臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

日暦(9月30日)

2016年09月30日 | 我が歌ども
○  杜鵑草・鬼薊また女郎花さやに乱るる天童の秋   鳥羽省三

○  木通一顆もぐでも無しに来ぬる秋ころころ肥ゆれ畑の里芋

○  古池に突如と寄する水の皺潜るるならむ巨鯉一匹

○  「秋風がこちらまで吹いてきました」との便りメル友・驢人氏息災ならむ

○ 「『いいね』を活用して毎月80万円稼げる♪」ならば、吾も稼ぎたし!

結社誌「かりん」8月号(全国大会詠草抄より・其のⅠ)

2016年09月30日 | 結社誌から
○  すかんぽを折ればもれくる人の声だれかでんわをかけてはこぬか  佐怒賀弘子

 何方の作品の場合でも同じことであるが、奥行が深く優れた一首から読み取れるものは、時にはお互いに裏腹な関係にあるものを含めて、色々様々であり、多岐に亘るのであるが、佐怒賀弘子作のこの一首から、「郷愁と人恋しさと幼児性と女性性と甘え」、そして「欠落感と寂しさ」を指摘のは極めて容易なことでありましょう。
 私は、過日行われた麻生短歌会の九月歌会での彼女の詠草「ふりむけばだあれもいない炎昼よ極楽鳥花に狙われている」を解釈し批評するに際して、佐怒賀短歌のもう一つの特質であり魅力でもある「ナルシシズム・自己愛・自尊心」を、あまりにも声高に指摘したかったが故に、こうした要素と共に彼女の短歌のもう一つの特質であり魅力でもある、前述の「欠落感・人恋しさ・甘え・寂しさ」といった要素を指摘する事を忘れていたのでありました。
 就きましては、この機会を借りて、私は、前掲「ふりむけばだあれもいない炎昼よ〜〜」という一首に就いての、そうした点に就いても指摘させていただき、深くお詫び申し上げます。 


○  誤植多き資料読み終え疲れたり春をのったり鎮める夕陽  寺戸和子

 「誤植多き資料」を読むのは、如何なる場合に於いても、精神的にも肉体的にも「疲れ」るものであるが、本作の作者の場合は、その「誤植多き資料」の解釈などに就いて、さんざん悩まされ、ぶつぶつぶつと不平を言いながらも、とにもかくにも「読み終え」たのである。
 ところが、豈に図らんや、「読み終え」て頭を上げた作者の視線の彼方に在ったのは、「春」景色の中を「のったり」のったりと「鎮」み行く「夕陽」だったのである。
 ところで、件の「のったりのったりと沈み行く夕陽」は、疲れ果てた彼女の心にひと時の癒しを与えたのでありましょうか?
 それとも、本作の作者・寺戸和子さんは、件の夕陽に向かって、「のったりのったりと沈んで行く、このうすのろの夕陽め!目障りになるから、あの山の西の端にさっさと立ち去れ!」とばかり、金切り声を上げて罵ったのでありましょうか!


○  亀うらがへり濁る水槽青葉の日 こころが折れるといふ言ひ方きらひ  米川千嘉子

 若かりし頃は、前途有望な一青年・坂井修一をして、「青乙女なぜなぜ青いぽうぽうと息ふきかけて春菊を食う」と詠わしめ、「水族館にタカアシガニを見てゐしはいつか誰かの子を生む器」と悩ましめた作者も亦、ご子息が自立し、遠く離れた地に赴任してしまうと、短歌を詠む以外に時間の潰しようが無くなってしまい、ご夫君と二人暮らしの我が家の「水槽」に「亀」を飼い、彼が裏返しになって泳ぐ様をひがないちんち眺めていたりするのでありましょう。
 だが、本作の題材となっているのは、件の「亀」そのものでは無くて、せっかくの「青葉の日」だというのに、外出することも無く、例に依って例の如く,件の「亀」の奴が泳ぐ様を眺めていたところ、その「亀」が「うらがへり」になって泳いだことが因をなして「水槽」の水が濁ってしまった、と立腹して、「こころが折れ」てしまったのであるが、それでも尚且つ、強情にも「(私は)こころが折れるといふ言ひ方」が「きらひ」と言い張る歌人ご自身である。
 世間一般に「才色兼備の熟女という者は始末に負えない生き物である」とは言うが、つくばみらい市の坂井家の場合は、同じ生き物のご主人様もなかなか大変であるが、それ以上に水槽の中に飼われている亀も大変である!


○  青春は解けないテストの空らんを真夏で埋めていくような日々  貝澤駿一

 「解けないテストの空らん」が「空らん」のままで終わる「青春」も在るが、本作の作者の場合は、そのままでは終わらずに「真夏で埋め」られたのであるから、一応は充実した青春であったのだろう。
 ところで、「解けないテストの空らんを真夏で埋めていく」とあるのは、本作の作者の青春は、甲子園を目指したの野球練習に明け暮れした「青春」であったのであろうか?
 手抜きをせずに「空らん」は「空欄」と漢字書きにするべきである。


○  林檎の花透けるひかりにすはだかのこころさらしてみちのくは泣く  齋藤芳生

 「齋藤芳生」も、昔はともかくとして、今は一応は福島県民であり、立派な被災者でもありますが、その福島県民としての被災者意識が、「こころさらしてみちのくは泣く」という、下の句の表現を齎したのでありましょうか?
 「林檎の花透けるひかりにすはだかのこころさらして」という、四句目までの言葉の流れが素晴らしいだけに、それを受ける五句目が「みちのくは泣く」という、常套的にして安易な表現になっているが惜しまれる。
 このような作品の解釈に当たっては、意味を追って行くことを重視する必要は無く、言葉の美しい流れに浸って詠むべきなのである。 


○  方形に留められたる牛乳のこの世のかたち提げて帰りぬ  辻 聡之

 「方形に留められたる」、1リットル入りの「牛乳」パックの形こそは、正しく「この世のかたち」である。
 その「この世のかたち」を「提げて」、辻聡之さんはご帰宅なさったのでありましょう。
 ところで、辻聡之さんのお住まいは、「ⅠDKマンション」でありましょうか?


○  蛇口から零れる光に差しいだす手のひらのなかに子の手を洗う  平山繁美

 「(蛇口から零れる光に差しいだす)手のひら」とは、作中主体、即ち、本作の作者・平山繁美さんの「手のひら」でありましょうか、作中の「子」の「手のひら」でありましょうか?
 仮に、件の「手のひら」が作中主体の「手のひら」であったとしたならば、この作品から読み取れるモノは、一に、作中主体の心を領している〈ナルシシズム・自己愛〉でありましょう。


○  右胸に「ブラック・ジャック」の顔の瑕再建はせず女を徹す  石橋陽子


 「『ブラック・ジャック』の顔の瑕」とは、乳癌の手術痕でありましょうか?
 そうだとしたら、本作は、乳房を失った悲しみの情を詠った歌であると同時に、それとは裏腹な女性心理、即ち、「女性性としてのナルシシズム」を詠った歌でもありましょう。


○  夕暮れをシチューの香りキッチンに満ちて「待つ」とは確かなかたち  池田 玲

 「温かくて美味しいご馳走、即ち、『シチュー』を作って夫の帰宅を待つ事の嬉しさ、という、極めて普遍的な女性心理を詠った作品であり、深読みを許さない単純明解な歌である。


○  「八重桜の木があつたのよ」無きものは夕べの庭に人を立たしむ  桜川冴子

 件の「八重桜の木」は、かつては「庭」に立っていたのであるが、今、現在は「無き」が故に、「夕べの庭に人を立たしむ」るのである。
 何かの喩えみたいな内容の歌であるが、深読みすれば、「人間も長生きしたいなどと欲張らずに、適当な時期になったら死ぬのが宜しい」とでも言っているような気がする。


今週の「朝日歌壇」から(9月26日掲載分・其のⅣ)

2016年09月29日 | 今週の朝日歌壇から
[高野公彦選]
○  百歳の命たまはり歩行車で千歩を歩く声にかぞへて  (福岡市)村石篷子

 選評に「ゆっくり『一、二、三』と数えながら歩く。天恵の命を大切にする百歳のこころ」とあるが、私とても全く同感である。


○  あの国の潜水艦のミサイルに狙われている日本の原発  (三郷市)木村義煕

 ある時期を境にして朝日新聞の編集方針が劇的変化を遂げたのは知っている。
 だが、高野公彦氏ともあろうお方が、何が故に斯かる作品を入選作としなければならないのでありましょうか?
 作中の「あの国」とは、お隣リの某経済大国。
 その隣国の「潜水艦のミサイルに狙われている日本の原発」などという、ただでさえ穏やかならぬ両国の関係を更に悪化させるような作品は、良識ある国民として、朝日新聞の読者として、決して、詠むべきではありませんし、ましてや、高野公彦氏ともあろう知識人が、是を以て入選作二席に推すとは、私には呆れてものが言えません。


○  「中華まん始めました」とコンビニが夏を強制終了させる  (枚方市)小島節子

 そう、我が国現代社会に於いては、「コンビニ」をはじめとした流通産業が「夏を強制終了させる」のである。
 毎年、五月過ぎには、デパートの子供用品売り場や鞄屋の店先などにいろんな色のランドセルが並びますが、是は「季節を強制終了させる」というよりは、「季節を前倒しにする」と言った方が宜しいでしょう。
 [反歌]  「終活を始めました」との葉書来るそんな奴こそ長生きをする  鳥羽省三  
      「婚活を諦めました」と泣いていたそんな娘が今では都知事 


○  ゆりかごの唄聞きながら外つ国の子も眠りゆくこばと保育園  (名古屋市)小川清紅

 五句目が「こばと保育園」と、一字の字余り句になっているが、その点のデミリットを含めても、この句の存在が、一首を成立せしめているのである。
 [反歌]  ゆりかごの唄聴かせつつ点滴に猛毒混ぜる看護師も居る  鳥羽省三


○  日暮里でカラスとエサをとりあうのをはっきり見ましたお元気ですか  (ホームレス)坪内政夫

 あまりにも出来過ぎた作品である。
 それにしても、「ホームレスだから何を言っても許される」といったものでもないでしょう。
 [反歌]  アメ横でぶらぶら歩きをしてるなら働きなさいよ改心をして  鳥羽省三


○  容体を見に来た息子が鈴つきのお守り杖にしばりて帰る  (飯田市)草田礼子

 「容体」は「容態」とも「様体・様態」とも記すが、本作の場合は「容態」とするのが宜しいかも?
 それにしても、朝日歌壇の常連中の常連の草田礼子さんに「鈴つきのお守り」の付いた「杖」を突いて歩かなければならないとは!
 [反歌]  交代と言われたけれどマウンドにしがみついても投げたい菅野  鳥羽省三


○  夫婦仲よしと見えざりし父母の骨壷並ぶ朝鮮寺に  (大阪市)金 亀忠

 名人・金亀忠さん作としては〈イマイチ〉といったところでありましょうか?
 [反歌] ほぼ仲良しと見えないが何処かで安倍氏と気脈を通ず  鳥羽省三


○  山の死はロマンならざり搬送のヘリ仰ぎみし岩にすがりて  (高山市)西 春彦

 「山の死はロマンならざり」、然りです。同感です。
 それはそれとして、「搬送のヘリ仰ぎみし岩にすがりて」は、「搬送のヘリ仰ぎみき岩にすがりて」とした方が宜しいかも知れません。
 [反歌]  山野氏はロマンチストでおたんちん東京都知事に昵懇である  鳥羽省三


○  ゆったりと読書の秋も楽しめず本屋の正面に来年の手帖  (東京都)上田結香

 本作も、前掲・小島節子作と同様に、「コンビニや書店をはじめとした流通産業が季節を強制終了させる」ことの一例でありましょう。
 [反歌]  ゆったりと砂被り席に座り込み相撲観戦林家パー子  鳥羽省三

今週の「朝日歌壇」から(9月26日掲載分・其のⅢ)

2016年09月29日 | 今週の朝日歌壇から
[佐佐木幸綱選]
○  ひと夏の被膜を脱いだ空気感ただよう後期授業のはじめ  (丸亀市)金倉かおる

 大雑把な捉え方をすると、この一首は「夏の暑さからも汚れから煩わしさからも解放されて、私はさっぱりした気分で大学の後期最初の授業に臨むことができました」といった程度に解釈されるのであるが、問題は「ひと夏の被膜を脱いだ空気感」にある。
 この作品に於ける「空気感」は、学期初めの大学の校舎や教室に漂っている「空気に触れた感触(或いは、気分)」という意味である。
 だが、その「空気感」は、単なる「後期授業のはじめ」の「空気感」では無くて、「ひと夏の被膜を脱いだ空気感」であることに、私たち本作の鑑賞者は留意しなければならない。
 私が昨年末に加入した〈とある短歌会〉の九月歌会が、つい先日行われたばかりであるが、私はその場で、当日の詠草の中で、最も優れ、最も奥行のある(と私には思われる)作品二首の中の一首、即ち「ふりむけばだあれもいない炎昼よ極楽鳥花(ストレリチア)に狙われている」に就いて、思い切り〈深読み〉をした解釈を、
一つの試みとして発表し、示してみたのでありましたが、そうした私の試みは、結社誌「かりん」の会員が大半を占める当日の出席者会員からは、必ずしも理解され、歓迎されているものとは思われず、私がそうした解釈を述べた直後に、出席者の間から矢継ぎ早に反対意見が示され、その多くは「私はこの作品を、例えば、街の花屋の店頭に置かれている極楽鳥花に視線を遣ったら、向こうも私を眺めているような気がした」とか「極楽鳥花の形がピストルに似ているから、作者は『極楽鳥花に狙われている』と言ってるんだと思います」とかといった程度のものでありました。
 私はもとより、前掲作品に就いて、事前にそうした単純な解釈をもしていたのであり、そうした単純極まりない解釈にも納得し、同意したい。
 しかしながら、この一首の眼目は「極楽鳥花に狙われている」という下の句にあり、そして、下の句からは、この作品の作者である、美しい熟年女性の周辺に漂う雰囲気、即ち「美しく才能豊かな熟年女流歌人としての自尊心・自己愛・ナルシシズム」といった、妖艶にして複雑な感情や雰囲気が読み取れるのである。
 そうした雰囲気や感情の濃淡に就いては別として、大凡、前掲作品を鑑賞し、解釈する者として、この一首の「極楽鳥花に狙われている」という下の句から、前述のような雰囲気や感情を読み取ることが出来ない者ならば、その者は、如何に有力結社に在籍するベテラン歌人であっても、敢えて挙手して、自身の拙い識見を、歌会の出席者に示す必要もなく、その資格もない者と、私には思われるのである。
 閑話休題、再び、掲出の金倉かおる作に就いての論に戻らせていただきます。
 「後期授業のはじめ」に「ただよう」ところの「ひと夏の被膜を脱いだ空気感」とは、いかなる意味での「空気感」なのか?
 それは、この夏に作中主体が体験したに違いない、辛酸喜福交々の様々なる経験からひと先ず解放されたと感じる時に味わう「空気感」なのである。
 この夏は、格別に暑かったから、その「空気感」の中には、「猛暑からやっと抜け出し、爽やかな気分に浸ることが出来た」という性質のものも含ませているに違いありません。
 仮に、作中主体の女性が、この夏にひと夏の恋をして、その後の自分の身体の異常を心配していたとしたならば、「私は、この夏、瀬戸内海のとある海水浴場で、とあるカッコいい男性と出会い、その男性の巧みな言葉に魅惑されて一夜の契を結んだのであったが、その後、来るはずのものが来なかったのでいろいろと心配していたのである。だが、ひと月遅れの今朝になって、やっとその徴を見ることが出来たので一安心した」といった性質のものが含ませているかも知れません。
 件の「ひと夏の被膜を脱いだ空気感」の性質に就いて、これ以上、駄弁を並べることは止めますが、その「空気感」とは、その他、辛酸喜福交々、様々なる経験から開放されたと感じる時に、彼女が味わう「空気感」なのである。
 という訳で、前述の一首の「極楽鳥花に狙われている」という下の句の解釈と同じく、金倉かおる作の「ひと夏の被膜を脱いだ空気感」という、前半の三句の解釈に就いても、私たち、本作の読者は、用意周到にして事に当たらなければなりません。


○  登校の子に添ふ父が朝顔の鉢を持ちをり二学期はじまる  (横浜市)門倉みつ子

 学期初めの九月一日に、最寄りの小学校の昇降口附近でよく見かける風景ではありますが、本作の作者・門倉みつ子さんは、或いは、小学校の先生でありましょうか?


○  富岡の賑わいよそ目にたんたんと糸つむぎおり碓氷製糸は  (安中市)鬼形輝雄

 作中の「碓氷製糸」、正式に言えば「碓氷製糸農業協同組合」は、〈群馬県安中市松井田町新堀909〉に現存し、生糸景気が去って一世紀にもなる平成の今も尚、操業を続け、繭生産農家が結集して生糸生産に勤しんでいる農業協同組合である。
 そのホームページに「日本を支えてきた製糸業、製糸工場は教科書に掲載されているような、過去の産業ではなく、日本の経済成長を支えた、養蚕の華やかかりし時代を超え、いまも立派に操業しております。碓氷製糸農協では工場を営むかたわら、オリジナル絹製品の販売も手がけている。繭作りから絹製品まで一貫生産、養蚕農家が経営する組合製糸工場です」とある一文は、一読するに値するものであるから、私は、敢えて、此処に是を無断転載させていただいた次第である。


○  高校の見学会で初めての食堂初めてのカツカレー  (富山市)松田わこ

 松田わこ作としては、千慮(浅慮)の一失として憂うべき失敗作である。
 作者・松田わこさんは、つい先日までは、子供子供した可愛い女の子でありましたが、その彼女も今や、私の孫娘と同じ中学三年生、でありますから、私たち読者の前に、来春四月には、セーラ服姿の彼女が現れるに違い違いありません。
 と、いう次第で、夏休み期間も過ぎた今日は、彼女の志望校の「見学会」という運びとは相成ったのである。
 ところで、「初めての食堂初めてのカツカレー」という、本作の後半部・三句の中の「初めての食堂」に就いては、私としては文句なしでありますが、その後の「初めてのカツカレー」に就いては、少なからず疑義あり。
 と言うのは、これに拠ると、彼女は、件の「高校の見学会」で、生まれて「初めて」「カツカレー」を食べたことになりますが、それでは、我が国有数の富裕県の住民としては、あまりにも貧し過ぎませんか?


○  夏休みの余韻のような熱残るレンガの壁にに手の甲をあてる  (神奈川県)九螺ささら

 本作中の「夏休みの余韻のような熱」も亦、前述・金倉かおる作中の「ひと夏の被膜を脱いだ空気感」と同様に、なかなかに複雑な意味のある「熱」なのかも知れません。
 何せ、遊び好きの彼女が、自らの「手の甲をあてる」ところの「レンガの壁」に「残る」「熱」ですからね!
 彼女は、或いは、この夏に,件の「レンガの壁に」凭れて、連日、複数の男性と恋の囁きを交わし合ったのかも知れませんし!


○  真野川に近き仮設住宅に妹の在れば気になる台風進路  (下野市)若島保子
 
 「妹」の現住地が「仮設住宅」であることを、その姉としての作者は、もとから心配していたのであったが、それに加えて、その「仮設住宅」が「真野川に近き仮設住宅」であり、しかも、其処が「台風進路」に当たるので、もう一つの新たな心配の種が加わったのでありましょう。
 単純明解にして、余説の存在を許さない作品である。 


○  目を見はる子らの視線を身に浴びて掛け声高し盆の神楽師  (備前市)山形芳子

 本作の作者がお住まいの備前市のホームページに、同市の「福石荒神社」の「神楽獅子舞」に就いて、次のような紹介記事が掲載されていましたので、此処に無断転載させていただきます。
 即ち「江戸時代から続く〈福石荒神社神楽獅子舞〉は、県重要無形民俗文化財に指定されています。毎年10月上旬の土曜日に、五穀豊穣や地区の安全を願い、獅子舞が奉納されます。獅子舞の団員は、地区の数え年30歳までの男子で、唐子(子役)の小学生は、獅子が舞うのに合わせて踊ります」と。
 件の神楽は、出生地を離れて暮らす人々が帰省する、盂蘭盆の時期にも行われるのでありましょうか?


○  支笏湖の森に朝霧たちこめて間近にやさしきヤマガラの声  (仙台市)沼沢 修

 「ヤマガラ」が天敵や人間が近づいて来るのを警戒して啼く「声」を「やさしき(声)」と受け取るか、「けたたましき(声)」と受け取るかは、ひと様々でありましょうが、「支笏湖の森に朝霧」が「たちこめて」いる時に「間近に」その「声」を聴いたとしたら、自らが旅人であるという気持ち、旅愁も手伝って「やさしき」「声」として、耳を澄まして聴くこともありましょう。

 
○  熊蝉の静まりたるを区切りとし若きら汗のリュックを背負う  (八尾市)吉谷往久

 「熊蝉の静まりたるを区切りとし」て休息時間が終わったので、「若きら」は、再び「汗(塗れ)のリュックを背負」って、きつい登山道に挑まなければならないのでありましょう。


○  どっぷりと青春の日々に浸りおる「午前十時の映画祭」の席  (横浜市)鶴川 博

 「午前十時の映画祭」とは、「往年の名作・傑作映画を上映するイベント」であり、本年度の場合は「『午前十時の映画祭7』と称するイベントが、2016年4月2日(土)から2017年3月24日(金)まで、〈TOHOシネマズ日本橋〉ほか全国各地五十五ヶ所の劇場で開催されている」のである。
 ところで、本作の歌い出しの「どっぷりと青春の日々に浸りおる」という叙述は、「午前十時の映画祭」で上映される作品の多くが、往年の青春映画である点に由来するものでありましょう。

日暦(9月29日)

2016年09月29日 | 我が歌ども
○  我が父祖の二百回忌の日取りまで詳細窮めてあらむ浄土寺  鳥羽省三

 盂蘭盆などに、たまさかに帰省して墓参りをした後、位牌堂のある旦那寺に足を延ばしてみると、その本堂の壁には、件の寺院の檀家の年忌法要の日取りが、遠い過去から遥か先々まで一覧表として巻紙に記され、貼られているので驚いてしまう。
 即ち、「鳥羽彰一郎家、俗名○○○、戒名○○○院、××××居士、昭和○○年○月○○日没、一周忌・昭和××年×月××日、(中略)、三十七回忌・平成▼▼年▼月▼▼日、五十回忌・平成△△年△月△△日、俗名○○子、戒名(以下略)」といった次第にである。
 当然の事ながら、件の一覧表に記されているのは、我が鳥羽家のそればかりではなく、その数、二百戸に及ぶ檀家・全戸の死没者全員のそれが詳細に亘って記されているのであり、その作業に精魂傾けて当たったであろうと思われる、現住職の苦労の程を察すると、あまりにもあまりにも有り難くて、遠く離れた七百km彼方に在る、その寺院の方角に、今後一切、汚れた足を向けて眠ってはならないような気持ちになってしまうのである。
 ところで、件の一覧表の中の、既に年忌法要を済ませている、過去の事項には、○印が付されていて、その折に、その寺院になにがしかのお布施が上がったことが、一目瞭然に解るのであるが、数多い過去の年忌法要の中の全部が全部、この寺院の住職様の有り難い読経を得て、いともしめやかに執り行われた訳ではなかったと思われ、むしろ、○印が記されていない方が圧倒的に多いのである。
 このことは、一に、仏教国・日本の檀家制度の崩壊を如実に表している、と、私・鳥羽省三には思われるのである。
 私は、一昨年、現住地、川崎市内に墓地を求め、その墓碑には「鳥羽家の墓」とか、「鳥羽省三の墓」といった、伝統的かつ因習的な文字一切を刻まずに、「春な忘れそ」と、私の敬愛する歌僧・西行の和歌一首の中から選んだ、七音の五文字を刻んだ次第でありました。
 我が家のこうした措置は何を意味するか?
 然り。
 私・鳥羽省三及びその妻子は、既に我が生家の檀家寺の支配から離脱しているのであり、前述の措置は、「信仰心を持てども信仰対象神仏を持たず」という、私たち一家の覚悟の程を示さんとしての措置なのである。

○  「これだけの、たった二人の家族だ」と思ひつつ噛む今朝の数の子  鳥羽省三

 数の子を噛むのはまだ少し早いので、昨今の私は「臍を噛む」ような思いを専らとして生きている次第であります。



今週の「朝日歌壇」から(9月26日掲載分・其のⅡ)

2016年09月29日 | 今週の朝日歌壇から
[馬場あき子選]
○  障害の息子が復習うインヴェンション バッハを連れて秋が近づく  (八王子市)大石敏子

 私・鳥羽省三には、なんのことかさっぱり判りませんが、ウイキペディアの記事に依ると「インヴェンション」とは、「器楽曲の一ジャンルであり、通常は『ビチニア』の流れを汲む、二声体の鍵盤楽曲のことを言う」とか?
 そして、それを加えて同記事には、「インヴェンションとして最も有名な作品は、バッハの《インベンションとシンフォニア》の前半部分である。バッハのインベンションは、教育的な意図から作曲され、たいてい公開演奏されることはなく、ピアノの学習者の教材に利用されることが多い。しかしながら、これらの芸術性を認めた多数のチェンバロ及びピアノ演奏家が様々なアプローチで録音を残している。バッハ以外では、アルバン・ベルクの歌劇《ヴォツェック》の中のインベンションが有名である」という補足説明も為されている。
 これらの記事に依って推測するに、作中の「障害の息子が復習うインヴェンション」とは、恐らくは「バッハの《インベンションとシンフォニア》の前半部分」かと思われる。
 そういう次第で、私はたった今、件のバッハ作曲の「インヴェンションとシンフォニア」の前半部分の「インヴェンション・第1番ハ短調」を、〈YouTube〉で聴いてみたばかりであるが、私が感じたところによると、この曲から受け取れるものは、「ピアノ演奏のお復習いを始めて間もない園児が、お母さんに手を牽かれて、秋の団地の日向の歩道をトコトコトコと歩いているようなイメージ」であるから、「バッハを連れて秋が近づく」という本作の下の句の表現は、この曲のイメージをよく表して得ていると、私には思われる。
 ところで、本作の二句目中の語「復習(う)」には、「さら(う)」とのルビが施されているが、これに依って、私は今更ながら、「〈復習う〉とは、単に勉強することでは無くて、〈復習〉することなのか」と感じた次第であります。
 そのことを私に教えてくれただけでも、本作は馬場あき子選の首席作品に相応しい佳作だと、私には思われます。


○  槌を掌に廃棄家電を打つ君の都市鉱山の小さき現場  (大東市)松岡士郎

 「槌を掌に廃棄家電を打つ」と、本作の上の句に於いて、作者の松岡士郎さんは、作中の「君」が「都市鉱山の小さき現場」で辛い力仕事をしている様子を具体的に示して居られる。
 私の郷里の秋田大学の鉱山学部が、私の知らないうちに改組されて、一時期「工学資源学部」という名称を名乗っていたのであったが、それが更に、平成26年4月に再び改組されて「理工学部」を名乗ることになったとか。
 そのことは、1970年代から1980年代に掛けての我が国の産業構造の変化に伴って、鉱山での鉱石採掘を主とした鉱山業が衰退してしまった事、そしてそのあとに更なる変化という現況をもろに説明しているのであるが、その秋田大学のかつての鉱山学部、現在の理工学部の「物質化学科」の卒業生や在籍生の中の多くは、本作にも見られる「都市鉱山」を職場として現に働いているし、これからも働くことになるだろう、と、私はかつて、ある知人から聞いたことがある。
 ひと昔前ならば、彼らの多くは、日本の鉱山業の数少ない担い手の一人として、国内のそれやこの広い地球上の鉱石採掘現場のリーダー的役割を果たす技師・技術者・知識人として働き、人も羨むような高額の給料を得て、留守家族たちに大盤振る舞いの暮らしをさせていたのでありましょうが、それも一場の夢となり果ててしまったのでありましょうか?
 本作の作者は、「士郎」という〈セカンドネーム〉から推察しても判る通り、明らかに男性でありましょう。
 ならば、作中の「君」とは何者か?その性別や如何?
 彼は、本作の作者・松岡士郎さんのご子息かも知れませんし、再従兄弟の年上の、後期高齢者男性なのかも知れません。
 そもそも、作中に「君」とあるだけでは、男性か女性か、その性別さえも判然としません。
 であるならば、本作の解釈を巡って、私が以下の如き、拙い推測記事を書くことも許されましょうか?
 そう、私はあなた方、即ち、その性別すら定かでない人々、私の拙いブログ「臆病なビーズ刺繍」の読者諸氏に伝えたい。
 私からあなた方に伝えたい事は、次の通りである。
 即ち「仮に作中の『君』なる存在が、何かの事情で高校を中退せざるを得なかったか弱い少女であり、そのか弱い高校中退少女が、『都市鉱山』とは名ばかりの、場末の『廃棄家電』の『小さき』解体現場で『槌を掌』にして、日がな一日、額に汗して働いているのだとしたら、もしも、その少女が赤の他人では無くて、自分の腹の中から生まれた娘さんだとしたら、その母親としての貴女は、その苦しみに耐えられますか」という、一事である。
 斯くして、字数にしてわずかに二十字余り、音数にしても、わずかに三十一音でしかない本作は、この遊び人で道化者以外の何者でもない私・鳥羽省三をして、日々発生する諸々の事象、世界情勢や我が国の産業構造の劇的変化、劇的崩壊といった問題をまで考えさせるのである。


○  わが妻の嫁に来しころ天の川清かに見えて貧しかりけり  (蓮田市)斎藤哲哉

 そうです、然りです。
 「わが妻の嫁に来しころ」、否、それよりももっともっと先の、昭和二十年六月の、私の母親が郷里の町の小さな小さな病院の、ベッドもなく暗い部屋で息を引き取った頃の、我が国の空、吾が故郷・湯沢町の空は、今からは想像も出来ないくらいに明るかったし、七夕の夜には、「天の川」が、私の小さな掌で掴めるくらいの近さで光り輝いていたものでありました。
 でも、その頃の私たちの暮らしは、今の若者たちにとっては、想像することさえ出来ないほどにも貧しかったのでありました。
 私には、あの終戦の年の、私の母が死んだ年の、七夕の「天の川」の光り輝く幻想的な光景が今でも忘れられないし、あの夏の日に、吾が故郷の空を飛ぶ〈B29〉の爆音の怖さと、その爆音に怯えながら、裏山の防空壕に逃げる途中の野菜畑でちぎって食べた〈煤け胡瓜〉の味が、今でも忘れることが出来ません。


○  簡素なる教会立ちぬひっそりと隠れキリシタンの末裔の祈り  (長崎市)田中正和

 歌い出しの「簡素なる」に、少しばかりの疑義あり。
 それはそれとして、私たち日本人の多くは、かつては、自らが死後に仏様として祀られ、お寺に入る者であることを信じていたのでありましたが、それも束の間、檀家制度が崩壊し、寺院の屋根に苔が生えて崩れるようになり、その主である住職たちが金儲けに奔走している今となっては、日本人の中で、真の意味で信仰対象を持っている者は、天草の「隠れキリシタンの末裔」たちと、怪しげな新興宗教の信者たちだけになってしまったように、私には思われるのでありますが、私以外の方々は如何様に思って居られるのでありましょうか?
 [反歌]  天草や鐘が鳴る鳴る教会の鐘を鳴らして賽銭投ず  鳥羽省三
      我が父祖の二百回忌の日取りまで詳細窮めて記す浄土寺


○  悲しみは深爪に似て日に幾度触れては痛む失ひしもの  (奈良市)山添聖子

 「深爪」した者は、その痛さに耐え兼ねて、「日に幾度」も、その患部に「触れて」は、失われてしまった者の事を思い、深く深く惜しむことでありましょう。
 また、「悲しみ」というものは、その「深爪に」も「似て」、「日に幾度」も「触れて」摩っても「痛む」ものであり、今となっては二度と手にすることが出来ないものでありましょう。
 末尾の七音「失ひしもの」に、少しばかり疑義あり。


○  港外に夜明け待ち居し貨物船動き始めぬ秋立ちにけり  (沼津市)石川義倫

 そうです。
 然りです。
 四季折々の風景の変化に恵まれた我が国に於いては、「秋」が「バッハを連れて」、お母さんと歩く団地の舗道にそろそろと近付いて来ることもありましょうし、本作に見られるように、「港外に夜明け」を「待ち居し貨物船」が「動き始め」て「秋立」つこともありましょう。
 私たち日本人にとっての秋の訪れは、かつては、『小倉百人一首』所収の藤原敏行作の和歌、「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」にも歌われている通り、涼しい秋風の存在で以て感得されるものと、大凡の相場が決まっていたものでありましたし、今でもそれほど違いがありません。
 だが、そうした半ば固定した伝統的な季節感の中に在っての、「港外に夜明け待ち居し貨物船動き始めぬ秋立ちにけり」というこの一首の存在は、なかなかに際立ち、ユニークなものである、と私には思われる。
 [反歌]  江戸切子風鈴一個軒に揺れ秋清涼の訪れを待つ  鳥羽省三


○  ひんやりと無窮花咲きて在日の友はとつとつ故郷をかたる  (相模原市)松並善光

 なるほど!
 「ムクゲ」と言えば済むところを「無窮花」と書き、ことさらに「ムグンファ」と韓国語の発音を映したルビを施した辺りが、天下無敵の松並善光流短歌の極意というものでありましょうか?
 「無窮花」即ち「ムクゲ」にも、白い花を咲かせるそれと、淡い紫の花を咲かせるそれとの違いがありますが、冒頭の五音「ひんやりと」に依って推測するに、本作のムクゲ,即ち「無窮花」は白い花を咲かせるそれでありましょう。
 その「無窮花」が、「ひんやりと」咲いている公園の椅子に腰掛けて、本作の作者・松並善光翁と「在日の友」とは、ひと時の語らいの場を持たれたでありましょうが、その時、件の「在日の友」は、白いムクゲの花の咲く、故郷・朝鮮半島での生活の思い出を「とつとつと」語ったのでありましょうが、彼が「とつとつと」して語る、故郷の思い出話の中には、当然の事として、彼の故国を我が物として併合し、手当たり放題にその文物や文化を奪い、彼の地の人々を同じ人間とも思わずに、落花狼藉、残忍無下なる振る舞いに及んだ、私たち日本人に対する怨念の情が込められた話も含まれていたのでありましょう。
 彼・「在日の友」の語る、日本人に対する怨念の情すら含まれた思い出話に耳を傾けて居られる、本作の作者・松並善光翁の好々爺然とした姿が彷彿とされる佳作である。


○  空は澄む日陰択ばず路を行くブルゾンが淡い風孕む  (大阪市)由良英俊

 「ブルゾン」とは、即ち、大阪の人々が言う「ジャンバー」、私たち首都圏の者が言う「ジャンパー」なのであるが、「淡い風」を「孕む」のは、ジャンバーでもジャンパーでも無くて、「ブルゾン」で無ければならない、との、独断的かつ普遍的な理屈から成り立つ一首でありましょう。
 そして、その理屈を成立せしめている要因には、「ファッション性が少なく機能性を重視したものをジャンパーと呼び、よりファッション性を求めたジャンパーをブルゾンと呼ぶことが多い」という、この業界ならではの、解るようで解らない屁理屈が介在しているのである。
 [反歌]  ジャンパーが風を孕んで飛んで行く胎児の父は誰とも知れず  鳥羽省三
      ジャンパーが風を孕んで飛んで行く胎児の父は行方も知れず


○  万歳と笑いたいのを我まんして拍手の中で受け取るトロフィー  (芦屋市)室 文子

 「万歳と笑いたい」と言う、歌い出しの表現には、勝利した時、めでたい時に、私たち日本人がよくする動作、即ち「万歳」に対する、本作の作者・室文子さんの鋭い批評眼が込められているものと、私・鳥羽省三は理解しているのであります。
 だが、そうした私の、本作に対する皮肉な深読みに対しては、当然の事ながら、日本全国各地の読者の方々から、特に兵庫県宝塚市にお住まいの超上流家庭のでぶんちょのおばちゃん方からの、非難轟々の声が殺到するものと、私は覚悟しているのでありますが………?
 [反歌]  「万歳」と叫んで笑って手を上げる!室さん万歳!入選万歳!  鳥羽省三
 

○  氷河期の記憶の如くさざれたる石塊を踏み山登り行く  (本庄市)福島光良

 私の乏しい経験からしても、「奥秩父などの高山の頂上付近に堆積している『石塊』こそは、まさしく『氷河期の記憶の如くさざれたる石塊』」でありましょう。
 本作は、その「石塊を踏み」行く時の、登山靴の革底とそれによって踏み締められる急坂の瓦礫とが接触する時に発する、不調和で不気味な音さえも感得される一首である。
 それにしても、本作の作者・福島光良さんは、とてつもない記憶力の持ち主である。
 なにせ、彼の胸底には、「氷河期の記憶」さえも未だ消えずに残っているのだから。
 ところで、斯く申す、私・鳥羽省三は、かつての級友たちから「彼は天下分け目の関ヶ原の戦いに参戦した、石田三成支配下の武士の履いた草鞋が、折からの泥濘に嵌ってぐぢゅぐぢょと沈んで行く時の音さえも記憶している」と、悪口半分、冗談半分の噂を立てられて困ってしまった、という辛い経験を持つものでありますが、でも、そんな私ですら、本作の作者・福島光良さんには、到底、かないっこありません。

日暦(9月28日)

2016年09月28日 | 我が歌ども
○  山雨急父は王将動かせどヘボの帰趨の未だ決せず  鳥羽省三

[注]  目にせまる一山の雨直なれば父は王将を動かしはじむ
         (坂井修一『ラビュリントスの日々』より)

○  午前二時 石の階段のぼりゆく靴音たかく吾眠り得ず  鳥羽省三

○  皿の上にチキンライスの盛られたり山崎パンの景品の皿

○  ピヨピヨとひよこ鳴かせて一室に雌雄選別作業は続く

○  ジャンパーが風を孕んで飛んで行く胎児の父は誰とも知れず  

○  天草や鐘が鳴る鳴る教会の鐘を鳴らして賽銭投ず

○  江戸切子風鈴一個軒に揺れ秋清涼の訪れを待つ

○  「万歳」と笑って叫んで手を上げる!室さん万歳!入選万歳!
 
[注] 万歳と笑いたいのを我まんして拍手の中で受け取るトロフィー (芦屋市)室文子
   
 本作の作者・室文子さんは、かつての一時期、兵庫県の宝塚市にお住まいになって居られたことがあり、それ以前には、県内や県外の地にお住まいになられていたことが私の記憶の中に未だ鮮明に残っております。
 そんな折のある月曜日の朝刊の朝日歌壇に彼女の作品が入選作として掲載されていたので、私は、彼女の入選作を私流の遣り方で称揚すると同時に、幼い彼女のお住まいが転々としていることに関わって、「もしかして彼女は、短歌を詠むのを重荷に感じているのではないか?幼い少女の詠んだ短歌作品が、長い経験を積んだ大人の作品に伍して、朝日歌壇の入選作として、全国紙の紙面に掲載されることは、本人やご家族の方々にとっては、極めて喜ばしく名誉なことではあるが、それ故に彼女が予想だにしなかった重荷を背負わされ、彼女の資質を妬む人々から、ひどい虐めを受けることもあろうし、その加害者が、彼女の周囲の者、例えば、彼女の隣人や彼女の同級生であったとしても、現代日本の現状から推測しても、それほど不思議なことではなく、
もしかしたら、彼女の住居が、ここ数年の間に二転三転しているのは、それが原因しているのではないか?」との趣旨のことを述べたと記憶している。
 それから数ヶ月経ったある日、私のブログ「臆病なビーズ刺繍」に、宝塚市一市民と名乗り、女性と名乗る、住所不明、氏名不明、メールアドレス不明の方からの、「室文子さんは、私の子供が在籍している小学校の在籍児童であり、彼女は私の子供の一学年上の上級生であるが故に、私はかねてより、朝日歌壇に掲載される彼女の入選作に注目し、彼女が我が家の子供と同じ学校の児童であることに誇りを感じていた。然るに、あなた様(=鳥羽省三)は、私たち宝塚市民の誇りである、室文子さんの作品にさんざんケチを付け、あまつさえ、私たちの街、宝塚市にもケチを付けている。そうした貴方の態度は、私は宝塚市の一市民としても、彼女が通う小学校に自分の子供を通わせている母親としても、決して、決して許せません。私たちの住む兵庫県宝塚市は、サラリーマンの憧れの住宅地であり、我が国有数の富裕な土地であり、美しい街であり、宝塚市民は人としての良識を備えた知識人である」といった趣旨のコメントが飛び込んで来たのであり、それから後も、それと同一の趣旨のコメントが、再三に亘って飛び込んで来た次第でありました。
 それにつけても思うに、私・鳥羽省三は、小学生歌人としての、その当時の彼女の資質を人一倍高く評価し、その将来に大きな期待を寄せていたのでありましたから、私の述べる彼女の入選作に対する鑑賞文及び評文は、例え、私流の遣り方、皮肉っぽい戯文調ではあったとしても、決して、決して、彼女の文才の豊かさや、彼女及び件のコメントをお寄せになられた女性の住む、兵庫県宝塚市の富裕さや美しさを妬んだり、呪ったりする趣旨のものではありませんでした。
 従って、件のコメントの趣旨は、私のブログに対しての批判としては、決して、決して、的を得たものではなかった、と、私は今でも鮮明に記憶して居ります。
 私は、一時期、心身の健康を害して、本ブログの書き込み・更新を中止せざるを得ない立場に立たせられてしまったことがありましたが、その原因の一つに、件の女性からの的外れの激しく気違いじみたコメントの存在があったことを、この機会に読者の皆様方に紹介し、告白し、釈明させていただきます。
  

日暦(9月27日)

2016年09月27日 | 我が歌ども
○  宰相が靖国境内歩むとき赤牛凄むし雌猫は鳴く     鳥羽省三

○  夏の陣に臨む幸村想はせて代表質問に立つ野田元総理

○  淀君の気位高さを見習ひて赤絨毯上歩む蓮舫

○  総理本人の如き物腰で総理大臣杯授与せる官房長官

○  廃帝の乞食旅行を思はせて関空歩廊を歩むか瘋珍

○  稚内で戮せられし貂の皮を身に纏ひホテルオークラの廊往け淳子

○  あられも無き姿態曝して秋場所の砂被り席に見ゆ 林家パー子

○  毒蝮三太夫に噛まれし素肌もものかはと秋野菜作りに勤しむ友よ

○  80パー引きセールに贖ひしドレスを身に纏ひ武蔵小杉の街ゆく吾妻

○  アサギマダラのやうな傘さして二子玉街頭に佇むペコちゃん


今週の「朝日歌壇」から(9月26日掲載分・其のⅠ)

2016年09月26日 | 今週の朝日歌壇から
[永田和宏選]
○  無理するなと言はれたころで介護する私が楽になる訳ぢやない  (仙台市)坂本捷子

 無理も何も無く、ただひたすらにそうするしか方法が無くて、年老いた肉親や病人などを「介護する」坂本捷子さんに向かって、「無理するな」と言うのは、全く以て無責任極まりない行為と言うべきでありましょう。
 そうした場の空気を読むことを知らなく、愚かで破廉恥な言葉を口にした者は、介護施設の職員なのか、話題の少ない町内会の総会の場での話の種にでもしようとの思いで、見舞い客を装って手ぶらで訪れた知人なのかは、評者の私には判然としません。
 だが、彼が本作の作者の坂本捷子さんに向かって、自らがさも人格高潔な人物であるかの如き口調で、「無理するな」という気休めの言葉を掛けて呉れたからとて、体も心もボロボロになりながら、無理を承知で肉親の介護に当たっている坂本捷子さんの気持ちが癒される訳でもなく、ましてや、介護者としての彼女の果たすべき役割が減る訳でもありませんから、最初からそのような無責任で破廉恥な言葉は掛けなければ良かったのであるし、そうした見舞い客紛いの施設への訪問は、作者の坂本翔子さんとしては〈介護の妨げになる行為〉以外の何者でもないのである。
 「無理するなと言はれたころで介護する私が楽になる訳ぢやない」という、この一首から読み取れるのは、虎屋の羊羹一竿は勿論のこと、バナナ一本さえ持たずに見舞いに訪れた人物に対する、作者・坂本捷子さんの激しい怒りの情であり、出口の無い密室に押し込められている者があげる悲鳴である。 


○  こうすればよかったのにと他人は言うそれができずにこうなったのに  (羽島市)大野日出治

 前述、坂本作は、〈心無い見舞い客に対する怒りの情を述べた作品〉でありましたが、本作を二席に選んだ永田和宏氏の「大野氏もそれ(介護者としての坂本捷子さんの気分)に近い気分」という選評とは別に、「こうすればよかったのに」の「こう」も、「それができずにこうなったのに」の「こう」も、その内実は何一つとして作者以外の者には判りませんし、本作の魅力の大半はその点に在るのである。
 私が思うに、作中の「他人」の「言う」、「こうすればよかった」とは、「あんな、見てくれも良くないし、それ以上に性格の宜しくない女とは、結婚しなければ『よかったのに』」ということであり、作者自らが言う、「それができずにこうなったのに」とは、「相手は誰でも、実りの少ない青春の思い出の一つとして、女体を抱いてみたかったので彼女に手を伸ばしたら、あろうことか、たった一度の交接で妊娠してしまったのである。だが、それだからといって、いくらなんでも男の私としては、自分の子を身体に宿している彼女を、捨てる訳にも、殺す訳にも行かなかったので、あんなことさえしなければ、と後悔しながらも、お腹の大きい彼女と結婚してしまったのである」ということでありましょう。
 それにしても、本作の作者の女性を見る目の無さ、男性としてのガードの甘さには、全く以て呆れ果ててしまい、大口を開けて笑うしかありません。


○  先生にひまな時間がいま必要かの苦沙弥ほどとはいわざるも  (さいたま市)桜井英雄

 折も折、朝日新聞の朝刊に、夏目漱石の名作『吾輩ハ猫デアル』が長期掲載されている今を狙って投稿された作品、最初から入選作として紙面に掲載されるに違いない、との安易な思いで投稿された作品であるが故に、評者としての私の、本作への評価は、他の入選作へのそれ以上に厳しくなければなりません。
 本作の表現上の特色として上げられなければならない点は、本作が、「『先生にひまな時間がいま必要』との断定的な言い方の上の句と、『かの苦沙弥ほどとはいわざるも』という、上の句の断定的な叙述を補足して言う下の句から成り立つ、上下にそれぞれ一音の字余りを伴った、三句切れの作品である」という点である。
 それにしても、本作の韻律の悪さには呆れ果ててしまいます。
 その主たる原因は、上下の一字字余りにあるのであるが、その他に上げなければならないものがあるとすれば、それは作者の生まれついてのリズム感覚の悪さや、格別にその必要がないのにも関わらず、上の句を体言止めにし、下の二句が極めて不自然な〈句割れ〉〈句跨り〉になっている点でありましょう。
 「先人、塚本邦雄が、何が故に、短歌表現に〈句割れ〉〈句跨り〉の手法を用いなければならなかったのか!」という一事に就いて、「この際、本作の作者のみならず、歌人を名乗る者全員が考えてみなけれはならない」と、本作の評者の私・鳥羽省三は思うのである。


○  思い出したくない人の携帯できっと無心に笑ってる私  (東京都)上田結香

 本作に接して、私・鳥羽省三の感想は、「自らが『思い出したくない人』と言って憚らない『人の携帯』に、本作の作者・上田結香さんは、一体全体、いかなる理由があって、メールをしたのか?アドレス交換などをしたのか?、その点に就いて、じっくりと考えてみて、反省するべき点が認められたら、この際、潔く反省するべきである」という一点に尽きるのである。
 だが、つらつらと慮ってみると、そもそも、パソコンやスマホや携帯電話などの先端的通信器具には、「それがより人々の暮らしに便利さを齎す、それを用いることに因って、現代社会の住人である、私たちの意思交換や情報交換が、よりスピードアップされる、より簡単になる」という特質が本質的に備わっているのであり、これらの先端器具は、これまでも、これからも、その本質的な目的を達成するためにこそ、その機能の改良・改善が為され、新機種の開発が為されようはずである。
 従って、そうした先端通信器具の本質から判断してみても、人間なら誰しも、時には、ついうっかりと「思い出したくない人」とアドレス交換したり、メール交換したりすることは、ままあるはずである。
 と、言うことは、本作に描かれているような出来事は、私がこうした駄弁を連ねている今、現在も発生してに違いない、と判断されるのである。
 それにしても、「今となっては、『思い出したく』も『ない人の携帯』の画面で、本作の作者のスナップ写真が『笑ってる』としたら、それこそは今となっては、決して、取り返すことが出来ない失敗として、作者の胸の中でくすぶり続け、時には、作者の進路選択や結婚相手の選択にも重大な影響を齎すことにもなりかねません。


○  夏空をうつす四万十川の瀬に黙の釣人ふぐりを浸す  (さいたま市)田中ひさし

 「ふぐりを浸す」との、下品で悪趣味極まりない七音を、「夏空をうつす四万十川の瀬」の清らかさを歌うことを目的として本作の五句目に置く必要があったか?否か?
 現実的には、日本全国の河川で、そうした光景はしばしば見られるのであるが、だからと言って、それをそそのままに言うのは、作者の生まれついての悪趣味・下手物趣味も手伝ってのことでありましょう。
 それにしても、さいたま市の人間がわざわざ四国の四万十川まで足を伸ばして、「釣人」の「金玉丸出し姿」を題材にした短歌を詠むとは!


○  さはさはとさやかに汽水満ちくればハゼとわれとが巡り会ふ秋  (浜松市)松井 恵

 本作の作者・松井恵さんがお住まいの浜松市の「秋」は、「さはさはとさやかに汽水満ち」て来て、訪れるのでありましょうか。
 その浜松市の「秋」を舞台にして、「ハゼとわれとが巡り会ふ」、「君の名は」紛いのメロドラマが展開されるのであるが、その結末に用意されているのは、「鮎の塩焼きを作者がむしゃむしゃ食べてビールを飲む」という、極めて残酷なシーンである。


○  貸しボートあまた裏向きにあるを過ぐ吃水と木漏れ陽のまじる午後  (京都市)森谷弘志

 「吃水とは、「船舶が水に浮いているときの、船体の最下端から水面までの垂直距離。〈船脚〉とも言う」とか。
 であるならば、本作に詠まれているのは、「貸しボート」が陸上に「あまた」「裏向きに」置かれている光景」であるから、その「貸しボート」の「吃水と木漏れ陽のまじる午後」は、現実的には現出出来ないはずである。
 或いは、件の「午後」とは、「あまた裏向き」に置かれている「貸しボート」とは別のボート(或いは、漁船などの船舶)の「吃水と木漏れ陽のまじる午後」なのかも知れません。


○  青春を捨て去るためには歌うまい「私鉄沿線」「池上線」は  (安中市)鬼形輝雄

 「私鉄沿線」は野口五郎が歌い、「池上線」は西島三重子が歌つて一世を風靡した、フォーク調の青春歌謡である。
 これらの名曲を、本作の作者・鬼形輝雄さんが「青春を捨て去るためには歌うまい」と決意するに至ったのは、それなりの原因があってのことでありましょうが、斯く申す私は、彼の場合とは逆に「私の青春があまりにも冴えない青春、充実感の無い青春であったが故に、それを回復させるためにこそ、折に付け、件の名曲に耳を傾けている」のである。


○  三人の子にそれぞれの人生があって私がかかわったこと  (尼崎市)ひじり純子

 「三人の子にそれぞれの人生が」あるとのご認識、そして、それに「私がかかわった」とのご認識をお持ちになられるのは、人の親として、特に母親としては、とてもとても大切なことでありましょう。
 こうしたご認識をお持ちになられる母親、愛情深くかつ理性的な女性を母として生まれたひじり家の「三人」のお子様たちは、極めて幸せな人生をお歩みになられるに違いありません。
 「三人の子にそれぞれの人生があって」と言いさし、そしてそれに「私がかかわったこと」と、再び言いさすことに因って生じる余韻に留意しなければなりません。


○  普通免許を取れたので明日からは車を運転しなくて済むの  (名古屋市)茶田さわ香

 「普通免許を取れたので明日からは車を運転しなくて済むの」とは、作中に笑いを醸し出し、私たち読者を笑いの渦に巻き込むために敢えてする逆説であり、現実の茶田さわ香さんは、今頃、名神高速道路を速度制限を無視して飛ばしているのかも知れません。
 だが、その茶田さわ香さんが、如何に短歌作品の表現の為とは言え、「普通免許を取れたので明日からは車を運転しなくて済むの」と仰るのは、それなりの理由があってのことと推測されるのである。
 即ち、茶田さわ香さんにとっての自動車学校在籍当時の仮免許での路上運転は、私たち一般人のそれ以上に困難を伴い、意地の悪い教官どもから謗られ、笑われ、時にはその豊満な肉体に触られたり抓られたりしながらの運転、さんざん苦労しての路上運転であったに違いありません。

日暦(9月26日)

2016年09月25日 | 我が歌ども
○  その昔ぼくを好いてた婆さんが僕を馬鹿にす「呆けちやつたね」  鳥羽省三

○  楽しみは市議会議員の悪辣な会計処理が証される時

○  楽しみは議員の涜職証されて福井市議会パンクする時

○  楽しみは瘋珍をアベが張り倒し北方四島奪還する時


 [注] 「ぼく=僕=粟島在の喜多さん≠鳥羽省三」

日暦(9月25日)

2016年09月25日 | 我が歌ども
○  泉湧き針魚泳ぐふるさとを心に蔵ひ川崎を生く    鳥羽省三

○  流すために貯めたのだから初めから瞼なんか要らなかつたのだ 

○  かなかなは電信柱に止まつてろ!〈意地悪姑ホームに帰れ〉!

○  潦(にはたづみ)とおりやんせ通りやんせ綺麗な姉ちやん雨靴履いて

○  「老い独り縊死」とのニュース照る照る坊主あした天気にしておくれ  

結社誌「かりん」8月号より(其のⅢ)

2016年09月25日 | 結社誌から
[岩田欄]

○  錆つかぬやうにアセロラドリンクを午前零時のわれに流しぬ  (川崎)尾崎朗子

 作者の尾崎朗子は、1965年生まれであるが、女性の体も、五十歳を過ぎ、「午前零時」まで歌を詠んだり読んだりしていると、錆び付いてしまうのでありましょうか!
 ところで、「アセロラドリンク」と言えば、一般的、常識的には、サントリーから発売されている〈ニチレイ・アセロラドリンク〉を指して言うのであるが、その効能書きの何処を探しても、「本飲料に防錆効果あり」などとは書かれていません。


○  「ああ愛が足りない」だなんて甘噛みする子猫のやうに女子高生が  (川崎)尾崎朗子

 「ああ愛が足りないだなんてセリフは、「甘噛みする子猫」や「女子高生」が口にするようなものではなく、五十歳を過ぎて未だ理想の男性に巡り合っていない、本作の作者のような熟女が口にするに相応しいものでありましょう。
 ところで、「子猫」が、飼い主の熟女の素肌を「甘噛みする」のは、あれは、「もっともっと愛されたい」との願望を込めての行為なのでありましょうか?


○  珈琲でなだめる頭痛あまぐもは万策尽きて雨をこぼせり  (我孫子)遠藤由季

 「珈琲」には「頭痛」を和らげる効果があることは私も知っていましたが、「あまぐも」が路上に「雨」をこぼす前に何かの策を施す、などということは、私にとっては初耳です。
 一体全体、彼は「雨」をこぼす前の事前策として、如何なる事業を為していたのでありましょうか? 


○  まなぶたをもつ魚に遇ふ「見ぬためにまぶたはあるの?」夢にわが声する  (さいたま)古志 香

 然り!、そうです。
 「見ぬためにまぶたはあるの」です!
 そして閉じるためにも!
 [反歌]  流すために貯めたのなら初めから瞼なんか要らなかつたのだ  鳥羽省三


○  街灯の明りの下で立ち止まり溜息ひとつ また歩きだす  (新座)角田利隆

 本作は、七首掲載中の六首目であるが、掲載作中の二首目に「妻が残した口紅がある 使ったりすることもなく立てておきます」であると知れば、本作は解説を要しないでありましょう。 

結社誌「かりん」8月号より(其のⅡ)

2016年09月25日 | 結社誌から
[岩田欄]

○  汚染土をひき受けたるは子どもらの学校といふ、黙すほかなし  (横浜)池谷しげみ

 「子どもらの学校」が、「吾が愛し子たちが通学している学校」という意味だとしたら、五句目の「黙すわかなし」は、一般的には、エゴ丸出しの言い方とも受け取られましょうが、「ごく平凡な母親の言い方としては、格別に非難するには当たらない」と評者には思われます。


○  一年の半分が夏のような島何か少し憎み始める  (沖縄)松村百合子

 この作品の鑑賞を通じて、「作者・松村百合子の石垣島暮らしを切り上げたい」という気持ちを伺うことが出来るので、評者の私には、短歌作品としての評価は別のこととして、とても興味深い内容の作品でした。
 大震災直後に仙台暮らしから逃亡した俵万智が、石垣島暮らしを続ける事ができた理由の一つには、「本作の作者・松村百合子があるから」だとは、短歌関係者から私が直接聴いたことであるが、その俵万智が石垣島暮らしから脱して、宮崎に転居してしまった今となっては、本作の作者にも、「そろそろ石垣島暮らしを止めようかな」といった気持ちになっているのかも知れません。
 どうせ他人のことですから、どうでもいい事かも知れませんが?


○  みづぎわに近づいてくる蟇蛙ゆるゆる地球の地軸をまわれ  (川崎)池内桂子

 歌材となっているのは、「一匹の『蟇蛙』が、松尾芭蕉作の〈古池や蛙飛び込む水の音〉よろしく、作者のご近所の古池に飛び込んだ後、その池の『みづぎわに近づいて』来て、その辺りをぐるぐると回って泳いでいる光景」である。
 作者の池内桂子は、「件の『蟇蛙』がぐるぐると回って泳いでいる古池の『みずぎわ(=平面)』を、『地球の地軸』と捉えている」のであるが、そもそも「『地球の地軸』とは、地球が自転する際の軸であり、北極点と南極点とを結ぶ、回転運動をすることがない直線」を指して言う言葉であり、北極点でも南極点でも無い古池、件の「蟇蛙」がぐるぐると回って泳いでいる古池は、「地球の基軸」であり得ようはずがないのである。
 と、言うことになりますと、本作に描かれている世界は、「老境に達しても尚、乙女のような夢を見ることを止めない老女が見た幻想世界」ということになりましょうか?
 とまで書いて来て、たった今気が付いた事ですが、私は、この作品を鑑賞するに当たって、作中の語「蟇蛙」と「みづぎわ」にこだわるあまり、ついうっかりと松尾芭蕉作の「古池や蛙飛び込む水の音」という俳句を枕に置いて論を展開してしまったが、その間違いに気が付きました。
 と言うのは、件の一句を頭に置くと、作中の「みづぎわ」は、芭蕉の句に登場する「古池」の如き極めて小規模な「みずぎわ」に限定されてしまい、件の「蟇蛙」は、「地球の地軸」から遠く遠く離れた、日本のとある古池の「みずぎわ」に「近づいてくる」事になってしまい、池内桂子作の本作のスケールの大きさに気付かず、「この作品に描かれているのは、老境に在りながら、未だに夢見ることを忘れない老女、科学的知識に欠けた老女の見た夢と憧れの世界である」などという、月並みで平凡な結論に到達してしまうからである。 
 よくよく熟慮してみると、作者の池内桂子が、作中の「みづぎわに近づいてくる蟇蛙」に「ゆるゆる」「まわれ」と願い、激励している「みづぎわ」は、前述の如き「みづぎわ」、松尾芭蕉の俳句の世界の古池の「みづぎわ」、小さくて枯れていて濁った水がたまっている、哀れな「みづぎわ」などでは無く、「地球の地軸」の最北端の北極点の周りに在る、測定しようもなく広大な池の「みづぎわ」でなければならないのである。
 本作の作者・池内桂子は、その途方もなく巨大な池の「みづぎわ」に佇んで、その「みづぎわ」の水面に「近づいてくる」幻の「蟇蛙」に向かって、「蟇蛙よ、私の心の中の幻の蟇蛙よ、お前は、私の眼前に在る、『地球の地軸』の周りの巨大な池を『ゆるゆる』と「まわれ」、『地球の地軸を』『ゆるゆる』と『まわれ』」と、祈るような気持ちで願い、激励しているのでありましょう。 


○  さみどりはさやげる山の色香ともマゼンダ燃ゆる卯月尽なる  (小野田)高崎淳子

 一首の意は、「今は、空や空に漂う空気や風までがマゼンダ色に燃える卯月尽である。その空の下に在ってさやさやと音を立てて揺れている山は、さみどり色に染まっているのであるが、その爽やかな山のさみどり色は、自然の恵の色であり、香りでもある」といったところである。
 内容、形式、共に整った佳作であり、老境に在る作者・高崎敦子の明るく爽やかなロマンチシズムを短歌形式で現出した一首でもありましょう。


○  なにとなく過差を好めるその猫をたの(も)しき美女とかねて思へり  (浜田)寺井 淳

 此処にも一個のロマンチストの存在を認めることが出来た。
 かつては〈裏日本〉なる蔑称で以て呼ばれ、今となっては、県単独では参議院議員を選ぶことさえも許されていない島根県の浜田市にも、寺井淳という、猫好きのロマンチストが棲息していたのである。
 「過差」とは、「分に過ぎたこと。分不相応なおごり。ぜいたく」の意であるが、かつての裏日本の島根県の浜田市には、果たしてそんな「猫」、浜田市のロマンチスト寺井淳をして、「たの(も)しき美女」を思わしめた「過差を好める」「猫」が棲息しているのでありましょうか?
 と、言うことになりますと、一般的かつ常識的な傾向として、私たち日本の男性は、美女と呼び得るような女性に対して、「『過差を好める』性格であれ、貴女ぐらいに美しかったら、どんなに贅沢三昧の生活をしていても、私は決して文句なんか言わないぞ!」と思い願っていることになりますが、事の真実は果たして如何ならむや?

○  真顔なし猫とコロブチカ踊るわれをつまは目を細めみしにあらずや  (浜田)寺井 淳

 私としたことが、迂闊にも、事の真実を見誤ってしまったようだ!
 と言うのは、島根県の寺井淳なる男性を、ついさっき、私は「此処にも一個のロマンチストの存在を認めることが出来た。/かつては〈裏日本〉なる蔑称で以て呼ばれ、今となっては、県単独では参議院議員を選ぶことさえも許されていない島根県の浜田市にも、寺井淳という、猫好きのロマンチストが棲息していたのである。」などと、褒め称えてしまったのであるが、仮にでも、彼が「真顔なし猫とコロブチカ踊る」としたら、彼は「一個のロマンチスト」なんかでは無くて、世間によく在る、単なる〈猫好き〉〈猫きち〉の一人でしかない、ということになりましょう。
 それにしても、彼の奥さんは大変だ! 
 

結社誌「かりん」8月号より(其のⅠ)

2016年09月24日 | 結社誌から
[岩田欄]
○  わが部屋に仏壇あれば不信心のわれも亡き父母とともに寝起きす  (川崎)岩田正

 「わが部屋に仏壇あれば不信心のわれも亡き父母とともに寝起きす」という一首は、読んで字の如し、格別なる解説や解釈を要しない作品と思われる。
 だが、私たち読者は、本作を鑑賞するに当たって、これを構成する、「わが部屋(に)→仏壇あれ(ば)→不信心のわれ(も)→亡き父母(と)→ともに寝起きす」いう、四個の連文節に込められた、岩田短歌一流の屈折した心理や批評精神や反骨精神、更には、斯かる事態が現出するまでに至った、経過や事情に対する怨念の情をまで感得せざるを得ません。
 そして、それと同時に、岩田短歌の傑作・代表作として知られている、「イブ・モンタンの枯葉愛して三十年妻を愛して三十五年」、「妻は書きその腰の辺にわれ眠る妻夜遅くわれ朝早し」、「オルゴール部屋に響けり馬場さんよ休め岩田よもすこし励め」、「妻にのばす稀となりたる両の腕どのやうに寝てもつくづくと邪魔」などの作品を鑑賞する場合と同様に、一首の表現の中に込められたユーモア精神や人間愛を読み取ることも忘れてはいけません。
 ところで、昨今の我が国の都市住民の住居・即ち〈食う寝る所、住む所〉は、秋田県などの辺鄙な地方のそれと比較した場合は、地価の高さが主たる原因となって、あまりにも狭小であり、彼ら、都市住民の間では、当座の暮らしに不必要な家具や家財道具などは、出来る限り買わないようにする事、室内に置かないようにする事が、家族同士で交わされた暗黙の約束事項のようなものとなっている。
 従って、本作にも登場する「仏壇」などは、信仰の如何を問わず、都会生活には不必要なものとして認識されていて、可能な限り小型化する傾向にあり、先祖代々伝えられるそれなどは、〈家庭生活を現代化し合理化し、便利なものにする為の余計者・邪魔者以外の何者でも無い〉という共通認識が広く行き渡っているのである。
 私は、容貌や姿かたちはともあれ、その内実は、決して、決して盗鼠小僧次郎吉や鬼平犯科帳に登場する〈引き込み女〉の如き存在ではありませんから、岩田・馬場ご夫妻の邸内に忍び込んんだり、その周辺を探索したりした経験はありませんし、ましてや、岩田・馬場ご夫妻の所持する、父祖伝来の「仏壇」が、どれくらいの大きさなのかも知りませんが、ご夫妻の年齢は、「足して二で割っても九十(歳)以上の数値を示す」ことになる訳ですから、それ相当の大きさであり、豪勢さでありましょう。
 ならば、その置き場を巡っての問題が、ご夫婦間の〈喫緊に解決すべき大問題〉としてクローズアップされること必定であり、そうした場合の判断の基準は、ご夫妻相互の力関係や来客の頻度などに依って決定されるのが、一般的かつ常識的かつ合理的な傾向でありましょう。
 とすると、岩田・馬場ご夫妻の場合は、その力関係から判断しても、来客の頻度から判断しても、その「仏壇」は、妻・馬場あき子の私室にも、来客の多いリビングルームにも、応接間にも、廊下や風呂場やトイレの隅などのも置くことが出来ないということになり、結果的には、我が国を代表する短歌作家であり、短歌評論家であり、歌人・馬場あき子の夫でもある、岩田正の〈寝室兼プライベートルーム〉が、岩田正・馬場あき子家の仏間を兼ねるということになり、夫・岩田正ご本人の父祖代々、ご両親のご位牌は勿論のこと、妻・馬場あき子のご両親や継母のご位牌までがぎっしりと詰まって置かれた「仏壇」が、必ずしも広くない、その室内に置かれる結果となるのは必定でありましょう。
 ところで、本作の二句目に「不信心(のわれ)」とあるのは、決して、決して、彼・岩田正が父祖を敬う心に欠けた人間、ご両親のご恩を忘れた人間であることを説明している訳ではありませんし、また、四、五句目が「われも亡き父母とともに寝起きす」となっているからと言って、彼・岩田正が妻・馬場あき子のご親族の霊を無視し、冷遇し、それと「ともに寝起き」することを嫌っている、せめてもの抵抗精神の発露として拒否している、と解釈する必要はさらさらにありません。
 とまで、岩田正・馬場あき子ご夫妻に対する、いわれの無い悪口雑言めいたことを、あれこれと書き連ねて参りましたが、本作に対して、こうした論評を為すことは、ややもすると大きな誤解を生む虞れ無しとしませんから、この論評の筆を措くに当たって、一言釈明させていただきとう存じます。
 こうした軽口めいた論評を為すことに依って、私・鳥羽省三は、何も、「岩田・馬場ご夫妻の間で、仏壇設置場所をめぐって、冷たく見苦しい陣取り合戦が交わされいる、その勝利者となったのは、短歌結社〈歌林の会〉の主宰の馬場あき子であり、夫・岩田正は、歌壇に於けるその地位や序列が低く、かつ、歌人としての力量や指導力が、妻・馬場あき子より劣っているが故に、自室を仏間とされるような惨めな立場に立たされている」などと主張している訳ではありません。
 その点に就いては、結社誌「かりん」に結集なさって居られる方々や、満天下の短歌ファン、馬場あき子ファン、岩田正崇拝者の方々には、よくよく申し添えておかなければなりません。
 何卒、宜しくご理解賜りたく、衷心よりお願い申し上げます。


○  雨の匂ひしんしんと身にしみとほり六月われはかならず病める  (市川)日高堯子
   じんましん夜の総身に噴き出でてかきむしる背を蛾があまた飛ぶ

 「六月われはかならず病める」とあるところから判断すると、歌人・日高堯子の胸底は、「梅雨期『六月』ともなれば、『われはかならず病める』ということが、〈確信〉と言うか、〈諦め〉と言うか、ほぼ間違いの無い確定的かつ自虐的な心理」に、占領されているのでありましょう。
 ところで、歌人・日高堯子が「じんましん」に罹ったのは、巷間にいわゆる、〈弱り目に祟り目〉という俗信の如く、「六月」になって、彼女の内蔵が弱ったからでありますが、それへの対応策として、傑出した歌人・日高堯子ご自身が、痒くて痒くてたまらなくなってしまって、我が背中を掻くことになり、そうした彼女の身体回りを、彼の憎っくき『蛾』どもが、ばたばたと奇しき羽音を立てて、『あまた飛』び回る光景こそは、まさしく〈六月の日高家の怪談〉であり、〈千葉県市川市の都市伝説〉の一つでもありましょうが、それにしても、お可哀想な一事ではありましょう。
 一首目に見られる「雨の匂ひしんしんと身にしみとほり」という表現、及び、二首目に見られる「じんましん夜の総身に噴き出でて」や「かきむしる背を蛾があまた飛ぶ」などの表現などは、ややもすると、わがままに生きんことを望む老女がよくする大袈裟な表現、過激にして自己本位な表現とも受け取られましょうが、決して、決して、そのような性質のものではありませんし、こうした表現こそは、傑出した歌人・日高堯子を特徴付ける傑出した表現として賞賛すべきでありましょう。


○  マツコデラックス消せばもひとりマツコデラックスあらはれてをり夜のテレビに  (千葉)川野里子

 「マツコデラックス消せばもひとりマツコデラックスあらはれてをり夜のテレビに」とは、「『夜』になって、他の家族の者たちも寝静まり、自分も格別に遣ることがないから、ひさしぶりに『テレビ』でも見ようかと思ってリモコンのボタンを押したところ、たまたま現れた画面に、格別に好きなタレントでもない『マツコデラックス』の大きな図体が現れたので、「ああ、初っ端から嫌なものを見てしまった!」という気持ちになり、他のチャンネルボタンを押してみたら、其処にもあの『マツコデラックス』の巨大で醜悪な図体が映し出された」という感じの言い方であり、描写である。
 こうした私の解釈とは別に、本作の作者・川野里子さんにとっての「マツコデラックス」という存在は、格別に嫌悪するべき存在として、この作品に登場させているのでは無いかも知れません。また、彼(彼女か?)の存在が格別に大きいと言いたい訳では無いかも知れません。
 即ち、「遣ること無しの深夜に、たまたま点けてみたテレビの画面にあの大きな図体が映っていて、そのことを格別に嫌悪した訳でも無しに、他のチャンネルボタンを押してみたら其処にもあの大きな図体が現れた、という偶然が、作者をして一首を為さしめたのでありましょう。」
 それはそれとして、昨今の民放テレビの「マツコデラックス」ブームには呆れ果ててしまって、ゲテモノ嫌いな私としては、「民放テレビの画面に、あの巨大で醜悪な図体が存在するが故に民放テレビは低俗である」と言いたい気持ちにさえなってしまいます。
 斯くして、私・鳥羽省三は、あの巨大で醜悪な図体に向って叫びたくなるのである。
 人間は〈シン・ゴジラ〉でも〈シロナガスクジラ〉でもないから、大きければいいと言うものではありません!
 また、特に女性は、一貫目いくらで売る〈豪州産の牛肉〉でも、〈隣国製の豚肉入り餃子〉でもないから、肥っていれば太っているほど喜ばれると言うものでもありません!
 しかも、あの「マツコデラックス」と言ったら、いつもいつも、吉野熊野の山奥に捨て置かれている、何だか知らない古代宗教の御神体の守護神が怒ったような、あの醜い面貌をしているのである。
 我が家のテレビには、あの肥満体は、絶対に絶対に映らせたくはありません!
 何がデラックスだ!
 何が人気タレントだ!
 「マツコデラックス」よ、お前はこの際、三途の河原まで彷徨って行き、此岸と彼岸の隙間を塞ぐ役割でも果たしなさいよ!
 「マツコデラックス」よ、お前は地獄の底まで墜ちて行き、閻魔大王の尻の穴でも拭いていなさいよ!
 斯くして、本作の作者のそれはともかくとして、本作の偏屈な評者・鳥羽省三の、「マツコデラックス」に対する嫌悪の情の披瀝は、いつ果てることもなく続いて行くのである。 

日暦(9月24日)

2016年09月24日 | 我が歌ども
○  妖艶に咲けばをのこら唇付けむ鳥兜とは恐ろしき花  鳥羽省三

○  みちのくの野に咲く花トリカブト艶麗ゆへに罪多き華

○  鳥兜・毛茛また火炎茸、道の奥には毒の花咲く

[注]  「唇付(けむ)」=「くちづ(けむ)」
     「毛茛」=「キンポウゲ」  「火炎茸」=「カエンダケ」