「題詠短歌」に参加して三年目。
その前身をも含めて「一首を切り裂く」などの短歌に関わる記事をマイブログに掲載するようになってからも、三年余りの月日が経過したのである。
昨年までのことは忘れてしまいましたが、今年の収穫は、何と言っても春先から夏に掛けての体調絶不調の時期を克服して、一年を通して満遍無く記事を書き続けることが出来たことであり、特に、健康がやや快復した十月から十二月までの三ヶ月間を、一日も欠かす事無く記事を書くことが出来たことである。
今日は大晦日、勇躍勇んで「題詠2010」の「066:怒」を開いてみたら、意外や意外、鑑賞に値する作品が極端に少なかったのである。
とは言え、かく申す私とて、「怒張して迫れる彼の逸物に膝蹴り食はせし挙句の初夜で」という、在りもしない“下ネタ”作品で以って、事態を逃れたのであるから、あまり立派なことは申せませんが、でも、寂しいことは寂しいのである。
(西中眞二郎)
○ 怒るべきときを逃せしことあるを悔やむ日もあり古希過ぎてなお
前回のお題「067:匿名」の際に、本作の作者・西中眞二郎さんは、「世捨て人の我にも多少の立場ありて激しき批判は匿名で書く」という、未だに極めて意欲的な人生を歩まれている現実の西中眞二郎さんらしからぬ作品をご投稿なさったので、無類の臍曲りの評者は、「『世捨て人』とは、本来、世の中がどう動こうとも一切気にしないような人を指して言うのでありましょう。『多少』なりとも『立場』を気にし、しかも『激しき批判は匿名で書く』ような人は、本来的な意味での『世捨て人』ではなく、敢えて申すならば、“世捨て人風”な俗人でありましょう」などと、多分にからかい気味、かつ大変失礼な鑑賞文を記し、その挙句、「世捨て人紛いの彼にも立場あり犬のふぐりを見たりはしない」などという、これ亦、大変失礼であり、作者たる私と西中眞二郎さんご当人しか理解し得ないような返歌をお詠み申し上げたのでありますが、前回に続いて、今回も亦、官僚時代の西中眞二郎さんさんが味わいなさった苦汁の程を窺うに十分な作品をご投稿になられたのである。
「怒るべきときを逃せしこと」は、七十年余りの人生をお歩みになられたら、何方にだって、一度や二度はご経験なさって居られるでありましょうが、通産キャリア官僚としての西中眞二郎さんが、長いお役所生活の中でご体験なさったそれは、私如き者が経験したそれとは、質を異にしたものでありましょう。
そんな過去の事を、西中眞二郎さんは「古希過ぎてなお」「悔やむ日」もある、のである。
思うに、定年ご退官後の西中眞二郎さんが、場違いとも思われかねない短歌道にお勤しみになられ、自らを「世捨て人」とご任じなさる理由は、其処の辺りに在るのでないか、と、しきりに思う大晦日の早朝である。
〔返〕 この我がかかる文章記しゐるこの刻彼は何して居らむ 鳥羽省三
西中眞二郎様、佳いお年をお迎え下さい。
(アンタレス)
○ 堪え難き怒りを持ちつ耐え居れば諭すが如く春雷響く
生きていれば、キャリア官僚ならずとも、「堪え難き」時もあるし、「怒り」を感じる時もある。
そんなあんな堪え難さや怒りに「耐え」て居たら、そうした気持ちを「諭すが如く春雷響く」と仰っているのでありましょうが、アンタレスさん、しばらく、お怒りを鎮めて、私が赤心で申し上げることをお聞き下さい。
貴女ご自身は、この作品をなかなかの出来栄えとお思いになって居られるかも知れませんが、私が敢えて、失礼を省みずに申し上げれば、この作品は、必ずしも佳作でも傑作でも秀作でもありません。
この作品の何処が宜しくないのかと言うと、先ず、「堪え難き怒りを持ちつ耐え居れば」という上の句中の「つ」が宜しくありません。
貴女は、この作品を句切れ無しの作品のおつもりでお詠みになられ、「持ちつ」の「つ」に「つつ」乃至は「ながら」と同じ意味の役割りを果たさせるおつもりでお詠みになって居られるのでありましょう。
しかし、文語表現の「つ」は、あくまでも、完了の助動詞でありますから、「堪え難き怒りを持ちつ」という連文節の意味は、「堪え難い怒りを持ちながら」では無く、「堪え難い怒りを持った」或いは「堪え難い怒りを持っちゃった」ということになってしまい、この一首は“二句切れ”の作品となっているのであります。
そこで、その難点を解消する為には、「堪へ難き怒りに耐へて病み居れば」乃至は「堪へ難き怒りに耐へて臥し居れば」といったことになりましょうか。
で、それとあれとを続けて「堪へ難き怒りに耐へて臥し居れば諭すが如く春雷響く」とすれば、万事解決するかと言えば、それでもなお且つ宜しくなくて、本当に宜しくないのは、前述の文法問題ではなくて、本番はむしろ此方の方なのです。
本当に宜しくないことを指摘させていただく前に、先ず、屁理屈的に宜しくないことを申し上げましょう。
文法的な誤りはさて置いて、貴女はこの一首の前半部分で、「堪え難い怒りを感じながらも耐えていたら」と仰っている。
そして、それを受けての後半部分では、「(堪え難い怒りを感じながらも耐えていたら、それを)諭すようにして春雷が響く」と仰って居られる。
屁理屈をつけさせていただければ、それは矛盾ではありませんか?
堪え難い怒りを感じながらも一所懸命に耐えていらっしゃる健気な女性に対して、春雷はどのようにして諭すのですか?
「苦しかったら苦しいと言いなさい。怒りたかったら怒りなさい。決して耐えていてはいけませんよ」と諭すのですか、屁理屈ですけれども。
したがって、貴女がご投稿なさった「堪え難き怒りを持ちつ耐え居れば諭すが如く春雷響く」も、私が少しちょっかい出した「堪へ難き怒りに耐へて臥し居れば諭すが如く春雷響く」も、決して立派な作品とは言えないのです。
でも、それはあくまでも、低次元の問題であって、私がこの一首の問題点として、本当に指摘させていただきたいのは、「堪え難き怒りを持ちつ耐え居れば」と起して「諭すが如く春雷響く」と受ける、安物のフォークソング的、予定調和的発想なのであります。
「くよくよしていたら、お天道様から一喝された」、「悩んでいたら、お孫さんがにっこり笑って慰めてくれた」、人生には確かにそんなことも在りますが、そんな内容の歌は、万葉の昔からゴマンと在りますから、二十一世紀の歌人が今更あらためて詠んでも、何方も感動してくれません。
大変厳しい申し上げ方かも知れませんが。
〔返〕 春雷の響きに耳を塞ぎつつ病ひの床に如月を臥す 鳥羽省三
大変失礼致しました。
アンタレス様、佳いお年をお迎え下さい。
(今泉洋子)
○ こんな世は以ての外と忿怒像笑はぬままに秋深みゆく
これは亦、「以ての外」なる“予定調和”である。
古都の仏像たちは、平成の今日を、「こんな世」は「以ての外」と見通した上で「忿怒」の形相をしているのではありません。
天平白鳳の昔日から、一種の形式として、「忿怒」の形相を浮かべているのです。
そのことと「秋」が「深みゆく」こととは、何ら関わりがありません。
せっかくの“政権交代”に変な言い掛かりを付けないで下さい。
鳩山も菅も辛い立場を懸命に堪えているではありませんか?
〔返〕 水門の開門命じた菅総理佐賀県民は銅像建てろ 鳥羽省三
大変失礼なことを申し上げました。
今泉洋子様、佳いお年をお迎え下さい。
(髭彦)
○ やはやはと薄くなりたるわが髪の怒髪となりて天を衝かざる
硬派だからお鬚やお頭髪が「やはやはと薄く」ならない訳ではありません。
「怒髪天を衝く」とは、冷静さを失った状態を指して言うのでありますから、おつむが「薄く」なったことは、むしろ吉祥として喜んで下さい。
一年間、大変失礼致しました。
鬚彦様、佳いお年をお迎え下さい。
(庭鳥)
○ 読んだこと無いのですけどタイトルを覚えています「怒りの葡萄」
「タイトル」だけでは仕方がありませんよ。
是非、是非、お読み下さい。
庭鳥様、佳いお年をお迎えください。
(飯田和馬)
○ 込み上げる怒の水を吸い上げて夾竹桃は夕に燃えるよ
「夾竹桃」が「夕に燃える」光景に見惚れたことは御座います。
でも、その「夾竹桃」が「吸い上げ」る水が、どうして「込み上げる怒の水」なんでしょうか?
何と無く感じとしては解りますが、理屈としては解りません。
でも、此処は短歌の世界ですから、理屈として解る必要は無く、感じとして解れば宜しいのかも知れませんね。
飯田和馬様、佳いお年をお迎え下さい。
(牛 隆佑)
○ 妹が怒り狂って家中の安定磁場を壊して消えた
この一首に接して、我が家の「安定磁場」とは何か、という問題に突き当たりました。
その結果、得た答は、庭の草花の色と、妻の笑顔と、私たち二人の健康と、それに長男一家の幸福と、独身の次男の健脚と無事故と、それに何よりも「題詠短歌」にご投稿なさる皆様のご多幸であります。
〔返〕 題詠の最も安定した磁場としての牛氏の確たる存在 鳥羽省三
牛隆佑様、佳いお年をお迎え下さい。
(伊倉ほたる)
○ おとといの里芋に箸を突き立てて正しい怒り方の練習
俗に謂う“芋明月”の翌々日、即ち、旧暦の九月十五日にお詠みになった一首かと推測される。
でも、「怒り」には「正しい怒り方」も“正しくない怒り方”もありませんよ。
「怒り」はただ単に新たなる「怒り」を招くだけのことです。
と、言うのは、一応の屁理屈であって、格別な佳作とも思われない、本作の鑑賞に当たって、絶対に見逃してはならないのは、秋野菜の代表選手みたいに思われている「里芋」を目にしてから、それに「箸を突き立て」、「正しい怒り方の練習」をしようとするに至るまでの、尻取りゲームみたいな作者の心の一連の動きでありましょう。
その舞台は、格別“芋明月”で無くても宜しい。
とにかくも作者の目の前に、煮るとか蒸すとかした「里芋」が在ったのである。
お鉢に盛られた「里芋」は、一つ一つが丸く、全体としてはこんもりと盛り上がっている。
「里芋」のそうした様子を目にしていると、人間なら誰しも、その上にお「箸」を一膳「突き立て」たくなるのである。
お鉢に盛られた「里芋」を目にして、お「箸」の一膳も「突き立て」たくならないような人間が居たとしたら、それは短歌を語る資格が無い。
いや、人間として、この世に息をしている資格が無い、と言っても過言ではない。
それはそれとして、主役の「里芋」の方であるが、お「箸」を一膳、「突き立て」られる資格のある「里芋」は、柔らかくてかつ簡単に崩れない「里芋」でなけれはならない。
そこで作者は、その「里芋」を単なる「里芋」とせずに、「おとといの里芋」としたのである。
そこの辺りの独特かつ文学的な心の動きには、彼の有名な正岡子規の絶句「おとといの糸瓜の水も取らざりき」が加担しているかも知れないし、加担していないかも知れない。
ともかくも、ここに、「正しい怒り方の練習」台としての、お「箸」を一膳「突き立て」られた「里芋」が登場したのである。
お話がここまで進めば、後はすらすら。
その「おとといの里芋に箸を突き立てて」、彼女は、健気かつ仰々しくも「正しい怒り方の練習」を始めたのである。
“阿吽の呼吸”と申し上げましょうか?
この一首を詠み上げるに至るまでの、作者・伊倉ほたるさんの微妙な心理の動きを読み取り得たのは、短歌評者としての鳥羽省三の、今年一年の精進の賜物である。
伊倉ほたる様、今年はいろいろとありがとうございました。
どうぞ佳いお年をお迎え下さい。
〔返〕 里芋の煮っ転がしを串に刺し酢味噌まぶせば立派な一品 鳥羽省三
(bubbles-goto)
○ お怒りはごもっともですと受け止めてあとは権限のない役職
私は、生活費のほぼ全額を捻出する為に、一年に一回は年金関係の役所に電話連絡をしているが、その電話を受ける係員の応対振りは、いつも本作に詠まれているようなものなのである。
bubbles-goto 様、一年間大変お世話になりました。
何卒、佳いお年をお迎え下さい。
〔返〕 お怒りはごもっともですと言われたらその後口をつぐむ他ない 鳥羽省三
(蓮野 唯)
○ 怒りなど何の役にも立たないと知ってはいても責め立てていく
本年のしんがりは、何方よりも気心の知れた蓮野唯さんである。
「怒りなど何の役にも立たないと知って」いるのは大変結構なことであります。
だが、これで終わらないのが、蓮野唯さんの蓮野唯さんたる所以である。
「知ってはいても責め立てていく」とありますが、何方を、どのようにして「責め立てていく」のですか?
まさか、“蓮野流睾丸握り潰し”ではないでしょうね。
〔返〕 パパパン パパパン パパパパバン 新年おめでとうございます 鳥羽省三
蓮野唯様、今年は大晦日まで、大変失礼なことを申し上げました。
どうぞ、佳いお年をお迎え下さい。
その前身をも含めて「一首を切り裂く」などの短歌に関わる記事をマイブログに掲載するようになってからも、三年余りの月日が経過したのである。
昨年までのことは忘れてしまいましたが、今年の収穫は、何と言っても春先から夏に掛けての体調絶不調の時期を克服して、一年を通して満遍無く記事を書き続けることが出来たことであり、特に、健康がやや快復した十月から十二月までの三ヶ月間を、一日も欠かす事無く記事を書くことが出来たことである。
今日は大晦日、勇躍勇んで「題詠2010」の「066:怒」を開いてみたら、意外や意外、鑑賞に値する作品が極端に少なかったのである。
とは言え、かく申す私とて、「怒張して迫れる彼の逸物に膝蹴り食はせし挙句の初夜で」という、在りもしない“下ネタ”作品で以って、事態を逃れたのであるから、あまり立派なことは申せませんが、でも、寂しいことは寂しいのである。
(西中眞二郎)
○ 怒るべきときを逃せしことあるを悔やむ日もあり古希過ぎてなお
前回のお題「067:匿名」の際に、本作の作者・西中眞二郎さんは、「世捨て人の我にも多少の立場ありて激しき批判は匿名で書く」という、未だに極めて意欲的な人生を歩まれている現実の西中眞二郎さんらしからぬ作品をご投稿なさったので、無類の臍曲りの評者は、「『世捨て人』とは、本来、世の中がどう動こうとも一切気にしないような人を指して言うのでありましょう。『多少』なりとも『立場』を気にし、しかも『激しき批判は匿名で書く』ような人は、本来的な意味での『世捨て人』ではなく、敢えて申すならば、“世捨て人風”な俗人でありましょう」などと、多分にからかい気味、かつ大変失礼な鑑賞文を記し、その挙句、「世捨て人紛いの彼にも立場あり犬のふぐりを見たりはしない」などという、これ亦、大変失礼であり、作者たる私と西中眞二郎さんご当人しか理解し得ないような返歌をお詠み申し上げたのでありますが、前回に続いて、今回も亦、官僚時代の西中眞二郎さんさんが味わいなさった苦汁の程を窺うに十分な作品をご投稿になられたのである。
「怒るべきときを逃せしこと」は、七十年余りの人生をお歩みになられたら、何方にだって、一度や二度はご経験なさって居られるでありましょうが、通産キャリア官僚としての西中眞二郎さんが、長いお役所生活の中でご体験なさったそれは、私如き者が経験したそれとは、質を異にしたものでありましょう。
そんな過去の事を、西中眞二郎さんは「古希過ぎてなお」「悔やむ日」もある、のである。
思うに、定年ご退官後の西中眞二郎さんが、場違いとも思われかねない短歌道にお勤しみになられ、自らを「世捨て人」とご任じなさる理由は、其処の辺りに在るのでないか、と、しきりに思う大晦日の早朝である。
〔返〕 この我がかかる文章記しゐるこの刻彼は何して居らむ 鳥羽省三
西中眞二郎様、佳いお年をお迎え下さい。
(アンタレス)
○ 堪え難き怒りを持ちつ耐え居れば諭すが如く春雷響く
生きていれば、キャリア官僚ならずとも、「堪え難き」時もあるし、「怒り」を感じる時もある。
そんなあんな堪え難さや怒りに「耐え」て居たら、そうした気持ちを「諭すが如く春雷響く」と仰っているのでありましょうが、アンタレスさん、しばらく、お怒りを鎮めて、私が赤心で申し上げることをお聞き下さい。
貴女ご自身は、この作品をなかなかの出来栄えとお思いになって居られるかも知れませんが、私が敢えて、失礼を省みずに申し上げれば、この作品は、必ずしも佳作でも傑作でも秀作でもありません。
この作品の何処が宜しくないのかと言うと、先ず、「堪え難き怒りを持ちつ耐え居れば」という上の句中の「つ」が宜しくありません。
貴女は、この作品を句切れ無しの作品のおつもりでお詠みになられ、「持ちつ」の「つ」に「つつ」乃至は「ながら」と同じ意味の役割りを果たさせるおつもりでお詠みになって居られるのでありましょう。
しかし、文語表現の「つ」は、あくまでも、完了の助動詞でありますから、「堪え難き怒りを持ちつ」という連文節の意味は、「堪え難い怒りを持ちながら」では無く、「堪え難い怒りを持った」或いは「堪え難い怒りを持っちゃった」ということになってしまい、この一首は“二句切れ”の作品となっているのであります。
そこで、その難点を解消する為には、「堪へ難き怒りに耐へて病み居れば」乃至は「堪へ難き怒りに耐へて臥し居れば」といったことになりましょうか。
で、それとあれとを続けて「堪へ難き怒りに耐へて臥し居れば諭すが如く春雷響く」とすれば、万事解決するかと言えば、それでもなお且つ宜しくなくて、本当に宜しくないのは、前述の文法問題ではなくて、本番はむしろ此方の方なのです。
本当に宜しくないことを指摘させていただく前に、先ず、屁理屈的に宜しくないことを申し上げましょう。
文法的な誤りはさて置いて、貴女はこの一首の前半部分で、「堪え難い怒りを感じながらも耐えていたら」と仰っている。
そして、それを受けての後半部分では、「(堪え難い怒りを感じながらも耐えていたら、それを)諭すようにして春雷が響く」と仰って居られる。
屁理屈をつけさせていただければ、それは矛盾ではありませんか?
堪え難い怒りを感じながらも一所懸命に耐えていらっしゃる健気な女性に対して、春雷はどのようにして諭すのですか?
「苦しかったら苦しいと言いなさい。怒りたかったら怒りなさい。決して耐えていてはいけませんよ」と諭すのですか、屁理屈ですけれども。
したがって、貴女がご投稿なさった「堪え難き怒りを持ちつ耐え居れば諭すが如く春雷響く」も、私が少しちょっかい出した「堪へ難き怒りに耐へて臥し居れば諭すが如く春雷響く」も、決して立派な作品とは言えないのです。
でも、それはあくまでも、低次元の問題であって、私がこの一首の問題点として、本当に指摘させていただきたいのは、「堪え難き怒りを持ちつ耐え居れば」と起して「諭すが如く春雷響く」と受ける、安物のフォークソング的、予定調和的発想なのであります。
「くよくよしていたら、お天道様から一喝された」、「悩んでいたら、お孫さんがにっこり笑って慰めてくれた」、人生には確かにそんなことも在りますが、そんな内容の歌は、万葉の昔からゴマンと在りますから、二十一世紀の歌人が今更あらためて詠んでも、何方も感動してくれません。
大変厳しい申し上げ方かも知れませんが。
〔返〕 春雷の響きに耳を塞ぎつつ病ひの床に如月を臥す 鳥羽省三
大変失礼致しました。
アンタレス様、佳いお年をお迎え下さい。
(今泉洋子)
○ こんな世は以ての外と忿怒像笑はぬままに秋深みゆく
これは亦、「以ての外」なる“予定調和”である。
古都の仏像たちは、平成の今日を、「こんな世」は「以ての外」と見通した上で「忿怒」の形相をしているのではありません。
天平白鳳の昔日から、一種の形式として、「忿怒」の形相を浮かべているのです。
そのことと「秋」が「深みゆく」こととは、何ら関わりがありません。
せっかくの“政権交代”に変な言い掛かりを付けないで下さい。
鳩山も菅も辛い立場を懸命に堪えているではありませんか?
〔返〕 水門の開門命じた菅総理佐賀県民は銅像建てろ 鳥羽省三
大変失礼なことを申し上げました。
今泉洋子様、佳いお年をお迎え下さい。
(髭彦)
○ やはやはと薄くなりたるわが髪の怒髪となりて天を衝かざる
硬派だからお鬚やお頭髪が「やはやはと薄く」ならない訳ではありません。
「怒髪天を衝く」とは、冷静さを失った状態を指して言うのでありますから、おつむが「薄く」なったことは、むしろ吉祥として喜んで下さい。
一年間、大変失礼致しました。
鬚彦様、佳いお年をお迎え下さい。
(庭鳥)
○ 読んだこと無いのですけどタイトルを覚えています「怒りの葡萄」
「タイトル」だけでは仕方がありませんよ。
是非、是非、お読み下さい。
庭鳥様、佳いお年をお迎えください。
(飯田和馬)
○ 込み上げる怒の水を吸い上げて夾竹桃は夕に燃えるよ
「夾竹桃」が「夕に燃える」光景に見惚れたことは御座います。
でも、その「夾竹桃」が「吸い上げ」る水が、どうして「込み上げる怒の水」なんでしょうか?
何と無く感じとしては解りますが、理屈としては解りません。
でも、此処は短歌の世界ですから、理屈として解る必要は無く、感じとして解れば宜しいのかも知れませんね。
飯田和馬様、佳いお年をお迎え下さい。
(牛 隆佑)
○ 妹が怒り狂って家中の安定磁場を壊して消えた
この一首に接して、我が家の「安定磁場」とは何か、という問題に突き当たりました。
その結果、得た答は、庭の草花の色と、妻の笑顔と、私たち二人の健康と、それに長男一家の幸福と、独身の次男の健脚と無事故と、それに何よりも「題詠短歌」にご投稿なさる皆様のご多幸であります。
〔返〕 題詠の最も安定した磁場としての牛氏の確たる存在 鳥羽省三
牛隆佑様、佳いお年をお迎え下さい。
(伊倉ほたる)
○ おとといの里芋に箸を突き立てて正しい怒り方の練習
俗に謂う“芋明月”の翌々日、即ち、旧暦の九月十五日にお詠みになった一首かと推測される。
でも、「怒り」には「正しい怒り方」も“正しくない怒り方”もありませんよ。
「怒り」はただ単に新たなる「怒り」を招くだけのことです。
と、言うのは、一応の屁理屈であって、格別な佳作とも思われない、本作の鑑賞に当たって、絶対に見逃してはならないのは、秋野菜の代表選手みたいに思われている「里芋」を目にしてから、それに「箸を突き立て」、「正しい怒り方の練習」をしようとするに至るまでの、尻取りゲームみたいな作者の心の一連の動きでありましょう。
その舞台は、格別“芋明月”で無くても宜しい。
とにかくも作者の目の前に、煮るとか蒸すとかした「里芋」が在ったのである。
お鉢に盛られた「里芋」は、一つ一つが丸く、全体としてはこんもりと盛り上がっている。
「里芋」のそうした様子を目にしていると、人間なら誰しも、その上にお「箸」を一膳「突き立て」たくなるのである。
お鉢に盛られた「里芋」を目にして、お「箸」の一膳も「突き立て」たくならないような人間が居たとしたら、それは短歌を語る資格が無い。
いや、人間として、この世に息をしている資格が無い、と言っても過言ではない。
それはそれとして、主役の「里芋」の方であるが、お「箸」を一膳、「突き立て」られる資格のある「里芋」は、柔らかくてかつ簡単に崩れない「里芋」でなけれはならない。
そこで作者は、その「里芋」を単なる「里芋」とせずに、「おとといの里芋」としたのである。
そこの辺りの独特かつ文学的な心の動きには、彼の有名な正岡子規の絶句「おとといの糸瓜の水も取らざりき」が加担しているかも知れないし、加担していないかも知れない。
ともかくも、ここに、「正しい怒り方の練習」台としての、お「箸」を一膳「突き立て」られた「里芋」が登場したのである。
お話がここまで進めば、後はすらすら。
その「おとといの里芋に箸を突き立てて」、彼女は、健気かつ仰々しくも「正しい怒り方の練習」を始めたのである。
“阿吽の呼吸”と申し上げましょうか?
この一首を詠み上げるに至るまでの、作者・伊倉ほたるさんの微妙な心理の動きを読み取り得たのは、短歌評者としての鳥羽省三の、今年一年の精進の賜物である。
伊倉ほたる様、今年はいろいろとありがとうございました。
どうぞ佳いお年をお迎え下さい。
〔返〕 里芋の煮っ転がしを串に刺し酢味噌まぶせば立派な一品 鳥羽省三
(bubbles-goto)
○ お怒りはごもっともですと受け止めてあとは権限のない役職
私は、生活費のほぼ全額を捻出する為に、一年に一回は年金関係の役所に電話連絡をしているが、その電話を受ける係員の応対振りは、いつも本作に詠まれているようなものなのである。
bubbles-goto 様、一年間大変お世話になりました。
何卒、佳いお年をお迎え下さい。
〔返〕 お怒りはごもっともですと言われたらその後口をつぐむ他ない 鳥羽省三
(蓮野 唯)
○ 怒りなど何の役にも立たないと知ってはいても責め立てていく
本年のしんがりは、何方よりも気心の知れた蓮野唯さんである。
「怒りなど何の役にも立たないと知って」いるのは大変結構なことであります。
だが、これで終わらないのが、蓮野唯さんの蓮野唯さんたる所以である。
「知ってはいても責め立てていく」とありますが、何方を、どのようにして「責め立てていく」のですか?
まさか、“蓮野流睾丸握り潰し”ではないでしょうね。
〔返〕 パパパン パパパン パパパパバン 新年おめでとうございます 鳥羽省三
蓮野唯様、今年は大晦日まで、大変失礼なことを申し上げました。
どうぞ、佳いお年をお迎え下さい。