わたしをこの地上に生まれせしめたわたしの父よ、わたしの母よ、ああ、今日という二度とは来ない大切な一日が、いま静かに暮れて行こうとしています。夜明け方に激しく降っていた雪はお昼前に止みました。地上の積雪も解けています。あなた方お二人は、この世を辞して行かれた後も、変わることなく、あなたがたの子であるわたしの傍にいてわたしを守り導いていてくださっているでしょう。親子の縁(えにし)というものは、時間がどれほど経過していこうとも消されることはありません。姿を消したからと云って、存在の意思を消したということにはならないのです。だから、わたしはときおりこうしてあなた方の名を呼んで語りかけをします。そして繋がっている愛情というものを確認します。ひとりではないことを確認して安堵します。わたしは、あなたがたが去って行かれた地上にいまもなお生きています。わたしに今日という日が過ぎていこうとしています。時間や空間を必要としなくなったあなたがたお二人は、しかし、「今日」という認識が薄らいでしまっているかも知れません。
ひむがしの蔵王の山は見つれどもきふもけふも雲さだめなき 斉藤茂吉
山形県上山市北町字弁天に斉藤茂吉記念館が建っている。みゆき公園もある。ここからは蔵王の山が東に眺められる。そこへ来てよくよくこの山に親しんだに違いない。安定した山の偉容を見たいのだが、このところの天候がそうはしてくれず、昨日今日は山を巡って風が吹き上がり、雲が定めなく流れていたことだった。何処からどう見ても叙景歌である。定めない雲は作者の心象だったかもしれないが。1945年頃に作者はここに長らく滞在した。戦争が終わる年だ。これからの日本の国がどうなっていくのだろうかと不安を覚えていたのかも知れない。
歌碑に仕上がって建っているくらいだから、もちろん秀歌名歌である。蔵王の山に格別の思い入れがあったのだろう。日本の国の将来そのものにも見えていたかも知れない。でも、正直に言うと、わたしは秀歌名歌とそうではない歌との境界が分かっていない。此の歌とて、茂吉の歌という思い入れがあるから、そういうふうに読みこなされねばならないだろうくらいにしか分かっていない。訴えてくる力の強さ激しさ爽やかさ、そういったもののありなしだけで、秀歌名歌が成り立っているものでもないらしい。
31文字の歌の背景を読み込まないと秀歌が秀歌とならないとすれば、それはそういう知識を格段に多く持つ者だけにしか、そうは写らないということになる。一読しただけでボデーブローが効いてくる、そういう歌であれば、歌の世界への出入りがよほど簡便簡明となって来るであろう。
母としか湯に入らずと子は云へり ひとりひたれり梅の萼(がく)見て 北原白秋
「白秋短歌百選」の中にこの作品があった。まだ若い頃の作品だ。お父さんと一緒にお風呂に入ろうと子を誘ったのだろう。ところが断られてしまった。女の子なのだろうか。だったら、あまり父親とは入ろうとしないだろう。しかし、白秋はそれが幾分不満だったらしい。こどもが父親の誘いに応じなかったことが。で、一人で湯船に入ることになった。湯殿の窓を開けると梅の木があってそこに花が咲いていた。風の飛んで来たのだろう、花の萼が窓辺に落ちて転んでいる。それを見ていたというのだ。梅の花の咲く頃と云えば二月だろう。窓を開けたら寒かったに違いない。ゆっくり湯に浸かっていなければ風邪を引く。
白秋はお隣の福岡県、柳川の人。親近感がある。姦通罪で牢獄の暮らしをした。隣に住むおんなの人の身の上に同情をしたからだ。見て見ぬ振りが出来なかったのかも知れない。それでその後を不本意な生活を余儀なくされた。白秋の詩がいい。童謡がいい。苦労は芸術家を磨いてくれるものらしい。
5
仏の願いは、「①わたしに仏智見(仏の智慧の眼をもって生きること)を開かせて、②仏の真如界(お浄土)に連れて行って(そのお浄土は此処かも知れないが)、③仏(=完成者、それに目覚めた者)にして、④仏としての活動活躍へ導いて行く」その一点にある。(・・・と、経典あたりには書いてある)
だがわたしの現世の願いは、即物的である。①旨いものを喰いたい、②お金が欲しい、③病気にならないでいたい、④幸福でいたい、⑤女の人に好かれたい、⑥多くの人に尊敬されたい、⑦長生きしたい、などということである。その満願で最高値としている。それをねだることしか頭にないのである。
6
ずいぶんな違いがあるのである。
そういう随分な違いのまんまで、あろうことか、仏を判断して掛かろうとしているのである。土台、判断が正しいはずがあるまい。畢竟、見えていないのだ、だから。
4
それを詫びながら恥ながら、さっき仏説十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経を唱えて来た。大きな声で。そこには「わたしの名を呼べば、現世の爾の願いごとは何でもかなえて差し上げよう」と述べてあった。それくらいはわけもない、ということだろうか。「現世のわたしの願いごとは、仏の世の願いごととはどう違っているのだろう?」そういう大きな疑問が残った。
3
いや、仏さま方の方へ向いても、わたしの無明の眼ではちっとも見えていないのだ。それで留まらず、「信用が出来ないもの」として一括して縛ってゴミ捨てに捨ててしまうのである。わたしの理性を仏の智慧よりもずっとずっと上に置いているのである。
2
疑って疑って疑い通すのはわたしが無明だからである。真理の世界に眼が開かないからである。しかしその無明のわたしの眼をどうしても開かせねばならない。それで彼らはあの手この手を駆使されるのである。エビでタイを釣るようなこともなさる。それから先にきっと諄々と真理を説いて聞かせられることになるだろうが。わたしは背を向けているばかりだ。
1
責めはわたしの方にある。わたしが不信心だからである。疑って疑って疑い通すからである。だから、仏・菩薩・明王さまたちの方から、そのわたしに合わせようと努力をされて、仏画になったり仏像になったり、呪文を発したり、ことこまかな説明を弄した仏典でもって語りかけて来られる。するとわたしは、そういう即物的な行為に対して、「なんだ、仏さまの世界の者がそこまでするなんて、変じゃないか、嘘もの紛いものだ。もっと高尚であるべきはず。目には見えない真理そのものであるはず」とまた疑いを深めることにもなる。
山鳩(野鳩ともいう)が来ている。我が家の庭の小径で遊んでいる。山は雪に埋まっているので食糧難を来しているのだろうか。猫に捕まらないといいのだが。おや、また雪だ。我が視界へ来てちらちらちらしている。今度は真っ直ぐには下りて来ないで、斜めへ斜めへ逸れている。風が少し出てきているのかも知れない。いかにも軽い。ふうわりふうわりの粉雪綿雪の類いだ。
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仏説十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経を大声を出して読んだ。誰もいないからいいだろう。「随願即得」とは「願いに随って即時に得られる」ということだ。何を得られるか? それは願いの中身である。陀羅尼(だらに)とは梵語のダーラニーの音訳語で、真言、神呪を指す。まあいってみれば、仏さまの仲間内で交わされる言語である。だから、人間語にはならない。だからいよいよ、呪文らしく感じられて効き目が増大するという効果もある。十一面観世音菩薩の発せられる陀羅尼は、オンマカキャロニキャソバファである。意味は不明。不明でも宜しい。観世音菩薩の願いがここに込められているのだ。それがすぐにも獲得できるというのだから、そりゃ、有り難いお経である。お経とは縦糸横糸で織った織物のことである。説かれる陀羅尼の前後は、これまた、「ええっ、そんなにしていただけるのですか」というくらいな約束事があれこれあれこれ約束されてある。観世音菩薩ってそんなに俗物だったんですかと呆れるくらいの即物的現実的約束事である。「そうです、わたしの名を呼んだ者はどんなことをしても助けます。願成就させます」と、それこそクドクドと。相済まないことだなあと思う。そこまでわたしたちの傍へ近づいて来ておられるのか、と思う。わたしが仏・菩薩に仕えるのではなくて、わたしが彼らに懇切に仕えられているというふうな気持ちにもなる。
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青空が見えなくなった。空が灰色を増している。雪がときおり舞い落ちる。もう山鳩の姿はない。山へ帰って行ったのだろうか。
夜明け方、あれほど降りしきっていた雪がぱったり止んでいる。風がなく、垂直に降っていた。積雪量が増すばかりかと思っていた。ひょいと気紛れを起こしたのだろうか。日が昇ってきて明るくなった。屋根の雪が反射してまぶしい。庭の木々は雪毛布を着込んで重たそうだ。でももう解け出すだろう、これだけの日射しの勢いだ。我が家の者は皆出掛けて行って一人になった。いつもの炬燵留守番をする。遠く高く青空が見えている。我が輩はどうしようか。まもなく午前10時。徒然ない。かといって、行くところはない。どんな用事もない。遊ぼうと言って誘って来る者ももちろん、ない。しんしんと時間が老いていく。
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気紛れといえば株式市場だ。急暴落して急上昇して、まるで凧のようだ。昨夜はニューヨーク市場が反発し、それを受けたように子分格の東京市場も反発しているようだ。気違い相場としかいいようがない。これが世の中を動かしている経済というものだろうか。失笑を禁じ得ない。今朝の新聞は紙面を沢山割いてこのことを報じていた。否が応でも読まざるを得なかった。
我が輩は我が輩。小さく生きている。仏説十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経を読経しよう、しばらくは。音の観世音菩薩と二人きりも悪くない。