34年前に亡くなった僕の叔父は父のたった一人の兄弟で、90歳まで生きた父とは対照的に、まだ60代で他界した。叔父は東京の板橋に住んでいたが、亡くなった時、ちょうど僕は東京在勤中だったので葬儀には父とともに参列した。叔父は若い頃、野球の名選手として鳴らしたという話は父から聞いていたが、具体的にどんな選手だったか詳しく聞いたことはない。父も14年前に亡くなったので、叔父についての情報は途絶えた。数年前、急に叔父について調べてみたくなり、出身校の九州学院に問い合わせてみたが、何しろ昭和初期の頃であり、記録は残っていないとの回答だった。
父が書き遺した備忘録によると、叔父は昭和2年に尋常小学校を卒業し、特待生として九州学院に入学。(野球の名門校として憧れていたらしい。)入学と同時に野球部に入り、キャッチャーとして頭角を表し、5年生の時の足立-柴田のバッテリーは県下随一と評価されていたという。当時、熊本には社会人野球の「オール熊本クラブ」があり、中学出の優秀プレーヤーを確保するため、地元の官庁や企業などへの就職を当局が斡旋していたらしい。叔父はこのルートに乗り、昭和7年、卒業と同時に熊本市役所に就職した。その後、社会人野球の国鉄鳥栖鉄道管理局にスカウトされ移籍した。移籍の詳しい経緯はわからない。
最近、この叔父の情報について新しい展開があった。実はこのブログを見ていただいているMさんからメールをいただいた。その内容からMさんが九州学院のOBであることが判明。しかも、僕よりも随分年長でいらっしゃる。ひょっとして何か手掛かりがつかめるかも知れないと思い、事情を説明しておたずねしてみた。するとMさんから同窓生の方からの情報などをいろいろ送っていただいた。僕にとっては初めて知る事ばかりだ。ほとんどあきらめかけていた叔父の実像調査に新たな希望が湧いてきた。Mさんには感謝感謝である。
父が書き遺した備忘録によると、叔父は昭和2年に尋常小学校を卒業し、特待生として九州学院に入学。(野球の名門校として憧れていたらしい。)入学と同時に野球部に入り、キャッチャーとして頭角を表し、5年生の時の足立-柴田のバッテリーは県下随一と評価されていたという。当時、熊本には社会人野球の「オール熊本クラブ」があり、中学出の優秀プレーヤーを確保するため、地元の官庁や企業などへの就職を当局が斡旋していたらしい。叔父はこのルートに乗り、昭和7年、卒業と同時に熊本市役所に就職した。その後、社会人野球の国鉄鳥栖鉄道管理局にスカウトされ移籍した。移籍の詳しい経緯はわからない。
最近、この叔父の情報について新しい展開があった。実はこのブログを見ていただいているMさんからメールをいただいた。その内容からMさんが九州学院のOBであることが判明。しかも、僕よりも随分年長でいらっしゃる。ひょっとして何か手掛かりがつかめるかも知れないと思い、事情を説明しておたずねしてみた。するとMさんから同窓生の方からの情報などをいろいろ送っていただいた。僕にとっては初めて知る事ばかりだ。ほとんどあきらめかけていた叔父の実像調査に新たな希望が湧いてきた。Mさんには感謝感謝である。