今回の台風18号による大雨で、関西各地でも、河川の氾濫による浸水被害が相次いだ。中でも、京都の名所嵐山の渡月橋が桂川の濁流に呑み込まれそうな映像を目にした時は、全身が固まった。関東在住の知人の方がそれを見て愕然とされ、大阪も避難勧告が出ているようですが大丈夫ですか…と安否を気遣うメールをくださった(ありがとうございました)。
また同じ京都の福知山市も大雨の甚大な被害が出た。ここはちょうど1ヶ月前に花火大会で露天商のガソリンによる爆発死傷事故があったばかりで、何とも不幸な出来事が続く。福知山には以前、次男が数年間住んでいたこともあって僕たちも何度も訪れ、また福知山マラソンにも数回出たことがある馴染みの土地だけに、家屋の被害や農作物の壊滅的打撃を受けられた地元の皆さんの姿には、心が痛んだ。
僕のところは、前回のブログの冒頭で、外は台風の影響で激しい暴風雨だ…と書いたけれど、ブログをアップした午前7時半から後は、ずっとテレビの台風情報をつけていた。すると、外で何やらマイクの声がするので耳を澄ますと、「こちらは消防団です。先ほど、大和川が危険水位を越えました。〇〇小学校と〇〇中学校を避難所として開放しております」ということであった。地域の消防団がこういう“おふれ”を出すのも、長年この町に住んでいるが初めてのことである。
大和川はわが家のすぐそばである。その堤防が僕の毎日のジョギングコースであることは、このブログでも何度も書いている。その大和川の水位が危険なくらい上がっているというのだ。…しかし、考えてみたら、大和川ほどの大きな川が氾濫するというのは、よほどのことがない限り起こり得ないだろう。とりあえず「心配いらないよ」と、妻やモミィに言い聞かせて、注意深く様子を見守ろうと、腰を落ち着けてテレビを見続けた。でも、やっぱり気にならなかったといえば嘘になる。落ち着こうと思っても落ち着かない。
そこで、幸い雨が小降りになっていたので、強風の中、僕は走って大和川の様子を見に行った。堤防には、何人もの人たちが川の方を見ていた。僕も堤防へ上がり、川を見たら、想像していた以上に水位が上がっている。大和川を毎日のように眺めている者にとって、ぞ~っとする光景だ。テニスコートや少年野球のグラウンドも完全に水没し、河川敷に生えている大きな樹木の緑も、上のほうしか見えなかった。たしかに大和川の様相は一変していた。
…しかし、それはあくまでも「ふだんに比べて」のことで、水が堤防ギリギリにまで迫っているわけでもなく、まだ余裕はあった。これならまあ大丈夫だろ、と思いつつ、帰宅して妻とモミィにそう報告した(後でわかったことだけれど、他の地域では堤防ギリギリまで水が迫っているところもあった)。
僕は万一の場合に備え、急いでお握りを作ったり、貴重品や必要なもの…たとえば僕にとって欠かせない薬などをリュックに入れたりして、いつでも避難できるようにした。テレビに加えて、ラジオもつけた。何しろモミィがいるので、念には念を入れなければならない。
空が明るくなった。風はまだ強かったが、雨はもうどこかへ行ってしまった感じだ。…が、油断は禁物。ここでは雨が降ってなくても、大和川の上流は奈良県だから、そちらで大雨が降っていればさらに川が増水することも十分考えられる。そう思っていた時、テレビに流れた字幕を見て、あっ、と声を上げた。
「大和川が氾濫の恐れがあり、大阪市の4つの区の約30万人に避難勧告が出された」とのことだった。しばらくして、今度は大和川をはさんでわが家の真向かいにある八尾市の太田、沼という所でも、同じく大和川が氾濫の恐れがあるとのことで避難勧告が出された…という字幕が出た。そこは大和川をはさんで、もう本当にわが家と目と鼻の先の場所なのである。僕らの住んでいる地域にも、もしかして避難勧告が出るかも知れない。しっかり心の準備をしておこう。
しばらくの間かなりの緊張が続いたけれど、それ以上の情報は入ってこなかった。そしてようやくお昼になり、消防団の巡回車が来て、大和川の水位が下がり始めたことを放送した。やれやれ、今度こそ一安心…と胸をなでおろした。
ふだんの大和川は、最高のジョギングコースとして心を癒してくれる。
しかしこの日は河川敷の木々も水没し、頭だけがわずかに見えていた。
(この写真は、今年の5月に撮影したものです)
大和川に恐怖を感じたのはこれが初めてではなかった。思い出すのは1982年(昭和57年)のことである。その年の7月末から8月初めにかけて、台風と集中豪雨が相次いで大阪周辺を襲い、僕たちは近所の人たちと一緒に市民会館へ避難したが、自宅が床上浸水するという人生でただ一度の浸水被害に遭った。この時に最も大きな被害を受けたのが、僕が勤めていた松原市だった。その被害状況の大きな写真が新聞の一面にデカデカと載ったほどの惨状だった。
僕は自宅の床上浸水で、妻と小学生だった息子たちと4人であわてて避難する騒ぎの中で、そこからまた出勤して松原市職員の一人として緊急事態の対応に追われた。僕は、総務課で市民からの電話を受けてそれを各担当課に連絡するという任務を申し付けられ、次々と市民の悲鳴、苦情、怒りなどが寄せられ、頭がパニックになったほど、てんてこ舞いであった。それからしばらく、僕は電話の恐怖症になった。で、その時も、大和川が氾濫したわけではなかったが、今回よりもっともっと水位が上がっていたような記憶がある。とにかく、当時のその雨は「60年に一度の大雨」と言われたものだった。(最近は「経験したことのない大雨」と言われた雨もありましたが)
今回の出来事で、夢になりかけていた31年前の記憶までよみがえってきた。できれば二度と思い出したくなかった出来事だったけれど…。
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