臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の朝日歌壇から(5月23日掲載・其のⅢ・訂正版)

2011年05月31日 | 今週の朝日歌壇から
[永田和宏選]


○  並びたる三七八番土葬墓は学校の跡地雪やわらかし  (石巻市) 須藤徹郎

 「並びたる三七八番土葬墓は学校の跡地」と言う上句は、悲しくて切なくて抱えきれない程の重さの表現である。
 したがって、それに続く「雪やわらかし」という下句が、救済したような、逃げたような表現になっているのも、止むを得ないと申せましょうか?
 〔返〕  降る雪は募る悲しみ凍らせて学校跡地の土葬墓暗し   鳥羽省三


○  崩れ落ちし土蔵の壁に足場組み片隅よりの復旧始む  (福島県) 佐藤照子

 町裏の「片隅」の職人たちの元気な掛け声から、被災地・福島の「復旧」は始ったのである。
 この際、“復興”などという綺麗事は言って居られません。
 先ずは、「崩れ落ちし土蔵の壁」を元通りにする為に「足場」を組むことから始めなければなりません。
 〔返〕  一先ずは崩れた壁を補って膳・椀・仏具を守りましょうか   鳥羽省三  

○  みちのくは我慢強くて辛いのに辛いと言わぬ気質がかなし  (岩沼市) 山田洋子

 中村草田男に「みちのくの蚯蚓短し山坂勝ち」という句がある。
 「みちのく」とあらば、人間も蚯蚓も「我慢強くて辛いのに辛いと言わぬ」方が宜しいと忍従を押し付けられ、その忍従に甘え、酔い痴れて来たのである。
 本作も亦、そうした「みちのく」人の“忍従”への独り決め的な覚悟とそれとは裏腹な“甘え”が色濃く反映された作品である。
 〔返〕  みちのくは我慢強くて辛いのに辛いと言えぬと独り決めして   鳥羽省三


○  節電の野菜売場にアスパラの曲がった穂先濃い影つくる  (横浜市) 大須賀理佳

 「節電の野菜売場」とあらば、また、「アスパラの曲がった穂先」とあらば、「濃い影」を「つくる」のは当然のことでありましょうか?
 この頃、やっと気がついたことでありますが、スーパーやデパートの売り場の明るさは、元々、あの「節電」状態をした、あの位の明るさにして置くべきであったということ、亦、「アスパラ」は「曲がった穂先」の品で宜しいということである。
 明る過ぎる照明で、四方八方から照らされて、どちらから見ても、「濃い影」は勿論、“薄い影”すら作らない直立不動の「アスパラ」を、我が国の農家の人々は、元々作るべきではなかったのである。

 〔返〕  節電の化粧品売り場の売り子らの目蓋の隈のいよよ濃く見ゆ   鳥羽省三
 お蔭様で、こんな嬉しい副作用もありました。


○  黄水仙瓦礫の中に咲きたるを皇后さまに差しあげし人  (池田市) 祖一順子

 あの一事で以って、美智子皇后陛下に対する私たち国民の信頼感が益々大きくなりました。
 私たち下々の言葉で申せば、息子の嫁も少しぐらいは見習って欲しいものである。
 〔返〕 被災者の捧げた水仙手に受けて少し傾げた優雅な帽子   鳥羽省三


○  初めての恐らく二度と来ぬ町の美しき花うつくしき人  (神奈川県) 中島さやか

 そして、作者ご自身の「美」を感じることの出来る、きめ細かくて美しい心よ。
 〔返〕  美しき心で以て感ずべし旅先の花と人の美しさ   鳥羽省三


○  教卓のふたつの角に手をついて前のめりなる四月の教師  (綾瀬市) 高松紗都子

 「四月」からこんな様子では、先々が思い遣られる「教師」、と申すべきでありましょうか?
 それとも、礼儀正しく前向きに身を乗り出して教えている教育熱心な「教師」、と申すべきでありましょうか?
 〔返〕  教卓の下に隠れて女教師の下着を捲る生徒も居たり   鳥羽省三


○  唇が酸素マスクで覆われたまま「遠いとこごめん」と動く  (和泉市) 星田美紀

 入院されて居られる方が、見舞い客に「遠いとこごめん」と、お礼の言葉を述べたのでは無く、「酸素マスクで覆われたまま」の「唇」が、「遠いとこごめん」と言うが如くに動いたのである。
 〔返〕  マスクして我が唇もまた動く「お元気な様子で何よりでした」と   鳥羽省三


○  こんなにもしまらぬ顔になっちゃってカダフィ大佐の声なき映像  (山形市) 渋間悦子

 負け戦になると、何方の「顔」もしまらなくなり、「声」も出せなくなるのでありましょうか?
 きっと「あの『カダフィ大佐』がねぇー?」という感じだったのでありましょう。
 〔返〕  いつもの如くしまらない顔曝け出し倒閣語る谷垣渋柿   鳥羽省三
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今週の朝日歌壇から(5月23日掲載・其のⅡ・三訂版)

2011年05月30日 | 今週の朝日歌壇から
[高野公彦選]


○  新緑は曇硝子を青くせり西方浄土の木なる栗の木  (東京都) 豊 英二

 「西方浄土の木なる栗の木」という下句について述べましょう。
 松尾芭蕉の紀行文『奥の細道』の“須賀川”の項に、「須賀川の駅に等窮といふものを訪ねて四五日とどめらる。先づ白河の関いかに越えつるやと問ふ。長途の苦しみ身心つかれ、かつは風景に魂うばはれ、懐旧に腸を断ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。≪風流のはじめやおくの田植うた≫無下に越えんもさすがにと語れば、脇第三とつづけて三巻となしぬ。此の宿の傍らに、大きなる栗の木蔭をたのみて世をいとふ僧あり。橡ひろふ太山もかくやとそぞろに覚えられて、物にかきつけ侍る。その詞、栗といふ文字は、西の木とかきて西方浄土に便ありと、行基菩薩の一生杖にも柱にも此の木を用ひ給ふとかや。≪世の人の見つけぬ花や軒の栗≫」とある。
 本作中の「西方浄土の木なる栗の木」という下句は、前掲の『奥の細道』の中の「栗といふ文字は、西の木とかきて西方浄土に便りあり」という記述を典拠としたものと思われ、「新緑は曇硝子を青くせり」という上句も亦、「世の人の見つけぬ花や軒の栗」という芭蕉の発句と趣きの通うところがある。
 「新緑」の頃になると、それまでは淡淡としていた「栗の木」の葉の緑が急に濃さを増し、室内と庭とを隔てる「曇硝子」に被さるようにして旺盛に成長し、「曇硝子を青く」感じさせるようにもなるのである。
 本作の作者・豊英二さんは、その「青く」なった「曇硝子」を目にするにつけても、元禄の昔の松尾芭蕉の風流を求めての旅や、「栗の木」を杖にしての行基菩薩の「西方浄土」を求めての苦難の行脚の日々のことを思ったのでありましょう。
 〔返〕  梅雨ぞらに気疎く咲ける栗のはな西方浄土の便り空しき   鳥羽省三
   

○  移住者の募金・チャリティの続きおり羅府新報の隅々にまで  (アメリカ) 西岡徳江

 作中の「羅府新報」とは、米国カリフォルニア州ロサンゼルス市に本拠を置く日本語新聞である。
 察するに、彼の地の、日本からの「移住者」たちの間にも、東日本大震災に見舞われた祖国を救う為の「募金」活動や「チャリテイ」バザーなどが盛んに開かれ、今に至るまで続いていて、その詳細が「羅府新報の隅々にまで」掲載され、報道されているのでありましょう。
 彼の地への「移住者」たちの中には、“石をもて追わるる如く故郷を出でし悲しみ”を抱いた方々も居られましょう。
 そうした方々からの心の込もった贈り物が今では貰い手もが無く、被災地のある県では、「倉庫賃借料、毎月一千万円余りに悲鳴を上げている」との報道が、昨日の朝日新聞の朝刊で為されていた。
 〔返〕  旧かなで詠んだ短歌も載っていて風情解する羅府新報か   鳥羽省三  

○  ふるさとは無音無人の町になり地の果てのごと遠くなりたり  (福島県) 半杭螢子

 かくの如き状態になるにつけても、かつての福島県民の一部の者が、原発誘致派の辣腕政治家を県知事や国会議員に担ぎ上げ、利権漁りに狂奔し、原発誘致反対運動の足を引っ張ったことが悔しく思われてなりません。
 昨日の朝日新聞朝刊の報道に拠ると、民主党政府は、農作物や漁獲品の販売不可能になった分の損害に対する賠償は勿論のこと、その風評被害に拠る損害まで賠償する方針を固めたと言う。
 その膨大な賠償経費は、東電の社長などの役員・社員や原発誘致に狂奔した人々だけが負担するのでありましょうか?
 〔返〕  「フクシマ」は後は野となれ山となれ原発誘致の遺恨骨髄   鳥羽省三


○  まばらなる閖上の松にかかりたる二十日月ゆく浄土の上を  (多賀城市) 須田富士子

 その昔、「閖上」海岸の人々は、「閖上のあんどん松」と呼ばれた巨大な黒松に毎晩“あんどん”を吊るして、海上交通の道標となる灯台代わりにしたのだと言う。
 今は、その「閖上の松」に、“あんどん”代わりに「二十日月」がかかっているのである。 
 宮城県名取市の、松で知られた名勝の地「閖上」海岸の「松」が「まばら」になったのは、その大部分が津波に攫われたからでありましょう。
 その「まばらなる閖上の松にかかりたる二十日月」が「浄土の上を」「ゆく」とありますが、私は本作に接した当初、作中の「浄土」とは、三陸海岸のもう一つの名勝の地「浄土ヶ浜」を指しているものと思いましたが、「浄土ヶ浜」は、同じ三陸でも岩手県宮古市に在るので、私のそうした推測は間違って居りました。
 思うに、本作の作者・須田富士子さんは、大勢の人々が津波に呑まれてお亡くなりになった「閖上」海岸を、死者たちが旅立って行かれた彼の岸、即ち極楽「浄土」にお見立てになられ、本作をお詠みになったのでありましょう。
 行き所を失った死者たちの魂が、未だに、いや、永遠に彷徨っているに違いない海岸を、極楽「浄土」に見立てたのは、極めて悲しく切なく哀れな“見立て”と思われます。
 「まばらなる閖上の松にかかり」、「浄土の上を」を行く月が、すこし欠けた「二十日月」であることが泣かせましょう。
 「まばらなる閖上の松にかかりたる」と言い、「二十日月ゆく浄土の上を」とも言う本作は、材料だけが取り得の凡百の東日本大震災関係の作品とは、一味も二味も違った佳作と思われます。
 〔返〕  そのかみの灯台代はりの閖上のあんどん松にかかる二十日月   鳥羽省三


○  災害に生きて残りし年寄の重き言葉よ「つなみてんでんこ」  (宇都宮市) 河西弘正

 「つなみてんでんこ」という言葉は、「津波が寄せるのは一回こっきりでは無くて、次々に寄せて来るから注意しなければならない」という意味でありましょうか?
 それはともかくとして、「災害に生きて残りし年寄」という表現は、しつこいと言うか、持って回ったと言うか、あまり要領の良くない表現と思われます。
 〔返〕  震災に幾たび遭ひし翁かも重き言葉よ「つなみてんでんこ」   鳥羽省三 

 「つなみてんでんこ」という、おそらくは三陸地方の方言と思われる言葉の意味について、私は当て推量で、「『つなみてんでんこ』という言葉は、『津波が寄せるのは一回こっきりでは無くて、次々に寄せて来るから注意しなければならない』という意味でありましょうか?」と書いたのであった。
 ところが、私がテレビドラマの『相棒』の再放送を見ている間に、私に隠れてこっそりと「臆病なビーズ刺繍」の当該記事を見ていた妻から、「『つなみてんでんこ』という言葉の意味は、『津波が押し寄せて来たら、親も子も、夫も妻も、兄弟姉妹も、嫁も姑も、親戚も隣近所も、従兄弟ハトコも一切関係無く、それぞれ“てんでんばらばら”に、気がついた者から先に逃げなければならない』ということである」という指摘があった。
 妻は重ねて、「あなたは生まれつきの東京衆みたいだから知らないのかも知れませんが、私たち東北生まれの者には、“てんでんばらばらに行動”するという意味の『てんでんこ』という言葉が在って、例えば、『我が家の夕飯は、それぞれ帰宅する時間がまちまちだから“てんでんこ”だ』と言ったりするのである」とも、私に言う。
 妻の言葉の中の「あなたは生まれつきの東京衆みたいだから」云々は、無学な私に対しての“皮肉”もいいところでありましょうが、この度の妻の指摘には全く“一言も無し”という心境なので、此処に、こうして恥を忍んで、敢えて<追伸>という形で、訂正記事を書かせていただきました。
 とすると、河西弘正さんの作品中の「重き言葉よ『つなみてんでんこ』」という表現の意味は、益々重みを増して来るかとも思われるのである。
 更に言えば、私が先に記した、「『災害に生きて残りし年寄』という表現は、しつこいと言うか、持って回ったと言うか、あまり要領の良くない表現と思われます」についても、訂正をしなければならないかも知れません。
 何故ならば、「つなみてんでんこ」などという、非情とも思われる程にも重い言葉を子孫たちに言い残せる者は、単なる「年寄」では無くて、度々の「災害」に死にもしないで「生き」て「残りし」「年寄」でなければならないからである。

 
○  岡山の給水車より水もらう二時間並び二リットルだけ  (仙台市) 大西日出子

 はるばると岡山県から駆け付けた「給水車」の係員の方のご苦労を斟酌すると、「二時間並び二リットルだけ」だけは余計でありましょう。
 大変無情なことを申し上げるようですが、あれだけの大災害に遭いながら、岡山県の人々の善意に拠って、飲料水の配給を受けられることだけでも、本作の作者は、望外の幸せと思わなければなりません。
 本作とは直接関係ないとは思いますが、仮設住宅には、最新式の電化製品や風呂や給水設備まで整っていて羨ましいくらいです。
 〔返〕  望外の幸せならむ岡山の給水車の水なみなみと注ぐ   鳥羽省三


○  買手なき小女子身を打ち身を反らす漁港に直射日光受けて  (埼玉県) 小林淳子

 小魚の名称とは知って居りますが、「買手なき小女子」が「身を打ち身を反らす」という表現について、何と無く“何気あり気な表現”と思ってしまいました。
 しかも、下句には「漁港に直射日光受けて」とあるので、想像力の逞しい評者は、その昔、運命に弄ばれて、遠くジャカルタや安南の地にまで彷徨って行った“からゆきさん”と呼ばれる女性たちの悲しい宿命までも思い遣ったのである。

 〔返〕  かく読めば言われましょうか“深読み”と「小女子」が悪い漢字の罪だ   鳥羽省三
 私の連れ合いの鳥羽翔子は、「カルシュームをたっぷり含んでいるから」と言った理由で、「小女子」などの小魚を買うことが多いのですが、その大好きな「小女子」を目にする度に、「『小女子』とは名前が宜しくない。身長の低い女性を差別し、馬鹿にしているような名前だ」などと呟いて居ります。
 と言っても、翔子自身は格別に身長が低い女性では無く、還暦を過ぎて少しは縮まった今でも、優に165センチメートルはある大きな女性である。 


○  自粛してどこにも行かぬ連休に倒産したる旅館のニュース  (島田市) 小田部雄次

 評者も亦、「自粛」のし通しで、「連休」の間は旅行は勿論のこと、買い物にすら出掛けないで、自粛ならぬ緊縮の生活をして居りました。
 しかし、そんな評者の耳に入って来る「ニュース」と言えば、「姉の連れ合いの葬式に、東京から誰それが駆け付けて来て感激した」とか、「従弟のよっちゃんが、東北応援ツアーの参加者集めに狂奔している」といったような無粋なものばかりで、「倒産したる旅館のニュース」といったような、短歌の題材となるような「ニュース」は入って来ませんでした。
 詰まる所は、本作の作者・小田部雄次さんは、「自粛」生活を強いられたお陰で、“短歌ネタ”に恵まれたのでありましょう。
 〔返〕  「よっちゃんが参加費出すから松島に私は行かぬ」と言ってる翔子   鳥羽省三


○  木漏れ日は癒しのひかり 月光は恋する心育むひかり  (大和市) 栗林智子

 「木漏れ日は癒しのひかり」であり、また「月光は恋する心」を「育むひかり」である、という、本作の作者・栗林智子さんのご認識には少しの間違いもありません。
 と言うことは、本作は、いわゆる“気付きの歌”、即ち“認識の歌”と申せましょう。
 しかしながら、「木漏れ日は癒しのひかり」であり、「月光は恋する心」を「育むひかり」である、といった認識は、古来から我が国の風流人の心に兆した認識であり、本作で作者の栗林智子さんが、本作を通じてお示しになられたご認識は、格別に新味のある認識でもありません。
 彼の『小倉百人一首』中の大江千里の作「月見ればちぢにものこそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど」の存在が、その証しの一つでありましょうか?
 〔返〕  月見れば地図の三陸思はるれ閖上の月浄土ヶ浜の月   鳥羽省三


○  ゴーヤ植えて緑のカーテン作ろうよゴーヤチャンプルと一石二鳥  (横浜市) 高橋理沙子

 この非常時に際して、これは又、極めて御気楽な女性であり、御気楽な御作である。
 私たちも亦、今年の三月の初め頃までは、本作の作者・高橋理沙子さんと全く同じようなことを考えていたのですが、自粛という訳でもありませんが、止めてしまいました。
 その主な理由は、田舎暮らしをしていた頃、私たちは、毎年、畑に「ゴーヤ」を二株ほど「植えて」いたのですが、自分たちも食べ飽き、かと言って「ゴーヤ」を喜んで貰ってくれるような知人も無かったからである。
 〔返〕  小女子をゴーヤと和えても美味しいよ苦味が旨み栄養満点   鳥羽省三
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今週の朝日歌壇から(5月23日掲載・其のⅠ・訂正版)

2011年05月29日 | 今週の朝日歌壇から
[佐佐木幸綱選]


○  馬鈴薯の種芋に土被せつつ日常失う悔しさを思う  (山形市) 渋間悦子

 「首席の作品が地震ネタでないのは何日振りか?」などと思って読んでいたら、下句に「日常失う悔しさを思う」とあったので、一瞬がっかりしました。
 それはそれとして、「日常失う」という言い方は、そのままで宜しいという思いと、そのままでは宜しくないという思いとが交々としていて、かなり微妙な言い方である。
 本作の作者・渋間悦子さんにとっては、春野菜の季節が終わった畑を耕して、肥料を遣り、「馬鈴薯の種芋」を植えたり、「土」を被せたりするのは、「日常」生活そのものであったのでありましょう。
 そんな折に、そうした「日常」そのものの暮らしが、東日本大震災の被災地の方々の暮らしからは、無情にも奪われていることに気がつき、ふと遣る瀬無い思いに捉われたとしても、それは極めて自然なことでありましょう。
 〔返〕  種芋に土を被せる幸もあり我が日常に過不足は無し   鳥羽省三


○  原燃の事故ある時は逃げ場所の無き下北の地図を見つめぬ  (むつ市) 高橋やす子

 “原発”と言わずに「原燃」といったのは、どんな理由が在ってのことでありましょうか?
 「原燃」と“原発”の間には、どんな違いが在るのでありましょうか?
 また、詠い出しの「原燃の事故ある時は」という連用修飾節を受けるのは「見つめぬ」でありましょうか?
 それとも「無き」でありましょうか?
 修飾語と被修飾語との関係の区別がつかないような微妙な言い方をすることに拠って、作品に膨らみが生じたり、魅力が増したりすることもあるのですが、本作の場合は、必ずしもそうとばかりは言えません。
 〔返〕  恐山の畏れも知らにいざなひし原発ならむ今更なにを     鳥羽省三      「原発が!」といふ事態の起きぬれば逃ぐるもならぬ下北半島   々


○  喘ぎつつ坂登り来て避難所の廊下に見つけし母の後ろ姿  (久慈市) 三船武子

 「見つけし」の「し」の使用に疑義あり。
 作者は過去の思い出を回想して詠んでいるのでありましょうか?
 この場面では、たった今、完了したばかりの出来事として詠んでこそ、感激があるのではないでしょうか?
 また、五句目の大幅な字余りは単なる手抜きとしか思われません。
 〔返〕  咽びつつ坂上二郎が歌ってた「学校の先生」はセリフ入りです   鳥羽省三
      大伴坂上郎女は大伴旅人の異母妹なり               々

  
○  わが町の空飛ぶヘリの二機三機遺体運ぶなり山の火葬場へ  (本宮市) 廣川秋男

 「遺体運ぶなり」という四句目の表現中の動詞「運ぶ」は、四段活用の動詞であるので“終止形”とも“連体形”とも区別がつきません。
 したがって、それに続く助動詞「なり」が、“断定”の意味にも“伝聞”の意味にも“推定”の意味にも解釈されます。
 作者の廣川秋男さんとしては、この助動詞をどのような意味で使っているのでありましょうか?
 また、選者の佐佐木幸綱氏はどのようにご解釈なさって、この作品を入選作となさったのでありましょうか?
 評者の解釈は、「『わが町の空』を『ヘリ』が『二機三機』と飛んで行く。(これは何方かから聞いた話に拠ると)『山の火葬場へ』『遺体』を『運ぶ』のだと言う」といったところでありましょうか。
 ということは、評者としては、この助動詞「なり」を“伝聞”の意味に捉えているのであり、それがこの作品を味わい深いものにするものであるとも思っているのである。
 本作の作者がお住いの“本宮市”は、福島県でも震災の被害が大きかった沿岸部からは少し離れた所に位置しているので、震災に因る死亡者が「ヘリ」で運ばなければならない程に多くはなかったと思われるのであるが、沿岸部の市町村での死亡者の「遺体」を、市営の「火葬場」で火葬する役割りをしたのかも知れません。
 〔返〕  立ち上る煙の絶えぬ日夜にて遺体を運ぶヘリまた忙し   鳥羽省三


○  原発の安全うたうスローガン掲げて封鎖さるる町並  (ひたちなか市) 猪狩直子

 本作も亦、誤読の可能性がある作品と思われるが、作者としては、「この『町並』には、かつて、東電や自民党政府の手を拠って、『原発の安全』性を『うたうスローガン』が大々的に『掲げ』られたのであったが、その嘘っぱちの『スローガン』を書いたポスターも、未だ剥がされぬままに、この『町並』は『封鎖』されている」と解釈されることを期待しているのでありましょう。
 二句目には「うたう」とあり、五句目には「さるる」とある。
 作者としては、本作は文語短歌として詠んだつもりなのでありましょうが、ならば、二句目の「うたう」は「うたふ」と改める必要がありましょう。
 こうした表記も思うままにならないような作品を入選作とされるのは如何でありましょうか?
 〔返〕  原発の安全うたうポスターが貼られたままで封鎖された町   鳥羽省三


○  持ち出しは認めずといふ家畜とは持ち出すものか一時帰宅に  (水戸市) 檜山佳与子

 「家畜」を置き去りにしたままで避難所生活を続けている者にとっては、「一時帰宅」することを許可された日には、自分が飼っていた「家畜」を避難所に連れて帰りたいような気持ちにもなるのでありましょう。
 本作の作者はその点を捉えて、正義派振って屁理屈を言っているのでありましょうか?
 「絶好の機会だから、あれも歌にしてやろう、これも歌にしてやろう」といった作者も居られましょうが、本作の作者は、まさかそんな不心得な者とは思われないのであるが?
 〔返〕  遺漏在る筈は無からむおかみには牛馬を飼はるる避難所は無し   鳥羽省三


○  茶の間からそのまま越してきたような家族が憩う桜木の下  (茅ヶ崎市) 喜島成幸

 神奈川県の茅ヶ崎市でも、或いは、東日本大震災の被災者の方々が避難生活をなさっているのでありましょうか?
 だとしたら、更に趣きが深い作品となりましょうか?
 満開の「桜木の下」で、しばしの憩いの一時を楽しんで居られる「家族」の方々の姿を捉えて、「茶の間からそのまま越してきたような」とする直喩表現がなかなかである。
 〔返〕  フクシマの原発建屋の如くにも湯気を上げつつビール飲んでる   鳥羽省三


○  よろこびに尾を振りながら井守二匹今朝植え付けし早苗田泳ぐ  (三重県) 喜多 功

 同じ「今朝植え付けし早苗田」を「よろこびに尾を振りながら」「泳ぐ」「二匹」の小動物であっても、泥鰌や蛙では無く「井守」であるところが、この作品の優れた点なのでありましょうか?
 〔返〕  喜びに長い身くねらせ青大将蛙の騒ぐ早苗田を往く   鳥羽省三


○  春の朝すこし遅れてバスが来る高校前のバス停を経て  (堺市) 吉岡浩子

 「高校前のバス停」で、大勢の新入生男女が下車したから、作者の待っている「バス停」に「バスが来る」のが「すこし」遅れたのでありましょう。
 詠い出しの「春の朝」が、ただ単に字数合わせの為に置かれているのでは無く、新学期の雰囲気を醸し出して、なかなかの効果を上げているのも見逃してはならない。
 〔返〕  連休が終わればバスは遅れない高校生の乗車は不定   鳥羽省三  


○  白き和紙にくるみて小鳥葬れり間なく遊びし小さき鈴と  (東京都) 志摩華子

 「間なく遊びし」に、やや難点が在る。
 その意味は、「白き和紙にくるみて」葬られた「小鳥」が、その「小さき鈴」で、絶え「間なく」、即ち“いつも”遊んでいた、ということでありましょうが、そこまで読者の理解が行き届くかどうかが問題なのであり、この場面で、「間なく遊びし」などという、古臭くて、しかも手垢に塗れたような表現をする必要があるとは思われないのである。
 〔返〕  白い紙に包んで乳歯を葬ったいつも噛んでたガムと一緒に   鳥羽省三
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一首を切り裂く(007:耕・其のⅡ・三訂版)

2011年05月28日 | 題詠blog短歌
(只野ハル)
○  施肥もせず薬も撒かず耕さず自然なままのNo業にこそ

 五句目の「No業にこそ」は、「施肥もせず薬も撒かず耕さず自然なままの」という連文節によって修飾される「農業」の「農」を「Yes」「No」の「No」と洒落込んだ表現であり、この洒落を解らない人はこの世には一人も存在しないでありましょう。
 だが、この句を正しく理解する為には、それとは別に“文語文法”上の法則としての「係り結びの結びの省略」という知識が必要であり、高校生でも知っているはずのそれについては案外多くの歌人が知らず、知っている歌人は当然の常識として知っているままに使うのであるが、知らない歌人も知っているふりをして使ってはいけない場面で使ったり、使いはしないまでも知っているふりをして済ましていたりするので、この際、この世話焼きの鳥羽省三が、じっくりとご説明申し上げます。
 私が、このブログで文法上の解説をすると、その度ごとに多くの非難や苦情めいたコメントやメールが寄せられる。
 その内容を要約すれば、「短歌は文法で作るものでは無く、ハートで作るものであるから、知ったかぶりをして難癖を付けるな」という脳天気なものである。
 そうしたご指摘が正しいものであるかどうかは別として、先ずは、所期の目的通り「係り結びの結びの省略」について解説すると致しましょう。
 『徒然草』の第八十九段は、「奥山に猫またといふものありて」から始まる著名な段であるが、その中に、登場人物たる“連歌しける法師”の心理描写として、「一人歩かん身は、心すべきことにこそと思ひける頃しも」という連文節が在る。
 この連文節の意として、三省堂から(元)筑波大学教授・桑原博史氏監修として刊行されている『新明解古典シリーズ・徒然草』の筆者は、「(自分のように)一人外を出歩くような身(の上の者)は、特に気をつけなければならないこと(だ)と思っていたちょうどそのころ」と、極めて神経が細かく念入りな口語訳をしている。
 この連文節中の「心すべきことにこそ」の部分が、ここで私が解説しようとしている「係り結びの結びの省略」の部分であり、この部分では、著者の吉田兼好が、「心すべきことにこそ」という“係り”の“結び”たる語「あれ」を、敢えて置く必要のない語として省略しているのである。
 そういう理由があるから、『新明解古典シリーズ・徒然草』の筆者は、この部分を「特に気をつれなければならないこと(だ)」と、手間隙かけた口語訳をしているのであり、口語訳中の「(だ)」に相当するのが、『徒然草』の著者・吉田兼好が置く必要の無い語として省略した“結び”の語「あれ」である。
 したがって、前掲・只野ハルさん作「施肥もせず薬も撒かず耕さず自然なままのNo業にこそ」も「にこそ(あれ)」と“結び”の語「あれ」を補って解釈するべきであり、こうした措置をした上で、本作を意訳すると、「(私の理想とする農業は、)肥料も施さず、農薬も撒かず、耕すこともせず、(収穫した作物が人体に有害な物になることを)一切拒否した農業、即ち『No業』(だ)」ということになりましょう。
 ここまで、馬鹿丁寧に解説されたら、本作の筆者・只野ハルさんとしては、一言、感謝の言葉があって然るべきでありましょう。
 〔返〕  押し売りの感謝の言葉の無理強ひに才女は如何に反応すらむ   鳥羽省三


(不動哲平)
○  部屋中にエビオス錠をばらまいて泥土のごとき愛を耕す

 作中の“指定医薬部外品”「エビオス錠」の“特徴”ならぬ“特長”として、製造元の“アサヒフード アンド ヘレスケア株式会社”様は、そのホームページに次のような広告記事をご掲載なさって居られます。

【特長】
 1、弱った胃腸の働きを活発にします。
 ビ-ル酵母には、乳酸菌などの腸の働きに役立つ菌を増やしたり、食欲を増進させる作用があります。天然素材のビ-ル酵母から生まれた「エビオス錠」は、弱った胃を助け、消化不良・食欲不振など、胃の働きが不十分なために引き起こされる症状を改善します。
 2、不足しがちな栄養素を補給します。
 ビ-ル酵母には、ビタミンB1・B2・B6などのビタミンB群、たんぱく質、ミネラルといった栄養素の他に、グルカン、マンナンという食物繊維、さらに核酸などが豊富に含まれています。天然素材のビ-ル酵母から生まれた「エビオス錠」は、これらの成分の相互作用で不足しがちな栄養素を補います。
 3、私たちの体に欠かせない必須アミノ酸の補給に役立ちます。
 ビ-ル酵母には、たんぱく質を構成するアミノ酸のうち、体内ではつくれない必須アミノ酸9種類すべてが含まれています。天然素材のビ-ル酵母から生まれた「エビオス錠」は、たんぱく質を豊富(40~50%)に含み、胃腸の健康に役立ちます。  以上

 上掲の解説記事から推すに、本作中の「エビオス錠」は、必ずしも作中に用いるべき必然性が無い、ようにも思われるのであるが、その点についての作者のご見解は如何でありましょうか?
 それはそれとして、「泥土のごとき愛を耕す」という直喩が宜しい。
 「愛」と言うよりは、「愛欲」「情欲」「交接欲」こそは正しく「泥土のごとき」ものであり、「耕す」という動詞も亦、行為そのものを直叙しているような感じであり、素晴らしい直喩効果をあげているのである。
 〔返〕  部屋中に近藤さんを薔薇撒いて行方も知らに愛を耕す   鳥羽省三


(竜胆)
○  二十四ヶ月と五日耕した君の心の永久凍土

 「二十四ヶ月と五日」と言えば、日数にして七百三十五日である。
 それだけの時間を掛けて耕せば、如何なる「凍土」と言えども、いいかげんに解けそうなものであるが、それでもまだ解けなかったとしたら、それこそ正しく「永久凍土」と言えましょう。
 本作の作者・竜胆さんのお相手は、南極の氷よりも冷たい女性なのである。
 〔返〕  四十五日と呼ばれた力士かつて在り一突き半で勝った柏戸   鳥羽省三


(花夢)
○  荒地みたいなあのひとのさみしさを耕すわたしこそがさみしい

 本作の作者・花夢さんは、成人してもアトピーが一向に完治しないで“荒れ肌”になっている恋人を「荒地みたいなあのひと」と洒落ているのである。
 『荒地』と言えば、彼のノーベル文学賞詩人“T・S・エリオット”の代表作として知られている、二十世紀文学の珠玉である。
 三十歳になってもアトピーが治らないで、ガサガサの素肌で恋人の花夢さんを抱く男性を比喩するのに、二十世紀文学の珠玉『荒地』とは、あまりと言えばあまりにも極端な比喩ではありませんか?
 好き合った男女は、お互いに相手の弱点に目を瞑り、在るかどうかも判らない、相手の優れた点だけを強調するということでありますから、三十歳になってもアトピーが治らないお相手が『荒地』ならば、その『荒地』の恋人の花夢さんは、『荒馬』ないしは『じゃじゃ馬』でありましょうか?
 本稿を閉じるに当たって、今後の何かの参考にとも思って、彼の“T・S・エリオット”の代表作『荒地』(The Waste Land)より、第一部『埋葬』(The Burial of the Dead)を、西脇順三郎氏の名訳に拠って、下記の通り、ご披露致しましょう

 Ⅰ 埋葬

 四月は残酷極まる月だ
 リラの花を死んだ土から生み出し
 追憶に欲情をかきまぜたり
 春の雨で鈍重な草根をふるい起すのだ。
 冬は人を温かくかくまってくれた。
 地面を雪で忘却の中に被い
 ひからびた球根で短い生命を養い。
 シュタルンベルガ・ゼー湖の向うから
 夏が夕立をつれて急に襲って来た。
 僕たちは廻廊で雨宿りをして
 日が出てから公園に行ってコーヒーを
 飲んで一時間ほど話した。
 「あたしはロシア人ではありませんリトゥアニア出の立派なドイツ人です」
 子供の時、いとこになる大公の家に滞在っていた頃
 大公はあたしを橇にのせて遊びに出かけたが怖かった。
 マリーア、マリーア、しっかりつかまってと彼は言った。そして滑っておりた。
 あの山の中にいるとのんびりした気分になれます、
 夜は大がい本を読み冬になると南へ行きます

 〔返〕  「花夢、花夢、私はアトピーではありません。だから、この胸にしっかりつかまって」   鳥羽省三
      さみしさに耐へたる人のまたもあれな素肌さらさむ荒地の上に    々


(穂ノ木芽央)
○  春風と毒の匂ひを連れてくる金田一耕助の下駄の音軽し

 あの退化した皮膚の汚れと汗が沁み付いたマントこそは、まさしく「毒」が染み付いているのでありましょうが、「春風」は何処から吹いて来る、と言うのでありましょうか?
 「下駄の音軽し」もよく解りますが、あの黒くてよれよれのマントに、「春風」はどうしても不似合いでありましょう。
 〔返〕  諦めと加齢の臭ひを連れて来る七十一歳の夏まさに来むとす   鳥羽省三


(史之春風)
○  よのなかは休耕田の凧揚げの奴(やっこ)の足の新聞の端

 敢えて申し上げますと、「奴」に振り仮名を施すことは無用でありましょう。
 短歌は振り仮名を振ってしまうと限り無く下品になりますから、作中に、正しく読んで貰えそうもない漢字を使う時は、この漢字を敢えて使う場合のプラスと、それに振り仮名を振る場合のマイナスとの差引勘定をして、その漢字を使う場合のプラスが大きい場合にのみ振り仮名を施すべきである、と言われております。
 また、読めるかどうかの瀬戸際の漢字を使わなければならない場合は、「この漢字をこのように読めない者には、この作品を読んでもらう必要がない」との気持ちを込めて使うべきである、とも言われております。
 共に、今は亡き、我が歌道の師・森田禎治先生の言葉であります。
 それは別として、なかなかの作品である。
 「よのなかは」と詠い起し、「休耕田の」→「凧揚げの」→「奴の足の」→「新聞の端」と、“極大”から“大”へ、“大”から“小”へ、“小”から“極小”へと、次々と右肩下がりに畳み掛けて行く“勢い”がなんとも言えないほどに素晴らしいのである。
 それにしても「新聞の端」とは、いかにも小さくて醜いものですね。
 「よのなか」とは、そんなに卑小なものでありましょうか?
 〔返〕  世の中はメルトダウンの原発の床に染み付く蚯蚓の死臭   鳥羽省三


(尾崎弘子)
○  うつくしくとてもかなしい絵の中の耕す人も種まく人も

 彼のバルビゾン派の画家・ジャン=フランソワ・ミレーの作『耕す人』及び『種まく人』から取材したものであり、「うつくしくとてもかなしい絵」という表現について言えば、上記の作品に加えて『晩鐘』や『落穂拾い』の影響も無視出来ません。
 〔返〕  夕焼けてソフィアの鐘が鳴り渡るいざ帰りなむ妻の手を取り   鳥羽省三


(伊倉ほたる)
○  耕して地中深くを弄れば銀の指輪は失くしてしまう

 「弄れば」に疑義あり。
 「弄れば」を「まさぐれば」と読める人は、そんなに多くはありません。
 伊倉ほたるさんの短歌は、限られた読者向けの作品ではありません。
 決して高踏的な作品ではありません。
 したがって、大多数の方が読めるような表記をしなければなりません。
 本作に関して言えば、「耕して地中深くを弄れば」の「弄れば」を「まさぐれば」と表記すれば、何方にも読めるようになるし、そうしたからといっても、決してマイナスにはなりません。
 それを承知していて、敢えて「弄れば」としたのは、パソコンの変換ボタンのせいでありましょう。
 「まさぐれば」と入力して〔変換〕ボタンを押したら「弄れば」となったから、「弄れば」としてしまった。
 それではパソコンの命令に従っている奴隷に過ぎないことになりましょう。
 それともう一点。
 「耕して地中深くを弄れば銀の指輪は失くしてしまう」の「銀の指輪」の必然性が全然感じられません。
 作者ご自身としては、ご主人様から頂いた“婚約指輪”であったとか、お子様と一緒に出掛けた鎮守の杜の夜店で買った玩具の「銀の指輪」であったとか、それなりの思い入れが在るのでありましょうが、それが読者には少しも伝わって来ないのである。
 その「銀の指輪」は、作者にとってはどんなに大切な品物であろうか?
 失くしてしまった今、作者はどんなに悲しく思っているだろうか、などとの気持ちを、読者に抱かせるようなレベルの表現となるまでには至っていないのである。
 “伊倉ほたる”という名前である以上は、女性に違いない。
 女性である以上は、指輪の一つや二つは持っているに違いない。
 持っている物を失くしてしまうことは、ごく普通にあることだ、といった程度の感想を抱くのがせいぜいである。
 思うに、本作は、お題「耕」と、その時その場で思い付いた「銀の指輪」という手垢に塗れた言葉とを強引に結び付けただけの、間に合わせの、その場凌ぎの作品にちがいありません。

 〔返〕  耕して遠き校舎に目を遣れば『銀の指環』の楽の音は果つ   鳥羽省三
 仮にでも、短歌と称するものを詠む以上は、この程度の工夫はするものですよ。
   
  『銀の指環』  詞 財津和夫

 夕べも僕は
 眠れなかったよ
 終わった愛を
 さがしていたんだ
 二度と 帰らない
 夢のような恋よ
 君は いつのまにか
 消えてしまったよ
 覚えてるだろう 銀の指環を
 二人が誓った
 愛のしるしさ

 君は 言ったね
 指に 口づけして
 二度と はずれない
 不思議な 指環だと
 二人で つくった
 小さな秘密も
 二人で残した
 海辺の足あとも
 みんな消えたけど
 ひとつ淋しそうに
 今も輝いてる 銀の指環よ

 指環よ 指環よ

 「チューリップ」はいいね。「嵐」よりは一億万倍もいいよ。


(萱野芙蓉)
○  ラヂオから山田耕筰ながれきてこんな日暮れは好きぢやないんだ

 「日暮れ」に流す「山田耕筰」の作品と言えば、何でありましょう?
 私もいろいろと考えてみました。
 『野薔薇』『からたちの花』『かやの木山の』『赤とんぼ』『お山の大将』『あわて床屋』『待ちぼうけ』『ペチカ』と、いろいろと挙げてみるのですが、どうもすっきりしません。
 そうだ、そうだ、ありました。ありました。
 北原白秋の作詩の『砂山』がそれでした。

  海は荒海 向こうは佐渡よ
  すずめ鳴け鳴け もう日は暮れた
  みんな呼べ呼べ お星様出たぞ

  暮れりゃ砂山 潮鳴りばかり
  すずめ散り散り また風荒れる
  みんな散り散り もう誰も見えぬ

  帰ろ帰ろよ ぐみ原分けて
  すずめさよなら さよならあした
  海よさよなら さよならあした

 試みに、その歌詞を記しながら、自分で歌ってみたのですが、何故かすっきりとしません。
 要するに、山田耕筰の曲は、あまりにも「歌曲」という言葉に囚われていて、重過ぎる、暗過ぎるのである。
 これでは、本作の作者が「こんな日暮れは好きぢやないんだ」と言うのも、尤もかと思われました。
 同じ北原白秋の詩でも、中山晋平作曲の方は明るくて抒情味が感じられて、本作の作者・萱野芙蓉が「こんな日暮れは大好きだ」とおっしゃるように思われます。
 〔返〕  砂山の砂を蹴立てて帰る児の尻にも夕陽 砂にも夕陽   鳥羽省三


(おおみはじめ)
○  収穫の夢声高に語れども耕す方法教えぬ学校

 「収穫の夢声高に語れども耕す方法教えぬ学校」は、評者にとっては理想的な「学校」かと思われます。
 「耕す方法」は、日々の生活の場面で、いろいろと失敗を繰り返しながら学ぶべきかと思われます。
 〔返〕  収穫の喜び知らぬ先生が教えているのが今の学校   鳥羽省三  


(鳥羽省三)
○  公田とふ姓にありしか耕一は家売り田売り村を出でにき

 朝日歌壇の例の「公田耕一」騒動に因んでの作品である。
 私の郷里の知人に「耕一」という名前の青年がいて、彼は数年前に両親が亡くなったことを機会として、「家売り」「田売り」「村」を出てしまったのであるが、その後、杳としてその行方は知れません。
 彼は、尻の軽い女性やパチンコやカラオケには大いに興味を持っていたが、短歌とはまるで無縁の者であり、その姓も「公田」では無く「山田」でありましたから、彼と「公田耕一」とは少しも関係が無い、ということは分かっていたのでしたが、この場面で、敢えて彼を登場させた次第でありました。
 〔返〕  山田とふ姓にありけり耕一よ家売り田売り何処に居るのか?   鳥羽省三
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一首を切り裂く(007:耕・其のⅠ・訂正版)

2011年05月27日 | 題詠blog短歌
(五十嵐きよみ)
○  猜疑心などとは無縁の清やかさ水耕されて咲くヒヤシンス

 作中の「水耕されて咲くヒヤシンス」とは、花卉栽培業者に拠って大量に水耕栽培され、切花として東京日比谷公園の花舗・日比谷花壇の店先に並べられた紫やピンクの「ヒヤシンス」を指すのでは無く、安物の透明な丸いプラスチックケースに入れられて“トステム・ビバ”とか“コーナン”とかいった名称のホームセンターで売られている、あの「ヒヤシンス」を指すのである。
 本作の作者・五十嵐きよみさんは、未だ東日本大震災に見舞われる前の今年の一月の或る日、歌会からの帰路に、とあるホームセンターに立ち寄り、たった一株だけであるが、大枚三百九十八円を支払い、「咲かなくて元々、咲けば儲けもの」といった、太っ腹なお気持ちで「ヒヤシンス」の球根を買い求めて来たのである。
 ところが、何と驚いたことには、その「咲かなくて元々、咲けば儲けもの」の「ヒヤシンス」が見事に咲いたのである。
 入手した当初は、1,000倍のハイポネックス入りの水が透明のプラスチックケースに8分目ほども入っていたのであるが、暖房がよく効いた五十嵐きよみさんの部屋の机辺では、その水もたちまち蒸発してしまい、今年初めて室内での「ヒヤシンス」の水耕栽培(たった一株だけでも水で栽培するのですから、水耕栽培であることには変わりがありません)を手掛けた彼女はかなりおたおたしたのである。
 でも、そこはさすがにお友達の多い五十嵐きよみさんである。
 「もし、もし、ほむらさんのお宅ですか。私、五十嵐、五十嵐きよみという者ですけど、ほむらさん、穂村弘さんはいらっしゃいますか。」
 「おっ、五十嵐か、なんちゃって。五十嵐きよみさんか。あれ以来、すっかりご無沙汰しておりますね。あれ以来って、なんだっけ。私が貴女にしてはならないようなことをしてしまったんだっけ。まあ、そんなことはどうでもいいや。ところで、お元気ですか。“題詠blog2011”の方はご健在ですか?ああ、寒い。ゆひら。ゆひら。」
 「きあ、穂村さんったら、相変わらずふざけちゃったりして。この寒いのに、笑わせないで下さいよ。ほら、歯がカチカチ鳴ってますでしょう。“題詠blog2011”はそれなりにやってますけど。でも、今年はめっきり参加者が少なくなりまして。いや、参加者はそれなりにいるんですけど、地震や原発のせいか、投稿数があの後、急に少なくなりまして。私では、もう、駄目かも知れませんね。穂村さんとご一緒していた頃には、総合誌や結社誌でご活躍なさっていた方も沢山ご参加なさっておられたんですけど、この頃は、そうした方はめっきく少なくなりました。もしかしたら、穂村さんが、こっそりと陰から手を回していらっしゃるんじゃないですか?『一人前の歌人は“題詠blog”なんかに参加するな』と。いえ、いえ、これは冗談です。今日、穂村さんにご相談申し上げたいことは、“題詠blog”のことでは無くて、別のことなんですよ。穂村さんは学生時代に、確か天文部に入ってらしたとお聞きしておりますが、それなら、ご存じかと思いまして。」
 「五十嵐さん、貴女こそ悪質な冗談をおっしゃる。私とて、まさか貴女が自己犠牲をなさって遣っていらっしゃる“題詠blog”の邪魔立てしたりはしませんよ。冗談は、顔だけにして下さいよ。これは失礼致しました。今のは冗談でした。ところで、天文部がどうかしましたか。金環食は今年では無く、来年ですよ。私に相談したいことって何ですか。」
 「すみません。怒ってらっしゃるんですか。それならあやまります。御免なさいませ。それはそれとして、穂村さんにご相談したいことは、“題詠blog”のことでも、来年の金環食のことでも無くて、ヒヤシンスのことなんですよ。ほら、あるでしょう。透明のプラスチックケースに入ったヒヤシンスが。穂村さんなら、ドンキホーテでお買い上げになられると思いますけど。あの透明のプラスチックの丸い入れ物に入ったヒヤシンスの水がゼロになったら、どうすればいいんですか。それでお終いですか。それならそれで諦めも付きますけど、もしかしたら、また水を上げると息を吹き返したりするかも知れないと思いましてね。学生時代に天文部員であった穂村さんにお聞きしたいと思ったんですよ。」
 「何をおっしゃってるんですか。貴女は今夜も雪見酒ですか?天文部とプラスチックケース入りのヒヤシンスの水切れとは何も関係ないではありませんか。それに、私が渋谷のドンキホーテで買い物をするなどと勘ぐったりして、紳士に対して失礼ですよ。渋谷のドンキホーテにはあれ以来、あの火事以来一度も行っておりませんよ。北海道神宮の神に誓って言います。貴女という女性は、全く幾つになっても、相変わらず失礼なことをおっしゃる女性ですね。おお、寒い。貴女とケータイ電話でおしゃべりしていると、奥歯がガタガタ鳴り出しますよ。おお、寒い。ゆひら。ゆひら。ところで、ヒヤシンスのことですが、透明のプラスチックケースに入っていようが、素焼きの鉢に入っていようが、草花が水切れを起したら、水を掛ければいいだけのことでしょう。もしかしたら、今夜の貴女は水切れを起しているのではないですか。でも、今の私には、どうして上げることも出来ませんよ。十年前ならまだしも。用件はそれだけなんでしょう。ケータイを切りますよ。」
 冗談100%で、本作の背景となった過日の出来事を再現させていただきましたが、作中の上の句「猜疑心などとは無縁の清やかさ」については、上記、再現部中の、五十嵐きよみさんと穂村弘さんのケータイでの会話の中にそれと無く示されている、かと思われます。
 と、すると、作中の「猜疑心」とは、本作の作者・五十嵐きよみさんが、話し相手の穂村弘さんにお抱きになられた「猜疑心」ということになりましょうが、その点についてはいかがでありましょうか?
 本作は、お題「耕」を真正面に据えた佳作と思われます。
 〔返〕  ヒヤシンス机辺に咲きぬ歌詠みは小正月の真夜自棄酒を飲む   鳥羽省三


(ほきいぬ)
○  湯豆腐が好きだからって耕運機のメカニズムまで知らなくていい

 作者・ほきいぬさんの暮らしの一断面を切り取ってお詠みになった作品と思われる。
 父「十勝平野の百姓の長男のくせに、耕運機が壊れても修理することもできないくせに、毎晩毎晩、『湯豆腐』ばっかり食ってやがる。たまには、十勝平野の名産のジャガイモと玉葱と凍み豆腐の煮付けでも食えよ!」
 ほきいぬ「『湯豆腐が好きだからって耕運機のメカニズムまで知らなくていい』はずだ。そんな文句ばかり言ってないで早く寝ろ。今夜は冷えるから、キンタマを褌で包んで寝ろよ。明日はまた早いぞ。“北の灯り”の植え付けだ!」
 父「お前こそ早く寝ろ。東京から農業実習に来た彼女とうまくやってるか?ケータイ電話のメールは来るのか?」
 〔返〕  彼女のこと好きだからこそメール打つ彼女の方から返事は来ない   鳥羽省三


(西中眞二郎)
○  過疎なれば耕す人もなくなりし畑の続くふるさとの道

 一見すると、極めて有り触れた光景を、極めて手垢に塗れた語句を用いて詠んだ、極めて平凡な作品と思われるのであるが、かつての通産官僚が、有り余る暇に任せ、久しぶりに「ふるさと」たる周防大島に帰省して、半ば浦島太郎状態に陥っている自分自身の“実存”を飾る事無く披瀝した作品としては、それなりの水準に達している作品と思われる。
 使用されている語について一言すれば、三句目に「なくなりし」とあるが、この場面で、文語の過去回想の助動詞「し」を用いる必要はない、と評者には思われる。
 また、「過疎なれば」と初っ端から結論を示すような遣り方にも賛成しかねる。
 〔返〕  畑中に耕す人の失せ果てて蒲公英だけが目につく故郷   鳥羽省三
 

(紫苑)
○  晴耕をやむるは亡妻(つま)を想ひてか釣りに興ずと文の来たれり

 旧友からの近況便りでありましょうか?
 作品としては、極めて安定していると申せば褒め過ぎ、平凡な出来と申せましょうが、久しぶりの旧友からのお便りに接し、作者にはそれなりのご感慨がお在りなのでありましょう?
 〔返〕  書を読まず耕さざるは亡き妻を哀しめるゆへ怠惰に非ず   鳥羽省三


(アンタレス)
○  狭庭の角の少しを耕して香草植えて楽しみし過去

 作中の語に疑義在り。
 狭い庭を「狭庭(“きょうてい”か“さにわ”か?)」などとする必要はなし。
 また、「角」は「すみ」と読むのならば、「隅」と記載するべきである。
 更に申せば、「香草」は「ハーブ」とするべきでありましょう。
 本作の作者のお気持ちを推測して申せば、本作の作者には、常に体裁を整え、それらしくしよう、上品な表現にしようとする傾向が認められる。
 前述の「狭庭」「角」「香草」といった語の使用も、そうした余計な配慮に基づいてのことでありましょう。
 本作は、そうした配慮の悉くが裏目に出た作品と思われるのである。
 見たこと、聞いたこと、感じたことなどを、飾らずに上品ぶらずにそのまま詠みましょう。
 「このように飾って言えば、良い歌になるだろう。芸術作品になるだろう。」などとのご配慮は、現段階では全て無駄と思われます。
 〔返〕  庭隅を娘二人と耕してハーブを植えた頃の懐かし   鳥羽省三


(髭彦)
○  吾が裡に耕す余地のなほあらむ六十路が坂の終はり見えれど

 「六十路が坂の終はり見えれど」「吾が裡に耕す余地のなほあらむ」との思いは、必ずしも褒められた思いではありません。
 古希を過ぎようが、米寿を過ぎようが、まだまだ「吾が裡に耕す余地のなほあらむ」との思いでお励み下さい。
 〔返〕  六十路まだ生意気盛り人生は七十路八十路これからである   鳥羽省三


(ももか)
○  腰かがめ畑を耕す父見やり歪で甘いトマトを頬張る.

 「甘い」とまで、言う必要はありません。
 〔返〕  腰屈め畑打つ父を流し目に妻の捥ぎたる白桃を食む   鳥羽省三


(音波)
○  くだらない会議の朝はポケットに島耕作をしのばせてゆけ

 それも宜しいかも?
 それはそれとして、あの松下電器は、パナーソニックと社名を変更して、かつての「まねした電器」のイメージをすっかり払拭してしまいましたね。
 これも『島耕作』のお陰でありましょうか?
 〔返〕  トイレには島耕作の全巻が常備されてる変色すれど   鳥羽省三


(原田 町)
○  耕作を罷めし畑の増えゆきてスーパーに買う異国の野菜

 原田町さんのようなグルメ通の方の作中に登場する「異国の野菜」と言えば、庶民中の庶民たる評者にとっては、フランス料理かイタリア料理に使う、彩りの鮮やかな高価で特別な輸入野菜を連想するのである。
 だが、私共の周囲の現実は、「異国の野菜」といってもその輸入先は中国などの東南アジアが殆どであり、その種類も、ニンジン、ネギ、馬鈴薯、キャベツ、サトイモ、生姜、ニンニクといったような、私たちが日常生活で、ごく普通に食している物が大半である。
 本作中の「スーパー」とは、明治屋や紀ノ国屋であり、野菜の種類は、フレンチやイタリアンに使われる高級野菜でありましょうか?
 〔返〕  風に舞う成城石井のポリ袋高くなお高く大空に舞え   鳥羽省三   



(牛 隆佑)
○  遠くから君が来るのを待っている月の砂漠を耕しながら

 「君」は“銀の鞍”に乗って来るのでありましょうか?
 それにしても、「月の砂漠を耕しながら」という表現は面白い。
 「月の砂漠」とは、即ち“不毛の大地”であり、彼・牛隆佑さんの恋は、永久に実らないのでありましょうか?
 だとすれば、本作はファンタジーめかしてはいるが、その現実は絶望を語っているのである。
 〔返〕  作物は全然実らず姫君は盗賊どもに犯されちゃった   鳥羽省三  


(足知)
○  まだ誰もあなたに見向きもしなかった耕作前の畑のように

 「耕作前の畑のように」と言うよりも「荒地に咲いた野菊」のように、でありましょうか?
 〔返〕  競争率1・0倍恋敵何処にも居ない楽勝でした   鳥羽省三


(紗都子)
○  耕して畝を立てればやわらかく土ふくらみていのちを宿す

 本作の作者・紗都子さんは、畑作に見せかけながら、実のところは「女は畑なり。男よ行って耕せ」といったことをおっしゃりたいのでありましょう。
 だとすれば、紗都子さんの二枚舌に騙されて、「あの『ふくらみて』『やわらかく』なった『土』に『いのち』を宿させたい」と願う男性が続出するかも知れません。
 〔返〕  衣を脱いで膝を開けば柔らかくかつ温かく命を宿す   鳥羽省三  


(雑食)
○  来るだろう君の畑を耕せる鍬を誰かに手渡す時が

 “バツイチ”も“バツニ”も“バツゴ”も在り得る昨今ですから、そんなことも或いは在り得ましょうか?
 〔返〕  遣るだろう君の畑を耕せる鍬を手にした者は毎晩   鳥羽省三


(新田瑛)
○  カエサルも諦めるほど完璧に耕作放棄された星空

 奇矯な表現を弄びながら、本作の作者は「星空」への讃仰心を歌っているのでありましょう。
 〔返〕  牽牛も渡り切れないほど深い銀河の向こう織姫の襞   鳥羽省三


(安藤三弥)
○  お隣を耕したっていいじゃない そういう風に生きてきました

 「お隣」の奥さんを「耕したっていいじゃない」と言いたいのに言わなかったと言わんばかりの一首でありましょうか?
 〔返〕  お隣りの桃ちぎってもいいかしら今が熟れごろ果汁滴る   鳥羽省三
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今週の朝日歌壇から(5月16日掲載・其のⅣ)

2011年05月26日 | 今週の朝日歌壇から
[永田和宏選]


○  遺影抱く入学式こそ悲しけれ呼ばれし名前「はい」と言う声  (松原市) 北岡 稔

 「こそ~悲しけれ」で係り結びである。
 しかも、文語の過去の助動詞「き」の連体形「し」も使っている。
 と言うことは、本作は“文語短歌”ということになる。
 ならば、「『はい』と言う声」という五句目中の「言う」は「言ふ」でなければならないのであるが、この点はどうしたことでありましょうか?
 内容よりも、先ず仮名遣いの統一が大切である。
 〔返〕  遺影抱く母親までも列席し芸の細かい入学式か?   鳥羽省三


○  起立する子等のうしろに遺影抱く入学式に二人の母よ  (千葉市) 加藤伊津

 語順を改めるなど、推敲が必要な作品である。
 〔返〕  母二人遺影を抱いて連なれば入学生も涙を流す   鳥羽省三


○  日雇いのうからはらから無き人の募られてゆく原発建屋  (神栖市) 寺崎 尚

 本作も亦、推敲不足の目立つ作品である。
 「うからはらから」などという、死後同然の言葉を、この場面で敢えて使う必要はさらさらに無かったのである。
 〔返〕  身寄り無き男三人選ばれて日銭稼ぎの「フクシマ」に行く   鳥羽省三   


○  「フクシマ」の半径二十キロの赤い円半分は海半分は陸  (埼玉県) 小林淳子

 と言うことは、東電の福島原発は建設以前から“いざ鎌倉”という場面が想定されていたことになり、その“いざ鎌倉”が、“想定外”にも早く訪れたということにもなりましょうか?
 本作の表現について言えば、「『フクシマ』の半径二十キロの赤い円」は、何処を中心点としての「半径二十キロの赤い円」なのかが説明されていないのである。
 それを説明することが出来なかったのは、本作の作者が、「フクシマ」という流行語を作中にどうしても取り込みたかったからでありましょう。
 また、福島第一原発を中心点としての「赤い円」の「半分は海半分は陸」という要件を満たす為には、必ずしも「半径」が「二十キロ」である必要は無かったのである。
 試みに、福島第一原発を中心点として「半径」が“五十キロ”或いは“百キロ”の「赤い円」を描いてみましょう。
 それらの「赤い円」も亦、「半分は海半分は陸」という要件を立派に満たした「赤い円」になりましょう。
 と言うことは、本作の表現が極めて杜撰な表現であったということになりましょう。
 〔返〕  災害が海に及べど知らん振り魚たちには賠償せぬと   鳥羽省三


○  スマトラの浜辺の民ら寄り来たり一ルピア二ルピアを贈るジュポンへ  (マーレシア) 石堂ゆずる

 作中の貨幣単位の「一ルピア」「二ルピア」は、日本円に換算して、恐らくは“一円”にも満たない額なのでありましょう。
 だとすれば、それこそは正しく“貧者の一灯”である。
 徒や疎かにしてはなりません。
 〔返〕  寄せ来たるルピアにこもる真心を受けてぞ更に励まんジュポン   鳥羽省三  


○  薄暗く棚ガラガラのコンビニは酸素の薄き水槽に似て  (盛岡市) 菊池 陽

 まさしく言い得て妙なる一首である。
 「薄暗く棚ガラガラのコンビニ」は「酸素の薄き水槽に似て」いるが、明るくて「棚」一杯に満たされた商品の品定めをしている「コンビニ」の客たちは、ネオンに彩られた「水槽」の熱帯魚にも「似て」いる。
 〔返〕  水槽のネオンテトラの如くにも真夜のコンビニ少女ら泳ぐ   鳥羽省三 

○  この先にまだ町があり駅があるその先にまだバス停がある  (館林市) 阿部芳夫

 辺り一面の瓦礫なのでありましょう。
 〔返〕  この先にまだ家があり人が居て安全神話に酔い痴れていた   鳥羽省三


○  大根の葉で大根の土落とし農夫は我に一本くれたり  (豊橋市) 鈴木昌宏

 本作も亦、“貧者の一灯”でありましょうか?
 「大根の葉で大根の土落し」とは、極めてリアルな表現である。
 〔返〕  腰曲げて大根抜きに余念無き農婦の脚は大根足だ   鳥羽省三


○  物理Ⅱの受講生一人の講座にてこの子が休むと休講になる  (岡崎市) 兼松正直

 女子高の理系の選択授業には、時折りこうした光景が展開されます。
 因みに申し上げますが、私がかつて某高校で行った“選択古典Ⅱ”の講座は千客万来で、百二十人余りを収容する視聴覚教室に、溢れる程の生徒を集めて開講して居りました。
 つい、うっかり、自慢話めいたことを申し上げてしまいましたが。
 〔返〕  予定数四十人が百人余その他もぐりも集めてました   鳥羽省三



 総じて、表現が甘い。
 選者の目も甘い。
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044:護(鳥羽省三)

2011年05月25日 | 題詠blog短歌
そのかみの少年倶楽部の憧れの國緒護よ今はいづこに   
                      國緒護=くにをまもる   
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043:寿(鳥羽省三)

2011年05月25日 | 題詠blog短歌
「生きているそのことだけで意味がある」亡き伯母寿美はいつも言ってた
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042:至(鳥羽省三)

2011年05月25日 | 題詠blog短歌
至仏山標高二千二百余のその藪蔭の裏白瓔珞
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017:失(鳥羽省三)

2011年05月25日 | 題詠blog短歌
左足を急に持ち上げオシッコし失敗顔でクロは照れてた
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041:さっぱり(鳥羽省三)

2011年05月25日 | 題詠blog短歌
「ゆでだこをかわいたぬのでふきながら『さっぱりした?』とママはいったの!」
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040:伝(鳥羽省三)

2011年05月25日 | 題詠blog短歌
伝単は私の知らぬ言葉です謀略用のビラを言うとか
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今週の朝日歌壇から(5月16日掲載・其のⅢ・再訂版)

2011年05月24日 | 今週の朝日歌壇から
[高野公彦選]


○  炊き出しの列の後ろに風立ちて並べぬまぼろし長く続きぬ  (石巻市) 須藤徹郎

 本作の作者は、今まさに避難所での「炊き出しの列」の最後尾に位置したばかりなのである。
 とすると、その時、突然、彼の背後に一陣の「風」が巻き起こり、その「風」と共に、この度の東日本大震災で尊い命を失った二万人余りの人々の列が、果てし無く「長く」続いたのである。
 地震や津波で命を失った人たちが、避難所の「炊き出しの列」に連なることが出来るはずはありません。
 したがって、それは、本作の作者・須藤徹郎さんが見た、白昼の「まぼろし」に違いないのであるが、その「まぼろし」は作者の須藤徹郎さんにとっては、実在以上に確かな「まぼろし」であって、彼・須藤徹郎さんは、「炊き出しの列」の最後尾に在って、しばし呆然とするのである。
 生の材料だけが取り得の大震災関係の入選作品の中に在って、田舎の神社の祭礼の夜店で商う“金太郎飴”の如き作品ばかり押し寄せる中に在って、本作こそは、まさしく“朝日歌壇”の“高野公彦選”の首席を占めるに相応しい佳作である。
 〔返〕  炊き出しの最前列の常連はお腹空かした痴呆の婆ちゃん   鳥羽省三


○  いなさ吹けば放射線量増すという真野の萱原夏は来向かう  (下野市) 若島安子

 選評に「『真野の萱原』は万葉集に詠まれた南相馬市の地名。いなさは南東の風」とある。
 選者の高野公彦氏の指摘する『万葉集』の歌とは、笠郎女作の「陸奥の真野の萱原遠けども面影にして見ゆといふものを」を指すものと思われる。
 古来、この「真野の萱原」という地名は“歌枕”として知られ、笠郎女の歌以外にも「まだみねば面影もなしなにしかも真野の萱原つゆみだるらん(藤原顕朝・続古今和歌集)」「冬枯れの真野の萱原穂に出でし面影見せて置ける露かな(大江忠房・新拾遺和歌集)」「夜もすがら真野の萱原風冴えて池の汀も氷しにけり(源俊頼・新古今六帖)」などの、数々の名歌が詠まれている。 
 ところで、「真野の萱原」と言えば、もう一つ忘れられないのは、あの松尾芭蕉の紀行文『奥の細道』の記述である。
 「十二日、平泉と心ざし、あねはの松・緒だえの橋など聞伝て、人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがえて、石の巻といふ湊に出。『こがね花咲』とよみて奉たる金花山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立つゞけたり。思ひがけず斯る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更宿かす人なし。漸まどしき小家に一夜をあかして、明れば又しらぬ道まよひ行。袖のわたり・尾ぶちの牧・まのの萱はらなどよそめにみて、遥なる堤を行。心細き長沼にそふて、戸伊摩と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどゝおぼゆ」
 この『奥の細道』の記述と、万葉の笠郎女の和歌とを統合して考えると、若島安子さん作中の「真野の萱原」を、『奥の細道』に登場する、現在の“宮城県石巻市真野字萱原”近辺と推定したくもなるのであるが、実を言うと、同じ“みちのくの地”に、もう一箇所「真野の萱原」と称する“歌枕”の地が在り、現在の“福島県南相馬市鹿島地区”がそれに当たり、笠郎女の歌に登場する「真野の萱原」は、この南相馬市の「真野の萱原」であると推定されているのである。
 本作中の「真野の萱原」について言えば、本作の作者・若島安子さんが、宮城県の石巻市にお住いの方ならばともかくとして、彼女の現住所は栃木県下野市であり、作品内容から推しても、選者の高野公彦氏の選評に従うのが妥当であると思われるのである。
 だとすれば、本作は、万葉の女流歌人・笠郎女の恋歌を念頭に置き、福島第一原発のメルトダウン事故に因る放射線被害に脅える彼の地の住民の心情をも慮って、停電と灼熱の夏の到来に困惑する作者ご自身の心情を三十一音に託した佳作であると思われる。
 〔返〕  俳聖の芭蕉が踏んだ真間の地も“マグニチュード9”の地震に揺れたか?   鳥羽省三


○  油ねべ車うごがね雪降るべはだしでどごも逃げらんにべさ  (神栖市) 香島之魯鈍

 本作の意は「ガソリンが無いだろう。だから、自動車が動かない。でも、雪は降るだろう。自動車に乗らないで、裸足では何処へも逃げられないだろう」といったところでありましょうか?
 本作に詠まれた内容が、ごく普通の言葉、即ち現代日本の標準語で表現された時、それがどれだけの文芸性を保てるものか、という点については、かなりの疑問が感じられるのである。
 本作の作者・香島之魯鈍さんの原住地の“神栖市”は、茨城県の最東南端に位置し、鹿島灘を望む、気候が温暖で財政豊かな市であり、隣接する鹿嶋市と共に鹿島臨海工業地帯を形成し、また、鹿嶋市・潮来市・鉾田市・行方市と共に“Jリーグ・鹿島アントラーズ”のホームタウンでもある。
 神栖市を巡る話題として、私の記憶に新しいのは、「有機ヒ素化合物で汚染された井戸水により、住民がヒ素中毒を起こした事件が各メディアで報道され有名となった」件、及び「野良犬と一部の放し飼いされた飼い犬が市街地を歩き回る状況となっており、住民から苦情が寄せられ問題となっている」件などである。
 気候が温暖で、財政が豊かであることが、必ずしも住民に真の意味の幸福をもたらさない一例として、評者は神栖市のこの二つの出来事を記憶しているのである。
 大阪に単身赴任中の長男が、時折り、茨城県に出張とかの理由で帰宅するが、彼の出張先は、この神栖市の何処かに在ると思われる。
 本作について率直に申せば、作者名や、何処の方言ともつかない怪しげな方言紛いの語句を連ねた作品内容については、評者はかなり批判的である。
 方言を用いた短歌が宜しくない、という訳ではありませんが、本作の場合は、作者名を見ても、作品内容を見ても、居住地に対する誇りや愛着、更には短歌表現に対するそれらが、少しも感じられないのである。
 重ねて言うが、短歌表現に方言を用いてはいけない、ということではありませんが、単なるもの珍しさに惹かれて、このような作品を入選作とするのはいかがなものでありましょうか?
 〔返〕  ガソリンも道も無いうえ雪が降るセーフティゾーンに逃げられません   鳥羽省三   


○  帰らざるひと、帰れざるひと、万のいのちに万の名のありしこと  (福島市) 美原凍子

 本作の作者は、あの「同心円」の美原凍子さんである。
 本作は、先週の入選作、即ちあの「同心円に居て」とは異なって語法の誤りも無く、無難な作品である。
 ところで、彼女の入選作品を特徴付けるのは、この所頻りに繰り返される“同語反復の技法”である。
 例えば、「北限の柚子の木にゆず光りいて吾妻小富士に白きもの来ぬ」(12/6・高野選)、「ふるさとに居ても一人はひとりにて薄柿色の灯をともす除夜」(1/17・高野選)、「いずくよりこの寂しさの来るならむきさらぎにふるきさらぎのあめ」(2/28・永田選)、「かなしみのなきひとはあらず弥生来て雪はみぞれにみぞれは雨に」(3/28・馬場選)などなど。
 美原凍子さんは、この数ヶ月の間に、“同語反復の技法”を用いた作品を立て続けに投稿され、入選なさって居られる。
 上掲の四作品に本作を加えた五作品のいずれもが、表現にこれと言った破綻も無く、入選作に相応しい佳作とは思われるが、取り立てて申せば、自己模倣に陥っているかとは思われるのである。
 〔返〕  入選せし歌、入選せざりし歌、一首に託せし詠み手の思ひさまざま   鳥羽省三


○  原発の中で働くわが息子カンパン齧りシートでごろ寝  (東京都) 山名輝子

 東電傘下の「原発」作業下請け企業の作業員の生活実態の一部が、作業員の母親に拠ってあからさまに詠み表わされているのでありましょうか?
 〔返〕  北海道泊町とふ原発の町に暮らせる吾が家の縁戚   鳥羽省三 


○  快適な都市を支える過疎の町原発受けて産廃受けて  (鳥取県) 中村麗子

 「都市」住民の「快適な」生活を「支える」べく、「原発」の設置を引き「受け」たり、「産廃」の処理場の設置を引き「受け」たりしている、他県の「過疎の町」の住民の生活も亦、その見返りとしてもたらされる税収や箱物で以って、飛び切り「快適な」ものであると言われていたのであったが、その快適さが危険と抱き合わせの快適さであったことが、この度の大震災に因ってあからさまにされたのである。
 折も折、原発設置県の一つである青森県の県知事選挙が行われ、いよいよ投票日を迎えようとしているが、青森県民はどのような選択をするのでありましょうか?
 自民党及び公明党から推薦されている現職候補は、これまで原発の安全性をひたすら強調し、その誘致を極めて精力的に行って来た人物であるが、メルトダウン騒ぎの最中の今回は、その彼でさえその問題に関しては口を塞いだままであると言う。
 青森県民は彼を再び知事として選出するのでありましょうか?
 〔返〕  足柄の茶まで犯した放射線 脱原発は神の声かも   鳥羽省三  


○  死してなお放射能浴び横たわる死者にも死者の尊厳がある  (小樽市) 吉田理恵

 仰る通りかも知れません。
 〔返〕  牛や豚木々や草にも放射線生き物全てに尊厳がある   鳥羽省三 


○  ありがとう孤立無援の子育てを見ていてくれたインコを埋める  (山口市) 平田敬子      

 そのように思いたくもなるのも或いは当然であったかも知れませんが、現代の日本社会に於いての「子育て」には、「孤立無援」ということは決してありません。
 愛玩の「インコ」だけが「見ていてくれた」などと、頑ななことを仰らずに、もう少し視野を広げましょう。
 ぐうたらな亭主やその周囲の者だけを見ていると「孤立無援」の「子育て」であった、などと思いたくもなるのでありましょうが、行政の仕組みや天地自然の恵みが在ってこその「子育て」であったのでありましょう。
 〔返〕  元禄の犬公方にもなお勝る犬猫小鳥の可愛がりよう   鳥羽省三   
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今週の朝日歌壇から(5月16日掲載・其のⅡ・再訂版)

2011年05月23日 | 今週の朝日歌壇から
[佐佐木幸綱選]


○  フクシマのニュースに慄く我もまた火遊び覚えし猿の裔なり  (東京都) 谷田貝和男

 是を称して“因果応報”と謂うのでありましょう。
 本作は、「我もまた火遊び覚えし猿の裔なり」という、極めて理性的な自覚の持ち主である谷田貝和男さんが、永遠とも言えるような遥か遠い遠いご先祖様の「猿」が天に向って吐いた唾で以って汚されることを危惧し「慄く」という醜態を詠んだ作品である。
 “親の因果が子に報う”というなら未だしも、「火遊び」を覚えた「猿」の犯した罪の因果で、私たち善良なる日本国民が報いを受けなければならないのは、あまりと言えば、あまりに手酷い仕打ちでありましょう。
 〔返〕  猿といふ自覚は宜し人はみな猿にも劣る愚かな存在     鳥羽省三
      葦といふ自覚また好し我らみな葦にも劣るか弱き生き物     々


○  大戦の前夜の如き響きもて繰り返される「強い日本」  (東京都) 津路野志峰

 作中の「大戦の前夜」とは、我が国の第二次世界大戦への参戦、即ち“真珠湾攻撃”の直前の日々を指して言うのでありましょう。
 大日本帝国海軍による“真珠湾攻撃”は、参戦を避ける方策としての“日米交渉”と並行して軍部の一部に拠って秘密裏に計画され、交渉の決裂が確認されてから止む無く行われたものと思われる。
 また、「大戦の前夜」に当たる1941年12月8日直前の我が国政府やマスコミの論調及び国民の声は、この度の東日本大震災の直後から人気タレントやアスリートを総動員してテレビや新聞などを通じて頻りに流されていた「日本は強い」「日本は団結力の固い一つのチームだ」などというCMや政府の宣伝やマスコミの論調、或いはサッカー狂いの青少年男女の掛け声などとはかなり異なったものであったと思われる。
 と言うことは、我が国の第二次世界大戦への参戦は、むしろ悲壮な決意で行なわれた“日米交渉”が決裂した結果、主として陸軍の好戦派とも言うべき幹部将官の声に唆されて軍閥政府が勝利の目算も無いままに採った無謀な施策と言うべきでありましょう。
 最近はほとんど流されなくなりましたが、あの大震災直後からつい先日まで、テレビでは、スポンサーの正体があまりよく判らないような、前述のあの「強い日本」コールのCMと共に、それとは真逆のイメージとも思われる「『遊ぼう』って言うと『遊ぼう』って言う。(中略)『ごめんね』って言うと『ごめんね』って言う。こだまでしょうか、いいえ、誰でも」という金子みすずの詩が流されて居りました。
 私たち歌詠みは、この度の東日本大震災に伴ってテレビで流されていたのが、これら二つの裏腹な内容とも思われるCMであったことを忘れてはいけません。
 人気タレントやアスリートを総動員しての「強い日本」コールは、一見すると「大戦の前夜」の我が国の世相に酷似しているようにも思われますが、そのように思うのは、私たち平成の日本人が「大戦の前夜」の庶民の心情を正しく理解していないが故の誤解であって、真実は、前記・金子みすずの「『遊ぼう』って言うと『遊ぼう』って言う。(中略)『ごめんね』って言うと『ごめんね』って言う。こだまでしょうか、いいえ、誰でも」というの詩に備わっている、切なくて静かな雰囲気こそ、「大戦の前夜」の我が国の庶民の心情や世相を表しているのかも知れません。
 〔返〕  遊ぶ気にも働く気にもなれぬまま過ごした日数ふた月余り   鳥羽省三


○  ARIGATOと並べ置かれし流木の写真に写らぬ人を想へり  (長野県) 井上孝行

 「ARIGATOと並べ置かれし流木」についての報道は、テレビでも新聞や週刊誌でも沢山為されて居りましたし、私は、それを題材にした短歌作品を厭きるほど多く読ませられました。
 そうした中にあって、本作に幾分かの新味が感じられるとすれば、「写真に写らぬ人を想へり」という四、五句目の<七七句>にありましょうか。

 〔返〕  「ARIGATO」と流木並べた被災者の暮らしの中の遊び心よ   鳥羽省三
 私はテレビで、この「ARIGATO」と「流木」を並べた「写真」を目にした時、「人間は、特に日本人は、どんか環境に置かれても、決して“遊び心”を失わないものだ」としみじみと感じました。
 かかる他愛無い事を感じたままに詠んだ、私のこの“返歌”も亦、この度の東日本大震災に取材した一首でありましょうか?


○  三月に安全唱えし識者らはいずこに消えしか泡(あぶく)のごとくに  (名古屋市) 諏訪兼位

 この題材に、彼の諏訪兼位博士がお出ましになられたのは余りにも寂しいことである、と評者は愕然たる気持ちになって居ります。
 その現実はどうであれ、「いずこに消えしか泡のごとくに」という表現は、短歌表現としては極めて月並みな表現であり、著名な科学者にして卓越した表現者たる諏訪兼位博士の高等な頭脳を必要としないと、評者には思われるからであります。
 〔返〕  識者とは何方を指しての言い条か理学博士は識者ならずか?   鳥羽省三
      識者にもさまざま派閥が在りまして世論を導く識者は指揮者     々  

○  たびたびの事故隠したる原発を想定外と吾は認めぬ  (福島市) 遠藤幸子

 本作を文脈に添って丁寧に解釈すると、「これまでにも『たびたび』『事故』を引き起こして『隠し』ていた『原発』を、『吾』は『想定外』とは『認めぬ』」といったことになりましょうか?
 詰まる所は、本作の作者は、原発の爆発「事故」と、それに関連して関係者の口から頻繁に漏れる「想定外」という流行語とを、極めて強引に結び付けて本作をお詠みになっただけのことであり、本作を真正面に据えて、真面目に評するとしたら、評者としては「本作は、作者の感情をむ剥き出しにして詠んだ“粗野な三十一音”、即ち“短歌未満の短歌”である」としか言えません。
 東電や政府機関などが、「原発」が「たびたび」起した「事故」の詳細を一般社会に正しく伝えなかったことは事実であるとしても、その事実の全てを「隠した」とは必ずしも言えません。
 また、「隠した」ことが仮に事実であったとしても、その事と「想定外」という流行語とが、どのように結び付くのかは、この一首の表現からは見えて来ません。
 こうした未成熟な感情を剥き出しにしたような幼稚な作品を入選作として、新聞紙上に掲載した者は、良識ある選者とも言えませんし、世間並みの見識を備えた編集者でもありません。
 その事と、「原発」事故を「たびたび」引き起こしながら未だに責任逃れをしようとしている東電の幹部社員や、利権絡みで原発建設推進に奔走した政治家などの責任問題とは、全く別個の問題でありましょう。
 新聞歌壇や結社誌などには、「想定外」という流行語を使った作品が掲載されることが多いのであるが、その大半は、私にとっては、貴重な新聞や結社誌の紙面を使って掲載されるのは「想定外」と思われるような駄作なのである。
 本作は、その典型的な一例である。
 評者が、この度の東日本大震災に取材した入選作品に対して、極めて冷淡な態度で臨んでいるのは、是を題材とし、テーマとした作品の多くが、ただ単に題材やスローガンだけを売り物にした作品、つまりは“短歌以前の未成熟な短歌紛いの散文”だからである。
 東日本大震災に因ってもたらされた我が国の経済的な被害も莫大であるが、それに因ってもたらされた短歌界の混乱の大きさも、決して見逃し出来ないと思われるのである。
 〔返〕  たびたびに掲載されたる駄作群材料だけが一首の全て   鳥羽省三
      金太郎飴によく似た駄作のみ新聞歌壇結社誌に載る      々


○  避難地のくらしになじめぬ日々なれどここが居場所とかえねばならぬ  (釜石市) 宮館テル

 作者にとっての大震災以後のこの数ヶ月は、「避難地のくらしになじめぬ日々」であったに違いなかったことは、私にもよく解ります。
 しかし乍ら、馴染むも馴染まぬも、「居場所」が行政機関の手に拠って用意されて居ればこそのことでありましょう。
 「短歌は消閑の具」とも言われます。
 その「消閑の具」たる短歌をお詠みになることが出来るのも、「居場所」としての「避難地」が在ればこそのこととお思いになられ、益々ご努力なさって下さい。
 申し上げ難いことを敢えて申し上げますが、今回の被災者の方々のお暮らしについて思うに当たって、私は「赤信号みんなで渡れば怖くない」という川柳を思い出しました。
 と言うのは、「生活支持者の死や急病や不況が原因の失業」「貰い火に因る火災によっての自宅の焼失」といった、個人的な被災の場合には、行政機関からの援助やボランティアの方々の支援などが全く望めず、文字通り路頭に迷うしか無いからである。
 本作の表現について一言すれば、「ここが居場所とかえねばならぬ」といった、舌足らずで意味不明の表現を伴った作品が、優れた短歌として顕彰され、朝日新聞のような権威のある新聞紙上に掲載されるのも、題材が題材だからでありましょう。
 〔返〕  倹約に馴染めぬ暮らしされどなお倹約しつつ寄付などもする   鳥羽省三   


○  原発への不安詠み来し人の歌朝日歌壇の切り抜きに読む  (山形市) 渋間悦子

 本作の題材となっている「原発への不安詠み来し人の歌」が「朝日歌壇」に掲載されたのは、東日本大震災の発生以前のことでありましょうか?
 それとも、事後、つまり地震発生から数日経ってのことでありましょうか?
 更にお訊ね致しますが、件の「歌」とは、福島市にお住いの美原凍子さんの御作ではありませんか?
 〔返〕  往く所不安在らざる所無し住めば都は夢のまた夢   鳥羽省三


○  ことあらば飛散し来るやも海峡を隔て見やりぬ刈羽原発  (佐渡市) 神蔵 久

 何やら、古代中国の格言「杞憂」めいた内容の作品ではありますが、「或いは」とも思われます。
 それにしても、「ことあらば」の「こと」が恐ろしいこと。
 〔返〕  越後なる刈羽原発ことありて佐渡の鴇など飛ぶ日もあらむ   鳥羽省三  

○  「頑張って」「がんばれ」「ガンバレ」もう沢山!私とっくに頑張ってます  (仙台市) 坂本捷子

 5月9日付けの朝日新聞朝刊に、“朝日歌壇”の“高野公彦選”の入選作として、福島市にお住いの伊藤緑さんの御作「『がんばろう』『がんばって』より『大丈夫、心配ないよ』と言って欲しい」が掲載されている。
 本作と伊藤緑さん作との間には、格別な模倣関係はありませんでしょうが、両作品は同工異曲と思われる作品ではある。
 本作の良さは、「私とっくに頑張ってます」と、突き放したところに在るのかも知れませんね?
 〔返〕  「ガンバル」も「がんばってます」も余計です! 被災者なれば頑張るしか無い!   鳥羽省三


○  ひと月を体育館に過ごしたる亡骸三百体(さんびゃく)運ばれゆきぬ  (久慈市) 三船武子

 遺体の確認作業が難しいことから、被災者の「亡骸」が「ひと月」も「体育館」で過ごすことはあり得ましょう。
 また、火葬場所の関係で、「ひと月を体育館に過ごしたる亡骸三百体」が、ある日、一斉に何処かに「運ばれ」て行くこともあり得ましょう。
 それにしても、あまりにも惨たらしい出来事であり、あまりにも惨たらしい内容の作品である。
 「三百体」の「亡骸」が無くなった後の「体育館」で、死臭の漂う「体育館」で、児童生徒たちは、翌日から体育の授業を受けたり、クラブ活動を行ったりするのでありましょうか?
 〔返〕  ひと月を遺骸と共に過ごしたる跳び箱に残る死臭の凄さ   鳥羽省三
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今週の朝日歌壇から(5月16日掲載・其の1・再訂版)

2011年05月22日 | 今週の朝日歌壇から
[馬場あき子選]

○  ペットボトルの残り少なき水をもて位牌洗ひぬ瓦礫の中に  (いわき市) 吉野紀子

 東日本大震災関係の作品については、作者の方々の切ないご心情を思えば、私とて同情を禁じ得ず、読む度ごとに涙を流してしまうのであるが、この際は、そうした観点に囚われずに、専ら表現技巧などについてのみ発言させていただきます。

 「ペットボトルの残り少なき水」で以って「瓦礫の中」から探し出した「位牌」を洗う、というのが、なかなかに劇的、感激的な配置であるとも言えましょうが、本作の場合は、作者ご自身の実体験に基づいてお詠みになったのでありましょう。
 〔返〕  飲み水はこの際大事にしましょうね。明日も在るとは限らないから。   鳥羽省三
      瓦礫からやっと見つけた位牌二基ペットボトルの水もて洗う         々
      

○  原発事故起きてからずっとヨコスカの米軍住宅の灯は灯らない  (横須賀市) 梅田悦子

 基地の街「ヨコスカ」の「米軍住宅」の住人たちは、米国空軍差し回しのジェット機に乗って、一先ずは米国本土かグァム島辺りに一時帰休しているのでありましょうか?
 〔返〕  ヨコスカのどぶ板通りのママさんもお客が来ぬと零して居らむ   鳥羽省三


○  入学式の返事の中に低い声遺影を抱いた母親の声  (塩尻市) 百瀬 亨

 本作も亦、「遺影を抱いた母親」に「入学式」を対置させるという、“短歌的抒情的な発想”に基づいての、泣かせる作品である。
 こうした安直な計算に基づいての作品は、次から次へと模倣的、類想的な作品を生み出すばかりであり、朝日歌壇の選者たちが、こうした作品を入選作にすることを止めない限りは、我が歌壇での“短歌革新”は永久に成らないものと知るべきである。
 ところで、本作に描かれているような劇的とも言える場面が現出したのは、入学生を受け入れる側、即ち“学校側”の一方的な演出措置のようにも思われるが、いかがでありましょうか?
 もしも、それが真実だとすると、それを称して、教育行政側の“温情”乃至は“精神的な余裕”とも申せましょうが、私のような臍曲がりからすると、学校側と被災者側との馴れ合いに基づいた“遊びごと”のようにも思われるのである。
 昨日の朝日新聞朝刊に、北東北地方のある県の中学の教師たちが、「受け持ちクラスの生徒で大震災の見舞金の寄付に応じない者の名前を黒板に掲示した」という、驚くべき内容のニュースが報じられていた。
 思うに、大震災で亡くなった子供の「遺影を抱いた母親」を「入学式」に列席させ、学校長がわざわざ壇上で、その名を呼び上げて「遺影を抱いた母親」に代返させる、という芸細やかな演出を考え出すかと思うと、上記のような無神経なことを平気で仕出かすのも、公立学校という“親方日の丸的な暗幕”に包まれて保護されている教師たちがやらかすようなことではある。
 〔返〕  愛し子の遺影抱かされ咽びつつ入学式に出た母親よ   鳥羽省三


○  遺体はこぶ要請うけし搬送車パンと水積みて被災地に向う  (八戸市) 山村陽一

 東日本大震災ラッシュとも言うべき朝日歌壇の入選作中に、八戸市の山村陽一さんの作品が見られないことは、ある意味では不思議な現象ではありましょう?
 だが、その反面、あのロシアの木地玩具“マトリューシュカ”にも“金太郎飴”にも似た類型的な作品群の中に山村陽一さんの作品が混じっていないことを心の支えとして来た私としては、この度、山村陽一さんのこの作品に出遭ったことは、とても複雑な気持ちである。
 したがって、「『遺体』を『はこぶ』『搬送車』に『積み』込んだ『パンと水』は、その『搬送車』の乗務員の方の為に用意されたものでありましょうか?」などという、幼稚な皮肉を言ってみたくもなるのである。
 〔返〕  亡き人の死臭漂う搬送車積荷のパンも仏の香り   鳥羽省三


○  安置所でひとり娘と再会し号泣する父叶わずにいる親  (東京都) 山中功夫

 「安置所でひとり娘と再会し号泣する父」というところまでは意味明瞭であるが、その後の「叶わずにいる親」というのは“独り善がり”で、意味不明瞭な表現である。
 〔返〕  亡骸にさえも会うこと叶わなく咽び泣きする父母も在る   鳥羽省三


○  置き去りの大型犬は捨てられて空を仰ぎて二度遠吠えす  (多摩市) 町野香代子

 作中の「大型犬」は、飼い主によって「置き去り」にされたうえに、更に「捨てられ」たのでありましょうか?
 だとすれば、飼い主の仕打ちは、極めてご丁寧な仕打ちであると同時に、遺棄のうえに更に遺棄を重ねる、といったような、極めて残酷な仕打ちでありましょう。
 〔返〕  名作の『山月記』をも思はする作品なれば残念至極   鳥羽省三


○  俺も牛も死ねというのか原発の警戒区域の酪農家哭く  (白河市) 舟部 勲

 福島県民が、原発誘致派の政治家に唆されて、東電の「原発」設置を受け入れた時から、「俺も牛も死ねというのか」という「酪農家」の悲劇が始っているのである。
 「警戒区域の酪農家」と言えども、一時的には、東電や政府からもたらされる見返りの恩恵に浴しているはずであり、そんなことを思うと、本作は“今更めいた泣き言”を漏らしたような作品とも申せましょう。
 受け入れた側の責任、ということもありましょう。
 無知で無恥で無責任な選挙民が「哭く」ような図柄は、必ずしも悲劇と言うに値しません、とまで申し上げたら、余りにも冷酷に過ぎましょうか?
 〔返〕  原発を受け入れ側の政治家を受け入れたのは何処の何方だ   鳥羽省三


○  従業員の如くとアレバのCEO謙虚のこころフランスに学ぶ  (町田市) 冨山俊朗

 作中の「アレバ」とは、フランスに本社を置く世界最大の原子力産業複合企業であり、「CEO」とは、企業などの“最高経営責任者”の略称である。
 本作は、先頃、我が国を訪れた「アレバ」の“アンヌ・ロベルジョン最高経営責任者”の記者会見での発言中に、「(貴国は私を)従業員の如く(に使って下さい)」といったニュアンスの言葉が在った(かどうかは、私は知りませんが)ことを詠んだのでありましょうか?
 作中に「アレバのCEO」といった話題性に富んだ言葉が詰め込むと、それらしい一首になるのであるが、それに騙されて、材料だけが売り物の作品を入選作とした選者にも問題が在りましょう。
 〔返〕  東電のCEDの清水さん蓄財法を何処で学んだ   鳥羽省三
      入院中住宅ローン一億の算段したか清水社長は     々


○  放水の任務終へたる隊長の部下を称ふることばうるみて  (徳島県) 吉田 哲

 「放水」でずぶ濡れになったから、「隊長」さんが「部下を称ふることば」も潤んだのでありましょうか?
 〔返〕  原発に憲法改定促され交戦国になるかも知れぬ?   鳥羽省三
      謙虚なら負けていません原発の賠償のため税金使う    々


○  山羊の仔の人に触れくる無防備に母山羊は眼を細めつつ見つ  (前橋市) 荻原葉月 

 原発の前に「無防備」であった、“臣・中曽根康弘氏”を初めとした私たち日本国民は、作中の「山羊」の「母」の爪の垢を煎じて飲まなければなりません。
 〔返〕  可愛いと危険の区別出来ぬのか山羊の母さん目を細めてる   鳥羽省三  
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