時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

産業革命の父?、産業スパイ?:サミュエル・スレーターの人生

2012年07月12日 | 書棚の片隅から

 

田園的環境の中に建設されたマサチュセッツ州ウオルサムのローウェル設計の繊維工場

左手工場建屋の前にはチャールズ川が流れる。従業員宿舎は林間に点在。
1814年当時の絵画
Source:The 100 events that shaped America, LIFE Special Report

ちなみに、この絵は、1975年刊行の写真雑誌 LiFE 「アメリカを創った100の出来事」に掲載されている。
この歴史を飾った著名雑誌も、2000年5月をもって最終号となった。


 




 ディケンズ・シンドロームは、なかなか抜けてくれない。まだかなりのめり込んでいる。作品を読んでいる間に、さまざまなキーワードが思い浮かんで、あれもこれもと確かめたくなる。ディケンズはまだ手にしていない作品も多く、生きている間にあと何冊読めるだろうかと思う。前回話題とした『アメリカ紀行』は日本の読者の間では、あまり面白くないとの感想もあるようだが、読む人の関心の深さによっても異なるようだ。管理人は数回目なのだが、読むたびに新しい発見がある。


 前回とりあげたローウエル訪問についても、日本の多くの人々にはその意義がつかみにくいかもしれない。しかし、当時(19世紀初め)のイギリス、アメリカ双方の国民にとって、この地はさまざまな意味で大きな注目の的だったのだ。この点を少し書き足してみよう。

 ディケンズ自身がその作品で、さまざまに描いているように、当時のイギリスの産業の労働条件は、繊維工業にとどまらず多くの分野で、児童労働を含めて苛酷、劣悪なものであった。それでも、産業革命の覇者イギリスは、世界の最先進国だった。ディケンズを含めて、イギリスの読者は、新大陸アメリカではかなり理想に近い工場システムが実現しているとの報道に多大な関心を抱いていた。当然、その実態を知りたくなるだろう。ディケンズがわざわざローウエルを訪れた最大の理由はそこにあった。


戦略的重みを持った繊維産業
 19世紀初期のイギリス、アメリカ両国にとって、繊維産業はいわば今日のIT産業に相当するような最重要な戦略産業であった。産業革命以来、世界の先進国であったイギリスは、繊維産業の技術が新大陸に流出することを極力警戒し、繊維関連機械の輸出禁止、関連印刷物の国外持ち出しを厳禁していた。繊維技術は、当時の最先端技術だったのだ。イギリスは世界をリードする繊維産業を擁していた。

 そこにサミュエル・スレーター Samuel Slater(1768ー1835)なる人物が登場する。スレ-ターは、イギリス生まれのアメリカ人企業家だった。スレ-ターは、イングランド、ダービーシャー、ベルパーの農家の8人兄弟の5番目として生まれた。家庭は貧しく、ほとんど小学校程度の教育しか受けられなかった。10歳の時、近くのクロムフォードに作られたアークライトが発明した水力による木綿製糸工場に働きに出た。しかし、1782年父親が世を去ると、彼は工場主ストラットのところへ徒弟奉公に出された。スレ-ターはここで最新の繊維生産技術について、十分な修業を受けた。そして21歳までに、木綿紡績の工場運営についての知識を完全に体得した。

 当時、スレ-ターは、新大陸アメリカで同種の機械の開発に関心が生まれていることを聞き及んだ。他方、イギリスの法律が機械のデザインを国外へ持ち出すことを厳禁していることも知った。スレ-ターは覚えられることをすべて記憶にとどめ、1789年にニューヨークへ向けて旅立った。

驚くべきスレーターの記憶力
 その後の展開を見ると、スレーターが厳重な警戒体制の下で、どこまで膨大な技術知識を文字通り「体得」して、いかなる形で実際の場で生かしたかという点については、きわめて興味深い問題が多々ある。たとえば、複雑な繊維機械の構造、工場建屋、宿舎などの付属施設、さらには労働者の雇用条件まで、ありとあらゆる側面に、彼の考えや知識が生かされているからだ。


 スレーターがアメリカへ到着したこの年、アメリカ、ロードアイランド州ポタケット(これも繊維産業史では大変著名な場所)に水力を利用して、繊維工場を建設しようとしていた企業家ブラウンがいた。技術はイギリスのアークライト方式に倣ったスピンドル・フレームをなんとか設計、設置したが、実用にならず頓挫していた。
 
 このことを知ったスレ-ターは、当の企業家ブラウンに、「イギリスで生産される木綿糸の品質に匹敵する製品が生産できなかったら、自分が提供するサーヴィスへの対価は一切いらない。その代わり、そこでなしとげたことはすべて川へ放り込む」と豪語して、工場建設への技術サービスの提供を申し出た。そのために要する投資の資金、得られた利益は折半の約束で、1790年両者は契約した。そして、途中いくつかの不備、欠陥はあったが、1791年にスレ-ターは工場が操業できるまでにこぎつけた。そして、1793年スレ-ターとブラウンは、ポタケットの工場を正式に開設した。

 スレ-ターは、当時のイギリスの工場で実用化されていたアークライト方式の機械の問題を知り尽くしており、アメリカでの実用化過程で、いくつかの独自の改良も加えた。ちなみにスレ-ターの妻ハンナ・ウイルキンソン・スレ-ターも綿糸の改良で、アメリカ女性として最初の特許取得者となった。



ロードアイランドでサミュエル・スレーターによって設計、製造された水力紡機。
1790年代にイギリスで使われた48スピンドルモデルに近い。
ワシントン・スミソニアン・インスティチューション
大きなイメージを見るには、画面をダブルクリック



評価が二分したスレーター
 大西洋を隔てて、サミュエル・スレーターのアメリカ、イギリス両国での評価は、大きく分かれることになった。アメリカではアンドリュー・ジャクソン第七代大統領が「アメリカ産業革命の父」と称えたが、イギリスでは「裏切り者のスレ-ター」にされてしまった。実は、この間のサミュエル・スレターとさまざまな関係者の動きは、十分に小説になるほど波乱万丈の面白さなのだが、とてもここには書きつくせない。


   
 スレーターのシステムでは、当初は繊維工場に雇用されたのは主として女性と子供(7-12歳)であった。しかし、その後は男性も含み家族のメンバーを対象とするようになった。要するに家族のメンバー全員を雇用する仕組みである。今でいえば会社城下町だが、工場の近くに宿舎、日用品店舗などを作り、教会の日曜学校を支援して子供たちに読み書きを教えたりした。

 スレーターはその後、多くの工場を建設するなどして、1829年にはSamuel Slater and Sonsと称する自分と息子が経営する企業に編成替えし、アメリカを代表する企業のひとつにまで育てあげた。特に、1807年にイギリスがアメリカへの繊維品の全面輸出禁止に踏み切ったこともあって、ニューイングランドの繊維産業は隆盛の時を迎える。


競争力を誇示したウオルサム・システム
 1800年代には、前回記したフランシス・キャボット・ローウエルが大変効率の良い木綿糸・織布の一体工場をマサチュセッツ州ウオルサムに建設。ローウエルの死去した後、「ウオルサム・システム」はきわめて成功し、技術的効率と高い株式配当で注目を集めた。その後、ローウエルの志を継いで、大規模にウオルサム・システムを採用したローウエルの町は、世界に知られるようになった。工場は当時としては画期的な同じ建屋の中での連続生産工程が採用されていた。新大陸では労働力は希少であったため、近隣の農家の若い女性を主力に雇用した。工場で働く労働者の七五%は女性だった。彼女たちは会社が建設した瀟洒な寄宿舎に住み、そこにはハウスマザーズといわれる舎監役の女性がいた。そして、工場では経験やスピードに応じて、毎週$2.50から$3.00が支払われた。これは現代の人には低いように思えるかもしれないが、当時のアメリカの産業では図抜けて良い報酬だった。そして、当時の先進国イギリスをはるかに凌いだ。ちなみに、男性は女性の2倍以上支払われたが、彼らは主として熟練工や監督者だった。こうした労働力構成のため、ローウエルの労働コストは強い競争力を持っていた。



Factory Girls と呼ばれた繊維工場で働く女性たち
Philip S. Foner ed The Factory Girls, University of Illinois Press, 1977, cover


 ディケンスがローウエルをわざわざ訪れたのは、イギリスのシステムをはるかにしのぐ隆盛ぶりが世界に聞こえていたこの企業を自分の目で見たいと思ったからだった。当時のヨーロッパの繊維工場の労働はイギリスを含め、「人間以下」Untermenschenと呼ばれた劣悪な状態であった。児童労働を含む低廉、劣悪な労働条件で経営が行われていた。

 

Sir Samuel Luke Filds,

"Houseless and Hungry"
1869, woods curving
Museum of London, details

ディケンズの時代、家なく、飢餓に苦しむ人々を描いた著名な木版画
 
 
  しかし、こうした牧歌的雰囲気を残したローウエル・タイプの企業は、1850年代になると激化した市場競争と新大陸への大量の移民流入によって、急速に競争力を失い、経営が立ちゆかなくなる。良き時代は急速に失われて行く。

 資本主義がすさまじい展開を始める時代の到来である。



* この記事を書き終えた時、ロンドン・オリンピック参加のアメリカ選手団のユニフォームが、帽子から靴まですべて中国製ということが判明、議論を呼んでいる。全部作り直せという強硬論もあるらしい。自分の着るユニフォームが、Made in China と分かった選手たちの心境は? ニュースのタイトルは、「いったい、どうなってるの」というような意味だが、どうなるでしょう。

"The US uniforms are made in China. How can it be?" ABC News, July 12th 2012.

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4 コメント

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ディケンズの英語 (arz2bee)
2012-07-14 08:50:39
 ディケンズで実際に読んでいるのは子供の時読んだクリスマスキャロルやオリバーツイストくらいで、彼がアメリカに行ったことがあるのも知りませんでした。原書の英語は今のものとさほど変わらないのでしょうか?
 細かいことですがパウタケットではなくとポタケットと発音するように憶えています。
滝のある所? (old-dreamer)
2012-07-14 11:29:09
arz2beeさん
ディケンズの英語が、現代の英語と比較してどの程度違うのか、私は英文(英語)学者ではないので、お答えできません。ただ、19世紀の英語なので当然かなり違いを感じます。American Notes については、紀行文であり、多少現地の事情を知っていることもあって、比較的楽しんで読めました。
Pawtucket,R.I.はご指摘の通りポタケットあるいはポータキットと日本語表記した方が原音に近いでしょう。先住民の命名が英語化したようで、類似した地名が近くには多いようです。早速、改めさせていただきます。感謝。
ギョエテ (arz2bee)
2012-07-14 20:37:52
 ギョエテとは俺のことかとゲーテ云いで外国語を日本の発音に移すのは難しいですね。ポタケットは馴染みのある町で、つい記憶で書いてしまいました。
 英語の本を原語で読めれば読んでみようとちらっと思ったのでお聞きしました。興味がないと絶対に読めない(私の場合)のですが、19世紀のイギリスには多少興味がある物ですから。
歳をとらないと分からない? (old-dreamer)
2012-07-15 12:46:46
arz2bee さん
ポタケットがお馴染みの町ということで、驚くとともに懐かしく思い出しています。ヴェトナム戦争たけなわの頃でしたが、このあたりの繊維産業の町をしばしば訪れました。
ディケンスも最初手にした学生時代の頃は、かなり手こずりましたが、その後年の功で次第に理解力が増し、大変惹かれるようになりました。

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