猫のキキとヒゲおじさんのあんじゃあない毎日

『あんじゃあない』って、心配ない、大丈夫っていう群馬の言葉、いい歳こいたキキとおヒゲのどうってことない前橋の暮らしです

父の命日、独りで墓参をし、猫たちに会って、独りでお浄めしてました…

2018-01-17 06:44:36 | あんじゃあない毎日

昨日は私の父の祥月命日、亀泉霊園にある墓所へお参りに行きました。
その帰り道、西片貝町の上毛電鉄沿いの家の庭を撮った写真です。ブロック塀の向こうを金属音を響かせて電車が通り過ぎて行きました。塀の下では、猫がのんびりと毛づくろいをしてました。

 こんな猫です。尾っぽがぐるっと一巻きしている巻尾猫なんです。知ってるんです。時折会うものですから。

父の名は恭平、1994年1月16日、88歳で他界しました。もう24年経ちました。福島県飯坂町(今は福島市)で醤油の醸造・販売、呉服の販売などを家業とする商家に生まれました人でした。福島中学から宇都宮高等農学校(現宇都宮大学農学部)に進み畜産学を学んだんだそうです。

 

  墓所に向かう時に通った上泉田んぼ、麦がゆっくりと成長しています。もう麦踏みが始まっているみたい、麦が地面に押しつぶされていました。

高農を出た父は、最初は埼玉の農学校の教員をしたらしいのですが、その後、乞われて長野県の伊那の農学校、茨城県の結城の農学校と、次々と移ってたみたいです。それは、畜産の専門教員が少なかったのが原因のようで、あちこちから来てくれって声がかかったみたいです。
それで、1942年、群馬の勢多農林学校に招かれて前橋に移り住んだんです。

 当時の勢多農林学校の正門の写真です。父が指導した勢多農林学校第32回生(1943年4月入学)記念誌『風雪』からお借りしました。
この正門の左右に桜並木があったのを少し覚えています。
戦時下の農学校は、学校での勉強ではなく、食糧増産のための援農に生徒も教員も駆り出されていたようです。北海道まで長期間の援農に出かけていた話を聞いています。大変な時代だったんです。

  桃ノ木川を渡っていたら、上流を上電の電車が走り抜けていきました。曇り空、赤城山は青一色でした。空にはトビが舞ってました。
そう、電車が走っているその向こうの方に、勢多農の上泉農場があるんです。

 前橋に来た家族は、最初は紅雲町で借家、それから高田町(現文京町)の借家に移ったみたいです。私は、1945年4月に高田町で生まれました。
それから、空襲を避けるために、勢多農林の上泉農場の納屋に疎開したんだそうです。写真は当時の上泉農場です。この農場は1940年に開設されたもので、当時は施設も整っていなくて、納屋は「バラック」だったそうです。

 

  亀泉の霊園も薄雲の下でした。昨年末に姉が掃除してくれていましたし、正月には姉の娘家族がお参りしてくれたので、墓所はきれいになっていました。花を供え、香を焚いて…

物心ついたころの父は、いつも卓袱台で書きものをしていました。畜産の教科書、『うさぎ』、『養鶏図覧』、『豚舎の設計』…、畜産の技術書なんかを執筆してたんです。丸ペンやガラスペンを使って図版を書いている姿をよく覚えています。
遠い昔の記憶です。
父は自分の気持ちをあまり話さない人でした。それなので、あちこちしてこのまちに流れ着き、学制の変化でもう他所に行けなくなって、この地で生涯を終えたのですけれど、そのことについてどんな感慨を持っていたのかを知りません。ひょとすると、父は自らの人生を問うことなく逝ったのではないかなと思ってもいます。

帰り道に出会った猫です。
「おまえはさ、自分の人生、猫だから人生でなく猫生なのかな、どっちでもいいけどさ、自分の人生か猫生の意味を思い計ったことがあるかい?」
<………………………………………………>
質問が少し難しかったみたいです。

   いろんな猫に出会いました。
でも、もう人生に関する質問はしませんでした。きっと、父は人生の意味を問うことの空しさに気付いていたんだということにしといた方が素敵な気がしてきたからです。

 最後に出会ったのが巻尾猫だったんです。

 

 ユキ子さんは東京へ出かけたので、今年は独りの墓参でした。家に戻って、独りのお浄めは、豪華な五色うどんにしました。
上の左は大根おろしにグリーンレモンで薬味は柚子コショウ、中は炒り卵で薬味は一味唐辛子、右はとろろで薬味はわさび、下の左はボローニャソーセージとピーマンで薬味は粗挽きコショウ、右は舞茸とピーマンで薬味は七味唐辛子、以上です。温ためた汁でいただきました。

教員を辞めてからは、教育や農業に関する仕事には一切手を出すことなく、28年間油絵を描き暮らしていた父のことを想いながら、のんびり独りでうどんを食べました。
父が描いた絵の中に、福島の風景や福島の人々の姿を観た記憶はありません。前橋のまちの風景はたくさんありました。なぜかな…

 

広東橋から見た落日です。
養田鮮魚店へ行って魚を分けてもらって、家で料理しました。できたのをユキ子さんの両親のところへ届けたときに見たんです。

 『風雪』に掲載されていた写真です。前列の右から二人目が父、恭平です。40歳を過ぎたころだと思います。
「恭平先生によく似ておられますね、そっくりです」、県庁に就職したてのころ、父に畜産を教えてもらったという方から言われました。

 お届けしたのは、マグロとヒラメの刺身、蒸したアンコウの肝、野菜たくさんのアジの南蛮、ウドの酢味噌和えです。

 きれいな夕日でした。

 

 そうそう、昨日のこの写真、アート作品であるか、もしくはアート作品の移動途中であるか、そのいずれかだと確信できました。
小野田賢三さんというアーティストの仕事です。昨年、県立近代美術館で開催された『群馬の美術2017』に、同じ素材を使った作品が出展されていたことを確認したので、間違いありません。ART NAVIの『群馬の美術2017』を参照ください

 

 

 直派若柳流の若柳糸駒ことユキ子でございます。
祖母の初代若柳吉駒、そして伯母の二代目吉駒の下で修業して参りました。
初代吉駒が始めた美登利会は、来春で75回目の節目を迎えます。予定通り、4月8日に開催いたします。
亡くなりました二代目吉駒の遺志と教えをしっかり守って、一生懸命つとめてまいりますので、これからも引き続きよろしくお引き立ていただきますようお願い申し上げます。

今春の第74回美登利会の舞台の様子はコチラでご覧になれますす
お稽古場は前橋市城東町四丁目です。詳しくはコチラをご覧ください

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