名古屋から発するブログつぶて・凡人のひとりごと

身の回り、世間のできごとをを日記風に記す(紙つぶてならぬブログつぶて)。

異例の進路を辿った台風12号

2018-07-30 08:56:13 | Weblog
2018.7.30(月)
 台風12号は27日午後10時現在では、父島の東北東約280キロを北北東へ時速35キロで進んでいた。この時点での中心気圧は965ヘクトパスカル。最大風速は40メートル、最大瞬間風速は55メートル。
 ここまで来た台風は普通、そのまま東方へ進み太平洋上へと消えていく。ところがこの台風は28日午後には進路を西に大きくカーブする珍しい経路をたどって、29日の明け方には東海か近畿付近に上陸するとの予報に変わった。
 そして台風12号は関東に接近後、西に大きくカーブして29日午前1時ごろ、三重県伊勢市付近に上陸。勢力を維持しながら東から西に逆走するという異例のコースを進んだ。
 今月初旬の西日本豪雨被災地を含む広い範囲に激しい雨を降らせ、午後5時半ごろには本州山口県を出て福岡県豊前市付近に再上陸した。速度が遅く、福岡から熊本方面へ南下して東シナ海に抜けるというが、31日にかけて九州の西に停滞する見込みで、暴風や大雨の影響が大きく各地で被害が出ている。
 この台風は特に強い雨を伴っており、関東甲信や東海などでは24時間雨量が400ミリに達したという。
 南の上空に反時計回りの空気の渦(寒冷渦)があり、台風は渦の東側を北上、渦の力で進路が西寄りに変わる。上陸後は四国付近を経て九州北部に進んだ。
 気象庁によると「統計がある1951年以降、本州付近をこれほど西に進む台風はない」と指摘している。従って、台風も反時計回りの風の渦となり、台風通過後から南風が吹く。この風に南の海から水蒸気が供給されて大気の状態が不安定になって雨が降り続く。奥州南部・関東から九州にかけて大雨が降り続いたのもこのためらしい。
 台風12号の接近により各地で週末に予定されていた夏祭りや花火大会などのイベントが中止や延期を余儀なくされた。
 その台風12号は今日もまだ九州で活性化して大雨をもたらしている。

記録的な猛暑で熱中症死者続出

2018-07-24 19:56:36 | Weblog
2018.7.24(火)
 ここ1週間、日本列島は広く高気圧に覆われ、23日には埼玉県熊谷市で41.1度を記録し、国内最高記録を5年ぶりに更新した。
 今日24日も多治見市で39.1度を観測するなど各地で気温が上昇し、熱中症による救急搬送が急増した。消防庁は16~22日の一週間に全国で熱中による救急搬送患者は2万2647人に上ったと発表した。2008年の統計開始以来最多となり、死亡したのは65人に達した。都道府県別の死者の最多は愛知、三重の各7人だった。
 本年は22日~24日の3日間にわたって38度以上が続いたが、過去の1942年では8月に入って8日間にわたって38度以上が続いた記録があるという。ただ近年の暑さのピークは早まってきており、また長期にわたって持続する傾向にあることが一層の暑さを体感する原因であろうか。今月末から8月にかけてまだまだ暑さが続く可能性は高い。覚悟が必要である。

胃と大腸の内視鏡検査

2018-07-20 15:02:00 | Weblog
2018.7.20(金)
 ここ数年56キロほどの体重を維持してきたが、最近になって50キロを切ってしまった。
日頃お世話になっている近くの主治医に相談したところ、胃と大腸の精密検査をしましょうということになり、17日(火)に実施していただいた。
 しかし、実施までの前準備が大変で、前日の16日には3食とも検査食を食べさせられ、なお水も2リットル以上は飲むように指示された。
 さらに検査当日の午前中は、500mlのムーベンなる下剤を4倍にうすめて10分おきに12杯飲んだ。6杯を服用した頃から排便が始まり、11時頃には排泄液がほぼ透明になった。
 午後にはいよいよ口と肛門から内視鏡を入れられて、これまでにも経験のあるあの苦しみを味わうのかと戦々恐々としていたが、直前になって麻酔をかがされ、全く無意識のうちに検査は終わっていた。気がついた時には医師の前で、内視鏡で撮影した胃と大腸の写真を見せられた。その間15分ほどだったと記憶する。
 結果、胃は異常なく良好であるとの診断だったが、大腸の方は3カ所も大きなポリープができており、内視鏡で切切除したとのことであった。
 25年も前に、この医院の先生に大腸ポリープを取っていただいたことがあるが、当時はまだ内視鏡技術が開発されてなく、腹を切って行うという大手術であった。まだ現役時代で、1か月を超える入院を余儀なくされ、仕事も休んだことを覚えている。医療技術の進歩を垣間見ることができた。
 なお翌日から2日間は、止血のための点滴を受けて一応診療は終えた。
 あとはこれで体重が少しでも戻り、体力が回復することを願うだけである。


議員定数を増やし、カジノ法案にも執念の自民党 河村名古屋市長もカジノ誘致に前向き

2018-07-18 11:51:41 | Weblog
2018.7.18(水)
 延長国会も閉会(7月22日)まであと5日と迫った昨日(17日)、自民党提出の参議院定数を6増する公職選挙法改正案を自公両党の賛成多数で可決した(特別委員会)。
 また統合型リゾート施設(IR=Integrated Resort)整備法案、通称:カジノ実施法案においても自公両党は17日、参院内閣委員会での質疑終了と採決を求めてその成立に執念を燃やしている。
 政府はこの両法案について何としても会期内に成立させようと躍起になっている。
 時は今、去る6月28日から7月8日にかけて西日本を中心に北海道や中部地方を含む全国的に広い範囲で記録された台風7号および梅雨前線等の影響による集中豪雨によって、特に広島、岡山、愛媛、岐阜など西日本の各地は猛烈な被害に遭っている。死者・行方不明者は既に200人を超え、住宅被害3万棟、農林漁業の被害額は530億円に達するという大災害である。これを気象庁は『平成30年7月豪雨』と名付けた。
 こんなさ中の7月5日の夜、安倍首相ら自民党の有力幹部連中は「赤坂自民亭」なる懇親会を開く無神経さを露呈する一方、カジノ法成立に執念を燃やしているのだから信じられないことである。
 海外からも日本国内からも大勢の観光客が集まり、地域が活性して懐(ふところ)が潤う、というのが触れ込みである。その中に大ばくち場を組み込むというものである。もともとばくちは、刑法で禁じられた立派な犯罪である。それを犯罪でないようにまでしてごく一部の連中のもうけを手助けしようとするとは何ということであろうか。
 このカジノ法案に対して名古屋市の河村市長は「良いチャンス。成立すれば、手を挙げるべきだと思う」とまで発言している。市長の構想は、名古屋駅近くにコンサートホールなどの文化施設と併設する形で整備するという。この人はたまにいいことを言うが、賭博場まで欲しがる市長などご免こうむりたい。
法案では全国3カ所までカジノの設置を認めるとされ、すでに大阪府や北海道などが誘致に取り組んでいる。特に大阪府は、2025年の万博誘致について、此花区の人工島・夢洲(ゆめしま)を会場予定地として取り組んでいるが、カジノの立地予定地も万博会場と一体的に進める計画という。
名古屋市長といい、大阪府・市長といいこんなことを重要政策として取り組もうとしているが、それが本当に民意なのか確かめもせず猪突猛進するとすれば危うい事態である。










俳優・加藤剛さん死去

2018-07-10 15:00:38 | Weblog
2018.7.10(火)
 俳優の加藤剛さんが6月18日、胆のうがんのため死去した。享年80歳。
筆者とほぼ同年の加藤剛さんは、数多くの俳優の中でも何故かずっと気になる存在であった。
 松本清張の本を読みまくっていたとき、上映された「砂の器」に出演した加藤剛さんであったのが最初の記憶のような気がする。穏やかで、理性的で、そのうえ端正な顔立ちで、正義感の強い役柄にはもってこいの個性を持っている俳優だった。
 テレビ時代劇の「「大岡越前」ではほとんど見逃すことなく見た。二代目の東山紀之版「大岡越前」は引き続き見た。ほかに、「三匹の侍」「風と雲と虹と」など好んで視聴した。
 加藤剛さんは、戦前はまだ幼い年ごろであったので、実際の戦争体験は少ないと思われるが、軍医だった義兄が戦死し、さらに実の姉は適切な治療が受けられず病死するに病死するという体験から、戦後は反戦平和を訴え続けた。
初主演の「人間の条件」では、戦時下の過酷な状況でも人間としての良心を貫こうとする青年役を好演した。
「『人間の条件』で、平和な世の中をつくり、戦争に反対することが僕の俳優という仕事の基本になりました。以来、どの作品に出ても平和のために自分は何ができるかと考えてきました」と語っている。
「俳優座九条の会」の呼びかけ人となり、核兵器廃絶を求める国際的署名活動に参加するなど、活発に発言した。
各地の集会では、日本国憲法を「人類の到達した最高の英知」と評価し、戦争を知らない若い世代に向け「テレビや映画、演劇を通して戦争の愚かさを知り、絶対にしちゃいけないと知ってもらいたい。私たちにはそういう作品をつくり、知らせていく義務がある」と強調した。
また一人惜しい名優を失った。ご冥福を祈る。

オウム真理教麻原彰晃ら7人の死刑執行

2018-07-07 11:19:00 | Weblog
2018.7.7(土)
 法務省は7月6日、オウム真理教による地下鉄、松本両サリン事件や坂本弁護士一家殺害など13事件を首謀したとして、殺人罪で死刑が確定していた麻原彰晃(63)=本名松本智津夫と元教団幹部6人の計7人の刑を同日午前に執行したと発表した。
 元幹部6人は、井上嘉浩(48)、新実智光(54)、中川智正(55)、早川紀代秀(68)、土谷正実(53)、遠藤誠一(58)。
 オウム真理教をめぐる経過は
  1984年に麻原晃がオウム神仙の会を設立。その後オウム真理教に改称。
  1989年(平成元年)11月 坂本一家殺害事件(3人死亡)
  1994年 6月 松本サリン事件(8人死亡、660人負傷)
  1995年 2月 兄の仮谷さんを殺害
  1995年 3月 地下鉄サリン事件(13人死亡、6千人以上負傷)      
  2004年 2月 東京地裁が麻原に死刑判決
  2006年 9月 最高裁で麻原の死刑確定
  2011年11月 元教団幹部12人の死刑確定
 その他の殺人事件を含めて殺害された総数は29人にのぼった。

 昨日から今日にかけて報道はこのオウム事件の死刑執行で埋め尽くされたが、死刑執行は当然とするもの、世界の潮流にあらがう暴挙と抗議するものなどさまざまだが、筆者は遅きに失したと思っているぐらいである。
 精神科医の香山リカさんは取材に対して、「こうした凶悪事件を引き起こした現代社会の問題の背景は今も十分解明されていない。事件の真相を解明し、こうしたことがまた起きないようにするためにも、麻原死刑囚の治療が必要だったのではないか」と談話している。
 尊敬する香山氏ではあるが、このコメントは甘い。悪を引き起こす社会の根源を絶やすことなどはもはや不可能だ。起こった悪に対しては厳しく迅速に対処してこそ、再発の縮小につながるというのが、何度も経験してきた末の叡智である。

高裁金沢支部、関電大飯原発差し止めを取り消す

2018-07-05 10:34:59 | Weblog

2018・7.5(木)
関西電力大飯原発3、4号機の運転差し止めを住民らが求めた訴訟の控訴審判決が4日、名古屋高裁金沢支部であった。なお、3、4号機は2017年5月、規制委が新規制基準に適合していると認め、3号機は今年3月、4号機は5月からそれぞれ再稼働している。
報道によると判決骨子は次のとおり。
〇 一審判決中、関西電力の敗訴部分を取り消し、住民側の請求を棄却する。
〇 大飯原発3、4号機に住民側の人格権を侵害する具体的危険性はない。
〇 新規制基準や、大飯3、4号機が新基準に適合するとした原子力規制委員会の判断に
不合理な点は認められない。
 〇 関電が策定した基準地震動が過少だとは言えない。
 〇 2基の危険性は社会通念上無視し得る程度にまで管理・統制されている。

 2014年5月の福井地裁判決は「生命を守り生活を維持するという根幹部分に対する具
体的な侵害の恐れがあるときは、差し止めを請求できる。多数の人格権を同時に侵害する性質があるとき差し止めの要請が強く働くのは当然である」として、関電の地震対策には構造的な欠陥があるとして住民側の主張を認めていた。
 これに対して高裁金沢支部の内藤正之裁判長は「福島原発事故の深刻な被害に照らし、原発を廃止・禁止することは大いに可能であろうが、その当否の判断はもはや司法の役割を超え、国民世論として幅広く議論され、立法府や行政府による政治的な判断に委ねられるべきだ」と述べた。
 控訴審では、耐震設計の目安となる揺れの強さの妥当性、すなわち原発がどれほどの揺れに耐えられるかが最大の争点とされていた。
 元規制委員長代理で地震学専門の東大名誉教授の島崎邦彦氏は、証人喚問で、関電が採用した地震の揺れを算出する計算方法を巡り、事前に断層の形状などが分からないため、大飯原発の地震想定に使うのは誤っているとして「規制委の審査は不十分」と断言した、と報じられている。それにもかかわらず高裁は「高度な専門的知識と高い独立性を持った原子力規制委員会」が関電側のまとめたデータに基づいて下した判決をそのまま受け入れた。規制委と関電の主張を丸呑みしたに過ぎない判決である。
 そもそも原発は、人間の力ではもはや制御できないことを直接の被害者はもとより、多くの国民が体感し、原発否定の流れは世界的な潮流と言っても差し支えないところに来ている。
 今回の判決は三権分流の基本を放棄し、政治、行政に『忖度』した結果という何ともわびしい司法の結末である。
 なお、奇しくもこの日(4日)、間もなく40年の運転期限を迎える日本原子力発電の東海第二原発(茨城県東海村)について、原子力規制委は新規制基準に「適合」することを示す審査書案を了承した。東日本大震災で被災した原発の新基準適合は初めてである。再稼働にはまだまだ超える壁は高く、即稼働とはいかないが、ここでも『忖度』が働いているのではないかと疑いたくなる。

名古屋の老舗百貨店丸栄閉店

2018-07-02 06:27:12 | Weblog
2018.7.1(日)
名古屋の百貨店丸栄が6月30日をもって閉店し、75年の歴史に幕を下ろした。最終日の昨日は大勢の客が訪れ、別れを惜しむ姿がテレビで放映された。また、今朝(7月1日)の朝刊でもその記事で溢れた。
 丸栄は記録によると、1615年創業のナゴヤの呉服店「十一屋」と、京都の丸物百貨店が1937年名古屋につくった「三星」が源流となり、太平洋戦争中の1943年に両者が統合、「丸栄」が誕生した。名古屋市民はもとより、近在の住民の多くは丸栄に親しみ、愛し、利用してきただけに愛着は一入であった。筆者などは、丁度丸栄と共に生まれ、生きてきただけに、その閉店は何か身を切られるような寂しさを禁じ得ない。
 報道によると、丸栄はバブル期までは業績を伸ばし、ピークだった1992年2月期の売上高は825億円だったが、近年は赤字経営が続き、2017年2月期は186億円と5分の一近くまで落ち込んだという。スーパーやコンビニ全盛の時代となって先が展望できなくなった経営陣の究極の結論を理解しなければなるまい。
 店舗は、今年の9月から1年半かけて取り壊し、親会社の興和が跡地の再開発に着手するという。
 4M(丸栄・松坂屋・名鉄百貨店・三越)に現在はT(高島屋)が加わっているが、その一つが欠けた。 閉店は昨日であったが、今日(7月1日)所用で栄へ出掛け、その前を通ったら多くの人が丸栄の姿を写真に収めていた。入り口はすべて「閉店」と書かれ当然中に入れないが、現存する最後の姿をカメラに納めておきたいという人達の気持ちが筆者にも痛いほど分かるだけに、どうしてもわびしい想いはぬぐえない。