臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

一首を切り裂く(068:怒)

2010年12月31日 | 題詠blog短歌
 「題詠短歌」に参加して三年目。
 その前身をも含めて「一首を切り裂く」などの短歌に関わる記事をマイブログに掲載するようになってからも、三年余りの月日が経過したのである。
 昨年までのことは忘れてしまいましたが、今年の収穫は、何と言っても春先から夏に掛けての体調絶不調の時期を克服して、一年を通して満遍無く記事を書き続けることが出来たことであり、特に、健康がやや快復した十月から十二月までの三ヶ月間を、一日も欠かす事無く記事を書くことが出来たことである。
 今日は大晦日、勇躍勇んで「題詠2010」の「066:怒」を開いてみたら、意外や意外、鑑賞に値する作品が極端に少なかったのである。
 とは言え、かく申す私とて、「怒張して迫れる彼の逸物に膝蹴り食はせし挙句の初夜で」という、在りもしない“下ネタ”作品で以って、事態を逃れたのであるから、あまり立派なことは申せませんが、でも、寂しいことは寂しいのである。


(西中眞二郎)
○  怒るべきときを逃せしことあるを悔やむ日もあり古希過ぎてなお

 前回のお題「067:匿名」の際に、本作の作者・西中眞二郎さんは、「世捨て人の我にも多少の立場ありて激しき批判は匿名で書く」という、未だに極めて意欲的な人生を歩まれている現実の西中眞二郎さんらしからぬ作品をご投稿なさったので、無類の臍曲りの評者は、「『世捨て人』とは、本来、世の中がどう動こうとも一切気にしないような人を指して言うのでありましょう。『多少』なりとも『立場』を気にし、しかも『激しき批判は匿名で書く』ような人は、本来的な意味での『世捨て人』ではなく、敢えて申すならば、“世捨て人風”な俗人でありましょう」などと、多分にからかい気味、かつ大変失礼な鑑賞文を記し、その挙句、「世捨て人紛いの彼にも立場あり犬のふぐりを見たりはしない」などという、これ亦、大変失礼であり、作者たる私と西中眞二郎さんご当人しか理解し得ないような返歌をお詠み申し上げたのでありますが、前回に続いて、今回も亦、官僚時代の西中眞二郎さんさんが味わいなさった苦汁の程を窺うに十分な作品をご投稿になられたのである。
 「怒るべきときを逃せしこと」は、七十年余りの人生をお歩みになられたら、何方にだって、一度や二度はご経験なさって居られるでありましょうが、通産キャリア官僚としての西中眞二郎さんが、長いお役所生活の中でご体験なさったそれは、私如き者が経験したそれとは、質を異にしたものでありましょう。
 そんな過去の事を、西中眞二郎さんは「古希過ぎてなお」「悔やむ日」もある、のである。
 思うに、定年ご退官後の西中眞二郎さんが、場違いとも思われかねない短歌道にお勤しみになられ、自らを「世捨て人」とご任じなさる理由は、其処の辺りに在るのでないか、と、しきりに思う大晦日の早朝である。
  〔返〕 この我がかかる文章記しゐるこの刻彼は何して居らむ   鳥羽省三
 西中眞二郎様、佳いお年をお迎え下さい。


(アンタレス)
○  堪え難き怒りを持ちつ耐え居れば諭すが如く春雷響く

 生きていれば、キャリア官僚ならずとも、「堪え難き」時もあるし、「怒り」を感じる時もある。
 そんなあんな堪え難さや怒りに「耐え」て居たら、そうした気持ちを「諭すが如く春雷響く」と仰っているのでありましょうが、アンタレスさん、しばらく、お怒りを鎮めて、私が赤心で申し上げることをお聞き下さい。
 貴女ご自身は、この作品をなかなかの出来栄えとお思いになって居られるかも知れませんが、私が敢えて、失礼を省みずに申し上げれば、この作品は、必ずしも佳作でも傑作でも秀作でもありません。
 この作品の何処が宜しくないのかと言うと、先ず、「堪え難き怒りを持ちつ耐え居れば」という上の句中の「つ」が宜しくありません。
 貴女は、この作品を句切れ無しの作品のおつもりでお詠みになられ、「持ちつ」の「つ」に「つつ」乃至は「ながら」と同じ意味の役割りを果たさせるおつもりでお詠みになって居られるのでありましょう。
 しかし、文語表現の「つ」は、あくまでも、完了の助動詞でありますから、「堪え難き怒りを持ちつ」という連文節の意味は、「堪え難い怒りを持ちながら」では無く、「堪え難い怒りを持った」或いは「堪え難い怒りを持っちゃった」ということになってしまい、この一首は“二句切れ”の作品となっているのであります。
 そこで、その難点を解消する為には、「堪へ難き怒りに耐へて病み居れば」乃至は「堪へ難き怒りに耐へて臥し居れば」といったことになりましょうか。
 で、それとあれとを続けて「堪へ難き怒りに耐へて臥し居れば諭すが如く春雷響く」とすれば、万事解決するかと言えば、それでもなお且つ宜しくなくて、本当に宜しくないのは、前述の文法問題ではなくて、本番はむしろ此方の方なのです。
 本当に宜しくないことを指摘させていただく前に、先ず、屁理屈的に宜しくないことを申し上げましょう。
 文法的な誤りはさて置いて、貴女はこの一首の前半部分で、「堪え難い怒りを感じながらも耐えていたら」と仰っている。 
 そして、それを受けての後半部分では、「(堪え難い怒りを感じながらも耐えていたら、それを)諭すようにして春雷が響く」と仰って居られる。
 屁理屈をつけさせていただければ、それは矛盾ではありませんか?
 堪え難い怒りを感じながらも一所懸命に耐えていらっしゃる健気な女性に対して、春雷はどのようにして諭すのですか?
 「苦しかったら苦しいと言いなさい。怒りたかったら怒りなさい。決して耐えていてはいけませんよ」と諭すのですか、屁理屈ですけれども。
 したがって、貴女がご投稿なさった「堪え難き怒りを持ちつ耐え居れば諭すが如く春雷響く」も、私が少しちょっかい出した「堪へ難き怒りに耐へて臥し居れば諭すが如く春雷響く」も、決して立派な作品とは言えないのです。
 でも、それはあくまでも、低次元の問題であって、私がこの一首の問題点として、本当に指摘させていただきたいのは、「堪え難き怒りを持ちつ耐え居れば」と起して「諭すが如く春雷響く」と受ける、安物のフォークソング的、予定調和的発想なのであります。
 「くよくよしていたら、お天道様から一喝された」、「悩んでいたら、お孫さんがにっこり笑って慰めてくれた」、人生には確かにそんなことも在りますが、そんな内容の歌は、万葉の昔からゴマンと在りますから、二十一世紀の歌人が今更あらためて詠んでも、何方も感動してくれません。
 大変厳しい申し上げ方かも知れませんが。
  〔返〕 春雷の響きに耳を塞ぎつつ病ひの床に如月を臥す   鳥羽省三
 大変失礼致しました。
 アンタレス様、佳いお年をお迎え下さい。


(今泉洋子)
○  こんな世は以ての外と忿怒像笑はぬままに秋深みゆく

 これは亦、「以ての外」なる“予定調和”である。
 古都の仏像たちは、平成の今日を、「こんな世」は「以ての外」と見通した上で「忿怒」の形相をしているのではありません。
 天平白鳳の昔日から、一種の形式として、「忿怒」の形相を浮かべているのです。
 そのことと「秋」が「深みゆく」こととは、何ら関わりがありません。
 せっかくの“政権交代”に変な言い掛かりを付けないで下さい。
 鳩山も菅も辛い立場を懸命に堪えているではありませんか?
  〔返〕 水門の開門命じた菅総理佐賀県民は銅像建てろ   鳥羽省三
 大変失礼なことを申し上げました。
 今泉洋子様、佳いお年をお迎え下さい。


(髭彦)
○  やはやはと薄くなりたるわが髪の怒髪となりて天を衝かざる

 硬派だからお鬚やお頭髪が「やはやはと薄く」ならない訳ではありません。
 「怒髪天を衝く」とは、冷静さを失った状態を指して言うのでありますから、おつむが「薄く」なったことは、むしろ吉祥として喜んで下さい。
 一年間、大変失礼致しました。
 鬚彦様、佳いお年をお迎え下さい。


(庭鳥)
○  読んだこと無いのですけどタイトルを覚えています「怒りの葡萄」

 「タイトル」だけでは仕方がありませんよ。
 是非、是非、お読み下さい。
 庭鳥様、佳いお年をお迎えください。


(飯田和馬)
○  込み上げる怒の水を吸い上げて夾竹桃は夕に燃えるよ

 「夾竹桃」が「夕に燃える」光景に見惚れたことは御座います。
 でも、その「夾竹桃」が「吸い上げ」る水が、どうして「込み上げる怒の水」なんでしょうか?
 何と無く感じとしては解りますが、理屈としては解りません。
 でも、此処は短歌の世界ですから、理屈として解る必要は無く、感じとして解れば宜しいのかも知れませんね。
 飯田和馬様、佳いお年をお迎え下さい。


(牛 隆佑)
○  妹が怒り狂って家中の安定磁場を壊して消えた

 この一首に接して、我が家の「安定磁場」とは何か、という問題に突き当たりました。
 その結果、得た答は、庭の草花の色と、妻の笑顔と、私たち二人の健康と、それに長男一家の幸福と、独身の次男の健脚と無事故と、それに何よりも「題詠短歌」にご投稿なさる皆様のご多幸であります。
  〔返〕 題詠の最も安定した磁場としての牛氏の確たる存在   鳥羽省三
 牛隆佑様、佳いお年をお迎え下さい。


(伊倉ほたる)
○  おとといの里芋に箸を突き立てて正しい怒り方の練習

 俗に謂う“芋明月”の翌々日、即ち、旧暦の九月十五日にお詠みになった一首かと推測される。
 でも、「怒り」には「正しい怒り方」も“正しくない怒り方”もありませんよ。
 「怒り」はただ単に新たなる「怒り」を招くだけのことです。
 と、言うのは、一応の屁理屈であって、格別な佳作とも思われない、本作の鑑賞に当たって、絶対に見逃してはならないのは、秋野菜の代表選手みたいに思われている「里芋」を目にしてから、それに「箸を突き立て」、「正しい怒り方の練習」をしようとするに至るまでの、尻取りゲームみたいな作者の心の一連の動きでありましょう。
 その舞台は、格別“芋明月”で無くても宜しい。
 とにかくも作者の目の前に、煮るとか蒸すとかした「里芋」が在ったのである。
 お鉢に盛られた「里芋」は、一つ一つが丸く、全体としてはこんもりと盛り上がっている。
 「里芋」のそうした様子を目にしていると、人間なら誰しも、その上にお「箸」を一膳「突き立て」たくなるのである。
 お鉢に盛られた「里芋」を目にして、お「箸」の一膳も「突き立て」たくならないような人間が居たとしたら、それは短歌を語る資格が無い。 
 いや、人間として、この世に息をしている資格が無い、と言っても過言ではない。
 それはそれとして、主役の「里芋」の方であるが、お「箸」を一膳、「突き立て」られる資格のある「里芋」は、柔らかくてかつ簡単に崩れない「里芋」でなけれはならない。
 そこで作者は、その「里芋」を単なる「里芋」とせずに、「おとといの里芋」としたのである。
 そこの辺りの独特かつ文学的な心の動きには、彼の有名な正岡子規の絶句「おとといの糸瓜の水も取らざりき」が加担しているかも知れないし、加担していないかも知れない。
 ともかくも、ここに、「正しい怒り方の練習」台としての、お「箸」を一膳「突き立て」られた「里芋」が登場したのである。
 お話がここまで進めば、後はすらすら。
 その「おとといの里芋に箸を突き立てて」、彼女は、健気かつ仰々しくも「正しい怒り方の練習」を始めたのである。
 “阿吽の呼吸”と申し上げましょうか?
 この一首を詠み上げるに至るまでの、作者・伊倉ほたるさんの微妙な心理の動きを読み取り得たのは、短歌評者としての鳥羽省三の、今年一年の精進の賜物である。
 伊倉ほたる様、今年はいろいろとありがとうございました。
 どうぞ佳いお年をお迎え下さい。
  〔返〕 里芋の煮っ転がしを串に刺し酢味噌まぶせば立派な一品   鳥羽省三
 

(bubbles-goto)
○  お怒りはごもっともですと受け止めてあとは権限のない役職

 私は、生活費のほぼ全額を捻出する為に、一年に一回は年金関係の役所に電話連絡をしているが、その電話を受ける係員の応対振りは、いつも本作に詠まれているようなものなのである。
 bubbles-goto 様、一年間大変お世話になりました。
 何卒、佳いお年をお迎え下さい。
  〔返〕 お怒りはごもっともですと言われたらその後口をつぐむ他ない   鳥羽省三
 

(蓮野 唯)
○  怒りなど何の役にも立たないと知ってはいても責め立てていく

 本年のしんがりは、何方よりも気心の知れた蓮野唯さんである。
 「怒りなど何の役にも立たないと知って」いるのは大変結構なことであります。
 だが、これで終わらないのが、蓮野唯さんの蓮野唯さんたる所以である。 
 「知ってはいても責め立てていく」とありますが、何方を、どのようにして「責め立てていく」のですか?
 まさか、“蓮野流睾丸握り潰し”ではないでしょうね。
  〔返〕 パパパン パパパン パパパパバン 新年おめでとうございます   鳥羽省三
 蓮野唯様、今年は大晦日まで、大変失礼なことを申し上げました。
 どうぞ、佳いお年をお迎え下さい。

一首を切り裂く(067:匿名・其のⅠ)

2010年12月30日 | 題詠blog短歌
(bubbles-goto)
○  駅前のロータリーへと降る雪よものみなすべて匿名にせよ

 「駅前のロータリーへと降る雪」とはどんな「雪」か?
 それは、人々にいろいろな事を思わせる「雪」であり、人々の心と身体とをいろいろな場面へ誘う「雪」であり、人々をいろいろな境遇に陥れる「雪」でもある。
 あるボクサータイプの男は、その「雪」を見て遠い昔に捨てた女のことを思い、「ざまー見ろ、あの女。戴くものは戴いたから、後は野となれ山となれと、あの時、俺があの女を捨てたのは正解だったなー」とほくそ笑むことであろう。
 ある女は、その「雪」の為に就職試験に間に合わずに泣く泣く故郷に帰り、真面目で身体が丈夫なことだけが取り得の男と平凡な結婚生活に入るであろう。
 ある子供は、「『雪』が明日の朝まで降り続いていたら、パパにおねだりしてミニスキーを買って貰おう」と密かに思うであろう。
 また、ある刑事は、「せっかく掴み掛けた殺人犯の足取りが、『雪』の為にかき消されてしまった」としきりに悔しがることであろう。
 そんなこんな「雪」に対して、本作の作者“bubbles-goto”さんは、「雪よものみなすべて匿名にせよ」と願うのである。
 清浄な「雪」に向ってそんなことを願う“bubbles-goto”さんの、現在のご境遇については、読者諸氏のご判断にお任せしたい。
  〔返〕 黒鍵の無いピアノ有り 雪の朝“猫踏んじゃって”ぐうの音も出ず   鳥羽省三  


(今泉洋子)
○  木犀の匂ひ初めたり匿名の投稿終へし夜のほどろに

 「木犀」は、モクセイ科モクセイ属に属する常緑小高木の総称であり、中国名は桂花である。
 我が国で単に「木犀」という場合は、モクセイ属中の“ギンモクセイ”を指すことが多い。
 本作の作者・今泉洋子さんは、ある秋の夜明け方に、インターネットを通じて、「匿名の投稿」を終えたのであるが、その投稿を終えて一息吐いた瞬間、あの「木犀」の淡い「匂ひ」が、かすかに鼻についたのである。
 「匿名の投稿」を終えたことと、「木犀の匂ひ」が立ち「初めた」こととは、本来なんの関係も無いことではありましょうが、わざわざ薄暗い「夜のほどろ」を選んで「投稿」したことと、その「投稿」が、他ならぬ鳥羽省三のブログ宛ての「匿名の投稿」であったことについては、作者ご自身もささやかな罪の意識めいたことをお感じになられたに違いない。
 そんな作者の心の空洞を襲うかのようにして、「木犀」が「匂ひ染めた」という訳である。
 それはそれとして、本作は、今泉洋子さんの作品としては珍しく、振りがなが一箇所も無い作品である。
  〔返〕 悪行は天知る地知る鳥羽も知る天網恢恢疎にして漏らさず   鳥羽省三

 
(伊藤夏人)
○  お互いが匿名だった 本名は思ったよりも平凡だった

 何しろ、“伊藤夏人”くんと“佐藤秋子”さんとのネット上でのお付き合いでしたからね。
  〔返〕 お互いにバツイチでしたし其の上に秋子は二児の母でしたから   鳥羽省三


(西中眞二郎)
○  世捨て人の我にも多少の立場ありて激しき批判は匿名で書く

 「世捨て人」とは、本来、世の中がどう動こうとも一切気にしないような人を指して言うのでありましょう。
 「多少」なりとも「立場」を気にし、しかも「激しき批判は匿名で書く」ような人は、本来的な意味での「世捨て人」ではなく、敢えて申すならば、“世捨て人風”な俗人でありましょう。
  〔返〕 世捨て人紛いの彼にも立場あり犬のふぐりを見たりはしない   鳥羽省三


(佐藤紀子)
○  日本に一番多き「佐藤」なり 匿名性あるわが本名は

 俗に、「佐藤・高橋・馬の糞」とも言いますからね。
 我が連れ合い殿の旧姓は、「中村・田中は牛の糞」の「田中」だったので、金融機関などで、現姓の「鳥羽翔子さん」などと呼ばれると、目立ち過ぎて困るなどと訳の解らないことを言って、気の弱い私を困らせます。
 それはそれとして、「佐藤」というのは、本作の作者の「本名」ではなく、「本姓」でありましょう。
  〔返〕 我が国で断トツ多い苗字なり隠れもしない佐藤紀子は   鳥羽省三


(青野ことり)
○  つれづれに思いの丈を語ること 匿名だから許されること

 “青野ことり”とは、戸籍名ではなく、ハンドルネームかも知れませんが、「ハンドルネーム=匿名」ではありません。
 したがって、“青野ことり”さんは“青野ことり”さんというお名前で、“インターネット通信”という、この無限大の世界の中に生きているのです。
 其処の辺りの事をお間違えになられませんように。
  〔返〕 つれづれに思いの程を愚痴ることハンドルネームでご遠慮せずに   鳥羽省三


(虫武一俊)
○  存在を秘匿名前も消し去って やりたかったことはやれましたか

 お題「匿名」を「匿名」のままに詠み込まなかった唯一の作品であり、なかなかの傑作でもある。
 とは申せ、評者などは至って気弱な人間ですから、「存在を秘匿名前も消し去」ったとしても、「やりたかったこと」は、決して思い通りには「やれま」せん。
  〔返〕 存在を秘匿していた高齢者続々発覚実は死んでた   鳥羽省三


(牛 隆佑)
○  匿名の(死ねよ)(殺すぞ)ならばまし(愛しています)ですっごく怖い

 とは申しますが、私宛てのメールやコメントは、「死ねよ」「殺すぞ」「やめちまえ」といった内容のものばかりで、「愛しています」や「読んでいます」や「お茶しませんか」などという内容のものは決してありませんから、それはそれで、とても怖く、面白くもありません。
 「匿名」のメールや手紙も、相手によりますね。 
 牛隆佑さんくらいの美男子ともなると、「愛しています」といった内容のものが、ちょこちょこ舞い込み、その始末に困惑することもお在りでございましょう。
  〔返〕 匿名のコメント固くお断り内容問わず削除しますよ   鳥羽省三
 「題詠短歌」にご参加なさって居られる方々は、ハンドルネームを用いてのコメントであっても、ブログアドレスで以ってその存在が確認されますから、どうぞご遠慮無く。
 また、先刻も申し上げましたが、ブログアドレスやメールアドレスを伴ったハンドルネームと匿名とは厳然として異なります。


(遥遥)
○  かつていた寡黙善意の大衆が悪意に満ちた匿名になり

 そう言えば、かつては“足長おじさん”とか“ねずみ小僧”とか、「寡黙善意の大衆」が確かに居りましたね。
 それが今では、「悪意に満ちた匿名」ばかりになってしまいました。
  〔返〕 弱き者からは決して盗まないねずみ小僧は子の刻参上   鳥羽省三


(ウクレレ)
○  観覧車同じ方向まわってる 匿名希望の男女を乗せて

 「観覧車」に同乗しているカップルは、お互いに名前どころか身体まで明かしていても、周囲の者には「匿名希望の男女」という訳でありましょうか?
 しかし、あの有名な栗木京子さんの「観覧車回れよ回れ思い出は君には一日我には一生」という作品にもある通り、「観覧車」は常に「同じ方向」に「まわって」いますが、その籠に載っている男女の心は、同じ方向に向っているとは限りませんよ。
  〔返〕 観覧車同乗異夢の男女乗せ回れよ回れ一夜の夢に   鳥羽省三


(湯山昌樹)
○  下校より一時間後に匿名の「喫煙生徒あり」との電話

 かつての同業者として申し上げれば、そんな「匿名」「電話」は一番処置に困るんですよね。
 ご自分は、月光仮面かタイガーマスクのご気分で、お「電話」をなさって居られるのでありましょうが、現場に急行すれば、いつも藻抜けの殻であったり、他校生であったりして。
  〔返〕 下校時より二時間以内は輪番で巡回指導をしておりました   鳥羽省三


(伊倉ほたる)
○  匿名で配達される封書には潜伏期間で剥げたのりしろ

 「匿名」だから「潜伏期間」も長かったという訳でありましょうか、なるほど。
 でも、長い「潜伏期間」に「剥げ」頭になってしまった容疑者については聞いていますが、わずか二、三日の「潜伏期間」に、「のり」が「剥げた」「封書」については聞いて居りません。
 それともう一点、「剥げたのりしろ」とありますが、「のりしろ」とは、「封書」の「のり」を塗ったり、既に「のり」が付いていたりする部分を指して言うのであって、「のり」そのものを指して言うのではありません。
 お言葉お大事になさいませ。
  〔返〕 匿名で逃げ回ってる容疑者に付いて回るはお金の苦労   鳥羽省三
 何故か経験者みたいなことを言ってしまいました。


(蓮野 唯)
○  拒否される恐怖のために恋心自分に対して匿名にする

 「自分に対して匿名」にしたいというご気分は、確かに解りますが、それはそれとして、何を今更、「拒否される恐怖」も何も、双六で言えば、既に“上がり”というお年頃ではありませんか?
 今の蓮野唯さんなら、真昼間から「おばんです」ってご挨拶されるのでありませんか?
  〔返〕 拒否される快哉の為わざとするどもり声での恋の告白   鳥羽省三


(鳥羽省三)
○  解くめーと思ひながらも謎を掛け解かせし恋は匿名の恋

 「匿名」と「解くめー」との掛詞、たったそれだけのつまらない作品です。
 でも、「解かせ」たのは、クロスワードパズルではなくて、ぐるぐる巻きの西陣の帯及び“お腰”の紐なんですよ。
  〔返〕 解いたのは手の技で無く口の技口は八丁手は二本なり   鳥羽省三

一首を切り裂く(066:雛・其のⅢ)

2010年12月30日 | 題詠blog短歌
 初志は“切り裂き”に在る。
 その初志を貫かなければならない。
 作者に迎合しようとしてはいけない。
 読者にも迎合してはいけない。
 無定見で迎合的な論評は、評者自身には勿論のこと、当該作品の作者にも、千人余りの読者たちにも、何の利益も齎さないのだ、と言うことを肝に銘じて知るべきである。


(飯田和馬)
○  「盗み食いしよった」と言えば雛菓子を帰りに持たすははそばの母

 「誰かさんが『盗み食いしよった』」と告げ口するのは少年時代の歌人であり、告げ口をした自分の子をたしなめて、「盗み食い」した誰かさんに「雛菓子」を「持たす」のは歌人の「母」である。
 五句目に、「ははそばの母」とあるが、飯田和馬さんのお住いの辺りでは、“ははそはの母”では無く「ははそばの母」と言い慣わしていらっしゃるのでありましょうか?
  〔返〕 盗み食うよその子よりも告げ口す自分の家の子が嫌いなの   鳥羽省三


(五十嵐きよみ)
○  見目のよい囃子のひとりを競い合い雌雛も官女も髪ふりみだす

 よくよく熟視して視ると、変わり映えのしないような顔の五人囃子たちの中にも、「ひとり」ぐらいは「見目のよい」若者が居るのである。
 その「ひとりを競い合い雌雛も官女も髪ふりみだす」のである。
 さあ大変だ。
 これから、女子プロ顔負けの雛壇上での血みどろの「見目のよい囃子」争奪戦が始まるのである。
  〔返〕 陪従は打ち物手にして仲裁に四人囃子はいよいよ囃す   鳥羽省三
 五人囃子の中の一人が争奪戦の渦中の人物になってしまったから、五人囃子が「四人囃子」になってしまったのである。


(牛 隆佑)
○  親鳥に忘れ去られた雛たちが大口あけて青空を呑む

 「親鳥に忘れ去られた雛たち」はどうなるのだろうか?
 「雛たち」は「大口」を「あけて」何をしようとするのだろうか?
 そもそも「雛たち」に「大口」があるのだろうか?
 あるとしても、そんなにまで「あけ」たら口が裂けないだろうか?
 「大口」を「あけて青空」なんか「呑」んでどうするのだろうか?
 「青空」に栄養分でもあるかと思って「呑む」のだろうか?
 「親鳥」なんか居なくたって大丈夫だっていう勢いを示す為に「大口あけて青空を呑む」のだろうか?
 わずか三十一音で表現された世界が、一読者にこれだけ多くの疑問を与えたら、それで十分である。
 “題詠2010”に投稿される作品の全てがこれだけの疑問を評者に与えたとしたら、日本語による表現は画期的に豊かになるに違いありません。
  〔返〕 国民に呆れられてる宰相が大口叩いてどうするつもり   鳥羽省三


(秋月あまね)
○  雛壇に飾られている老いぼれのどうってことない弓術の腕

 市社会体育課主催の弓道大会への出場者の一人としての弁でありましょうか?
 だとすれば、「来賓席という名の『雛壇』には、古惚けてしまって引き取り手も無くなってしまったような“随臣”や“仕丁”のような格好をして、『老いぼれ』どもが『飾られている』が、やつらの『弓道の腕』は『どうってことない』さ」と、大言壮語しているのである。
 さて、大言壮語しているのは何方か?
  〔返〕 秋月のあまねく知られた女性にて那須与一の末裔と言ふ   鳥羽省三


(田中彼方)
○  「今年はな、つばめの雛も全滅や」 フライドチキン食べながら言う。

 「今年はな、つばめの雛も全滅や」とは、愛鳥協会関西支部の副会長さんが口にするような言葉であり、「フライドチキン食べながら言う」ような言葉ではありません。
  〔返〕 「今年はな、田圃の出来が大当たり」白白ご飯を食べながら言う   鳥羽省三
      「今年はな、苺の出来が素晴らしく」イチゴ大福食べながら言う    々
      「今年はね、試験の出来が上々で」合格証書をかざしつつ言う      々


(今泉洋子)
○  また常の床の間となりぬ四月四日雛(ひひな)仕舞ひて桜(はな)を活くれば

 いよいよ“振りがなマニア”のご登場である。
 「床の間となりぬ」という二句目の字余りが、少しく気にならないでも無く、「また常の床とはなりぬ」、「また常の床の間となる」などなど、いろいろと弄くってはみましたが、大きな違いはありませんでした。
 この場面での、完了の助動詞「ぬ」の存在は必然的と思われますね。
 ところで、これはご教授願いたいことでありますが、節句雛を仕舞う時期は、「四月四日」と決まっているのでありましょうか?
 もし、決まっているとすれば、その理由は何でありましょうか?
  〔返〕 また常の“わたい”になりぬ「雛」にまで「桜」にまでも振りがなを振り   鳥羽省三


(伊倉ほたる)
○  3月号の答え導く雛霰クロスワードのひとつのことば

 詠い出しを大胆に「3月号の」としたのは大変宜しく、おそらくは作者ご自身も満面に笑みを浮かべていらっしゃることでありましょう。
 だが、その後はあまり宜しくない。
 五句目の「ひとつのことば」が特に宜しくない。
  〔返〕 クロスワードの答のヒントの“ぼけほたる”6月号の発売を待つ   鳥羽省三


(豆野ふく)
○  夏はいつも独りぼっちで始まるの オレンジ色の雛罌粟の花

 風に吹かれるヒナゲシ。
  オレンジ色のひなげし。
   ひとりぼっちの雛罌粟。
 “豆野ふく”さんは、なんだか悲劇のヒロインみたいですね。
  〔返〕 秋もいつもたった一人で始まるの 淡いピンクのコスモス一輪   鳥羽省三


(ひぐらしひなつ)
○  手放せば揺れつつ川をゆく雛の黄昏までを見守っていた

 鳥取県八頭郡用瀬町の“流し雛”に取材した作品と思われる。
 その光景は、テレビドラマにもなった“浅見光彦シリーズ”『鳥取雛送り殺人事件』にも登場しますが、 用瀬町では、旧暦の3月3日に紙雛や桃の花や菱餅などを載せた桟俵を千代川に流して、今年一年の無病息災を祈るのだと言う。
  〔返〕 目放せば何処まで飛ぶかひぐらしの雛にも似たるあえかな命   鳥羽省三

 
(山口朔子)
○  花柄の布団を羽織り日曜の私は女雛(男雛はいない)

 五句目の「(男雛はいない)」が絶妙である。
 独身女性にとっての「日曜」の朝は、「花柄の布団を羽織」って「女雛」を装っているしか無いのでありましょうか?
  〔返〕 共柄の毛布を被り日曜の私と妻は何時でも寝雛   鳥羽省三


(鳥羽省三)
○  雛酒に酔ひしふりして膝枕しけるが事の始めなりけり

 ついうっかり、そもそもの馴れ初めの顛末を白状してしまいました。
  〔返〕 酎ハイに酔ったりして膝枕しようとしても跳ね除けられる   鳥羽省三
 結婚四十年余りともなれば、真に哀れなものである。

一首を切り裂く(066:雛・其のⅡ)

2010年12月30日 | 題詠blog短歌
(龍翔)
○  「週末婚」ならぬ「一年数日婚」=「お内裏様とお雛様婚」

 それを言うならば、私ならこう言う。
  〔返〕 「週末婚」ならぬ「一年一日婚」=「牽牛星と織姫星と」   鳥羽省三


(鮎美)
○  雛壇は解体されゆきチェリストは中年親父に戻りゆくなり

 団地の集会所などで行われた、ささやかなコンサートが終わった後の会場風景である。
 ついさっきまでバイオリンやチェロを抱いて、いっぱしの演奏家気分に浸っていた人たちが、舞台衣装から普段着に着替えて、「雛壇(舞台)」の「解体」作業に勤しんでいるのである。
  〔返〕 ピッコロを銜えていたのは鮎美さん普段はただの女子大学生   鳥羽省三


(青野ことり)
○  雛の日のほの明るさを胸に抱く ぼんぼりほどのちいさなゆらぎ

 「ほの明るさ」と言い、「ちいさなゆらぎ」と言い、いかにも“青野ことり”さんらしい表現である。
 いつまでも“ことりごと”の世界に籠っていたい彼女は、「雛の日」の賑わいに浸り切れないご自身を、懸命に演出しようとしているのであるが、そのけなげさは、時には友人たちから、「“ことり”ったら何よ。私と同い年だって言うのに、未だにビール一杯も付き合えないなんて言うの?」と猛反発を食らったりもするのである。
  〔返〕 口空けて三人官女がカラオケだ そんな気分になれないことり   鳥羽省三


(原田 町)
○  十一羽のカルガモの雛四キロを歩きとおすとわが街ニュース

 「わが街ニュース」に記載されている情報が「十一羽のカルガモの雛四キロを歩きとおす」という内容だとすると、本作の作者・原田町さんは、案外、丸の内の帝国ホテルの住人だったりするかも知れません。
  〔返〕 昨昼は田宮二郎とランチ食べその後日比谷で映画観ました   鳥羽省三


(虫武一俊)
○  雛鳥の串焼きという現実に立つとき腋を抜けていく風

 仕事帰りに場末の焼き鳥屋に立ち寄って、捻り鉢巻の親父に「僕は『雛鳥の串焼き』と純生」などと、気負って言ったりするが、ふと気が付いてみると、「腋」の下を冷たい「風」が通り「抜けていく」自分を発見したりするものである。
 本作の作者・虫武一俊さんは大阪にお住いとお聞きしているから、週末には彼女と二人で、道頓堀辺りに繰り出すのでありましょうか?
  〔返〕 我の持つ冷酷無情な一面に気づかれたのかと彼女の顔見る   鳥羽省三

一首を切り裂く(066:雛・其のⅠ)

2010年12月29日 | 題詠blog短歌
(松木秀)
○  のたのたと蝶の雛だと思っても気持ち悪いよやっぱり毛虫...

 詠い出しの「のたのたと」という擬態語は、「毛虫」が這っている様子を形容しているのでありましょうか?
 それとも、作者ご自身の、「気持ち悪いよやっぱり毛虫」と思っている時のうろたえた態度を形容しているのでありましょうか?
 そのいずれにしても、また、両方にしても、この位置に置かれた擬態語「のたのたと」は解釈可能な範囲を越えたものとして、これだけでこの作品自体を否定する根拠とされましょう。
 また、五句目の「やっぱり毛虫」の後に置かれた「...」の意味するものは、一体、何でありましょうか?
 この「...」が、言外の意を表わす為の作者なりの工夫であるとしたら、それはご自身の作品の限界を自ら暴露しているような愚行である。
 何故ならば、短歌というものは、たった三十一音の制限された言葉の中で、全ての事を言い表そうとするものでは無く、それ以外の意は、作者自らが言葉として示さなくても、その三十一音の形式の中から、享受者たち各々がその鑑賞能力の及ぶがまま、その想像力の及ぶがままに、自由自在に汲み取るものだからである。
 其処の辺りに、「詠み手と読み手との相互作用によって一首の世界が形成される」という短歌芸術独自の特質が存在するものだからである。
 それにも関わらず、本作の作者・松木秀さんの投稿作品には、本作に限らず、最終句の後に、まるで「この短歌には“言外の意”がありますよ」と指示し、主張しているが如くに、「...」が置かれているのである。
 物事についての考え方は人さまざまでありましょうが、私見を述べさせていただければ、松木秀さん作の最終句の後に置かれた「...」は、作者自らの“敗北宣言”ないしは“愚行”ないしは“悪癖”としか思われません。
  〔返〕 のたのたと雛檀の隅這いずりて盗み酒などするか陪従   鳥羽省三

 と、ここまで書いて、早速公開に及んだところ、年明けの一月四日午後、数ヶ月ぶりに理阿弥さんからご丁重なるコメントを頂戴した。
 そのコメントに曰く、「文末の『…』について (理阿弥)2011-01-0415:35:19/Yahoo!ブログからのトラックバックでは、記事の長さに関わらず、文末に三点リーダが付くようです。/松木秀さんはYahoo!ブログを使われています。/ブログを訪れれば分かりますが、彼の歌の文末の『…』は、全てYahoo!のトラックバックシステムが付与したものです。/松木さんの名誉のために。/取り急ぎご連絡まで。」と。
 
 理阿弥さんお元気でしたか。
 また、今回はご丁重なるご連絡、大変ありがとうございました。
 私は、受賞歌人たる松木秀さんが、私と同じ「題詠短歌」にご参加なさって居られることを、人一倍嬉しく感じていたものであります。
 そういうことから、「題詠短歌」への松木秀さんのご投稿作の末尾に、決まったようにして、あの「…」が付与されていることをとても残念に思って、上記のような記事を記させていただいた次第です。
 その不可解事の理由が、今回の理阿弥さんからのご丁重なるご連絡によって氷解致しました。
 松木秀さんには、大変失礼なことを申し上げましたので、篤くお詫び申し上げます。 また、理阿弥さんのご親切にも、篤く御礼申し上げます。
 ところで、上記の記事は、そのまま、訂正や抹消などの措置をしないままにして置かせていただきたいと思います。
 何故ならば、人も知る「Yahoo!ブログ」からのトラックバックが、投稿者の正しい意図を伝え得ず、鑑賞者として、論評者としての鳥羽省三をして、上記の如き誤解に満ちた鑑賞文を書かしむるとしたら、それは、評者としての私の名誉などはどうでも宜しいことではありますが、論評対象となった、松木秀さんの名誉を大きく傷付けることになり、由々しき問題であると判断されるからであります。
 よって、私の我が儘を曲げてお許し下さい。
 それに関連して、もう一言申し添えますと、短歌の如き短詩形文学に於いては、その創作に当たっても、鑑賞に当たっても、一点一画、例え上記の「…」の如き些細なものまで、創作者の創作意図を鑑賞者に正しく伝達する為に支障となるようなものが、創作者の意図に反して付与されるとしたら、それはその通信媒体が、その種の発表や連絡に適さない媒体と断定せざるを得ないと判断されます。
 松木秀さんも理阿弥さんも、何卒、その旨宜しくご承知下さい。
 また、「Yahoo!ブログ」の担当者の方には、早速、善処なされるよう、お願い申し上げます。
                平成23年1月4日午後5時2分 鳥羽省三記す。


(夏実麦太朗)
○  雛壇の最前列にならびたるキャラメルコーンとんがりコーン

 本作は亦、直前の松木秀さん作とは異なって、実にすっきりした味わいの作品である。
 「雛壇の最前列にならびたる」とありますが、これはスーパーなどの商品棚を「雛壇」に見立てたのでありましょうか?
 それとも、雛祭の際の本物の「雛壇」について述べているのでありましょうか?
 そのどちらにしても、それぞれ面白い着眼点・着想ではある。
 その「雛壇の最前列」に並んでいるのは「キャラメルコーンとんがりコーン」であるが、その解釈は、先に示した「雛壇」の解釈次第でそれぞれ趣きが異なって来る。
 即ち、前者の場合は、当該スーパーなどに対しての激しい売り込み合戦、即ち店長や売り場主任などのスーパー側の関係者に対する発売元側のリベートや供応などを伴った激しい売り込み合戦の挙句に、その勝利者となった発売元の目玉商品である「キャラメルコーン」と「とんがりコーン」とが、本作の作者・夏実麦太朗さんによって、華やかな「雛壇」にも見立てられている商品棚の「最前列」にでんと構えて、平積みさせている光景である。
 また、後者ならば、ひと昔前ならば、雛あられや白酒が置かれている筈の「雛壇の最前列」に、時代と子供たちの好みを反映して、「キャラメルコーン」と「とんがりコーン」とが置かれている図柄である。
 そうした解釈とは別に、本作の作者・夏実麦太朗さんが、「キャラメルコーンとんがりコーン」を「雛壇の最前列にならびたる」としたのは、「キャラメルコーン」は“甘えん坊”であり、「とんがりコーン」は尖がっていて突っ張っているから、それぞれ自己主張が激しくて、結局は、“コアラのマーチ”や“森永ミルクチョコレート”や“雛あられ”や“白酒”などを屈服させてしまって、「雛壇の最前列にならびたるキャラメルコーンとんがりコーン」という仕儀になってしまったと考えても面白いのである。
 “たんたん短歌”風な軽い詠み方ではあるが、夏見麦太朗さんの久々と傑作である。
  〔返〕 後列の目立たぬ棚に置かれしは越後浪花屋“柿の種”なり   鳥羽省三
 越後長岡の浪花屋の地味な売り込みは、いつもながらに他メーカーの後塵を配しているのである。


(tafots)
○  千代紙の紙雛すこし捨てにくく「行き遅れる」と笑えてた春

 で、それで、今は“行き遅れ”になってしまわれたのですか?
 それとも、首尾よくご家庭にお入りになられ、お子様やお孫様の為に、「千代紙の紙雛」をお作りになられながら、その昔のご自分のことを思い出していらっしゃるのですか?
  〔返〕 紙雛を作るまでせず吉徳の八段飾りを孫に買ひ遣る   鳥羽省三


(みずき)
○  雛流す後は無聊の部屋ならむ問ひて沙汰なき三人官女

 やや解釈し難い点が在ることは否めないが、物語的な背景が想定されて、すこぶる興味深く奥深い内容の作品である。
 想定される物語の粗筋を記すと、「作中の『雛』とは、さる大名の“お部屋様”であり、ある年の新年に、この“お部屋様”が、お付きの『三人官女』の協力を得て、美男の生臭坊主が住職をしているお寺への参拝を繰り返している、という噂が立った。噂を耳にして早速その探索に入ろうとしたのは江戸幕府の寺社奉行であり、寺社奉行の支配下の面々は、その年の如月二月の月末に、早速、そのお部屋様のご邸宅の捜索を行い、その容疑の一部が事実であることが確認されると、そのお部屋様には、弥生三月の早々に“八丈島送り”にするという寺社奉行の御『沙汰』が下されたのである。だが、お部屋様に協力を惜しまなかったと伝えられている『三人官女』たちには、本人たちが、自分たちこそお部屋様を唆した張本人である、と上申したものの、何らの御『沙汰』も下されなかったのである」ということになりましょうか?
 で、「雛流す後は無聊の部屋ならむ」とは、寵愛しているお部屋様を失ってしまった、さる大名になり代わって、本作の作者が、さる大名の雛祭に際しての心境を述べたものであり、それに続く「問ひて沙汰なき三人官女」とは、その大名と共に、今回の一件についての寺社奉行の措置に対して、大きな疑念を抱いている作者“みずき”さんが、大名のご心境をも慮って、自らの疑念を吐露したものである。
  〔返〕 元凶は御部屋様に懸想して撥ね付けられた江戸家老なり   鳥羽省三


(アンタレス)
○  初節句雛飾り終え買い来たる孫抱く亡父(ちち)の笑顔忘れじ

 未整理のままに雑多に詰め込んだ感じの作品である。
 思うに、作者は、たった今、ご自身のお孫さんの「初節句」としての「雛飾り」を「終え」たばかり、という想定で、本作をお詠みになって居られるのでありましょう。
 そして、その時、自分が自分自身の孫の「初節句」の為に飾り終えたばかりのお雛様は、実を言うと、この孫の母たる自分の娘の「初節句」の為に、その娘の祖父である、自分の父が買って来たものであり、その父がそのお雛様を買い求めて来て、飾り終えた時、「これで孫の祖父としての役割りの一つを果たし終えた」と言わんばかりの顔をして、雛壇の前で孫を抱いている父の笑顔が忘れられない。
 そして、その父も、今は亡き人の列に入る人になってしまったので、あの時の父の笑顔は余計忘れられない、とお思いになられたものでありましょう。
 だとすれば、これだけ多くの事柄や感情を、たったの三十一音の中に盛り込むのは、到底、無理な話である。
 短歌創作の要諦は、欲張らないことである。
 一首の中には、必要最小限のことを盛り込み、一首で言い足りなかったならば、二首も三首も詠めばいいのである。
  〔返〕 初節句飾り終へたる雛壇は孫の為とて亡父購ひしもの   鳥羽省三
      我が孫の為とて飾る雛壇はその母のため亡父が購ふ      々


(西中眞二郎)
○  パーティーの帰りのロビーの雛飾り皆たおやかな笑顔でおりぬ

 ホテルを会場にして行われた「パーティーの帰りのロビーの」の賑わいを「雛飾り」に見立てたのである。
 未だ物足りない気がして、何と無く帰りそびれている者。
 未だ楽しみ足りないで、これから大挙してカラオケや二次会に出掛けようととする者。
 お金のありそうな友人を誘って、銀座の酒場に繰り出そうとする者。
 パーティーの間は一言も言葉を交わさなかったが、日頃から情を交し合っている者、などなど。
 「パーティー」が果てた後のホテルの「ロビー」に屯している人たちの胸の内はさまざまであるが、「皆」一様に「たおやかな笑顔」をしている点は共通している。
 「パーティー」が果てた後のホテルの「ロビー」の雰囲気を活写していて、西中眞二郎さん作に相応しい佳作である。
  〔返〕 お目当てのお雛様など居たりして帰りそびれしロビーなるらむ   鳥羽省三 


(髭彦)
○  雛壇の順位争ふ闘争の熾烈なりけむ赤の広場で

 西中眞二郎さん作とは打って変わって、鬚彦さん作は鬚彦さん作らしい硬派の作品をご投稿なさったのである。
 モスクワの「赤の広場」のレーニン廟の屋根の部分が「雛壇」のような形になっていて、ソ連時代の共産党の幹部たちがその「雛壇」に立って、赤の広場で行われる軍事パレードなどを臨検したのは有名な話である。
 本作の作者は、その「雛壇」に立つ「順位」を巡っての「熾烈」な権力「闘争」について、思いを巡らせているのである。
 お雛祭の「雛壇」から発して、旧ソ連の共産党幹部たちの血みどろな権力闘争にまで思考が及んだのは、元社会科教師・鬚彦さんらしい卓越した発想である。
  〔返〕 思い出すベリア内相粛清とそれに続いた射殺事件か   鳥羽省三


(月下 桜)
○  七段の雛飾りをば匿名でなんとかホームに飾りにゆこう

 真冬にJR関係の東北の田舎の駅などに途中下車してみると、古惚けたプラットホームの片隅に紅い毛氈を敷いた雛壇が置かれてあり、その上に、内裏雛や三人官女を初めとした雛人形および雛道具の一式が飾られていて、次の列車を待つ間のひと時を、思わず見惚れてしまうことがあるものである。
 本作の作者・月下桜さんは、駅の「ホーム」のそうした「雛飾り」を、宵闇に紛れて、自分の名前を明かさないままでこっそりと行ってみたい、という、ご自身の夢物語を語って居られるのである。
  〔返〕 飾るなら江戸のむかしの享保雛“久月作”など誰も見ないぞ   鳥羽省三


(邑井りるる)
○  自称自薦の有象無象が入り乱れ毛氈の上に女雛棒立ち    ※ルビ 上=え

 今年の半ば頃、廃止か続行かでマスコミの話題となった“ミス慶応”のコンテスト風景を思わせる作品である。
 それが、ひとしきりの話題となった挙句に、結局は廃止されたのは、女性の品位の問題と関わって来るかとも思われるのであるが、応募する女子学生側の心理を考えてみると、まかり間違って“ミスキャンパス”に選ばれでもすれば、高嶺の花の“女子アナ”の職にもありつけたりもするから、「自称自薦」の「有象無象」女子学生たちが、お雛祭の「女雛」宜しく、大挙して押し寄せるに違いありません。
 「毛氈の上に女雛棒立ち」とは、コンテスト当日の舞台上の混乱と賑わいとを言い表そうとしたものである。
  〔返〕 女子アナに相応しからぬ女雛顔オカチメンコもお化粧次第   鳥羽省三


(行方祐美)
○  受け口に笑まひゐるなり伏見雛さんぐわつ生れの慶の目をして

 作中の「伏見雛さん」とは、我が国の土人形の発祥地と目されている、京都市伏見区の“伏見稲荷大社”に参詣する地方の農家の人々を当て込んで、伏見稲荷大社界隈で生産され、販売されていた、いわゆる“伏見人形”を指して言うのでありましょう。
 私は、今から半世紀近く前から、“伏見人形”を初めとした、日本全国各地の土人形の蒐集に浮き身を費やし、その大半を、友人の経営する私設博物館に寄託してしまった現在でもまだ、数百体の土人形を所有している。
 したがって、作中の「伏見雛さん」については、人並み以上のことは知っているつもりであり、伏見人形の特徴の一つとして「受け口に笑まひゐるなり」という表情をしている女人形が在ることは知っているが、下の句の「さんぐわつ生れの慶の目をして」の、「慶の目」については全く心当たりが無い。
 「慶の目」とは、伏見人形に相応しい、お目出度く福々しく穏やかな「目」を指して言うのでありましょうか?
 また、再考するに、一昨年の九月に愛知県一宮市で行われた“オールスター競輪”の初日に落車事故を起した亡くなった内田慶選手は、競技者精神に長けた精悍な眼差しながら、その底に優しさを湛えて居て、出走中の彼の表情は、競輪ファンを魅了したばかりでは無く、同僚選手からも深く慕われていたと言う。
 彼の誕生月は二月であり、「さんぐわつ生れの慶の目をして」という作中の記述とはいささか異なるが、或いは、「慶の目」とは、彼・内田慶選手の「目」を指して言うのかも知れません。
  〔返〕 慶の目が出たぞと逸る観客を欺く如き落車事故なり   鳥羽省三


(空音)
○  正絹の古布あわせ内裏雛娘のおらぬ我が家の節句

 「正絹の古布」や余り切れを「あわせ」て「内裏雛」や三人官女を作ったりすることは、“空音”さんならずとも、手芸好きな女性なら、何方でも一度や二度は試みていることであるが、我が連れ合い殿は、仙台箪笥一杯に「正絹の古布」や縮緬を溜めているが、「つまらないから」と称して、未だ一度も内裏雛は作ったことがないから、「我が家」の雛の「節句」と言えば、栃木県佐野市の“佐野土人形”と秋田県横手市の“中山土人形”とを飾ることにしているのである。
 一口に“土人形”と言っても、その価値はさまざまであり、「我が家」の“佐野土人形”のお雛様セットは、今から数十年前に廃絶されたものであり、また、“中山土人形”は廃絶されこそしないが、名人上手と言われた樋渡義一さんが亡くなってから数十年も経つので、両者とも、今では入手不可能な貴重な品となっているのである。
  〔返〕 手びねりの土人形が百体余ところ狭しと我が家の節句   鳥羽省三


(理阿弥)
○  雛たちを可不可可不可と選り分くる荻窪ビルの五階は狭し

 一般的には“ひよこ鑑定士”と呼ばれているが、正式名称は“雛鑑定士”だと言う。 その“雛鑑定士”の仕事場が「荻窪ビルの五階」の狭い空間なのである。
 その狭い空間で、雛鑑定士は、孵化したばかりのひよこを右手で掴まえ、一羽一羽「可不可可不可」と選別鑑定して行くのである。
 生まれたばかりの尊い命が、雛鑑定士という名の“生殺与奪の権”を備えた人間の手によって、一瞬のうちに選別されて行くのである。
 これを以って“不条理”と言わなければ、何を以って“不条理”と言えばいいのでしょうか?
 雛鑑定士の口から発せられる「可不可可不可」という声は、何故か“カフカ”“カフカ”と言っているように聴こえるのである。
  〔返〕 カフカとはユダヤ人作家帯広の荻窪ビルはカフカの“城”か   鳥羽省三


(小倉るい)
○  左手で青の絵の具を塗る人は雛鑑定士♂はいずこへ

 「♂」の大半は、動物園に売られて行き、トラやライオンやワニの餌となるのであるが、その中のごく運のいい一部は、夜店などに並べられて、子供たちに飼育されるのである。
 そう言えば、夜店で売られている“ひよこ”の尻に青い「絵の具」が塗られているのを見たことがある。
  〔返〕 行く先は動物園の虎の檻鋭き歯もて噛み殺される   鳥羽省三

一首を切り裂く(065:骨・其のⅢ)

2010年12月28日 | 題詠blog短歌
(五十嵐きよみ)
○  あっけなく吹き飛ばされる安物の傘の骨ほどもろい決心

 本作の作者・五十嵐きよみさんの、「安物の傘の骨」に較べられる程にも「もろい決心」もさることながら、昨今の若い女性たちの「骨」の細さも亦、我が国の将来にとっては極めて憂慮するべきものでありましょう。
 そんな「骨」の細い女性が二人ずつ並んで、一様にケータイの画面に見入っている車内光景はまるで幻想絵画のような異様な光景である、などと思いながら、私は昨晩、北陸旅行の旅から帰宅したばかりである。
 北陸では、金沢でも芦原でも東尋坊でも永平寺でも、雪、雪、雪で、まるで自分と妻とを吹雪に曝すために出掛けたような、クリスマスを挟んだこの五日間の旅でした。
  〔返〕 ビニールの傘に溜まれる湿め雪を素手で払ひし横安江町   鳥羽省三
 横安江町市場の海産物をクロとクロのオーナーへのお土産にしようかとも思ったのでありましたが、生憎の吹雪の中を市場まで出掛ける勇気を持てないままに、手ぶらで帰宅しました。


(今泉洋子)
○  胎内に戻りし君か骨壺の母恋ふ歌に桜吹雪けり

 “百合の木の会”から本年六月に発行された超結社短歌誌『百合の木』<2010第10号>に、本作の作者・今泉洋子さん作の「筒井(笹井)宏之さんに捧ぐ『虹の架け橋』」と題する連作十五首が掲載されている。
 その十三首目として発表された「胎内に戻りし君か母を恋ふ歌はなびらのやうに遺して」と本作とは酷似していて、特に、上の句については全く同一である。
 考えるに、本作は、お題「骨」を詠み込むために、『百合の木』誌に発表済みの作品の下の句の部分を「骨壺の母恋ふ歌に桜吹雪けり」と改作したかとも思われるのでありますが、それら二作の発表の前後関係については定かではありません。
 とは申せ、これら二首は、各々独自の作品として鑑賞することも十分可能な佳作と思われるので、作者側のこうした内情を暴露するが如き、評者・鳥羽省三の行為は、格別な悪意に基づくものではありません。
 再考してみるに、本作の下の句「骨壺の母恋ふ歌に桜吹雪けり」は、今は亡き笹井宏之さんの遺作中に、「ご母堂様の骨壷の上に桜吹雪が舞い散っている」といった内容の作品が在ったことを想像させるのに対して、『百合の木』誌に掲載された作品の下の句は、「歌はなびらのやうに遺して」と、単純に笹井宏之さんの御遺作の素晴らしさを讃え、その突然のご逝去を悼まれるお気持ちを述べられているだけの事でありますから、どちらかと言うと、本作の方が、より手の込んだ内容の作品かと思われます。
 とは申せ、“手の込んだ内容の作品”イコール“より優れた作品”という訳で無いことは勿論である。

 事の序でと言う訳ではありませんが、超結社短歌誌『百合の木』にご発表になられた、今泉洋子さん作の連作十五首「筒井(笹井)宏之さんに捧ぐ『虹の架け橋』」の全てを作者に無断で転載させていただき、併せてその寸評を試みてみよう。


○  歌詠むは瞑想に似ると言ふ君の目に光りつつ春の雨降る

 まさに「瞑想に似る」歌集『ひとさらい』と思いつつ、評者も亦、そのわずか一部を読ませていただき、しばし「瞑想」に耽りました。
  〔返〕 瞑想に誘はれて読む『ひとさらい』勾引かすもの笹井宏之   鳥羽省三
 笹井宏之さんは、名作歌集『ひとさらい』で以って、鑑賞者の心を攫った“犯人”であり、本連作の作者・今泉洋子さんは、その心をまるごと攫われた被害者の一人であると言えましょう。
 しかしながら、「ひとさらい」と言えば、昔から、行く末待たれる美少女を攫って、その筋に売り飛ばすという筋書きに定まっていたようなものである。
 然るに、今回、笹井宏之さんが攫ったお相手は、美少女も美少女、第二次世界大戦終戦後の美少女かと思われる。
 今更、死者に鞭打つつもりはありませんが、思ってもみると、笹井宏之さんも亦、愚かな行為をしたものである。


○  病む君とわれを繋ぎし短歌てふ虹の架け橋「ひとさらい」を読む

 「短歌てふ虹の架け橋」は、実に、地球上の至る所の空と佐賀市の空とを繋いで架るのでありましょう。
 本作に見られるが如く、「病む君とわれ」とを繋ぐのみならず、米国の獄窓の内側の住人の郷隼人氏と作者とを繋ぎ、更には、川崎の空の下に逼塞する評者と佐賀市ご在住の作者とを繋ぐのも、「短歌てふ」縁が在ればこそのことと思われるのである。
  〔返〕 七色の虹の架け橋渡りつつ勾引かされし人をぞ想ふ   鳥羽省三


○  「ひとさらい」の「批評会」に笹井氏とまたねと言ひて笑顔に別れき

 二句目の「批評会に」にやや韻律の乱れが感じられる点、及び、四句目中の「またね」を“鍵括弧”で括らなかった点が惜しまれる。
 また、歌集『ひとさらい』の作者・笹井宏之さんと本作の作者・今泉洋子さんとは、母子ほどのご年齢の隔たりが在ると思われるので、三句目中の「笹井氏」という表現も亦、如何かと思われます。
 更には、括弧の種類や使用法の違いなどにも、ご注意が必要かと思われます。
  〔返〕 『ひとさらい』の合評会の果てし後「またね」と笑ひ別れ来にしも   鳥羽省三


○  借りもののからだだったと氷上の星になりたる笹井宏之さん

 詠い出しの「借りもののからだだったと」とは、笹井宏之さんの作中の表現かと思われる。
 また、「夜空の星になりたる」と言わずに、「氷上の星になりたる」と言った点に、本作の作者の、胸が氷りつくような悲しみの情が表現されているとも思われる。
  〔返〕 借り物の身体で生まれその身体還しに行くを人生と知る   鳥羽省三
 甲子園野球大会の開会式に於いて、前年の優勝校のキャプテンがたった一人だけ、返還するべき優勝旗を胸に抱いて行進するのは、目にも傷ましい光景である。
 笹井宏之さんも亦、彼の高校のキャプテンの如く、ご自身の胸に熱き命を抱いて、天国への道を、一人寂しく行進して行かれたのでありましょうか。


○  「またね」とふあなたのこゑがききとれず哀しすぎるよ二十六歳

 本作中の「またね」は、会話を示す“鍵括弧”で括られている。
 鍵括弧で括るにしろ、括らないにしろ、一定の方針を貫くべきかと思われます。
  〔返〕 鍵括弧の使ひ方さへまちまちで哀し過ぎるよ六十五歳   鳥羽省三
 表現の都合上、敢えて「六十五歳」とさせていただきましたが、真実は六十七歳か八十五歳かは定かでありません。


○  沈黙の光の中に君逝けり梅の蕾のふくらむ朝に

 笹井宏之さんが、A型インフルエンザを拗らせてお亡くなりになったのは、本年の一月二十四日の早朝。
 まさしく「梅の蕾のふくらむ朝」と申せましょう。
 一月二十四日の朝に膨らんで行く花もあれば凋んで行ってしまう花もあったのである。
 詠い出しの「沈黙の光の中に」という表現は、笹井宏之さんの突然の死を悲しむと同時に、亡き人を荘厳のうちに送り出そうともお思いになられた、作者の矛盾したお気持ちの表れかと思われる。
  〔返〕 沈黙の光の輪の中響きたる鎮魂ミサの重々しさよ   鳥羽省三


○  雨いつか雪に変はりて金輪際詠へぬあなたを想ふ玉響

 「金輪際」とは、第一義的には、“世界の果て”を意味し、それから派生した意味として、“絶対に”“決して”“何処までも”“とことん”等の意味が在ることを理解したうえで本作を鑑賞しなければならない。
 それとは別に、第五句中の「玉響」の一語に疑義在り。
 パソコンを操作し、「たまゆら」と入力すれば、即「玉響」の二字に変換されますが、だからと言って、「玉響」の二字に接して、それを“たまゆら”と理解し得るような人は、そんなに多くはありません。
 だとすれば、この二字には“たまゆら”と振りがなを施すか、さもなくば平仮名で“たまゆら”と記すべきでありましょう。
 連作十五首を一望するに、作者・今泉洋子さんは、「金輪際」や「畢」にまで無用な振りがなを施しているが如き、言わば“振りがな気違い”という有り難くも無いニックネームを奉られても当然のような“振りがなマニア”なのである。
 知ったかぶりをしてお使いになった「畢」は別としても、「玉響」を“たまゆら”と読めて、「金輪際」を“こんりんざい”と読めない者が居りましょうか?
 その逆に、「金輪際」を“こんりんざい”と読めても、「玉響」を“たまゆら”と読めない人はゴマンと居るのである。
 これは統計学上の問題では無く、語感の問題、乃至は社会常識の問題である。
 したがって、今後はいかなる事情が在っても、「玉響」には“たまゆら”と振りがなを施すよう、今後は金輪際、「金輪際」には振りがなを施さぬようにご注意されたし。
 それはそれとして、本作の表現として、作者の今泉洋子さんは、三句目の「金輪際」と五句目中の「玉響」とを、意識的、対比的に用いていることに注意しなければなりません。
 「玉響」を平仮名書きにせずに、敢えて「玉響」と漢字書きにした理由も、その辺りに在るかと思われるのである。
 即ち、「金輪際」が“永遠”“永久”の範疇に入る語であるのに対して、「玉響」はその反対の“一瞬”の意味なのである。
 「雨」がいつの間にか「雪」に変わる寒さの中で、本作の作者・今泉洋子さんは、今後「金輪際」短歌を「詠へぬ」笹井宏之さんのことを、「玉響」思うのである。
 解り易く言い替えて説明すると、今泉洋子さんは、短歌を“永久”に「詠へぬ」笹井宏之さんのことを、ほんの“一瞬”思うのであるが、そうであるからと言って、私たち読者は、本作の作者・今泉洋子さんを“薄情な女”、“冷たい女性”と蔑んではいけません。
 何故なら、冷たいのは作者の気持ちでは無く、「雨」から「雪」に変わった当日の天候なのであるから。
  〔返〕 雪のなか金輪際の果ての果て永久に忘れぬ笹井宏之   鳥羽省三


○  「ひとさらい」は神の異名かかかる世に見えざるものに操られつつ

 「ひとさらい」は歌集のタイトルであるから、敢えて“括弧書き”する場合は、『ひとさらい』と“二重鍵括弧書き”にするべきである。
 また、三句目中の「かかる世」は、それ程の意味も無しに、前提となる具体物をも考えずに、便宜的かつ音数稼ぎ的な意味合いで以って用いられているような感じである。
 作者が述べようとして述べ得なかった意味を適宜補いながら、敢えて一首の意を述べると、「私の歌の友・笹井宏之さんの受賞歌集のタイトルは『ひとさらい』である。そのタイトルに因む“ひとさらい”とは神の異名なのでありましょうか? 政治も人心も荒廃し、神の如き至上の存在に頼らなければ一日として命を繋いで行けない今日、あの清らかな心の持ち主であった笹井宏之さんは、その神の如き見えない者に操られるようにして、神たちの世界に召されて行ってしまわれたのである」ということになりましょうか?
 だとしても、自意識過剰の余りに、一首の中に余りに多くの意味を託そうとした結果に因る失敗作と断じざるを得ない。
  〔返〕 あかときは神の領域その神の意志のまにまに君は召されぬ   鳥羽省三


○  悲しみが歌となりゆく寒の夜にはるかに星の生るる気配す

 凡百の歌人の作品とすれば称揚に値する作品とは思われるが、作者・今泉洋子さんのご歌歴とご力量から判断すれば、作り過ぎ、付き過ぎが嫌味な作品と言えましょうか?
 とは申せど、こうした俗っ気が、案外、今泉洋子さん本来の持ち味なのかも知れない、と迷うばかりの評者ではある。
  〔返〕 寒の夜の一つ星かも『ひとさらい』作者召されし天に輝く   鳥羽省三


○  さくらさくらさびしさに色はなけれども鏡の奥に葉桜の緑(あを)

 奥座敷や作者の居室に面した所にお庭が在り、そのお庭では、つい先日まで桜が今を盛りと咲き誇っていたのである。
 ところが、一夜の突風の前に、その「さくらさくら」は、脆くも地上に舞い散ってしまい、今となっては、作者の居室の「鏡の奥に葉桜の緑(あを)」を映しているばかりである。
 歌の友・笹井宏之さんの死を、命短い「さくら」に託して悼んでいるのである。
 短歌表現と交通信号とは異なりますから、漢字で「緑」と書いて「(あを)」と振りがなを施さなければならないような作品を詠んではいけません。
 歌人は、国語学者や色彩学者たちの与えた色の名に拘っていてはいけません。
 つい先日前までの「さくらさくら」の明るい紅色に対して、「葉桜」となってしまった今は、暗みがかった蒼色に見えたら、そのまま「蒼」とすれば宜しいのである。
 それとも、何か特別な理由で以って、「蒼」を気嫌いなさって居られるのですか(笑い)。
  〔返〕 蕾まだ膨らむ前のことなるに二月過ぎて今は葉桜   鳥羽省三
 

○  今生に君のいまさぬ夏は来てゆらぎつつ佇つひまはりの群れ

 五句目の「ひまはり」は、敢えて「ひまはりの群れ」とする必要があったかどうかは疑問である。
  〔返〕 今生の何処にも君の居ぬ秋に庭のコスモス揺れつつも佇つ   鳥羽省三


○  夭折の友を想へば彼岸花不意打のごと咲き初めにけり

 西国・佐賀では「彼岸花」も、秋の彼岸前に「不意打」のようにして「咲き染め」こともあるのでありましょうか?
 あのことも「不意打」、このことも「不意打」、人生何事も「不意打」なのである。
  〔返〕 夭折の友に捧げるべくも無く曼珠沙華咲く天指して咲く   鳥羽省三


○  胎内に戻りし君か母を恋ふ歌はなびらのやうに遺して 

 本作の作者・今泉洋子さんは、“死亡胎内回帰説”の信奉者かと判断される。
 本調査機関の統計に拠ると、“死亡胎内回帰説”の信奉者の約三十パーセントは、短歌創作を趣味として居られる方であり、その中で、還暦過ぎの女性の占める割合は、実に八十五パーセントを越えている。
  〔返〕 胎内に戻るとするは迷信で死とは元素に還元すること   鳥羽省三


○  短編のあなたの生は畢れどもあなたの歌は読み継がれゆく

 三句目の「畢れども」に、この作者一流の気取りが感じられる。
 “終れども”と言いたければ、ごく単純に“終れども”と言えばいいだけのことである。
 それを無理して、市社会教育課主催の“無料古文書解読講座”で覚えて来た知識のご披露に及ぼうとして、「畢れども」などと記してしまうから、無用の振りがなを施す必要も生じ、作品がだらしなくもなり、話がややこしくもなるのである。
  〔返〕 長編の我らの生は終らざる長ければ可と言ふにあらねど   鳥羽省三 


○  フルートに「浜辺の唄」を吹く君の夢のほとりをさりがたくゐる

 「フルートに『浜辺の唄』を吹く君の」という表現については、格別な笹井宏之ファンでは無い私の知識の及ぶところでは無い。
 しかし、そうした「君の夢のほとりをさりがたくゐる」については、「さりがたくゐる」という動作の主体が、他でも無く、本作の作者・今泉洋子さんご自身でありましょうから、評者たる鳥羽省三の関心の大いに及ぶところである。
 思うに、本作の作者と笹井宏之さんとは、単なる歌の友以上の知己であり、時には、笹井宏之さんがお得意の「フルート」を巧みに操って『浜辺の唄』をご演奏なさる場に、今泉洋子さんが巡り合わせられたこともございましたのでありましょう。
 「夢のほとりをさりがたくゐる」という下の句の表現に、夭折の歌人・笹井宏之さんの突然死を惜しまれる、本作の作者の遣る瀬無い気持ちが表現されている。
  〔返〕 夢に聴く『浜辺の唄』の遣る瀬無く浮かぶ瀬も無く彷徨ふばかり   鳥羽省三


[追伸]

 本稿執筆中に、「笹井さんのファン」と名乗る方から、突然コメントが入った。
 その詳細と、それに対する評者の対応とは、その方宛ての私のコメントで明らかであるから、何卒、ご参照下さい。
 その要旨は、「百年を経てもきちんとひらきますように この永年草詩篇」という作品が、笹井宏之さんの作品であり、評者の鳥羽は、その作者名を記すことを怠っているというご指摘であり、そのことから発展して、「評者・鳥羽が他人の作品などを引用する時、その引用の仕方が雑である」と咎めたものでありました。
 「笹井さんファンの方へ」と題した、私のコメントをご一読していただければ、事の詳細は明らかになるのでありますが、笹井宏之さん作の一首を、私は、本稿の記事中にに引用させていただこうとして、執筆中の本稿の欄外に、ほんのメモ程度のつもりで書き写していたものでありました。
 私は、一つの試みとして、執筆中の記事を完成する前に公開することを敢えて為して居ります。
 投稿短歌に対する評者の鑑賞が、どのようにして深まって行くか、あるいに、どのようにして捻じ曲がって行くか、そのようなことを、該当作品の作者の方々や他の方々に、お示しして行こうとしてのことであります。
 そこで、今回お寄せになられたコメントも、私の意図や、その文脈の詳細も見ずに、笹井宏之さんの作品を、私が今泉洋子さんの作として扱っているかの如く、誤解した上でのコメントであったのでありました。
 ここで、敢えて申し上げて置きますが、昨今、私の所に、曰く「笹井さんのファン」、曰く「長崎県民」、曰く「通りすがりの者」といったような、ご自身の所在を明らかにしようと為さらない方々からのコメントや電話、時には手紙まで舞い込んだりも致します。
 そして、それらのほぼ百パーセントは、私の執筆した記事の内容を熟読していないことが原因のものであります。
 因みに、本稿に於いて私は、十五首連作の作者・今泉洋子さんを茶化したり、からかったりもして居ります。
 私は、「揶揄も論評のうち」という言葉を信念としている者であるが、現在のところ、その信念を短歌論評の中で実践出来るのは、今泉洋子さん、伊倉ほたるさん、蓮野唯さん、西中眞二郎さんなど、力量の定まった方や気心の知れた方など、ほんの数名に止まっているのであり、その他の方々の作品に接する時は、極力、該当作品の優れた点のみを称揚するように細心の注意を払っているのであります。
 それにも関わらず、今泉洋子さんに向けられた矛先が、今にも自分に向けられるのでは無かろうか、と誤解しての、無用な抗議コメントがあまりにも多過ぎるのであります。
 私は、「インターネット上での短歌作品の軽評論の確立」という目標を目指して、老骨を鞭打っているので、どのような妨害を受けようとも、今のところは筆を折るつもりは毛頭ありません。
 インターネット上には、幾多のの俊才・才女がご健筆を振るって居られますが、一見したところ、余りにも難しいことを言い過ぎるか、単なる感想程度の作文ばかりのようにも見受けられます。
 その欠陥を補おうなどとの気負いは私にはありませんが、ゆくゆくは斯界を代表する軽評論の確立を目指して日夜努力を怠りませんから、何卒、皆様、ご鞭撻、ご指導の程を宜しくお願い申し上げます。

一首を切り裂く((065:骨・其のⅡ)

2010年12月27日 | 題詠blog短歌
(南葦太)
○  鎖骨とか肩と首との継ぎ目とか甘噛みしたい夜だって ある

 「甘噛みしたい夜だって」「ある」とは、またまたお惚けばかりの“風にそよぐ葦太”さんである。
 実の実は、以下の通りでありましょう。
  〔返〕 新妻の首と耳との甘噛みをしてるばかりのこの頃である   鳥羽省三


(高松紗都子)
○  木枯らしを避けて子猫とたわむれるきみの背骨が透ける黄昏

 「木枯らしを避けて子猫とたわむれるきみ」とは、骨細い軟弱な男性、病弱で繊細な感覚の男性かと思われる。
 そんな線の細い男性が、「木枯らしを避けて」「黄昏」の横丁で「子猫」と戯れて居たりしたら、まるでX線撮影機械のような目と心を備えていらっしゃる本作の作者・高松紗都子さんからすれば、「背骨」どころか心の奥底までも透けて見えるに違いありません。
 繊細な者が繊細な者の心の底を透視する視線は、鋭くて深くて寂しいものである。
  〔返〕 爪楊枝噛めども妻も子も持たず娑婆に無用の木枯しの旅 


(すいこ)
○  肉は鳥、骨は笛へとチベットの高原に吹くさよならの風

 “鳥葬の国・チベット”。
 亡き人の肉体は禿鷹の餌食となり、雨風に洗われた「骨」は「笛」になる。
 その「骨」の「笛」の奏でる妙なる調べを運び、「チベットの高原に吹く」「風」こそまさしく、某国の圧政から「さよならの風」と申せましょう。
  〔返〕 圧政からさよならしたいヒマラヤの雪をも融かす笛の響きか   鳥羽省三


(こゆり)
○  君とハロゲンヒーターに照らされてあたしの鎖骨はつくづく女

 一時代前の若い女性は、広い骨盤で女性を感じさせたものであるが、昨今の若い女性は、自分自身の貧弱で脆い「鎖骨」で以って「つくづく」と「女」を感じるものらしい。
 過日の“NHK短歌日和”のテレビ画面で観た“こゆり”さんなる女性も亦、そんな感じの女性と思われた。
  〔返〕 ハロゲンの円き照射を浴びるときしみじみ弱き汝とは知る 


(振戸りく)
○  ししゃもまで骨抜きにする技術など必要ないと思いませんか

 そうです。
 「ししゃもまで骨抜きにする技術など」は「必要ないと思い」ますが、もう一点、申し添えますと、込み合った電車内でブログの打ち込みを可能にする「技術」も亦、「必要ない」としみじみ感じたこの頃でした。
  〔返〕 骨の無いししゃもで冷酒飲む君は職無く我に愛情も無し   鳥羽省三


(bubbles-goto)
○  うしろから腕回すよに肋骨は春の虚ろを抱きしめている

 「うしろから腕回すよに」とあるが、「肋骨」の、「うしろ」に湾曲したような形態から見ての表現かと思われる。
 その「肋骨」が「春」を「抱きしめている」のでは無く、「春の虚ろを抱きしめている」と述べているところに、作者・“bubbles-goto”さんの、独自かつ不健康な季節感が示されているのである。
  〔返〕 後ろから抱きしめるよに春は来ぬ肋骨も着き顔の腫れも引く   鳥羽省三



(伊倉ほたる)
○  止みかけた雨に蛙は鳴きだしてまだ温かい骨壷を抱く

 「止みかけた雨に蛙は鳴きだして」までの表現は月並みであるが、それに続く「まだ温かい骨壷を抱く」という下の句には、目新しさと独自性が見られる。
 そう、「まだあたたかい骨壷」の中の「骨」は、「止みかけた」「雨」に冷たく抱かれて、その形は、凍結して崩れ、凍結して崩れることを繰り返して、自然の土と化してしまうのである。
 文脈を正確に辿って行くと、「まだ温かい骨壷を抱く」のは、「止みかけた雨」では無くて、「鳴きだし」た「蛙」であることが解るが、この点は、作者一流の“勇み足”のようにも思われ、蛙たちは、「骨壷」の中の「骨」の葬送曲を奏でているのでありましょう。
  〔返〕 止みかけた氷雨に骨は溶け出して蛙の歌う葬送曲を聴く   鳥羽省三 


(清次郎)
○  カタコンブの骨たちが見る夢として満員電車に運ばれてゆく

 作中の「カタコンブ」とは、“地下の墓所”を意味する言葉であり、イタリア語やドイツ語では“カタコンベ”と発音されるが、フランス語では、「カタコンブ」に近い音で発音されると言う。
 一見、意味不明な本作は、ヨーロッパ社会の「カタコンブの骨たちが見る夢」のような感覚で、作者ご自身が「満員電車に運ばれてゆく」と述べたものであり、言わば、自分は朝夕の「満員電車」の中で、まるで遺骨となってしまってもなお且つ見る「夢」のような気持ちになっている、ということを述べたものである。
 一種の“サラリーマン哀歌”とでも申せましょうか?
  〔返〕 カタコンブの骨たちが見る夢になお希望が在るか未来があるか?   鳥羽省三


(蓮野 唯)
○  骨までは愛せないのよなぜならば温くもないし稼ぎも無いし

 相変わらずのお惚け振りである。
 その昔、多分、本作の作者・蓮野唯さんが未だ四十代の頃に、『骨まで愛して』という低俗極まりない歌が流行ったことがありました。
 本作は、その歌詞の一部を流用して、愛情も感じられなくなり、稼ぎも悪くなったご亭主に、三行半を叩きつけようとした、意欲作である。
  〔返〕 脚の骨すり減らしての働きに何を今さら愛想尽かしか   鳥羽省三


(豆野ふく)
○  寄りかかった背骨に君も女の子なんだと気付く 終電が行く

 女性である豆野ふくさんが、「終電」の中で寄りかかって来た「女の子」の「背骨」に、「女の子」らしさを感じることに対して、新鮮味を感じさせていただきました。
  〔返〕 寄りかかる泥酔男に肘鉄を一発食らはし終電を降る   鳥羽省三


(小倉るい)
○  すきま風入り来る二階の広間では骨あげを待つ老人無口

 市営の火葬場などで、よく見かける光景である。
 「すきま風入り来る二階の広間」で、恐らくは連れ合いらしい死者の「骨あげを待つ」老人が、先程から一口も言葉を発しない光景を詠んでいるのである。
 老人社会の無惨さを余すところ無く表現した佳作と言えましょう。
  〔返〕 吹き来るはすきま風かは世の無常無情を示し身に寄せる風   鳥羽省三

一首を切り裂く(065:骨・其のⅠ)

2010年12月26日 | 題詠blog短歌
(夏実麦太朗)
○  さば缶のさばの背骨をかみ砕く煮えきらぬわが性思いつつ

 「さば缶」は「煮え」切ったものを缶詰にしているのですから、どんなに歯が悪くとも「かみ砕く」という程のことはありません。
 それを敢えて「かみ砕く」ところに、本作の作者・夏実麦太朗さんの「性」の本質がありましょうか?
 もしもそうならば、それは「煮えきらぬ性」では無くて、むしろその反対の、何事も徹底してやらなければ気が済まない「性」と思われる。
  〔返〕 さば缶の缶の蓋まで噛み砕くことまで出来る歯にしあるらむ   鳥羽省三


(アンタレス)
○  骨子なき卒論多しと嘆きおり皆讀む本のコピーばかりで

 アンタレスさんのご主人様は大学の先生でありましょうか?
 だとすれば、本作の内容は、ご病気療養中の奥様に愚痴らなければならない程の、昨今の大学生たちの不甲斐なさを語っているのでありましょう。
 この一首、このままでも宜しいかとは思われますが、「嘆き」居る主体を示すなどして、以下の如く改作を試みてみました。
  〔返〕 骨子無き卒論多しと夫は嘆く他人(ひと)の著作を写すばかりと   鳥羽省三
 「嘆き」の主体が、もしもご主人様では無くて、他の方であったならば、「夫」の部分に、適宜、その方を表わす語をお入れになられたら宜しいかと思われます。


(西中眞二郎)
○  ふるさとの墓より堀りし骨洗えば草の根絡むものもありたり

 本作の作者・西中眞二郎さんは、ご郷里の周防大島からご自宅近所の都内の霊園などに、西中家のお墓をお移しになられたのでありましょうか?
 「草の根絡むものもありたり」という、下の句の具体的な表現にひと味もふた味も感じられます。
  〔返〕 草の根の絡むお骨も一つずつ洗ひて父祖のお墓展きぬ   鳥羽省三


(庭鳥)
○  骨太な鳥でありたいいつの日かスープになって食されるとも

 「骨太」の予算、「骨太」の政策などと、馬鹿の一つ覚えの如く、その現実とは逆に、何事にも「骨太」の二字を添えなければ気が済まないのが、昨今の政府や官僚たちの悪癖である。
 ブログネーム“庭鳥”さんが「いつの日かスープになって食されるとも」「骨太な鳥でありたい」と仰るのは、中身の無いそうした現実に対しての痛烈な批判となっている。
 その昔、食料の乏しかった頃、鶏などの家禽を捌いた後、父は、肉片のわずかにこびり付いた骨を鉈で叩いて、肉団子を作って私たちに食べさせたものであった。
 そんな時、本作の作者の如き、「骨太な鳥」の肉団子などは、煮ても焼いてもとても食えたものではないであろう、と苦笑しながら鑑賞させていただきました。
  〔返〕 骨太の七面鳥の肉団子煮ても焼いても食えぬイブかも   鳥羽省三


(リンダ)
○  骨密度は若いと変な誉め方で外見よりも中身が大事

 評者が三年前まで通院していた、北東北の某市の某内科医院では、毎月通院する度ごとに「骨密度」の測定を強いられたものでありました。
 私の通院理由は、「骨密度」とは直接に関係無いものと思われましたので、私は通院する度ごとに、何か割り切れないものを感じて居りましたが、その医院では、高価な「骨密度」の測定機械を導入したからには、どんな理由で通院する患者に対しても、「骨密度」の測定を義務付けていたものと思われます。
 本作について述べれば、“「骨密度」が高い”ならまだしも、「骨密度が若い」とは、確かに「変な誉め方」でありましょう。
 いくら「外見よりは中身が大事」な世の中とは言え、結婚対象として女性を選択する場合、「あの女性は、骨密度が百三十パーセントもあるから、私はあの女性に求婚したい」などと仰る男性は、先ずは皆無であろう、と思われます。
 いつもの事ながら、リンダさんの発想や着眼点の宜しさには感心するばかりである。
  〔返〕 肉体中骨の占めたる割合の巨大な女性の多い昨今   鳥羽省三


(邑井りるる)
○  コウホネを河骨と書く理由など知ってる人から窓際へ咲く

 「コウホネ」はスイレン科の植物の一種。
 水生の多年生草本でせあり、浅い池や沼に自生するが、白くて長い根茎が骨のように見える点が「河骨と書く」由来となっている。
 そんなどうでもいいことを知っていて、それをしたり顔して話す者などは、ものの役にも立たないから、との理由で、「窓際」に追い遣られるのでありましょうか?
 「窓際」に追い遣られることを、「窓際に咲く」と表現した点にには、本作の作者の、いわゆる“窓際族”と呼ばれる人々に対する心の在り方を示しているのでありましょうか?
  〔返〕 ひと夏の尾瀬の旅行に知り染めし河骨に似た窓際男   鳥羽省三

一首を切り裂く(064:ふたご)

2010年12月25日 | 題詠blog短歌
(五十嵐きよみ)
○  うっかりと「ふたご」と読んで笑われる東急二子玉川駅を

 東京急行電鉄株式会社、即ち「東急」の「二子玉川駅」は東京都世田谷区内に位置するが、「二子」という行政上の地名は東京都世田谷区内には無く、多摩川を挟んで対岸の川崎市内に在る。
 そして、その読みは“ふたこ”では無く“ふたご”である。
 そもそも、「東急」が同駅を「二子玉川駅」と命名したのは、“東京都世田谷区玉川”と“神奈川県川崎市二子”とに由来したものである。
 したがって、本作の作者・五十嵐きよみさんが、「東急二子玉川駅」の「二子」を「うっかりと」「『ふたこ』」と「読んで」しまったのは、必ずしも理由の無いことではない。
 思うに、「東急」が同駅の駅名を決定するに当たって、川崎市二子に由来する「二子」という漢字二字を“ふたご”という濁音で読まずに、“ふたこ”という清音で読んで駅名の一部に採り入れたのは、音感の違いと言うよりも、濁音を田舎訛り視して蔑視する“フチブル趣味”に毒された都会生活者に迎合した結果かと思われる。
 かくして、この一首は、“プチブル”と言うよりも本物の“ブルジョアジー”の五十嵐きよみさんが、つい「うっかりと」駅名の一部を読み間違えてしまって、“プチブル志向”の無教養な人たちに「笑われ」てしまったことに因る悔しい胸の内を披瀝したものと言えましょう。
  〔返〕 そもそもの“ニコタマ族”とは田舎者多摩の川原で衣晒す者   鳥羽省三
 

(みずき)
○  ふたご座も二人静も春愁の匂ひを放つふたひらの夢

 「二人静」は春の野山に咲く山野草であるのに対して、「ふたご座」は冬の星座である。
 したがって、「ふたご座も二人静も春愁の匂ひを放つふたひらの夢」という本作の内容は、一見、矛盾する内容のことを書いている作品と言えましょう。
 思うに、本作の作者・みずきさんは、「ふたご座」及び「二人静」の持っている季節感に着目して本作を詠んだのではなく、「ふたご座」の「ふた」及び「二人静」の「二」の共通点に着目して本作を詠んだのでありましょう。
  〔返〕 乙女座も乙女椿も春のもの鳥羽の短歌に矛盾点無し   鳥羽省三


(鮎美)
○  名の子音ひとつ異なることがそのふたごの差異のはじめなりけむ

 私のかつての教え子に、“堀真佐子”“堀美佐子”と言う、名前の中の母音が一つ異なっている美人双子姉妹が居りました。
 口の悪い国語教師として知られていた私は、姉の堀真佐子に“芋掘り”、妹の堀美佐子に“大根掘り”と言うニックネームを奉って居りましたが、姉妹二人とも性格が大変明るく、高校卒業後までそのニックネーム入りの年賀状を呉れたものでした。
  〔返〕 芋掘りに大根掘りの堀姉妹彫りが深くて美少女なりき   鳥羽省三
 
 
(アンタレス)
○  何となく得した様な気持ち有り卵を割りて黄味のふたごは

 目方にすればほんの微細な違いかも知れませんが、「卵」を割って「黄身のふたご」が出て来たら、「何となく得した様な気持ち」になるのは当然のことと言えましょう。
 本作に接して、評者が何よりも嬉しいと思ったのは、病気療養中のアンタレスさんが、病苦から離れた内容の歌をお詠みになった、ということである。
 表現について申し上げれば、このままの形でも一応は宜しいかとも思われますが、「有り」や「割りて」といった文語的な表現に拘る必要は無いとも思われる。
 歌壇には、未だに「“口語調短歌”に較べて“文語調短歌”の方が高級である」といった因習に囚われている者が多い。だが、一首の歌のスタイルが、文語調が相応しいか、口語調が相応しいかということは、高級とか低級とかという次元の話では無く、要は、内容に即した表現をしなければならない、ということでありましょう。
  〔返〕 何となく得したような気にもなる双子姉妹を娶った時は  鳥羽省三
 まさか「双子姉妹」の姉と妹とを同時に妻にした訳ではないでしょうが?  


(揚巻)
○  母方の祖父のいとこの嫁さんのふたごの兄に似たんです 耳

 「母方の祖父のいとこの嫁さんのふたごの兄」と言えば、本作の作者・揚巻さんとは、ほとんどと言うよりも、全然関係の無い人間なのである。
 その無関係な人間と、身体のほんの一部分に過ぎない「耳」が似ているからといっても格別な事はありませんが、その格別な事の無いことを、格別な事として、一首を成したのは、また、格別な事と考えなければなりません。
  〔返〕 父方の祖父の従兄弟の連れ合いの隣りの家の孫と喧嘩す   鳥羽省三


(原田 町)
○  さる宮家ふたご伝説まゆつばと思いながらも立ち読みをする

 「さる宮家」とは、明治時代の“伏見宮家”であり、「ふたご伝説」の「ふたご」とは、伏見宮博恭王と経子妃(徳川慶喜の9女)との間に、1907年5月18日にご誕生になった、第二王女の敦子女王(後の清棲幸保伯爵夫人)と第三王女の知子女王(後の久邇宮朝融王妃)のことでありましょうか?
 だとすれば、決して「まゆつば」ではありません。
 このお二人は一卵性の双生児姉妹としてご誕生になったとか。
  〔返〕 眉唾の睦語伝説聞き飽きて耳に栓するこの頃である   鳥羽省三 
 

(今泉洋子)
○  淡々と未来語りし君の目にふたご座きらり光りてゐたり

 本作の作者・今泉洋子さんは、「ふたご座」と「未来」とは、何か通じるところがあるとお感じになったのでありましょうか?
 そんなこととは別に、近頃の若者たちが「未来」を語らなくなってしまったのは、真に残念なことではありませんか。
  〔返〕 暗澹と過去を語れる今泉洋子さんこそサソリ座の女   鳥羽省三   


(伊倉ほたる)
○  前世ではふたごの片割れそれぞれの糖度で熟す夜の無花果

 「無花果」は“禁断の木の実”である。
 その“禁断の木の実”の「無花果」たちの一顆一顆が「前世ではふたごの片割れ」であった、とする発想もなかなか奥深い発想ではあるが、その「無花果」が秋の「夜」に「それぞれの糖度で熟す」とは、鑑賞者たちを隠微な想像に誘わんとしての表現かと思われる。
 かつての「ふたごの片割れ」たる「無花果」たちが、秋の夜長を「それぞれの糖度で熟す」。
 それは、一人一人の女性が、その女性なりの美しさと媚態とを、夜なな身につけて熟れて行く過程と二重写しの関係になっているとも言えましょう。
 評者もかつては男性と呼ばれた種族の一人でありましたが、その種族たちの願望の一つに、一卵性双生児の女性二人と同時進行的に愛欲生活を営みたいという欲望があるのは、隠しようの無い事実である。
 繊細な感覚を生来のものとして身につけているこの女流歌人は、男性という種族のそうした邪まな欲望をも読み取り、挑発的な発想に基づいてこの一首を成したのかも知れない。
  〔返〕 それぞれの糖度で熟す双つ児の姉妹の肉をさながら愛す   鳥羽省三
 
 
(生田亜々子)
○  狼の乳を欲しがるふたご居てあの帝国は始まりました

 ロームルス (Romulus) とレムス (Remus) は、ローマの建国神話に登場する双子の兄弟であり、ローマ帝国の建設者と言われている。
 彼ら兄弟は、叔父の王によってテヴェレ川に捨てられ、狼の乳を飲んで成長したと伝えられている。
  〔返〕 子二人が欲しがる肉を惜しまずに与へし母の末路哀しも   鳥羽省三


(鳥羽省三)
○  ル・クルーゼをふたごと抱え逃げて行くカレー泥棒捕まえたから

 ル・クルーゼ社の鍋「ママ」一杯に似たカレーの重さは、鍋ごと5㎏以上にもなりましょうか?
 そんな重さの鍋を「ふたごと抱え」「逃げて行く」「泥棒」がいたとしたら、それは即ち捕まえられる為にそうしているのかも知れません。
 我が連れ合い殿は、お年のせいでもありましょうが、昨今は、あの鍋を思う存分に操って手料理を作ることも出来なくなってしまいました。
  〔返〕 ティファールのフライパンならバッチグー メイド・イン・チャイナは頗る軽い   鳥羽省三

一首を切り裂く(063:仏)

2010年12月24日 | 題詠blog短歌
(夏実麦太朗)
○  ゆうぐれの仏壇店のあかるさよガラスケースに鈴ふたつある

 今となっては、何処の駅で下車したのかすら忘れてしまいましたが、その昔、横浜市立図書館に通っていた頃、その手前の野毛坂の辺りに、本作に登場するような「仏壇店」が数軒在りました。
 宗派にもよりましょうが、仏壇はキンピカに荘厳されていて、折りからの西日を浴びて、みな一様に輝いているものですから、「ゆうぐれ」だというのに、店内は異様な「あかるさ」を帯びて居りました。
 本作について申せば、「ガラスケースに鈴ふたつある」などという表現も、なかなかいい味を出しています。
 アララギ派の中村憲吉(明治22年1月25日~昭和9年5月5日)の晩年の歌集『軽雷集以後』(昭和9年刊)に、「真むかひの山家のなかは西日射しあからさまなる仏壇の見ゆ」という作品が収められていますが、評者は、その作品を彼の代表作品だと思っている。
  〔返〕 野毛坂の仏壇店に西日射し厨子も具足も今を輝く   鳥羽省三


(龍翔)
○  少しだけ見たい気もする。四度目の仏の顔はどんなだろうか。

 “仏の顔も三度”と言い、「四度目」の「顔」は“鬼”か“夜叉”のような「顔」であるに違いない。
 「少しだけ見たい気もする」などと助平根性を出すのが、そもそもの料簡違いと思われます。
  〔返〕 四度目の仏の顔を見たいとはとんだ料簡摂津の富田   鳥羽省三


(五十嵐きよみ)
○  恋愛の機微が身につくわけじゃない仏和辞典をいくら引いても

 全く仰る通りでございます。
 「恋愛の機微」を「身」につける為には、実践に拠るしか方法はありません。
 振って振られて、その挙句の果てに、石庭の置石に自然に萌える苔の如きものを、フランスのことはいざ知らず、我が国に於いては「恋愛の機微」と言うのですから、「仏和辞典をいくら引いても」、「身」につけることは出来ません。
  〔返〕 恋愛の機微を知るべく空海の三教指帰を全巻読破す   鳥羽省三

 
(今泉洋子)
○  青丹よし奈良のみ仏切れ長の目元涼やか秋波を送る

 「秋波」を送ったのは、決して「切れ長の目元涼やか」な「青丹よし奈良のみ仏」ではありません。
 もしかしたら、口元が裂けた佐賀の化け猫ではありませんか?
  〔返〕 石ばしる弛みの出来た目尻下げ美男仏に秋波を送る   鳥羽省三


(伊倉ほたる)
○  オリーブとアンチョビ刻む昼下がり南仏風のサラダを作る

 評価の難しい作品である。
 「オリーブ」及び「アンチョビ」とは、言わば「南仏風サラダ」なる国籍不明の食べ物の材料に過ぎません。
 意地悪な鑑賞者なら、「それを『昼下がり』に『刻む』ことがどうして風情になるですか。もしも、それが風情になるのでしたら、“”タマネギとカボチャを刻む夕まぐれ山梨風のシチューを作る”、“アンパンとジャムパン食べる十一時これで昼食済ませたことにする”でも、十分なる風情である、と申せましょう」などと否定的に評価するかも知れませんし、その一方、「久し振りに手に入れた週末のゆとりあるじかんを存分に楽しんで居られる有職主婦の満たされた気持ちの披瀝に及んだ素晴らしい作品である」などと肯定的に評価される場面も考えられましょう。
 こうした事とは別に、評者・鳥羽省三の忌憚の無い意見を申し上げさせていただきますと、つい先日、「群れている羊の翳す携帯は祈り捧げる墓標のように」といったような秀作をお詠みになったばかりの伊倉ほたるさんが、あれから幾日も経っていないのに、どうしてまた、こんなにも味もそっけも無い作品をお詠みになったか、と驚嘆しているばかりである、ということである。
 女性心理というものは、男性にとっては何歳になっても理解不可能なものである。
〔返〕 南仏風・手作り風と「風」が付き風が付くから紛い物なり   鳥羽省三


(鳥羽省三)
○  仏滅にリーズナブルな式挙げて新婚旅行は札所廻りだ

 かつての同僚に、「リーズナブル」を連発する英語教員が居て、彼は、「スカンディアのワインは、決してリーズナブルとは言えないけれども、値段だけのことはあるね」「鳥羽さんの田舎の家を拠点としての、今回の北東北旅行の最大の利点はリーズナブルであったことです」などと、何でもかんでも「リーズナブル」を付けなければ気が済まないと感じているような人間であったのであるが、上記の作品は、彼の言行に取材した実話である。
  〔返〕 細君はバツイチ女性で何事もリーズナブルな事が好きとか   鳥羽省三

一首を切り裂く(063:仏)

2010年12月23日 | 題詠blog短歌
(髭彦)
○  『パリ燃ゆ』と『鞍馬天狗』の間にぞ戦(いくさ)ありけむ大仏次郎の

 作家「大仏次郎」こと野尻清彦(1897<明治30>年10月9日 - 1973<昭和48)年4月30日)が、あの大衆小説『鞍馬天狗』シリーズを書いていたのは、1924年から1965年までのこと。
 鎌倉高等女学校の教師や外務省嘱託を辞めてから、生活の為というよりも、本人の言葉に拠ると書肆・丸善に借金を支払う為に書き続けた『鞍馬天狗』シリーズを、何と驚いたことに、彼は戦前から戦後に亘って四十年以上も書き続けていたのである。
 この『鞍馬天狗』シリーズや『赤穂浪士』といった大衆小説作家としての顔は、彼の顔の一面でしか無くて、日本最初のナショナルトラストの運動家としての顔など数多くの顔を持っている「大仏次郎」のもう一つの重要な顔はノンフィクション作家としての顔である。
 この方面の彼の代表作が、本作の詠い出しに登場する『パリ燃ゆ』なのであるが、パリ中の古書店の書棚を空にする程の多くの資料と情熱とを駆使して、彼が、世界最初の一般市民に拠る自治政府と言われる“パリ・コミューン”を扱った、このノンフィクションを書いたのは、『鞍馬天狗』シリーズの筆を擱く前年の1964年のことであった。
 本作は、彼「大仏次郎」が、大衆小説『鞍馬天狗』を書き始めた1924年から、ノンフィクション『パリ燃ゆ』を書いた1964年までの「間」に、「大仏次郎」にとっての「戦」があっただろう、と述べているのである。
 で、その「戦」とは、あの第二次世界大戦を指して言うのみならず、生活の為に文章を綴る大衆作家としての顔から、重大な決意と使命感を帯びて文章を綴るノンフィクション作家へと脱出を計らんとする、彼自身の文筆家としての「戦」、更には、古都鎌倉の濫開発を許さないとする、ナショナルトラスト運動家としての「戦」をも含むのでありましょう。
 「題詠2010」に投稿される短歌作品の内容も、硬軟さまざま色とりどりではあるが、かくして、評者に学習を強いるような内容の歌が数多く投稿され、その鑑賞サイトを設置している評者たちが、そうした内容の作品の鑑賞と解説に手を染めるようにならなければ、インターネット歌壇の黎明は永久に訪れようとしないものと思われるのである。
  〔返〕 猫好きで「猫に贅沢させるな」と遺言残した大仏次郎   鳥羽省三


(珠弾)
○  官軍も賊軍もない死ねばみな仏さんだと清水次郎長

 作者が、あの女と競馬と宴会好きな珠弾さんであり、内容が「官軍も賊軍もない死ねばみな仏さんだと清水次郎長」とあって、講談や浪曲でお馴染みの「清水次郎長」が登場するからと言って、馬鹿にして掛かるととんでもない目に遭う。
 幕末・明治の侠客「清水次郎長」こと山本長五郎(1820<文政3>年2月14日~1893<明治26>年6月12日)が、只の博打打ちで無かった事は、明治初期に彼の養子であった天田五郎の『東海遊侠伝』や子母澤寛の小説及びその他の資料に詳しい。
 慶応4(1868)年8月、旧幕府海軍の副総裁であった榎本武揚が率いて品川沖から脱走した艦隊の中の咸臨丸は暴風雨に遭い房州沖で破船した。
 そして、その修理のために清水港に停泊したところを新政府海軍に発見され、見張りのため船に残っていた船員全員が惨殺された。そして、その死体が新政府に逆らった逆賊として駿河湾に放置されていたが、次郎長は小船を出してその死体を収容し、向島の砂浜に埋葬した。
 清水次郎長に拠るこうした善行は、新政府軍から咎められたが、その際、彼は「(死者には)官軍も賊軍も無い」「死ねばみな仏さんだ」として突っぱねたと言う。
 “人は見掛けによらない”と言うが、評者などから“馬キチ”として蔑まれていた面が無きにしも非ず、であった珠弾さんは、清水次郎長のこうした事績に詳しい知識人でもあったのである。
 評者にしてみれば、また、珠弾さんの知識人としてのこうした側面を予想して居ればこそ、彼の作品をからかい気味に論評することも出来たのである。
 “論評とは揶揄の別名である”とも言われているが、その“揶揄”はややもすると単なる“揶揄の為の揶揄”になってしまいがちである。
 こうした点などは、評者・鳥羽省三が、何よりも前に留意して置かなければならない点かと思われる。
 鬚彦さん作に続いて珠弾さん作と、これで二首連続、詠み応えのある作品を鑑賞させていただいた。 
 しかし、その趣きとそれぞれ異なり、鬚彦さん作がいかにも毅然とした感じなのに対して、珠弾さん作は、見せ掛けはのんべんだらりんとした感じであった。
 評者に、緊張と学習を要求する、こうした優れた作品との関わりを通じて評者は日一日と成長して行くのであり、評者の成長を通じて、実作者たちの成長もあるのである。
  〔返〕 馬キチも仮の姿の珠弾さん末は茂吉か寺山習字   鳥羽省三
   

一首を切り裂く(062:ネクタイ)

2010年12月22日 | 題詠blog短歌
(夏実麦太朗)
○  結局は同じネクタイばかりにておのれの首を絞めている朝

 「ネクタイ」は何本も持っているが、その中の一本だけを気に入っていて、毎朝、それだけを締めて出勤する、ということでありましょう。
 だが、それを直接そう言わずに、「結局は同じネクタイばかりにておのれの首を絞めている」と詠うことによって、自分がいつも同じ轍を踏んで手痛い失敗をしているということをも言い表そうとしたのでありましょう。
  〔返〕 幾朝も同じ皺首ばかり巻きネクタイ一本腐り切ってる   鳥羽省三


(みずき)
○  ネクタイと指輪を外しかげろふの二人となりて夜を漂ふ

 「ネクタイ」は家庭持ちの男の象徴であり、「指輪」は亭主持ちの女の象徴という訳でありましょう。
 その象徴を「外し」て、作中の男女「二人」は、「かげろふ」のようにおぼろになって、「夜」の景色の中を「漂ふ」、否、「夜」の景色の中を「漂ふ」のでは無くて、「夜を漂ふ」とだけ言っているのだから、其処には、濃厚なセックス場面も想定されるのである。
 それからもう一点。
 「かげろふ」とは、気象現象としての「かげろふ」のみならず、命の薄い昆虫としての“ウスバカゲロウ”なども意味するのであるから、本作の作者・みずきさんは、彼と彼女の不倫の恋の道行きの儚さも言い表そうとしているのである。
 お題「ネクタイ」中の粋美として称揚するに値する佳作である。
  〔返〕 胎内に淡き命を宿しつつかげらふのごと女さまよふ   鳥羽省三


    『I was born』      吉野弘


  確か 英語を習い始めて間もない頃だ。

  或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青
 い夕靄の奥から浮き出るように 白い女がこちらへやっ
 てくる。もの憂げに ゆっくりと。

   女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女
  の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟
  なうごめきを 腹のあたりに連想し それがやがて 世
  に生まれ出ることの不思議に打たれていた。

  女はゆき過ぎた。

  少年の思いは飛躍しやすい。その時 僕は<生まれ
 る>ということが まさしく<受身>である訳を ふと
 諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。
 ─やっぱり I was bornなんだね─
 父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返し
 た。
 ─I was bornさ。受身形だよ。正しく言うと人間
 は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね─
  その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。
 僕の表情が単に無邪気として父の眼にうつり得たか。そ
 れを察するには 僕はまだ余りに幼かった。僕にとっ
 てその事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。

  父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。
 ─蜉蝣という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬん
 だそうだが、それなら一体 何の為に世の中に出てくる
 のかと そんな事がひどく気になった頃があってね─
  僕は父を見た。 父は続けた。
 ─友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だと
 いって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く
 退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入
 っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。と
 ころが卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっ
 そりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目ま
 ぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとま
 で こみあげているように見えるのだ。淋しい 光りの
 粒々だったね。私が友人の方を振り向いて<卵>という
 と 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことが
 あってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお
 前を産み落としてすぐに死なれたのは─

  父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひ
 とつの痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたもの
 があった。
 ─ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいで
 いた白い僕の肉体─。  


(西中眞二郎)
○  久々にネクタイ締めて出でたれば電車の窓に顔映しみる

 西中眞二郎さんと言えども、退官してからは、外出する度ごとに、いつもいつも「ネクタイ」を締める訳ではない。
 例えば、パチンコ屋に行く(行くとしたらの話である)時などは、ごく普通のジャンパー姿で出掛けて行って、自分の台に限って玉の出が悪いとしたら、街のあんちゃんたちのように、ガラスを叩いたり、舌打ちしたりなどもするのでありましょう。
 そんな西中眞二郎さんが、ある日のある時、「久々にネクタイ締めて」外出したものであるから、飛び乗った「電車の窓」に、ご自分の「顔」を「映し」て「みる」のである。
  〔返〕 この顔もまんざら捨てたもんで無いこれならまだまだ通用するぞ   鳥羽省三 


(リンダ)
○  ネクタイの結び目ゆるめ靴を脱ぎ玄関先で疲れ噴き出す

 “リンダ”さんと言うから、少なからず浮わついた女性だ、とばかり思っていたのであるが、案外、実直な男性サラリーマンだったのかも知れませんね。
 そんなところが、案外、インターネット短歌の面白いところなのかも知れません。
 その、実直なサラリーマン男性のリンダさんが、会社から帰宅したのであるが、先ず玄関先で、「ネクタイの結び目」を「ゆるめ」、玄関に入るや否や「靴を脱ぎ」、「ただいまー、風呂より先に飯だ、飯だ。ビールは三本ぐらいかな」と奥さんに言おうとしたのであるが、それより先に、「玄関先で疲れ」が「噴き」出してしまい、玄関にどっと倒れ込んでしまったのである。
  〔返〕 リンダとはブログネームでありまして戸籍上では斎藤誠   鳥羽省三


(砂乃)
○  強面の担任が締めるネクタイにまたドラえもん隠されている

 「強面」は“こわもて”と読むのであり、ただ「強面」と書いただけでは、十中の八九、「“ごうめん”と読むのかしら、でも何か変ね」と言われてしまうのである。
 だが、そんな細かいことは一切気にせず、“ふりがな”も施さないところが、砂乃さんという歌人の優れた特質の一つなのである。
 そうした特質を持つことは、歌人としては、当然推奨されるべきことであって、後続の方のような場合は、決して誉められるべきでは無い、と評者は思っているのである。
 それはそれとして、「強面」のする学級「担任」が、意外にも、小さな「ドラえもん」の模様入りの「ネクタイ」を締めているのを発見した、と詠っているのは、いかにも“PTAマダム”らしい実存が示されていて、非常に好ましい短歌的傾向かと思われる。
 短歌とは、題材となった対象物を詠うと同時に、その対象に相対している作者自身の実存をも詠うものである。
 したがって、本作は、「ああ、うちの娘の学級担任の高橋剛先生は、見てくれはごついけれども、その内面はとてもデリケートに出来ていると思われる。実はこないだもそうだったんだけれど、高橋剛先生の締めているネクタイは、遠くから見ると、ただの古風な市松模様に見えるが、その一つ一つの桝目には、子供たちの大好きな『ドラえもん』が『隠されている』んですって」という意味を示しているのであるが、それと同時に、PTA行事としての授業参観に参加する為に、娘さんの通学なさっている学校に出掛け、「うちの娘は、今日はどうして手を上げないのかしら。身体の調子が良くないのかしら」などと思いながらも、教室の後ろに並べられた高学年用の椅子にちょこんと座って、前記のようなことを考えている、作者ご自身の“あるがまま”の姿を示そうともしているのである。
 短歌は、自分の実像ないしは虚像を映して他人に示すような役割りを果たす多面体の鏡である。
 したがって、つかつなことは書けないが、また、それを逆用して、阿婆擦れ女が聖女のように見せかけることも可能であるから、その鑑賞に手を染めようとしている評者などは、愚か者の代名詞にでもされるかも知れないことを覚悟しているのである。
  〔返〕 強面の男が締めるネクタイに淡く浮かべる自信の無さが   鳥羽省三


(今泉洋子)
○  佐賀藩の明治維新を象徴す大隈重信の蝶ネクタイは
 
 「本作の最大の手柄は、『蝶ネクタイ』の『蝶』に“てふ”などと、無用なふりがなが施されていないこと」などと申し上げたら、作者に対して、余りにも失礼申し上げることになりましょうか?
 それはそれとして、幕末から明治にかけての佐賀藩と言えば、例の“佐賀の乱”という薩長政府の陰謀に因って、江藤新平、中島鼎蔵、島義勇、副島義高などの切れ者が悉く殺戮されてしまったから、その生き残りの「大隈重信」ばかりが、まるで“佐賀もっこす”“葉隠れ武士”の象徴のようにして、燦然と輝いていますね。
 その「大隈重信」の胸を締めていたのは、伊藤博文や大久保利光などの薩長政府の高官では無くて、只の布切れの「蝶ネクタイ」だったのかしら?
 だとすれば、これは亦、とんでもなくお洒落で軽薄な“葉隠れ武士”である。
  〔返〕 馬鹿どもが必ず歌うあの歌は“都の西北”嫌な歌だよ   鳥羽省三


(あかり)
○  胸元の白い模様がネクタイに似ていてちょっとお洒落な子猫

 そう言えば、そんな「猫」が確かに居ますよね。
 私たちが今年の夏頃まで仮住まいをしていた家の周りに徘徊していた「猫」。
 即ち、私の次男が“うし猫”と名付けて、その野良猫を可愛がっていましたが、その“うし猫”がそうでした。
  〔返〕 “うし猫”がお洒落な猫と言えるなら早稲田の学生首狩り族だ   鳥羽省三


(青野ことり)
○  ネクタイを締める仕草も板につき研修期間もそろそろ終わる

  お子様がそんなお年頃になられたんですか。
 それはそれは、おめでとうございます。
 これで、ひと安心ですね。
  〔返〕 下の句で逃げる手際も板につき上の句ともどもかなり宜しい   鳥羽省三


(鮎美)
○  蝶ネクタイまたも忘れしチェリストにまたも貸しやるトロンボニスト

 「トロボニスト」は、手にしている、あの楽器の形からして、観客席から、襟元は見えませんから、「蝶ネクタイまたも忘れしチェリストにまたも貸しやるトロンボニスト」という、事の運びになるのですね。
 一種の“認識の歌”かと思われますが、オーケストラの演奏会場の開演前の様子なども想像することで出来て、楽しい歌に仕上がって居ります。
  〔返〕 ハープニストの女性はいつもタイ無しでハンカチ当てて胸隠してる   鳥羽省三


(原田 町)
○  職人の父が遺せしネクタイは冠婚葬祭ほか二、三本

 「ネクタイ」の本数は、本当はそれ位で宜しいのです。
 私は、銀座の“田屋”で買った品ばかり、百本以上も持っていたのですが、定年退職してからは、気に入っていたほんの十本ばかりを残して、全部処分してしまいました。
 職人の盛装は、何と言っても、あの“捻り鉢巻姿”ですかね?
  〔返〕 ネクタイに代わる手拭五百本鯔背模様で長さ三尺   鳥羽省三


(飯田和馬)
○  喪のためにネクタイ絞むる我を見て「見合いか」などと言いし人あり

 飯田和馬さんは、“恋愛タイプ”というよりも“見合いタイプ”と見られてるんですかね。
 そもそも、首に締めていた「ネクタイ」の色が問題なのである。
  〔返〕 学生が喪服ばかりを着ていたら虫が付いても女付かない   鳥羽省三


(五十嵐きよみ)
○  男装のジョルジュ・サンドの胸元に結べば似合いそうなネクタイ

 その「ネクタイ」なら、きっと五十嵐きよみさんにもお似合いですよ。
  〔返〕 男装しサンドバックを叩いてるあれは五十嵐きよみさんだね   鳥羽省三


(牛 隆佑)
○  ネクタイをきつく締めても一日はゆっくり過ぎてゆく原爆忌

 大阪生まれの牛隆佑さんにしても、「原爆忌」ともなれば、「ネクタイをきつく締めて」襟を正したいようなお気持ちになられるのでありましょうか?
 そうは言っても、「原爆忌」は夏真っ盛りであるから、つい、のんべんだらりんと過ごしてしまい、「原爆忌」とは言え、その「一日はゆっくり過ぎてゆく」のである。
 本作は、加藤治郎門下の若手歌人によく見られるような、一見、出鱈目みたいな詠み方ではあるが、悩み多き若い世代特有の気だるいような雰囲気がよく出ている佳作と思われる。
  〔返〕 ネクタイを緩く締めたら彼女から誤解されたりする 困っちゃう   鳥羽省三

 
(高松紗都子)
○  ぎこちなくネクタイむすびうつむいて玄関を出る逆光のきみ

 「ぎこちなくネクタイむすびうつむいて玄関を出る逆光のきみ」に対する、眩しいような、また、苛立たしいような作者ご自身のお気持ちを暗々裏に表現したと思われる一首である。
 「きみ」を詠いながら、“われ”をも詠っているのである。
 「それでどうしたの」と言いたくもなるような作品でもあるが、世の中に向って何かを訴え、何かを主張するだけが短歌の役目では無いから、これはこれで宜しいのである。
 高松紗都子さんぐらいの詠み手ともなると、短歌になるとならぬの境目を、よく心得ていらっしゃるのである。
 ある日、ある時、あるがままの作者自身の姿や心を飾ることなく映し出すのも亦、短歌の重要な役目の一つなのである。
  〔返〕 眩しさと苛立たしさをない交ぜに君を見詰める私の心   鳥羽省三


(南野耕平)
○  ネクタイを締めると背筋が伸びるのは飼いならされてしまったからか

 「ネクタイを締めると背筋が伸びるのは飼いならされてしまったからか」と心配するよりも、「ネクタイを締めると背筋が伸びるのは飼いならされてしまったからか」と心配してしまうことに心配する必要がありましょう。
 何故ならば、仮に「飼いならされてしまった」結果として「ネクタイを締めると背筋が伸びる」のだとしても、そうした傾向は、円満な社会生活を送る為には、むしろ必要な傾向であるから、「飼いならされてしまったからか」などと心配するよりも、「これで良かったんだ。私は私を飼いならそうとしている側から、飼いならされない為に備えるべき常識のようなものを獲得したんだ」と考えるべきだからである。
 どんな状況下にあっても、何者かから何物かを獲得するということは、歓迎するべきことなのである。
 それは、丁度、ナチスドイツの支配下に置かれたパリ市民が、ナチスドイツの手によって虐げられつつも、自由であることの大切さ、抵抗することの大切さを間接的に学び、遂には自由を獲得したようなものである。
 と、先ずは、冗談めかして、お得意の饒舌癖のご披露に及んだ訳でありますが、本論に戻して申し上げると、本作も亦、いわゆる“認識の歌”として鑑賞するべきでありましょう。
 これ以下に申し上げることは全くの私見でありますが、奥村耕筰氏のいわゆる“認識の歌”、言い替えて言うと“気付きの歌”ばかりが歌壇に持て囃されるような傾向は、必ずしも歓迎するべき傾向とは思われません。
 何故ならば、こうした傾向の歌を巧みに作ろうとすると、現実を直視することを止めて、頭の中で捏ね繰り回して考えたり、何か巧いアイディアを発見しようなどと、きょろきょろしてばかり居るような方向に傾きがちになるからである。
  〔返〕 ネクタイを締めた途端に背筋伸びきりっとするのを成長と言う 
       

(珠弾)
○  ネクタイの輪っかひたいに移動する宴会モードに切り替わる時

 何処の職場にも、宴会部長を自認して、年に一度か二度の宴会の夜だけ、その存在価値を示すような社員が在るものであるが、「ネクタイの輪っかひたいに移動する宴会モードに切り替わる時」などと仰って居られるところから判断すると、本作の作者・珠弾さんも亦、その種の社員として多くの女性社員たちから愛され、少数の猛烈男子社員たちから迷惑がられているのでありましょう。
 「ネクタイの輪っか」を「ひたいに移動」した途端に、役立たずの無能社員が、江戸の人気者・助六勘解由に大変身するのである。
  〔返〕 ネクタイの輪っか額に移動する芸やり損ね出向辞令   鳥羽省三


(伊倉ほたる)
○  忘れてはいけないことがありすぎて自販機で黒いネクタイを買う

 このままだと、「ありすぎ」る「忘れてはいけないこと」の一つが、「今晩、中山課長の奥様のお通夜に社長代理として出席する」ということである、などと、読者たちから即断されてしまい、一首に詠まれている内容が極めて狭く、奥行きの浅いものと決め付けられてしまう恐れがある。
 上の句と下の句とは、付き過ぎてもいけない。
 離れ過ぎてもいけない。
 亦、付けるべき場面では、躊躇すること無く、ぴしっと付けるのである。
  〔返〕 忘れてはいけないことの第一とビールの本数家内にメール
 返歌は、上の句と下の句とをぴしっと付けた作品の一例である。
 通常、このタイプの作品がいちばん詠み難いのであるが、実を言うと、この返歌の上の句と下の句とは、ぴしっと付いているように見せ掛けて、実のところは少しも付いてはいないのである。
 ぴしっと付いているとしたら、「忘れてはいけないことの第一」は、「家内にメール」する「ビールの本数」などでは無く、それを忘れたら人生の一大事になるような用件、例えば、“仕事上の重要事”或いは“妻との堅い約束”ということになるのであるが、「忘れてはいけないことの第一と家内の指にダイヤを嵌める」「忘れてはいけないことの第一と営業部長に業務報告」などと、それをそのまま述べてしまったら、面白くも可笑しくもなくなるから、詠み手たる鳥羽省三は、「ビールの本数家内にメール」と、敢えて外して、笑いを取ろうとしたのである。
 それが成功しているかどうかの判断は、読者各位にお任せする。


(蓮野 唯)
○  ネクタイの歪みを直すその度に自分の心の歪みも直す

 これも亦、付き過ぎて面白くなくなった例の一つである。
 道理に走ってはいけません。
 「ネクタイの歪みを直すその度に自分の心の歪みも直す」と言うのは道理である。
 道理に走ってばかりいては、面白くも無く、奥行きも浅くもなるのである。
  〔返〕 ネクタイの歪みを正す度ごとに心の歪みに見詰められてる  鳥羽省三
 原作と返歌との差はわずかなものではあるが、「心の歪みに見詰められてる」という、現実には在り得ない不条理な要素を持ち込んだだけ、原作の世界よりは返歌の世界の方が、皮肉が利き、奥行きが深くなるのである。
 お解りでしょうかしら?
 

(鳥羽省三)
○  ネクタイは銀座の田屋に決めている舶来品は首が風邪引く

 いわゆる“虚実皮膜の間を行く”作品である。
 「ネクタイは銀座の田屋に決めている」で笑いを取ろうとして、「舶来品は首が風邪引く」でも笑いを取ろうとしているのである。
 こうしてみると、鳥羽省三という歌人も捨てたものではありません、と言って、またまた笑いを取ろうとしているのである。
 いくら何でも、一本二万円以上もする、「田屋」の「ネクタイ」ばかり締めていては、連れ合い殿から忽ち首を締め上げられてしまいます、と言って、またまたまた、笑いを取ろうとしているのであるから、鳥羽省三は笑われたい一心の歌人であるとも言えましょう。
  〔返〕 ネクタイは銀座の田屋のが十数本その他百本バーゲンの品   鳥羽省三

一首を切り裂く(061:奴)

2010年12月21日 | 題詠blog短歌
(髭彦)
○  万葉にクソ鮒食めると歌はれし女奴いかに生きて死にけむ

 『万葉集』の<巻十六>に“長意吉麻呂”作として「香塗れる塔にな寄りそ川隈の屎鮒食めるいたき女奴」という作品が収録されている。
 これには、「香、塔、厠、屎、鮒、奴を詠む歌」という詞書が添えられているのである。
 「クソ鮒」とは、憎む相手を指して「クソ役人」とか「クソ犬」と言うように「鮒」を卑しめて言う言葉であるが、一説に、小川などに群がって棲む“タナゴ”を指して言うとも伝えられている。
 万葉の長意吉麻呂作の短歌の意は、「これこれ、香しい香を塗って荘厳された仏塔に近づいてはいけないよ。汚泥が溜まっている川の曲がり角に棲んでいるくそ鮒を食っている汚らわしい女奴め」とところでありましょう。
 で、題詠短歌随一とも思われる博識家・髭彦さんは、「そんな生き方をしていた『女奴』は、どのようにして生きていて、どのようにして死んで行ったのだろうか」と、長意吉麻呂作に登場した身分の低い女性の人生に思いを馳せているのである。
  〔返〕 粗食してマブイ女も居ればゐる愛嬌あれば愛されもする   鳥羽省三


(邑井りるる)
○  おきやがれ奴さんにゃあ剣呑な両国駒屋の褞袍頭よ

 不勉強にして、一首の意を解釈することを得ませんでした。
 思うに、「江戸両国で、まるで褞袍を着た男の頭のような大きさの饅頭が売り出されて人気を博した」といったことがあり。
 それがきっかけとなって、遊所などで、褞袍を被ってでれりと長居をする助平な男を、遊女たちが「褞袍頭」と呼んで軽蔑した。
 そんなことを前提として、この一首は、「スケベったらしくいつまでも寝てないで、起きやがれ!! 気の短い奴さんたちが目にしたら、どたまかち割られるかも知れなくて、危なっかしいよ。この両国駒屋に長居している褞袍頭よ」といった意味かとも思われるが、それはあくまでも、推測の域を出るものではありません。
 また、歌舞伎や古典落語からの取材かとも思われますが、この一首の解釈や創作意図については、作者・邑井りるるさんからご教授賜りたい。
  〔返〕 起きやがれもう直ぐ七時だ腹減った布団被って何時まで寝てる   鳥羽省三
 現在、師走二十一日の午前六時五十分。
 連れ合い殿は未だ夢枕である。


(野州)
○  饐えてゆく奴豆腐のさみしさの間遠くなりし友のいくたり

 一つ目の「の」は比喩用法の格助詞であり、二つ目の「の」は主格用法の格助詞である。
 したがって、一首の意は、「『饐えてゆく奴豆腐』を見ていると、なんだか淋しくなるものであるが、その『さみしさ』のように、私の人生の中で、次第に音信普通になって、淋しい関係になってしまった友人が何人か居る」といったところでしょうか?
 表現について申せば、「奴豆腐」に限らず、豆腐そのものが白くて淋しいイメージを備えた食物である。
 よって、詠い出しの「饐えてゆく」には、それほどの必然性が感じられないとも思われるが、在って邪魔になるといったものでもない。
  〔返〕 有り明けの厨の隅の水桶に豆腐一丁浮かんでゐたり   鳥羽省三


(鮎美)
○  たしかめてみたいことなどない真昼奴豆腐は青磁の鉢に

 一首の意は、「近頃音沙汰無しの彼の気持ちを、今更『たしかめてみたい』とは思わないし、ましてや、韓流ドラマに登場する男優が、既婚か未婚かなどと『たしかめてみたい』とは、金輪際思わない。そんな『真昼』時に、リビングキッチンのテーブルの上に置かれた、“たち吉”の『青磁の鉢』に、誰を待つでも無く『奴豆腐』が浮かんでいる。ああ、あの『奴豆腐』の浮遊感は、丁度、やり場の無い今の私の気持ちみたいである」といったところでありましょうか?
 だとしたら、そんな時に、電話のベルが鳴って、「もしもし、鮎美さんですか。私は、貴女のご健康について、どなたよりも心配している者ですが、なんでしたら、この際、お膝やおみ足の健康に宜しい“皇潤”をお試しになってはいかがですか?」などとやられてしまうと、結局はやられてしまうのである。
  〔返〕 確かめてみたいことなど山ほどで寝てる亭主の下着など視る   鳥羽省三


(眞露)
○  きぬごしや波乗りジョニーに男前冷や奴にもイケメンの波

 昨今は、「豆腐」のネーミングもさまざまですからね。
 でも、「豆腐」と言えば、男名前の「豆腐」ばかりで、女名前のお「豆腐」が無いのはどうした訳でありましょうか?
 “みち奴豆腐”“夢千代豆腐”などというネーミングで、精選された国産大豆製の絹漉し豆腐を大々的に売り出したら、舌触りが宜しいなどという評判が立って、ヒット間違い無しと思われるのですが、いかがでございましょうか?
  〔返〕 もう一つ“眞露豆腐”も売れるかもこちらは笊入り寄せ豆腐だね   鳥羽省三


(原田 町)
○  奴坂下りし先がわが母校いまは名門と聞きて驚く

 東京麻布奴坂近くの学校と言えば、名門中の名門・麻布学園を初めとして目白押し(麻布を指して目白と言うのも可笑しい)であるが、他人の出身校について詮索するのは止めておきましょう。
 でも、「いまは名門と聞きて驚く」という表現が、推測の根拠となりましょうか?
  〔返〕 聖心や東洋英和は昔から名門なので除外しましょう   鳥羽省三


(飯田和馬)
○  バカヤロと席を立たずに迎え撃つつもりの俺を奴が見下ろす

 どちらかと言うと“草食系男子”と思われる飯田和馬さんも、この場面では少し虚勢を張ってみたのではあるが、かえって見下ろされる結果となってしまったのである。
  〔返〕 迎撃は下から繰り出す必殺のパンチ出す前見下ろされちまった   鳥羽省三


(五十嵐きよみ)
○  いい人で片づけられてしまうより嫌な奴だと言われてみたい

 そんなことを仰っても一切無駄です。
 五十嵐きよみさんは、詠む前から既に読まれているのですから。
 「題詠百首短歌」の主催者としての無償のお仕事は、いずれ必ず何かの形で、五十嵐きよみさんに、大きな好運を齎しますよ。
  〔返〕 来年も題詠短歌の主催者で五十嵐きよみはいい人ですね   鳥羽省三


(市川周)
○  一品にカウントすんな冷奴(食べるラー油も海苔もアイスも)

 「冷奴」はともかくとして、「食べるラー油」や「海苔」や「アイス」までも「一品にカウント」されて、代金を請求されたとしたら、いくら何でも、市川周さんがあまりにも可哀想です。
  〔返〕 カウンター一発かまして倒れさせ“テン・カウント”まで数えてあげて   鳥羽省三


(牛 隆佑)
○  経済は奴らに任せぼくたちはこぼれるものを詠うとしよう

 「奴ら」とは、どんな「奴ら」のことですか?
 まさか、菅や小沢や仙谷のことではないでしょうね?
 それから、谷垣や石原も駄目ですよ。
 それはそれとして、「ぼくたちはこぼれるものを詠うとしよう」というお心掛けは大変宜しいと思います。
 宮城野の萩に結ぶ露や甲州葡萄の珠に結ぶ朝露など、「こぼれるもの」を大いに詠いましょう。
  〔返〕 武蔵野の萩に結べる露ならで結べるものは牛さんとの縁   鳥羽省三


(じゃこ)
○  奴がまた手作りケーキ持ってきてうちの手作りおはぎが余る

 そういうことはまま起こり得ることでございましょう。
 先週の水曜日は、一週間ぶりに次男が帰宅するというので、私が早朝から新百合ヶ丘のスーパーに出掛け、お寿司、お刺身、ケーキなど、いろいろと取り揃え、妻と二人で次男の訪れを、今か今かと待ち構えていたところ、お昼時分になってから訪れた次男が、あろうことか、お寿司、お刺身、ケーキなどを盛沢山、しかもお刺身などは上トロ、中トロのてんこ盛りを買い物袋の中から出して、「今日のお昼はこれにしようと思って。お父さんも、血糖値がかなり下がったそうだから、お刺身とお寿司とケーキをつまみにして、お酒でも飲んだら。あっ、そうか、ケーキはお酒のつまみにならないか」と言って、背中に背負ったナップサックから、“月の桂”の吟醸酒を一升、封も切らずに出したのであった。
 そこで私も、「ああ、持つべきものは妻と子供、しかも男の子の次男は、長男長女を質に置いても、是非、持つべきものである」などと言って、その喜ぶことは、大変なものであった。
 そこで、その始末に困ったのは、今朝ほど、私が新百合ヶ丘のスーパーから買って来た品々。
 結局、あれこれ思案した上、これらの品々は、クロの家に払い下げることとさせていただきました。
  〔返〕 余ったのが手作りおはぎで良かったね私の家ではクロにお下がり   鳥羽省三
 

(ともの)
○  だまし舟、もとの姿は奴さん、その変わり身が、君に似ていて

 「奴さん」から「だまし舟」に早変わりする、「その変わり身」の早さが、“好き”から“嫌い”に急転換する、「君」に似ているのである。
  〔返〕 梯子から東京タワーに早変わりその変わり身は菅に似ている   鳥羽省三


(秋月あまね)
○  農奴よく主の土地を耕せよ主は国の王位を目指せ

 今回一番の傑作である。
 “マグナカルタ”の捩りの“マグソカルタ”の条文の一部と思われる。
  〔返〕 妻はよく夫に仕え国のため君主のために丈夫な子生め   鳥羽省三
 

(おっ)
○  よく晴れた日の夕方は雨になる笑う奴ほどよく涙する

 只一言「上、下、真ならず」と。
  〔返〕 良く晴れた今日の夕方雨降らず笑った妻は未だに泣かず   鳥羽省三


(桑原憂太郎))
○  やな奴と給食を食う屈辱に耐へきれないからおウチに帰る

 こんな手合いの生徒が、ここの所、ぐっぐっと増えてきましたね。
 本当に、我慢をするってこと知らないんだから。
  〔返〕 やな生徒を受け持つのは嫌だから裏取引で生徒交換   鳥羽省三


(山桃)
○  いつの世も強い女はカッコイイ江戸のむかしの奴(やっこ)の小万

 お題が「奴」だと知った瞬間、「奴の小万」を登場させる作品に出会ったら、即、入選と決めて居りました。
 「奴の小万」とは、現代で言うならば、去年の十一月頃の、蓮舫(本名:村田蓮舫)議員のような女性だったかも知れません。
  〔返〕 いつの世も強い女は泣きを見ず“柔ちゃん”こと谷亮子議員   鳥羽省三


(今泉洋子)
○  鴎外の不機嫌よろし奴髭も威厳さへなき平成家長

 「鷗外」の「鷗」が印字されないので、再投稿した挙句「鴎外」としてしまっている。
 「チョピンとは俺のことかとショパン言い」「ギョーテとは俺のことかとゲーテ言い」とは、こんなことかいな?
  〔返〕 鴎外とは僕のことかと森鷗外エリスは黙って俯くばかり   鳥羽省三
 それにしても、「平成」の「家長」は、すっかり「威厳」を失くしてしまいましたね。
 私などは惨めなものですよ。


(伊倉ほたる)
○ 「冷奴」と口にする時さみしくて三輪車濡らす雨と似ている

 「三輪車」は、庭などに雨曝しにして置かれる場面が多いから、「『冷奴』と口にする時」のさみしい気持ちは、雨曝しにして置かれる「三輪車」と「似ている」、という文脈かと思っていたら、「『冷奴』と口にする時」の作者の気持ちは「さみしくて」、その“さみしさ”は、「三輪車」そのものでは無くて、「三輪車」を「濡らす雨と似ている」という文脈であったのである。
 それならば、“乳母車”を濡らす雨とは似ていないのだろうか?
 “老人カー”を濡らす雨とは似ていないのだろうか?
 “乗客の居ないタクシー”を濡らす雨とは似ていないのだろうか?
 はたまた、“噴き滾っている噴水の水”を濡らす雨とは似ていないのだろうか、など等、さまざまな議論が交わされる場面が予想されるのであるが、そうした議論に関わる人間は、例外無しに、短歌を論じるに値しない馬鹿者と断じて止まない鳥羽省三である。
 ところで、この鑑賞文の冒頭の一文には、少しく訂正を加えざるを得ない。
 何故ならば、本作を冷静に読むと、作者・伊倉ほたるさんは、「『冷奴』と口にする時さみしくて三輪車濡らす雨と似ている」、と述べているだけであり、私の前言のように、「『冷奴』と口にする時」は「さみしくて」、その“さみしさ”は「三輪車」を「濡らす雨と似ている」、と述べてはいないからである。
 作者としては、其処まで意識しなかったのかも知れませんが、この文脈からすると、「三輪車を濡らす雨と似ている」のは、「『冷奴』と口にする時」の“さみしさ”なのか、それ以外の事柄なのかは、決して決め付けられない。
 そして、其処の辺りの曖昧さが、この佳作の持ち味であるとも思われ、優れた点であるとも思われるのである。
 “怪我の功名”かとも思われるが、巧まずして、意識せずして、こうした味を出せるのだとしたら、私の予想に違わず、彼女は、平成の和泉式部候補と称しても良い、才女かと思われる。
 とは言えど、今の伊倉ほたるさんは、何方かの“妻女”ではあっても、“才女”ではないかも知れません、と言うのは、鳥羽省三必死の洒落である。
 
 〔返〕 冷奴を口にする時さみしくて雨に濡れてる茸を思う   鳥羽省三
 ほたるさん作の一部を剽窃して成した、この返歌は如何でありましょうか?


(蓮野 唯)
○  嫌な奴バカな奴ほど目について気づけばいつも目で追っている

 つまりは、蓮野唯さんは、その「嫌な奴」「バカな奴」が大好きなのである。
  〔返〕 吾もまたバカな奴かも知れません。かも知れないではなくて本物   鳥羽省三


(イノユキエ) (十月堂)
○  一団を匈奴と名付けその後も勝者は変わりながらそう呼ぶ

 中国歴代の王朝は、北方の異民族を一様に「匈奴と名付け」、その平定に明け暮れたのである。
  〔返〕 我が国は本朝以外を二分して天竺および震旦とせり   鳥羽省三


(纏亭写楽)
○  蚊の奴に好かれる僕は人としてある種の義務を果たしてはいる

 つまりは、“血税”を納めている、と洒落たいのでありましょうか?
  〔返〕 女性らに好かれる僕は平等に女性を愛し日夜奮闘   鳥羽省三


(鳥羽省三)
○  奴凧蝉凧連凧武者絵凧シックなカイトも空翔けて行け

 ただこれだけの歌です。
 「粋な」とか「洒落た」として置けばいいところを、「シックな」としたのは横文字コンプレックスの表れかと思って少しは反省しています。
  〔返〕 雌凧に雄凧二つ絡みつき何とも艶な長崎ハタ揚げ   鳥羽省三 

一首を切り裂く(060:漫画・其のⅠ)

2010年12月20日 | 題詠blog短歌
(松木秀)
○  こう言ったとき抜け落ちるものあまた「一部の漫画は文学である」...

 例えば、水木しげる作品や矢口高雄作品、或いは、つげ義春作品など、「文学」の範囲から、絶対に抜け落ちない作品は知っているが、「抜け落ちるもの」を私は知らない。
  〔返〕 文学に勝る文学と言うべきかつげ義春作漫画『ねじ式』   鳥羽省三


(髭彦)
○  漫画家の殿堂あらばまづもつて鳥羽僧正と北斎入らむ

 ご先祖様として仰ぐ鳥羽僧正が、『北斎漫画』の葛飾北斎と共に「漫画家の殿堂」入りしたとしたら、赤飯を炊いてお祝いしたいと思います。
  〔返〕 僧正の『鳥獣戯画』に疑問在り『北斎漫画』に疑問無しとか?


(船坂圭之介)
○  藍ふかき空は四月の風ながら残生一途は漫画のごとし

 「過ぎし半生漫画の如し」と言うのが通常であろうが、本作の作者・船坂圭之介さんは、敢えて「残生一途は漫画のごとし」と言うことによって、病身にして歩まなければならない「残生」を戯画化しようとしているのでありましょうか?
 折りしも、「藍ふかき」「四月」の「空」には、「四月の風」が吹いているのである。
  〔返〕 吹流し靡くに未だ早き空四月の風を残生と流す   鳥羽省三


(古屋賢一)
○  人生を漫画化された偉人らに漫画みたいな人生はある

 例えば、彼のハンニバルが、自らも赤いベルトを締め、自分と同じような赤いベルトを締めた象たちを率いてアルプス越えをしようとしたとしたら、それは正しく「漫画みたいな人生」であったと言えましょう。
  〔返〕 ニュートンの万有引力発見も漫画以上に愉快な漫画   鳥羽省三


(あかり)
○  「漫画でも読まぬより良い」担任の言葉そこだけ忠実遵守

 「漫画でも読まぬより良い」とは、「漫画」も「読まぬ」ような活字離れをした教員が、無理矢理背伸びして、精一杯気取って口にするセリフである。
 したがって、彼らのその「言葉」を「忠実遵守」したあかりさんは、彼ら「担任」教師たちより活字離れをしていないのである。
  〔返〕 お歳暮に父兄が贈った図書券を現金化した教師も居たね   鳥羽省三


(ひじり純子)
○  あまりにも情けないから誤魔化して「漫画みたい」と言うほかにない

 ほんと、ほんとですってばー。
 「私って、『漫画みたい」」って、笑いで誤魔化すしかない場面も、人生の中には数数在るものですよ。
 本当なんですっから。
 時恰も、鳩山元首相が前言を翻して、次期衆院選に出馬することを宣言したばかりである。
  〔返〕 鳩山の首相辞任も漫画なら小沢の居直りこれ亦漫画   鳥羽省三


(理阿弥)
○  軒下に貸した漫画が濡れていて主なくした窓の昏れゆき

 仲良く家族ぐるみ付き合っていた一家が、不渡り手形などを出して、家ごと銀行に取られてしまって、何処かのアパートなどへ引っ越して行った後なんかは本当にやり切れません。
 仲良く付き合っていた当時に貸してやった「漫画」本などが、軒下に置かれたままになっていて、雨に「濡れて」いる場面に出会ったとしたならば、本当に泣きたくなってしまいますよ。
 折りしも、かつては、毎年“帝國ホテル”で大晦日から松の内を過ごしていて、飛ぶ鳥を落とすような勢いであった私の親類の機械工場経営者が、不渡り手形を連発してしまって、主幹銀行から自宅ごと工場などの全資産を取られてしまって行き場を失ってしまった、という悲惨な事件があったばかりである。
  〔返〕 裏庭に樹木七本残し置きふるさと捨てた吾ら二人か   鳥羽省三


(晴流奏)
○  今もまだ心の何処かで求めてる少年漫画の様な展開

 そう、人間と言うものは、土壇場になってからまで、「少年漫画」の友情物語のように事態が「展開」することを、「心」の中の「何処かで求めてる」ものですよ。
  〔返〕 家屋敷工場妻を取られてもまだまだ夢に見る友情か   鳥羽省三


(原田 町)
○  「ブロンディ」の漫画の中のサンドイッチその分厚さに戦勝国あり

 今年の原田町さんは、とても上手になりました。
 特に、本作のような“認識の歌”を詠ませたら、原田さんの右に出るような女性はなかなか居ないと思いますよ。
 ところで、原田町さんと評者とは、同じような年輩なんですね。
 私も、朝日新聞連載のチック・ヤング作の漫画『ブロンディ』で、「分厚い」「サンドイッチ」や“ステーキ”等を見て、生唾を流した世代の人間です。
  〔返〕 ブロンディの頭につけたポマードのテカテカ光り眩しい戦後   鳥羽省三
 と、此処まで書いて、早速公開に及んだところ、作者の原田町さんからコメントを頂戴した。
 そのコメントに曰く、「ブロンディ (原田 町)2010-12-21 10:35:18/鳥羽様/ありがとうございます。/ところで、ブロンディは奥さんで夫はダッグウッドではなかったでしょうか」と。
 そうでした。そうでした。
 つい、うっかり、女性と男性とを取り違えてしまいました。
 そこで、「原田町さんは、大変いいことを教えて下さいました。原田町さん、大変ありがとうございます。」と、私の尊敬申し上げている、故・庄野潤三氏の形態模写をしながら、一言お礼申し上げます。
〔訂正した返歌〕
     ダッグウッドの頭につけたポマードのテカテカ光り眩しき戦後   鳥羽省三
〔おまけの返歌〕
     舟さんの椿油の香りさえつんと来ちゃって昭和なつかし        々


(新田瑛))
○  捨てられた漫画雑誌の紙質のごとく劣化が止まらぬこころ
  
 雨に当たったりして、一旦「劣化」が始まってしまったりしたら、たちまち泥となってしまうのが、「漫画雑誌」などの「紙質」の悪い印刷媒体の特徴の一つである。  
  〔返〕 捨てられた漫画雑誌の五ページ目破れて風に散れる頃かな   鳥羽省三


(斉藤そよ)
○  断片化されてますますいとおしい ぱらぱら漫画のようなあのころ

 数多く在った「ぱらぱら漫画」物の代表作として選ばせていただきましたが、「ぱらぱら漫画」を詠んだように見せ掛けて「ぱらぱら漫画のようなあのころ」として、過ぎ去って「断片化されて」しまった過去の記憶を、「ますますいとおしい」としている点が好ましい。
  〔返〕 パラパラと漫画の如く過ぎて行く日々の記憶は止める術無し   鳥羽省三


(伊倉ほたる)
○  まるで春の日だまりのなかにいるようなウェブ漫画に花びらの散る

 「ような」か「ように」か?
 疑問の残る表現ではある。
 「ような」とした場合は、「ウェブ漫画」だけが「まるで春の日だまりのなかにいるような」という直喩の対象となるのであり、「ように」とした場合は、「ウェブ漫画に花びらの散る」という、印象鮮やかな風景全体が、「まるで春の日だまりのなかにいるような」という直喩の対象となるのである。
 果たして、其処まで考えての表現なのかな?
 どちらかと言うと、「ように」とした方が宜しいかと思われますよ。
 何故ならば、「ウェブ漫画」そのものが「まるで春の日だまりのなかにいるような」感じとは思われませんからね。
 そのいずれにしても、お題「漫画」の処置に困惑して、ドタバタと仕上げてしまったような印象の作品と思われる。
 でも、今の力量から判断させていただいて、先ず先ずの作品と言えましょうか?
  〔返〕 “街金”に追われて夜逃げするような主婦にも似たる詠み様である   鳥羽省三
 と、此処まで書いて、早速公開に及んだところ、作者・伊倉ほたるさんから、早速コメントを頂戴した。
 そのコメントに曰く、「Unknown (伊倉ほたる)/2010-12-21 12:21:04/『秒速5センチメートル』というアニメをご存知ですか?/あの画像はアニメを越えています。/処置の困惑のドタバタ、私っていつもそんな感じですねー。/反省します!!」と。
 反省は、昆虫のほたるだってしますよ。
 問題は、その反省の心を来年の題詠短歌にどう生かすか、ということでありましょう。
 益々のご精進を。
  〔返〕 草伝ふ蛍でさへも秒速の三ミリ程度は進むとは聞く   鳥羽省三


(今泉洋子)
○  妖怪に息吹きこまれ膨らみし水木しげるの漫画たましひ

 NHKの人気“朝ドラ”に逃げたなー。
 狡猾な女狐め。
  〔返〕 鍋島に化け猫が居て狐居て欠けた茶碗を古伊万里と言ふ   鳥羽省三
 と、此処まで記して早速公開に及んだところ、間髪を入れず、色鍋島の化け猫様からコメントを頂戴した、そのコメントに曰く 「化け猫 (今泉洋子)2010-12-20 21:47:15
/ばればれでした~。/☆化け猫の話思はせて三角の耳影動く師走真夜中/化け猫の悪戯にご注意くださいませ(^-^)」と。
 評者とて、化け猫は怖い。
 特に還暦を過ぎて劫を得た化け猫は非常に怖い。
 化けて出られたら、一体、どう始末しようかしら。
 「後悔(後悔)先に立たず」とは、このことでありましょうか?
  〔返〕 佐賀怖し女性のさがはなほ怖し化け猫恐し許してたもれ   鳥羽省三


(蓮野 唯)
○  大好きな漫画の話するたびに互いに思う「ヲタクで良かった」

 これ亦、かなり付け込まれる余地を残した詠み様の作品である。
 でも、「付け込まれる余地を残した詠み様の作品」即“駄作”とは申せません。
 何故ならば、付け込まれる振りをして、抱き込んでしまうような頭の良い熟女も居るからである。
 一般的に言って、鑑賞者の介在を許すように出来ている作品は佳作と言えましょうか。
 但し、本作は、必ずしもその範疇に入る作品とは限りませんよ。
  〔返〕 火事出した家の隣りの主婦に言う「お宅で無くてほんと良かった!!」   鳥羽省三


(海音莉羽)
○  叶わない恋だと知って泣いた夜 少女漫画の世界に逃げた

 彼女の見た「少女漫画」は、つい先刻、タマネギのみじん切りをしながら、キッチンでお母さんが見ていたのであるから、本作の作者・海音莉羽さんは、またまた泣いてしまったのである。
  〔返〕 玉葱をトントン叩いて泣いていた母の涙で濡れた漫画だ   鳥羽省三


(鳥羽省三)
○  往年の漫画トリオのリーダーの強制猥褻事件の結末

 「往年の漫画トリオのリーダーの強制猥褻事件の結末」とは言っていますが、「往年の漫画トリオのリーダー」の横山ノツクさんは、自らが犯した「強制猥褻事件の結末」を着けないままに、西暦2007年5月3日に、冥界へと旅立って行ってしまったのである。
 絶頂から転落へ。
 時事問題などをお笑いに取り入れて、一世風靡セピア色にした後、参議院議員、更には大阪府知事として「無党派旋風」を巻き起こした彼ではあったが、選挙期間中に、自らが起してしまった「強制猥褻事件」という不祥事の前には、ひとたまりも無かったのである。
 他の方々と同じように、使用法が限定されている、お題「漫画」の扱いについては、私も亦、困惑し果ててしまったのである。
 その結果、“死人に口無し”とばかりに犠牲者に選ばれてしまったのが、彼の横山ノック氏であったのである。
 人に示して誇るような作品ではありません。
  〔返〕 縁在りて多摩の横山その隅に住居構えてノック氏偲ぶ   鳥羽省三

一首を切り裂く(059:病・其のⅡ)

2010年12月20日 | 題詠blog短歌
(西中眞二郎)
○  ニュースすべて異次元として病室のベッドにわれはまどろみており

 病気療養中の心掛けとして「ニュースすべて異次元として病室のベッド」に居ることは、どんな治療や薬にも勝る療養法かと思われる。
 私も、前後三回に亘る入院中には、テレビも新聞も一切目にしなかったように記憶している。
 まして、元・通産官僚の西中眞二郎さんともなりますと、最近の政局を巡っての救いのないゴタゴタなどは、一切、目にも耳にもしたくないのでありましょう。
  〔返〕 汚職の報不況のニュースは何よりの官僚殺しと知るべし総理   鳥羽省三


(アンタレス)
○  老いなれば皆平等と甘受せり医療ミス悔ゆ廃用の病

 アンタレスさんにとっては、「ニュースすべて異次元として病室のベッドにわれはまどろみており」という、上記・西中眞二郎さん流の生き方が、何よりの健康法かと思われます。
 とは言うものの、アンタレスさんを、たちまち「廃用の病」のご境遇に落とし入れた「医療ミス」は、到底ご「甘受」なされるようなものではなかったかとは思われるます。
 だが、これを「老いなれば皆平等」とばかりにご「甘受」なさって居られる、アンタレスさんご自身の生活信条も亦、評者などは、到底、足元にも及ばない“達観”かと思われました。
 今後益々、ご療養ご専一になさって下さい。
  〔返〕 達観とほどほど遠い心境で今朝もはよから文を綴れる   鳥羽省三


(月下 桜)
○  病院の待合室の漫画には手が伸びぬまま三時間まつ

 言い難いことを、ずばりと言ってしまいましたね。
 でも、その気持ちは、私にもよく解ります。
  〔返〕 でも何故か読みたくなるとマスクはめ恐れ怖々読む時もある   鳥羽省三


(船坂圭之介)
○  夜空より春のかけらのごとく降る雨暖かしこころ病む身に

 「春のかけらのごとく降る雨」という言い方は、云い古るされた言い方と思われます。
 したがって、本作は、初心者の余人の作品としてならばともかく、セミプロ級の歌人の船坂圭之介さんの作品としては、決して傑作とは申し上げられません。
 人それぞれ、努力目標、要求水準が異なると思わなけれはならないのである。
 それとは別に、夜半に降る春雨は、「病む身」に非ずとも「暖かし」と言えましょう。
  〔返〕 坑内で炭の欠片の炭塵を吸い込み肺を病む人多き   鳥羽省三


(陸王)
○  はじめてのおつかいのときネギとヤギ間違えてからぼくは臆病

 かつて、某系列のテレビ局で、「はじめてのおつかい」という番組が放映されて人気を博したことがありましたが、あれなどは、いわゆる“遣らせ番組”の最たるものと言えましょう。
 陸王さんのこの作品も亦、多分に“遣らせ”臭いが、もしも“遣らせ”でないとしたら、「ネギとヤギ」を間違えるような馬鹿な子供を「おつかい」に遣らせた親も亦、子供以上に馬鹿だったと言えましょうか?
 いずれにしても、それが原因で、「ぼくは臆病」と言うのは、真に安易なこじ付けかと思われます。
  〔返〕 初めてのお使いがあの酒屋にて酔って管巻くととさの声に   鳥羽省三


(間宮彩音)
○  「本日は仮病のために休みます」そんな理由も許してほしい

 「仮病」は立派な“心の病い”であるから、会社や役所ならともかく、生徒にとっても教師にとっても、学校への欠席届や欠勤届の“理由欄”に、それと書くことが認められなければならないと判断されます。
 評者が経験した教師生活の三十五年間に於いても、“心の病い”を抱えた教師や生徒の何と多かったことよ。
 評者のような気弱な性格の者が、曲りなりにも教員勤めを全うすることが出来たのは、将に奇跡的とも思われるのである。
  〔返〕 ある時は子らに救われ勤め得た三十五年の教壇生活   鳥羽省三


(理阿弥)
○  神戸への長き無沙汰を気に病んでいれば焦げ付くマドレーヌの皮

 「神戸」という、異国の雰囲気を多分に漂わせた都市と、「マドレーヌ」という洋菓子との類似点から、本作の着想を得たのだとすれば、本作の作者・理阿弥さんも亦、鳥羽省三に勝るとも劣らない“田舎者”かと判断させる。
  〔返〕 神戸市は生まれ故郷でありまして阪神淡路大震災にも遭う   鳥羽省三


(野州)
○  二本立つヒマラヤ杉を目印に病院は坂の上にありたり

 本作の作者・野州さんは、『病院坂のヒマラヤ杉』というタイトルの怪奇小説を書くことを想定して、本作をお詠みになったものと判断される。
  〔返〕 あくる朝明智小五郎訪れて杉の周囲を隈無く探す   鳥羽省三


(青野ことり)
○  いつからか壁がずんずん迫り来て 病んでいるのはわたしでしょうか

 「病んでいるのは」間違いなく、青野ことりさんでありましょう。
 青い鳥に逃げられるか死なれるかして、青野ことりさんは、“ペットレス症候群”兼“閉所恐怖症”に罹患されたのでありましょう。
 これら二つの病気は、同一人物が同一箇所に於いて同一時期に罹患する傾向が強いと言われているのである。
  〔返〕 いつからか籠がどんどん狭まって青い小鳥が圧死したのだ   鳥羽省三


(原田 町)
○  外資系疾病保険セールスの電話のみにて暮れる梅雨入り
 
 ご年輩の方、それも特にご婦人のご年輩の方は、さまざまな理由で箪笥貯金をたんまりお持ちと、世間の人たちから、特に悪人たちからは思われておりますから、「外資系疾病保険セールス」からの「電話」のみならず、インチキな医療器械販売会社のセールスマン、“皇潤”のセールスレディー、更には“振り込め詐欺”などからの電話が、一日に何回となく掛かって来ますから要注意です。
 とにかく、電話の相手から「お金」の一語が発せられたら、“直ぐさまお近くの警察署へご通報下さい”とのことです。
 この記事を書いている最中に、今朝もどっさりと入っていた、朝日新聞の折込チラシの中から、妻が「気をつけて!」と大きく印刷されたチラシを抜き出して、私の方によこしました。
 大方は、印刷されていない裏面を利用してメモ用紙として使え、ということでありましょうが、生憎、裏面にも、「だましの手口」について、びっしりと書かれてあったので、メモ用紙としては使い物になりませんでした。
 でも、末尾に、「044-922-0101」と、多摩警察署の電話番号が書かれてありましたので、これだけは役にたつと思いました。
  〔返〕 下着売りサプリメントも要注意貴女のお金をみんなが狙う   鳥羽省三


(伊倉ほたる)
○  臆病な羊は目と目を合わせずに白線からも一歩下がって

 そう言えば、大相撲の土俵のど真ん中には二本の「白線」が描かれていて、十両陥落寸前の「臆病な羊」の如きお相撲さんは、その「白線」からずっとずっと下がった所で、しかも、相手のお相撲さんの「目」と自分の「目」が合わないようにして身構えていたりする。
 それはそれとして、「臆病な」と言えば「羊」と言うような、安易な発想で歌をお詠みになることはそろそろ止めにしたらいかがですか?
 この世には、「臆病な」“ほたる”は居ないかも知れませんが、臆病な狼や臆病な虎がゴマンと居るのですよ。
 しかも、その臆病な狼や虎たちは、平常は「臆病」を装ってはいるが、“いざ鎌倉”という場面では、その臆病さをかなぐり捨ててしまうこともあるのですよ。
 要注意です。
   〔返〕 歌詠みはひたすら弛まず歌を詠み生涯一首の佳作詠めばよし   鳥羽省三


(今泉洋子)
○  健康が取り柄のわれもいつか病む鵲の啼く秋の夕暮れ

 諦念と申しましょうか?
 「鵲の啼く秋の夕暮れ」ともなれば、あの外出好きの今泉洋子さんも亦、何かをお感じになられるところがおありなのと思いました。
 〔返〕 パラボラに巣架けしている鵲の哀しげに啼く佐賀の師走か   鳥羽省三
 佐賀のカササギは、その自由気儘なサガ故なのか、電柱であろうが、稲架であろうが、お寺の山門の屋根の上であろうが、パラボラアンテナの上であろうが、所構わず巣を架けるのである。
 佐賀の女性もそうなのかしら?
 

(蓮野 唯)
○  体力の有ると無いとにかかわらず恋の病は人を蝕む

 そう言えば、私が小学生だった頃に、肺結核の末期患者だと噂されながら、三人もの戦争未亡人を相手に不倫絵巻を展開していた男性が、私の縁辺に居りました。
 彼の名は鳥羽半志郎。
 私の二従兄に当たる、彼・鳥羽半志郎の半ば捨て身の儚い志を理解している者は、小学四年生の私以外には、誰一人として存在しませんでした。
 あの捨て身の情熱のすさまじかったことよ。
  〔返〕 血を吐いてその翌日は恋に痴れ鳥羽半志郎我が二従兄   鳥羽省三


(鳥羽省三)
○  鬱を病む夫を「つれ」と呼ぶ役の藤原紀香を僕は許さぬ

 捨て身の不倫の恋に情熱を燃やした鳥羽半志郎の二十歳年下の二従弟・鳥羽省三も亦、不倫の恋路を歩む者である。
 その架空の恋の相手たる女優の藤原紀香が、かつてあるテレビドラマに出演して、夫役の相手の男性を名前で呼ばずに、“連れ合い”を略して「つれ」と呼んでいたことを、作中の「僕は許さぬ」という訳である。
 相手の男性は、鬱病に罹っている気弱な男性として描かれていた。
 藤原紀香は、役柄とは言え、“夫侮辱罪”という罪名の犯罪者なのである。 
  〔返〕 鬱病まぬ吾とは言えど気弱なりどうか皆様お手柔らかに   鳥羽省三