臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

犬塚勉略歴

2017年06月05日 | ブログ逍遥
*** 犬塚勉略歴 ***
1949年10月15日 犬塚忠次、洋子の四男として川崎市に生まれる
1956年3月 6歳 東京都南多摩郡稲城村(現稲城市)に転居。多摩丘陵と多摩川の自然に囲まれて育つ
1976年3月 26歳 東京学芸大学大学院修了
1976年4月 東京都町田市立鶴川第二中学校美術科教論として赴任
1978年 夏 28歳 スペインの南部アンダルシア地方を中心に遊学
1979年3月 29歳 竹花陽子と結婚
1979年夏 スペインの北部カタロニア地方を中心に教会などを訪ねる
1980年4月 30歳 東京都多摩市立北豊ヶ丘小学校図工専任教論として転任
1980年夏 北海道の旅 大雪連峰旭岳で初めての本格的登山 *
1980年9月 「塗り込められた記憶A」第48回独立展入選
1981年8月 笛吹川東沢を溯行 雨のため途中で断念 *
1981年9月 青木鉱泉~鳳凰三山縦走
1982年6月 東沢溯行~甲武信岳。自然を味わい、以後登山にのめり込む
1982年7月 笛吹川ヌク沢左俣、東沢東のナメ沢~鶏冠尾根
1982年8月 甲斐駒ヶ岳黄蓮谷右俣烏帽子沢溯行
1982年10月 33歳 北沢~北岳~池山吊尾根~芦安。途中から雪になる
1983年1月 長男、嶺(りょう)誕生
1983年2月 広沢寺の岩場
1983年4月 転付峠~荒川三山~赤石岳東尾根~椹島
1983年5月 奥多摩・つづら岩
1983年7月 西穂高岳~奥穂高岳~槍ヶ岳~燕岳縦走
1983年8月 扇沢~針ノ木岳~五色ケ原~立山~剱岳~ハシゴ段乗越~内蔵助平~黒四ダム
1984年2月 34歳 雲取山 大雪のため、初めての本格的冬山となる
1984年3月 八ヶ岳・硫黄岳~赤岳縦走 ピッケル、アイゼンを初めて活用する
1984年4月 奈良田~大門沢~農鳥岳~間ノ岳~北岳~池山吊尾根~奈良田
1984年6月 丹沢の黍殻山草原でスケッチ。密度の高い草原の絵を描く技法を考えついたことで、後の作品に大きな影響をもたらした
1984年8月 ブナ立尾根~烏帽子岳~雲ノ平~薬師岳~五色ヶ原~平ノ小屋~黒四ダム
夜叉神峠~鳳凰三山~甲斐駒ヶ岳縦走
「ひぐらしの鳴く」第20回神奈川展入選
1984年9月 大樺沢~北岳~両俣~仙塩尾根~仙丈岳~北沢峠縦走
1984年11月 35歳 大樺沢~北岳往復 八ヶ岳・地蔵尾根~横岳~硫黄岳~黒百合平~渋ノ湯
1984年12月 渋ノ湯~天狗岳~硫黄岳~地蔵尾根~行者小屋~阿弥陀岳往復
1985年1月 笛吹川東沢アイスクライミング。氷の廊下を歩き、凍った沢の美しさに魅了される
1985年2月 厳冬期甲斐駒ヶ岳。黒戸尾根八合目手前で強風のため断念
1985年3月 白根御池から北岳往復。芦安から歩く
1985年5月 槍沢~槍ヶ岳~東鎌尾根~燕岳縦走
「林の方へ」第1回多摩総合美術展入選
1985年8月 北岳~塩見岳~赤石岳~小渋川~飯田
中央アルプス・宝剣岳~中岳~木曽駒ヶ岳縦走
1985年9月 北岳登頂 *
1985年10月 36歳 次男、悠(ゆう)誕生
1986年2月 八ヶ岳・行者小屋をベースに阿弥陀岳~横岳
1986年3月 鹿塩~三伏峠~塩見岳往復。吹雪とラッセルに苦闘する
1986年5月 槍ヶ岳~東鎌尾根~燕岳縦走
「梅雨の晴れ間」第2回多摩総合美術展入選。
1986年8月 白馬岳~唐松岳~八方尾根 奥穂高岳~北穂高岳縦走
1986年12月 37歳 奈良田~大門沢~間ノ岳~北岳~池山吊尾根~奈良田。強風と雪の中の縦走
1987年2月 「山の暮らし」第1回多摩秀作美術展入選
1987年4月 東京都八王子市立川口小学校図工専任教諭として赴任。同時に、多摩の団地から東京都西多摩郡五日市町(現あきる野市)の養沢に転居
1987年5月 「森の昼食」第3回多摩総合美術展佳作
1987年8月 扇沢溯行~小太郎山~北岳~両俣~仙丈岳~北沢峠縦走
1987年9月 奥多摩・三頭山三頭沢溯行
家族で上養沢から七代ノ滝、綾広ノ滝を経て大岳山
大型カメラとカラー引き延ばし機を使い、絵画制作のための写真を自分で現像し始める
「私の夏休み」第23回神奈川県展入選
1987年10月 38歳 鳩待峠~尾瀬ヶ原~尾瀬沼往復。「晩秋の山旅」のイメージを生む
1988年1月 八ヶ岳撮影行。黒百合平~天狗岳~硫黄岳~横岳~地蔵尾根~美濃戸。じっくり写真を撮り思索にふける
1988年2月 ブナを求めて再度三頭山へ
「晩秋の山旅」第2回多摩秀作美術展入選
1988年4月 八ヶ岳・阿弥陀岳北稜登攀
1988年5月 「ブナの森からⅠ」第4回多摩総合美術展大賞
1988年7月 絵画のモチーフを水と石にすることを決め、以後、沢へ足を運ぶ
大雲取谷、盆堀川棡葉窪溯行
1988年8月 檜枝岐川下ノ沢~会津駒ヶ岳~中門岳。
恋ノ岐川オホコ沢~平ヶ岳。大自然の奥ふところへ入っていくときの感動が、絶筆「暗く深き渓谷の入口Ⅰ・Ⅱ」のイメージとなる。渓谷を表現する構想の一部。帰路、尾瀬の燧裏林道を歩く
1988年9月18日 丹波川・小常木谷~岩岳沢溯行
1988年9月23~26日 谷川連峰赤谷川本谷から平標山へ向かう途中、悪天候のため遭難 エビス大黒ノ頭にて力尽き永眠

*印以外の山行はいずれも単独行  


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「勺禰子さんの短歌」鑑賞

2017年05月14日 | ブログ逍遥
短歌人 2010年5月号卓上噴水 
  暗越(くらがりごえ)奈良街道  勺 禰子(しゃく・ねこ)
                             
猥雑にくりかへしては生れ消ゆる町に街道あまた交差す

鶴橋は焼肉のみがにほふではあらで鮮魚のあかき身にほふ

行き先は「鮮魚」と示されエプロンの伊勢湾の人ら乗る鮮魚列車

生きてゐたもののにほひがきはまりて鶴橋人情市場は充ちる

両岸に茶屋ありしといふ二軒茶屋跡から暗峠を目指す

旧道を辿り暗峠まで今日のふたりとして今日をゆく

すひかけのつつじがいきをふきかへしすひかへすやうなくちづけをする

きちんと育てられたんやねと君は言ふ私の闇に触れてゐるのに

夜が白みはじめるころにふくらみを増しくる咎を抱きつつ眠る

誰一人包むことなくひつそりと山に抱かれ眠る廃村

この雨と湿気を吸ひし十津川の黒き森育つやうに止まらぬ

野良猫は飼へぬわたしもそのやうなもので互ひの視線を逸らす

思ひ出せぬことだとしても前世をつぐなへと奈良はしづかに告げぬ

吉野葛白いダイヤをやはらかくふふめばやはらかに溶けてゆく

足早にゆく君の朝思ひつつ私も歩幅を整へてゆく

吉野では「鬼も内」だと君がいふ今年の桜はひとかたならず

残された後のひとりを思はせて乗り換へる山のホームは寒い

はつきりとわかる河内へ帰るとき生駒トンネル下り坂なり

相聞のかぎりと思ふ峠からみえる道行きみえぬ道行き

君を待つ峠の茶屋でひとり待つ夢の中では森はやさしい


短歌人 2017年5月号  南都八景
リヤカーで押して担いで根のついた竹を運びぬ二月堂まで

南円堂前の燈籠らくがきも墨ゆゑ残ると君が指さす

プラスチックの芝生保護材あらはなり猿沢池の柳の下に

今はなき轟橋の敷石をいまだ観光気分で踏みぬ

越えずにはどこにもゆけぬ佐保川に日ごとふくらむ桜のつぼみ

しかせんべい知らぬ個体もありぬべし聖武天皇陵に住む鹿

鹿の毛並みも若草山も写真とは違ふ景色があるあたりまへ

少しづつ日常になる奈良のまち自転車にのり雲居坂のぼる


短歌人 2017年4月号  宇和奈辺小奈辺
佐紀の地に前妻後妻もろともに仁徳なる人いまだ眠れず

陵墓参考地ふたつを割つて南端に瓦屋根つけて奈良基地はあり

稚拙な愛にあふれて「空が好き!」といふ戦闘機かがやく青きポスター

偽物の大極殿の上空にブルーインパルス描くハート型の雲

朝靄の大極殿の鮮やかな朱塗りはぶざま 荒野が恋し

短歌人 2017年3月号  追鶏祭(とりおひさい)
見えぬ鶏を追ふ所作三度繰り返す午前三時の妖しき境内
 
さまざまな罪を塗りつけられながら生きてきた鶏はそれも知らずに
 
禁忌とは渇望をさす行為ゆゑ追ひ払はれることのすがしさ
 
息長帯比売命の怒りに流されし鶏がひそかに今を息衝く
 
養鶏を奨励したといふ宮司大正デモクラシーの曙光浴びつつ
 
「たつた揚げプロジェクト」の幟はためいて竜田川に放たれし鶏をおもほゆ


短歌人 2016年11月号  新しき世界
並びゆけば肩も触れ合ふ細き細きジャンジャン横丁をかの日あゆめり

   発祥と言はれしも

千成屋珈琲店のミックスジュース飲んだかどうかの記憶おぼろに

奥の席で話し込みしをいつしかに店のおばちやんが相槌ち打てり

   ひそと閉店

意外にも珈琲は洗練されて千成屋珈琲店は雑味なき店

ニュー・ワールドへたどり着くため冬の寒い雨の新世界をきみとあゆめり

見下ろせば瓦屋根多きこの街の初代通天閣の絢爛

恵美須東といふ町名はありながら常にひらけてゆく新世界



川添英一作『流氷記60号・夢徒然』を読む(其のⅠ・改訂版)

2014年08月25日 | ブログ逍遥
 去る8月20日、大阪府高槻市にお住いの歌人・川添英一さんより思い掛けなくも当ブログ宛てにご丁重なるコメントを頂戴した。
 その記すところに拠ると、「個人歌集『流氷記』の60号を刊行したので、私・鳥羽省三の現住所を知りたい」とのことであった。
 早速、川越さん宛てにメールにて、当方の現住所などをお知らせ方々、個人歌集『流氷記』60号の刊行のお祝いを申し上げた次第であるが、それに伴って、この一年間、久しく拝見させて頂いた事の無かった、川添英一さんのホームページを開いてみたところ、『流氷記』60号の全貌を知り得たので、本日よりしばらくの間、「『流氷記60号・夢徒然』を読む」と題して、川添英一さんの最新作の鑑賞に当たらせて頂きますので、作者の川添英一さん並びに本ブログの読者の方々には、宜しくお願い申し上げます。


①  図書室の本積み上げて流氷記束ねて圧縮されし数日
②  バカ犬は吠えてばかりと教えればやや大人しくなる生徒あり
③  聞き耳を立てては上司に悪く言うこの鼻糞のような人あり
④  本当につまらぬ人を気に留めて悩む自分が馬鹿らしくなる
⑤  なぜこうもつまらぬ人が限られた残り時間を邪魔ばかりする
⑥  世間とは外れた見方ばかりする我こそつまらぬ人かもしれぬ
⑦  時折は触らぬ神にたたりなき用心もして今日も暮れゆく

 上掲の七首は、歌人・川添英一さんの中学校教師としての生活に取材した作品である。
 私は、川添英一さんが既に定年退職なさり、悠々自適の生活を送って居られるとばかり思っていたので、前述の川越さん宛てのメールの文面に於いても、「川添様に於かれましては、恐らくは教員生活をご退職なさった事と拝察しますが、如何でありましょうか?」などと記してしまった次第ではありましたが、これらの七首の作品から推して知るに、川添英一さんは未だに大阪府下の中学校にご勤務なさって居られるご様子で、この度の『流氷記』60号の「編集後記」にも、「この四月に茨木市立東雲中学校から南中学校へ転勤。めまぐるしい異動である。一年間で学校を変わるというのは初めての体験だが、その分接する生徒が増えて楽しい面もある。二年生と三年生の二クラスずつ教科を受け持つことになったが生徒も僕も楽しい充実した時間を過ごしている。生徒もみなが集中して僕の話を聞いてくれるので自然成績も良くなり、或るクラスは一回目の定期テスト九十点台が十二人、八十点台が七人でクラスの丁度半分が八十点以上になった。生徒の感想も授業が楽しかったというのが多かったのが嬉しい」と記されている。
 私の感じるところに拠ると、「公立学校に於いては、あまりにも研究熱心、教育熱心、知的レベルが高く、問題意識の高い男性教師は、県教委(市教委)や管理職などから警戒され、嫌悪され、管理職に登用されることが無く、平教員のままに定年退職の日を迎える」という傾向がありますから、定年退職の日を目前にして、未だに教科担任としての仕事に情熱を燃やして居られる、川添英一さんの教師としての日々は、必ずしも満ち足りた日々とは言えないものだろうと、勝手に憶測しているのである。
 前掲の「②・③・④・⑤」の四首は、川添英一さんのそうした満ち足りない日々を覗い知るに充分な作品と思われ、「⑥・⑦」の二首は、そうした苦労の多い立場に立たせられている川添英一さんが、ふと漏らしてしまった溜め息のような趣が感じられる作品である。
 前掲の「①」、即ち「図書室の本積み上げて流氷記束ねて圧縮されし数日」は、この度、ご刊行なさった60号を初めとした、川添英一さんの個人歌集『流氷記』の成り立ちを説明していて、私にとっては真に興味深く、趣き深い一首である。
 一首の意は、「私は、私自身の個人歌集『流氷記』を刊行するに当たって、この数日間、勤務校の図書室の分厚い本を、件の歌集の上に幾冊も積み上げて、正しく折り目が付くように圧縮しているのである」といったところでありましょうが、このような難しい手順を経て仕立て上げられた中の一冊が、川添英一さんがお住まいの高槻市の郵便ポストに投函されて、はるばると我が家の郵便受けまで運ばれて来るのでありましょうか。
 なお、同歌集には、「三千円歌集は一円でも売れず溶かされてまた紙となりゆく」並びに「目録に高価な歌集並びおり我楽多となる定めも知らず」という、歌人と名乗る他の方々の歌集への皮肉たっぷりな二首も掲載されているのであるが、これらの二首こそは、主宰と称し、選者と称する有象無象の輩に雁字搦めに呪縛された、現在歌壇の歌人たちに対する痛烈な批判とも思われる作品である。

 尚、本日、二日振りに我が家の郵便受けを覗いたところ、川添様からの「クロネコメール便」の封書が入って居りました。
 就きましては、早速開封させていただきましたところ、私にとっては初見の「流氷記」の第五十九号と第六十号が現れ出でましたので、今晩でも拝見させていただきました上で、近日中に「一首評」なども電子メールにて述べさせていただきますので、何卒、宜しくお願い申し上げます。  八月二十五日  鳥羽省三

「黒田英雄の安輝素日記」より(其の2・月曜別冊付録)

2014年08月25日 | ブログ逍遥
 ブログ「黒田英雄の安輝素日記」の去る8月11日の記事は、「『短歌人』八月号・会員欄秀歌選」であったので、気の赴くままに寸評を試みてみたい。

    
○  あたたかい暗闇われはうつとりと死をば思へり死はあたたかい  大室ゆらぎ

 「あたたかい暗闇」というショッキングな詠い出しで以って、作者の大室ゆらぎさんは、選者の黒田英雄氏を彼女自身が敷いた陥穽に転落させてしまったのである。
 しかし、この場合、私たちは、黒田英雄氏のうかつさを必ずしも責めてはなりませんし、それよりも、むしろ大室ゆらぎさんの敷いた陥穽の完成度の高さを誉めるべきである。
 かくして、「死」への誘いは、必然的に温かさを伴うのでありましょうか?
 〔返〕  温かい暗闇われは一本のマッチを購ひて秘処見つめをり


○  老いたれば老いたるままに友歌う「マイボニー」の唄に惻惻として  榊原トシ子

 作中の「マイボニー(My Bonnie)」とは、元々はスコットランド民謡であるが、ドイツの人気歌手「トニー・シェリダン(Tony Sheridan)」が、デビュー前の「ザ・ビートルズ」をバックバンドにして現代風にアレンジして歌い、1962年にポリトールレコード社からリリースされた、とのこと。
 本作の作者・榊原トシ子さんは、ご自身の「老いたる」「友」が「老いたるままに」「歌う」この曲に、「惻惻として」胸に迫る思いを感じながら耳を傾けたのでありましょう。
 ところで、彼の黒田英雄氏が、この一首を秀歌選に加えたのは、その物語的な内容もさる事ながら、元々は地味なスコットランド民謡に過ぎなかった「My Bonnie」を、デビュー前の「ザ・ビートルズ」をバックバンドとして従え、ドイツ人のトニー・シェリダンが歌ったという、題材となったこの曲、即ち「マイボニー(My Bonnie)」の来歴に興味を持ったからでありましょう。
 〔返〕  老いたれば老いたるままに耳にするフォレスタ歌う「故郷の廃家」


○  気取り屋の猫のミミコもいなくなり窓はいちめん夕焼けになる  橋本明美

 いわゆる「歌人ちゃん」の詠んだ軽口めいた作風ながらも、一首全体に物語の奥行きが感じられる佳作である。
 「気取り屋の猫のミミコもいなくなり」などと、いきなし橋本明美さんに言われると、件の「猫のミミコ」と彼女との抜き差しならぬ関係さえも想像されて、評者の私は、パソコンのキーを叩く手を休め、しばし呆然として「窓」「いちめん」に映える「夕焼け」空を眺め入ってしまうのである。
 〔返〕  爾後美女は猫飼ふ事も無かりけり窓一面に映ゆる夕焼け


○  ミルクティーのミルクは薄い膜となる君は静かに怒りを語る  野上 卓

 「『君』が『静かに』私に向けて『怒り』の思いを『語る』ので、私としては卓上の『ミルクティー』に手を出す訳には行かなったのであるが、その間に、件の『ミルクティーのミルクは薄い膜』を作ってしまったが、その始末を『君』はどう付けて呉れるのだ!」という訳でありましょうか?
 否、あの人格者の野上卓さんのことであるから、「その始末を『君』はどう付けて呉れるのだ!」とまでは言わなかったのかも知れません?
 ところで、「ミルクティーのミルク」が「薄い膜」になってしまうのは「ラムスデン現象」と言って、40℃以上に熱せられたミルクが空気に触れることに拠って、表面の水分だけが蒸発し、ミルクの主成分であるタンパク質や脂肪分が固まって膜状になるのである。
 こうした現象は、大豆を擂り潰して作った生呉を温めて湯葉を作る際にも生じる現象であり、その皮膜自体は毒ではありませんから、本作の作者の野上卓さんに於かれましては、京都の老舗旅館で湯葉料理を食するつもりで、ご賞味なさったら如何でありましょうか(笑)
 但し、相手の女性から、「私がこんなにも怒りを感じているのに、作者の貴方は、ミルクティーのミルクの皮膜を舌なめずりして食べているなんて許せない!私はこの劇の主役から下りさせていただきますから、野上さんも覚悟しておきなさいよ!」などと逆襲される恐れもありますから、何卒、お覚悟の程を!
 それにしても、戯作者稼業も決して楽ではありませんね。
 〔返〕  ミルクティーのミルクの皺の如くにも目尻の皺の目立つ女優よ
 作者の野上卓さんは、恐らくは頑健に否定されることでありましょうが、本作に示されている人間関係は、老残の劇作家と年増女優との醜悪な関係であり、その醜悪性の度合いは、彼と彼女とが目前にしている、冷え切ってしまい、表面のミルクが固まってしまった、卓上のミルクティーよりも濃いのかも知れません。


○  この顔で永らく生きて来たのかとしみじみ鏡の前に立つ朝  中島敦子

 前掲の野上卓さん作に登場する「君」を巡っての後日談でありましょうか?
 〔返〕  この顔でこの面相で主役など張れる訳など無かったはずだ


○  元気だと子に電話する慣習をいつしか忘れ子も忘れをり  中島敦子

 それで宜しいのです。
 親子関係とは、常にそうした冷ややかで静かな関係にならなければ本物とは言えません。
 〔返〕  子も忘れ親も忘れてしまったら「おれおれ詐欺」に遭う事は無し


○  自販機に何度入れても出てきちゃう十円玉は僕なんですよ  木嶋章夫

 必ずしも贋物では無くても、「自販機に何度入れても出てきちゃう十円玉」というものは存在するものである。
 本作の作者の木嶋章夫さんは、自らの行状を省みて、その「十円玉は僕なんですよ」と迄、情け無い事を仰るのである。
 木嶋章夫さんよ、件の「十円玉」みたいな存在は、決して決して貴方だけに限った事ではありませんよ!
 かく申す私だって、時には「自販機」にさえも受け入れて貰えない「十円玉」のような心境になってしまうのですよ!
 〔返〕  自販機が受け入れ拒否する十円玉君こそ時代の良きテロリスト 


○  白きゆえしろき暗部のだそちゆく入道雲に真向いており  たかだ牛道

 本作の作者のたかだ牛道さんは、物事の本質を良く弁えて居られる御仁である。
 本作の前半部の「白きゆえしろき暗部のだそちゆく」の叙述こそは、まさしく達観とも謂うべきものである。
 〔返〕  黒きゆえ黒き仲間を寄せたがる安倍内閣の改造人事


○  人生に遅刻はあらずベランダの苦瓜観察日記したたむ  清郷はしる

 でも、こんなにまで秋風が涼しく感じられるのでは、これからの収穫を期待する事は出来ないと思われますが、如何でありましょうか?
 我が家の表庭の苦瓜の棚は先日撤去してしまい、その後に法蓮草の種でも蒔こうかと思って、私はその下準備として、今朝、苦土石灰を散布したところでありました。
 〔返〕  人生を早退せむと思ひしもしがらみ多くて決断出来ず


○  ちりんちんキャンデー売りの通る道三年通ひし分校もない  工藤重雄

 今どき、あんた、「キャンデー売り」など来るわけ無いでしょう!
 それに「緊縮財政」の必要性が声高に叫ばれている昨今に於いては、三年通ったって、六年通ったって、「分校」など在るわけがないでしょう!
 時節柄を弁えて居りさえすれば、そんな事はいとも容易く解るわけでありましょう!
 懐旧に耽っている輩は、安倍内閣の時勢下に於いては、生きて居られませんよ!
 反省しなさい!反省を!
 〔返〕  一度でも勝ったこと無きチンチロリン キャンデー売りでもしようかしらん


○  あさぼらけ名残りの月に夢をみしこのかぜもまた森へつながる  宮澤麻衣子

 選者・黒田英雄氏の学識コンプレックスが因を為しての選歌ミスかも知れませんが、「あさぼらけ」という先人の手垢に塗れた発語で以って歌い起こされた一首が、「あさぼらけ⇒名残りの月に⇒夢をみし⇒このかぜもまた⇒森へつながる」と、綿々として繋がって行く点に着目すれば、それなりの物語性が感得され、作者の宮澤麻衣子さんの為すところの無き暮らし向きが覗われるのである。
 〔返〕  あさぼらけ名残の夢も見厭きたり古い急須で新茶を煮るな


○  怠けると決めた日曜午後五時半一番搾りの喉ごし足りず  羽入田美雪

 「一番搾り」と言えば、一応はビールである。
 〔返〕  怠けると決めた日曜なればこそ一番搾りの喉越しの悪し


○  ロバにしか通れぬ道の数多あり重き荷を負い人に沿い行く  村井かほる

 「重き荷を負い人に沿い行く」を「重き荷を負い安倍に沿い行く」としたら、満点官房相の悪口を言った事になりましょうか?
 〔返〕  馬鹿にしか通れぬ道も数多あり解釈改憲絶対反対


○  米粒詰草十センチほどの草がゆれとかげの通る道があるらし  田平子

 作中の「米粒詰草」とは、「マメ科シャジクソウ属の一年草で、ヨーロッパから西アジアが原産の帰化植物であり、我が国には明治末期に渡来した」とか。
 本作の作者は、その「米粒詰草」のわずかに「十センチほどの草」が揺れているのを見て、「とかげの通る道があるらし」と、突拍子も無い推測をしているのである。
 〔返〕  草の葉が揺れたら其処に風がある蜥蜴の通る道では無いよ!


○  思ふさま耐へたら天を仰げよと夢にでて死者は明日を語れる  佐藤綾華

 「天を仰ぐと、其処にお迎えの雲が浮かんでいる」とでも、言いたいのでありましょうか? 〔返〕  遠天を流れる雲に命無く斎藤茂吉とそっくり同じ


○  痩せてゆく家族三人 見てくれで落とすということ確かにあらん  栄田一平

 今更に何を仰るんですか?
 民放でもNHKでも、女性アナウンサーは、「見てくれ」が悪ければ、頭がいくら良くたった採用されないのですよ!
 〔返〕  痩せている力士序二段「光源治」体重69kgしか無い
      肥えている力士「大露羅」最巨漢体重271kg


○  踏み場もなく散らばつてゐる悲しみにたたずむほかはなくなりし部屋  桑原憂太郎

 本作の作者は、「題詠マラソン」でお馴染みの桑原憂太郎さんである。
 桑原憂太郎さんと言えば、昨年度末まで、北海道の特別支援学校で児童生徒の教育指導に当られていた教育者である。
 その教育者・桑原憂太郎先生が、「踏み場もなく散らばつてゐる悲しみにたたずむほかはなくなりし部屋」と悲しげにお詠みになって居られるのであるが、是は、桑原憂太郎先生のマンションに、かつての教え子さんたちが勝手に上がり込んでいたという事実に取材した作品でありましょうか?
 〔返〕  先生のマンションなれば上がり込み滅多矢鱈に散らかす児童


○  三間(サンマ)とは時間、空間、仲間なり子どもの巡りに欠けて久しく  長田貞子

 本作も亦、教育の荒廃を嘆き悲しんでいる一首であるが、前述の桑原憂太郎さん作とは異なり、児童生徒に注ぐ教育者としての温かい眼差しはあんまり感じられず、ただひたすらに我が国の学校教育の無策振りに対して、慨嘆の眼差しを注いでいるだけの作品である。
 〔返〕 三間とは間抜け、間男、間借り人、間抜け亭主は間男される
     間男をする奴決って間借り人 間抜け亭主の妻に間男  


○  目を閉じて耳に入りし鳥の声同じ調べはないと思えり  田所 勉

 黒田英雄氏の選歌力に疑問を感じざるを得ない一首である。
 先ず何と言っても、二句目の一字足らずに拠って生じたリズムの悪さである。
 次に、「耳に入りし」の「し」、「ないと思えり」の「り」と、肝心要の場面に於いては、文語の助動詞を用いながらも、一首全体を「歴史的仮名遣ひ」で表記しなかった点である。
 また、その発想にも「耳に入りし鳥の声」に「同じ調べはない」と指摘した点以外には、格別に目新しさは感じられません。
 斯くの如き三拍子揃っての凡作を敢えて「秀歌選」の一首として選定した、選者・黒田英雄氏の選歌力が問われる場面でありましょうか?
 〔返〕  今朝われの耳朶に浸み入る鶯の同じ調べに鳴くことは無し


○  ペディキュアの似合う素足のしろじろと梅雨の歩道に赤き爪冴ゆ  伊藤直子

 一首の意は「『ペディキュアの似合う素足』が『しろじろ』として『梅雨の歩道』を渡って来るのであるが、その『しろじろ』とした『素足』の先には、『赤き爪』が冴え冴えと輝いているのである」といったところでありましょうか?
 だとしたら、本作の作者の伊藤直子さんは、「素足」の同性と言うよりも、むしろその「素足」そのものにすっかり惚れてしまったのかも知れません。
 「ホモセクシュアリティ(homosexuality)」、即ち「同性愛」という言葉は、こうした事態を指摘する際にも、用いる事が可能な言葉でありましょうか?
 世の識者諸氏に訊ねたい場面ではある。
 〔返〕  「生足」と言うべき場面で「素足」と言う作者の語感はかなり古いぞ!
 

○  表情を読むロボットが現れてつぎ現れるだろう空気読むのが  小林惠四郎

 そうかも知れませんし、そうでないかも知れません。
 と言うのは、相手の「表情を読む」場合とは異なり、その場の「空気」を「読む」場合は、また一段と高等な知能とテクニックを要するからである。
 その段差は、幾何級数的なレベルのものであり、せいぜい算術頭でしかない、現代社会の「ロボット」製作者たちの頭では対応する事が不可能なことと思われるのである。
 〔返〕  表情を読むロボットは一次元空気を読むロボットは異次元に住む


○  いつしかに人間嫌ひさう云へば嫌はれてゐるほつとして老々  坂井あゆみ

 高齢者特有の「僻み根性」乃至は「開き直り」から出た一首でありましょうか?
 〔返〕  最初から嫌われているお婆さん僻み言葉も休み休み言え

「黒田英雄の安輝素日記」より(其の1)

2014年08月23日 | ブログ逍遥
「黒田英雄の安輝素日記」(№2477)に、「『塔』八月号・陽の当たらない名歌選1」と銘打って、結社誌「塔」の会員の方々の傑作25首が掲載されていた。
 黒田英雄さんと言えば、「短歌というものは、如何に詠むかという事よりも、何を詠むかという事が大事である」という、独自の短歌観に基づいて偏向的な選定をしている方であるが、彼の選定になる、結社誌「塔」及び「短歌人」からの選出作品には、私にとっては少なからぬ魅力を感じるのであり、就きましてはこの機会を利用して拙い寸評などを述べさせていただきます。

○  誰にでもさみしいと言ふ癖のあるこの娘は存外満たされてゐる  毛利さち子

 「誰にでもさみしいと言ふ癖のあるこの娘は存外満たされてゐる」という、本作の作者の認識は、人間心理の一側面に就いて述べたものとしても、ある程度、妥当と言える認識なのかも知れません。
 とは言えど、それは当該者たる「娘」の生い立ちや現在の境遇などに応じて様々なるケースがありますから、一方的にそうとばかり決め付けていてはいけません。
 その事を具体的かつ卑近的な例を上げて説明しますと、「誰にでもさみしいと言ふ癖のある」件の「娘」は、本作の作者・毛利さち子さんの娘さんでありましょうか、それとも、行き付けの酒場の莫連女でありましょうか?
 私の少ない経験から述べさせて頂きますと、昨今の場末の酒場などには、この種の言葉を口にして男たちの関心をそそり、しこたま飲ませ、有り金全部をふんだくろうとする莫連女が居るのであり、今から五年前のある秋の一夜の事であるが、私もその当時滞留していた埼玉県川口市青木町の飲み屋で此の手の莫連女の口車にまんまと乗せられ、財布の中身・十数万円を残らずふんだくられたことがありますから、世の男性諸君はよくよく注意して事に当たらなければなりません。(事に当たるとはどんな意味ですか?蔭の声)
 仮に、件の「娘」さんが作者の娘さんであった場合に於いても、母親としての毛利さち子さんは、「この娘」の普段からの行状によくよく注意しておく必要があり、「此れもかねてよりの母親としての私の愛情の賜物でありましょう」などと安心して居てはいけません。
 この手の娘さんの帰宅時間が午後10時を回っていたりすると、彼女が援交に走っている可能性が大であり、更に想像を逞しくして申せば、彼女の援交の相手が毛利さち子さんよりもずっとずっと高齢の独身男性であったりして、その裡に娘さんから「お母さん、私はあのお爺さんと結婚する事に決めましたから、来月から高校を中退して、この家から出て行きたいと思ってます」などと打ち明けられたりする可能性だって無きにしもあらずなのである。
 〔返〕  母の愛に満たされているはずなるが耄碌爺の魔羅に満たされ


○  この子はもう帰って来ない 仕送りをすればメールで礼を言いくる  宮地しもん

 「メール」でも何でも「礼を言いくる」だけでも「善し」としなければなりません。
 〔返〕  「金送れ!心配無用!」とメールあり心配せずに居られるもんか


○  父の日も母の日も無いあの頃は父の座があり母の座があり  坂上民江

 生きている事を、今の暮らしがある事を、誰に感謝されないまでも、あの頃の狭い家の中には、確かに「父の座があり母の座」が在ったのである。
 それなのに、今は行政主導の「父の日も母の日」も在るが、肝心要の「父」や「母」を老人福祉施設のベッドの中に閉じ込めておくのである。
 〔返〕  母の日は確かに在るが父の日は在ること在るが贈り物無し


○  関西の男は使はぬ「俺たち」を応援歌なら声合はせをり  朝井さとる

 関東の男たちならば「俺たち」と言って意気がって見せる場面を、「関西の男」たちは「おいら」と言うそうですが、そもそも「おいら」では男性の自称の単数を指す言葉であり、意気がるも意気がらぬも無い事ではありませんか?
 〔返〕  おまいらに八尾の男の意気の好さ知らしたらんか掛かって来いよ


○  窓伝ふ雨に景色は歪みをり汁のわかめを箸におよがす  筑井悦子

 「汁のわかめを箸におよがす」という、下の二句に生活の匂いを感じて、黒田英雄さんは、この一首を選んだのでありましょうか?
 この下の句から察するに、作者の筑井悦子さんは病気療養中かとも思われる。
 〔返〕  窓伝う蠅の歩みのおろおろと我が療養も二年目の冬


○  眠りいるあいだに癒えるかなしみのひとつと思いまた眠るなり  永田 愛

 仰る通り、「眠りいるあいだに癒えるかなしみ」というもの確かに在るように思います。
 でも、そのように感じた場合は、私ならば却って眠れなくなってしまいますが、永田愛さんともなれば、「また眠るなり」となってしまうのであるから、長年の短歌修行も決して無駄ではなかったという事にもなりましょう。
 〔返〕  湯治場の二泊三日の素泊まりで恋の病も既に癒えたり


○  一瞬を不安よぎれり卓の上の息子の名前に社長とあれば  福政ますみ

 「今どきの社長と来たら、碌な事をしない筈だ」と、母親としての福政ますみさんは、直感的に思ったのでありましょうか?
 〔返〕  我が腹を痛めて生んだ子であれば真面な社長になれるはず無し 


○  借り部屋の更新の春うつぶせに六畳を抱くかたちに眠る  沼尻つた子

 掲載歌中、第一番の出来栄えの作品として、感動を覚えながら読ませていただきました。
 それにしても今どき、わずか「六畳」一間のアパートに寝起きしているとは、本作の作者の沼尻つた子さんの哀しい境遇を思って、私は不覚にも涙を流してしまいました。
 「うつぶせに六畳を抱くかたちに眠る」という下の句の表現に拠ると、作者の沼尻つた子さんは、件のアパートの家主さんから「間代の値上げに応じなければ退去せよ」との恐喝めいた言葉を押し付けられたのでありましょうか?
 〔返〕  一夜のみ今宵限りのアパートで涙で濡れた枕抱き寝る


○  カーテンが「し」の字になつたと子の言へり南風吹く春は来にけり  杉本潤子

 「カーテンが『し』の字になつた」程度では、まだまだ庭の梅が綻ぶ程度の微風でありましょう。
 その裡に、カーテンが吹き飛ばされてしまう春一番の風が遣って来ますから、窓を開けっぱなしにしていてはいけません。
 〔返〕  カーテンが濡れてしまってぐじゃぐじゃになってしまった二百十日の夜


○  娘を守ることが一番 よそ者はよそ者でもいいよその土地では  片山楓子

 「他所者は可愛くない子もお出迎え」との一句もありますから、知らない土地での母子の二人暮らしは、「娘を守ることが一番」です。
 「よその土地」に馴染み、その土地の人々から愛され、可能ならばしよう、などと思ったりしてはいけません。
 住み厭きたり、何かのトラブルに巻き込まれそうになったら、母子ともども、また別の土地に行って住めばいいだけのことでありますから(なんちゃったりして。笑)
 それにしても「よそ者はよそ者でもいいよその土地では」とまで開き直るとは、本作の作者の片山楓子さんは、只の母親ではありません。
 〔返〕  他所者は他所者なりのお賽銭旅路の神は頼むに足らず


○  「オルガドロン」核ミサイルのやうな名の目薬がいつもポケットにあり  苅谷君代

 本作の作者は苅谷君代さんである。
 苅谷君代さんと言えば、かつては神奈川県立橋本高校の国語科の教師として、新米教師の俵万智教諭と妍を競った女性歌人でありますが、その後、お身体のお加減は如何でありましょうか?
 「塔21世紀叢書」の一冊としてご刊行なさった、歌集『初めての<青>』所収の次のような作品に拠ると、ご在職中に強度の「眼疾」にお悩みのご様子ですが、件の歌集のタイトルから察するとご全快なさってご様子。
 先ずはご全快おめでとうございます。
○ 執刀の医師の握れるメスの先ほのかに見えて切り開かるる目
○ 水晶体の濁りを砕きしのちの眸に映る空あり初めての<青>
○ 答案用紙に目を擦りつけて採点すかかる姿勢は人には見せず
○ 白杖の先をゆつくり辷らせてわが掌に伝はる舗道の窪み
○ 少女は見えぬ目を光の方にむけて「春の匂ひ」とよろこびてをり
○ 夢の中に本を読みたるときめきよ目覚めてなほも動悸はやまず
○ 指先に「読む」六点の凹凸が無機質の塊の如くに並ぶ
○ 活字なき日々はつらかりこの夏を本一冊も読まず逝かしむ
○ 他人(ひと)の表情(かお)わからぬゆゑに丁寧に物言へばつけこむ人もありたり
○ 手探りに廊下を伝ひくる少女、魚の跳ねる動作に似たり
 〔返〕  初めての青の匂ひに泣きをらむ眼疾全快先づはめでたし


○  人生のある一点などといふものの我にはなくて土手の蒲公英  松木乃り

 「『蒲公英』の花は、『土手』の道沿いに点々として生えているのであるが、『人生のある一点などといふ』曖昧で気休め的な『もの』は『我にはなくて』」という意でありましょうか?
 〔返〕  気休めであるも亦佳し土手沿いに蒲公英のはな点々と咲く


○  病棟のエレベーターは一階の茶房の香りつれて来たりぬ  園田昭夫

 入院中の患者が「一階の茶房」まで足を運んで、熱いコーヒーの香りをさせて「エレベーター」に乗って戻って来るとは、この女性は近々退院をするのでありましょうか?
 〔返〕  ぷんぷんと死臭浸み入る病院のエレベーターに乗りたくはなし


○  眼鏡かけうつむくひとよ光りつつ滴る痛み耐へてゐるのか  新井 蜜

 「光りつつ滴る痛み」という三、四句目の十二音は、仮に実景としても、その意味が分りません。
 或いは、「眼鏡かけうつむくひと」の独特の目配せに、作者の新井蜜さんが、殺意にも通じる痛みを感じたのでありましょうか?
 〔返〕  眼鏡掛け俯く時の汝が顔の父親殺しの犯人に似る


○  脇役のようにたたずむ 地下鉄のホームの隅で咳をしながら  工藤吉生

 「地下鉄のホームの隅で咳をしながら」佇んで居れば、誰でも芝居の「脇役」に見られる訳はありませんよ!
 要は容貌次第。
 苦み走ったいい男でなければ、せいぜいのところ「お笑い」ぐらいにしか見られませんよ!
 〔返〕  風邪ひいて咳をするにもポーズ取る劇団「雲」の大根役者 


○  今がもう思い出だから痛くない 噛みしめて踏みしめて働く  吉岡昌俊

 本作の作者・吉岡昌俊さんは、いわゆる「ブラック企業」と呼ばれる職場で不当労働行為を強いられている労働者と思われるのであるが、「乞食も三日やれば止められない」という俚諺どおりに、今となっては、全てが「思い出だから痛くも痒くもない」という心境に達しているものと思われる。
 三ヶ月休み無しの不当労働をも「噛みしめて踏みしめて働く」という訳なのである。
 〔返〕  すき屋にて二十四時間眠らずに働いたことさえ今は思い出

 
○  猫の足がそつと近づくやうなあめ春にはそんな雨をこぼして  加藤 紀

 「猫の足がそつと近づくやうな」という語句は、「春雨」の直喩として用いられているのであるが、その観察眼の細やかさと発想の目新しさが買われての黒田英雄選への入選でありましょう。
 〔返〕  春雨が我が家の屋根を濡らすごと二匹の猫が忍び足にて寄る  


○  絶対に焼いてないよな3分を過ぎさせカップ焼きそばを食う  相原かろ

 「カップ焼きそば」も、その名が「焼きそば」であるからには、カップの中に熱湯を注いでから「3分」を過ぎると焼いたことになる、という理屈なのかしら?
 だとしても、この屁理屈だけの作品は面白くも可笑しくも無いから、選者の黒田英雄さんの選出ミスと言うべきである。
 〔返〕  絶対に焼いてないよな振りをして人の恋路に邪魔立てするな!


○  うみがめのような子らなり這い上がる夜明けの部屋を布団の上へ  矢澤麻子

 「布団」を積み上げた上に乗って遊ぶ事は、旅行先の旅館や帰省先の母の実家に於いて、子供たちがよく遣らかす遊びである。
 それを以って、生れた砂浜から海へと夜明け前に巣立って行く「うみがめ」の子に見立てたのは、なかなか新鮮なる見立てではある。
 〔返〕  猫の仔が炬燵に潜り込む如く母親我を慕える子らよ


○  結婚はまだですかなんて聞かないで息子より私が傷ついてます  石井久美子

 三十代も半ば過ぎになるのにも関わらず未だ独り身の「息子」を持てば、他人様から「結婚はまだですか?」なんて訊ねられれば、息子本人よりも母親である私の方が「傷ついてます」から、そんな事は訊ねないで欲しい、という訳なのである。
 〔返〕  初孫を抱いてみたいと思えどもその前提の結婚もまだ  


○  学校ではとても元気で良い子ですと言ふ担任の揺れるピアス見る  花 凜

 お子様の学級担任の若い女教師から「学校ではとても元気で良い子です」と言われた花凜さんご自身は、残念ながら、耳たぶに「揺れる」ような「ピアス」を付けるような年限を過ぎている母親なのかも知れません。
 最近の母親はさんざん独身生活を楽しんだ後、四十才近くになってから結婚し、出産したりする例が多いから、本作の作者の花凜さんもお名前には似合わず、その一例なのかも知れません。
 〔返〕  名は「花凜」、何と読むかは知らねども五十路半ばで小二の母だ


○  母親の前にてわれは泣きはらすことあらざりき この娘のように  黒沢 梓

 近頃の娘たちは、さんざんぱら親不孝をしているくせして、これぞという場面になったら、恥も外聞も気にせずに、大袈裟のポーズで泣きたい放題に泣きますからね!
 「私もその半分くらいは母親の前で泣いてみたかった!」というのが、我が儘娘の母親たる黒沢梓さんの本音なのかも知れません。
 〔返〕  泣きたくば泣きたい放題泣くがいい泣いたからとて小遣い遣らぬ


○  住みにくさつらつらこぼす女将ありそを聞きたくて訪なふ京都  竹井佐知子

 首席入選の毛利さち子さん作に登場する娘さん同様に、本作に登場する「京都」の老舗旅館の「女将」も亦、「存外満たされてゐる」のかも知れません。
 〔返〕 住みにくさつらつらこぼす女将にて板に付きたる色里言葉  


○  手術着はこんなに冷たきものか暖房効きし部屋に着替へる  藁科山女

 本作の作者・藁科山女さんは女医さんならぬ患者さん、即ち「俎板に載せられた山女」なのである。
 「手術着」が藁科山女さんにとって予想外に冷たいのは、これから手術台に載せられて執刀されるからという気持ちの現れなのでありましょう。
 〔返〕  手術着が死出の旅路の衣装にはなる訳ないから安心しなさい


○  病む夫に怒る力のあることに安堵しており 爪切りてやる  相馬好子

 未だ「怒る力のある」「夫」に引っ掻かれたりすると痛い思いをするから、「病む夫」の妻たる相馬好子さんは「爪」を切ってやるのであるが、「病む夫」にすれば、妻が自分の「爪」を切って呉れるのは、愛情の表れだろうなどと思っているのでありましょう。
 〔返〕  病む夫に怒る力のあることは目出度くも在り目出度くも無し
      保険金たんまり掛けているからに死んでしまうも困らぬ夫

「アンギラスの餌に供せられたる野上卓氏の短歌」の解釈と鑑賞(其のⅠ)

2013年12月13日 | ブログ逍遥
〇  売れぬ絵を引き上げて去る老人にお疲れさまと画廊の主は(2013/12)

 選者の黒田英雄氏は、「短歌にとって大切なのは『如何に詠むか』では無くて、『何を詠むか』である」などと、何とか教壇の教祖紛いの事を主張して憚る事の無い頑固一徹の初老の男性である。
 私の愛読書の一つは、『絵のなかの散歩』、『気まぐれ美術館』、『帰りたい風景・気まぐれ美術館』、『セザンヌの塗り残し・気まぐれ美術館』、『人魚を見た人・気まぐれ美術館』、『洲之内徹が盗んでも自分のものにしたかった絵』などの洲之内徹氏の著作である。
 洲之内徹氏は、生前に、戦後文学の花形小説家であり美術マニアでもあった田村泰次郎氏の業を引き継いで、西銀座で「現代画廊」という屋号の画廊の経営に当たっていたのであったが、彼の経営する現代画廊で行われる絵画展の出品作は、創業当初は、只の一品たりとも買い手がつかない場合がしばしば在り、そうした場合は、展示期間が終わると経営者の洲之内徹氏が出世払いで一時預かりするか、出品者(画家)自身が泣く泣く引き取りに来るしか手が無かった、とのことである。
 掲作の題材になっているのは、前述の「現代画廊で行われた売れない絵画展の終了後の場面に類似した場面」ではあるが、「現代画廊で行われた絵画展の場合は、買い手がつかない理由が、自らの審美眼を信じる経営者の洲之内徹氏が、一種の先行投資として行った、自らが掘り起こした画家の作品の作品展であったが故の売れ行き不振であった」のであるが、本作の場合は、「老いぼれた貧乏画家の懇願に拠って、仕方無しに行われた個展の作品が、当然の結果として売れなかったまでの事である」と想定されるのである。
 それ故に、「画廊の主」の口から発せられた「お疲れさま」には、言葉以上の「お疲れ様」的な意味が加わっているのであり、「美術大国・ニッポン」で行われている絵画展なる催しや、その会場となる画廊、更には画家や画廊の経営者及び画廊の顧客乃至は暇に任せて銀座界隈の画廊巡りや美術館巡りを事としている、私・鳥羽省三や、掲歌の作者・野上卓氏の日常生活での行状までを風刺しているような言葉とはなっているのである。
 ところで、私は此処まで、掲作の題材となっている出来事を現実に在った出来事として、解釈並びに鑑賞をさせていただいたのではあるが、掲歌の作者・野上卓氏は、近松門左衛門の所謂「虚実皮膜の間を往く」劇作家である。
 したがって、掲歌に拠って詠まれたる内容の真偽に就いては、一切存じ上げません。
 〔返〕  十首詠み六首採られて「お疲れさま!」残り四首は焼き直しせよ
 

〇  この国の悲哀のひとつ大陸の朱鷺を放ちて孵化を喜ぶ(2013/8)

 今となっては、我が国と卑劣な屋敷争いを演じている相手国、某経済大国の原野で生い育った「朱鷺」なる鳥類を、代価を幾ら支払ったのか、支払わなかったのかは存じ上げませんが、かつての黄金の島「佐渡島」の「朱鷺センター」なる囲いの中で飼育し、卵を産ませ、孵化させて喜び、挙句の果てには、天敵が無数に棲息している原野に「放ちて」死なせてしまい、それでも尚且つ、国際親善云々を口にすることの愚かさよ、という訳でありましょうか?
 だとしたら、本作に詠まれている事態こそは、まさしく「この国の悲哀のひとつ」と言うべきでありましょう。
 題材が題材だけに、慧眼の士・黒田英雄氏のお眼鏡に叶ったのではありましょう。
 ところで、私がさる古老から、直接、耳にしたところに拠ると、「我が国の戦前までの庶民生活に於いては、鶴や白鳥や雁などの大型の鳥類が、貴重な蛋白源となっていたのであり、朱鷺とてその例外では無かった」とのこと。
 如何でありましょうか?
 〔返〕  この国の悲哀の一つ漢字なるガラパゴス文字を使ってる事
      この国の卑猥の一つパンダなる獣の交接目視する事
 この頃の夢に思うことは、私が、記紀の国引き神話の神・八束水臣津野命とは相成って、我が日本列島を頑丈な荒縄で縛って、南半球はオーストラリアの隣りまで引き摺って行くことである。
 なにしろ、お隣り様がお隣り様だからである。
 でも、そうなればなったで、「黄色人種は云々?」、「クジラやイルカを食べる人種とは云々?」といった、厄介な問題が生じるに違いありません。
 生きるとは、事程然様に哀しいことである。

アンギラスの餌に供せられたる野上卓氏の短歌

2013年12月12日 | ブログ逍遥
 退屈任せに黒田英雄氏の御ブログ『黒田英雄の安輝素日記』をペラペラと捲っていたところ、「『短歌人』12月号会員欄秀歌選」に朝日歌壇でお馴染みの野上卓氏の御作が掲載されているのを発見した。
 事の重大性と意外性とに驚いて、私は、急遽、蒸しタオルで顔を拭った後、件のブログの昨年の五月分から本日分までを、目を皿のようにして閲覧させていただいたのである。
 何分、老耄極まりない私のことでありますから、当然の事乍ら見落としなどの不備もあり得ましょうが、野上卓氏が、所属短歌誌『短歌人』にご投稿なさった作品の中の次の九首が、「歌壇のアンギラス」こと黒田英雄氏の厳しき御眼力に適ったと見受けられ、それぞれの月の「秀歌選」に晴れの入集を果たしていたので、先ずは、それをそのまま当ブログに無断転載させていただた上、大変失礼ながら、後日、老耄若輩なりの寸評を加えさせていただきますので、作者の野上卓氏並びに選者の黒田英雄氏に於かれましては、何卒、ご許容下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。
 事の序でに申し上げますが、『古今和歌集』以来の勅撰集時代の歌人諸賢は、勅撰集に自作品が入集すると、親戚縁者一族郎党を招待して、盛大なる饗宴を挙行された、とのこと。
 野上卓氏は、人も知る「歌会始の儀」の入選歌人であり、畏れ多くも今上陛下並びに皇后陛下の御前で、詠進歌のご披講に及んだ、栄えある歌詠みではありますが、この度の御慶事に際しては、如何なる饗宴を挙行なさったのでありましょうか?

  売れぬ絵を引き上げて去る老人にお疲れさまと画廊の主は(2013/12)

  この国の悲哀のひとつ大陸の朱鷺を放ちて孵化を喜ぶ(2013/8)

  メーデーのデモの終われば参加者はパートばかりの居酒屋で飲む(2013/5)

  屠畜場の壁あつくして塀高く死にゆくものの声は届かず(同上)

  上目遣う部下の視線も落ち着けりわが退任の日を伝えれば(2012/12)

  王冠を二度叩いてから栓を抜く儀式もありぬ壜のキリンに(2012/11)

  「わかった」といえばションベンして寝ろで常に終わりし父の小言は(同上)

  自由とは若き女のことならん股下おおよそ風にさらして(2012/10)

  復興会議に老人たちが集いきて生きてはおらぬ未来論じる(2012/7)

 それにしても、皮肉たっぷりの作品であり、「『如何に詠むか?』という事よりも『何を詠むか?』という事が大切である」と主張して憚らない、「黒田英雄氏好み」の作品ではある。

「安輝素日記」の前身の「安儀素日記」から

2013年10月01日 | ブログ逍遥
 退屈任せに、短歌関係のブログを彼方此方と逍遥していたところ、突如、黒田英雄氏の「安輝素日記」の「2009年09月18日」付けの記事が目前に現れ、頗る興味深く読ませていただきました。
 つきましては、大変失礼には存じ上げますが、管理者には無断で、件の記事を以下の通り、当ブログに、そのまま転載させていただきます。


 №1402 「安儀素日記」生き延びる~栗木京子~
 ランク17日68位、本日105位。

 最近、後読み(前に書いた日記へのアクセス)に、面白い現象が見られる。大昔に書いた日記が読まれているのだ。たとえばこれ、「角川『短歌』11月号を読んで」と「西之原一貴と斉藤斎藤」である。
 はっきり言って、書いた本人は全くおぼえていない。しかし、改めて読んでみたら面白いことが書いてある。当ブログの、熱心な読者諸氏に感謝したい。と同時に、あえて注文したいが、どなたか当ブログの面白い日記をチョイスして本にしてはくれまいか。僕には、編集者に売り込む才覚も、あるいは、同人誌なる物の作り方もわからない。もしもこれを実行してくれるかたがいらっしゃったら、売り上げから、諸経費を引いた金額を山分けするということでいかがだろうか。赤字が出た場合は、何もいりません。それほど、自分の日記が面白くてしょうがないのだ。いや、読者にとっても面白いのだろう。でなければ、短歌ブログで、毎月最低3000人の読者をひきつけることはあるまい。短歌ブログで月3000人なんて、どんな高名なアイドル歌人にとっても夢のような数字ではないのか。僕は、常に計算して日記を書いている。歌人たちに娯楽を与えたい、その一心のみだ。
 僕が「安儀素日記」を始めようと思った理由は簡単だ。「インターネット短歌がどうのこうの」とかまびすしい割には、面白い短歌ブログという物が全くなかったからである。だから僕は、あえて「空気の読めない」ふりをして、「短歌人」のHP掲示板に、俵×智さまのワルクチを書きまくって顰蹙を売りまくったのだ。名前を売るというのはそういうことだ。かの高名な斉××藤さまから良識あふれるご意見も頂戴した。「アナタは当HPにとって迷惑な存在なので、やりたかったら自分でHPを設立して言いたいことを言ったらよろしい」。ああそうか!と思った。ので、2005年に当ブログを開設した。この月のアクセス数は、9600、読者数は1983人だった。トップは、同年2月十日に書いた、「パフォーマティブについて~黒瀬河欄、S×S×の反論を待つ~」の772アクセスだった。俺は、これだけの数字を集められるのならば、ブログを続けようと決意した。俺の自負だが、相当歌壇に対していい警鐘を鳴らしたと思う。あの当時に比べて、歌壇の風通しはかなりよくなり、言いたいことのある歌人は言うようになって来ており、そして自分がその一助をになっていると確信できるからだ。僕は、アクセス数よりも読者数を重視している。過去最高の読者数を集めたのは2007年の三月だ。このときは、佐々木幸綱と松村正直の例の、歌壇を揺るがす論争が展開された時期だった。角川「短歌」はへタレで、この興味ある論争をストップさせてしまった。この月の俺の読者数は、何と、6453人である。短歌ブログにとって未曾有の読者数であろう。俺は、その勢いに乗って、月一万の読者数を獲得できるとふんでいたが、そこで頭打ちであった(笑)。短歌ブログの限界を、6453という数字が表している。
 「安儀素日記」を始めて、約五年の歳月が過ぎた。僕は今後も、しがらみのない立ち位置の中で、言いたいことを言っていく。あくまでこの日記は、歌人たちにとっての娯楽の日記なのだ。
 ところで、主宰を引退表明されている永田和宏氏の後を継ぐ歌人はいったい誰だろう? いちヒラ歌人として、興味の尽きないところである。僕は、自分の勝手な想像から、永田紅、吉川宏志を想像したが、今日フロ上がりに、キリンのラガーを飲みながら煙草をふかしていて、「ああ、栗木京子氏こそがいいんじゃないか」と思ってしまった。「塔」には「女帝」が必要だ。女帝の結社にこそ、僕は心服するであろう。ポピュラリティから言っても、あるいは美貌から言っても、栗木京子氏こそ適任だと素直に思ったのだ。今までそこに思いいたらなかったのは、彼女自身がそんな野望のない人だと思っていたからだ。しかし、それだってどうだかわからない。彼女に野望がないとは限らない。栗木氏が「塔」の主宰になるとすれば、僕は全力で支持したいと思う。果たして永田主宰は、誰を次期「塔」の主宰にしようと思っているのか、僕は興味津々である。(以上の通り、無断転載させていただきました。)

 上掲の記事が「安輝素日記」の前身の「安儀素日記」に掲載された、2009年9月18日と言えば、今から4年前の事であり、その頃の私は、「安儀素日記」の熱心な読者の一人であり、度々コメントも寄せ、現代歌壇の狙撃者たる黒田氏の舌鋒の鋭さに驚き、その帰趨に大いに注目させて頂いていたのでありました。
 その黒田氏の日記「安儀素日記」が、最も多くの読者数を誇った時期の、月間読者数が何と驚いたことに僅かに6453人。
 率直に言わせて頂いて、「6453人」という、たった四ケタの数字は、月間読者数を示す数字では無く、一日の読者数を示す数字ではないか、と思ってしまったのでありました。
 何故ならば、それ以前からの黒田氏のご活躍に刺激されて設立し、その頃、やっと軌道に乗り始めたばかりの私のブログ「臆病なビーズ刺繍」の一日の読者数が、連日二百人以上に達し、月間読者数は少なく見積もっても、毎月五千人以上に達していたからである。
 その数字の差は、掲載記事の内容にあるのでは無くて、私のブログが、その頃、契約者数百五十万人を超えていた「グーグルブログ」であったからなのでありましょう。
 いずれにしろ、舌鋒益々盛んなる黒田英雄氏の御ブログの月間読者数の最高到達点が「6453人」というのは、いくら何でも余りにも少な過ぎます。
 これでは、我が国の現代歌壇は真っ暗闇です。
 就きましては、黒田英雄氏の益々のご奮闘とご活躍を祈念し、此処の辺りでパソコンのキーを叩く作業を止めさせて頂きます。
 
              

HP逍遥(1)

2009年10月28日 | ブログ逍遥
 結社ひとり氏のブログを拝見したところ、次のような興味深い記事が目についた。以下、失礼ながら、その記事を無断転載させていただきます。

 10月24日付けの<結社ひとり>氏のブログの記事
 
 黒田英雄氏のブログ(2009年10月22日付)で、『塔』10月号『陽の当たらない名歌選2』に掲載された下記歌について、黒田氏に評を求めるコメントがあった。しかし、黒田氏は評を書かないとレスしたので、私が勉強のため書いてみた。といっても、私は歌集はまだ2冊しか読んだことがなく、短歌読解スキルもないので、日本語文として読み解くだけだが。

 父と往くを選びし子らの肩せまき昔の服を娘(こ)は見て泣きぬ  児島良一


 作者と作中人物との関係と、「肩せまき」がこの歌のポイントではないか。作者から見た作中人物との関係を一応確認しておく。
   父 :義理の息子
   子ら:孫
   娘 :実の娘

 1 離婚などに類する事情で娘夫婦が別居し、子(孫)らは父親(義理の息子)と暮らすことになった。
 2 子らが現在常用している衣服は当然、子らとともにすべて父親のもとにあ る。
 3 娘(子らの母親)のもとに、(今は小さくて着ない)子らの昔の服がある。「肩せまき」の「肩」はその服の「肩幅」のことではないか。
 4 上半身の服(下半身部分が繋がっている服も含む)を見る場合、左右の肩部分を左右の手の指でつまんで広げて見ることが多い。
 5 平面に広げて置いて見ることもあるだろうが、その場合は肩幅の広狭よりもむしろ服全体の大小が目に付くだろう。
 6 両肩部分を持って見ると、服の肩幅が眼前になるから、娘はそのようにして見て泣いたと受け取れる。 
 7 作者には如何ともし難い事情と、泣く娘を見て、作者の胸中が揺れないはずはないが、まったく動揺を感じさせない詠みをしている。
 8 かなり読みでのある一首だが、歌全体は描かれていない作者の胸中にしっかり包まれている。
                                (転載終り)

 実を申すと、黒田英雄氏にこの作品の一首評を求めたのは私であり、そのコメントに用いたハンドルネーム<波佐間鉱磁>は、私のペンネームの一つである。
 私は、かねがね黒田英雄氏を現代短歌に対する目利きの一人として高く評価しており、同氏がご自身のブログ「安儀素日記」に毎月ご掲載されている「陽の当たらない名歌選」の愛読者でもある。
 当該の児島良一氏の作品「父と往くを選びし子らの肩せまき昔の服を娘(こ)は見て泣きぬ」は、「(塔十月号)陽のあたらない名歌選」の一首として、黒田ブログの10月22日の記事の後半部分に掲載されていたもので、当日掲載されていた作品の中で、私が最も興味深く観賞した作品である。
 「黒田氏は、『陽の当たる名歌選』にランクした作品のうちの上位の数首については、翌日あたりにその寸評をお書きになられるが、下位の作品については、紹介なさるだけ(それだけでも十分にありがたいのですが)で、寸評記事をお書きにならない」というのが、その時の私の認識であったので、「ここは是非とも、この作品に対する、<目利き・黒田英雄>氏の評言を引き出すべきだ」と思い、黒田ブログの当日欄に、「父と往くを選びし子らの肩せまき昔の服を娘(こ)は見て泣きぬ 児島良一 上記作品の一首評をお願い申し上げます。」というコメントを寄せた次第であった。

 それに対する、黒田氏のご返事は、次の通りであった。
 「波佐間様 コメントは、『塔』の場合、『名歌選その1』に限っております。なぜなら、疲れるからです(笑)。波佐間さんの感じたことを書いていただけませんか。その上で僕の感想を書きましょう。」

 誤解のないように申し述べておくが、私は、この記事で、黒田氏のこうしたご対応に対する不満を述べようとしているのではない。当該作品に対する、黒田氏の評言をお聞きしたかったのは事実ではあるが、私の要請に対して、黒田氏がこうした形で対応されたことについても、これはこれで、露悪家と言えば少し言い過ぎ、少し悪戯好きなところのある、黒田英雄氏の愛すべきお人柄の表れかとも思い、黒田ブログに対する愛着心を益々深くした次第であったのである。
 黒田氏ほど忙しくはないし、黒田氏ほど<疲れ>を感じてない私は、翌日、この作品に対する私なりの感想を書こうと思った。ところが、その前に、いつものように、短歌関係のブログの逍遥をしていたところ、意外にも、彼の<結社ひとり>氏が、この作品についての、詳細かつ適切な評言をものされていたことを知ったのである。
 <結社ひとり>氏のこの文章に対して、私は、付け加えるべき一言をも持たない。いや、結社ひとり氏ほどの識見の持ち主が、「1 ~ 2~ 3~」と、一見すると稚気とも見受けられかねない箇条書きという形式で、懇切丁寧に、この作品に対するご評言とご感想を述べられておられることに対して、私は、感動すら覚えた。
 結社ひとり氏及び黒田英雄氏、本当に有難うございました。両氏のこれからのご壮健とご活躍を祈念して、筆を擱かせていただきます。