<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

後の祭り 見捨てたことを後悔している

2018年02月13日 20時06分39秒 | Weblog

園芸店に立ち寄ってみた。カサブランカのユリが発芽したのが、1鉢150円で売られていた。欲しかった。けど、お金が惜しくて買って来なかった。

買って来ればよかったなあ。1鉢でもいいから買って来ればよかったなあ。夏の初め、6月には咲き出して、我が寂しさを慰めてくれるものを。

後の祭り。見捨てたことを後悔している。

ふふ、こうやって、美しいもの価値あるものを、これまでにいったいどれだけ見捨ててしまったことか。

しかも軽々と。

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しかしそれはいずれも根無し草だったのだ 浮き草の人生だったのだ

2018年02月13日 19時44分29秒 | Weblog

今まで生きたことはとどのつまり無駄だったのか?

そういう問いを発すべきではない。自分に向けるべきではない。なぜなら、それには答えが出ないからだ。どうやったら出せるのだ? 

否、無駄ではなかったという答がベストだ。これ以外を出してはならない。

出しておいて、その後に、その証拠固めをすればいいのだ。

これこれこういうものがある。こういうものもある。これだ。あれだ。いくつでも繕うがいいではないか。

だから、畢竟、「今まで生きてきたことは無駄になってはいない」と言うことが結論づけられる、という具合に。

始めから終わりまで無明煩悩の人生だったのである。迷路を迷い続けて此処に至っているのである。ここまで歩き通してきたけれど、およそ仏智見にはほど遠いのである。

威張ってみたりもした。自己満足の酒を煽ったりもした。妥協案を提示しても見た。傲慢の鼻息を吐いたりもした。しかしいずれそれは根無し草だったのだ。所詮が、浮き草だったのだ。

今夜この問いに来ている。袋小路で抜け道がない。

10

わたしは救いを求めて双手を挙げる。白旗を揚げる。仏陀に救いを求める。背中を向けて、逃げて、何度も何度も否定しているくせに。

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それで生きたことになるのか 刃の問いを突きつけられる

2018年02月13日 19時30分42秒 | Weblog

それで生きたことになるのか。問いを突きつけられる。イエスだと応えてみたところで、そのうち雲散するのである。闇雲になる。深い謎が深まる。そしてやはり同じように、「それで生きたということになるのか」という問いが地中から噴出してくるのである。これと向き合う。勝算が見つからない。逃げを打つことになる。

詩人は詩を書く。画家は絵を描く。写真家は写真を撮りまくる。小説家は長編小説を書く。政治家は国民のためにを標榜して走り回る。仕事人は仕事に没頭する。音楽家は美しい協奏曲を作る。宗教家は宗教を弘めることに生き甲斐を感じる。そして、一人になる。問われる。「それで生きたことになったのか」と。彼は口ごもる。

もうすぐ死ぬのである。もうすぐでなくて、もう少し余裕があったところで死ぬのである。死ぬ日は決定しているが、その日を知らされていない。それまでに解答をしておかねばならないのである。覆らない解答をしておかねばならないのである。いい加減に答えたら、すぐにバランスを崩して引っ繰り返ってしまう。何度でもそれを経験してきたはずだ。

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川にネコヤナギが咲き初める頃になっていたのか

2018年02月13日 18時18分44秒 | Weblog

山の際に雪は降りつつしかすがにこの川楊(かわやぎ)は萌(もえ)にけるかも    万葉集 坂の上の郎女

今日は帰郷する高速道にもはらはらと雪が舞い散った。帰って来て新聞を広げたら、この短歌を見つけた。そうか、川にネコヤナギが咲き出す頃になっていたのか。山際には雪が降り続いているが、谷川の隅には春を萌え出させている川楊があったというのである。

季節が少しずつ少しずつ動いている。静かに静かに動いている。そこにいる。そこにいるとわたしのこころまでが動き出しそうになる。

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天満宮と梅と神前花嫁行列 目出度いものを見たものだ

2018年02月13日 18時04分34秒 | Weblog

楼門の下の広場で艶(あで)やかな花嫁衣装に出遭った。花嫁さんと花婿さんの神前結婚式である。拝殿に上がる前に、四,五人の写真屋さんがいろいろなポーズをとらせていた。片手には相合い傘、もう片方は手を結び合っていた。花嫁さんには赤い唐傘、花婿さんには青い唐傘だった。あんまり微笑ましいのでしばらく見惚れてしまった。鼻緒の下駄が雪に埋もれてしまいはしないかと心配した。滅多に見られない目出度いものを見た、いやあ目出度いもの、嬉しくなるものを見たものだ。

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裏手の梅林の梅ははや花が開きかけだった

2018年02月13日 18時00分20秒 | Weblog

駐車場から天満宮拝殿まで梅林が続いている。その内の数本に花房を認めた。まだ蕾といってもいいくらいな綻び具合だった。紅梅も白梅もあった。古木もあった。まさに開き懸けというところで、どれもが初々しい表情だった。まだほんの一部なのだが、それでも梅の季節を迎えたのである。身が引き締まる思いだった。

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親切なお嬢さんが手を引いて下さった 神様の遣いに思えた

2018年02月13日 17時56分33秒 | Weblog

高い丘の上にあるからだろう、防府天満宮の神域は雪に埋もれていた。若い宮司さんが箒で雪掻きをしておられた。歩くところはもうすっかり除雪されていた。駐車場は、迂回した裏手にある。そこを歩いて降りて来る。坂道が凍り付いていた。

お詣りを終えたお嬢さんが、わたしが杖を突いた老爺だからだろう、坂道を下りるところまで同道して下さった。手を取ってくださった。氷のように冷たい手だった。とっさの申し出だった。転ばずに済んだ。なんだか神様の遣いに出迎えてもらったような、あたたかい気持ちになった。いまどき、しかし、親切なお嬢さんがいるものである。勇気が要ったであろうに。

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防府天満宮の拝殿は丹塗りではなかった 丹塗りは中門楼門だった

2018年02月13日 17時26分11秒 | Weblog

何度も訪ねているのに、記憶違いだった。防府天満宮の神殿は、丹塗りではなかった。丹塗りは、中門の楼門だった。鳥居も朱塗りではなかった。太宰府天満宮の記憶と重複させていたようだ。とはいえ、厳(おごそ)かなところ、厳粛な雰囲気は変わらなかった。

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これから防府天満宮に行く 赤い神殿が好きだから

2018年02月13日 09時09分30秒 | Weblog

これから防府天満宮に行く。赤い神殿が好きだから。もう何度も此処へ行く。でも飽きない。防府までは距離がある。お昼までに着けるかな。今朝は雪はない。快晴。空も海もわたしに吐息をつかせる。清らかで颯爽としている。ここの宿の居心地は最高だった。期待を違えなかった。また来る。

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夢って、非現実ですよね。フィクションですよね。

2018年02月13日 05時39分09秒 | Weblog

おはようございます。目が覚めました。夢を沢山見ていました。途中途中覚えています。いろんな人が登場して来ました。悪い夢ではありませんでした、どの夢も。スケールアップして、愉快でした。夢って、いったい誰がえいがはいしんしているのでしょう? わたし本人? それはどうかなあ。疑いを入れたくなります。夢の中の空間も時間もまるで見ず知らずですから。前世を生きたわたしだったら、可能性がありますけど。夢って、非現実ですよね。フィクションですよね。それでいて、楽しめる。便利です。夢を再現する技術があればいいな、楽しい嬉しい、ワクワクウキウキゾクゾクの映画作品に限定して。

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