<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

魔法使いのわたしを楽しむ

2014年05月17日 14時16分53秒 | Weblog
わたしを
小さくすると
いくらでも小さくなるが

わたしを
大きくすると
わたしはいくらでも大きくなれる

小さくしなけらばならないということもなく
またその反対に
大きくしていなければならないということもない

自由でいい
気ままにしていていい
拡大するのも縮小するのも
その人の度量次第だ
変化するわたしとはおもしろいわたしだ

小さくして気が滅入りそうなときには
空気を入れてふくらませて
大きくすればいい
ゆっくりできるところまで
大きくすればいい

大きすぎて
人間が豆粒大にしか見えなくなったら
空気を抜いて
地上まで降りてきたらいい

大小に変化できるわたしとは
魔法使いのようなわたしだ
その魔法使いのわたしを
楽しめばいいのだ
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わたしの後ろ後ろ後ろにいる大きなわたし

2014年05月17日 13時17分44秒 | Weblog
肉体に目がある。耳がある。

口がある。喉がある。喉には声帯がある。これで声が出る。

声を耳で聞くことができる。聞くばかりか、目で見ることもできる。

肉体には皮膚がある。肌がある。肌で触れることができる。



こころにも全く同様同一の物があって、こころの目、こころの耳がある。

こころの口がある。喉がある。喉には声帯がある。

こころと肉体は二重写しになっている。

こころのしたいことが肉体の各器官に伝達される。これで動きが出る。



肉体だけがわたしなのではないのだが、指がわたしを指さすときには、肉体だけになってしまう。

肉体のうしろにはこころがまわっているので、こころをも指していると考えていい。

だがそのうしろにまわっているもう一つのわたしがいるのにも気づいて欲しいのだ。

第三のわたしだ。

そのうしろにまわっているのもやはりわたしだ。これは第四のわたしだ。



第三のわたしはたましいのわたしだ。第四のわたしは霊(霊体)と呼ばれている。

第五のわたしの意識体もわたしのうしろにまわっている。

こうやって次々にわたしのうしろにまわっている大きなわたしがいる。連なっている。

意識体の背後には共通意識体が控えている。これもわたしだが、わたしを主張する割合が薄くなる。



こんなふうにわたしはわたしを観察しているが、これは重層体をなしているわたしが判断したわたしだ。

肉体が最前部に位置しているので、肉体がわたしを代表しているように見えるが、(たしかに代表なのだが)、うしろへうしろへ辿っていくこともできる。

こうしてわたしをうしろへうしろへ辿って、第十のわたしくらいまで行くと、わたしというのは想像を遙かに超えて実に大きいと言うことが分かってくる。

もうわたしとわたし以外の境目がなくなってしまうところまで辿っていくこともできる。



円錐のようなものだ。長い長い円錐形だ。無限大に近い円錐形が宇宙に向かって開いている。

円錐の最先端に鉛筆の芯のようなものがある。これが肉体だ。

これがものを書く。人生というものの字を書き、絵を描く。

途中、太陽の位置ほどのところに、鉛筆を握っている手に相当するものがあるが、その手の持ち主の図体はもっともっと大きい。



安心をしていいということを言いたいのだ。

より大きなもの、それよりより大きなもの、それよりもっと大きいものという具合に繋がっているので、わたしの円錐形のいのちの最先端の、その小さな挙動くらいで不安にならないでいいということを言いたいのだ。

分かり易く言うと、万有引力ということだ。

第一、第二、第三・・・より大きなわたしに至るまですべてのわたしが引力で引き合っているので、恐がらなくともいいと言うことだ。
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幾ばくかの真理を含んでいれば

2014年05月17日 10時36分24秒 | Weblog
この世は、どんなふうに見てもいいのでありますから、
わたしは、わたしの都合のいいように見ています。
わたしの都合のいいようにというのは、わたしがよろこぶように、ということです。



ここでは、そう長い間を生きているのではないのです。
であるなら、尖った口をして問い詰めているきりでは、もったいないのです。
悲しい眼をして悲しんでいるのもそれもそれで正当だろうけど、そうしないのも正当なんです。



よろこびの野原に居て寝転がって、
よろこびの風に吹かれていると、
一寸大のわたしのこころはとろりとろりと蕩けます。



風は五月の風、田圃では麦が熟れています。熟れた麦の匂いが広がります。
麦の熟れた匂いは人間を健康にします。わたしはそこを歩きます。健康を回復します。
これも都合のいい自己解釈ですけど、幾ばくかの真理を含んでもいるのです。
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甘ったるい声にとろとろ蕩ける

2014年05月17日 10時17分37秒 | Weblog
絵美さんの声は甘ったるい。糖度10の西瓜のよう。

わたしは声を適当な大きさに割って、声の西瓜をしゃぶる。

しゃぶりきれなかった分はタッパーに収めて保存をする。

ときどき、さみしいときに蓋を開けて取り出すと、ぱっと明るくなれる。

甘ったるい声がふたたび放たれて拡散する。

わたしはそれだけでもうとろとろに蕩けてしまう。



絵美さんからいただいた塗り薬がある。

痛むときに痛みを止める薬だ。

小さな円い容器に入っている。

もう残り少なくなっているので、絵美さんにもう一度会いたい。

絵美さんはこれをこっそり渡してくれたのだ。

どこでどうやって捏ねたのかしらないけど、よく効くのだ。



絵美さんはよろこびの野原のコクリコ。

コクリコの赤い花。

見た目だけではそんな神業とは無縁のようだけど、なんのその。

なんでもしてみせる。

わたしのこころの解放のためならなんでもしてみせる。

美しい絵でありながら、行動をする。
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光を浴びてわたしは輝いている

2014年05月17日 09時16分57秒 | Weblog
わたしはここで、まばゆいばかりの光を浴びています。これだけの光を浴びているのだから、わたしはまぶしがっています。そして当然きらきらにひかり輝いています。

輝かせているのは、だあれ?

ここは地球ですから、答は太陽ということになります。太陽が燃えていてそれが光に成ってここ地球まで長い長い旅をして届いて来ています。

でもそれは装置に過ぎません。輝かせるための装置が出来上がっているということです。と言う風に解釈すれば、その壮大な装置をしたのは、だあれ? ということになります。

そしてそれはなんのために?

誰のために?



わたしはわたしに答えます。

それはね、わたしのためにであり、わたしを輝かせるためだったのだよ、と。



では、わたしを輝かせているのは? 

これはね、わたしが大好きな人。わたしを愛している人で、わたしも愛している人。

でも人の形はしていない。形は人ではないけれど、人のこころがある。人のたましいがある、意識がある。

宇宙いっぱいに広がっている巨大意識の意識体。

巨大意識の宇宙一杯の意識体が、わたしを輝かせるための巨大装置を創造したのだ。あるだけの知恵を働かせ工夫に工夫を重ねてね。



で、そこへわたしが登場したわけだ。登場しただけでも価値があるわたしだ。大切に丁重に迎え入れられ、その後も大切に丁重に扱われている。

わたしは、では、それだけの大がかりな装置の意図を汲んで、一生を輝き通して、それでどうなるんだろう?



巨大意識の意識体は、目的が達せられたのだから当然大喜びをする。



そして輝いたという業績で以てわたしは神がかる。

巨大意識の意識体をさらにもっと大躍進させる知恵を授ける存在になる。そして宇宙神殿に祀られる。

わたしはロゴスの権化になる。



・・・などと童話めいた話になってしまったけれど、それは過剰な想像なんだけど、わたしはこの壮大な愛の装置で発光される光を浴びて輝いているというのには、深い深い理由があるのだ。それを思っているだけでもわたしはほほえみが零れてしまう。



まとめよう。

1,わたしは光を浴びている。
2,光を浴びてわたしはかがやいている。
3,きらきらしているので、まぶしくてならない。
4,まぶしくてならないほどのわたしになっていることに驚きを禁じ得ない。
5,かがやかせている装置当体と話ができるようになる。
6,かがやかせられて、その通りにかがやいた業績が認められる。
7,わたしが今度は巨大意識の意識体をかがやかせる役割を演じる。
8,わたしは神がかる。
9,そこまで来てやっとわたしはわたしの自己尊厳を覚知する。
10,わたしはもはや輝かせられなくとも自らで輝いている。


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