臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

一首を切り裂く(009:菜)

2010年02月28日 | 題詠blog短歌
(tafots)
   黄蝶ニ頭菜の花畑に紛れゆき友だちはまだだぁれも来ない

 敢えて指摘するまでも無いことではあるが、本作は、高浜虚子の「初蝶来何色と問ふ黄と答ふ」というあの虚名高い俳句を踏まえているのである。
 そうした点と言い、「黄蝶二羽」と言わずに「黄蝶二頭」と言った点と言い、なかなかである。
 「なかなか」と言ったのは、「なかなか」と言うしかなくてそう言ったのであり、「衒学趣味」とか「学識高い」とか「傑作である」とかという言い方とはかなり異なるのである。
 一首の意や表現上の特色などを、もう少し細かに見て行こう。
 「黄蝶ニ頭菜の花畑に紛れゆき」という上の句は、「黄蝶ニ頭菜の花畑に紛れ行く」「黄蝶ニ頭菜の花畑に紛れ来て」「黄蝶ニ頭菜の花畑に紛れ来ぬ」とするような手もあったのであろうが、そのいずれをも選ばずに、「黄蝶ニ頭菜の花畑に紛れゆき」としたのには、どんな意図があったのであろうか?
 句末を<終止形>にせずに<連用形>にしたのは、ただ単に、其処で言い切らずに言い指したかっただけであろうから、これ以上詮索しないが、「ゆき」なのか「来て」なのかという点については、本作の<話者>が、現在、その「菜の花畑」に居るのか居ないのかという点についてにも関わる問題であるから、簡単にスルーする訳には行かない。
 当然の事ながら、話者は「菜の花畑」に居ないのである。
 これから行くか行かないかは判らないが、本作の話者は、現在、その「菜の花畑」とは別の所に居て、幾人かの「友だち」の来るのをさっきから待っているのである。
 するとそこに、黄色い蝶が二羽ならぬ二頭も飛んで来て、間も無く黄色い菜の花の咲く畑の中に紛れ込んで行ってしまったので、菜の花なのか蝶なのか判らなくなってしまい、話者一人だけがその春日の中に取り残されてしまったのである。
 それなのに、待ち合わせを約束していた「友だちはまだだぁれも来ない」のである。
 「友だち」には約束を破られ、「黄蝶ニ頭」にも飛び去られてしまったので、本作の作者の分身とも思われる話者は、菜の花畑の近くの静寂と真空に包まれた場所に一人取り残され、孤独を託つ身となってしまったのである。
 「話者」などと言う、持って回ったような言い方をするのはもう止めよう。
 本作の作者は何故、「友だち」には約束を破られ、「黄蝶ニ頭」にも飛び去られてしまって、孤独のどん底に取り残されてしまったのであろうか。
 それは、本作を高浜虚子の句と関連づけたり、「黄蝶二羽」と言わずに、わざわざ「黄蝶二頭」と言ってしまうような、彼自身の頑なな性格にも起因することであろう。
 また、誰が読んでくれたかも判らないし、仮に誰かが読んでくれたとしても、誰一人として採り上げて誉めてもくれない短歌を、選び、熟読し、その観賞文を長々と書き連ねて誉めてくれた者に対して、「ありがとうございます」とお礼を言いながらも、「ぎょっとするほど強く言いきってしまう貴方のやり方、本当はあまり好きではないのです」などという<言わずもがな>の嫌味を言い添えずに居られない、作者の性格にも起因するのである(私が言うのもなんやけど)。
 「一首を切り裂く」などという刺激的なタイトルを掲げて書いてはいるが、私は故意にポイントを外してみたり、露悪的に振舞ってみたりすることはあっても、どなたの作品についても、「ぎょっとするほど強く言いきってしまう」ことなどは、決してありません。
 むしろ、言いたいことは言わずに、貶したいのに貶さずに、わざと軽口を叩いているのです。
 それともう一つ、私が、この「一首を切り裂く」で採り上げて観賞している作品は全て、私の短歌観に適った作品であり、数十言を費やして論じるに値する作品だからこそ選定し、観賞しているのです。
  〔返〕 鴉二羽鎮守の森へ帰り行く雇はれママの妻は出勤   鳥羽省三


(みずき)
   菜箸を紅筆に変へ女たる私を映す母の鏡に

 女性が化粧する現場に行き合わせたことが少ないので、この作に接した時、私は、本作の話者は、手近に「紅筆」が無かったから、ダイニングルームに在った「菜箸」を手にして、普段は働き尽くめで化粧一つしたことの無い自分の顔を、母の形見の鏡に映しているのだと思い、あの太くて長い「菜箸」が「紅筆」の代用を為すのだろうか、などと不思議に思ったことであった。
 そこで私は、そうした自分の疑問を、つい先刻、東京銀座での「三賢人会」から帰ったばかりの妻に直接ぶつけてみた。
 すると妻は、「その作品の作者の方は、私と同じ女性なんでしょう。私も彼女と同じ女だからよく解るんだけど、彼女は普段、菜箸を手にしての台所仕事が忙しくて、鏡に向かって自分の顔を映したことが碌々無かったんですよ。それなのに今日は、従兄の社長から<三賢人>への出席を求められたから、久々に紅筆を手にして、お母さんの形見の鏡台の前に立っているんですよ。『菜箸を紅筆に変へ』とは、そのことを言ってるんではないですか。私も今朝は、雑巾をナプキンに替え、菜箸を紅筆に替えさせていただきましたよ、御蔭様で。私だって、『女たる私』なんですからね」などと嫌味を言うのだ。
 ところで、我が妻が今日出席して来た<三賢人会>とは、埼玉県在住の女性と千葉県在住の男性と神奈川県在住の女性たる我が妻との毎月一度の食事会の名称で、その命名者は私である。
 三人の会員は、北東北の田舎町の高校の同級生であり、そのうちの千葉県在住の男性は、中小企業二社の社長であって、金回りが頗る良い。
 そして、この金回りの良いこの男性と我が妻とはいとこであるから、当日の費用一切は、この男性が支払って居り、二人の元美人は、豪華なお土産まで持たせられて喜んで帰宅するのである。
 この会の名称を、私は密かに<三馬鹿会>と呼んでいるのであるが、それをあからさまにする訳にも行かずに、<三県人会>と言ったところ、妻は勝手に<三賢人会>と誤解してしまったのである。 
  〔返〕 紅筆に代わる菜箸手に持ちて雪の女雛の口紅を塗る   
      三県の馬鹿が会する食事会 三賢人会永久に栄えよ   鳥羽省三


(中村あけ海)
   西小路主任は愛妻弁当で一段目にはぎっしり水菜

 主任さんの姓は、「西小路」さんよりも「錦小路」さんの方がそれらしくてお宜しかったんではないですか。
 今でこそ全国区の野菜になってはいるが、「水菜」はもともと京野菜の一種であり、あの錦小路市場に並べられていたんですから。
  〔返〕 西小路主任はまるで青虫だ 水菜ばっかを食うていやはる   鳥羽省三


(子帆)
   菜の花は桜のぶんまで生きようと毎日体を鍛えています

 「菜の花」が「毎日体を鍛えています」と聞いて、私は、あの春酣になってからの、薹が立ち、堅くなって食べられなくなってしまった菜花を思い出しました。
 私の郷里では、毎年今頃になると、野菜畑の雪を除去して、昨秋収穫し損なった白菜などから菜花が萌え出て来るようにして、十数日して菜花が萌え出て来たら、それを本格的な春が来るまでの新鮮野菜として食べるのです。
 私は、菜花のあのほろ苦い味が大好きなのです。
 それとそれとして、「菜の花は桜のぶんまで生きようと」とは、実に言い得て妙な表現だと思いました。
 毎年、時期を同じくして咲く花ながら、桜の花は、<花は桜木、人は武士>とばかりに、ぱっと咲いてぱっと散るのに対して、菜の花は「桜のぶんまで生きようと」とばかりに、いつまで経っても散らないのです。
 結社誌への投稿やなけなしの金を叩いての歌集刊行という形での短歌発表に、様々な問題が生じている今日、インターネットでの短歌発表には大きな期待が持たれていて、何処かから「印刷媒体での短歌発表は終息期に入った」などという調子の良い掛け声が掛かって来たりもします。
 だが、現実にはインターネツトで発表されている短歌作品のほとんどは読むに堪えないような<てなもんや短歌>なのです。
 五十嵐きよみ氏が、貴重なお時間をお割きになって発表の便をお取りになって下さっていらっしゃる、当「題詠2010」への投稿作品にしてもその例外ではありません。
 そうした中に在って、本作のような佳作に遭遇する機会を与えられ、その評言を書かせていただく機会を与えられたことは、私の大きな喜びとするところです。
 本作の作者・子帆さん、これからも宜しくお願い申し上げます。
 一見、<てなもんや短歌>風に見える本作ではあるが、凡百のアララギ崩れなどは逆立ちしても適わないような観察眼を備えていて、それでいながら独特の軽みと笑いとを忘れていないのが、本作の特徴でありましょう。
 今後益々のご精進を期待する。
  〔返〕 「この後は君に任す」と散り急ぐ桜の花の下の菜の花   鳥羽省三 


(野州)
   オイル染み少し気にして菜つ葉服着たままきみの母親に会ふ

 「これから先のお付き合いが長いのですから、できるだけ見られる格好をしてお逢いしたかったんですが」「でも、まあいいか。今更着飾ってもどうになるもんでも無いし、それに君と僕とは、既にやるべきことはやっているから、今になって、<お母さんが止しなさい>と言ったからお別れしますでもないでしょうから。でも、でも」と、あれこれと迷ってみたんですが、結局は、「男は仕事」と覚悟を決めて、仕事着のままで逢ってしまったのである。
 本作の作者・野州さんは、<FⅠ自動車レース>出走チームの整備担当責任者なのである。
  〔返〕 身長をかなり気にして君に逢い今ではそれより二センチ低い   鳥羽省三


(牛 隆佑)
   この国に生まれて死んでゆくことの後ろめたさにチシャ菜を添えて

 米国の大牧場で生まれた牛が、岩手県の牧場らしき草原で放牧されて大きくなった挙句、食べ頃になってから搬送車に乗せられて三重県の田舎の農家の牛舎に連れて行かれ、口から無理矢理ぬるいビールを注ぎ込まれて往生を遂げ、松阪牛のレッテルを貼られて売られて行くのである。
 その「看板に偽り有り」の牛肉に、一片の「チシャ菜を添え」るのは、そのことへの「後ろめたさ」からなのでありましょうか?
  〔返〕 アメリカで生まれた牛が日本のビール飲んだら<もー松阪牛>   鳥羽省三


(A.I)
   菜箸でつまむ青菜のしんなりと冬の日差しによりそっている

 「鍋で茹で、熱々のままに『菜箸でつまむ青菜』は『しんなり』としているが、私は、その『青菜』のように『しんなりと冬の日差しによりそっている』」と言うのがこの一首の意味である。
 「菜箸でつまむ青菜の」の「の」は、格助詞「の」の比喩的用法と言って、「○○○○のように」といった意味である。
 この用法に慣れただけでも、短歌表現はかなり豊かになるのであるが、その反面、この用法の多用は、短歌表現の膠着化にも繋がるから、程々にしなければならない。
 一例として申し上げれば、三十首連作の中に、この用法に頼った作品が三首在れば、他の作品の良し悪しに関わらず、文句無しに落選とされる。
  〔返〕 昼日がな窓辺に置ける鉢花のしんなりとして君と別れぬ   鳥羽省三


(梅田啓子)
   菜の花の束ね棄てられたる中にそこより伸びる一本のあり

 近所の農家などから大量に頂戴した菜の花などを、そのまま食べもしないで、束にしたままで棄てておくと、その中の一本か二本が、いつまでも命を保っていて、花を咲かせている場合がある。
 それは、その中の比較的に勢いのある一本か二本かが、その他の数本から水や養分を吸い上げて生きていて、美しい花を咲かせているのである。
 こうした事柄は、何も菜の花に限ったことでは無く、人間界でもごく普通に見られることである。
 着眼点の宜しさは今更ながら脱帽の至りではあるが、それより何より絶賛しなければならないのは、<三十一音五句>の様式には容易に納まり切らないこの題材を、指折り数えて三十一音の定型様式にまとめ得た、作者の努力に対してである。
  〔返〕 並び居しチルドレンらのその中に再選果たせる議員の面貌   鳥羽省三 


(中村梨々)
   菜の花におぼれて黄色 人ひとり忘れて春の朝に目覚める

 春の畑で、黄色い「菜の花におぼれて」しまった夢は、清楚なる女性・中村梨々さんならぬ、むくつけき男子の私も亦よく見る。
 それとは別に、この一首の素晴らしさは、その事を詠んだ上の句と、「人ひとり忘れて春の朝に目覚める」という下の句の取り合わせの良さである。
 まるで、今は亡き西脇順三郎氏の秀作を読むような思いで、私は、この佳作を読ませていただいた。
 その名を「忘れ」られた「ひとり」とは、あの<リリー・フランキー>さんでしょうか?
  〔返〕 人ひとり忘れ得ぬまま春の夢醒めて望めば朝焼け赫し   鳥羽省三


(青野ことり)
   蛍火で根菜を煮る たぷたぷとだしを含んで幸福となれ

 「爪に灯を点す」という喩が在るが、「蛍火で根菜を煮る」とは、赤貧洗うが如き状態よりも、更に更に洗うが如き赤貧の喩なのかも知れない。
 そうした究極の赤貧の渦中に在って、なお「たぷたぷとだしを含んで幸福となれ」と祈らずに居られない人間の心の切なさと愛しさ。
 「蛍火で根菜を煮る」とは、<炊事>と申すよりは、<祈祷>と申した方が宜しいような敬虔にして切なる行為でありましょう。
 「蛍火で根菜を煮る」ためには、普通の人間の常識を超えた時間感覚と優しさと寛容さが必要でありましょう。
 本作の作者・青野ことりさんが、この一首を通じて私たち読者に伝えようとしたのは、常人の常識を超えた時間感覚と優しさと寛容さの必要性についてでありましょう。
  〔返〕 蛍火で温めた衣を着て歩むほーほと照りて夕べ街行く   鳥羽省三
      聖母子の祈りにも似て<蛍光の貧しき火にて根菜を煮る>   々


(畠山拓郎)
   裏庭が祖父の手放れ母の手へ野菜畑は花畑へと

 会社勤めを定年で退いた後の祖父の唯一の楽しみは、先祖伝来の裏の畑を耕して、季節物の野菜を植えることであった。
 大根、人参、蕪、葱、胡瓜、茄子、南瓜、隼人瓜、白菜、キャベツ、法蓮草、枝豆、ピーマン、馬鈴薯などなど。
 そうしたことで、我が家の食事に使われる野菜類のほとんどは祖父の畑からの収穫物で間に合い、それが我が家の家計に幾分かの余裕を齎していたものと私たちは勝手に信じていた。
 ところが、私たちのそうした思い込みは、一片の真実を言い当てただけのものに過ぎなくて、祖父の耕している畑の存在は、意外にも母の悩みの種となっていたのである。
 私たち子供を健康に育てなければならない義務を負わせられている母にしてみれば、我が家の食生活をもっと豊かに、もっとバラエティーに富んだものにしたかったのである。
 ところが、我が家には祖父が耕している先祖伝来の畑が在って、毎日の食事に使われる野菜類の大半は、祖父の畑からの収穫物で間に合っている、という感覚が、母以外の我が家の家族の誰にでも身についていたのである。
 今になってみれば解るのだが、それが母の悩みの種の一つになっていたのではないだろうか。
 一昨年の夏、長年の無理が祟ったのか、祖父が倒れ、病床に臥す身となってしまった。
 祖父が寝についた当初は、裏庭の畑も急に担い手を失って、しばらくは荒れるに任せていた。
 だが、そのうちに、寝たきりの祖父とどう折り合いをつけたのかは判らないが、その畑に母が足を入れるようになり、それまでは野菜一辺倒であった畑の大半が、瞬く間に花畑と化してしまったのである。
  〔返〕 寝についた隙間をついて裏庭を花の畑に変へたる手際   鳥羽省三 
      祖父の病むことさへ幸の一つとし父と母とは買ひ物に行く   同


(陸王)
   肩ならべきみが野菜をカゴに入れぼくが支払うだけのしあわせ

 そう、裏庭に祖父の耕す野菜畑なんて余計なものが無ければ、夫婦の間には、こんな「しあわせ」だって在るのだ。
 それをも知らないで、いつまでもでしゃばっていた祖父は、我が家の平和の敵だ。
 幸いなことに介護手当てもたっぷりと付いているから、いつまでもベツトの上で寝て居なさい。
  〔返〕 裏庭に野菜を植えるも幸せでそれを食べるも更に幸せ
      祖父の居ぬことさえ幸に数えつつ父と母とは買い物に行く   鳥羽省三
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一首を切り裂く(008:南北)其のⅢ

2010年02月27日 | 題詠blog短歌
(ふみまろ)
   南北をつなぐ海道どの島にいたのだろうかあの花嫁は

 あの話題の「花嫁」は、今となっては、この瀬戸内海のどの島にも住んでいませんよ。
 あの華やかな<嫁入り舟道中>の途中に、元カレが故意に起こしたモーターボート衝突事件のどさくさに紛れて、花嫁衣裳のままに逃亡した彼女は、その後上京して人気抜群の演歌歌手になった。
 そしてその人気の最中に、十数歳も年下の品の悪いステージダンサーと結婚したのであるが、やがてその下品なダンサーとも別れ、現在は、ある後期高齢実業家の愛人となって、都内某所のホテルに囲われているという噂である。
  〔返〕 瀬戸内の海を汚した紅の花嫁衣裳の行方知れずも   鳥羽省三


(晴流奏)
   大空にチョークで描く南北を分かつ飛行機雲の直線

 今となっては、あの朝鮮半島を南北に分ける北緯38度線の上空に、飛行機雲の直線を描く者は誰一人として居なく、カササギだけが時折り水面を掠めて飛び交っている。
  〔返〕 イムジンの水面を分けて泳げるは体長五尺の肉食雷魚   鳥羽省三
 

(詩月めぐ)
   南北に長い国だと思うのは桜と梅雨つゆと初雪の季節とき

 その季節ともなれば、私たちは「桜前線」「梅雨前線」「初雪前線」などという、我が国の気象と風物とに関した言葉を耳にします。
 こうした趣き深い言葉が我が国に生まれたのは、我が国が南北に長い国だからなのでしようか、東西に細長い国だからなのでしょうか?
  〔返〕 午後八時卓袱料理を食べながら東と西の時差を感じる   鳥羽省三 


(れい)
   スーパーが解体されて行く空を群れなす鳥が南北に渡る

 私は、生来の物好きが嵩じて、散歩の途中などに、建築物の解体現場の様子に見とれることがありますが、我が国のほとんどのスーパーマーケットの建物は、プレハブ建築ですから、流通業界の不況が声高に叫ばれている今日では、本作で詠まれているような光景は、日本全国至る所で毎日のように展開されているかと思われます。
 それとは別に、少し細かい表現についてですが、四、五句に「群れなす鳥が南北に渡る」とありますが、通常、渡り鳥に限らず、いや渡り鳥は特に、鳥類が群れ成して飛ぶ時は、南にしろ、北にしろ、常に一定方向に向かって飛んで行くものと思われますが、この点はいかがなものでしょうか?
 読みようによっては、丁度その時、南から来た夏鳥と北に向かう冬鳥とが、このスーパーの解体現場の上空で交錯したとも思われますが、その点もいかがなものでしょうか?
  〔返〕 サーカスの天幕小屋の上空を名残惜しげに飛び交う燕   鳥羽省三 


(K)
   南北にのびる道路のむこうがわ陽炎だけが僕を欲する

 この一首の意味は、「『南北にのびる道路のむこうがわ』には、いろんなものが見えるが、その中で、『僕』の欲情を刺激するものは、あの『陽炎だけ』だ」というのでしょうか?
 だとすれば、本作の作者の分身の「僕」は、その「陽炎」を見つめながら、欲情を処理するための行為に耽るのでしょうか?
  〔返〕 天空に伸びるジャツクの豆の木が幼き彼の欲情そそる   鳥羽省三


(越冬こあら)
   南北を合わせ赤道赤テープ地球を一つ完成させる

 地球儀を造る工場の作業工程が、そんなものだとはとても信じられないが、それなりの説得力を持った一首である。
 〔返〕 赤道が二つに分ける国々は赤いテープで南北分断   鳥羽省三


(伊倉ほたる)
   バカンスは南北なら逃避行 語り継がれる常識として

 作者・伊倉ほたるさんは、女優・岡田嘉子と杉本良吉との北樺太への逃避行事件を頭に置いて本作を詠んだと思われるが、厚い世界史をひもとけば西のヨーロッパから東のロシアへと逃避行をした人々が沢山居ります。
 それはともかく、あの岡田嘉子と杉本良吉とのロシア領・北樺太への逃避行は、幾時代を隔てて「語り継がれ」て、今では、「逃避行」と言えば、<南から北へ>との常識が定着したのかと思いますと、ある種の感慨を覚えます。
 因みに、私の家内の両親は、昭和十年代の半ばに、北東北の田舎町から東京に逃避行したという前歴の持ち主であるので、家内の姉は、東京の西麻布の陋屋で生まれたということです。
 彼と彼女とは、共に田舎の小地主の家に生まれながら、今で言う社会主義の思想に被れていて、彼女が彼を唆して東京への逃避行に及んだそうです。
 えっ、私の家内の生まれた土地ですか?
 私の家内は、羊の手によって両親が探し出されて、無理矢理田舎に連れ戻されてから生まれたので、自慢するわけではありませんが、チャキチャキの田舎者です。
  〔返〕 逃避行ならざる故に我らはも時折り軽き争ひもする   鳥羽省三
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一首を切り裂く(008:南北)其のⅡ

2010年02月26日 | 題詠blog短歌
(飯田和馬)
   東西にビル立ち並び南北に何となくビル立ち上がる街

 一見無意味なことを詠んでいるかのようにも思われるが、この作品をどう読むか否かに拠って評者としての価値が判定されるとも思われる作品である。
 本作は、首都圏の郊外に新しい都市が出現するまでの様子を時間進行に従って詠んでいるのである。
 それまで原野だった広い土地に、ある日突然その南北を貫く大通りが出来、その両側に都市計画に基づいて建設されたビルが立ち並ぶ。
 だが、これだけではただの一本街であって本格的な都市とは言えない。
 そこで次の段階には、その大通りと垂直に交差する道路が数本通され、その道路沿いのあちこちの土地にも大小さまざまな建物が建てられるのである。
 こうして街並みの骨格が出来上がり、役所や会社や商店が営業を始めて、ようやく都市らしい景観となるのである。 
 だが、南北を貫く大通りの両側に建てられたビルと、その大通りと交差する通りに沿った土地のあちこちに建てられたビルとでは、その配列や形状が明らかに異なっているのである。
 大通りの両側に立てられたビル群は、この地に大勢の人々がやって来て幸福な生活が営めるような大都市を形成してやろうとの、統一された意志と秩序に基づいて整然と立ち並んでいるのに対して、そうでない通りに沿った土地のあちこちに建てられたビルは、その間隔も高さも奥行きも外形もいろいろとりどりで、<立ち並ぶ>と言うよりは<立ち上がる>という言い方が適当な建ち方なのである。
 大通りでない通りに無秩序な建て方をしたビルのオーナーには、ただ単に、人の眼を惹き付けよう、人を集めて物を売って儲けよう、という儲け哲学以外の何物も無い。
 彼らは、言わばこの街の寄生虫なのである。
 街の寄生虫なるが故に、彼らは互いに連絡し合うことも協力し合うことも無く、その土地の元の所有者であった人々の横面を札束で叩き、それぞれ、自分なりに手当てをした土地に、大小さまざまのビルをにょきにょきと立ち上げただけのことである。
 本作の作者・飯田和馬さんは、社会派歌人の名に相応しく、その秩序と無秩序とが交差した都市の成り立ちの一部始終を観察して、この一首を詠み上げたのである。
 簡にして要を得たその表現には、徒に他人の作品を貶すこと趣味とする評者と言えども、学ぶべき多くのものを感じてならない。
 この作品についてもう一言申し述べると、私は先刻、こうして形成された都市の大通りに面して建ち並んだビル群は、一定の秩序と高邁な意志に基づいて建てられたものであり、そうした秩序も意志も無く立ち上げられた、大通り以外の通りに面したビルとは異なると説明したのであるが、その説明は、話を要領良く解り易く展開するための嘘である。
 よくよく考えてみると、この新興都市の南北を貫く大通りも、それ以外の通りも、そして、それらの通りに面して立てられたビルもその中身も、建設以前からの、行政とその行政と関係を持つことに拠って、何らかの利益を上げようとする資本主義者との、談合ないしは協力に拠って計画されていたものなのである。
 そして、そうした為政者とその取り巻きとの談合ないしは協力に拠って立ち上げられたその新興都市計画は、もっと巨視的な観点に立ってみると、その発端から終末まで、神の意志に拠って為されたものであり、それを立ち上げた為政者や為政者の取り巻き、及び彼らによって立ち上げられた都市の住民たちの生活の全ては、神の意志のまにまに、躍らせられているものに違いないのである。
 本作の作者・飯田和馬さんとて、恐らくは其処までを見通して、この一首を詠んだのでないでありましょう。
  〔返〕 神々の邪悪な意志に踊らされにょきにょきと立つビルの愚かさ   鳥羽省三


(伊藤夏人)
   南北に分かれるならば北に行く君と秘密を守って行こう

 「南北に分かれるならば北に行く」と言うのは、いかにも<糸引き納豆本舗>の御曹司・伊藤夏人らしい発想である。
 愛して止まない「君」と別れて北に行って粘り強く働き、いつの日か南北統一の大事業を成し遂げるというのが、彼の悲願であり、彼と彼女との「約束」なのでありましょう。 
 この点は、アメリカ議会の強欲議員どもに、へいこら頭を下げに行って、下手な英語でお詫びをして来た、どこかの家の御曹司とは、人間の出来も根性の在り様も根本から異なるのである。
  〔返〕 秘密とは南北一つの悲願なり二人の約束守って行こう   鳥羽省三


(伊藤真也)
   南北を指し示すしか能がない方位磁石に無言の嫉み

 こちらの伊藤さんは、姓は同じでも、前作の作者の伊藤夏人さんとは人間の出来が違って、根性も定見も持っていないのだ。
 方位磁石の存在理由は只一つ、南北を指すことに在る。
 したがって、彼にそれ以外の能力や役割りを要求し、期待するのは、無理難題というものであろう。
 それなのに、本作の作者の伊藤真也さんが、「方位磁石」に「南北を指し示すしか能がない」と「無言の嫉み」を感じているのは、自分が理想も定見も持たずに、いつもふらふら揺れているばかりだからであるに違いない。
  〔返〕 南北を指し示すのが役割りの方位磁石は常に前向き   鳥羽省三 


(nene)
   東西と南北が交差する地下をお仕事用の顔して歩く

 作者の<nene>さんがそれと断っているわけではないが、この一首の舞台は、明らかに東京メトロの東西線と南北線とが交差する唯一の駅の地下街、即ち、飯田橋駅の地下街なのである。
 その飯田橋駅の地下街を、「お仕事用の顔して歩く」人物は、本作の作者・<nene>さんの分身とも思われるが、その人物の「お仕事用の顔」とは、日本髪を結った顔であり、彼女の「お仕事」は、この駅の近くの神楽坂の芸者さんなのである。
 都会の地下街を「お仕事用の顔して歩く」などと詠んだ歌に出会うと、愚かな鑑賞者たちは、あのバンクーバーオリンピック大会に大口叩いて参加した挙句、金銀銅のメダルはおろか、触れば融ける氷のメダルさえ手にすることが出来ずに、全地球の人々の笑い者となった、あのカーリングの<チーム青森>の選手たちの、壁土を塗りたくったような顔を連想するに違いないが、その発想の貧しさには、全く驚く他はない。
  〔返〕 上下と前後左右が交差するトンネル工事は足場無しだぞ   鳥羽省三 


(冥亭)
   朱雀おく南北には玄武あり われが継ぎたる牙と鉤爪

 <四神相応>という言葉が在る。
 それは、「天の四方にはそれぞれの方角を司る<四神>が居て、その四神には、その存在に最も相応しい地勢や地相が在る」という考え方である。
 我が国の平安京もまた、その<四神相応>という考え方に基づいて建設されたものであると言われているが、四神相応という思想の信奉者たるその建設者は、京都の北の丹波高地は四神のうちの北の方角の守護神である<玄武>を置くに相応しい土地、南の巨椋池は南の方角の守護神の<朱雀>を置くに相応しい土地、東の大文字山は東の方角の守護神の<青龍>を置くに相応しい土地、西の嵐山は西の方角の守護神の<白虎>を置くに相応しい土地と見立て、その真ん中の地を選んで<平らかで安らかな京(都)>としたのである。
 この考え方は、大相撲の土俵を飾る四色の房(柱)にも取り入れられ、昨今話題の元横綱の朝青龍の名の<青龍>は、もともとは、土俵の正面東側(東北)を守る<青龍神>に因んだものであった。
 だが、そのご本尊の朝青龍が、自分の守備位置の東側ばかりか、土俵の東西南北、上下左右の全てを、生まれつき所持していた鋭い「牙」と「鉤爪」とで以ってさんざん荒らし回ねった挙句に引退宣言をして、常夏の国・ハワイでゴルフ三昧の生活をしているのは、これまたあまりにもあきれ果てた話である。
 その朝青龍問題での日本相撲協会や横綱審議委員会の対応は、まるで赤子のような幼稚なものであった、と私は思っている。
 彼の朝青龍が、馬鹿親方と一緒にしぶしぶ<引退届け>を出しに来た時、それに対応した理事者側は、その受け取りを一時保留したままに、即日、関係機関に諮って、彼を<張り出し大関>に格下げし、それ以後の一年間の成績が最低でも八十勝もしくは優勝三回以上であった場合のみ横綱への復帰もしくは引退を許す、という条件をつけて、彼の行き場所を塞いだ上で、彼の奮闘を促すべきであったのである。
 彼をそういう境遇に追い込めば、如何に怠け者の彼とて一念発起する他無く、また、彼以外の力士たち、特に日本人の力士たちは、「朝青龍なにするものぞ」、「日本の国技の貞操を守れ」とばかりに稽古に励み、ここに朝青龍の汚名挽回のリベンジ相撲とアンチ朝青龍相撲との激しい攻防相撲が展開されて、それ以後の六場所は連日<大入り満員>、テレビ桟敷も朝青龍が土俵に上る五時過ぎには、満員盛況の事態を現出させること間違いないものと思われるのであるが、そうした私の発言は、今となってはあまりに遅過ぎた発言ではある。
  〔返〕 鉤爪と牙を継ぎたる冥亭が何ぞ夜毎の酩酊騒ぎ   鳥羽省三


(西中眞二郎)
   南北を逆に描きし世界地図掲げし部屋を訪いしことあり

 それはオーストラリアの地図でしょう。
 最近では、東京日本橋の丸善などでも簡単に買えるそうですよ。
  〔返〕 キャンベラを中心とした世界図の川崎の位置想像し難し   鳥羽省三 


(天野ねい)
   右左東西南北前後ろ どこにもなくてどこにでもある

 一字以外は漢字だけの上の句と、ひらがなばかりの下の句との対比が興味を引く作品である。
 それだけに、三句目「前後ろ」の「ろ」の一字が惜しまれる。
 その問題を解決することが不可能な以上、いっそのこと、その対比を捨ててみたらどうだろうか?
  〔返〕 まえうしろ東西南北みぎひだり 何処にも無くて何処にでも在る   鳥羽省三


(こゆり)
   あなたにはあなたの未来 南北に別れて眠るつまさきが冷える

 家庭内離婚状態の夫婦なのか?
 寝室を二つに区切って、夫のあなたが南側に寝、妻の私は北側に寝る。
 南側に寝ているあなたはどんな未来像を描いているのか、先刻から気持ち良さそうにしてすやすやと眠っているのだか、北側に寝ている私は、それを見ていると腹が立つやら何やらで、まんじりとすることも出来ない。
 ああ、あなたの安眠を見つめながらの一人寝は辛く侘しく腹が立つ。
 何やら足の爪先が冷えて来た。
  〔返〕 南北の接する辺りは赤道だ足を伸ばして絡めば熱い   鳥羽省三


(Ni-Cd)
   南北にのびるのは父 東西にのびてわたしを抱くのは母

 こちらも寝室。
 広さは八畳か?
 南側に頭、北側に足を向けて、大の字になって眠っているのは父。
 父と垂直に、東側に頭、西側に足を向けて眠っているのは母。
 母は未だ幼い私の身体を、寝相の悪い父の手足の攻撃から守るようにして、抱いて眠っている。
  〔返〕 八畳に親子三人寝そべって<川>を描けぬ昼寝わびしき   鳥羽省三


(チッピッピ)
   南北が分からないから眠れない枕気になるむささびの宿

 「北枕は死人の枕」という伝承を信じている者が、「南北が分からないから眠れない」、だから「枕」が「気になる」という思いに捉われるのは、何も「むささびの宿」に泊まった時に限らないことだろう。
 それなのに、こんな歌を詠んでしまうのは、本作の作者・<チッピッピ>さんが、古今、新古今の伝統的、保守的な短歌観の持ち主だからでありましょう。
  〔返〕 まえうしろ判らないから着られない中国製の105円シャツは   鳥羽省三


(陸王)
   南北の河は水浴びする子らの姿もなくて38℃

 気温が<38℃>にまで上昇した朝鮮半島の真夏日。
 国を南北に分けて貫くイムジン河には、水浴びをする子供たちの姿も無くて寂しい。
 気温を表わす「38℃」は、南側と北側との境界の北緯38度線をも表わしている。
  〔返〕 イムジンの川面を照らす日は熱く北緯三十八度線銃音もせず   鳥羽省三


(龍庵)
   南北を自由に行き来することが出来ぬ川あり隣の国に

 「イムジン河/風清く/滔々と流れる」。
 あの加藤和彦も死んだ。
 西岡恭蔵も死んだ。
 高田渡も死んだ。
 忌野清志郎も死んだ。
 日本のフォーク界はまるで歯を抜かれた草食系男子のようだ。
 俺はさびしいぞ。
  〔返〕 東西を自由に行き来出来ぬ壁壊れて二十数年経った   鳥羽省三 
 

(髭彦)
   東西の壁の崩れて時経てどアジアに残る南北の壁

 「アジアに残る」のは「壁」では無くて、高圧電流の流れる鉄条網と一本の河でありましょう。
  〔返〕 南北を隔てる河の河淀に電気鯰がうようよと居て   鳥羽省三


(野州)
   街川は少しかしぎて南北に流れてゐたり鴨を浮かべて

 「街川」が「鴨を浮かべて」いる光景は、川に産業廃棄物や家庭ごみを流さなくなった最近では、何処の都市にでも見られる。
 「街川は少しかしぎて」とは、作者・野州さんの生きる姿勢の反映でありましょう。
  〔返〕 街川の春は朧に花筏いくつ浮かべて今朝は流れる   鳥羽省三


(穂ノ木芽央)
   南北をつらぬく河に添ひて翔ぶ風切羽に焦がれた日々よ

 この一首に、いわゆる「南北問題」の反映が認められるかどうかは、私には解らない。
 しかし、「風切羽に焦がれた日々よ」は、その疑問を解く重要な鍵なのかも知れない。
  〔返〕 カササギの風切る羽の傷つきて雛待つ北の巣には帰れず   鳥羽省三 


(秋月あまね)
   南北を分かつ鎖は緩くなる 炉心に雪が降り積むころは

 「炉心」とは、<原子炉で核分裂反応が起こっている部分>のこと。
 その「炉心に雪が降り積むころ」とは、北朝鮮の厳寒期を指して言う。
 その季節ともなれば、いかに志操堅固な北朝鮮の為政者と言えども、<背に腹は変えられぬ>とばかりに「南北を分かつ鎖」を緩くして、ひたすら自由主義諸国からの経済援助を仰ぐ姿勢に転じる、と言うのが本作の趣旨である。
 ならば、本作に託して作者が述べようとしたのは、極めて政治的な主張でありましょう。
 短歌を観賞している者の全てが科学的知識に通暁しているとは必ずしも思われない今日、「炉」ないし「炉心」という言葉から連想されるものは、<炉辺>とか<炉端>とかと言った、短歌的抒情を醸し出すような懐かしい言葉でありましょう。
 そうした状況を十分に踏まえた上で、本作の作者・秋月あまねさんは、短歌的抒情とはおよそ無縁なこの一首を投稿したのである。
  〔返〕 原子炉の炉心が赫々と滾るとき南北分かつ鎖の堅し   鳥羽省三


(行方祐美)
   南北の違ひくらゐの温度差を保ちつづけてまた春が来ぬ

 緯度差の大きい我が国に於いては、同じように「春が来ぬ」と歌っても南北の緯度差の違いに応じた「温度差」があり、春の訪れ方があろだろう、と言うのが本作の趣旨である。
  〔返〕 東西の違いくらいの時間差を感じさせつつ夜は来たれり   鳥羽省三


(周凍)
   南北の山と嶺とを仰ふぎみて高きを比ぶ童なるかな

 筑波山と富士山が背比べをして筑波山が勝った、という伝説が茨城県に在る。
 これと同じような伝説が、日本全国の各地に在り、その組み合わせは、富士山と八ヶ岳、津軽富士と岩手富士、大山と鷲峰山など等、その伝説が伝えられている地方に応じて様々である。
 斯ほど然ように、私たち日本人は高さ比べが好きで、「柱の疵はおととしの五月五日の背比べ」という小学唱歌なども、私たちのそうした性向を反映したものであり、本作の作者もまた、それを反映して、この一首を成したものでありましょう。
  〔返〕 マスコミは哀れ浅田をキムヨナと対決させて笑いを取った   鳥羽省三
 

(牛隆佑)
   東西とか南北なんて知らないし知りたくもない 私は此処だ

 <方向音痴願望症候群>重症患者・牛隆佑氏。
 この一首は、彼・牛隆佑氏の<人間宣言>かも知れない。
  〔返〕 人間と牛の違いは知ってるし知らなくもないでも我は牛   鳥羽省三


(ミナカミモト)
   南北を逆さまにして地図を持ち「上」とか「下」とか言わないでほしい

 カーナビの設備の無い中古車中での、運転席と助手席との口喧嘩であろう。
 自動車が南下している時、助手席で道路地図を手にして道案内する者は、手にしている地図を逆さまにして、上だとか下だとかと言って、進行方向を指示しなければならないのであるが、女だてらに彼氏を助手席に乗せている本作の作者は、気が強いから、助手席での彼氏のそうした指示の仕方に耐えられないのである。
  〔返〕 言い方が気に食わぬならどうかカーナビつけて下さい宜しく   鳥羽省三 


(sei)
   南北に極ありてそのいづかたも極寒なれば中庸の善し

 <中間>と言えばよいところを「中庸」と言うところの面白さとつまらなさ。
  〔返〕 中庸は赤道なれば熱過ぎる寒さ熱さは程度問題   鳥羽省三


(ぱぴこ)
   教室の東西南北めじるしは 市役所、サティー、橋、医科大学

 土地の高低を問わず、距離の遠近を問わず、どんな場所にでも、その場所なりの<ランドマーク>が在るから、<ばひこ>坊ちゃんが通っている学校の教室にも、その「教室」なりの<ランドマーク>が在ったのである。
  〔返〕 東親の我の標的 対面の西を沈めてトップで上る   鳥羽省三


(青野ことり)
   南北に伸びる街路が薄桃の帯になる春 駅を背にして

 「南北に伸びる街路が薄桃の帯になる春」という句から、本作の舞台を、桃の花咲く山梨県の勝沼近辺としたいところであるが、春ともなれば、桃の花が咲こうが咲くまいが、「街路が薄紅の帯」になることもあるから、即断は許されない。
  〔返〕 東西に伸びる街路の片側の薄桃色は更に薄くて   鳥羽省三


(A.I)
   南北をわかつ川あり関のあり人が造りし国境あり

 作中の「関」とは関所のこと。
 だとすれば、是もまた「人が造りし」ものであり、「国境」であるから、ここら辺りが本作の欠点かも知れない。
  〔返〕 南北を分かつ壁あり関所在り自然の山河も行く手を隔つ   鳥羽省三


(いさご)
   南北にわたる春風 わたしたち明日ドレスを摘みにいきます

 「わたしたち明日ドレスを摘みにいきます」という格別に奇抜な下の句を買った。
 房総の春を行くと、確かに極彩色の「ドレス」と呼びたくなる草花に出会うことも多い。
  〔返〕 丑寅より吹き来る山背 私たち今日から股引穿いて居ります   鳥羽省三 


(鮎美)
   南北を忘れし方位磁石のやう酒を飲みゐる君はさながら

 「南北を忘れし方位磁石」とは、自己の果たすべき役割りである、南北を指すことを忘れたかのようにいつまでもふらふらと動いている、壊れた方位磁石である。
 「酒を飲みゐる君」を、その壊れた方位磁石に例えたのは、「君」なる人物がアルコール中毒に冒されているからでありましょう。
 でも、愛情を持って諭せば、「君」はきっと立ち直りますよ。
  〔返〕 肴なる鮎が美味にて飲み過ぎたこの責任は鮎美にも在る   鳥羽省三


(畠山拓郎)
   南北が一体化する日やいつか富山の駅の未来を想う

 南北問題は朝鮮半島のみならず至る所に存在する。
 近年の都市再開発に伴って超モダンな現代都市になったJR富山駅の北口と、未だにレトロなチンチン電車が走っている南口のアンバランスは、富山市民の頭痛の種となっているのだそうだ。
 これまた、形を変えての南北問題である。
 本作の作者の畠山拓郎さんは、この問題に取材して一首を成しているのであるが、下の句に「富山の駅の未来を想う」とあるように、彼の姿勢は常に前向きであるから、鑑賞者たちからは、拍手喝采を以って迎えられるのである。
  〔返〕 富山駅のホームに立って眺めたる雪を戴く神秘な立山   鳥羽省三

  
(理阿弥)
   赤道で切った林檎の南北をそれぞれ俺とジョリィで分ける

 「ジョリィ」とは、何処の国の何方ですか?
 理阿弥さんともあろう歌詠みが、虚仮脅かしのカタカナ名前を使うのは止めましょう。
 ところで、一個の林檎を二人で分け合って食べる時は、通常、縦割りにするものですが、この作品の「赤道で切った林檎の南北」という表現から判断すると、理阿弥さんは、そうした世間の常識に逆らって、林檎を横割りに割って食べたと思われます。
 同じ一個の林檎でも、上半分と下半分とでは美味しさが全然異なるのです。
  〔返〕 横割りの林檎の上を俺が食い下半分はジョリィが食った   鳥羽省三


(虫武一俊)
   東西と南北の道の交点に「英雄」顔をして立ってみる

 世界中の何処の国でも、その首都の主要な道路と道路の交差点に、その国の建国の元祖や革命の英雄とでも言うべき人物の銅像が立っているものである。
 本作は、一見<てなもんや短歌>の典型とも思われる作品ではあるが、作者は他ならぬ<虫武一俊>さ。
 ただの<てなもんや短歌>で終わるはずも無く、軽口めかしたもの言いの背後には、作者・虫武一俊さんの激しい文明批判、現代社会の精神が隠されているのである。
  〔返〕 天と地の狭間に立って睥睨すレーニン像のうら錆びにけり   鳥羽省三


(ウクレレ)
   南北も上下ももはや分からずに恋をしている無重力にて

 上下左右、東西南北も知覚せぬままにしている、「無重力」ならぬ無我夢中の「恋」である。
 これを以って<盲目の恋>とも呼ぶが、<盲目>なる語が差別語として排斥されている今日、この種の「恋」を一口で以って表現する語が無いから、鬼才・ウクレレさんは、このように持って回った言い方をしているのであろう。
  〔返〕 東西も左右も見えぬ恋をして国境越えた岡田嘉子よ   鳥羽省三  


(中村梨々)
   南北を結ぶ線上ゆらゆらと立ちのぼる火が湖底に落ちる

 推理小説界期待の女流新人作家・中村梨々作『野尻湖畔貸別荘放火殺人事件』
    本日発売
                           定価(1800円+消費税)
  〔返〕 夕映えにゆらゆら燃える空の下焼殺されし美女の巨乳は   鳥羽省三
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一首を切り裂く(008:南北)其のⅠ

2010年02月24日 | 題詠blog短歌
 お題が「南北」という、比較的に歌中を詠み込み易い単語であったから、普段は箸にも棒にも掛からないような作品ばかりなのに、今回は観賞に値するような作品が続出して、評者は音を上げた。
 しかし、手間暇を惜しんでせっかくの傑作をスルーするのも癪に障る話なので、この際思い切って、間口をうんと広げて、いつもの数倍の作品を束にして観賞することにした。
 よって、観賞文がわずか一行足らずの作品も在り、長くとも二十行を越えないように心掛けたので、いつもの駄弁は極力抑えることにしたので、枉げてご承知下さい。
 先ず手始めに、お題「南北」を一語として捉えていない作品について。

(珠弾)
   南北海道代表校の優勝で白河越えは果たされたのか

 2004年8月22日、<第86回・全国高等学校野球選手権大会>で、南北海道代表校・駒沢大学付属苫小牧高等学校が優勝した。
 それまでのマスコミや高校野球界では、「夏の甲子園の優勝旗は白河の関を越えない」というのが定説があったので、この駒大付苫小牧高校の優勝で以って、この定説は一応覆されたことにはなる。
 しかし、「白河の関を越えない」という場合の「白河の関」とは、関東の東の端の栃木県と、東北の西の端の福島県との県境であり、その向こう側は東北地方である。
 つまり、「夏の甲子園の優勝旗は白河の関を越えない」という定説の主たる意味は、「東北地方の高校は夏の甲子園野球で優勝は出来ない」というものであったに違いない。
 しかし、駒大付苫小牧高校の在る苫小牧市とて、東北と北海道の違いは在るが、<夏の甲子園大会の優勝旗が超えない>とされていた、<白河の関>の向こう側に位置することには違いは無い。
 本作の作者は、その矛盾をついたわけである。
 ユーモアセンスに富んだこの作品は、奥村晃作氏言うところの<気付きの歌>であろうが、インターネツト歌壇にこうした傑作が続出するようになれば、今でさえ青息吐息状態の総合誌や結社誌は、その命脈を自ら断ってしまうに違いない。
 「題詠2010」にご参加なさって歌人諸氏のご奮闘を期待して已まない。
  〔返〕 徒歩でもて北海道には行かれないだから大旗関を越えない   鳥羽省三


(藻上旅人)
   八尾南北田辺間のパティスリー1店(たな)余(あま)して別れる2月

 「パティスリー」の意は、「小麦粉を生地に使ったケーキ類などの総称。またはそれの店」とのこと。
 また、「八尾南」は大阪市営地下鉄谷町線の終点駅であり、その谷町線沿いの大阪市東住吉区に「北田辺」という地名が在る。
 鑑賞者泣かせの舌足らずな表現であるため、その内容はよく解らないが、ひと先ずはごく軽めに解釈しておきましょう。
 察するに、本作の話者と彼が密かに情熱を燃やしているある女性とは、この正月明けに、大阪市営地下鉄谷町線沿線を二ヶ月かけてのスイーツ探訪計画を立てたのである。
 計画は順調に実行に移され、彼と彼女の仲も互いに身の上話を交わす程にまで発展した。
 ところがこの二月半ばになって、彼女側からの一方的な申し出によって、あと一箇所を残すだけとなったその計画は頓挫することになってしまったのである。
 行かずじまいになってしまった一箇所とは、大阪市営地下鉄谷町線の終点・八尾南駅から大阪市東住吉区北田辺に至る道筋に在って、連日連夜、数十メートルに及ぶ行列が出来るという評判の「パティスリー」なのである。
 彼はこの「パティスリー」に彼女を連れて行って、この店の<売り>のスイーツを腹一杯食べさせてから、それと無く誘惑し、強引に身体の関係を持ってしまおうという目論みだったのである。
 しかし今となっては、その目論みも目論みのままに終わってしまい、彼と彼女は、この「2月」を以って「別れる」ことになってしまったのである。
 次いで、もう少し深刻な事態を想定して解釈してみよう。
 本作の作者の藻上旅人さんは、結婚を約束したある女性と、大阪市営地下鉄谷町線の終点・八尾南駅から大阪市東住吉区北田辺に至る道筋の繁華街に「パティスリー」を共同経営していて、これまではそれなりに繁盛していたのだが、「良い事はいつまでも続かないもの」という世間の例えの通り、この正月明けに近くの繁華街に、「安かろう美味かろう」という名の競合店で出店したので、先月から今月にかけての売上高が激減し、それに伴って、結婚まで約束していた彼女との仲もかなり険悪なものになってしまったのである。
 この一首は他ならぬ藻上旅人さんの作品であり、お題「南北」をまともに捉えないで詠もうとした意欲的な作品であるからやむを得ず採ったが、私以外の一般読者にとっては、あまりにも舌足らずで、何がなんだかよく解らないことであろう。
 表現技術的な面での欠点を指摘すれば、下の句が「1店(たな)余(あま)して別れる2月」
となっているが、インターネットを通じての歌会では、見栄えが悪くなるから無用な<ふりがな>は禁物である。
 「店」は「たな」と読まれようが「みせ」と詠まれようがそれほどの違いは無いのに、わざわざ括弧つきの振り仮名を施してまで「たな」と読ませようとしたには、作者の心のなかに、「店」を「みせ」と読まずに「たな」と読めば、文学的、大阪的な表現になる、などという幼稚な考えがあったのではないだろうか。
 「余して」は、猫だろうが杓子だろうが「あまして」と読んでくれるはずだが、それでも確信が持てなかったら、「残して」にすればいいだけのことなのである。
 インターネット上では、通常のやり方で振り仮名を施すことは出来ないから、括弧付きの形で施すしかない。
 それは明らかにインターネットの欠点であり、インターネットでは歌会を行うことが不可能である、と指摘されてもいいくらいの欠点なのである。
 短歌とは、音読して観賞し、黙読して観賞するものであるから、やたらに嵩張り、見栄えの悪くなる括弧付きの振り仮名は、出来るだけ施すべきではない。
 どうしても施す時は、その欠点を補うようなメリットが在ると確信出来る時である。
 それと、もう一点。
 作者は、この下の句で、何故、「1」「2」の数字遊びをやったのか?
 これを避ける方法は無かったのか?
 藻上旅人さん、以後、厳重に注意すべし。
  〔返〕 商品がパティスリーだけに甘かった女性相手の商売辛い   鳥羽省三
      八尾南北田辺間の道沿いの名物スイーツ食べて別れた     同


(tafots)
   地獄まで繋がるエスカレーターは南北線のホームに至る

 首都圏に居て「南北」と言えば、すぐ思い出すのは東京地下鉄(東京メトロ)の「南北線」である。
 この地下鉄は東京都品川区の目黒駅から北区の赤羽岩淵駅を結んでいるのであるが、開設時期が、ごく最近であるから、地上から乗車ホームに行くまでは、険しくて長い「地獄まで繋がる」ような「エスカレーター」に乗らなければならないのである。
  〔返〕 歩かずにエスカレーターに乗っていて地獄までとはなかり大袈裟   鳥羽省三


(斉藤そよ)
   なんらかの原風景か さっぽろの 南北線の高架シェルター

 地下鉄・南北線は札幌にも在る。
 それは、札幌市北区の麻生駅から同市南区の真駒内駅までを結ぶのであるが、その途中の
平岸駅から真駒内駅までの <4.5km>は、建設費圧縮を目的にして地上高架となっているが、雪を防ぐためにアルミ合金製のシェルターで覆われているのである。
 本作の作者は、この「高架シェルター」に着目し、これを「なんらかの原風景」なのか、と奇異の眼差しを向けているのである。
  〔返〕 来たるべき核戦争を予言する風景なのだ高架シェルター   鳥羽省三 


(木下奏)
   それぞれの磁石を持って生きていく南北線に乗ったボクらは

 そうですか。
 本作の作者・木下奏さんは男性ではなくて女性なんですか。
 それなのに、本作の話者は「ボクら」なのである。
                          (ここまでは、評者の独り言)
 こういう作品に出くわすと、アララギ流の「作者=話者=作中主体」という公式が揺らいで来る。
 「それぞれの磁石を持って生きていく」のは、「南北線」の乗客であろうとなかろうと変わりが無いことですから、それは致し方の無いことでしょう。
  〔返〕 それぞれに持てる磁石は異なれど磁石は全て南北を指す   鳥羽省三


(梅田啓子)
   南北線おどろおどろし脳天ゆ爪先までを貫くごとし

 作者が「おどろおどろし」と感じたのは、「南北線」という、地下鉄のネーミングそのものに対してに違いない。
 「南北」と言えば、米国の<南北戦争>、そして、<北緯三十八度線を境としての、朝鮮半島の南北分断>などと、おどろおどろしいことばかりなのである。
 したがって、「脳天ゆ爪先までを貫くごとし」という下の句の表現は、言い得て妙なり。
  〔返〕 東西線そらぞらしくも貫けりオレンジ革命おじゃんになった   鳥羽省三


(橙)
   午後5時の南北線で立ち尽くす 夕焼けホーム飛び込まないよ

 電車への飛び込み自殺の後始末に要した経費の全ては、自殺者の遺族たちが負担しなければなりません。
 「午後5時の南北線で立ち尽くす」ことはあっても、「夕焼けホーム」には絶対に「飛び込まない」ようにして下さい。
 こうした、一見すると「なんちゃって短歌」と思われかねない作品は、音数は勿論、字配りや見た目などが、その評価に大きく影響します。
 例えば、本作の初句「午後5時の」の「5」が半角打ちとなっていますが、これは明らかに、不注意による作者のミスである。
  〔返〕 宵闇の三番ホームで酔いどれて最終電車に乗り遅れたの   鳥羽省三


(空音)
   ipod10曲ほどの君の街南北線で繋がれている

 この作品の場合、初句の「ipod」は製造発売業者が登録した商品名が半角打ちの「ipod」となっているのだから、「ipod」としたり「IPOD」としたりすることは出来ない。
 これを製造し販売している業者にとって、この画期的な商品の名称は、コンピューター社会を反映した<半角打ち>の「ipod」でなければならなかったのであり、「10曲」の「10」の<半角打ち>とは明らかに重さが異なるのである。
 しかしこのままでは、短歌作品としての見栄えが良くなくなるから、せめてもの救済措置として、これを括弧で括って、〔ipod〕か<ipod>にした方が宜しいかと思われる。
  〔返〕 <ipod>十曲ほどの君の街 僕の故郷になりかかってる   鳥羽省三 

 
(天国ななお)
   大声の別れ話に逃げ場なく南北線は目黒駅着

 「目黒駅」は東京メトロ・南北線の始発駅。
 本作の話者は、この南北線と接続している埼玉高速鉄道の何処かの駅から乗車し、車中で、「逃げ場」が無く、妥協の余地の無い「別れ話」を交わしながら「目黒駅」までやって来て、その決着をつけないままに、そこで下車しなければならないのである。
 東京、神奈川、埼玉の各都県に居住し、神奈川や埼玉から都心に出る交通機関に長年乗車して来た私の経験から言うと、埼玉の人間は神奈川の人間に較べて、何かにつけてあけすけで、それが埼玉の人間の良い所でもあり、悪い所でもあるのだが、電車やバスの中で、大声で口喧嘩したり、時には取っ組み合いの本格的な喧嘩までする。
 その口喧嘩の内容は、お金に関わることであったり、夫婦や恋人同士の別れ話であったりもするのである。
 本作の作者・天国ななおさんの観察眼は凄い。
 特に、人間を見つめる眼差しの鋭さには驚嘆せざるを得ない。
 本作の舞台を「南北線」にしたのは、お題「南北」を詠み込むためにわざわざそうしたのでは無く、本作中で展開されている人間ドラマを、本作の作者ご自身が「南北線」の車中で実見したからでありましょう。
 本作に、「話者=作者」というアララギ派特有の公式を当て嵌めたら、本作の作者に対して、余りにも失礼なことでありましょう。
  〔返〕 だみ声の儲け話を聞かせられ埼京線を渋谷まで来ぬ   鳥羽省三  
 
 
(如月綾)
   あの人の家まで向かう南北線 明日からはもう乗ることもない

 こちらは別れ話をされることを予想して乗る「南北線」。
 別れ話をするに違いない相手を「あの人」と言っている点から察しても、「明日からはもう乗ることもない 」と、未練がましく言っている点からしても、話者の気持ちの中には未だ迷いが在る。
  〔返〕 「この街で、もう一度また、僕とやり直そう」なんちゃったりされたなら   鳥羽省三


(翔子)
   吉野葛潤一郎に南北朝一目千本西行もいる

 南北線に続いては「南北朝」。
 「南北朝」時代とは、1336年(延元元年/建武3年)に足利尊氏による光明天皇の践祚があって、後醍醐天皇の吉野朝と皇室が分裂してから、1392年(元中9年/明徳3年)に両王朝が合一するまでの時代を指すものであり、室町時代の初期に当たる。
 本作は、南北朝時代の立役者・後醍醐天皇が立て篭もった奈良県・吉野地方を舞台にするものであり、作中の「吉野葛」とは「(谷崎)潤一郎」作の小説、「一目千本」とは、その吉野山の桜の名所で、下から順に下千本・中千本・上千本・奥千本と続き、その中の奥千本には、吉野の桜を愛して住んだ、西行法師の住居跡・西行庵がある。
  〔返〕 吉野葛・後醍醐天皇・西行庵・奥・上・中・下・一目千本   鳥羽省三


(中村あけ海)
   これもまたバブルの名残南北朝時代の皿が応接室に

 こちらは、同じ南北朝時代でも中国史の南北朝時代のことで、北魏が華北を統一した439年から隋が中国を再統一する589年まで、中国の王朝が南北に並立していた時期を指す。
 この時代は、陶磁器の優品が盛んに造られた時代であり、日本に輸出されたその品が、バブルで儲かっていた本作の話者の勤務する会社の備品となり、バブルが弾けた今になっても応接室に飾られている、という想定であろう。
  〔返〕 北魏なる遠き国より渡り来てバブルに塗れし一枚の皿   鳥羽省三


(コバライチ*キコ)
   戯作者は鶴屋南北「盟三五大切(かみかけて さんご たいせつ)」殺しも忠義
 
 鶴屋南北は江戸末期の劇作家であり、『盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)』は、『東海道中四谷怪談』と並ぶ、彼の代表的劇作の一つである。
 この劇の主役の薩摩源五兵衛は、実は塩冶家浪人の不破数右衛門であり、旧主・塩冶判官の仇討ちをしようとしている忠義の侍なのだが、金に絡むごたごたが原因で大量殺人を犯してしまったのである。
 本作の作者は、作中に鶴屋南北作の戯曲『盟三五大切(かみかけて さんご たいせつ)』を、括弧付きのふりがな入りで採り入れているが、この括弧付きのふりがなは、藻上旅人さん作の場合のふりがなとは異なって、この作品を優れた一首足らしめるために是非とも必要なものである。
 即ち、この作品の鑑賞者は先ず、「戯作者は鶴屋南北『盟三五大切(かみかけて さんご たいせつ)』殺しも忠義」という一首全体に目を通し、作中の『盟三五大切』の所で一瞬戸惑い、その後に括弧付きのふりがなに着目して、この作品は、「げさくしゃはつるやなんぼく『かみかけてさんごたいせつ』ころしもちゅうぎ」と読むのかと納得し、感心して、一首の観賞をするのである。
 また、この括弧付きのふりがなは、単に、読者の音読の利便のためにのみ付されているのではない。
 そもそも、いかに江戸時代の知識人と言えども、判じ物紛いの『盟三五大切』という漢字だけの劇作の外題を、ふりがな無しにすらすらと読めるわけも無く、作者もまた、それで以って一種のエリート意識や衒学趣味を満たすような気持ちを込めて、わざとふりがな付きのの外題で付けたのである。
 こうした傾向は、この劇作に限ったことでは無く、作品や作者の違いを越えての、この時代の文学作品に共通した習慣であった。
 本作の難点を一つ指摘すると、それは、本作の作者が、劇作家・鶴屋南北を「戯作者」と呼んでいることである。
 劇作家(戯曲家)と戯作者の意味の違いを説明するまでも無く、その事は、他ならぬ本作の作者ご自身が既にお気付きになって居られることでしょうが、おそらくは、韻律をご重視される余りにこういう異例な措置を採られたのでありましょう。
  〔返〕 出演は市川染五郎『盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)』満員札止め   鳥羽省三 


(オオタセイイチ)
   黴臭い土蔵(くら)の奥から吾を呼ぶは『鶴屋南北全作品集』

 寡聞にして評者は、『鶴屋南北全作品集』なる刊行物の存在を知らない。
 類似の刊行物としては、岩波書店刊行及び三一書房刊行の『鶴屋南北全集』が有名であるが、もしかすると、本作の作者は、そのいずれかを所有するか、あるいはその存在を知っていて、本作の話者が「黴臭い土蔵の奥」の書棚にその種の刊行物を収蔵していることを想定してこの作品を詠んだものと思われる。
 凄惨な殺人事件を内容とした鶴屋南北作の作品集が「黴臭い土蔵の奥から吾を呼ぶ」というのは、いかにも南北作の劇作の内容に相応しい。
 また、「黴臭い土蔵の奥から吾を呼ぶ」書物を『鶴屋南北全集』とせずに『鶴屋南北全作品集』としたのは、そうした方が「五七五七七」の短歌形式に則っていて、韻律が感じられるからであろう。
  〔返〕 愛蔵の『鶴屋南北全集』の第六巻が紙魚に喰われた   鳥羽省三
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今週の朝日歌壇から(7)

2010年02月23日 | 今週の朝日歌壇から
○ ニホンゴに箸の持ち方、文化など囚徒に教え<草の根外交>  (アメリカ) 郷 隼人

 今週は、カリフォルニァの刑務所に服役中の歌人・郷隼人さんの作品が、高野・馬場・永田の三氏によって選ばれている。最初は高野公彦選。
 鹿児島生まれの一青年が渡米して、彼の地で結婚して一女を得た後、何かの事情で殺人を犯し、終身刑囚としてカリフォルニァで獄窓生活を送るようになってからもう二十五年余にもなるという。
 郷隼人さんは渡米以前から歌心を持っていただろうとは思われるが、入獄当初は自分自身の運命を悔やんだり呪ったりなどして、自分が短歌を詠んで朝日歌壇に投稿するなどとは、思いもしなかったことでありましょう。
 しかし、幾年かのそうした葛藤を経た後、それなりの安心境に入り、自分自身の過酷な運命を受け入れ、故郷・鹿児島に因んで、郷隼人というペンネームを得て朝日歌壇への投稿を開始するや今は亡き島田修二氏らの目に留まって、ほとんど毎週のように入選を果たすようになり、『窓光』『LONESOME隼人』の二冊の歌集を上梓するまでになった。
 その彼が始めた「<草の根外交>」が、「ニホンゴに箸の持ち方」や「文化など」を「囚徒」に教えることだと言う。
 作中の語句、「ニホンゴ」や「囚徒」及び括弧付きの「<草の根>」などには、作者・郷隼人さんご自身の、余人には窺い知れない思いが託されているのでありましょう。
 「頑なに心の中で抗えど寂しさという敵(エナミー)手強し」という作品は、今から十数年前の「朝日歌壇」を飾り、多くの人々に感動を与えた作品であるが、歌人・郷隼人さんは、今でもまだ、「寂しさという」「手強い」「敵(エナミー)」と「頑なに心の中で」戦って居られるのに違いない。
  〔返〕 獄窓に届けとばかり叩くキィー 一行記し二度涙する   鳥羽省三

 
○ 囚徒らにJAPANについて解説す孤軍奮闘草の根外交  (アメリカ) 郷 隼人

 「囚徒らにJAPANについて解説す」という、こちらの「草の根外交」は、括弧付きでは無い。
 その意図について、私は、カリフォルニアの獄舎で「孤軍奮闘」中の作者にお伺いしたいところではあるが、何分、彼の地は遠く、牢獄の扉は堅いから、その望みも叶わないことだろう。
  〔返〕 孤軍もて奮闘するは寂しくてしばし故郷の空思ふらん   鳥羽省三


○ 六千枚のトーストを焼くキッチンより餅焼くような匂い漂う  (アメリカ) 郷 隼人

 短歌作品の中に、「数百、数千、数万」などの巨大な数字を用いる者が多いが、その大半は、ただ単に「数が多い」ということを強調するために用いているだけであって、用いられているその数字には、厳密な意味での具体性が無い。
 しかし、本作の場合は、獄舎に束縛されている人々の概数から逆算しての具体的な表現と思われ、作者が入獄中の刑務所の巨大さが感じられも、併せて、一人一人の囚人が背負わされている罪状の重さと多様さが感じられるのである。
 「餅焼くような匂い漂う」という、四、五句の表現には、故郷の正月を懐かしむ作者の切ない思いが託されているのであろう。
 本作は、一日にわずか二度か三度の楽しみである食事時を今か今かと待ち焦がれている、囚人としての作者の、味覚や臭覚、更には触覚、視覚、聴覚に至るまでの五感の全てを駆使して感得し、表現したものであろうと思われる。   
  〔返〕 収容者総数約二千されば一人に三枚づつのトースト   鳥羽省三


○ 0歳は食べられぬから節分の豆を一粒ママに足します  (東京都) 有田里絵

 作者の有田里絵さんご自身が、「節分の豆を一粒」余計に貰える「ママ」なのであり、本作は、目前に居て、何事の理解も不可能なはずの我が子「0歳」に向かって、メノハリの利いた口調と大袈裟な動作とで以って、ユーモラスに言い聞かせているのであろう。
 本作に示されている世界は、<子育ての黄金時代>の一コマであろうが、こうした黄金時代は、あっと言う間に過ぎて行き、やがて里絵ママは、この子を持ったことを激しく悔やむことになるがも知れないのである。
 でも、それも一時的な現象であって、子供は親にとっては何物にも替え難い宝物なのである。
 私は昨日・二月二十二日の夜、妻に付き合って、往年のマラソンランナー・松野明美さんの子育てを記録したドキューメント番組を視てしまった。
 私の平常の感覚からすれば、松野明美さんのような激情型かつ劇場型で饒舌な女性は、この地上で最も苦手なタイプの女性であり、時には「この女、かなりイカレているのじゃないだろうか?」と思うことも再々であった。
 しかし、昨日のドキューメントを視た結果、障害児を我が子として持った母親の大変さを改めて強く認識し、松野明美さんに対する認識も少しく改めた。
 本作の作者もまた、あの番組を視たであろうか。
  〔返〕 災難を免れられる節分の豆を横取りママはずるいぞ   鳥羽省三


○ 「国母」とはゆかしき駅名身延線桃の花咲く亡き妻の里  (千葉市) 田口英三

 「国母」とは<天皇の母>の意。
 その「国母」という駅名が、「身延線」の終点・甲府駅の五つ手前に確かに在る。
 その国母駅を下車して辿る、「桃の花咲く」美しき土地が「亡き妻の里」だと、本作の作者の田口英三さんは詠うのである。
 <山が在っても山梨県>の、桃の花咲く里で産声を上げた一人の女性が、成長して都会に出て行き、一人の歌好きの男性と出会う。
 しかし、その幸福も束の間、やがてその女性は命を燃え尽くしてしまって、彼の男性を悲しみのどん底に突き落としてしまう。
 それから幾年経ったかは分からないが、平成二十二年二月、海を越えたカナダのバンクーバー市で行われた冬季オリンピック大会のスキーボード・ハーフパイプ競技の日本代表選手として選ばれた一選手の、選手村に入場する際の服装の乱れが物議を醸し、一時は、その選手が出場辞退寸前にまで追い込まれる。
 その話題の選手の姓が「国母」。
 奇しくも、「桃の花咲く」「亡き妻の里」に至る駅の名前と同じであった。
 「『国母』とはゆかしき駅名身延線桃の花咲く亡き妻の里」。
 それにしても、本作の作者は無類の歌詠み上手である。
 亡き妻への思慕の情を伝えるのに、「桃の花咲く」彼女の故郷の風景を持ち出し、あまつさえ、昨今話題の若者の服装の乱れに関するマスコミの話題までをも取り込むのである。
 このレベルの名人上手の手に掛かったら、山が在っても<山梨県>にされ、海が無く、波が立たないのに<波高島>にさせてしまうこと請け合いである。 
  〔返〕 海も無く波も無いのに波高島(はだかじま)裸なつかし下部(しもべ)の宿で   鳥羽省三
 うそ。うそ。
 私は身延山からの帰りの下部温泉の宿で、外国女性の裸踊りにうつつを抜かしたことなどはありませんよ。
 この一首は、私のかつての同僚の小清水先生の実体験から取材したものなんですよ。


○ 冬を生きる小鳥の嘴か金柑に小さき穴あり一つに三つ四つ  (埼玉県) 堀口幸夫

 「一つに三つ四つ」とは、一つの金柑に三つか四つの穴が空いているということである。
 この表現の素晴らしさは、ただ単に、数字の配列の巧みさのみならず、実景をありのままに映し得ていることである。
  〔返〕 冬を凌ぐ熊か猿かの智恵なるや巌の空ろに山栗いっぱい   鳥羽省三

  
○ 補聴器を外したままで曖昧な世界にいる人時にほほえむ  (三島市) 渕野里子

 耳の不自由な方が、何かの都合で補聴器をつけないままに外出などをしなければならない時の不安さは、いかばかりでありましょうか?
 其処は将に、何もかもが「曖昧な世界」に他ならない。
 その、<何もかもが「曖昧な世界」>に居なければならない、という不安が、耳が不自由であるにも関わらず、補聴器を身につけないで外出した人の顔に、微笑みを作らせるのである。
  〔返〕 時に笑み時に不安を浮かべつつ白杖の人駅舎を歩む   鳥羽省三


○ ブレーキを踏むタイミングが少しだけ遅い気がしてわたし疲れる  (春日井市) 田中絢子

 太平洋を隔てた彼岸の国で、史上空前のリコール騒動を引き起こしてにっちもさっちも行かなくなった某自動車会社の御曹司社長が、彼岸と同じような問題が生じていると訴え出た此岸の消費者に対する対策を巡って行われた記者会見で、「彼岸の場合とと異なって、此岸の場合は、機械構造的には何ら問題点は見当たらないのであるが、もしあるとすれば、運転する人のブレーキを踏んで自動車を制動するということに対する感覚の問題でしょう。踏み方が弱過ぎるとか、遅過ぎるとか」といったようなニュアンスの言葉を発して物議を醸している。
 本作の作者もまた、彼の御曹司社長の問題発言に、少なからぬ疑問を感じている自動車運転者の一人でありましょうか?
 「ブレーキを踏むタイミングが少しだけ遅い気がしてわたし疲れる」。
 この一首は、極めて婉曲な表現ではあるが、彼の御曹司社長の発言に対する、痛烈な批判である。
 今後、本作の作者のように、「ブレーキを踏むタイミングが少しだけ遅い気がしてわたし疲れる」と思う運転者が続出する可能性があり、それが現実となったら、自動車の安全基準は勿論、道路交通法、自動車運転免許取得試験制度など、自動車関連及び道路交通関連の法律や条令の大幅な改正を行う必要が生じるのみならず、陸上交通手段としての自動車の存在そのものにも大きく関わって来るに違いない。
  〔返〕 アクセルはブレーキより先に作動する車とは先ずスピードだから   鳥羽省三


○ 昇降機は夜の高みより降り来たり他界のけはひをふはり吐き出す  (生駒市) 辻岡瑛


 夜間に高層住宅の一階などでエレベータを待っている時、上階から下降して来た無人のエレベーターが自分たちの待っている階でぴたりと止まって、入り口の扉が音も立てずに開くことがあるが、そんな時は、そのエレベーターの中から、この世ならぬ異界の生物か何かが降りて来たような感覚に捉われて、恐怖感を覚える。
 本作の作者もまた、私と同じような経験も持つ霊能者でありましょうか?
  〔返〕 下界からふわりとビルが浮いて来てバルーン飛行の人驚かす   鳥羽省三 
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一首を切り裂く(007:決)

2010年02月22日 | 題詠blog短歌
(さむえる)
   もう二度と媚びぬと決めた昼下がり大音声でうどんをすする

 「昼下がり」と言えば、昼食時ないしはそれから少しは経っているが、人々が未だ楽しく語らっている時間帯である。
 その楽しむべき時に、本作の作者<さむえる>氏は、「もう二度と媚びぬと決めた」などと独り言を言い、「大音声でうどんを」啜っているのである。
 彼のうどんの啜り方は、周りの人たちの顔や丼にうどんの汁を撒き散らしたうえ、せっかくの食事時に聞きたくも無い雑音を放つなど、はた迷惑なことこの上も無いものではあるが、それにさえ目を瞑るならば、「大音声でうどんをすする」ことの方はどうでも宜しい。
 問題は上の句に示された事柄である。
 「もう二度と媚びぬと決めた」と、殊更に言うからには、一度は誰かに対して、何かについて媚びたに違いない。
 その「誰か」とは顧客のスナックのママの上田桃子さん。
 「何か」とは、彼女の容貌についてである。
 大手損害保険会社・下井草営業所の外交社員である<さむえる>氏は、この日、朝一番に、上田桃子さんの経営するスナック<ホールインワン>の扉を叩き、未だ自宅のマンションに帰らずに、グラス磨きや掃除をしていた桃子さんに向かって独特の鼻声で、「まあ、ママさんのお肌のお美しいこと。その少し陽に焼けたところは、まるで本物の上田桃子さんのお肌みたいで健康色の小麦色。夕べ一晩お客様を相手にご奮闘なさって、これからご自宅のマンションにお帰りになってお休みになられるのでしょうが、それなのにママさんのお肌は、まるで朝露に濡れた小麦のように、しっとりと潤っていらっしゃいますよ」などと、言わずもがなのことを言ってしまったのである。
 彼<さむえる>氏にしてみれば、会社から指示されたノルマを果たしたい一心での、一所懸命の<媚>でしか無かったのではあるが、昨日のお昼過ぎから今朝まで、好色と金遣いの荒さだけが唯一の取り得のような高齢の男性客に絡まれ触られしながら働き通しで、一刻も早く自宅のお風呂に入って、身体全体に染み付いたアルコールの匂いと、高齢男性の加齢臭を流したい一心で仕事をしていたママにとっては、彼の一言一言がいちいち頭に来てならないのであった。
 「まあー、あなたは何処の何方様かはご存じないが、この私を、偽者の上田桃子だなんて、なんてことをおっしゃるの。私は、本物も偽者も無い、正真正銘の上田桃子ですよ。近頃、女子プロとか何とかで、私と同じ名前の、お尻の穴の青みも取れないような小娘が騒がれているらしいが、私は、あの小娘が生まれる三十年以上も前から上田桃子なんですよ。それに何ですって、私の肌が朝露に濡れた小麦の葉のようにしっとりと潤ってるんですって。まあー、そんなお為ごかしの言葉を耳にすると、まるで埼京線の車内で、お年寄りの貧相な痴漢から、お尻を触られたみたいで気持ち悪いし、人聞きも悪い。あなたの言い方は、私がお客様の何方かと濡れたって言ってるみたいじゃありませんか。私は、これからこの店を閉めて帰るんですから、お酒飲みたかったら、お客として一昨日お出で。保険は只今、いや一生涯、間に合ってますから」とか何とか喚き立てられて、体よく追い出されてしまったのである。
 その後の<さむえる>氏は、いつものような飛び込みの保険勧誘をする気にもなれずに、公園のベンチに座って数時間うなだれたままであったし、そして今、この「昼下がり」の時刻に、下井草駅前の立ち食いのうどん屋にやって来て、「大音声でうどんを」啜っているのである。
  〔返〕 大音声上げて饂飩をすすり居りさむえるさんの媚びし鼻声   鳥羽省三


(梅田啓子)
   <スト決行>の文字薄らいで岡林信康の髭ととのひてあり

 かつてフォークソングの神様として仰がれた彼・岡林信康が、反社会的かつ反戦的な歌を捨て、それが看板の無精髭を整えて、美空ひばりの物真似をするようになったのは、新聞紙上から「<スト決行>の文字」が消滅した頃のことであったのでありましょうか。
 この一首、上の句と下の句との平仄が、いささか整い過ぎている嫌い無きにしもあらずではあるが、梅田啓子さんの見聞の幅の広さが感じられて、まあまあ宜しいでしょう。
  〔返〕 そのかみのメンターム本舗の岡林信康の髭剃られてすーすー   鳥羽省三
 梅田啓子くらいのご年配のお方なら、メンターム本舗の近江兄弟社と岡林信康との関係をよくご存じでしょう。


(夏実麦太朗)
   七種ある福神漬けの具のなかでどれが美味いか決められません

 福神漬のルーツを辿れば、寛文12年(1672年)、上野寛永寺に勧学寮を建立した出羽国雄勝郡八幡村出身の了翁道覚なる僧侶の考案した、残り物の野菜の切れ端を利用した漬物に行き着くとか。
 その<元祖・福神漬>の考案者・了翁道覚の出身地の出羽国雄勝郡八幡村は、戦後間も無く、近隣の町村と合併して湯沢市となったので、湯沢市では市内のあちこちに了翁道覚に関わる石碑や看板が立て、市の観光の目玉にしようと躍起になっている。
 しかし、その目論みが当たって、湯沢市に観光ラッシュが起きたという話は未だ聞いていない。
 それはともかく、その了翁道覚なる人物が考案したという漬物を、輪王寺宮が殊のほかに美味とされてお召し上がりになり、「福神漬」と命名されたのだと言う。
 そして、世の中が移り変わった明治の初頭、それを上野山下の<漬物店・酒悦>が大々的に売り出し、その<酒悦>は、その名<福神漬>を商標登録したことから、酒悦製品以外の福神漬は、本物の<福神漬>ならぬ、偽物の<福神漬け>であるとの説もなされている。
 もしそうだとすると、本作には<福神漬>では無く「福神漬け」と書かれているから、作者の夏実麦太朗さんは、未だ薄給のご身分(失礼)なので、本物の<福神漬>を食べられずに、偽物の「福神漬け」をお食べになったと、真正直に告白なさっておられるのでありましょう。
 私は、夏実麦太朗さんの、決して嘘偽りをお口になさらないお人柄について知悉しているから、この一首に触れた瞬間に、ぴりぴりと胸に響く何かを感じた。
 <福神漬>製造のレシピに拠ると、その具として、「大根、茄子・胡瓜・鉈豆・蓮根・紫蘇の実、椎茸または白胡麻」と七種類の野菜の名を挙げているが、この説明と、夏実麦太朗さん作中の記述「七種ある福神漬けの具のなかで」とは、何ら矛盾するところが無い。
 してみると、偽者は偽物らしく、具となった野菜類の鮮度などは幾分か落としてはいるが、福神漬けの名は、本物も偽物も区別無く、七福神に由来するものであるから、夏実麦太朗さんご用達の本物ならざる<福神漬け>もまた、七種類の野菜を具として製造されているのでありましょう。
 さて、夏実麦太朗さんは、「七種ある福神漬けの具のなかでどれが美味いか決められません」などと、極めて面白いことをおっしゃっていらっしゃる。
 本物だろうと偽者だろうと、この漬物の本質は、不要になった細切れ野菜の<ごった漬け>であり、そしてその味は、個々の野菜の持ち味を殺して、醤油と砂糖で漬けただけの物に過ぎないのである。
 したがって、「七種ある福神漬けの具のなかでどれが美味いか決められません」のは、つい先日冥界に旅立ってしまわれた藤田まことさんでは無いが、<当たり前田のクラッカー>なのである。
 「人間はご高齢になって少し呆けると、当たり前のことを当たり前でないような口調で言う」のだそうだ。
 仮に、本作の作者・夏実麦太朗さんがその口だとすると、我がインターネット歌壇は、早晩、掛け替えの無い逸材を失ってしまうことにもなりかねない。
  〔返〕 具野菜が十数種類を数えたり福神漬けも各種さまざま   鳥羽省三


(西中眞二郎)
   大仕事はじめる如き決意して浅き眠りの寝返りを打つ

 ある。ある。そういうことがよくありますよ、西中眞二郎さん。
 夕食後に、「題詠2010」の投稿歌を探っていて、その堆積の中から、本作のような珠玉を探り当てたりすると、私は興奮の余りに眠られなくなってしまうのである。
 しかし、私は不死身ならぬ病み上がりの身の上ですから、「どんなに素晴らしい歌を探り当てても、遅くとも十一時前には眠らなければダメですよ。投稿歌在っての歌評でもありますが、健康あっての歌評でもありますから」と言う、我が連れ合いの言い分にも耳を傾けなければならない。
 そこで、渋々と床に就いてしまうのだが、それはあくまでも形だけのことであり、そのまま本格的な睡眠状態に入られずに、明け方になってから、「大仕事はじめる如き決意して浅き眠りの寝返りを打つ」こともしばしばなのである。
  〔返〕 一仕事し終へたような気分にて暁前の寝床より出づ   鳥羽省三


(中村成志)
   街路樹の根に決められた事のごとヒメツルソバの溢るる速さ

 「ヒメツルソバ」はヒマラヤ原産の匍匐性の植物で、五月頃から秋にかけて、蕎麦の花のような形状のピンク色の花を咲かせることからその名がある。
 真夏には花が途絶え、降霜期になると地上部が枯れるが、翌年になると新芽が成長して、また旺盛に花を咲かせるので、庭園のグランド・カバーなどとして用いられているが、その一部が野生化して、街路樹の下草となっている場合もある。
 本作は、身近の街路樹の根周りに、毎年「決められた事」の如くに「ヒメツルソバ」の新芽が出て、その新芽は瞬く間に、その街路樹の根周りから溢れるようにして花を咲かせる、その成長の「速さ」に驚嘆してお詠みになったものと思われる。
 地上部が枯れてから、新芽が出、花を咲かせるまでのヒメツルソバの成長の速さを、一文で表現し得たのは素晴らしい。
  〔返〕 いち早くヒメツルソバの芽生えけり三寒四温春は直ぐ其処   鳥羽省三


(虫武一俊)
   多数決の成りたつまでのはるかなる旅程を風の親子とともに

 「多数決の成りたつまでのはるかなる旅程」という語句の流れが、何か新鮮かつ流麗にして、気の遠くなるような爽やかなイメージを醸し出させるのである。
 これらの一連の語句の流れについては、人間の自由や民主主義の成り立ちや束縛からの解放などと、あれこれと思索し、解釈することを可能にさせる何かを感じることができるが、この際は、そうしたさかしらは一切捨てて、その爽やかなイメージとリズムに身を委ねて、遙か彼方まで、「風の親子とともに」歩み続けて行かねばならないのである。
 本作の作者・虫武一俊さんのご高名は、かねてより耳にしていて、私も彼の作品との幸福な出会いを求めていたが、この度、その宿願を初めて果たせたような気持ちになっている。
  〔答〕 冤罪を雪ぐまでの日々俘虜はなおリュカ数列に身を委ねてた   鳥羽省三


(鮎美)
   シューベルト語る肴は治部煮なり室内楽団決起集会

 「シューベルトを語る」と「肴は治部煮なり」とのミスマッチ。
 そして、妙なる音楽を奏でるべき「室内楽団」が怒鳴り声を上げるに違いない「決起集会」をやっていたというミスマッチは、あのレースクィーンの鮎美嬢が豚足の早食い競争に参加して下痢を起こしてしまった、というミスマッチに匹敵するものでありましょう。
  〔返〕 姫鱒は刺身にしても美味しいが治部煮にすれば更に美味しい   鳥羽省三
 シューベルトの室内楽曲の傑作の一つに、「ピアノ五重奏曲・イ長調」がある。
 その第四楽章は、あの歌曲「鱒」の変奏曲なのである。
 この曲は、シューベルトが二十二歳で、まだ若々しく希望と幸福にあふれていた時期に作曲されたものである。


(牛隆佑)
   決められていた結末をていねいに組み換えてゆくような日曜

 昨日の日曜は、私にとっては将に「決められていた結末をていねいに組み換えてゆくような日曜」であった。
 別居している次男が訪ねて来て、昼食を共にする予定であったのだが、彼は結局来なかったので、彼に食べさせるために買っていた上トロの刺身は、妻と二人だけの夕食のおかずにすることにした。
 ところが、夕方になってから急に妻の妹夫婦が訪ねて来たので、夕食のおかずにすることを予定していた上トロの刺身は、結局は、彼らと一緒に飲んだビールのつまみと化してしまった。
 結末の組み換えとそれだけでは終わらない。
 私は、お題「007:決」への投稿歌の鑑賞文の執筆を、昨日のうちに仕上げて公開する予定であったのだが、家内の妹夫婦と一緒に飲んだ、ビールの酔いに任せて翌日送りにしてしまったのである。
 かくして、昨日という日は、予定の変更に重なる変更を強いられた日曜日ではあったが、私にとっての昨日は、牛隆佑さん作の短歌世界の「日曜」とは少し異なって、その「決められていた結末」の「組み換え」に、わずかばかりの丁寧さも感じられなかったのである。
  〔返〕 結末を組み替えた挙句の月曜日<決>のお題の歌を読んでる   鳥羽省三


(南野耕平)
   じゃあボクでいいんですねと訊ねると決めちゃったからなどと言うキミ

 私と見合いした日の、現在の妻の態度が、この作品に詠まれている「キミ」とそっくりであった。
 帝國ホテルでの見合いの後、銀座界隈を散歩して、少々脈有りと感じたから、<銀座ライオン>の壁画の前の席で、「『じゃあボクでいいんですね』と訊ねると『決めちゃったから』などと言う」妻だった。
 但し、その「決めちゃったから」の中身は、「あなたとの結婚は、自分の父と仲人の間の話し合いで、見合いする以前に、既に『決めちゃったから』」というものであった。
 今から四十年以上前の話ではあるが、妻には「あの時は気の毒なことをした」と、未だに思っている。
  〔返〕 「決めちゃったから」と言われて買ったのに、表裏が逆で外れちゃったの   鳥羽省三 


(ミナカミモト)
   少女期と決別せよさあ書の奥の昏き路地から満月が呼ぶ

 「書の奥」の内容が判らないところが神秘的で宜しい。
 万巻の「書」を積み上げた時代物の書斎が在って、その「奥」の窓の外の「昏き路地から」「満月が呼ぶ」のか?
 それとも、当世流行の少女コミックの、あるページの「奥の昏き路地から」「満月が呼ぶ」のか?
 詠い出しの「少女期と決別せよさあ」から察するに、どうやら、後者の確率が高い。
  〔返〕 「<ベルばら>と決別せよ」と評者言うコミック取材の歌はつまらぬ   鳥羽省三


(飯田和馬)
   決められる人は幸せ。迷いつつ生きる私は服用しない。

 鳥羽省三期待の社会派登場。
 話題は、通信販売のサプリメント<飲むヒアルロン酸・皇潤>服用の可否か?
 或いは、もっと深刻に、<白いお粉>の服用の可否か?
 現代社会とは、「食う、食わぬ。服む、服まぬ。飲む、飲まぬ。産む、産まぬ。行く、行かぬ」などの、二者択一の答の選択を急かされている時代なのである。
 急かすのは彼らであって、我らではない。
 その選択に迷いつつも、取り敢えずはその選択を保留しつつ、しぶとく生きて行くしか無いのではないだろうか?
  〔返〕 選ばぬか否かを迷う場合には選ぶと決めてやっております   鳥羽省三
 

(nasi-no-hibi)
   夕焼けになりたくて目を赤く染めもう泣かないと林檎は決めた

 「夕焼け空に林檎が泣いている」という、歌謡曲的な発想ではあるが、「選ばぬか否かを迷う場合には選ぶと決めてやっております」と詠んだ方針通りに選びました。
 「五・七・五・七・七」と指を折って数えながら詠むのは、私たち日本の歌詠みが何処かに忘れて来た<宝物>かと思われますので、それを実践している人を発見することは、私にとって、とても嬉しいことです。
 先年読んだ、ある著名な歌人のエッセイに拠ると、あの塚本邦雄氏でさえ、指折り数えて歌を詠んでいたそうです。
  〔返〕 夕焼けに片頬染めたようなのが特別美味い林檎なのです   鳥羽省三  
 最近、<葉取らず林檎>と言って、収穫前に実の周囲の葉を摘まなかったために、赤みが全体に行き渡らない林檎が販売されていますが、本当に美味しい林檎は、そんな林檎なので
す。


(珠弾)
   (非公開)蚊取り戦法私家版に四十八の決まり手がある

 この「(非公開)蚊取り戦法私家版」は、是非<商標登録>して、大々的に売り出すべきです。
 その商品名は、そのまま「(非公開)蚊取り戦法私家版」とすべきです。
 「(非公開)」と謳い、「私家版」と謳った所が、この商品の最大の<売り>なのです。
  〔返〕 相撲さえ七十数手の是の世に四十八手の<売り>の乏しさ   鳥羽省三


(A.I)
   決心がゆるがぬうちに書いておくいつかあなたを生みなおすこと

 私がまだ二十代の頃に、未だ無名のある画家から、自作の風景画を頂戴した。
 ところが、ごく最近、今は売れっ子となったその画家から手紙が来て、「あの作品は、私の若描きで、自分としては不満足な出来であるから、この際、是非、描き直しをさせて欲しい」とのことであった。
 私は、転居のどさくさで、その絵を既に処分してしまった後であったので、その画家の良心的なお申し出には、婉曲にお断りした。
 察するに、本作の内容は、あの風景画のようなことでありましょう。
 私も人の親でありますから、本作の作者のお気持ちはよく解りますが、しかし、風景画ならまだしも、人間の描き直し、いや、産み直しは可能なことでありましょうか? 
  〔返〕 受身にて生まれたわけじゃありません勝手な言い草よして下さい   鳥羽省三


(伊倉ほたる)
   もうひとつ外すかどうか決めかねているボタンの位置とタイミング

 一口に申して、伊倉ほたるさんらしからぬ下手な歌である。
 この一首を定型にし、韻律を整えるくらいの工夫がどうして出来ないのか、とじれったい思いをしながら本稿を書いている。
 要するに、見せたいような見せたくないような心理を表わせればOKなのではないですか?
 それとも、婚外の男性に自分を高く売りつけようとする魂胆なのですか?
 もし前者ならば、「位置」とか「タイミング」とかいう語を捨てて、「もう一つ外すかどうか決めかねつ胸の谷間を隠すボタンを」とすれば宜しいし、後者ならば、「タイミング」だけを残して、「もう一つ外すつもりのタイミングいつにするかを決めかねている」とすれば良いことになる。
 後者の場合は、「もう一つ外すつもりの」物は何か、ということになるが、そこのところは観賞者の解釈に委ねればいいのである。
 あいまいな部分、もう一つ分からない部分を故意に残しておいて、鑑賞者を作品世界に引きずり込むのも一つの手なのである。
  〔返〕 胸の谷間見せたいけれど見せられぬ巨乳誇れる私でないから   鳥羽省三
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一首を切り裂く(006:サイン)

2010年02月20日 | 題詠blog短歌
(南雲流水)
   寂しさを秘めたるサイン 抜き去りし8トンロングのケバイ電飾

 「8トンロング」とは、総重量8トンでロングボディのトラックのこと。
 そのトラックが本作の話者の運転する車を抜き去って行ったが、そのジュラルミン製のボディの「電飾」が「ケバイ」と思われ、そのケバさに「寂しさを秘めたるサイン」を感じた、というのが本作の趣旨である。
 ある。ある。そんな「ケバイ電飾」のトラックが。
 私は健康を損なっているので数年前から自動車運転を止めているが、月に数回は家内の妹が運転するアコードに同乗して、国道16号線や246号線を飛ばすことがあるが、そんな時、「ケバイ電飾」のロングボディの8トントラックに挟まれておろおろすることがある。
 運転者の家内の妹の話によると、そんな時は、そのままドバイ辺りまで運ばれて行って、眼の色の違う毛むくじゃらの男たちの慰み者にされるような気分になるそうだ。
 でも、本作の作者・南雲流水さんによると、そうしたロングボディの「8トン」トラックの「ケバイ電飾」は、彼ら・トラック野郎たちの「寂しさを秘めたるサイン」なのだそうだ。
 そうか、それなら家内の妹も、今度そんなトラック野郎たちに挟まれた時は、「そのままドバイ辺りまで運ばれて行って、眼の色の違う毛むくじゃらの男たちの慰み者にされるような気分になる」などと、むやみに恐がったりしないで、自分の運転する車を何処かに乗り捨てて、彼らが運転する「ケバイ電飾」の「8トンロング」に同乗すれば、以ての外の極楽気分に浸れるかも知れないから、教えておきましょう。
 でも、我が家内の妹とて既に50代半ばに達しているから、いくら「寂しさを秘めたるサイン」を掲げた「8トンロング」の運転手トラック野郎とて、そう易々とは極楽気分に浸らせてくれないでしょう。
  〔返〕 電飾は夜嵐お絹の艶姿8トンロング一路驀進   鳥羽省三


(飯田和馬)
   真っ白な紙が一枚ありまして、サインをすれば楽になるそうな。

 サラ金の取立て代行業者のやり口についての風刺かと思われる。
 本作の作者・飯田和馬さんは、前回は、耐震偽装疑惑マンションについてお詠みになられ、今回はこれ。
 しかも、悪辣な彼らのやり口に対して、あからさまにストレートに怒りを表現するのでは無くて、ほどほどのユーモアを混じえての風刺的表現なのである。
 インターネツ歌壇の松本清張、いや松本清張は猪突猛進型であるが、飯田さんはそうでは無いから、もっと頭脳明晰だ。
 「題詠2010」のイチオシ候補の一人は間違い無く、本作の作者・飯田和馬さんである。
 「真っ白な紙が一枚ありまして、サインをすれば楽になるそうな。」という表現は、あの山崎方代の語り口を思わせるが、末尾を「な。」とするような試みは、一考を要すると思われる。
  〔返〕 真っ黒なスーツ野郎が遣って来て、真っ白用紙にサインを迫る   鳥羽省三

 
(天鈿女聖)
   コールサイン コールサインと呼び合って二人はベッドに倒れこんでく

 こんな真に迫った描写は、実体験者でなければ不可能なはず。
 本作は、作者・天鈿女聖さんの実体験に基づくものであり、意外なことに、天鈿女聖さんはアララギ派の残党なのかも知れない。
  〔返〕 「Go!Go!」と声もとどろに雄叫びて天鈿女聖に発射   鳥羽省三


(理阿弥)
   Vサインおどる写真を見納める丁寧に丁寧にマッチ擦る

 親友の方のお通夜での、ご焼香の場面でありましょうか。
 やや窮屈な表現ながら、「丁寧に丁寧にマッチ擦る」という下の句に、故人を哀悼する、本作の作者の生真面目なご性格と、霊前での動作がよく表わされている。
 それにしても、「Vサインおどる写真」は切ないですね。
 ご遺族の方々のお気持ちもよく解りますが。
  〔返〕 かと言って死病の床の写真など飾られもせず万やむを得ず   鳥羽省三


(永居かふね)
   旅立ちや出会い隣の口論も動き始める春のサインか
 
 手初めに、本作の構造を見よう。
 本作は先ず、「旅立ちや出会い」という部分で切れ、「隣の口論も動き始める春のサインか」という、それ以降の三句半の長い句は、この一首のテーマを表わした語句とも言うべき「旅立ちや出会い」という一句半の語句を受けて、それを敷衍して説明するための句なのである。
 したがって、一首の意は、「もう間も無く春が来る。春と言えば、<旅立ち>や<出会い>の季節で、若人たちが、それまでとは異なった様々な経験をしなければならない季節である。私の部屋の隣りには、これからそうした数々の経験をしなければならない若いカップルが住んでいるが、今夜、そのカップルは、あまりにもあけすけで、つい耳を塞ぎたくなってしまうような平常とは異なり、声を荒げて何やら口論をしている。このカップルの口論もまた、明日からでも動き始める、春のサインなのかも知れない」となる。
 作者の永居かふねさんご自身としては、「旅立ちや出会い隣の口論も」までを、後続の「動き始める春のサイン」の中身にするつもりでお創りになったのかも知れません。
 だが、もしそうだとすると、詠い出しの「旅立ちや出会い」が、あまりにも軽いものになって、一首全体の意味もかなり軽くなりますから、私の試みた解釈の方が宜しいでしょう。
 隣室のカップルは、今夜を限りに同棲関係を清算し、明日は他人になるのであり、今夜の口論は、それに関わるものなのでしょう。
 本作に接して、私は、野口五郎歌う「私鉄沿線」及び、布施明歌う「積木の部屋」、更には、歌手の名は忘れましたが、ある女性歌手の歌う「池上線」などの同棲ソングの名作を懐かしく思い出しました。
  〔返〕 あす朝になれば消え行く表札の姓の異なる男女の名前   
      春と言へば旅立ち出会ひ隣室の口論もまた春のサインか   鳥羽省三 
  

(中村梨々)
   両腕を無防備にしていつだれが走ってきてもいいよのサイン

 作中の主人公、つまりは本作の話者を、私は、保育所の保母さんかしらと思う一方、男性
に媚を売ることを職業とする女性かとも思いました。
 「両腕を無防備にして」とは、自分の腕の中に幼児たちが飛び込んで来るのを待ち構えている、優しいホーズとも読み取れましょうし、好色な男性を刺激するようなしどけないポーズとも読み取れましょう。
 このように、全く異なった解釈を許容するところが、この作品の優れたところなのでしょう。
 そこの辺りのところの、作者・中村梨々さんのご意図を是非ともお聞きしたい場面です。
  〔返〕 両腕を無防備のまま向かい来る白鳳いなして魁皇の勝ち   鳥羽省三 


(笠原直樹)
   表札に油性ペンにて「D」のサイン付けられ春は穏やかならず

 これは史上希に見る悪質な悪戯である。
 「D」とは、「ABCDE」の五段階評価の下から二番目の「D」評価のことでありましょう。
 そして、その評価の対象は、本作の作者・笠原直樹さんの奥様・菜穂子さんのご容貌やご知性でありましょう。
 ここまで悪質な悪戯をされては、いかに紳士の笠原直樹さんとて、今年の「春は穏やかならず」などと言って、済ましてばかりは居られません。
 毒を以って毒を制する。
 この際は、紳士の仮面をかなぐり捨てて、犯人と目される隣家の表札に、彫刻刀で以って、でかでかと「E」と彫ってやりなさい。
 でも、御宅様よりはかなり経済的に豊かな隣家では、最近、セコムを入れていますから、よほど注意してやらないといけませんよ。
  〔返〕 評点は五段階の「D」最悪に非ずといった評価が救い   鳥羽省三


(藤野唯)
   見逃したサインも互いにあるだろうけれどめげずに寄り添っていく

 全国高等学校野球選手権大会、いわゆる<甲子園大会>の地方予選大会の一コマである。
 お互いに未熟だから、ピッチャーがキャッチャーのサインを見落とし、キャッチャーがピッチャーのサインを見落とす場面も度々である。
 「けれどめげずに」その度ごとに「寄り添って」行って、お互いに「ドンマイ、ドンマイ」と言葉を交し合うのである。
  〔返〕 ドンマイと言い合ううちは進歩無し予選の初戦でいつも敗北   鳥羽省三
  

(牛隆佑)
   スクイズのサインを無視するバッターの怒りだ俺に足りないものは

 こちらも<全国高等学校野球選手権大会>の地方予選の一コマである。
 全国最弱と噂される某県予選の最中に、先程の一死三塁の場面で、監督からのスクイズのサインを無視した結果、無残にも遊撃手への小フライを上げて、この試合で唯一のチャンスを潰してしまった選手が後退を命じられ、ベンチの壁をバットで叩きながら叫んでいる言葉が、この一首そのものなのだ。
 ヘマをやかかして、反省もしないで怒り捲っていながら、「スクイズのサインを無視するバッターの怒りだ俺に足りないものは」とは、何事ですか?
 牛隆佑選手は、あの朝青龍や国母選手と同様に、事態の深刻さを何一つ理解していないし素行も悪いから、その翌日、早速退部処分に処せられたうえ退学してしまった。
  〔返〕 スクイズのサインを無視する情熱をネガに潜めてテロ組織入り   鳥羽省三


(行方祐美)
   サインなき手紙のやうな海のいろ肋骨の下がまた痛み出す

 「サインなき手紙のやうな」「いろ」とは、いわゆる<鈍色>のこと。
 そんな色の「海」ばかり見つめているから、「肋骨の下が」再々「痛み出す」のである。
 その時の痛さは、いわゆる<鈍痛>である。
  〔返〕 鈍痛は海底からのサインかも間も無く君を呼びに行くとの   鳥羽省三


(れい)
   触れた手があったかいよね午後三時、二歳の君はおねむのサイン

 「午後三時」ともなれば、「二歳の君」ならずとも眠くなる。
 この記事を書いている丁度今が平成二十二年二月二十日の午後惨事であり、私はこの記事を書く手を休めて昼寝でもしようと思っているのである。
 ほぼ三十分間昼寝をして、今は午後三時半。
 <れい>さん作の短歌の観賞記事の書き込みを再開したばかりである。
 先程、昼寝をしようと思った時の私は、今になって思えば、それを促す「おねむのサイン」を確かに発していたのである。
 そのサインとは、パソコンのキーを叩く指の動きが急に不安定になった上、目蓋が塞がりそうになってしまって、「三時」と変換するつもりで「さんじ」と入力して変換したところ「惨事」と変換してしまって気が付かなかったことである。
 本作に登場する「二歳の君」の示した「おねむのサイン」とは、一体どのような「サイン」であったのでしょうか、古希を迎えてしまった今になってから妻に子を産ませて育てる気も無いが、何かの参考のために、「二歳の君」のママと拝察される本作の作者にお訊きしてみたいところである。
 アララギ派の残党たちの間には、「孫自慢、子自慢の歌は、歌にならない」という言い伝えが在ると聴いているが、この一首は、我が子に取材してはいても、格別な「子自慢」の歌では無いから、立派な「歌」になっている。
  〔返〕 モナリザに<おねむのサイン>目の隈の黒い絵具がわずかに落剥   鳥羽省三


(翔子)
   朝日浴び無数のうぶ毛輝けば食べ頃サイン紀の川の桃

 私は、一昨年までの七年間、林檎の産地に居住していて、林檎農家の手伝いをしたこともあるから、<ふじ林檎>の「食べ頃サイン」は知っていましたが、「紀の川の桃」の「食べ頃サイン」については初耳でした。
 「朝日浴び無数のうぶ毛輝けば」。
 この「食べ頃サイン」は、実に神秘的な、実に新鮮な「食べ頃サイン」ですね。
 首都圏の果物屋で買える「桃」は、こうした神々しい「食べ頃サイン」を発する前に収穫した「桃」だから、あまり美味しくないのですね。
  〔返〕 新宿の高野の桃は見事だが買って食べたらがっかりだった   鳥羽省三
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今週の朝日歌壇から(6)

2010年02月19日 | 今週の朝日歌壇から
○ 地吹雪の音しづまりて暮るる峡一戸が灯れば五戸みな灯る  (岩手県) 佐藤 忠

 わずか五戸の集落。
 総人口は十五人。
 他に猫が七匹と犬が四匹。
 周囲の山々には、狐、狸、兎、カモシカ、梟、雉、ばんどり等など。
 時折り、親子連れの熊も徘徊する。
 昨日の午後、馬頭観音前広場に、吹雪をついて経営者自らが<走るデパート>と称している食品販売車が回って来たので、各家の冷蔵庫には魚肉類が数日分入っているし、大根や蕪、人参、牛蒡、白菜などの野菜類は小屋の冷凍庫や裏庭の雪穴の中に三月末まで食べられる分まで入っている。
 そういう訳で、この集落の人々は、今のところ食物については何一つ不足してはいないが、各家とも屋根の積雪が限界に達しているし、家周りの積雪も明り取り窓を塞ぐほどであるから、その点がほとんど老人ばかりのこの集落の人々の悩みの種なのである。
 どの家でも、部屋の障子や襖は既に開け閉めならなくなっているし、夜間、柱や床の締まる音が怪しくぎしぎしと響き、その度ごとに老人たちは目を覚ましてしまうのである。
 掲出の一首に刺激されて、つい、それらしいことを綴ってしまった。
  〔返〕 明日の朝晴れたら孫がやって来て雪を下ろしてくれるはずだと   鳥羽省三 

○ 小沢氏を囲む鋭き四つの眼みぎにひだりに水平移動す  (我孫子市) 梅田啓子

 小沢一郎氏の周囲に侍るSPが、公費負担の警察官か私費負担のガードマンかと、しばらくの間、インターネットで話題になっていたが、結局は、公費負担の警視庁職員というところで落ち着いたようだ。
 SPは2人、<2×2=4>で、眼の数は四つ。
 二人のSPの「鋭き四つの眼」が、小沢氏の歩みにつれて、激しく「みぎにひだりに水平移動」するのであるが、その四つの眼よりももっと鋭いのは、それらの四つの眼に守られているはずの小沢一郎氏の二つの眼である。
 小沢一郎氏の行く所には、常にぶら下がり記者たちが待ち構えていて、彼らもそれぞれ二つずつ眼を持っているが、彼らの眼とSP及び小沢一郎の眼とは、その鋭さが明らかに異なる。
 即物的表現「四つの眼みぎにひだりに水平移動す」が素晴らしい。
 我孫子在の梅田啓子さんが霞ヶ関の出来事を実見出来るはずも無いから、本作はおそらくテレビ画像からの取材であろう。
 我が家のテレビは、シャープ製「亀山モデル」の五十二吋の大型画面、画像鮮明この上無し。
 私はこのテレビで、梅田啓子さんの見た画像と同じ画像を視たはずであるが、凡百の私には、「四つの眼みぎにひだりに水平移動す」などという素晴らしい語句は思いもつかなかった。
 梅田家のテレビは我が家のテレビよりも高級なのだろうか?
  〔返〕 物事を為すも為さぬも腕次第 下手で為さぬをテレビのせいに   鳥羽省三


○ 小沢氏を張りこむ徹夜の報道陣朝の路上に歯をみがくあり  (春日井市) 伊東紀美子

 小沢一郎邸前の朝景色。
 本作もまた、テレビ画像からの取材か。
 こうしてみると、テレビにはいろいろな画像が映ることが解る。
 これからの短歌の取材源はテレビ画像なのか?
 「朝の路上に歯をみがくあり」が泣かせる。
 こういう表現は、実見してもなかなか出来ないものだ。
 それにしても、報道陣も大変だ。
  〔返〕 歯を磨き髪を整え出番待つ小沢一郎逮捕の噂   鳥羽省三


○ ふるさとの潮の香も添へ送り来るみかんぽんかんざぼんでこぽん  (柏市) 宮本次雄

 下の句を<七七>にしなければならないから、柑橘類四種の組み合わせは、次の十二通りになる。
 「みかんぽんかんざぼんでこぽん」「みかんでこぽんざぼんぽんかん」
 「みかんでこぽんぽんかんざぼん」「ぽんかんみかんでこぽんざぼん」
 「ぽんかんざぼんでこぽんみかん」「ぽんかんざぼんみかんでこぽん」
 「ざぼんぽんかんみかんでこぽん」「ざぼんでこぽんみかんぽんかん」
 「ざぼんでこぽんぽんかんみかん」「でこぽんみかんぽんかんざぼん」
 「でこぽんざぼんぽんかんみかん」「でこぽんざぼんみかんぽんかん」
 作者の宮本次雄さんもいろいろと並べ替えてみたであろうが、その中で一番いいのは、やはり原作の「みかんぽんかんざぼんでこぽん」という組み合わせである。
 作者の宮本次雄さんは、俳句・川柳の作者でもあるが、その「ふるさと」は、和歌山、愛媛、福岡、佐賀、鹿児島のいずれか。 
  〔返〕 いぶり漬けハタハタ寿司に餅お米干し柿林檎送られて来ぬ   鳥羽省三


○ 出エジプトの民の零れぞ波分くる岩に降り立ち吾ら海苔摘む  (佐渡市) 小林俊之

 作者は、波荒い冬の佐渡の磯辺で岩海苔を摘むという辛い作業をしている。そこで少し気とって、自分を「出エジプトの民の零れ」に見立てたのであろう。
 モーゼに導かれてエジプトを脱出した人々の末裔が、海を越えてはるばると佐渡にやって来て、冬の荒磯で岩海苔を摘んでいるという想定は、想像に絶したロマンティズムであるから、本作の作者の試みは是とすべきである。
  〔返〕 ノアの船ゆ逃れし者の裔なるや荒磯に海苔を漁りてぞ生く   鳥羽省三


○ 老眼鏡を「読書めがね」と名付けたる眼科医今日も吾が眼を覗く  (奥州市) 大松澤武哉

 「老眼鏡を『読書めがね』と名付けたる眼科医」とは、なかなかに商売上手でアイディア
マンの眼科医である。
 その<商売上手でアイディアマン>の眼科医が、「今日も吾が眼を覗く」のに、作者の大松澤武哉さんは、この上なく親しみを感じているのである。
 「読書めがね」は、作中の「眼科医」の経営する眼科医院と提携している眼鏡店で買うのである。
 その眼鏡店は、大量廉価販売を旨としている全国チェーンに対抗すべくも無く、売り上げは年々減少の一途を辿っているのであるが、未だに営業を止めていないのは、この街の名士である、例の眼科医との信頼関係を大切にしているからである。
  〔返〕 糸通す時にも掛ける読書眼鏡祖母に譲られ父母の兼用   鳥羽省三


○ 敗戦の地に置いて来し雛人形の忘れがたくて人形ぎらい  (いわき市) 清矢暁子

 私の家に「クリーク雛」という一種の変わり雛がある。
 化学洗剤の箱のような大きさの引き戸付きの桐箱に入っている内裏雛である。
 桐箱の引き戸を開けると、内側が楕円形の赤い雛壇になっていて、その上には片手に日の丸を持った男雛と女雛が座っている。
 今から四十年ほど前、ある公共施設の展示場で、これを他の収集品と一緒に公開したところ、見物に訪れたある博識の方が、この雛の希少価値を説明して下さった上で、男女雛が座っている赤い楕円形の雛壇状のものは実は<鐵舟>と言って、中国内陸部のクリーク地帯での戦線で日本軍が苦戦していた際に、これを兵站輸送に使うことによって、一夜にして戦局を好転させたという曰く付きの超小型輸送艦なのだと説明して下さった。
 ここまでの説明は言わば前置きで、本当に申し上げたいのはこれから先のことである。
 これが入っている桐箱の引き戸は外せるようになっていて、その裏側に、「昭和○年、中国・牡丹江にて入手す」との墨書がなされているのである。
 私はそれを昭和四十年代の半ば頃、東京・青山の骨董街で買い求めたのであるから、昭和○年に中国・牡丹江でこれを入手した当人ではないし、その人とは面識も無い。
 察するに、これを牡丹江で購った人は、その頃中国に駐留していた日本軍人で、彼は、その年の<変わり雛>であったクリーク雛を日本に居る娘さんに送るために入手したのではないだろうか。
 もしそうならば、中国から船に乗って日本に渡ってクリーク雛は、戦中戦後の慌しい社会情勢の中を、毎年毎年雛祭が来る度ごとに、その軍人の娘さんの家に飾られ、その後、何かの事情で東京・青山の骨董街まで彷徨って来て、その挙句に私のような物好きの手に落ちたのであろう。
 昭和○年に一日本軍人が中国・牡丹江で買ったちっぽけな変わり雛が、日本国内に住む少女の家に送られ、それが更に東京・青山の一骨董商の店に並べられ、その頃、よちよち歩きの新米国語教師であった私の手に落ちるまでは、少なくても三十年は経過している。
 それから更に四十年以上過ぎて、現在、その雛は私の家のクローゼットの中のダンボール箱の中に眠っている。
 「敗戦の地に置いて来し雛人形の忘れがたくて人形ぎらい」と、福島県いわき市在住の 清矢暁子さんは詠う。
 清矢暁子さんは今年何歳になられたのであろうか?
 「敗戦の地」とは、私の家のクリーク雛の出身地・中国ではないだろうか?
 その「雛人形」は内裏雛であろうか、七段飾りのセット雛であろうか?
 たかが雛人形。
 されど雛人形。
 雛人形には、他の装飾品などとは異なって、持ち主の情念が籠っているから、江戸の昔から、雛人形にまつわる因縁話が尽きないのである。
  〔返〕 青山の骨董通りで購ひしクリーク雛の手の日の丸よ   鳥羽省三

   
○ 背を向けたその瞬間にアンティーク人形たちの視線が刺さる  (沼津市) 森田小夜子

 こちらは雛人形ならぬ「アンティーク人形」。
 またまた自慢話めいた話をするようで、大変恐縮して居りますが、我が家の狭いクローゼットのダンボール箱の中には、フランス製のアンチックドール一体と、時代物の市松人形が
十数体眠っている。
 本当はアンチックドールがもう一体と市松人形は今の倍くらい有ったのだが、自分や次男の病気などの事情があって、田舎に建てた二人住まいには勿体無いほどの広さの一軒家を捨てて、川崎市郊外の現住地に転居する際に、広い家一杯に入っていた家具や書籍や骨董品や服飾品と一緒に、ある物は焼却し、ある物は友人の経営する私設博物館に寄付し、ある物は親戚の者に上げてしまったのである。
 今から九年前、私が長年の教師生活から足を洗って、前もって建てていた前記の田舎の一軒家に転居して間も無くの冬、川崎在住の長男夫婦が、正月休暇ということで、子供連れで我が家に遊びに来た。
 私たち夫婦は、久し振りに再会する彼らの寝室として、普段は人形等の骨董品の展示室として使っている、取って置きの部屋を提供しようとした。
 私たちにすれば、わざわざ川崎から可愛い孫娘を連れてやって来た彼らを、短い滞在期間いっぱい歓待しようと思い、その一環として、家中で一番立派な部屋を用意したつもりなのであった。
 ところが、最初の晩、食事などが終わって<いざ鎌倉>という段になって、長男の連れ合い、私たちからすれば我が家の嫁が、急に不機嫌になり、終いにはしくしく泣き出したのである。
 これは尋常ならざる事態が生じたと、私も家内もおろおろし、それと無く息子に、その理由を聞き出したところ、寝室と予定していた部屋の時代物の車箪笥の上に飾っていたアンチックドールや市松人形の眼が恐くて恐くてならなかったのだそうだ。
 それならそれと前以って話してくれればいいのに、などと言いながら、予定していた部屋よりは格段に落ちる階下の十畳間を彼らの寝室に当てて事無きを得たが、世の中には、不思議な人が居て、その不思議な人が、他ならぬ我が家の嫁であったとは、これまた不思議だ、とは彼らが四日間の滞在期間を終えて、彼らを秋田空港まで見送りに行った帰りの車中での、私と家内との会話であった。
 「背を向けたその瞬間にアンティーク人形たちの視線が刺さる」。
 この一首の作者の気持ちについては、私は、ある程度理解することが可能ではあるが、その全てについて理解することは、到底不可能であろう。
 来週の週末あたり、長男が単身赴任中の大阪から里帰りするから、その時に、私はこの一首を長男の連れ合いに示して、その反応を確かめてみるつもりである。
  〔返〕 アンチックドールの睨む眼が恐く泣いてた嫁も二人の子持ち   鳥羽省三


○ 若き日の父との確執消すごとく病みて骨張る体拭くなり  (千葉市) 吉井清乃

 「病みて骨張る体」とは、つい最近までの私の「体」であった。
 その私の「骨張る体」を、私の連れ合いは毎晩毎晩ごしごしと擦るようにして洗ってくれたが、その時に必ず言うセリフは、「加齢臭を抱えたままで病院に行くと、医者が軽く扱って、診断や治療も疎かになるから」と言うものであった。
 「医は仁術」と言う。
 この世にそんな医者が居るのだろうか?
  〔返〕 衰へし吾の背中を流すとき我妻も消すか吾との確執   鳥羽省三

 今日は三月十四日(日)である。
 上記の観賞記事を書いてから数週間経ったのであるが、今更、過去の記事を読み直して、それに付け足しを書き加えようとしている。
 その理由は、実は昨日のマイブログ「臆病なビーズ刺繍」の閲覧数・読者数が百三十九万弱の<goo・blog>中の七千二百余位にランクされたので、その分析欄を閲覧したら、昨日の我がブログの閲覧者の中で一番多いのは上記作品の作者「吉井清乃」さんとの関わりからお立ち寄りになった方であったことが確認されたからであり、そこで改めてこのページを開いてみたら、私は吉井清乃さん作の観賞と称しながら、その作品世界の内容を専ら自分自身に引き寄せて書いていたことに気が付いたからである。 あの時の私は、一体何を考えていたのだろうか?
 上記の私の観賞文については、「『病みて骨張る体』とは、つい最近までの私の『体』であった」という書き出しから、何を言っているのか解らないと思われた方があったに違いない。
 私は、作品世界の内容があまりにも明白であるような場合は、わざとそのポイントを外して書くような悪癖を持っているが、それにしても、この吉井清乃さん作の観賞文の場合は、あまりにも度が過ぎていた。
 その点は、今回の反省事項として、昨日(22.3.13)、吉井清乃さん作の観賞文を閲読する目的で我がブログにお立ち寄りになられた方には、深くお詫び申し上げます。


○ 沼べりの日だまりにいてだんまりの寒鮒釣りは釣れても寡黙  (館林市) 阿部芳夫

 短歌の観賞は音読に限る。
 塚本邦雄の亜流たちは、塚本の深い意図も知らないで、<句割れ>や<句跨り>といった音読に耐えない表現を多用して、それで以って、自分が塚本の後継者にでもなったような気分になっている。
 だが、同じ<句割れ><句跨り>でも、塚本のそれと彼ら亜流のそれとは大きく異なり、塚本のそれは、それで以って<五七五七七>の伝統的な短歌のリズムとは異なる、新しいリズムを生み出そうとしての試みであるのに対して、亜流どもの<句割れ><句跨り>は、<新しいリズムを生み出すための試み>も何も無く、ただ単なる猿の物真似に過ぎないのだから目も当てられない。
 本作を音読してみる。
 「NUMABERINO/HIDAMARINIITE/DANMARINO/KANBUNATURIWA/TURETEMOKAMOKU」
 「ぬまべりの/ひだまりにいて/だんまりの/かんぶなつりは/つれてもかもく」
 なんと心地よいことか。
 卑近な例えではあるが、日が深く射す冬の縁側に居て、遊所から引かした女性に耳垢を掘ってもらっている時の気分とは、このような気分であろうか。
 私が私淑する塚本邦雄が私たちに齎したものは大きい。
 しかしその反面、私たちは、<五・七・五・七・七>と指を折って数えて<五句三十七音>の歌らしい歌を詠む、という良習慣を忘れてしまった。
 其の結果は、インターネット歌会などに群れ成して寄せて来る、韻律も感じられず、余情も感じられないような、歌ならぬ豚のうなり声である。
  〔返〕 日の当たる特等席を占めていて長谷川櫂の饒舌句評   鳥羽省三  
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一首を切り裂く(005:乗)

2010年02月17日 | 題詠blog短歌
(西中眞二郎)
   間違えたとわざと大きく呟いてエスカレーター乗り換えており

 富小路禎子氏は私の尊敬する歌人の一人であるが、彼女の第二歌集『白暁』に、「自動エレベーターのボタン押す手がふと迷ふ真実ゆきたき階などあらず」という作品がある。
 エレベーターは、エスカレーターと同様にデパートなどに在る乗り物であるためか、エスカレーターが登場する上掲の西中眞二郎氏の作品を目にした瞬間、私は、エレベーターが登場する富小路禎子氏のこの作品を思い出した。
 不況の煽りであちこちの老舗デパートの支店が閉鎖に追い込まれ、デパートという流通媒体が果たす役割りは終わってしまったなどという、気の早い話題がマスコミで囁かれている今日ではあるが、在職時の私たち夫婦の楽しみの一つは、たまの休日のデパート歩きであって、回数こそ減りはしたものの、その習慣は今でも相変わらず続いている。
 しかし、手工芸品や陶磁器漁りを趣味とする家内はともかくとして、家内のお供に過ぎない私は、せっかくのデパート歩きをしていても、「真実ゆきたき階など」は画廊以外には無かった。
 そこで、西中眞二郎氏の作品の場合と同様に、エスカレーターやエレベーターの乗り換えは再三再四のことであった。
 私は感情の襞の頗る荒く、何事につけても大雑把な人間であるから、そうした場合でも、西中眞二郎氏のように「間違えたとわざと大きく呟い」たりはしないが、そうせざるを得ない、西中眞二郎氏の気持ちのほどは、同じ男性としてよく解る。
 そうです。
 そうなんです。女性諸君。
 私たち男性は、エレベーターやエスカレーターの場合に限らず、何かにつけ、乗り物を乗り間違え、そして、「間違えたとわざと大きく呟いて」いるような、気の弱い存在なのです。
 でも、エレベーターやエスカレーターの乗り換えはしても、それ以外のものの乗り換えは決して致しません。  
  〔返〕 「間違えた」と言い訳などはしないけど乗り損ねたるあのエレベーターよ   鳥羽省三 
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一首を切り裂く(004:疑)其のⅡ

2010年02月17日 | 題詠blog短歌
(髭彦)
   疑ふと信ずることの間をば歩みて行かむ六十路の旅も

 若い頃の私は、ひたすら疑うことを知らずに生きて来た。
 自分の若さと頭脳の柔軟さを信じ、恋人の美しさと純情を信じ、祖国日本と自分の教え子たちの未来を信じ、職場と職場の同僚を信じ、上司を信じ、組合を信じ、妻子と両親兄弟姉妹を信じ、何よりも全てを信じる自分自身を信じて、ひたすら生きて来た。
 そうした自分の気持ちに変化が生じ始めたのは、自分が病気入院し、世間の人々がバブルの崩壊騒ぎでおろおろし始めた頃からであった。
 それからの私は、日本や教え子たちの未来が政府与党の政治家たちの言うように、前途洋々たるものでも無いが、野党の国会議員たちが言うようなものでも無いように思い始め、自分の頭脳が、かつての自分が思っていたようなものでも無いが、連れ合いにに言われるようなものでもないと思うようになった。
 要するに、私は、疑うことと信じることとを使い分けて世の中を生きて行くことを知ったのである。
 さて、私も既に定年に達して職場を去り、六十路の旅も半ばに達した。
 私は、六十路の旅の残された後半の行程も、疑うことと信じることとを使い分けて生きて行きたい。
 以上、私の敬愛する髭彦さんの作品に因んで、その話者の思いに託して、自分自身の思いなどを述べてみたが、現実の私は、六十路の旅路の旅程のほとんどを既に終えているのは致し方ない。
  〔返〕 ふらふらと弥次郎兵衛のごと揺れながら進み行くのか七十路の旅   鳥羽省三
 

(西中眞二郎)
   それまでは生あることを疑わず十年日記を買う年の暮れ

 死ぬか生きるかの大病をしたのは、つい昨年のことであったが、私は、今日ある命が、来年も再来年もあることを信じて、このブログを立ち上げ、「一首を切り裂く」などという勇ましいタイトルの記事を書いている。
 したがって、自分の生命が十年後も在ることを疑わずに、「年の暮れ」に「十年日記」を買った西中眞太郎さんを、格別な愚か者とは思っていない。
 いや、むしろ、私には到底出来ないに違いない、遠大なことを為そうとしている彼に対して、格別な親しみの情と尊敬の念すら抱いている。
 それとは別に、本作の表現上の問題点を指摘すれば、私は、本作の上の句の「それまでは生あることを疑わず」という言い方に、いつもの西中眞二郎さんらしからぬぎこちなさを感じている。
 かく申しても、私には、これに筆を加えて添削するという格別な思案もつかないから、やや物足りないけれど、これはこれで致し方が無いのかな、と思って、筆を措くしかないのである。
  〔返〕 いつまでも続く生とは思はぬも床敷き替へる霜月晦日   鳥羽省三


(梅田啓子)
   次の日もけふと同じ日あることをつゆ疑はず白菜漬ける

 梅田啓子さんは、西中眞二郎さんよりはかなり若年であろうから、「次の日もけふと同じ日あることをつゆ疑はず」と詠んでも、誰ひとりとして不思議には思わないだろうが、私はつい先日、作家の立松和平の訃報に接して、人間の死というものは、年の順には行かないものだ、ということをしみじみと知った。
 それはそれとして、お題「疑」の投稿歌の中から、佳作として選んだ、梅田啓子さんと西中眞二郎さんの作品の趣向が、ほとんど異工同曲であることを知って、私は今さらのように驚いている。
 人間は、ある程度の年齢に達すると、性別を越えて、考えることはそれほど違わないものなのかも知れない。
 ところで、私は、この作品の書き出しにも、西中眞二郎さんの作品の書き出しに感じたような物足りなさを感じたので、一言述べておきたい。
 一首は、「次の日もけふと同じ日あることをつゆ疑はず白菜漬ける」となっているが、作者はまさか、「白菜」の漬かるのが、漬けた「次の日」であるから、書き出しを「次の日も」としたのではないでしょう。
 一首の意は、おそらく「昨今の私はとても元気である。私ぐらいの年齢になると、人間は健康であることが一番だと思うようになる。先日漬けた白菜の漬物を美味しく食べられたのも自分が健康だからである。私は、今日と同じように、明日も明後日も、その後も健康であることを信じている。そこで私は、今日もあの美味しい白菜の漬物を漬けた」といったものであろう。
 本作のテーマは、同年代の誰をも納得させるような普遍的なものであり、この作品の趣向は凡その読者の心に満足感を与えるようなものだけに、私は、この作品の「次の日もけふと同じ日あることを」という書き出しに大きな不満が感じられてならないのだ。
 朝日歌壇やNHK短歌の特選に選ばれた作品などは、私如き凡人などは、ただ脱帽して禿頭を曝すしか無いような万全の出来であるだけに、才女・梅田啓子さんがほんの時たま犯す、こうしたポカに対して、堪らないほどの残念さを感じているのだ。
 何一つの根拠も無いままに、ここまで厳しいことを述べたならば、私の敬愛する梅田啓子さんは、再び口を閉ざして寡黙の人はおなりになられるのでしょうか?
 でも、そうなったらそうなったで致し方無い。
 私は、これまで同様に、梅田啓子さんのほとんどの作品に共感の意を述べ、ほんのときたま感じた不満の意を、偽り隠さず述べて行くだけである。
 私がここまで心を空しくして、「題詠2010」の投稿歌の中から、梅田啓子さん、西中眞二郎さん、髭彦さん、今泉洋子さん、伊倉ほたるさんなどの作品を探し出して来て、時に賞賛の意を表わし、時に不満の意を隠さないで述べているのは、私が、短歌というこの手頃な文学形態を愛しているからであり、短歌を結社誌という閉鎖的かつ非効率的な印刷媒体で発表し観賞することに限界と終末を感じ、かと言っても、それにとって代わらなければならないはずのインターネツト歌壇や短歌関係のブログサイトに、未熟さを感じているからである。
 今回、この歌会を催されるに当たって、主催者の五十嵐きよみが「いろいろと迷いましたが」といった趣旨のことを一言お漏らしになって居られたのは、歌人層の高齢化と若年化の二極分解化に伴う投稿歌の質の低下を憂慮する余りのことでありましょう。
 それにも関わらずに、お名前を列挙させていただいた上記の方々を初めとした多くの優れた歌人の方々が、他に発表の場を確保されているにも関わらず、この企画へのご投稿をお止めになられないのは、それらの方々が、この企画の主催者・五十嵐きよみ氏の意を斟酌なされるからでもありましょうが、私の思いに重なる思いをお持ちになって居られるからでもありましょう。
 題詠企画に投稿歌観賞サイトを設置なさったのは、素晴らしいアイデァである。
 これに賛同し、多くの方々がご登録なさり、それぞれの遣り方で投稿歌の観賞活動をご展開なさって居られるが、その中でも、西中眞二郎さんのサイトは、私が目標とさせていただいている極めて卓越した企画である。
 西中眞二郎さんのお取りになられている方法は、多くの投稿歌を余すところ無くお読みになられた上で、これとお思いになった作品をお選びになり列挙する。
 思えば、途轍も無く単純ながら、途轍も無く真面目で、途轍も無く根気の要る作業である。
 私は、西中眞二郎さんのこうした真面目さと根気に敬意を表しながらも、それとは反対の遣り方、考えようによっては、極めて身勝手、極めて不真面目な遣り方で投稿歌の観賞をさせていただこうと思った。
 時には故意に本筋を外し、時には大袈裟に誉め、時には向きになって作品への不満を述べ、時には駄弁を凝らし、時には作者と私語を交感するような観賞サイトの実現を目指したのである。
 そのため、観賞サイトのタイトルもできるだけ刺激的にと、「一首を切り裂く」などと、多くの方々の反感を買うようなものにし、投稿歌に対する<返歌>も添えることにした。
 その狙いが的中したかどうかは定かでは無いが、近頃の一日の読者数は数百人に及び、それに伴っての迷惑メールなども山積することとなった。
 世に短歌関係のホームページやブログは多い。
 その中の多くのサイトに目を通し、時には勉強させていただいているが、その内容は、短歌作者層のそれと同様に二極化していて、その傾向は、最近益々強化されているような印象である。
 二極の一方は、短歌関係の出版社や短歌の実作者、実作者では無い評論家の方々の高等かつ高踏な論評である。
 これらのサイトに掲載されている文章は、私などにとっては極めて有意義なものではあるが、時には仲間褒めや、自分自身の知識の披瀝に終始することも多く、サイトの管理者や筆者の方々には、今少し低いところに下りて来て、我々、一般読者にも十分に理解させ、楽しませるような文章を書いて欲しいとお願いするのみである。
 二極のもう一方は、主として、結社に所属している実作者の方々のサイトである。
 こちらのサイトの欠点は、閉鎖的かつ独語的なことである。
 こうしたサイトの筆者の多くは、短歌発表や論評の場としてのインターネツトの優位性を口にしながらも、サイトの玄関口に、決まったようにして、「このサイトに掲載している作品の版権は○○に属します」「このサイトに掲載されている作品や文章の無断引用は厳禁です」などと書いている。
 卑しくも、短歌関係に限らず、インターネツトを、印刷媒体に対抗する作品発表の場と信ずるならば、その主張に相応しいような作品を発表すべきであり、その作品の作者の名前や評者の名前を明示した上でなら、作品の是非に及ぶ論評を加えられても、名誉毀損に当る場合や、版権侵害に当る場合を除いては、文句一つ言えないはずである。
 その論評に不満ならば、自分自身のサイトにそれへの反論を掲載すれば済むことである。 作品発表の場としてのインターネットが、印刷媒体にとって代わるのは、もはや既定の事実であり、その必要を叫ぶ声も大きいが、その割りには未成熟である。
 私は、自分の名を明示したうえで、歌人と称する他の方々のサイトにコメントを寄せさせていただくことがあるが、その内容が、少しでも作品への不満めいたものになると、決まったようにして「削除」という名の出入り禁止措置を取られる。
 自分で言うのも恥ずかしいが、私がコメントを寄せさせていただく場合は、そのサイトに記載されている作品や文章に共感を覚え、賞賛の意を示したい場合だけであり、文脈を辿れば、その意は十分に伝わるはずなのであるが、それでも駄目なのである。
 「題詠企画」への投稿作品への多くは、その作者の創意と趣向を凝らした作品であり、それらの作品から、私は多くのものを与えられ、多くのことを学ばせていただいているが、時には、数百首に及ぶ作品群の中に、私が観賞対象にさせていただきたいと思うような作品がほとんど無いような場合もある。
 そうした場合はどうしても、力量の安定した、梅田さん、西中さん、髭彦さん、今泉さん、伊倉さんなどの作品を選ばせていただくことになる。
 上記の皆さんの作品は、どなたが見ても素晴らしいから、私が殊更に称揚するのも馬鹿げていて、可能ならば、選んだり、論評したりはしたくない。
 でも、困った時の神頼み、困った時の皆さん頼みなのである。
 そういう次第で、枉げてご許容下さい。
 ところで、手元に在る『大辞林』を開いたところ、「身体が丈夫であること・達者」を意味する語として、「まめ」という名詞が在ることに気付いた。
 この語については、多くの方々が方言のようにご理解なさって居られるようで、短歌作品に使用されることは極端に少ないが、源氏物語などにも用いられている、由緒正しい日本語であり、近代以後の歌人の中の幾人かも自作に用いている現代語でもある。
  〔返〕 のちのちもまめなることを疑はず今朝の晴れ間に白菜を漬く   鳥羽省三


(鳥羽省三)
   疑えばきりが無いけど横松はネタを尽くしたからじゃないのか?

 さて、「一首を切り裂く」に自作を持ち込んで、あの鳥羽は、どう<切り裂こう>としているんだろうと、読者諸氏は注目しているに違いない。
 私は別に、自作を切り裂くつもりは無い。
 それならば、誰に選ばれたのでも無い、この駄作を、何故に此処に持ち出したのか?
 私が、この作品を此処に持ち出したのは、この作品が傑作だからでは無い。
 この作品の内容が、前述の西中眞二郎さんの作品や梅田啓子さんの作品と少し関わりがあるからである。
 作中の「横松」とは、ある著名な作家の本姓であり、彼は「横」を「立」に替えて、「立松和平」というペンネームで、ごく最近まで旺盛な作家活動をしていたのであるが、つい先日、還暦を越えたばかりの年齢でご逝去された。
 彼の死は病死であって、自死では無いから、その原因については、特別詮索する必要が無いかも知れないが、ここ数年の彼は、環境問題や宗教に関心を示した作品を書くばかりで、作家として出発した当時の旺盛さ、元気さ、創作範囲の広さを失っていた。
 察するに、彼は、小説として書くべきネタを使い果たし、自分の創作範囲を極端に狭めた挙句に、ご逝去されたのではなかろうか?
 私は、彼・立松和平、本名・横松和夫の死に接して、人生の無常を今更のように感じた。
 数多い彼の作品の中で、私が最も愛読した作品は、連作短編小説『卵洗い』である。
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一首を切り裂く(004:疑)其のⅠ

2010年02月17日 | 題詠blog短歌
(1年で1000首)
   書割の空に騙されないくらい疑り深きスズメバチたれ

 「書割の空」とは、演劇舞台の背景として描かれる、あの架空の「空」である。
 アルバイトで学習塾の講師をしている本作の作者は、その文字通りの架空を現空と間違えて突っ込んでしまい、あたら命を落としてしまったという慌て者の「スズメバチ」の話を、教え子相手の教訓話として語っているのであろう。
 そこで彼は、生徒たちに、「そんなスズメバチみたいな愚かな生き方をしてはいけない。人が生きて行くためには、もっともっと疑り深くなくてはいけない。ゆめゆめ他人を信じてはいけない。模擬試験の客観テストの答の選択肢も、いちばん正解らしいのが正解で無い。但し、私の話は信じること」などと、教え諭しているのでありましょう。
 でもそれは、評者如き常識人の社会とは、何ら関わらないことであるから、これ以上の詮索は止めましょう。
 とは言ってしまったが、「スズメバチ」といった、かつての短歌世界には決して飛び交ったことの無い獰猛な生物が出て来たので、疑り深さに於いては人後に落ちないはずの評者もまた、女郎蜘蛛のように魅力的な作者の仕掛けた巣網に捕らわれてしまったのである。
 短歌を評する者は、もっともっと疑り深く、もっともっと慎重な性格の人間でなければならないのでしょうか?
 もしそうならば、本作の作者の示した「スズメバチ」の教訓は、決して無視出来ない。
  〔返〕 書割のマニフェストとやらちらつかせ吾ら庶民を騙す宰相   鳥羽省三   

(nene)
   疑いをもたないもちますもったときもたげる首ともちつもたれつ

 この作品を、評者的、或いは文語文法的に書き改めると、「疑ひを持たず持ちたり持ちし時、擡ぐる首と持ちつ持たれつ」となり、その構造が、より明確になって来る。
 即ち、この一首は、「疑いをもたない・もちます・もったとき」と、文法遊び、語呂合わせ遊びをしているが、その遊びは途中までであって、一旦「もったとき」という語句に行き着くと、詠い出しの言葉「疑いも」が俄然頭を擡げ出して、「人間が誰かに、或いは何かに、疑いを持ってしまった時、その人間の心中には、<猜疑心>という、あの大蛇の鎌首のような得体の知れないものが擡げて来るのである。すると、その鎌首のオーナーである人間の心は、それによってコントロールされているはずの大蛇の擡げる鎌首と、持ちつ持たれつの関係になってしまうのである。だから、人間は決して、猜疑心を抱いてはいけない」と、猜疑心を持つことを戒めた歌に早変りするのである。
 本作は、遊び歌めかしてはいるが、実のところは、儒教倫理を説いた教訓歌なのである。
 とすると、本作の作者<nene>さんは、只の<ねんね>では無さそうだ。
  〔返〕 恋人を持たぬ持ちたい持った時持った貴女は蛇の前の蟇   鳥羽省三


(飯田和馬)
   鉄骨の少し足りないマンションで出生について次女は疑う

 同じ疑惑話でも、昨今は、どなた様かの政治献金疑惑話で持ちきりである。
 今となってはその真相も知れないままに終わってしまったような感じではあるが、かつての我が国では、マンションの<耐震強度偽装疑惑>などという問題が世相を賑わしていて、姉歯一級建築士、ヒューザー、小嶋社長、木村建設、総合経営研究所、平成設計などといった固有名詞が、やたらに持て囃されていたのであった。
 あの疑惑に関わる人々は、いま何処で何をしているのだろうか?
 あれらの固有名詞を形作っていた人々は、未だにこの国の何処かに棲息して居て、また新たな偽装話を立ち上げようとして、その機会を狙っているのでないだろうかなどと、小心者の私は、最近少なからぬ不安を抱いているのである。
 あの騒ぎに隠れていて目立たなかったが、あの時代には、いや、今の時代に於いても、阪神・淡路大地震やハイチ大地震級の大地震には到底耐えられそうも無いマンションが在り、それをそれと知ってか知らないでかは解らないが、安さに騙されて買ってしまったサラリーマン夫婦が居て、その不安だらけのマンションで交接して子を孕み、その子を産み、その子を「可愛い、可愛い」とあやし育てているに違いない。
 本作の作者の飯田和馬さんもまた、その片割れでありましょうか?
 その片割れの片割れである愛娘から、「パパもママも嘘吐きね。嘘吐きは泥棒の始まりって言うから、わたしのパパもママも嘘吐きで泥棒で、このわたしは嘘吐きの泥棒の子ってことね。昨日、お隣の佳音(かのん)ちゃんのママから聞いたんだけど、ママがわたしを妊娠した時、パパはこの家に居ないで、大阪に単身赴任してたって言うじゃない。そうすると、このわたしはパパの子供では無いことになる。そう言えば、お姉ちゃんはパパ似だけど、わたしはちっともパパに似てない。この始末はどうしてくれるの。弁償して。弁償して」と言われた時の、飯田和馬さんの驚愕振りは推察するに余りある。
 あっ、飯田和馬さん、怒ってる、怒ってる。
 でも、この話はあくまでも架空の話であって、大阪に単身赴任しているのは私の長男であって、実の娘の出生に疑いを抱いたのは、私の連れ合いの実家の婿養子であるから、この話は、決して飯田和馬さんや飯田和馬さんの御次女の純香ちゃんのことではありません。
 それにしても、この話に出て来る愛娘さんも酷いね。
 一旦生まれてしまった命を、「弁償して、弁償して」などと言って、駄々を捏ねるなんて。
 耐震強度偽装疑惑のマンシヨンならまだしも、一旦生まれてしまった命を弁償する方法はありません。
  〔返〕 大阪に単身赴任していたが地震騒ぎで帰宅していた     
      その宵は大阪ほどでは無いけれどダブルベッドがぎしぎし揺れた   鳥羽省三   


(中村あけ海)
   宮下と社長は同じシャンプーのにおい疑うべくもないです    

 連作マンガ短歌「庶務課中村が承りました」シリーズの一コマとは言え、庶務課員風情が、社長様とお局様のスキャンダルに口出しすることは論外。
 そんなことより、仕事をしなさい、お仕事を。
 さもなくば、事業仕分けで栗鼠寅されますよ。
  〔返〕 お局は高齢臭がひどいから二代目社長が因果含めた   鳥羽省三


(マメ)
   剥かれても何も残らぬ玉ねぎの悔しさ募る疑いの日々

 文法的なことについて説明すると、三句目「玉ねぎの」の「の」は、格助詞「の」の比喩の用法であるから、「玉ねぎの」の意味は「玉ねぎのような」ないしは「玉ねぎのように」となる。
 したがって、この作品の「剥かれても何も残らぬ」という一、二句は、それに続く「玉ねぎ」を導き出すための<序詞>であり、一首全体の意味は、「玉葱は剥かれても剥かれても皮ばかりで何も残らないから、剥いた人も剥かれた玉葱も悔しさばかりが募るが、私が世間の人々から高額脱税容疑者として疑われていた日々は、その玉葱のように悔しさばかりが募る日々であった」ということになる。
 ところで、作者<マメ>さんの分身と思われる、本作の話者は、一体どんな理由で、どんな人から疑われていたのだろうか?
  〔返〕 玉葱を剥いて涙を流さずに涙腺不備かと疑われてた   
      実母から数億円も頂戴し知らんぷりだと疑われてた   鳥羽省三


(はこべ)
   疑問符が二つ並んだメールには返事に迷う告白があり

 「日曜日の翌日は月曜日かしら? それとも火曜日かしら?」というメールには、「疑問符」が二つ並んでいる。
 このメールの何処に「返事に困る告白」が在るのかしら?
 もし在るとしたら、それは<言外の告白>であって、このメールの送り主は、このメールの文中では何一つ「告白」していない。
 だが、メールを受け取った者からすれば、こんな馬鹿馬鹿しい内容のメールを送ってくる者は、自分が狂人であることを「告白」しているようなものだと思うに違いない。
  〔返〕 われ思ふ故にわれ在る人の世に国を思わぬ宰相在りや??   鳥羽省三


(翔子)
   エコという経済理論いずこより猜疑心のごと春の雪降る

 一首の意味は、「最近は猫も杓子も『エコ』『エコ』と言い、史上空前のエコ流行りであるが、私からすれば、『エコ』という言葉は、科学的にも経済学的にも、何ら確たる裏付けを持たないもので、こんなつまらない言葉を、一体どこの誰が言い始めたのだろう、と思う。しかし、世間のエコ好きどもは、そんな私の思いを理解しようともしないで、私を時代遅れの馬鹿者扱いするばかりである。だから、昨今の私は、猜疑心の虜となってしまうのである。そんな私の心を占めている『猜疑心』にも似て、春になった今日の空から、冷たい雪が降って来る」といったところでありましょうか?
  〔返〕 エコというケチ哲学が流行るから箪笥の肥やしの服も着られる   鳥羽省三


(冥亭)
   何くわぬ顔をしてゆく人混みにわれにはわれの疑惑ありけり

 何くわぬ顔をして、原宿の竹下通りの人込みの中を歩いていた。
 考え事をしていたうえに、年齢に不足が無いから、つい足取りが乱れてしまい、バンクーバーオリンピック大会のスノーボード・ハーフパイプ競技の日本代表選手のような格好をした青年にぶつかりそうになってしまった。
 すると、その青年は、私の顔に唾を吐きつけそうにして言うのだ。
 「てめえー、爺のくせして、原宿の竹下通りを歩こうなんて上等だ。ここはアメ横ではねぇーぞ。てめえーのような老いぼれは、アメ横でも歩きゃがれー」と。
 そんなにまで言われて、腹が立たないことも無いが、理性の塊のような私は、ぐっぐっと堪えて、心の中で呟くのだ。
 「とは言うが、若者よ。両耳に開いた穴にぶら下がっているチャラチャラしたものを外し、その序でに鼻に開けた穴から待ち針の頭のように光る物を外して、よくよく考えてみなさい。人間は考える葦と言うが、君の今の言動は、考える葦に相応しいものであったか? 私は、見掛け通りの高齢者ではあるが、柔道は講道館の三段、剣道は錬士五段の免許を持っているのだぞ。私がその気になったら、たかだか五尺五寸程度の背丈しか無い君の身体は、そのスケートボードもろとも、青山墓地の斉藤茂吉の墓標に叩き付けられてしまうはめになるのだぞ」と。
 その言や壮んなれども偽り在り。彼の呟きに疑惑在り。
 本作の作者・冥亭氏は、当代もてもての<草食系男子>であって、柔道三段、剣道錬士五段はおろか、奥方の支え無しでは自宅の梯子段も昇れないような酩酊者なのである。
 〔返〕 冥亭のハンドルネームに疑惑在り誤記を正せば酩酊なるか?   鳥羽省三  
 
 
(木下一)
   神様も疑わないこと一つだけ だいたひかるを愛しています

 昨年の「あなたのパンティ」シリーズに替えて、木下一さんの今年の投稿歌は「だいたひかるを愛しています」シリーズとお見受けする。
 その内容はともかくとして、一連の事柄を為すに当って、予め定まった一つのテーマや課題を持って臨むことは決して悪いことでは無い。
 だから、木下一さんよ。今年一年、どうぞ「だいたひかるを愛しています」シリーズを貫き通して下さい。
 下の句が「だいたひかるを愛しています」に決まっているなら、後は上の句を創るだけのこと。
 「春寒やぶつかり歩く盲犬 だいたひかるを愛しています」「暇だからファンレターを書いてます だいたひかるを愛しています」「公園の染井吉野が咲き出した だいたひかるを愛しています」「ストーカーと疑われても困るけど だいたひかるを愛しています」「乗車券握り締めつつ思ってた だいたひかるを愛しています」などと、本の数秒で「お題001」から「お題005」までの作品を創りましたが、問題は、その作品が人の心を魅惑し、多くの人の支持を勝ち得るかどうかなのです。
 そこで、具体的な提案ですが、この一年貴方は、「だいたひかるを愛しています」シリーズの作品を百首詠み、その中から私が佳作と認め、選評を書きたくなるような作品を五首以上創って下さい。
 もしそれが適ったら、「題詠2010」の参加者の誰もが、木下一さんは只の悪戯坊主では無く、「題詠2010」に参加するに相応しい歌人だと認めることでありましょう。
 何卒、宜しくご奮闘下さい。
 ところで、本作を前にして、私はしばらく腕組みをして考え込んでしまいました。
 貴方が、下の句を「○○○○○○を愛しています」と固定して、「題詠2010」に挑戦するのは少しも構わないが、その句の中の「○○○○○○」に相当する人名を、「だいたひかる」にしなければならなかった理由が、私には少しも解らなかったからです。
 世に女性は星の数ほど居るが、その中で<だいたひかる>というお笑いタレントは、格別な人気者でもありませんし、格別な美形でもありません。
 その<だいたひかる>を、木下一さんともあろう好青年が、何故に、百回も「だいたひかるを愛しています」と言わなければならないのでしょうか?
 「抱いた<ひかる>なら未だしも、抱いてもいない<だいたひかる>を何故、木下一さんは愛さなければならないのでしょうか」と、私は小一時間に亘って考えました。
 その結果、私は次のような結論を得ました。
  ① だいたひかるは、格別な人気者でも美人でも無いが、程々に名が知れていて、程々に男好きのする女性であるから、仮にもし、木下一さんが彼女を愛人にすることが出来たとしたら、彼の虚栄心は程々に満足し、彼の性欲は程々に満たされるに違いない。
  ② だいたひかるは、あの南海キャンディーズの<木偶の嬢>程ではないが、俗に言う「牛蒡を抱いているよりは少しは増しな女性」であるから、彼女の愛を得たいと願っている男性がそれ程多いとも考えられず、仮にもし、今は無名の木下一さんが、彼女にラブコールをしたとしても、彼女がそれを受け入れる可能性が、必ずしもゼロでは無い。  以上。
 考えてみると、一見、出鱈目とも思われる行為にも、それなりの理由が在るものである。
 「題詠2010」参加者切っての好青年・木下一さんが、「だいたひかるを愛しています」と言わずに居られないのは、彼にとって彼女は、お構い頃、お手頃な女性だからであろう。
  〔返〕 桃の香が部屋一面に薫る夜は抱いてひかるを愛してみたい   鳥羽省三  

  
(越冬こあら)
   疑似餌だと知って飲み込む熱帯魚そんな私の結婚記念日

 「疑似餌だと知って飲み込む熱帯魚」が、本当に在るかどうかは私には分からない。
 仮に在るとしても、その「熱帯魚」が利口なのか馬鹿なのかも私には分からない。
 分からない事尽くしの作品ではあるが、その意味は、「この世の中には、疑似餌を疑似餌だと知っていながら飲み込む、利口か馬鹿か判らない熱帯魚が居るが、よく考えてみると、私の結婚もまたその熱帯魚の行為に似て、利口か馬鹿か判らない行為であった。今日は、そうした私の結婚記念日である」といったところでありましょうか。
 それはそれとしても、私は、本作の表現に大きな疑問を抱いているのである。
 その疑問とは、本作は、上の句が「疑似餌だと知って飲み込む熱帯魚」となっていて、それに対応する下の句が「そんな私の結婚記念日」となっているので、上の句と下の句とがあまりにも付き過ぎていて、鑑賞者の介入する余地が残されていないことである。
 つまり、本作は、下の句の句頭の連体詞「そんな」が邪魔なのである。
  〔返〕 疑似餌だと知って喰い付く熱帯魚 今日は私の結婚記念日   鳥羽省三


(チッピッピ)
   伸ばす手が繋がれること疑わず娘と歩く川縁の道

 本作の作者の<チッピッピ>さんはお母さんでありましょうか?
 だとすれば、本作は、母と娘との、ほんの一瞬に過ぎない<黄金時代>のスケッチなのである。
 晴れ上がった冬の一日、猫柳の綿毛が飛び交う「川縁の道」を母と娘とが連れ立って散歩している。
 先になった母が、後ろから来る娘の方に手を伸ばす。
 危ないから手を繋いで歩こう、というつもりでも無かったが、自分が伸ばした手を娘が握り、これからの道を母子が手を繋いで歩こう、という潜在的な意識はあったかも知れない。
 また、自分が伸ばした手が、必ず娘の手と繋がれるだろうということも疑ってはいなかった。
 案の定、母が伸ばした手を、すかさず娘が握り、母と娘の手が繋がった。
 でも、<チッピッピ>さん、母と娘の意思がぴったりと重なるなんて時期は、ほんの一時期なんですよ。
 こうした黄金の一時期は瞬く間に過ぎて、やがて娘は産みの母に悪態をつくようになる。
 「うちのばばーったら、朝から晩まで一日中、チッピッピ、チッピッピって、うるさい
ったら、ありゃーしない。同じチッピッピって騒々しいヤツでも、雀や椋鳥なら捕まえて焼き鳥にしてしまうって手もあるけど、あのチッピッピは加齢臭が酷くて犬も食わない」なんちゃって。
  〔返〕 手を出せば握る手が出るひと時を冬の川面に鴨が飛び立つ   鳥羽省三


(如月綾)
   疑っているわけじゃない 浮気しているんでしょ?って確信してる

 「浮気しているんでしょ?って」言い方は「確信してる」って言い方では無く、疑問を感じているって言い方である。
 したがって、本作には表現上の内部矛盾が存在する。
 単なる思い付きと感覚だけで詠んではいけない。
 歌人ちゃん仲間からなら、「素晴らしい歌ね。綾の気持ち、私も解るわ」などとのメールが来るかも知れないが、「一首を切り裂く」の読者の目は厳しい。
  〔返〕 疑っているわけじゃない<浮気率100%>って、確信してる   鳥羽省三
 

(南雲流水)
   弱いから自信ないから疑って潰してしまう牛乳苺

 「牛乳苺」とは、苺に牛乳と砂糖をかけた食べ物。
 その牛乳苺を食べながら、本作の作者は、先程から何事かを考えているのである。
 その「何事」とは何ごとか?
 察するに、彼が勤務する住宅販売会社では、最近、社員のリストラ問題が浮上しているのである。
 業績不振、売り上げ高激減に対応して、社員の半数を首切り。
 会社のこうした方針に対して、単なる営業部の平社員に過ぎない彼は、何一つ意見具申出来るはずも無く、かと言って、今の会社から解雇されたら、女房子供を養って行けないから、最近の彼は不安で堪らないのである。
 昨日の午後、営業先に出掛けようとしていたら、彼は人事部長に呼び止められ、玄関先で立ち話をした。
 人事部長は彼と同期で、同期の出世頭でもある。
 「南雲君、元気無いね。どう。最近釣りに行ってる」「はい、先週行きました」「場所は何処。相変わらず外房かしら」「はい、相変わらず外房です」「外房の今頃は、メバルかしら、鯛かしら」「はい、鯛が二匹。かなり小型ですけど」「小型でも鯛。腐っても鯛か。釣りも宜しいけど、営業成績も・・・・・・・」。
 立ち話の途中で、部長のケイタイが鳴り響き、「営業成績も・・・・・・・」の後は聞かず終いであった。
 彼は押しが「弱いから」営業には不向きである。したがって、勤務する会社の業績向上に貢献出来る「自信が無いから」、同期入社の人事部長の言動をつい「疑って」しまうのである。
 そこで、昨日の出来事のことを思いながら「牛乳苺」食べていると、匙を持つ手が狂ってしまい、「牛乳苺」を「潰してしまう」のである。
  〔返〕  強いから自信あるから力入れ苺ミルクの匙を曲げちゃう   鳥羽省三

 
(高松紗都子)
   遮光カーテン閉めればふいに闇になり疑心暗鬼がくっきり浮かぶ

 昔通った池袋の人世坐のようだ。
 暗幕を閉めれば館内が闇になり、シネスコ画面のスクリーンに、羅生門の鬼婆の姿がくっきりと浮かぶ。
 本作の作者は、高松紗都子さん。
 人間は、特に女性は、聡ければ聡いほど、自分自身で「疑心暗鬼」を生むことになる。
 「最近、夫の帰宅が遅い。さては、新入社員の女の子と何してるんではないかしら」
 「中三の息子が元気無い。もしかしたら、模擬試験の成績が下がったのではないかしら」などと。
 そう、何もかも遮光カーテンのせいなんですよ。
 あなたは、リビングルームだけで無く、あなたご自身の心の中にまで、遮光カーテンを下ろしているから、「疑心暗鬼」を生んでしまうんですよ。
 ご主人様もご子息様も、何一つ心配要りません。
 お二人とも、貴女のご家族なんですよ。
 大切なご家族を信用なさらないで、どなたを信用するんですか。
  〔返〕 とは言えど息子も夫も疑わし昨日も今日もものを言わない   鳥羽省三


(南葦太)
   積年の疑問 どうして弁慶は股間蹴られて平気だったか

 あまりにも馬鹿馬鹿しいので、股間に手を当てて大笑いしてしまった。
 「人間は考える葦である」と言うが、その葦を名に負う南葦太さんの「積年の疑問」が、事も有ろうに「どうして弁慶は股間蹴られて平気だったか」であると言うのだ。
 積年と言えば、少なくても二年以上。
 この日本の自分たちと同時代に、「弁慶が股間を蹴られて平気だった」理由を、二年以上もの長い間考え続けていた人間が居て、その人間が自分たちと同じように、歌を詠むことを楽しみにしていたとは、思うだに悔しい。
 そんな人間は自分の股間を自分で蹴り、すたこらさっさと彼岸の彼方に消え去るがいい。
 と、そこまで言われても、考えない葦である南葦太さんは、自分の股間を自分で蹴る算段がつかないから、相変わらずのうのうと生きているであろう。
 そこで、一手ご指南、これでおさらば。
  〔返〕 両足で地面踏ん張り跳び上がり利き足使って股間を蹴りな   鳥羽省三
 

(理阿弥)
   銀雪にペスは眠ったああ僕が疑うことを覚えた冬だ

 「冬に疑うことを覚えた」という修辞は、「夏に処女を失った」という修辞と対を成し、洋の東西を問わず、様々な詩人の口に拠って言い古された、極めて文学的、かつ古典的な表現である。
 この古典的な表現が、今、ここに、私の敬愛する歌人・理阿弥さんの口腔から漏れ出でたのは、全てこれ、歌神の導きである。
 そう言えば、昨今は、雪を「銀雪」として詠う詩人もほとんど見られなくなったし、「ペス」という犬の名も耳にしなくなってしまった。
 この一首に接し、私は高村光太郎以前の詩の世界に戻ったような気がした。
  〔返〕 泥土にペスの胸毛が濡れたあさ初潮知りたるユダの妹  鳥羽省三
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一首を切り裂く(003:公園)

2010年02月14日 | 題詠blog短歌
(ウクレレ)
   公園の冬のベンチを温めるぼくらは一生補欠でいよう

 「人生を補欠で在り続ける」という生き方も確かに在りますね。
 徒に角突き合わせず。
 僅か9個か11個しか無い席を争わず。
 一見するとそれは、諦めから来る消極的な生き方のようにも見えますが、決してそうでは無く、自分から望んでそうする、極めて積極的、意志的な生き方なのかも知れません。
 「公園の冬のベンチ」に座っていると、最初はとても冷たいが、やがては自分の体温で「ベンチを温め」、結局は自分自身をも温め、癒やすようになることがあります。
 それと同じように、人生を「補欠」で生き続けることを覚悟し、それを貫き通せば、そこから何かが見えて来ることもありましょう。
 本作は、お題「003:公園」の投稿歌中の、<白眉>とも言える秀歌でありましょう。
  〔返〕 公園の冬のベンチを温める君の役割り尊い役割り   鳥羽省三


(nene)
   ブランコやのぼり棒など空に少し近づくアイテム揃えて公園

 奥村晃作氏の言うところの<発見の歌>であろうか。  
 話題が、ありふれた公園の<ブランコ>や<のぼり棒>のことであるから、「アイテム」などと言わないで、<遊具>と言えば済むはずなのに、殊更にカタカナ語を使っているのは、少し大袈裟に言えば、スノーボードの国母和宏選手の<腰パン、シャツ出し>のようなものとも思われよう。
 しかし、インターネツト歌会という場面や、昨今の若者言葉の現状などを考慮すれば、本作に於けるカタカナ語「アイテム」の使用の必然性は否定出来ない。
 一首の意は、「ブランコやのぼり棒などの空に少しだけ近づく遊具を揃えて、公園は子供たちの訪れを今日も待っている」と言うのであろう。
 作品の要は、三、四句目の「空に少し近づくアイテム」である。
 人間が「ブランコ」や「のぼり棒」を考え出し、それを子供の遊び場に導入したのは、それらが必ずしも「空に少し近づくアイテム」だからという訳では無いだろう。
 しかし、この三、四句目の表現は、「そう言われてみれば、確かにそうとも言える」といった程度の説得力を持っていて、それなりのリアリティが感じられる。
 なかんずく、「空に少し近づくアイテム」の「少し」が泣かせるのだ。
  〔返〕 読み聞かせ三つ編みおやつお出迎えお風呂に入れてやればママだね   鳥羽省三 


(船坂圭之介)
   妻在らぬ身をさむざむと晒しつつかたぶく月を公園に見つ

 船坂圭之介さんの御作はあまりにもお気の毒で、常に何らかのからかいを備えている、私の観賞の対象にするにしのびないのであるが、「妻在らぬ身をさむざむと晒しつつ」という表現の現実感に惹かれて、敢えて一筆を加えました。
 詠い出しに「妻在らぬ身を」とあって、「本作の作者は妻帯者であるが、その「妻」はどこかに出掛けていて今夜は不在なのである」とも読めましょう。
 もしもそうでは無くて、「本作の作者は妻帯していて当然な年恰好であり、本人もそれを希望しているにも関わらず、何かの事情で未だ独身でいらっしゃる」のならば、ここは、「妻在らぬ」では無く、「妻持たぬ」とすべきであろうとも思われますが、いかがでありましょうか。
 それともう一点。
 作者は本作を、お題「公園」への投稿歌として創作なさったのでありましょうから、やむを得ないところでありましょうが、下の句を「かたぶく月を公園に見つ」としてしまったことが、「あたら傑作を」と惜しまれるのである。
 例えば、本作を、お題「公園」の束縛から解放して、「妻持たぬ身をベランダに晒しつつかたぶく月をさむざむと見つ」としたとしたら、それはいかがなものでありましょうか。
  〔返〕 妻持てる身もそれはそれ切なくて傾く月をしみじみと見つ   鳥羽省三 

 
(鈴音)
   公園のベンチで寄り添うカップルに実はこっそり 石、投げました。

 ここにも公園の片隅に佇みながら孤独を託つ人が一人居た。
 でも、彼(彼女かな?)は、前掲の作品の作者とは異なっていて、かなり悪戯好きで、「公園のベンチで寄り添うカップルに実はこっそり 石、投げました」などと、尋常ならざる告白しているのだ。
 悪戯とは言え、彼(?)の行為は決して見逃しには出来ない。
 まかり間違って、びたりと寄り添っている「カップル」の中の女性の目を直撃すれば、彼女は、その瞬間に失明してしまうかも知れないし、また、男性の股間にでも当たると、今は「公園のベンチで寄り添」っている「カップル」の幸福を永遠に奪ってしまうことにもなりかねません。
 歌詠みも人間だから、嫉妬することもあるでしょう。
 しかし、その嫉妬心を顕わにして、理由の無い暴力を振るってはいけません。
 歌詠みの武器は、他ならぬ「歌」である。
 だから、そうした場合は、ひとまずは自宅に帰って嫉妬心を覚まし、次のような歌を詠んで、自分を嫉妬させた彼と彼女の幸福を呪詛してやるのが、歌人としての、紳士的かつオーソドックスな遣り方でありましょう。
  〔返〕 我が妬む彼と彼女よ蟇になれそして大蛇にぺろり呑まれろ   鳥羽省三


(笠原直樹)
   いくつもの言わぬが花がこそこそとつぼみを揺らし夜の公園

 本作の作者もまた、嫉妬心で火の玉と化した男性であろうか。
 「夜の公園」で「こそこそとつぼみを揺らし」ている「いくつもの言わぬが花」とは、公園のベンチを二人占めして語らうカップルたちではないだろうか?
 もしそうならば、それでは何故、本作の作者は、夜の公園のベンチで語らうカップルたちを指して、「言わぬが花」などというネガティブな言い方をしたのだろうか?
 その理由は、あまりにも明々白々。
 彼は、自分以外の多くの人々の幸福に羨む余り、「花」を「花」と言えずに、思わず「言わぬが花」と言ってしまったのである。
 嫉妬心に狂った彼にとって、「夜の公園」に語らう「花」たちは、「言わぬが花」では無くて、「高嶺の花」だったのである。
 その「高嶺の花」を素直に「高嶺の花」と言えずに、「言わぬが花」といったところに、彼の彼たる所以が在るのである。
  〔返〕 いくつもの高嶺の花の咲く山に何ぞ直樹の歪んで生ゆる   鳥羽省三 


(野州)
   帰らずに済む旅のこと考へるベンチがひとつ公園にある

 「帰らずに済む旅」とは<自殺行>のことだろうか?
 もし、そうならば、その「ベンチ」に腰掛けはしないで、街に出掛けたり、仕事に勤しんだりすればいいのである。
 徒に深刻がるのはやめましょう。
 身体を動かしましょう。
 物事を広い視野に立って見つめましょう。
 明るい歌を詠いましょう。
  〔返〕 公園に君を待ってる椅子がある白く明るい未来の椅子が   鳥羽省三
 

(藤野唯)
   土曜日はよそ見をしよう公園にバドミントンを持って出かける

 「土曜日はよそ見をしよう」という詠い出しに惹かれました。
 「公園にバドミントンを持って出かける」という下の句の存在に拠って、「よそ見」の何たるかはほぼ解ります。
 月曜日から金曜日までルーチンワークを黙々と行い、土曜日には「公園にバドミントンを持って出かけ」て「よそ見」をするのでしょうか?
 そして、日曜日は「新婚さんいらっしゃい」を見て、笑い転げるのですか?
  〔返〕 土曜日は白いシャトルでバドミントン 君の未来が空を翔けてく   鳥羽省三
 

(木下奏)
   公園は色んな人と来た場所で一人ぼっちになれない場所で

 「色んな人」とは、少年時代の遊び仲間なのか? それとも、青春時代やそれ以後のセックスフレンドなのか?
 そのどちらにしろ、公園に来ると、過ぎ去りし思い出がさまざまに甦り、独りになりたい君を独りにしてくれない。
 二句目の連体詞を、「いろんな」としないで「色んな」としたのは、その範疇に含まれる「人」が<色事>関係の女性であることを、それと無く示唆しているのであろうか?
 まさかねー。
  〔返〕 樹の洞に魂(たま)を呼ばふる木霊(こだま)居て吾(あ)は公園に安らひもせず   鳥羽省三


(あみー)
   何かから必死で逃げる 公園で鬼ごっこしていただけなのに

 「鬼ごっこ」とは、バーチャルな逃亡ゲームである。
 したがって、それが真に迫れば、当然の結果として、「何かから必死で逃げる」気にもなる。
 結局のところ、本作の作者<あみー>さんは、自分で企てたバーチャルゲームの齎したリアリティーに、自分自身で困惑しているのである。
  〔返〕 どなたかが虐められたと怒ってる 短歌観賞しただけなのに   鳥羽省三


(蝉マル)
   幹太き欅を撫でて花芽もつ桜を仰ぎ公園二周

 「幹太き欅を撫でて」と言い、「花芽持つ桜を仰ぎ」と言う。
 健康法の一つとして毎日やっている「公園二周」の散歩の途中での自分の行為を列挙したのであろうが、ただ単なる、行為の列挙のみならず、季節感を表わし、それによって充足される自分自身の気持ちをも表わしているのである。  
 私は、かねてより運動不足を解消するために、一日一万歩の散歩を目標にして来たのであるが、この一首に詠まれている出来事は、私の毎日繰り返している散歩を実写しているようなものである。
  〔返〕 花芽持つ桜を仰ぐ暇も無し雨降る中を散歩一万   鳥羽省三


(中村梨々)
   公園に大きな口が開いていて覗く人から吸い込まれてく

 一見すると、現代版・怪談風ではあるが、本作中の「公園」の「大きな口」とは、運動会で行う障害物競走を模した<遊動円木>の一種に見られる、プラスチック製などの<潜り抜け穴>なのであろう。
 そのありふれた風景を、凡百の歌詠み並みに把握せずに、オカルト風に仕立てたところに、本作の作者の優れたアイデァが在る。
  〔返〕 公園に<籠の渡し>が架けられて女男(めを)の童が攫はれて行く   鳥羽省三
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一首を切り裂く(002:暇)

2010年02月13日 | 題詠blog短歌
(梅田啓子)
   ひねもすを暇ひき寄せて食みてゐる検査結果を待つきさらぎは

 市役所の国民健康保険担当係や健康保険組合などから退職者や主婦などに送られて来る、無料又は経費の一部を受信者本人が負担する<健康診断受診券>の有効期間は三月末日までである。
 それに関係する書類は、遅くとも前年の九月頃まで受診対象者本人の手に届くのであるから、自分がその気になりさえすれば、受診対象者は書類を手にした翌週にでも指定の医療機関に行って健康診断を受診することが可能なのである。
 しかし、年金生活者や高齢の主婦などの受診対象者の多くは、自分の健康を過信する余り、もしくは、自分の健康に少なからぬ不安を持つ余り、受診の時期を先へ先へと延ばした挙句、受診券の有効期限切れぎりぎりになった二月頃になって、やっと神輿を上げ、医療機関に駆け込むのである。
 本作の作者の分身とも思われる作品の<話者>もまた、そうした庶民感覚の持ち主であるから、彼女は二月半ばになってからしぶしぶ指定の医療機関に出掛けた。
 彼女とは性別も性格も異にするが、評者の私もまた、そうした庶民感覚の所有者の一人であるから、評者には、指定の医療機関に受診を申し込んでから受診を終えるまでの、彼女の心理や行動は、逐一手に取るようにして分かるのだが、それを詳しく実況中継していたら彼女のプライバシーに触れて怒りを買うことになり、本文の内容を徒に複雑にすることにもなるから、それは止しましょう。
 さて、様々な思いで迎えた健康診断も終り、後は、二週間後に行われる「検査結果」の発表を待つばかりとなった。
 「検査結果」が告げられるまでの二週間という時間の中での彼女は、<俎板に乗った鯉>のようなものである。
 不安も不安であるが、まさかという気持ちも無いではない。
 「検査結果」を一日も早く知りたいような気持ちにもなるし、永久に知りたくないような気持ちにもなる。
 ともかく、家事や詠歌などの何一つもやる気がしないし、何一つも手につかない。
 そこで彼女は、「検査結果を待つきさらぎ」の二週間を、朝から夜まで<ぐうたら三昧>、<食い意地三昧>で過ごしているのである。
 「ひねもすを暇ひき寄せて食みてゐる」という本作の上の句は、その間の彼女の夢遊病者的な行動と心理とを的確に説明しているのである。
 本作の読者の中の幾人かは、「ひねもすを暇ひき寄せて」という措辞の舌足らずな点を、作品の欠陥として指摘するかも知れない。
 しかし、今やインターネツト歌壇有数の歌読みを自認する評者からすれば、この上の句の表現は、必要にして十分な表現であり、これを舌足らずと指摘する鑑賞者に対しては、まさに「言いおおせて何かある」とでも申し上げたくなる。
 ご夫君が現役のサラリーマンであった当時から、格別な勤めもしていない彼女の生活は、暇と言えば実に暇な生活ではあったが、その当時の「暇」と「検査結果」の発表を待つ間の二週間の「暇」とは、質的、次元的に全く異なるのである。
 もともと格別な何かをしなくてはならないという身分でも立場でも無かったのに、今や<俎板の上の鯉>と化してしまった彼女は、何一つやる気も起こらないし、やる必要もない。
 そこで彼女は、彼女の人生や彼女を取り巻く環境の中から、ありとあらゆる「暇」を力尽くで「ひき寄せて」、この「きさらぎ」の二週間を、食べては排出し、食べては排出する、といったような、無気力かつ自堕落な生活をしているのである。
 もう少し分かり易く説明すれば、「暇ひき寄せて」とは、言わば「暇」の出前を頼むことである。
 「検査結果を待つ」この「きさらぎ」の二週間に、彼女の家には引きも切らずに「暇」の出前が届けられ、その「暇」どもはてんでに、「はい、これを食べなさい。あれも食べなさい。今食べておかなければ、これから一生食べることが出来なくなるかも知れませんよ」とばかりに、あれもこれも彼女に食べさせ捲くるのである。
 物事はなるようにしかならない。
 その事を知り、半ば諦め、半ば覚悟を決めた者には、際限の無い時間の浪費と貪欲な食い意地しか残されていない。
 商店などを営んでいる人たちの間に、<二、八=にっぱち>という言葉がある。
 作中の語、「きさらぎ」とは、その<二、八>の<二>。
 つまり、一年中で一番客足が少なく、商売が「暇」な<二月>のことである。
 本作の話者の所には、その「にっぱち」の「二」の「きさらぎ」の隅々から「暇」どもが暇に任せて集まり、彼女は、この暇を持て余している「暇」ども相手に、無礼講の満漢全席を繰り広げているのであるが、そのうちに、いつの間にか二週間が過ぎてしまい、その後には、「検査結果」の発表という断頭台の上に立たされるのである。
  〔返〕 きさらぎの二週の果の宵闇に消ゆるもならぬ婦女の泣き声   鳥羽省三


(村上きわみ)
   晩年の日記に揺れるおおどかな「暇日・無聊」の文字慕わしき

 単に「晩年の日記」とするのでは無くて、「何某の晩年の日記」とすれば良かったと、そのことだけが惜しまれる。
  〔返〕 晩年の父の日記に擦れたる「閑暇・無聊」の文字慕はしき   鳥羽省三


(髭彦)
   野に遊び地を走りなば暇なき日々にしあらむ職退きてなほ

 「走りなば」とは<仮定条件>である。
 したがって、「職退きて」後の作者は、野に遊ぶことも無く、地を走ることも無い、無聊退屈三昧の生活をしているのである。
 そんな作者に出来ることは、髭をたくわえることと、歌を詠むことぐらいである。
  〔返〕 職退きてなほ矍鑠と髭伸ばし歌詠み暮らしの人うらやまし   鳥羽省三


(只野ハル)
   暇だなあと欠伸しながら言える日がきたら猫を飼おうと思う

 一般的に言うと、「暇だなあと欠伸しながら言える」ような日には、欠伸するのがやっとで、孫をあやすことも猫と戯れることも出来ないくらいしょぼくれてしまっているのだそうだ。
 その原因の一つは、消費社会と言われる我が国の現代社会に於いては、曲がりなりにも人間の看板を背負っている者は、男女を問わず、徹底的に使い捲られることである。
 夫が定年を迎えて、これからは犬猫を飼ったり、二人だけで温泉巡りをしようなどと思っていると、息子や娘からマンション購入の頭金をせびられたり、孫の養育を強いられたりして、結局は、身を粉にして働かなければならなくなるのである。
 したがって、「猫を飼おうと思う」という、只野ハルさんの希望がただの気まぐれの願望では無く、宿願とでも言うべきものであったなら、その機会は、未来の何時かでは無く、今日か明日なのである。
 そういうことで只野ハルさん、この際是非とも清水の舞台から飛び降りるつもりになって、猫を飼いなさい。
  〔返〕 猫飼って秋刀魚盗られて追ひ駆けよ走り回るが健康法だ   鳥羽省三


(伊倉ほたる)
   指先で暇をつぶした箱の中チェルシー柄の鶴が犇めく

 この世の中には、お暇を持て余している人がわんさかといらっしゃるらしい。
 つい先日、管理者のお名前は存じ上げないが、「好きな人ができました~アラフォー・独身女性です~」というタイトルのブログを覗き見していたら、その中に「好きな男性から、チェルシーの包み紙で作った折鶴を貰いました。とてもちっちゃくて可愛いのを」という書き込みがなされているのを発見しました。
 そう言えば、私の中学時には、「森永ミルクキャラメルの包み紙で作った折り鶴を好きな人の鞄の中に入れるとその恋は実る」という言い伝えがあり、私も不器用な手で森永ミルクキャラメルの包み紙で不恰好な折り鶴を作ったところまでは上出来だったが、結局は、クラスのどの女性の鞄にも入れられず、学校からの帰り道に、途中の橋の上から悲しみを堪えながら、飛ばしてやった思い出があります。
 あの悲しい折り鶴は何処へ飛んで行ったのでしょうか?
 あれから五十年余り、今頃は南氷洋に流れ着いて、シロナガスクジラの餌になっているのではないでしょうか?
 「指先で暇をつぶした箱の中チェルシー柄の鶴が犇めく」。
 おお、この一首の筆の運びのなんとすばらしいことよ。
 特に、「指先で暇をつぶした箱の中」の「で」と「を」の働きが絶妙である。
 試みに「指先で」の「で」を「が」に替え、「暇を」の「を」を「で」に替えてみると、この一首は、「指先が暇でつぶした箱の中チェルシー柄の鶴が犇めく」となるが、これでは、せっかくの傑作が台無しになってしまうのである。
 「暇」の潰し方にも幾通りかのパターンがあって、勝つはずの無い<チーム青森>の選手の白粉で塗り固めたような顔を見る時は<目で暇を潰す>。
 最近の健康診断で、悪玉コレステロールが多いと診断されてしょげ返っている妻と散歩する時は<足で暇を潰す>。
 好きでも無い男性社員が暇に任せて作って箱ごと呉れた「チェルシー柄の鶴」を、ポケットの中でまさぐる時は<指先で暇を潰す>などと、ケースバイケースなのである。
 察するに、本作の作者・伊倉ほたるさんは、本作に於ける、これら二つの助詞の必然性を、それほど意識しないままに本作をお詠みになったのであろう。
 そこが、本作の作者の素晴らしいところ。
 助詞や助動詞を効果的に使う人には、音楽に於ける<絶対音感>にも似た<絶対語感>とでも言うべきものが備わっているのである。
 本作の作者・伊倉ほたるさんは、その<絶対語感>を生まれながらにして備えている、絶対歌人なのである。
  〔返〕 授業中密かに折った折り鶴のとまる枝なく哀れ飛び立つ   鳥羽省三
      指先で潰せる暇を持て余し諸手の指で鼻毛抜きをり      同
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一首を切り裂く(001:春)

2010年02月13日 | 題詠blog短歌
(蓮野 唯)
   「貴方だけ」言葉の楔打ち込んで甘く縛ろう彼の青春

 四十の坂を越えて容貌や思考力に衰えを感じると、女性は心中に灼熱地獄を抱え込むようになる、と誰かの小説に書いてあった。
 私がこの記事を書いている直ぐ横で、連れ合いの節女がボリュームを特大にしてテレビを視ているが、五十二吋のその大型画面に映っているのは、近頃人気急落の鳩山総理の奥方・鳩山幸さん(66)の漆喰で塗り固めたようなお馴染みのご尊顔であり、その画面の左上部を流れて行くテロップは、人気俳優・船越英一郎さん(49)のご令妹・平野洋子さん(47)の首吊り自殺を伝えている。
 この偶然は何を物語るのであろうか?
 テレビ画面に映る者、その画面に見入る者、つい数時間前に死んで行った者、未だにしぶとく生きている者、短歌を詠んで投稿する者、短歌などは詠みも読みもしないし投稿などは勿論しない者などなど、四十の坂を越えた女性といっても、いろいろ様々であるが、そのいずれの女性にも共通しているのは、己の体内に抱えている灼熱地獄なのである。
 その灼熱地獄の保担者なるが故に、ある者は首吊り自殺を遂げ、ある者はぶつぶつの目立つご尊顔を<聖飢魔Ⅱ>のなんとか殿下のようにべたべたに塗りたくって誤魔化そうとしているのであろうが、本作の作者・蓮野唯さんが為そうとしている、「『貴方だけ』言葉の楔打ち込んで甘く縛ろう彼の青春」という、衝動的かつ衝撃的な行為もまた、本質的には、それらと何ら変わらない馬鹿げた行為であるに違いない。
 平成二十二年の「一首を切り裂く」の筆頭に採り上げられ、彼の鳥羽省三の毒牙に掛かり、ずたずた細々、骨の髄まで切り裂かれた本作に於いて、決して見逃してならないのは、「『貴方だけ』」という初句の表現と、「甘く縛ろう彼の青春」という四、五句目の表現である。
 即ち、「『貴方だけ』」の「貴方」及び「彼の青春」の「彼」とは、作者・蓮野唯さんのご亭主殿や火遊びのお相手では無く、俊才かつ美形の、蓮野唯さんのご子息殿なのである。
 でもねえー蓮野さん。
 「甘く縛ろう」が「辛く縛ろう」が、それは<束縛>以外の何物でもありません。
 貴女もそろそろ<お子様離れ>を敢行なさり、まんざら捨てたものでも無い<短歌道>に邁進されたらいかがですか。
  〔返〕 「貴女だけ」というわけではありません だけど何故だか選んじゃったの   鳥羽省三


(梅田啓子)
   飛行船うかぶ春には地球から「天地無用」の貼り紙はがす

 「飛行船うかぶ春には」という一、二句目の措辞から真っ先に連想されるのは、我が国のシュルレアリスム絵画の嚆矢とされる、彼の古賀春江の傑作『窓外の化粧』及び『海』である。
 それら二つの油絵の画面には、その絵が制作された当時の世相を賑わした、ドイツのツェッペリン伯号を想わせる「飛行船」が描かれているが、その「飛行船」という語の有無に関わらず、本作の世界は、まさに古賀春江的なのであり、まさにシュルレアリスム絵画的なのである。
 本作の作者・梅田啓子は、去る1月24日放映の<NHK短歌・東直子選>に於いて、「永久凍土けふも融けゆくこの星の洗面器にてかほを洗へり」という格別に奇抜な秀作が、特選一席に選ばれて、私を大いに羨望させ、嫉妬させたが、彼女の作品の魅力の一つは、本作にも特選一席の作品にも見られる如き、<言葉と言葉との新鮮な組み合わせないしは衝突>なのであるが、この自由闊達、有通無碍な言葉遣いは、古賀春江のシュルレアリスム絵画と通い合うのである。
 及ばぬながらも、本作で作者・梅田啓子さんがイメージさせようとした世界の現出を試みよう。
 昭和4年8月19日午後7時40分、ドイツの飛行船ツェッペリン伯号が世界一周の途中に、霞ケ浦の海軍航空隊の滑走路に着陸した。
 この世界最大の飛行船は、全長235.5m、直径30.5mで、これが滞在した4日間に、現地に見物に訪れた人の数は30万人に及んだと言う。
 <30万人に及ぶ見物客>と言えば必ずしも驚くには値しないが、実を言うと、飛行船・ツェッペリン伯号の飛来のニュースが我が国に伝えられるや否や、その飛来を今か今かと待ち焦がれて、口を開け、空を見上げていたのは、その頃の我が国の人口の全てだったのである。
 いや、口を開けて空を見上げていたのは、ひとり我が国の人々だけではなく、全世界の人々だったのである。
 異常とも言えるこうした事態を憂慮した堅物が、我が国を初めとした、ドイツ以外の世界各国に現れ出で、彼らはお互いにテレパシーを通じ合って連携し、世界中のあの街この街の辻々の掲示板や道の傍らの電柱に、「天地無用」の貼り紙を掲示したのである。
 彼らにしてみれば、あの第一次世界大戦の張本人のドイツが、世界中の空に<飛行船・ツェッペリン伯号>を飛ばせて、それまではお金でも落ちていないかと地面ばかりに向かっていた全世界の人々の視線を、空に向かわせることは、それで以って、全世界の人々を痴呆化させようとの陰謀に他ならなく、居ても立ってもいられない緊急事態と思われたからである。
 ところが、彼ら<全世界堅物同盟>のこうした運動に水を差し、「桜が咲いたら上を向き、飛行船が飛んだら空を見上げよう」と主張する、柔らか頭の人々が現れた。
 評者の私は、梅田啓子さんのこの傑作から、古賀春江の二つのシュルレアリスムの油絵とは別に、イタリア初期ルネサンス絵画の巨匠・ボッテイチェリの代表作、『春』及び『ヴィーナスの誕生』を連想するのであるが、それは、本作の作者・梅田啓子さんが、実際には真夏の出来事であった、<飛行船・ツェッペリン伯号>の我が国への飛来を、「春」の出来事に翻案して歌を詠んでいるからでもあるが、それ以上に、科学する心と好奇心とに捉われての冒険に過ぎない、<飛行船・ツェッペリン伯号>の飛来を、ドイツの世界征服政策の一環として捉えるような、<全世界堅物同盟>の<天地無用の貼り紙掲示運動>に水を差して、「飛行船うかぶ春には地球から『天地無用』の貼り紙はがす」と声高々と叫ぶ者が居たとしたら、それはあの<ボッテイチェリ>の描く、『春』や『ヴィーナスの誕生』に登場する、愛の女神ヴィーナスやフローラたち以外の何者でも無いと思われたからである。
 本作の作者・梅田啓子さんは、その末端に属する組織員の一人であり、「題詠blog2010」に参加された歌人たちの中でも、特に目立った<柔らか頭>の持ち主に違いない。
  〔返〕 昨年の衆院選挙で落ちちゃった候補のビラが風に揺れてる   鳥羽省三


(今泉洋子)
   はろばろと睦語りする蝋梅のこゑに聴き入る春のあけぼの

 「睦語り」とは、<愛する者同士の寝屋での語らい>のこと。
 寒さを凌いでやっと咲いた「蝋梅」に「睦語り」を感じるとは、作者・今泉洋子さんの不治の病いである<幻聴症候群>も、今や<病い膏肓に入る>という段階に達したのでありましょうか?
 「蝋梅」は、あくまでも寡黙のままに清らかに咲き、決して「睦語り」などをなさいません。
 初句の「はろばろと」は、早春の朝の雰囲気が感じられて宜しいが、末尾を「春のあけぼの」で逃げたのは真に以ってけしからん。
  〔返〕 はしなくも哀しき性(さが)の戻り来て荒れたる寝屋で尽くす睦言   鳥羽省三
 似非信心のお寺参りも程々にして、たまには家に落ち着き、ご亭主殿のお相手をしなさいと言う意味を込めて詠ませていただきました。作中の「性」に、敢えて<さが>と振り仮名を施した意図をご感受なさいませ。


(アンタレス)
   二人の娘嫁ぎゆきしは共に春桜吹雪を浴びつ巣立ちぬ

 病室の窓から望む「桜吹雪」は、また格別なもの。
 ご自身がお腹を痛めてお産みになった二人の娘さんが共に、今日の日と同じような「桜吹雪」を浴びてお輿入れなさったとあれば、その感慨にも、更に格別なものがありましょう。
 これからもお身体を大切になさり、アンタレスさんらしい思い入れを込められた御作をご投稿なさり、私に観賞させて下さい。
 文法的なことについて言えば、四句目から五句目に跨る「桜吹雪を浴びつ巣立ちぬ」は、「浴びつ」の「つ」が、完了の助動詞「つ」の終止形であって、ここで切れますから、<桜吹雪を浴びながら巣立って行った>という意味ならば、この「つ」の代わりに、接続助詞の「つつ」を用いて、「桜吹雪を浴びつつ巣立つ」にした方が宜しいかと思われます。
 しかし、そんな細かいことは気にしないで、思いつくままお創りになられることが、もっと大切なことです。
  〔返〕 白無垢を染めし桜の薄紅を病ひの床に思ひ出で居り   鳥羽省三

 と、ここまで書いて公開したら、作者の只野ハルさんから、ご丁重なるコメントを頂戴した。
 今、そのコメントの全てをコピーして示す。
 「ありがとうございます。今年もお取り上げ頂きお礼申し上げます。『暇だなあと欠伸しながら言える日がきたら猫になろうと思う』にしようかと迷いました。」
 
 只野ハルさん、わざわざのコメント、大変有り難く御礼申し上げます。
  〔返〕 暇だなあと欠伸しながら言える日が来たらニャンコになろうと思う   鳥羽省三 


(伊倉ほたる)
   選ぶのはベビーピンクのマシュマロで春よ今年も従順であれ

 歌い出しの三句を見て、「今年のほたるさんのバレンタインプレゼントは、チョコレートでは無くて、ベビーピンクのマシュマロなのか。うん、マシュマロなら、チョコレートと違って柔らかくて食べ易いから、高齢で入れ歯ばかりの役員たちへの義理チョコならぬ義理マシュマロとして最適だ。さすがにほたるさん。三年後には、創業以来始めての女性執行役員が誕生するぞ」と思った。
 だが、一首全体を再読してみて、イマイチ納得が行かない。
 そこで、連れ合いの節女に、「ベビーピンクのマシュマロとは何か。お菓子のマシュマロはたいてい白色だから、ベビーピンクのマシュマロとは、お菓子とは別のものを言うのではないか?」と訊ねてみた。
 すると節女は、「私もよくは知らないけど、この間、たまプラーザのユニクロに寄ったら、ベビーピンクのマシュマロカットソー」と書いてあったから、おそらく女性の着る服飾関係の言葉だと思う」と応えてくれた。
 そこで、インターネットの<google>の検索窓に、「ベビーピンク マシュマロ」と入力して見たら、まさに<どんぴしゃ>であった。
 でもねー、ほたるさん。
 ユニクロのの特価品棚を掻き回して選んだイチキュウパーの<マシュマロカットソー>を着て、「春よ今年も従順であれ」なんちゃってるのは、伊倉なんでも、あまりにも無謀ではないですか?
 色が<ベビーピンク>あろうが、<モスグリーン>であろうが、ユニクロのイチキュウパーは、あくまでもユニクロのイチキュウパーなんですよ。
 私は今、バンクーバー冬季五輪大会の開会式の入場行進を五十二吋の大型画面で視ながら、この記事を書いているのですが、欧米の女性は凄いよ。
 彼女らは生まれながらにして、裸のままで、季節を従えているのです。
 日本の女性が、「春」を従えて、自分の奴隷にするためには、最低でも五十万円以上のお洋服で貧弱なお胸をカバーしなければいけません。
 人によってはそれでも不可能かも知れません。
 いかにバーチャル世界のこととは言え、こんな無謀なことは考えずに、お互いに地道に働き、地道に短歌道に励みましょう。
 お手製の<柚子胡椒>にも、たまには火を入れなければいけません。
 これからはどんどん温かくなりますから、知らず知らずのうちに腐るかも知れませんよ。
 お仕事お大切に。お身体お大事に。
 「ベビーピンクのマシュマロ」は、会社近くの烏森辺りで着ているのはかまいませんが、決して銀座に着て行ってはいけませんよ。
  〔返〕 お返しはピンクショックのブラジャーで社長専務の前で試着を   鳥羽省三


(西中眞二郎)
   棒杙の如く見えいし紫陽花が折り紙の如き葉を付けて春

 他ならぬ西中眞二郎さんの作品であるから、駄作であろうはずはないのだが、イマイチ納得が行かない。
 それは、本作の前半の「棒杙の如く見えいし紫陽花が」という表現に引っ掛かりを感じるからである。
 「棒杙」という言葉に対する私の感覚からすると、この世の中で「棒杙」と呼ばれるものがあったとすると、その太さは少なくても直径5cm以上、長さは少なくても1m以上なければならない、と思われる。
 一方、私の知っている紫陽花の冬越しの状態は、「棒杙」と見紛うような太さの枝は一本も無くて、直径2cm足らずのやや太い枝を中心にして、その周りには、地面から直接生え出たような細い枝がひょろひょろと立っているだけなのである。
 私は、この両者の矛盾からどうしても解放されないから、この作品の前半部の表現には、首を傾げるしか無いが、その後の「折り紙の如き葉を付けて春」という表現には脱帽せざるを得ない。
 「棒杙の如く見えいし」とは決して言えないが、紫陽花の冬越しの枝に生え出た「紫陽花」の「葉」は、色艶と言い形状と言い、「折り紙」細工の紫陽花の葉とそっくりである。
 何処か一点でも、優れた表現を備えている作品は、私にとっては、いい作品である。
  〔返〕 棒杭の如き枝から吹き出でて新粉細工に紛ふ楤の芽   鳥羽省三


(理阿弥)
   春泥の野を越えきたる子は我の胸で眠りぬ柔らかきかな

 四句目までは文句無しなのだが、最終句「柔らかきかな」にささやかな疑問を感じて、採ろうかどうかと迷った作品である。
 「作者がどなたであろうが佳作は佳作だ」という定見を持って臨めばいいのであるが、それを貫いて行くと、特定の作者の作品だけを選ぶことになりかねないので、そこが思案のし所なのである。
 五句目「柔らかきかな」の問題に戻ろう。
 春の一日、母親に連れられて野遊びに出掛けていた幼児が帰って来た。
 「おお、戻ったか。戻ったか。お母さんと一緒で楽しかっただろうが、一日中歩き詰めで、さぞかし疲れたことだろう」などと言い、我が子の帰りを待ち焦がれていたようにして、父親はその子を抱き上げようとした。
 すると、その子はすぐさま父の手に飛び込んできて、間も無く父親の厚い胸の中ですやすやと眠ってしまったのだ。
 最終句の「柔らかきかな」は、我が子を抱き上げた瞬間に感じ、その子が自分の胸ですやすやと眠っている現在も感じている感覚を、そのままに表現したものであろう。
 一日中泥まみれになりながら春の野遊びをして来た我が子の身体は、春の陽射しをいっぱいに浴びて膨らんだ真綿にも似て、とても柔らかく、とても軽く感じられたのであろう。
 感じたことを感じたままに表わすのに、何のためらいを持つ必要があろうか。
 何の技巧を凝らす必要があろうか。
 最初から迷わずに採れば良かったのだ。
  〔返〕  たんぽぽの綿毛の如き愛し児よ春の野遊び泥にまみれて   鳥羽省三


(鮎美)
   立春の真夜のしづけさ父母の血より生れたる爪切り落とす

 「立春の朝に爪を切ると縁起がいい」という伝承がある一方、土地によっては「真夜中に爪を切ると近親者が亡くなる」という伝承もある。
 本作は、そうした吉凶二つの伝承の存在を十分に承知した上で詠んだものに違いない。
 一見、奇異な表現とも思われる三、四句の「父母の血より生れたる」は、そうしたことから想い起こされたものであろう。
  〔返〕 吉凶のいずれと出るか判らねど足の爪切る立春の真夜   鳥羽省三

   
(けぇぴん)
   光を帯び舞ひ上がりさうな窓枠あり足音もなく春の訪れ

 一首の意は、「気がつくと、いつの間にか日照時間が長くなっていた。晴れ上がった午後、背中に陽射しを受けながら散歩していると、その途中に建築中の住宅が在って、その家の二階の窓枠は、春の陽を帯びて、今にも大空に舞い上がりそうな感じなのだ。ああ、久し振りに散歩に出て来て良かった。春は足音も立てずに、私たちの直ぐ近くまで訪れているのだ」といったところでありましょうか。
 私の長男は、某大手住宅関連機器メーカーの営業社員として奮闘中なので、晴天の日に、健康保持のために散歩している途中、そのメーカーの製品を用いた新築の家に出会うと、ほっと胸を撫で下ろすような思いをしております。
 「光を帯び舞ひ上がりさうな窓枠あり」とは、本作の作者<けぇぴん>さんが、散歩の途中に実見した光景なのでありましょう。
  〔返〕 とろとろと燃え立つ如く輝きて春日の中に窓枠は在り   鳥羽省三
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010:かけら(鳥羽省三)

2010年02月11日 | 題詠blog短歌
反省のかけらも見せず朝青龍ハワイに飛んでゴルフ三昧

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