<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

元気を取り戻した夏の山 山の木

2014年05月15日 14時01分05秒 | Weblog
我が家の庭の片隅に立っている金木犀の、葉の緑が濃くなってきました。黒褐色に見えるほどの強い緑です。

これだけの葉の重なりがこれだけの濃緑をして勢いを付けて来ています。見るからに元気そうだなあと思えます。

木に緑色をした葉があると言うことはそこで呼吸をして光合成をして体内にいよいよ栄養分を貯えていくってことですよね。

われわれを取り巻く四周の万物がこうして元気いっぱい元気溌剌になって行くって光景。これを見るだけでも、こちらにも元気が伝播してきます。



高く聳える木の山の、木がぜんぶこうです。力が剥き出しになっています。隆盛を誇っています。ああ、いいなあと思います。



木は年を取りますよね。年を取りはしますが、葉を見ただけではそれとわかりませんね。皺が寄った葉っぱなんて見かけませんからね。

腰が曲がっていたり、杖を突いたりはしません。

さすがに枝は枯れたままになったり、幹には「うろ」ができてがらんどうになったりもします。



夏が近づいて来て
山の木々が
いよいよ元気旺盛になっている

声なんかたてない決まりになってるのに
もう黙ってなんかいられなくなって
全山の木の葉が声を発している

さわさわさわさわさわ
わさわさわさわさわさ

かさかさかさかさかさ
さこさこさこさこさこ

らさらさらさらさらさ
らまらまらまらまらま

此処でも向こうでも
力に満ちた声を
上げ始めている

これに呼応したホトトギスが
負けじと
鳴きだした

山頂を目指す人間が
汗を掻きながら
喧噪の森の
木の下道を通って行く
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あの方のお返事はさまざまな匂い

2014年05月15日 11時13分44秒 | Weblog
お手紙を差し上げたら返事が返ってくる。

差し上げるときにも快感ホルモン=βエンドロフィンがしきりに分泌したけど、

返事を待っているときにも、

それから返事が返ってきたときにも、ホルモンは分泌されて体中を駆け巡った。



お返事は黒揚羽蝶だった。

わたしのトネリコの

花園の上をひらひら舞った。

差し上げた手紙があの方に届いた証拠だ。

わたしはその証拠を

あの方の愛として読み取ることができる者である。

これに浮かれた。



わたしはこうしてあの方にお手紙を差し上げるのだ。

あの方のお返事はさまざまな種類のお返事だけど、

わたしの蜜蜂は嗅覚でそれを分別する。

野薔薇の匂いがすることもある。

スイカズラの匂いがすることもある。

夏アザミの匂いが放たれていることもある。

みな甘い蜜の匂いだ。

わたしの蜜蜂はわたしのたましいに巣箱を置いている。

収獲される蜜は安らぎという蜜である。

あの方が書かれる文章はいつもきまって、「わたしはあなたを愛しています」。これだけだけど。
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今日はひとりをさみしいと思う

2014年05月15日 10時49分23秒 | Weblog
昨日、安納芋の芋蔓苗が見付かったので20本買ってきた。

帰宅した夕方、畑にたてておいた畝にそれを挿して植え込んだ。

植え込んだのはわたしではない。家族の者だけど。

土が雨で湿っている間がいいと思ってさっそくに。



今日は曇り日。裏の畑の九条葱のまわりに雑草が蔓延っているので、その草取りをせねばならぬ。

僕の仕事はこれくらい。これで気を紛らわすことができるなら、意義がある。

ひとりでいる。

ひとりをさみしいと思う、今日は。どうしてだろう?

昨夜から体調が思わしくないからかな。それで力が湧かない。



フィクションの絵美さんを登場させてきていささかの楽しみを見いだそうと努めているが、なにしろ架空なので、そこから得る楽しみも架空である。



もう一つさみしさを紛らすために一役買っているのがYouTubeのクラシックである。いまはモーツアルトのバイオリンソナタを聞いている。さっきまでビバルデイのチェロ、ベートーベンのチェロ協奏曲を聴いていた。

耳は肥えていない。ただひたすら聴いてひたすらうっとりするだけ。作曲家は拘らない。誰の音楽でもいい。

誰の指揮でもいい。鈍感な耳では違いが分からない。弦楽器が好きだ。

2時間も2時間も3時間も懲りずに聞いている。ときどきこっくりこの居眠りをする。



げっげっげっげ。雨蛙が鳴いている。木の上に登って鳴いているのだろうか。

そうか、そろそろ梅雨時が迫ってきているのか。
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絵美さんがこぼす短い「あ行音」

2014年05月15日 09時22分13秒 | Weblog
絵美さんが「あ」をこぼす。

わたしは「あ」を手の平に受ける。

「あっ」と言ったきり彼女の姿が瞬間わたしの視界を消える。

雨を含んだ温かな風が漂着する。

絵美さんがもう一度現れてきて、「え」をこぼす。

わたしは「え」を吸い上げる。

彼女がベッドから消える。

薄衣を着て現れる。

わたしは抱擁する。

絵美さんは溜息の「う」をこぼす。

潤いに満ちた「う」にわたしはうっとりする。

絵美さんがこぼす短い「あ行音」はどれもすべて絵のように美しい。

わたしの庭の美しいコクリコの花の音。
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絵のように美しい絵美さんに会いたい

2014年05月15日 08時58分16秒 | Weblog
お天気がさっぱりしません。灰色の雲が垂れています。



わたしは絵美さんに会いたいのです。絵のように美しい人、絵美さんに。



会って、おまへ、それでどうする?



へ。どうもいたしません。うっとり眺めているほかにどうすることもできません。



老齢のおまへがうっとり眺めていてもそれは醜悪な怪奇であって、そこには美しさがない。

迷惑がられるだろうな。二度と現れてきてはもらえないかもしれないな。

へ。そうかもしれません。



わたしA と わたしB が会話を交わしている、いつものことだ。ほかに交わす相手がいないのだから。



波長を合わせてもらわないとこころは通わないんだぞ。

へ。ごもっともで。



あれこれの詮議のその前に、することがあります。絵美さんが存在しているかどうかを確かめる作業です。

存在しているとしても、何処にその接点があるのか。

わたしにとって彼女は何者なのか。



笑っちゃった。おまへの絵美さんとはそれくらいの実現性皆無の絵美さんだったのか。

へ、それくらいがいいのであります。



絵美さんは、今はコクリコの花です。わたしの目の前で風に揺れています。絵のように美しいのでわたしはこれを絵として眺めているきりです。

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助かる助からないはわが不安の虚構概念

2014年05月15日 08時42分22秒 | Weblog
「助かってみれば助かることもいらなかった」という詩を読んだことがあります。妙好人的な発言ですね。



助かる助からないは、あくまでも不安の概念世界。虚構界。



相手を許す許さないの判別があくまでもわたしの自己判別の虚構界であるのと同様に。

<みなわたしたちは許されている>立場に立っています。

許されている立場で、許すだの許さないだのと言っています。



わたしたちは根本的に根源的に、一から十、助かっているので、助けて下さいの要求が不要なのです。



それが直感できるのが宗教の醍醐味です。

助かるが宗教です。たったそれだけです。



助かってどうするか。助かったらそれでどうなのか。何が助かっているのか。これも一切不要な質問です。

そんなこと知ったことか、です。

信心は絶対他力。おまかせです。自己を放擲します。かなぐり捨てます。

わが計らいを計らわず。大きな大きなおはからいにゆだねてそれで安心して、お終いにします。



いやはや、しかし、以上書いてきたこともこれも邪推の域を逸脱できていないのですが。
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なぜ時間の電車に乗っているのか

2014年05月15日 08時16分42秒 | Weblog
おはようございます。

わたしは<時間の電車>に乗っていますから、どんどん<過去のわたし>地点が遠くへ遠くへ追いやられていきます。

走る電車の窓の外に<現在のわたし>が広がって見えています。でもほんの一瞬です。

電車は未来へ未来へと進んで行っています。



その間にいろいろの出来事が起こりました。みなバラエテイに富んでいます。それを感覚する感覚器官がさまざまな反応をしています。

でもこれらの出来事には停滞がありません。流れの速い急流です。悲も喜も流れ去って手元には残っていません。

みな変化して止まないのです。



わたしの死ももちろんこの一瞬の変化に過ぎません。死も死として一時たりとも固定しているわけではありません。

次へ次へ動いていきます。

恐がっていても強がっていても一瞬です。



この時間の電車の壮大な仕組みがいったいぜんたいどうなっているのか。どうやって構成されているのか。

何のためなのか。これが意図的なのか。何の目的があるのか。

どうしてわたしがこの電車に乗っているのか。

これを動かしているのが何であるのか誰であるのか、人格を持つ者なのか、非人格のおらんおらんばあなのか、わかっていません。

時間の電車の終着地点は何処なのか。終着なんかしないでただただ突き進むだけなのか。

ともかく時間の電車のスケールがあまりにも大きすぎて、わたしの小さな目には見えていません。
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