料の「検針」のお仕事をなさって居られたそうである。
 彼は「検針」のお仕事を効率良く進めるために、担当地域のご家庭の犬や猫は勿論のこと、時には屋敷の守り神の青大将をも手懐けていらっしゃったと仰るのである。
 彼の勤務していた町の水道局では二ヶ月に一回ずつ「検針」を行うそうだが、ある大きな御屋敷に彼が「検針」に訪れると春から秋に掛けての期間は、水道のメーターボックスの扉の上に、毎回、彼の訪問を予期していたようにして、そのお屋敷の守り神かと思われる身の丈六尺に余る青大将がとぐろを巻いているのだそうだ。
 彼はその地区の「検針」を担当するに当たって、前任者から事務引継ぎの一環としてそのこととそれへの対応策を聞いていたので、最初はとても気味が悪かったのであるが、前任者からご教授された通り、「お屋敷の守り神様。今月もお世話になりますので宜しくお願いします」と小さな声で挨拶すると、守り神様は彼の言葉の意味がお解りになると思われ、メーターボックスの陰の草原にするすると退いて行かれ、「検針」のお仕事には何ひとつ支障を与えなかったそうである。
 さて、本作は<ワールドカップ南ア大会>関連の一首と思われ、件の「検針」の「おばさん」は、仕事道具の「バイク」のエンジンを止めるや否や、訪問先のご家族の方に「(岡田ジャパン)勝ちましたね」と「大声にいふ」のだと思われる。
 しかし、いくらお仕事大切、お口上手の「バイクのおばさん」と言えども、軒並みに「(岡田ジャパン)勝ちましたね」と言いまくっている訳ではあるまい。
 前述の「お屋敷の守り神様・・・・(後略)」と同じように、この「「バイクのおばさん」は、それぞれの場合に応じた言葉を予め用意しているのであって、本作の作者・井原茂明さんちの場合は、ご主人の井原茂明さんがすこぶる付きのサッカーファンであることを、ある情報筋を通じて知っていたから、「おはようございます」という挨拶を交わすような気分で、「(岡田ジャパン)勝ちましたね」という言葉を掛けたのだと思われる。
 「バイクのおばさん」のこうしたご努力は、彼女の勤務先の責任者にも大いに評価して頂かなければならないし、私たち短歌創作者と言えども、彼女の行動から何らかの学ぶべき点があるはずだ、と私は思うのである。
  〔返〕 「ジャイアンツ昨日も負けた」とお隣りの意地悪婆さん減らず口きく   鳥羽省三
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平成二十六年「歌会始の儀・静を詠む」に就いて(其のⅢ)

2014年01月20日 | ビーズのつぶやき
       入選者(年齢順)


愛知県・伊藤正彦さん(83)
〇  いなづまのまたひらめきし静かなる窓ひとつあり夜をひとりあり

 短歌とは、わずか「三十一音」から成る短詩型文学である。
 したがって、一首の作品の中に詠み得る事柄は、自ずから限られていると言わなければなりません。
 一首の作品の中に「あれも詠みたい、これも詠みたい」という事になれば、余りにも多くの事項を詰め込んでしまう結果となり、何が何だか解らない作品になってしまうのである。
 伊藤正彦さんの場合も亦、多分にそうした欲張った気持ちで掲歌をお詠みになったように思われる。
 伊藤正彦さんが上掲の短歌を詠もうとした時に目にした光景は、「晩秋の一夜、独り暮らしの私の視線の先に一軒の家が在り、折からの稲妻の閃めきにつれて、その一軒の家の窓が先刻からしばしば閃いている」といった、よく在る光景であったのかも知れません。
 だとすれば、作者は「稲妻のまた閃ける窓みつめ独り身われは眠らずに居り」といった、極めて単純明解な内容の一首を詠んだのかも知れません。
 然るに、伊藤正彦さんには、かねがね「歌会始の儀」に詠進歌を投稿しようとする固いご意志が有り、それを貫徹する為には、この元歌に今年の兼題の「静」の一字を盛り込まなければならない、という事になりましょう。
 と、すると、結果的には「いなづまのまたひらめきし静かなる窓ひとつあり夜をひとりあり」という、極めて意味不分明な一首が出来上がる事にもなるのでありましょう。
 二句目、「またひらめきし」の「し」が、過去回想の助動詞「き」の連体形であることに留意する必要がありましょう。
 副詞「また」が「ひらめきし」という述語を修飾していることから判断しても、「現在時点に於いて自分が目前にしている光景と、それに対する自分の心境を詠んでいる」という一首全体の意味内容から判断しても、この場面で過去回想の助動詞を用いることは適切とは言えません。
 あれこれと述べさせていただきましたが、作者が八十三歳という高齢者であることを考慮しても、この作品を「歌会始めの儀」の入選作とするのには、かなりの無理がありましょう。
 我が国が世界一の高齢化社会と化してしまった今日、一人暮らしの高齢者への福祉行政の冷たさが、社会問題化している今日、掲歌を通じて作者の伊藤正彦さんが、広い世の中に訴え掛けようとした事柄の重さや、作者ご自身の心境の暗さは、私・鳥羽省三にも、決して解らない訳ではありませんが、表現上に重大な欠陥を持っている本作を、敢えて「歌会始の儀」の入選歌とした点に就いては、選者諸氏の識見が疑われるのである。


山口県・中西輝磨さん(82)
〇  目の生れし魚の卵をレンズもて見守る実験室の静けさ

 作者の中西輝磨さんは、山口県下関市にお住まいになられ、水族館などの水棲生物の研究施設に長年ご勤務された方であり、「歌会始の儀」には三回目の入選とのこと。
 掲歌は、ご職業柄、魚卵の細胞分裂の有り様を顕微鏡で以って観察していた時の経験に基づいて詠んだのでありましょう。
 「目の生れし魚の卵をレンズもて見守る実験室」と、かつての自分自身の職業に取材した事項を記した後に、「(実験室の)静けさ」と纏めた辺りのお手並みはなかなかのものであり、この場合の「静けさ」という語は動かし難い語である。


徳島県・藤本和代さん(65)
〇  おほいなる愛のこもれる腎ひとつ静かに収まる弟の身に

 作者の藤本和代さんは、徳島県吉野川市鴨島町牛島で農業に従事なさっているとのこと。
 最愛の肉親の弟さんに移植された腎臓であれば「おほいなる愛のこもれる腎ひとつ」とお詠みになるのも当然のことでありましょう。
 「腎ひとつ静かに収まる弟の身に」という三句には、移植手術が無事に終わったことに拠って生じた、作者・藤本和代さんの安堵感が余すところ無く表現されている、と言えましょう。


北海道・佐藤真理子さん(64)
〇  プレートよ静かにしづかに今しがた生まれたひとりが乗ろうとしてゐる

 作者の佐藤真理子さんは、元・保育士とか。
 作中の「プレート」とは、難しい言葉を使って言えば「地球表層部を形成する厚さ100キロ前後の硬い岩板」ということになりましょうが、この場面に於いては、単純に「地球」といった意味に解釈しておいた方が宜しいのかも知れません。
 だとしたら、掲歌の作者の佐藤真理子さんは、元・保育士というご職業に相応しく、お孫さんに当たる、赤ちゃんの誕生の場に臨んで、「私たちの地球よ、未来永劫に静かに静かにしていて下さい。何故ならば、今しがた生まれたばかりの一人の赤ちゃんが、あなたの上に乗ろうとしているからである」と、「未来永劫に亘って震災よ無かれ」との強い意志を込めて、掲歌をお詠みになったのでありましょう。
 今年の入選作中の第一の傑作と申し上げるべき作品でありましょう。


群馬県・山口啓子さん(60)
〇  ひとり住む母の暮しの静かなり父のセーター今日も着てをり

 作者の山口啓子さんは、「前橋市にお住いの元・群馬県職員である」とか。
 「父親の良一さんが一九九八年に七十八歳で急逝した後、一人暮らしになってしまった母親のハツさんは、しばらくの間ひどく落ち込み、塞ぎ込んでいたのであるが、その後、徐々に元気を取り戻し、最近に於いては、自分の身の周りの事は、自分でするようになった」とのこと。
 掲歌は、そんな暮しの母親・ハツさんの最近の元気な姿を詠んだのでありましょう。
 「ひとり住む母の暮しの静かなり」という上の句の中の「静かなり」には、「この頃は塞ぎ込むことも無くなって静かな暮しを取り戻した母・ハツさんの暮らしに対する、娘・啓子さんの万感の思い」が込められていることでありましょう。
 「父のセーター今日も着てをり」という下の句のユーモアセンスもまた佳し。


大阪府・前田直美さん(52)
〇  嫁ぐ日の朝に母は賑やかに父は静かに食卓囲む

 作者の前田直美さんは、「大阪市平野区にお住いのの会社員。お仕事の内容は、大丸松坂屋百貨店で人材教育を担当している」とのこと。
 「今から二十九年前に、姉が嫁いだ日の両親の様子を歌に綴った」とのこと。
 作中の「母は賑やかに父は静かに食卓囲む」とは、如何にも「さもありなん」といった感じのユーモラスな表現である。


福島県・冨塚真紀子さん(32)
〇  吾の名をきみが小さく呼捨てて静かに胸が揺らいでしまふ

 作者の冨塚真紀子さんは、「福島県の旧・長沼町(現・須賀川市)出身で、旧安積女子高(現安積黎明高)を卒業後、首都圏の大学に進学したが、人間関係に悩み3カ月で中退。苦しい思いを表現するため短歌を始め、平成10年、福井県越前市などでつくる実行委員会が募集した『万葉の里・短歌募集~あなたを想う恋のうた』に初めて応募し佳作を受賞。その後しばらく短歌から離れていたが、約10年後、人間関係などで再び深く悩む。救ってくれたのは、やはり短歌だった。インターネットのサイトに投句し、心の均衡を保った。平成21年には、県文学賞短歌部門で『棘が刺さったままの指』と題した五十首が奨励賞に選ばれた」とのこと。
 また、「母親の友人の勧めで、歌会始の儀に応募した。恋人同士の相手の呼び方が、あだ名から名前の呼び捨てに変わった瞬間を詠んだ作品だ。園芸のアルバイトや車の運転中などに思いついた作品を書き留めたノートの中から気に入った一首を選んだ」とのこと。
 一月二十日(月)付けの『福島民報』に拠ると、この一首は「恋愛をテーマに恋人同士の心の距離が徐々に縮まる様子を詠んだ」とのことであるが、「静かに胸が揺らいでしまふ」という七七句を、「恋人同士の心の距離が徐々に縮まる様子を詠んだ」ものと解して宜しいのでありましょうか?
 「静かに胸が揺らいでしまふ」とは、余りにも漠然とした言い方でありましょう!


東京都・樋口盛一さん(29)
〇  静けさを大事にできる君となら何でもできる気がした真夏

 作者の樋口盛一さんは、「法政大学文学部で日本文学を専攻した後、広告会社に勤務している」とか。
 「静けさを大事にできる君となら何でもできる気がした真夏」という、穏かな内容の一首は、広告マンらしく(と謂うか、表面の温和な性格とは別に計算尽くの側面も見られる現代社会の若者らしく、と謂うか)、「歌会始の儀」の選者の選歌傾向を読み切った作品である、とも言えましょう。
 それにしても、末尾の一語「真夏」は、村の鎮守の祭の夜店の的屋の飴細工の蛇に付けた脚のような語である。


東京都・中島梨那さん(20)
〇  二人分焼いてしまつた食パンと静かな朝の濃いコロンビア

 作者の中島梨那さんは、「跡見学園高校から皇后・美智子様の母校・聖心女子大学に進学し、現在・二年生」とか。
 作者に拠ると「自分にとって、大切な人を失ってしまったときのさみしさを歌った歌です。家族だったり、恋人だったり、それは詠んでいただく方に想像していただけるようにつくりました」とのことである。
 と、すると、掲歌は、「歌会始の儀」の入選歌としては極めて珍しい仮想恋愛の歌であり、また、「歌会始の儀」の当日、皇后・美智子様は、後輩の中島梨那さんにお言葉をお掛けになり「美智子様が(当時)着ていた制服に、私(中島さん)が今着ている制服が似ている、といった意味のお話をなさった」とのことでもあるが、いずれにしろ、「お聖心」の在学生が話すに相応しい、別世界の話題と言うべきでありましょう。


新潟県・加藤光一さん(16)
〇  続かない話題と話題のすきまには君との距離が静かにあつた

 私がたまたま目にしたブログに、「でました、今年最年少の高校生!書道の授業を機に短歌が趣味に。今回は携帯電話のコミュニケーションに疑問を抱いた歌だそうです。LINEとか出ちゃったりする!?いかにスマホ世代の『静』が読み込まれるのか。将来の夢は高校教師。『得意な数学か生物に関する言葉を使って短歌を作りたい』そうです。それだよ!僕らが聞きたいのは!がんばれ!」とありました。
 入選作十首の中には、兼題の「静」がほとんど活かされていない作品が在ったり、それが一首の成立の邪魔をしているような作品も在ったりするのであるが、掲歌、即ち「続かない話題と話題のすきまには君との距離が静かにあつた」などは、比較的に兼題が活かされている作品と言えましょう。  
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平成二十六年「歌会始の儀・静を詠む」に就いて(其のⅡ)

2014年01月18日 | ビーズのつぶやき
召人・芳賀徹さん
〇  子も孫もきそひのぼりし泰山木暮れゆく空に静もりて咲く

 本年の召人の芳賀徹氏(1931・5・9生)は、「日本文学研究者にして比較文学者。昭和50年東大教授、平成3年国際日本文化研究センター教授、大正大教授を経て、平成11年京都造形芸大学長。平成22年静岡県立美術館館長。近代日本の洋学・文学・美術などを中心に比較文化史研究を幅広く進める一方、昭和56年『平賀源内』でサントリー学芸賞を受賞するなど、現代日本を代表する文化人・識者の一人」である。
 「東京都が東京府と呼ばれていた頃の昔から、我が家の庭に『子も孫もきそひのぼりし泰山木』の大樹が在り、その老木の泰山木の花が『暮れゆく』東京の『空に静もりて咲く』風景を、今、傘寿を二年余りも過ごした私が目前にしている」という意でありましょうか?
 だとしたら、功成り名を成し遂げた芳賀徹氏の目にのみ視ることが出来る、穏やかにも懐かしく平和な風景ではある。
 「召人」としての芳賀徹氏の立場は、言わば天皇陛下を初めとしたご皇室の方々の御詠にご唱和する立場である。
 したがって、その内容は、基本的には「魂鎮めの御歌」或いは「国鎮めの御歌」でなければならないのである。
 掲歌は、新年に相応しい穏やかで平和な風景を映し出しながらも、作者ご自身の過去半生の思い出を語り、功なり名を成し遂げた高齢者としてのご自身のご感慨を覗わせるなど、召人の歌としての役割りを充分に果たしている佳作である。


選者・岡井隆さん
〇  朝霧のながるるかなた静かなる邦あるらしも行きて住むべく

 岡井隆氏と言えば、慶応大学医学部出の医者でありながらも、塚本邦雄氏と共に現代短歌の改革者としての役割りを果たし、前衛短歌運動の旗手としての役割りを果たした歌人であり、現代歌壇の不動のリーダーではあるが、また、一時期、職をも名声をも家庭をも捨てて出奔し、九州に於いて隠遁生活をしていたことも私たちの記憶しているところである。
 一首の意は「今、記憶朦朧とした私の目の前を『朝霧』が流れているのであるが、その『かなた』には、この老齢で役立たずの私が『住む』に相応しい『静かなる邦』が在るようだ」といったところでありましょうか?
 だとすれば、自らを茶化して道化、それで居ながら、自らの不動の信念を述べ、老境に達した自らの理想を語るなど、選者の歌に相応しく余裕のある歌境を示している佳作である。

 真に失礼ながら、この機会に返歌を一首詠ませていただき、天皇陛下の統べる我が日本国の今年一年の平安を祈念し、併せて岡井隆氏のご健康と、いろいろな意味での今後益々のご発展を祈念させていただきたく存じ上げます。
 〔返〕  岡井氏の住むべき邦の在りとせば女護島なりさつさと参れ


同・篠弘さん
〇  一瞬の静もりありて夕駅へエスカレータは下りに変はる

 とある秋の日の夕刻の都心の地下鉄駅の構内風景を、印象鮮やかに描いた佳作である。
 掲歌を解釈するに当たっての要諦は、「エスカレータは下りに変はる」という下の句に着目することである。
 作者の篠弘氏は、ある秋の日の夕方、東京メトロのとある駅から地下鉄電車に乗車して帰宅しようとしたのであるが、件の駅の構内の構造は、地下ホームに出る為には上りのエスカレータに乗ったり下りのエスカレータに乗ったりしなければならないような構造になっているものと判断されるのである。
 東京メトロの数多い駅の中には、駅構内が私の指摘したような構造になっている駅が数か所在るのであるが、その代表的な存在は、南北線や半蔵門線の永田町駅と一帯化された、銀座線及び丸ノ内線の赤坂見附駅でありましょう。
 就きましては、件の地下鉄駅を赤坂見附駅と仮定した上で、一首の意を述べてみますと、「議題が議題だけに、会議が予定以上に長引いてしまい、場内の雰囲気もやや上気気味であったのであるが、赤坂見附駅に向かう為に、歩道寄りのホテルや商店のウインドーなどに目をやりながらぶらぶらと歩いていたら、辺りの風景いつの間にか夕景色となり、それまで興奮し切っていた私の心も少しは静まって来たようだ。さて、赤坂見附駅に着いたが、この駅の構内は極めて複雑な構造になっているので、私の乗るべき電車が入るホームに向う為には、案内図に従って、エスカレータの導くままにゆっくりと行かなければならないのである。上りのエスカレータを下りてしばらく歩を進めたら、目の前に現れたのは下りのエスカレータである。このエスカレータを下りた所に、私の乗るべき電車が入って来るホームが在るものと思われる・・・・・」といったところでありましょうか?


同・三枝昂之さん
〇  から松の針が零れる並木道みんな静かな暮しであつた

 掲歌の作者・三枝昂之がお住いの川崎市麻生区千代ケ丘界隈に於いても、「から松の針が零れる並木道」は、数カ所存在するのであるが、「みんな静かな暮しであつた」という下の句の措辞から推測すると、件の「並木道」は、恐らくは、三枝氏の故郷の山梨県甲府市の「並木道」でありましょう。
 だとしたら、掲歌の題材となっているのは、三枝昂之氏が少年時代に目にした情景であり、当然の事ながら、三枝昂之氏と、彼の愛妻・今野寿美氏の運命的な遭遇の場面が展開する以前のことでありましょう。


同・永田和宏さん
〇  歳月はその輪郭をあはくする静かに人は笑みてゐるとも

 「笑みてゐるとも」という七音に疑問有り。
 「(今は亡きあの人は、)笑みてゐるとも」と、「亡くなった特定の人物が極楽浄土で笑いながら暮らしてゐるに違いない」という、ご自身が抱いている確信的な気持ちを強調して述べているのでありましょうか? それとも、「(今は亡きあの人は、)笑みてゐるとも(思われる)」と、推測して述べているのでありましょうか?
 もう一言述べさせていただきますと、掲歌の作者にとっての「(今は亡きあの)人」と言えば、先年お亡くなりになった、愛妻の河野裕子さんと特定される可能性が大である。
 そういう側面から言えば、個人的な事情を前面に出した掲歌は、「歌会始の儀」の「選者の歌」として相応しくない、歌と言わなければなりません。


同・内藤明さん
〇  手に載せて穴より覗く瓢箪の静けき界に心はあそぶ

 今上天皇の広き御心の余慶に与り、選者・内藤明氏の「心」は「手に載せて穴より覗く瓢箪の静けき界」「あそぶ」ことが出来るのでありましょうか。
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