山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

トゥーランドット

2006-04-23 10:01:51 | 未分類過去
昨日、放送大学の「芸術の理論と歴史」の面接授業で、オペラ「トゥーランドット」のビデオを見ました。

これは荒川静香がフィギュアスケートで金メダルを取ったときの曲です。そういえば、解説者が「曲はあの氷の心をもつ女王、トゥーランドットですね」などと言っていたような記憶があります。その言い方になにかその曲に特別な意味がありそうな感じはしたのですが、別段気にもせずにいました。
そして、荒川の姿には、私個人は「湖の上を舞う大きな白鳥のようだ」というイメージをもって見ていました。(2・24記 荒川静香さんありがとう
しかし、この曲はもともと有名なオペラなので、知るひとは、その内容を思い浮かべながら荒川のスケートを見ていたに違いありません。

そのあらすじは、「北京の王女が王位を継承するにあたり、他国の男たちの求婚に対して、3つの謎かけ問題を与え、それが解けないと首を切って殺すという残酷なことを繰り返していた。それは、先祖の王女が過去に隣国の者に虐殺されたということがあり、その報復であった。しかしひとりの男(実はダッタン人の王子)がこの王女を愛し、その難問を解いてついに王女の氷の心を溶かした。」というものだそうです。

フィギュアスケートで流された曲は、それなりに編曲されており、音質なども悪く、クラシック音楽の真髄を求めるものにとっては、様々な点から芸術的な価値としては評価に足りないものですから、まったく別格のものといえます。しかし、どれほど音質が悪くても、本来のオペラと違って元々のオペラの視覚的な内容がなくなり、迫力に欠け、それのみでは物語性もないということがあっても、それはトゥーランドットの曲には違いないもので、それはそれでそのメロディーやリズム、ハーモニーの特性のみで充分に音楽としての感動を与えてくれるものだといえるでしょう。
しかし、荒川静香のフィギュアスケートを見て、その曲を聴いてすばらしいと思ったり好きだと思って、人によってはCDを買って聞いたりしてみて、「私はトゥーランドットをよく知っており、私が好きな曲だ」と言えるのか?
芸術というのは、どんな人でも触れることができ、愛好できるものだが、そのレベルには差があり、荒川のスケートに流れたトゥーランドットを知っているからと言って、そのひとが本来のトゥーランドットを論じることができないのは当然です。
だから、芸術を理解するためには、その場の感性だけではなく、それなりの勉強も必要であるといえます。
私の受け取り方が間違っていなければ、先生が講義の中でおっしゃっていたことと、上の内容はおおよそ一致すると思われます。

ところで、荒川静香の演技は、オペラ「トゥーランドット」を知っているのと知らないのとでは、何か感動の度合いが違ったのだろうか?というのが今の私の疑問です。
フィギュアスケートというのは、芸術ではなくて、スポーツの度合いが強いはずです。本来オリンピックはスポーツの能力を極めるのが目的のはずです。だから、ジャンプや回転などが効果的に発揮できるような曲がふさわしく、そこから考えると曲の背景となる物語性などはあまり関係ないはずです。しかし、その曲がスポーツ技術を発揮しやすいような曲想であり、さらに感動的な物語性を持っていたらそれは相乗効果となるので、選曲は重要であるといえます。荒川の場合、技術点にならないイナバウアーを入れたあたりも、スポーツ技術を中心に攻めるというよりも、芸術性を重視したように思います。他の人より曲のボリュームを上げたとも聞きます。
オペラトゥーランドットを知っているものに対して、そして本人にとっても、「女王になるもの」というその物語性は心理的な暗示をもたらし、それが金メダルにつながったとも考えられます。他国の勢力を排除する氷の心が愛によって解かされ、他国の者と結ばれ、自分が女王となるというストーリーはおそろしいくらいです。

しかし一方、私自身はオペラを知らないで、初めてあの曲を聴きながら荒川のスケートを見て、感動できたことを、幸せと思います。
もし、オペラをしっていたら、私はそのストーリーと先入観にとらわれて荒川の姿に「自然の湖の上の白鳥」などをイメージすることはできなかったことでしょう。
そのような私のもったイメージに対して、教養のあるひとは、「白鳥の湖じゃあるまいし、どうしてトゥーランドットからそんなとんでもない想像をするんだろう」とバカらしく思う人々も多いかもしれないと、今になって初めて気付き恥ずかしいしだいですが、知識のある人のみがイメージできることがある一方で、逆もあると言えます。
音楽の場合、単にメロディーが好きだから採用することもあります。単にきれいな景色だから採用する絵や写真もあります。しかし、その絵や写真の要素に関して何か歴史的な背景などがあった場合、それが知識のある人に対しては、関係ないのに関係あるかのように結び付けられてしまうという障害が発生してしまう場合もあります。

物事を感じるときに、基礎知識があったほうがいいのか、ないほうがいいのかは難しいと思います。あるからこそ理解できることもあるし、あることが感性を邪魔することもあるかもしれません。

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2 コメント

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面接から帰宅 (はたやん)
2006-04-23 17:46:24
面接が終わり帰宅しました。



「スポーツ以外の予備知識」を必要とするものはスポーツにあらず、というのが私の意見です。

曲は演技における「演出」の手段であり、演技から伝わる心が曲によって強調される。そんなもんじゃないでしょうか。



他にも「曲つきの競技」に新体操がありますが、確か初期の頃は、ピアノ演奏に限定されていたと思います。それがなくなったのは、やはり曲はあくまで「脇役」であり、協議である以上競技者の演技が唯一の「評価対象」ではないでしょうか。
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Unknown (飛鳥)
2006-04-23 18:26:59
面接、お疲れ様でした。



フィギュアスケートなど、芸術性が加わったものでも、やはり根本的にはスポーツだと思うので、あまり衣装や音楽の内容などの演出が重視され、それによって点数に差が生じるような結果となるなら、それは好ましいことではないと、私も思います。



しかし、どこまでが芸術でどこまでがスポーツなのかという線引きは難しい面もあるんでしょうね。

フィギュアスケートや新体操、シンクロナイズドスイミングなどは、純粋なスポーツとはなりえない部分があると思います。
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