ヘボン博士と生麦事件

2022-12-26 00:00:41 | 歴史
ヘボン博士が来日の後、最初の定宿にしたのが神奈川宿(今の東神奈川あたり)の成仏寺だったが、その近くにある宗興寺に「ヘボン博士施療所」という碑がある。どういうことかというと、宗興寺にヘボン博士が診療所を作ったということ。

実は、ヘボン博士が成仏寺に居を定めた頃、宗興寺にはシモンズという宣教師が入ったそうだ。そしてしばらくすると十全病院を横浜に開くために去ったそうで、その後に入ったのがホビウスという方で、彼もまた去るわけだ。宗興寺は禅寺なので、食い物が足りなかったのだろうと推理できる。そのため、そこをヘボン氏が診療所に使ったのだろう。



ただし、1861年4月から9月までの半年間だったそうだ。よく、生麦事件の被害者である英国人が担ぎ込まれてヘボン博士が治療したと言われるが、生麦事件は1862年に起きたので、宗興寺ではないわけだ。

調べると生麦事件は英国人4人が馬に乗って神奈川から川崎大師に向かっている途中に勃発したようで、内二人の男女観光客が薩摩藩士に斬られた。男(リチャードソン)の方は深手を負い間もなく亡くなり、軽傷の女(ボロディン夫人)の方は馬に乗って東海道を西に逃げた。そして本覚寺にてヘボン博士の治療を受けている。

奇妙なのは、本覚寺は米国領事館で英国領事館の浄瀧寺も遠くない場所だ。なぜ他国の領事館に逃げたのか。英国領事館はこの時期、神奈川宿から横浜の方へ移転していたので米国領事館に逃げ込んだわけだ。ヘボン博士が治療したのは有名だったからだろう。なお、開国直後の日本に旅行に来るというのも、欧州でジュール・ベルヌの「八十日間世界一周」が刊行されたのが原因とされる。映画版も見たが、主人公は日本に来て鎌倉大仏に行っている。鎌倉大仏、川崎大師、そして浮世絵と同じ江戸・東京の街並み、そして晴れた日は富士山が望める。(今と変わらない)

ベルヌ→来日観光客→川崎大師→偶然薩摩藩の行列と遭遇→生麦事件→薩英戦争→薩摩藩が攘夷をやめる→明治維新

ところで、ヘボンはHepburnと書くのでヘプバーンとカタカナで書いてもいいようだが、正確に発音するとヘッバーンとヘッボーンの中間だから、文字ではなく発音中心に書いたのだろうと思うのだが、それならペリー提督のことを当初は「ペルリ」と書いていたのはどういう意味だろうかと考えていたのだが、「Perry」の3番目の文字「r」を「ル」と読むと勘違いしたのだろうと推測する。「PE」「R(U)」「RY」。