藤堂高虎家訓200箇条(5)

2006-04-03 22:14:41 | 藤堂高虎家訓200箇条

家訓200ヵ条はいつ書かれたのかというと、江戸時代に入り、江戸の藩邸で口述筆記されたということだそうだ。本来、大名は領地と江戸の間を毎年往復していたのだが、高虎はいわゆる幕府の建設大臣のような立場にあって、現場方の要職として、江戸や日光の普請事業にかかわっている。多くの時間は江戸にいたのだと考えられる。60歳台に書かれたのではないかと思うが、一気に書かれたわけでなく、したがって、長短交じっているのだろう。

始めの50条くらいまでは、四角四面の話が多いが、その後、徐々に人間的な思い付きの愚痴のようなものも増えてくる。

第41条 よき主人善き家老よき侍といふハ十に一つ二つ三つ悪敷ハよきなり悪きをゆるすとてひけ有人か一心の不叶か口をたたき人の中言或は手の悪敷ぬす人同前の事たらは以の外可成免しても不苦ハ立居の不調法物言こと葉のひくき事なと言ハ若しかるましきか此外ハ不可免

よい主人、よい家老、よい侍というのは、十に一つ、二つ、三つ悪いところがあってもよい。悪いのを許すと言っても高慢な人間が自分の心に合わないとして、かげ口をいったり、つげ口をいったり、手の悪い盗人同様のことをするものは、もってのほかである。許せるのは、立居振舞の不調法なもの、物を言う言葉の能力の低いことなど、このほかは許すべきではない。

高虎は面白い言い方をする。普通なら、「十に一つ二つは」だろうが、「十に一つ二つ三つは」悪いところが3/10もあったら、現代では「クビ!」だろうが・・。「陰口、告げ口」は世の習いとしても、手の悪い盗人のことまで書き残さなくてもいいとは思うが、どうも主君に恵まれないだけでなく、部下にも恵まれなかったのかも知れない。伊賀上野藩主に座ってからは転職もできなくなったわけだ。尾張と紀州に挟まれていたわけだ。

第42条 婬乱なる人ハ風上にも不可置事

婬乱な人は風上にもおいてはいけない

「風上にもおけない奴」とは現代でも使う表現だが、当然ながら風下にもおけないということだ。何か、風上と風下には、複雑な隠喩が隠されていそうだが、頭が悪いのでよくわからない。

第43条 親たる人に不孝行ハ人外也如何行末あしかるへし主親ハ深くうやまふべし

親に不孝行は人ではない。行く末はどんなにか悪いことか。主親は深く敬うべきだ。

親不孝は人にあらず、というのは当たり前の話ではあるが、戦国時代には多々見受けられる事象である。この200ヵ条は江戸時代になり、江戸の藩邸で作ったものであることから考え、「時代は変わった」ということを彼が認識していたということか。

第44条 大身小身侍によらす理非を改へし理に二つハ有へからす

大身であれ小身であれ、侍は理非を改めるべきだ。理に二つはない。

「武士に二言はない」というような表面的なことを言わないところがいい。「武士に二理はない」ということだ。しかし、二次方程式は解けない。

第45条 人間に生れ臆病なる者ハ有間敷也常に心かけなく無嗜なる人たるへし子細は詰腹を不切者ハなし然ハ臆病なる人ハかいもく無嗜ゆへ成へし用心ハ常に嗜深く先祖の恥をかなしみ命をおしまさる事是可為本意

人間として生れたら臆病者ではいけない。常に心がけがなく、たしなみのない人だということだ。細かくいえば詰め腹を切らない者はいない。臆病な人は、まったくたしなみがないからだ。用心は常にたしなみ深く、先祖の恥を悲しみ、命を惜しまないことが本意だ。

この条は41条と通じるところがある。細かく言えば、詰め腹を切らない人間はいない、というのは、多少の不始末があってもいいが臆病だけはだめだ、ということだろう。臆病とは、「弱気であって意識が低い」状態を指し、経営者には向かない。「弱気であっても意識が高い」のは、慎重という単語になり、「強気であって、意識が低い」のは、無謀といわれる。では、「強気で意識が高い」経営者は、何と呼ばれるかというと、「強運」と呼ばれる。

第46条 我しらさる諸芸ハ嫌ふ者多し我得たる芸能ハもてはやすなり無理なる沙汰也面々の数寄数寄たるへし

自分の知らない芸を嫌う者が多い。自分の得意な芸能はもてはやす。無理な話だ。それぞれの好きずきである。

まったく、そのとおりだが、「家訓」としては・・

第47条 慇懃にするハ徳意多し慮外する人ハ損多かるへし

慇懃な人は徳が多い。ぶしつけな人は損が多い。

「慇懃」ということばには、少しカゲを感じるのだが、それを勧めている。昔はいいことばだったのだろうか。

第48条 大名大身小身侍下々迄諸事に付早しわるし大事なく遅しわるし猶わるし心得へし

大名大身小身侍下々まで物事の決定が早くて悪いのは大事ではないが、決定が遅くて悪いのは、なおその上、悪いと、心得るべきだ。

マーフィーの法則にでてきそうだ。即決で失敗する方が、熟慮の末、失敗するよりましだ。


第49条 惣而人の落目を救ふ事尤なり

すべて、落ち目の人を救うことは、もっともなことだ。

これは、失脚寸前の人を救うことはもっともだ。あとで返ってくる。しかし失脚してしまった人を救えという意味ではなさそうだ。人が落ち目の時には助けてやれ、ということだろう。瀬戸際大関の八百長相撲(片八百長)のはしり。

第50条 我か贔屓成人言イ事する時善悪のひはんに及ふ時ひいきなる人を大にほめあい手を悪敷不可申あい手ひけをとりたると思ひ打はたす也ひいき成人を思ハハ両方難も不付様にて言あひてきつくひけ取たらハ不及是非事也

自分がひいきしている人が言い争いをする時、善悪の批判をする時、ひいきしている人をほめ、相手を悪くいうべからず。相手は負けたと思い、打ちはたすからである。ひいきしている人を思うなら、両方難をつけないように言い、結局負けるならば、これはしかたがない。

あくまでも、言い争いの時の話で、決闘の場の話ではない。しかし文中の「打はたす」というのはもしかしたら、ギラリということなのだろうか。その場で抜かずとも、言い争いから河原デスマッチになることは多かったはず。まさに口は災いの元である。

つづく


藤堂高虎家訓200箇条(4)

2006-04-01 22:09:35 | 藤堂高虎家訓200箇条
このシリーズの作り方だが、原文については、高山公実録(上・下)という大著より905ページから922ページを図書館で1枚25円プラス消費税でコピーしてもらい、それをOCRで変換している。

図書館員の仕事なので、コピーの文字が曲がっていたり薄かったりして、結構、違う文字に変わっている。元々の本は縦書きだし、チェックも容易ではない。さらに、現代では見たこともないような漢字は、たいてい間違っていて手書き入力で文字をさがす。

もちろん、この本を作った先人は、毛筆の書き物からおこしたわけだろうから、まあOCRの威力は大きい。意訳もなかなかすっきり書けないのも多いが、それは400年の時差に敬意を払わねばならないだろう。

[家老の心持之事]
家老の心の持ち方のこと

第31条 身の欲に離れ婬乱を止メ気随を去り我仕度事を止メいやなる事を可用主人之仕置を守り末つかたの者へ裁定木を当ておとなしく心を持へし人ののだち侯様に仕り人のわざハひおこる共異見をくわへあつかふ事尤也主人の気に違ひたる人ありとも下二而理非を正し無如在においては身に咎をうけても人そこねさるやうに心得へし

欲を離れ、婬乱を止め、気ままな態度を止め、自分のやりたいことを止め、嫌なことでもすること。あるじの決まりを守り、規範を示し、年長者らしい心を持つこと。人が伸びるように図り、他人に災いが起きても意見をして取り扱うことが大事である。あるじが気に入らない人があっても、下のほうで理非を正して、手落ちが無いときには自分がとがめられても、人に傷がつかないように心得るべきだ。

家老の心得編であるが、この31条では、あれをガマンし、これをガマンし、嫌なことをすすんで行い、若い人を育成し、上司と部下の間に入ってサンドイッチのピーナッツバターのようになれ、というのでは、さすがに家老になるのは嫌になるだろうが、家老とは、サムライ社会では出世街道のトップである。省庁の事務次官のようなもの。まして藤堂藩は大藩である。我慢の対価は、さぞ大きかっただろうと勘ぐり。


第32条 依怙息贔屓不可有親兄弟一門成共善はよきにし悪敷ハあしきにしらする事第一の本意なりかならす主人ハ下々迄常に近付されハこまか成事ハ不知家老の役にあらすや十か七つ八つハ家老の口を真にする事多し然にゑこひいき有ハくらやみたるへし第一我身の行ひをよくすれハ人も能手に付なり我あり度儘に有てハ一つとして不可調主人も頓而見かきるへし

えこひいきをしてはならない。親や兄弟の一門であっても、善は善、悪は悪とすることが第一である。あるじは、ふだんは常に下々までは近付かないので、細かなことは知らず、家老の役目ではないだろうか。
十のうち七、八は家老のいうことを真にすることが多い。だから、えこひいきがあれば、くらやみとなるだろう。第一は自分の行い良くすれば、他人もそうなる。自分がしたいままにするのでは一つとしてうまくいかない。あるじも、やがて見限るだろう。


家老の座というのは、殿様とは違って、「実力主義」なのである。だから家老の行動は重い。しかし、「えこひいき有るは、くらやみたるべし」ということ。
”くらやみ”とは、普通、ぼんくらのことを指す。そして、ぼんくらぶりはそのうち藩主に知れ、見限られるだろう、とは「あなおそろしや」。


第33条 朝寝すへからす家老朝寝好むならは其下々共に朝の役に立間鋪なり

朝寝してはならない。家老が朝寝を好むと、下の者たちも朝の役目に立たなくなる。

昼寝とは昼に眠ることだが、朝寝とは、たぶん朝寝坊ということだろう。朝寝を好むものと書かれているが、朝寝を好んで寝坊することはあまりない。高虎は早起きだったのだろうから、低血圧の人間の気持ちがわかっていない。ただし、それでも、「朝寝すべからず」で終わらずに、朝寝の副作用を書き加えるところが、心やさしいところかもしれない。


第34条 身に応せさるよせいひか事なり但武具刀脇指鑓着類一通りハ可嗜其外ハ身代に応すへし

身分不相応のみえは、張ってはいけない。ただし武具、刀、脇差、槍、服装類、一通りは嗜むべきだ。その他は財産に応じて生活すべきだ。

要するに、武士としてのたたずまいは一流にしても、生活レベルは収入に合わせろということだ。ベンツで吉野家に行けということか・・だから、本物の金持ちかどうかを見るには、革靴を見るといい。高級な靴を何足も持っている人間は、いつも磨いてある。ところが、案外、現実は逆で、汚いかっこうをしている人間が、大儲けしたりしている。


第35条 世間を勤る事能程可然切々他所へ出ハ主人江之非儀たるへし主人御用の時度々留守と言事不可然主人も度かさなれハ心可替若不慮の事出来る時用に不立ハ第一之不忠節也必天理に背ゆへ悪事出来す其てんに不合也可慎

世間との付き合いはほどほどにすべきだ。ちょくちょく他所へ出かけるのはあるじへの礼を欠くことになる。あるじから御用のある時、度々留守ということではいけない。あるじも心が変わる。もし不慮のできごとがあった時に用に立たないのは第一の不忠節である。必ず天理に背くため、悪事が起きる。その典に合わない。慎むべきである。

震度5強の地震で緊急呼び出しがあったのに、都庁に出社しなかった緊急要員の都職員のようなものか。悪質なのは、留守ではなくても、留守ということにしてしまう。といっても絶対に夜の緊急電話にでない町医者のことではない。が、そういう医者に限って、往診用ということで経費扱いにしているBMWに乗っている。

この200条には、よく「悪事」という言葉が登場するが、現代の「悪事」は意図的に犯罪行為を行うことというように能動的な言葉であるが、この200条の「悪事」は能動的というより受動的な意味に使われることが多い。「悪いことが起きる」というような語感だ。


第36条 人の事悪敷口をきく出入之者ハ必心をゆるすへからす又先江行其家の事を可語当座の間に合する物也と心得心をゆるすまし

他人のことを悪くいう出入りの者には、心を許してはならない。また、行った先でその家のことを語るときには、当座の間に合わしたことを話すものであるからと心得、心を許してはいけない。

まったく、心を許してはならないのは高虎自身ではないだろうか。人の心を裏読みする名人だ。


第37条 家老より下の侍も主人江奉公猶以心かけ第二には家老の心をはかり仕置を耳に聞留家老の気に入様にすへし是主人江之式法なりたとへ気に入とてもうそをつきまひすらしき事をいひ軽薄をつくし気に入へからす本意にあらす正道にて気に入は本意なりたとへハ能者なり共家老と中悪敷ハ家に堪忍成へからす

家老よりも下の侍も、主人へ奉公することを心がけ、第二には、家老の心を推しはかり仕置きをよく聞きとめ、家老の気に入るようにするべきだ。これがあるじへの作法である。たとえ、気に入ったとしても嘘をついてへつらい、軽薄をつくし者をきにいってはならない。これは本意ではない、正道で気に入るのが本意である。たとえば能力ある者でも家老と仲の悪い者は家においてはいけない。

この37条はずいぶん保守的な意見だ。まあ、あたり前といえばそれまでだが・・


第38条 新参の者ハ古参の衆によく家の作法を尋其ことく可相守家により作法替事も有へし然れ共善道ハ何方も同意なり身の行ひ正しくしてたたずみ不成時は悪敷家と心得立去へし長居は悪事のもとゐなり

新参の者は古参の者に、よく家の作法をたずね、そのように守りなさい。家によっては作法の違うこともある。しかし、よい道はどこでも同じである。身の行いを正しくしてもとどまりにくいときは悪い家だと心得て、立ち去るべきだ。長居は悪事の基である。

転職者は、最初は元からの従業員に仕事のやり方を聞けということだろう。マニュアル社会ではなかったからだ、と書きながら、この家訓というのは、「マニュアルの一種」ということに気付く。家により、やり方に違いがあることもあるというのは、ごく当然の話だ。しかし、本質的には正しい方式はどこでも同じであって、正しいことをしていても、居心地が悪いなら、次の職場へ移れ、ということだそうだ。

長居は悪事の基。まったくそうだ。転職の神様の言は重い。 商人の世界では、優秀な奉公人が辞めないように、ボーナス制度ができて、大晦日に半分渡して、正月明けに実家から帰ってきたものに残りの半分を渡したそうだ。現代でもボーナスをもらってから転職するのが一般的だ。

第39条 古参の者主人をたつとまハ新参の者を引立不知事ハいひ教へ家の作法を守らせ年をかさぬる様にすへし如何に古参たり共我儘を朝暮仕新参の者に異見申とも聞入間数也新参の者悪事多くは古参の者悪人たりと思ふへし古参の者作法第一たるへし家老につつき不断よく可嗜

古参の者があるじを尊ぶということは、新参の者を引き立て、知らないことは教え、家の作法を守らせ年を重ねるようにすることである。いかに古参であっても朝暮にわがままを新参のものに意見しても聞き入れられない。新参のものに悪事が多いのは古参の者が悪人だからと思うべきだ。古参の者の作法が第一である。家老に続いてふだんからよく心がけるべきだ。

この39条は古参のものに期待する態度ということだ。古参のものの最大の仕事は、新参者に教えることであると言っている。新参者の失敗は、古参者の責任と言い切っている。文面を読み直すと、要するに「老兵は去れ」と言っているように思える。


第40条 数年昼夜奉公をつくしても気も不附主人ならは譜代なり共隙を可取うつらうつらと暮し候事詮なし情深く理非正しくハ肩をすそにむすひても譜代の主人といひ情に思ひかへとどまるへし

数年、昼夜奉公をつくしても気のつかないあるじであれば、譜代であっても暇をとるべきだ。うつらうつらと暮らすのは意味がない。情け深く理非正しいあるじであれば、肩を裾に結んでも、譜代の主人であるからと情をもって思い直し、とどまるべきだ。

ようするに、一生懸命働いても気付かないような主人の元からは、さっさと去れ、ということだ。「うつらうつら暮らし候うこと、詮無し」ということばは、かなり高虎の確信的な心の表出の一つと思われる。ただし、すばらしい主人であれば、「肩を裾に結んでも」留まるべきだ、という。高虎は、足軽の身分から、10人の主君を乗り換えながら大大名に出世したのだが、彼が評価したのは、豊臣秀長と家康だけであったのではないだろうか。
晩年の秀吉の狂乱の折は、一旦、部下全員を解雇し、高野山に逃げ込むという極限対応をしたが、その後、多くの部下は戻ってきた。

ところで、「肩を裾に結んでも」というのはどういう比喩的表現なのだろうか。奉公といっても廊下の雑巾がけをするわけではないので、一日中、座り仕事が多かったはず。はたらき過ぎてひっくり返り、腰が抜けたような状態なのだろうか。それでは、家老ではなく、過労だ。

さらに続く

藤堂高虎家訓200箇条(3)

2006-03-26 07:07:03 | 藤堂高虎家訓200箇条

第21条 主人たる者不断内の気をかね諸事恥敷と思ハハ悪事もなく腹も立へからすまして一人二人召仕者ハ心得有 へし

あるじである者は、普段から内のことに気を配り、諸事控えめに振る舞えば、悪い事も起きず、腹を立てることも ない。まして一人、二人を召し使う者はこのように心得るべきだ。

なんだか、陰鬱な話である。一人、二人召し使うだけでも気苦労が多そうである。しかし、案外世間には部下が一 人か二人の課長とか多いらしいから、役に立つかもしれない。「気配りのすすめ」のような話である。


第22条 主人目の明さるは必禍多かるへし奉公よくする者を不見付当座気に入かほ成を悦ひ禄をとらせ懇ふりする ゆへに能奉公人気をかへ暇をとるもの也主人の難にあらすや当座気に入かほの者ハまいすたるへし

あるじにものを見る眼がないということは、必ず禍が多い。よく奉公する者に気付かず、その場しのぎのお気に入 り者に悦んで給料を払い、親しくするので、よい奉公人は気持ちを変え、転職してしまう。あるじが悪いからであ る。当座の気に入り者とは下劣な者である。

転職の理由は古今不滅ということだ。この条は重要な気がする。何しろ高虎は転職の名人だ。主君を変えるだけで なく、仕事も代えている。猛将から知将へ、さらに城郭設計者、さらに都市計画のグラウンドデザイナーに転進し ている。あきらかに、無能な主君に仕えたと思われる、浅井長政、豊臣秀長、秀吉、そして徳川家康。Who stupid ?


第23条 悪敷主人ハ目にておとし気色しておぢらる、やうにうハつらにてする人ハおづへからす心もおくれ未練た るへし第一の草臥もの也善主人ハむさと人をしからす気に苦労なくして物いはすともくらひ詰に召仕ゆへ下人共由 断ならすせハせハといふ主人ハ毎の事のやうに下人覚へ不聞入ものなり

悪いあるじは、目でおどし、顔つきで怖れさすように上面でする。そのような人間には怖れたりはしない。そうな れば心もひるみ未練が残る。第一のくたびれものである。
善いあるじはやたらに人を叱らず気苦労なく物を言わな くても自然に仕事をするよう召し使うので家来たちは油断できない。せかせかと言うあるじはいつもの事のように 家来たちは思い、聞き入れないものである。


これも、前条に引き続き、家訓というよりも、馬鹿殿様の条件のような話が書いてある。反面教師ということだろ う。しかし、現代では、そういうコワモテだけの上司をシカトするのは大して危険とは言えないが、当時はあまり あるじをむげに扱うと、「刀の錆び」と成り果てるのだから、大胆な書き方だ。しかし、善いあるじの元では油断 していると自然に働かされてしまう、というのはあるじ側にたった考え方とは思えず、あるいは無意識のうちにこ きつかわれる召使の方の立場で書いたのだろうか?


第24条 身に高慢する人ハ先近し

高慢な人は先がない。

短いだけに解釈も難しい。先がない、というのは本当に「すぐに死ぬ」という脅し言葉なのか、「未来の希望がな い」というように、抽象的な意味なのだろうか?よくわからないが、当時は、未来の希望がない=切腹、というこ とも多々あったと思う。


第25条 言葉多くて品すくなしと古人いひ伝り誠に眼前なり

言葉多い人は品性がないと古人が言う通りだ。

私が知っている限り、ブロガーにはおしゃべりが多い。古人がいうとおりかもしれない。さらに「国家の品格」の 著者は活字の中では多弁だ。「品格を論ずるのに品性は要らない」ということだろう。


第26条 女人若衆へハ深く遠慮専一なり老若共に嗜へし脇目よ見苦敷ものなり

女性や若い人には遠慮が第一である。老若がともに嗜むべきことである。脇から見ると見苦しいものである。

先日、電車の中で、団塊世代の男性が携帯電話でゲームをしている若者を相手に、陰湿に口撃をしていたが、聞い ていると、そういうのも、ある限界を超えると「いいがかり」に聞こえてくる。さらに騒ぐと、その人間の品性が 見えてしまう。まあ団塊世代だからそれで生き延びてきたのかもしれないが、嫌な時代だ。フリーターの多くは、 親が団塊世代のはずだから、外でいがみあわないで陰湿な争いは、家庭内で完結してほしいものだ。


[主君江奉公之心持之事]

主君へ奉公する時の心持のこと

第27条 不断御用に達へき覚悟心かけ由断不可有事

普段から御用をやりとげる覚悟を心がけ、油断しないこと。

時は江戸時代となれば、覚悟を決めても「いったい、いつ、何のために覚悟を決めるのか」というのは全国数百万 人の武士の最大の悩みだったのではないだろうか。現在は「油断」と書くがもともと「由断」と書いたのだろうか 。理由を考えるのを中断してしまう=ぼんやり、ということか。


第28条 主人之御前に出る共其時に応したる御挨拶見合肝要なり主人御顔持悪敷ハもし我身に誤りや有と身をかえ り見て慎へし主人余の人に機嫌悪敷事も有へし夫を我身の上に引請ふせうなるつらをする事ひが事なり常々主人日 見せよく情らしくハ猶以身の慎肝要なり能キ次には悪敷事有へしと心得尤なりかやうに嗜ハ一代主人の気に不違なり

あるじの前に出るときにはその時に応じた挨拶が肝要である。あるじの顔色は悪いときは、もしや自分に誤りがあ るのではないかと省みて、慎むべきだが、あるじが他の人に対し機嫌が悪いこともあるので、それを自分のせいと 考え不快な顔をするのは間違いである。常々、あるじがよく見えて、情けあるような時は、なお身を慎むのが肝要 である。良いことの次には悪いことがあるだろうと心得るべきで、このように嗜めばあるじの気分を損なわない。

この条文は含蓄がある、というか、ありすぎる。「顔色の見方」というか・・まずは、自分に非がないか、思い起 こしたあと、自分以外のもののせいかもしれないと考える、というのは悲観主義なのか楽観主義なのか。まあ、高虎というのもよく考えるものだ。


第29条 古人ノ曰先忠の忠ハ不忠当忠の忠ハ本忠なり今日も新参今日も新参如斯二六時中心に慎ハ悪事不可出也

古人が言うように、先忠の忠は不忠で、当忠の忠は本忠である。毎日が新参と思い、二六時中慎んでいれば悪事は でないものである。

この条はいきなり難しい。簡単に言うと、前の代の殿様に忠心を尽くしていた方式をそのまま続けると不忠になり 、代替わりで子供の殿様に使えるときには、新しい忠心が必要であるという。その時は日々是新の気持ちになれ、 というのだが、当然ながら、前段を受けて、後段になるのだから、前段の方が重要ということだ。
現代で言えば、社長が交代して、社の方針が変わっても、つべこべいわずに新社長の意見に従え、ということか。

第30条 主人江奉公之事身をへり下り欲を捨て御為第一に可致人により心持あるへし

あるじに奉公するにはへりくだり、欲望を捨て、あるじの為、第一に致すべし。人によって心の持ち方があるべき である。

まあ、奉公とはそういうものなのだろうが、結構くどい。この条は後段の部分のつなぎ方がよくわからない。ただ 、今まで読んでみると、前段の方が重要であることが多いのに気付いているので、あまり気にすることはないのか もしれない。


今回の21条から30条にかけては、正直、あまりおもしろくない。あえていえば、24条、25条あたりの短い言葉が新 鮮ではある。高虎は、短くて含蓄があるよりも、こと細かく説教するほうが好きだったのかもしれない。

「継続は力なり」ということわざを信じて、さらに続く。


藤堂高虎家訓200箇条(2)

2006-03-18 09:34:34 | 藤堂高虎家訓200箇条
[家来常々召仕様之事 11条-20条]

家来常々召使いようの事

家来の使い方についての論考。中小企業の社長用という感がある。

第11条 第一惰をかけ諸事見のかし候事肝要也大それたる事有之時は其身の因果たるへし理非を以可申付然れ共助て不苦品あらは其儀にもとうし可然切ル手遅かれと申伝たり

家来には情をかけ、諸事見逃してやることが肝要だ。大それたことがあった場合は自分の不運(因果)と思うしかない。理由をつけて申し伝えるべきである。助けてもよいというのであればよく考えてそのようにして、切るのは遅くてもいいと申し伝えている。

経理部長が横領しても、告訴する前によく考えてみようということかな。まあ、当時の「切る」は本当に切ることだから、「切る前に考えよ」ということか。

第12条 家人に禄をとらせたる分にてハ思ひつかす奉公する上下禄ハ相応に取へし是大鉢也とかく情にて召仕へは徳多し一言にて命を奉る是情なり禄多くとらするとも命をすつるほとの事ハ有ましきか深く情をかけむとおもふ主人ハ用にも可立歟第一本意たるへし

家来に給与を払うのに、ひいきをしてはいけない。奉公人の給与の多寡はそれ相応に行なうべきだ。とかく、情をもって召し使えば徳が多い。一言にて命を預けるのは情によるものであって、給料を多く払ったところで命を捨てる程のことはないだろう。深く情をかけようと思う主人は物の用にも立つだろう。これが本意の第一である。

要するに、給料格差は付けてもイザという時に働いてくれないから、これといった部下には情をかけておけ、ということか。気になるのは「情にて召仕へは徳多し」の段。まず「仕」は仕えるではなく使うという意味で使用している。当時はそうだったのだろう。「徳多し」の徳というのが道徳的な徳なのか、現実的な利益を意味するのかは、よくわからない。200ヵ条読み終わった時にはわかっているとは思う。

第13条 人のささえ不可聞又横目ハわさハひのもとひ也たとへささへるもの有時ハささゆる人とささへらるる人と常の挨拶を開へし惣而何事も不聞様に常に仕置の分別無他

他人からの告げ口を聞くべからず。また、他人を監視することは災いの元である。例えば、告げ口する者がある場合でも、告げ口した人間とも、告げ口された人間ともいつも通り挨拶を受け、なにごともなかったようにふるまうべきだ

告げ口を聞くなとは書いてあるが、告げ口をするなとは書いてない(後段ででてくるかもしれないが)。そういう撹乱情報を使って、敵を貶めたことがあったかもしれない。とも思うが・・「ささへる=告げ口」感じがでている。小さな声で話す言葉=告げ口、と誤解されるかもしれない。横目=監視ということ。

第14条 召仕ものに能者あしき者有間数也其人々の得たる所を見立それぞれに召仕へは人に屑なきなり得ぬ事を申付るによりて埒あかす結句腹を立なり是主人の目かあかさる故なり

召し使うものに、能力のある者、能力の無い者はいない。それぞれの得意とするところを見立てれば人に屑はいない。できないことを申し付けて、埒があかなくなり、結局、腹を立てるのは、あるじに人を見る眼がないからだ。

ずいぶんと、心の広い考え方であるが、よく読むと、前段と後段では少し言うことが違う。前半部分では、殿様は心広くなければならない、と言っているが、後半では適材適所を探せという趣旨なのだろう。サッカーの監督に読ませて左サイドバックを探させなければ。

第15条 家来たり共異見申者あらは委聞へし世間の取沙汰を聞言と心得へし能聞届手前にて了簡して至極の所は用ひまたそはつら成所は捨へし必主人により内の者の分として主人江異見立する推参といひ機嫌あしき是天下一の悪人たるなり家頼主の為にならぬ者ハ陰々にて指をさし他の家来に語り伝へ名を立ル者数人なり我も家来も非本意常に情深き主人ハ家来名を不立他の家来主人の作法尋れとも不語主人の心持肝要の事なり

家来であっても、異なる意見があれば、詳しく聞くべきだ。世間の評判を聞くようなものだ。良く聞き自分で考え、良いことは実行し、またそうではないことは実行しない。あるじによっては、内のものの分として主へ異見を申すのを、でしゃばり(推参者)として機嫌を悪くするものがある。これは、天下第一の悪人である。あるじのためにならないのは、陰で指をさし、他の家来に語るものである。このようなことは自分も家来も本意ではない。常に情け深いあるじは、家来の名を言わず、他の家来もあるじの作法を尋ねられても語らない。あるじの心の持ちようが肝要である。

「推参」というコトバの意味は「でしゃばり」というような意味であって、漱石や鴎外は普通に小説の中で使っているが、「高級なでしゃばり」というような語感だ。ただ、それを嫌うものは天下一の悪人とは、すいぶん大仰な話である。現代で考えれば、日本の会社など悪人だらけで、誰が日本一の悪人か見分けがつかなくなる。

思い起こせば、藤堂高虎は10人以上の主君を乗り換えている。上司に恵まれなかったから渡り歩いたのかな、と彼の本質に近づいているのかもしれない。 異見というのが意見の語源なのだろうか、と、ふと考える。昔の武士は無口だっただろうから、意見が同じならば発言せず、異なる場合のみ発言したのだろうか。それなら会議も効率的に回るだろう。

第16条 士か士を仕ふ是時の仕合なり常々言葉きたなくいふへからす無成敗すへからす天道のかれかたし

武士が武士を使うというのは、時の成行きなので、常々言葉汚く言ってはいけない。しかし成敗しないのもいけない。天道は逃れがたい。

この条はやたらに難しいことを言っている。武士の上下は、「たまたまの運命」といい、やたらと相手を罵ってはいけないものの、やはり、世の中には天道があるので、悪い武士は成敗しなければならない。ということは、「天道」は「運命」より優位にあるということなのだが、天道の天とは何なのだろうか?武士階級より上を意味するものということまではわかるのだが、もっと後で考えることにする。

第17条 惣別人間たる者上下共心正敷して律義にして一言半句もうそを不可言人をうたかふへからす但時のはなし抔ハ偽ましりても苦しからさるハ是も人の害に成事いふへからす

すべて、人間は上下ともに心正しく律儀であって、一言半句もウソを言ってはならない。他人を疑うべからず。ただし、世間話などはウソが交じってもいいとは思うが、他人の害になることは言ってはならない。

まず、上下というのは上半身と下半身ということだろうが、「下半身でウソをつく」という艶な話ではなく、単に「裃(かみしも)=全身」ということではないだろうか。また、後半は妙な言い方で、ちょっとした与太話で盛り上がるのは構わないが、深刻なのはダメ、というようにあっさりと考えておく。

第18条 不断人の噂いふへからす人の善事ハ取上悪は捨へし人の悔も大形ハいふへからす深くいヘハ悪口かましく可成

いつも、他人の噂を言ってはならない。他人の良いことは取り上げ、悪いことは捨てるべきだ。また、他人が悔やんでいることも大げさに言ってはいけない。深い話をすると、悪口を言っているようになる。

どうも、このあたり、陰口シリーズになっている。主君を乗り換えたのも、彼の優秀さに、ねたみからくる上司への陰口が続いていたからなのだろうか。そう考えると、親しみもわいてくる。なにしろ東アジア人の三大エモーションは、「ねたみ」「おねだり」「よこどり」であるからだ(ジョーク)。

第19条 主人より我にあたることく又其下々へもうつすへし忝事あらは其ことくうつすへし無理なる事あらハ下々も迷惑に可存と心得尤の事也古人のいはく我身つめつて人の痛さを知れとなり

あるじから自分にするように、家来にも行なうこと。ありがたいこともその通りにする。無理なことがあれば、家来も迷惑であると心得ること。昔の人が我が身をつねって他人の痛さを知れといったのは、このことである。

「忝事」とは「かたじけないこと」だが、最近聞かない言葉になった。下請け代金や孫請け代金がどんどん削られていくようなことはいけない、そのまま「利抜き」をしないで下払いしなさいとでもいうことか・・

我が身をつねって他人の痛さを知れ、とは戦国時代より前から言われていたということだが、古来、こういうことは一向に進歩しないのが人の性なのだろう。我が身をつねる時は、手加減するからだ。(さらに、当時はツメルといったわけだ。ちょっと怖い。)我が身をつめられ、・・・なら正しいが、それなら自分が痛い。

第20条 家来夫々に惰をかけ目を明き召仕事主人の利口にあらすや主人情深きに下人邪の奉公ふりあらハ天罰のかれすたちまち悪出来て命を失ふ事眼前なり

家来のそれぞれに情をかけ、道理をわきまえて使うことは、利口なあるじということだろう。あるじが情け深いのに下のものが邪悪な奉公ぶりでは、天罰を逃れられずに、たちまち悪事が出現して、すぐに命を失うことになる。

この条も16条同様にやっかいだ。前段には、誰も文句が付けられない。適材適所で、上手に使えということだが、後段の「天罰逃れれず、たちまち悪事が現れて、命を失う」とは・・

「天罰」とは徳川将軍さまによる「お家取り潰し」ということなのだろうか。そして命を失う、というのは「殿、ご切腹を」ということなのか、あるいは単に天命をまっとうできないかということか。つまり、天=徳川将軍、あるいはもっと超越的な天命論者だったのか。さらに深く考えると、高虎の考え方と幕末の末裔とは解釈が違っていたことも考えられるわけだ。

もちろんまだ200条のうち20条までしか進んでいないので、結論は早すぎる。 そして、細々したことは書かないと言いながらずいぶん細かいことを書いているところから推測するに、高虎は自分の末裔たちの中には、時に愚か者が世襲することもあるだろうと、深読みして、余計なお世話のようなことまで残したのではないだろうかとも、現段階での推論としておく。

もやもやしながら、第2稿終了(つづく)

藤堂高虎家訓200箇条(1)

2006-03-12 08:13:13 | 藤堂高虎家訓200箇条
しばらく前に入手していた藤堂高虎が残した有名な家訓200箇条の紹介に着手してみたい。書き始めない限り、書き終わらないからだ。しかし、なにぶん現代とは常識も違う1600年前後の言葉であるので、どこまで付いていけるか自信はない。わからないものについては、わからないとしておくつもりだ。

1回に10条ずつでも20回になってしまうので、時々、書き進むことにする。 なお、方針としては一条毎に、原文、意訳、勝手な解釈と3点セットにしようと考えている。そして200箇条を全部読んでから第1条を書くのではなく、頭から読みながら書いていくつもりなので、後で、解釈の間違いに気付くこともあるかもしれないが、ご容赦のほどを。

原文は第一条、第二条と連番ではなく、一、・・・ 一、・・・というようにすべて、一(ひとつ)で始まるが、整理の関係で順に1、2、3と連番をふることにする。 そして、正確には「高山公御遺訓」と呼ぶのが正しいのだと思う。伝えるべき読者は、藤堂家の子孫である。秘蔵の家訓がなぜ流出したのかは、よくわからないが、藤堂家の末裔が伊賀上野市に寄贈した書物の中にあったわけだ。

[可為士者常之覚悟之事]

サムライたるべき者、常の覚悟のこと

まず、武士の一般規定である。

第1条 寝屋を出るより其日を死番と可得心かやうに覚悟極る ゆへに物に動する事なし 是可為本意

寝室を出る時から、今日は死ぬ番だと心に決めること。そういう覚悟があれば、物に動じない。本来、こうあるべきだ。

この第1条は相当有名であって、これが藤堂家訓の象徴と言われているが、私は異議ありなのだ。彼の人生とはかなり違う。まず、普通の人は、きょう死ぬかもしれない、と考えたら、冷静になったりしない。不安におののくはずだ。「武士道とは死ぬことと見つけたり」は葉隠精神であり、三島由紀夫は「犬死こそ、武士の最高の死」と捉えたが、藤堂高虎は、そんなタイプではなく、主君を次々に乗り換え、失脚の危機には寺院に逃げ込み、部下を奮闘させ戦場でポイントを稼いでいる。逆に、最後の5文字、つまり、「本来、こうあるべき」というところに意味があるのか、あるいは用心深い高虎のこと、将来幕府に200箇条を見つけられた時のための「武士道型カムフラージュ」ではないのだろうか。

第2条 常々諸事に心を附 嗜深き人ハ自然の時手にあへはされはこそ心かけ深き故士の本意をとけたるとのさたにあふ もし不仕合にて手にあはさる時も常に心かけ深き人なれとも不仕合 是非なくと取さたなり 善悪の時外聞をすゝく 是徳にあらすや

常に心配りをし、たしなみの深い人は、いざという戦功があれば、「さすがに心がけがいいから侍の本分を遂げた」と言われ、失敗したときも、「常に心がけのいい人であっても失敗したのは残念」とされる。良しにつけ悪しにつけ、聞こえがいい。是は人徳だ。

「結果がすべてだ!」というのは企業でも、スポーツでも、ギャンブルでもよく聞くことばだが、そうではないのだ、ということなのだろう。実際、結果を生むのは日頃の努力や、合理的思考力の積み重ねで、そういう人のほうが成功率が高いということか(デイトレーダーの話ではない)。

第3条 常に物毎由断に覚たる人ハ自然の時手にあひたるとも犬ののみたるへしといふ又手にあハきる時ハ常に心かけなき人なれは尤嘲をうくる是面目なき事なり

常に油断だらけの人は、戦功があってもたまたまのことであると言われる。失敗したときはあざけりを受け、面目を失う。

第2条の裏返しであるが、実際の戦功も重要だが、他人にどう見られるかということも重要だ、と言っているように思える。このあたりが、嫌われ者の原因なのかもしれない。それと「犬ののみ」というのはどういう意味なのだろうか。

第4条 出陣の時敗軍すると覚悟尤の事なり 勝軍の時ハ不入若負軍の時うろたへ間敷ためなり

戦いの出陣の時には、負ける覚悟をしておくのは当然だ。勝ったときには不必要だが、負けたときにうろたえないためである。

色々な事態を頭に入れておくということか。別の言い方では「想定の範囲内」という。しかし、「負けるかもしれない」と思っておくと、本当に負けたときにうろたえないのだろうか?地震の防災訓練ではないのだから。現代のイメージトレーニング法では、勝ったときの快感だけを想起するように訓練する。

第5条 目に立過る具足万武道具心得あり

目立ち過ぎる、よろいかぶと。よろず武道具には心得がある。

実は、目立ち過ぎるのがいいのか、悪いのか書かれていない。「心得あり」とあるだけだ。しかし、目立つのがいいわけないだろうから、この条では、戦場で目立つ人間は、すぐに「大将」と見分けられ、集中攻撃を受ける可能性があるので、目立つな!ということなのではないだろうか。実戦的である。やはり高虎は小心者だったのだろうか。

第6条 上帯ハ布但前にて結ふへし同下帯布仕立やう有之

上帯の布は前で、結ぶべし、同様に下帯にも仕立て方がある。

よろいかぶとを付けたことがないため、よくわからないが、紐は前で結べということなのだろう。下帯というのは一般にフンドシということなのだろうか?確かに、フンドシが戦闘中に緩むと、みじめな結果になるだろう。

第7条 刀脇指もの前にてすん袋可掛

刀、脇差は前のほうで寸袋(刀の鞘を入れる皮袋)を掛けるべき

要するに、すぐに抜けるようにしておくことだろう。日本の警察はピストルのホルダーは横の方についている。すぐに撃てるように、前につけてないのは、弱気の警官が無闇の発砲しないようにという親切心からだ・

第8条 二重腹帯の事

二重に腹帯をすること。

もしかしてだが、人ではなく馬の腹帯ではなかっただろうか

第9条 大きなる馬あし、

大きな馬に乗ってはいけない。

第5条と同じように、目立ちすぎないようにということではないだろうか。案外、彼が本拠地とする伊賀上野では忍者のような姿の消し方を学んだのかもしれない。

第10条 陣道具柿あし、紺可然色々ありといへ共書付におよはす

戦いの道具で柿色はよくない。紺色がいい。色々あるが、書き付けるほどではない。

一体、なぜ柿色がダメで紺色ならいいのか、理由が書かれていない。おそらく夜討ちを仕掛けるときに、紺色のほうが闇にまぎれるということだろうか。色々あるが、書き付けるほどではない。というわりに、細かいことがずいぶん多く書かれている。

連載第1回終了。

藤堂高虎家訓の現代語訳入手。が、

2006-03-02 07:30:25 | 藤堂高虎家訓200箇条
f43a0925.jpg先に触れた「高山公遺訓(別名、藤堂高虎家訓200ヵ条)」は、東京都立図書館でコピーを入手することができたが、それはまったくの原文そのもの。解釈の容易なものもあれば、難解作もある。さて・・と調べると、どうも伊賀上野城で現代語訳を売っているらしいというネット情報を拾った。

名古屋でオフ会でもする時に足でも延ばそうか、と軽い気持ちで、路線検索をすると、そんなやさしいところにはない。紀伊半島の中の方にある(ここで、高虎の配置場所が尾張家と紀州家という徳川家の中間に位置することに気付く)。そして、伊賀上野城へおねだり電話をかける(ネット時代の前は、城の電話番号を調べるのにも一苦労だっただろう)。なだめたり、すかしたり、上げたり下げたりして、その現代語訳を有料で送付してもらえることになった。「藤堂高虎の研究家ですが、・・」の一言が効いたのだろう。売価500円に送料200円で700円と言われる。振替手数料を加え、郵便局から送金すると、2日後に90円切手2枚貼られた封筒が届く。20円はどこへ行ったのか?

さて、貴重な小冊子は42ページで、こちらには原文なし。現代語訳(逐語訳)が忠実に200条並んでいる。解釈はまったくなし。つまり、原文と訳文が別々にそろったわけだ。そして、どうしようかと考え、近くの書店で類例を探すと、西郷隆盛の語録が何種類も出版されている。形式は、「原文」「訳文」「編者の現代的解釈」と三点セットというのが多い。その方式で、高虎を攻めるとすると、2冊の本から原文と訳文を書き写して、好き勝手に自己解釈をつければいいのだが、たぶんそれでは「本」そのものになってしまう。それに、全部解釈できるか、自信もない。

そして、最大の問題は著作権のような気がする。訳文を作った二人の民間人の方と発行元の伊賀上野城には何らかの権利があるように思える。

ということで、「原文」と「意訳」及び「勝手な解釈」というスタイルにしようかと思う。たまに10個ずつとか・・

ところで、この藤堂高虎というのは戦国武将としては、かなりマイナーな人物のように思われていて、人により好き嫌いがはっきりしているように思える。主君を10人以上乗り換え、やっとの思いで徳川家康にたどり着くバルカン政治家かと思えば、城造りのスペシャリストで、今まで彼の作と言われた以外、大阪城、和歌山城、江戸城に関与している。さらに日光東照宮にも彼の手が入っているらしい。都市計画家。さらに、家訓を残し、藤堂藩は江戸時代末期には幕府側から真っ先に薩長に寝返っている。

こういう複雑な話を友人にすると、「高く評価」する人と、「大嫌い」という意見と二分される。そういうところも少し見極めたいと思っているわけだ。個人的には、生れた時が15年ほど遅く、下克上の時代が終わっていたため、「主君乗換え」しか方法がなかったのかもしれない。

さらに、彼も朝鮮に出兵しているのだが、たとえば加藤清正などは、自分の城を築くときに朝鮮式の勾配のカーブがきつく、逆に低い石垣を好んだのだが、高虎は、帰国後は逆に高石垣にこだわっている。朝鮮出兵時に朝鮮式石垣の弱点を見抜いていたのかもしれない。


ここで話は変わるが、少し悩んでいることがある。このブログ、いくつか妙なことが起きている。たとえば、昨年4月にホリエモンとの類似で高島嘉右衛門のことを書いたら、高島と同様の事件でホリエモン逮捕。高島学校の中で、岡倉天心のことを触れたら、一昨日読み終わった国宝関係の本に彼のことが紹介されていて、フェノロサの通訳だった話になり、犬山城につながった話になる(團琢磨がキーになるのだが、彼のひ孫が書いた「るにん」を昨日読み終わったら、これが少しばかり赤い靴調査やその他のブログと少しずつ関係がある)。

猫の画像をトップページに貼ったら、猫が老女の指を食ったり、麻布十番温泉につかった翌日、弘前で乗った鉄道が横浜に戻って乗った「赤い靴バス」に関連していて、さらに調べていったら赤い靴のモデル「きみちゃん」が亡くなった孤児院が麻布十番温泉から100メートルの場所だったり。

今、気にしているのは、高虎遺訓200箇条の終わりの方にある「戦場での首の取り方」の話を読んだ頃、滋賀県で幼稚園児が刺し殺された事件なのだが、事件の起きた長浜は、藤堂高虎の生まれた場所のすぐそばなのである。事件の起きた時刻と、第180条を読んだのが、どちらが先だったか検証しているのだが、よく覚えていない。ちょっと嫌な感じがあるので、日本航空の悪口を書かないのも、そのせいである。

とりあえず血なまぐさい話は遺訓の後ろの方なので、当面、気にしないで、ぼちぼちと200箇条を読みはじめることにする

夜の図書館をはしご(上)

2006-02-16 07:39:15 | 藤堂高虎家訓200箇条
9cb55b9c.jpg東京の図書館は8時、9時まで開いているところが多い。さらに、ネットで蔵書が検索できるので、とりあえず目的の書籍があることを調べてから行けば効率的だ。といって、しじゅう、夜に図書館に行くような文化的人間でもない(六本木ヒルズのライブラリーには入会の誘惑が尽きないが、知人が多そうなので近づかないことにしている)。

一つの目的は、以前触れた、「遅れてきた才将、藤堂高虎」の門外不出だった「藤堂家の家訓、200箇条」が、「高山公実録」という上下刊約1000ページ、定価上下各25,000円の大著に含まれていることがわかり、さらにその本が広尾の有栖川記念公園の中にある東京都立図書館にあることがわかったから。ただし、門外不出ならぬ館外不出なので、コピーをとらなければならない。

実は、1週間前に行った時に、上下巻の下巻を誰かが館内で借り出していたため、上巻を見たのだが、はずれ。ネット情報では上巻に家訓が書かれているはずだったのに・・そして、この本は、藤堂高虎関係の文書類をそのまま、編集しているため、古語そのもので、数々の合戦の時の陣地配置図なども含まれる。全1000ページ。活字の海から目的のページを探すのにも時間がかかる。上巻の約500ぺージを丹念に調べて、家訓が見つからなかったのには本当にガックリきた。あきらめず、下巻に再チャレンジ。本当に書かれているのだろうかと不安もある。

まず、日比谷線広尾駅から有栖川公園の中を歩くが、暗くて足元の石段が怖い。多くの欧米系外人が犬の散歩を楽しんでいるが、彼らが飼うと、犬も肉食獣的になるのだろうか、狼のようで怖い。やっと図書館につき、初めての人には扱いにくい自己満足型検索ソフトを使い、「高山公実録(下)」を借り出す。上巻の方は、先週の私のようにネット情報で家訓が上巻に書かれていると誤って思い込んでいる方のために残しておく。ほとんど巻末に遺訓を発見。905ページから922ページまでをコピー依頼する。

そして、一部分を読むと難しい。これをブログにするには、どうしようと悩む。毎日、1箇条ずつだと204日になる(おどろくことに200条ができてから追加で4条が加わっている。高虎の性格なのだろうか・・)。たぶん10個ずつ休日にでもまとめて紹介とかかなあ・・

たとえば、
第1条 寝屋を出るより其日を死番と可得心かやうに覚悟極るゆへに物に動する事なし是可為本意
    朝起きたら、きょうは死ぬかもしれないと思えば物に動じない。
 などと、おそろしいことが書かれているかと思えば

第9条 大きなる馬あし、(悪し)
    大きな馬には乗るな
 これだけでは、意味不明だが、その前のほうに「戦場で派手な格好するな」というのがあり、どうも大きな馬に乗っていると、大将であることがすぐにバレてしまい狙われやすいからダメだ。ということのように思える。結構陰険だ。

第X条 身に高慢する人は先近し なんていうのもある。

若干、研究(おおげさ)してから、料理法は考えることに・・

藤堂高虎、NHKに登場

2005-09-26 21:39:41 | 藤堂高虎家訓200箇条
32fc99b9.jpg9月21日夜、21時15分からのNHK総合、「その時、歴史は動いた」に城造りのスペシャリスト藤堂高虎が登場。日頃、ほとんどNHKを見ないのだが、受信料が丸損になるので、時々見ることがある。

実は、戦国の武将の中で、「藤堂高虎」はそう有名な方ではない。秀吉と同様に足軽から32万石の大大名に昇進していったのだが、時代が少しズレていた。秀吉より歴史への登場が遅いのだ。秀吉より19歳、家康より14歳若い。そのため、既に世が天下統一に向かい始めた頃に頭角をあらわしはじめた高虎は、とりあえず出世しそうな殿様の家臣として仕え、頃合を見ては、次々に主君を乗り替えていかなければならなかったわけだ。その仕えた主君は10人とのこと。浅井氏に始まり、その後、何家か渡り歩いたあと、秀吉の弟である秀長には長く仕えていたが、豊臣家の内紛に危険を感じ、高野山に潜り込み、嵐が去るのを待ったりしている。

その後、ついに豊臣秀吉の家臣になるが、秀吉が亡くなった後は、家康シンパとなる。そして、豊臣家の最期となる大坂夏の陣では、家康軍の先鋒として、派手な立ち回りを決めている。その武功もあり、伊勢伊賀32万石の大名に取り立てられたのだが、徳川家の相談役として、彼自身はほとんど江戸に住んでいたとのこと。

32fc99b9.jpgNHKはありあまる制作費で番組を作るが、私はせこく調べているのだが、「城郭」関係の本を読むと藤堂高虎の名は、非常に多数登場する。彼の域に近づくものは、いない。達人なのだ。なにしろ戦闘中であっても、夜間に自陣を抜け出し、敵の城郭の欠点を調べるというような無謀さがあり、その攻略法を封じ込めるという考え方で、無敵の城を作っていったのだ。

そして、藤堂高虎の築城とされる天守閣は約20城もあるという。さらに、その半分以上は自分が使う城ではなく、建築デザイナーとしての彼の腕を見込んでの外注仕事なのである。残念ながら、現存しているのはやや時代の古い宇和島城だけだが、再建された今治城は彼のホームグラウンドだっただけに、武骨ながら美しい。

そして、よく考えてみると、徳川御三家の一つ、紀伊徳川の和歌山城は、もともと豊臣秀長の居城であったこともあり、築城にあたっては高虎の意見が取り入れられているのだろう。そしてさらに大坂城までもが秀吉家臣であった高虎の意見が取り入れられていると思える。

さらに、家康から依頼された江戸での大仕事では、城造りではなく、江戸の町の掘割の設計図を書いているのだ。つまり、御茶ノ水や水道橋や、霞ヶ関やら飯田橋やらは全部、彼の設計図なのだ。おそらく、江戸城そのものの設計ではなく、町割りの設計をしたということは、歴史の中で城が、「戦闘用」から離れてきているのを、「家康=高虎」は感じとっていたのだろう。

さらに言うなら、彼が今治から伊賀に転勤になった時、伊賀上野城を建て直すのではなく、若干の手直しだけにしている。おそらく、攻略難解な城造りには、あきていたのかもしれない。

数え75歳で亡くなった高虎の体には、足軽時代の刀傷や、鉄砲傷が無数に刻まれていた、というのがNHKの報道であった。さすが「報道のNHK」なのだ。