藤堂高虎、NHKに登場

2005-09-26 21:39:41 | 藤堂高虎家訓200箇条
32fc99b9.jpg9月21日夜、21時15分からのNHK総合、「その時、歴史は動いた」に城造りのスペシャリスト藤堂高虎が登場。日頃、ほとんどNHKを見ないのだが、受信料が丸損になるので、時々見ることがある。

実は、戦国の武将の中で、「藤堂高虎」はそう有名な方ではない。秀吉と同様に足軽から32万石の大大名に昇進していったのだが、時代が少しズレていた。秀吉より歴史への登場が遅いのだ。秀吉より19歳、家康より14歳若い。そのため、既に世が天下統一に向かい始めた頃に頭角をあらわしはじめた高虎は、とりあえず出世しそうな殿様の家臣として仕え、頃合を見ては、次々に主君を乗り替えていかなければならなかったわけだ。その仕えた主君は10人とのこと。浅井氏に始まり、その後、何家か渡り歩いたあと、秀吉の弟である秀長には長く仕えていたが、豊臣家の内紛に危険を感じ、高野山に潜り込み、嵐が去るのを待ったりしている。

その後、ついに豊臣秀吉の家臣になるが、秀吉が亡くなった後は、家康シンパとなる。そして、豊臣家の最期となる大坂夏の陣では、家康軍の先鋒として、派手な立ち回りを決めている。その武功もあり、伊勢伊賀32万石の大名に取り立てられたのだが、徳川家の相談役として、彼自身はほとんど江戸に住んでいたとのこと。

32fc99b9.jpgNHKはありあまる制作費で番組を作るが、私はせこく調べているのだが、「城郭」関係の本を読むと藤堂高虎の名は、非常に多数登場する。彼の域に近づくものは、いない。達人なのだ。なにしろ戦闘中であっても、夜間に自陣を抜け出し、敵の城郭の欠点を調べるというような無謀さがあり、その攻略法を封じ込めるという考え方で、無敵の城を作っていったのだ。

そして、藤堂高虎の築城とされる天守閣は約20城もあるという。さらに、その半分以上は自分が使う城ではなく、建築デザイナーとしての彼の腕を見込んでの外注仕事なのである。残念ながら、現存しているのはやや時代の古い宇和島城だけだが、再建された今治城は彼のホームグラウンドだっただけに、武骨ながら美しい。

そして、よく考えてみると、徳川御三家の一つ、紀伊徳川の和歌山城は、もともと豊臣秀長の居城であったこともあり、築城にあたっては高虎の意見が取り入れられているのだろう。そしてさらに大坂城までもが秀吉家臣であった高虎の意見が取り入れられていると思える。

さらに、家康から依頼された江戸での大仕事では、城造りではなく、江戸の町の掘割の設計図を書いているのだ。つまり、御茶ノ水や水道橋や、霞ヶ関やら飯田橋やらは全部、彼の設計図なのだ。おそらく、江戸城そのものの設計ではなく、町割りの設計をしたということは、歴史の中で城が、「戦闘用」から離れてきているのを、「家康=高虎」は感じとっていたのだろう。

さらに言うなら、彼が今治から伊賀に転勤になった時、伊賀上野城を建て直すのではなく、若干の手直しだけにしている。おそらく、攻略難解な城造りには、あきていたのかもしれない。

数え75歳で亡くなった高虎の体には、足軽時代の刀傷や、鉄砲傷が無数に刻まれていた、というのがNHKの報道であった。さすが「報道のNHK」なのだ。


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