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学校教育はどう考えるべきか

2011年02月28日 | カ行
 授業がつまらないと先生を責める意見は好く聞きます。それを誰かが投書などすると、生徒にも問題があるという反論と、好い先生もいるという反論の為されることが多い、と思います。

 スクラップを整理していたら、かなり典型的なやりとりがありましたので、それを引きながら、私見を述べてみたい。

 01、本当の授業を見せてほしい(横浜市の18歳の高校生Mさんの投書)

 私は、高校の授業の質の低さに不満を抱いている。学校の授業は本当につまらないものが多い。私たちは、与えられたプリントの空欄をただ埋めていったり、先生が英語の訳を言うのを必死になって書き取ったりする。このような授業では自分の頭で考えないから、当然興味がわかない。

 そもそも知識を得るために勉強するのではなくて、興味あることを知るための道具こそが知識なのだ。だから先生の一番大事な役目というのは、学生の興味を引き出すことであって、知識そのものを説明するのはその次の話だ。

 教科書を使わないで授業をする社会科の先生がいる。その先生の授業ではデイベートをしたり、調べものをしたり、先生の話を聞いたり、とにかく楽しい。みんなの顔が輝く。私も自然と知識で頭が満たされている。本当の授業ってこういうものをいうのだと思う。

 生徒があいさつをしても無視する。授業の声は小さくて聞こえない。教師の質の悪化はすさまじい。学生本位の教育について、大人はもっとちゃんと考えてほしい。高校生の私にこんなふうに言われる先生たち大人は、恥ずかしいと思わないんですか。(朝日、2003年01月25日)

 感想

 典型的な意見でしょう。「本当の授業」をしている先生もいるが、そうでない先生の方が圧倒的に多い。そういう先生は恥を知れ、ということでしょう。

 これはおおむね事実と言って好いと思います(特に高校ではそうだと思います)。これを否定するような人は現実を知らなすぎると思います。

 さて、この事実を確認したとして、次にどうするか。Mさんは新聞に投書して、「そういう先生は恥を知れ」と叫びました。なぜそうしたのでしょうか。先生本人が悪いからだと思ったからでしょう。これで事態は改善するでしょうか。否。なぜでしょうか。先生本人が悪いという認識が間違っているからです。

 学校教育を考える時のほとんどすべての意見の根本的間違いは、「学校教育は個々の先生が行うものではなくて、校長を中心とする教師集団が行うものである」ということを知らない事です。多くの学校で校長がいかに堕落しているか。そして、更に、教育長がいかに堕落しているか。国民は無知すぎます。

 Mさんは社会科の先生を褒めていますが、その社会科の先生もこれを教えていないようです。これでは困ります。社会に出たら、多くの事は組織を単位として行われることに直面します。従って、組織というものをどう考えるか、社会科の先生はしっかり教えなくてはいけません。私見によれば、「組織はトップで8割決まる」ということと、なぜそうなのかということと、規律とは何かということが一番大切でしょう。

 Mさんも「堕落教師を好くするのは誰の仕事だろうか」と考えて見ると、面白かったでしょう。それは校長の仕事です。従って、Mさんは、本当は、まず校長に訴えて見るべきだったのです。もしそうしたとしたら、多分、答えに成らない答えが返ってきたでしょう。すると、今度は「こうい『生ける屍』みたいな校長を指導するのは誰の仕事だろう」と考えます。それは教育長の仕事です。そこで、教育長に訴えてみます。すると、教育長は校長をかばうでしょう。今度は、「こういう教育長は誰が選んだのか」と考えます。それは首長が任命したのです。そして、そういうことをした首長を選んだのは市民だということに思い至ります。

 しかし、首長の選挙の時、教育長をどうするかが話題になる事はほとんどありません。ではどうしたら好いでしょうか。統一地方選挙も間近です。

 少し先走りすぎました。「校長に言うべきだ」と進言しても、誰も実行しないでしょう。なぜか。日本の学校では校長を天皇視する雰囲気のあることが原因でしょう。個々の教師を批判する生徒や保護者はいても校長を批判する人はほとんどいません。校長もそれをいいことにして、「自分の学校運営や先生に疑問を感じたら、私に言ってください」とは言いません。つまり、市民の臣民根性が問題なのです。

 私は、大学の授業の中で、「学生の第1の義務は、学長の大学運営を批判的に検討することである」と言い、「大学は学問の府である。しかるに、学問の大前提は、『全てを疑う』ことである。学長の大学運営を疑わなかったら、『全てを疑』ったことにならないではないか」と説明します。誰も実行してくれません。一部の学生は、「学長批判をする先生は嫌いだ」と、出なくなります。やれやれ。

 02、山形市の高校生のSさんの意見

 高校生の「本当の授業を見せてほしい」を読んでから、ずっと考えた。私も「授業ってもう少し面白くなんないのかな」と思っていた。しかし、センター試験を受けてみて、面白いだけでは、限界があったのではないかと思う。

 義務教育で覚えた基礎しか入っていない私たちの頭に、大学受験に対応できる学力をたたき込むのは容易なことではないだろう。とにかく時間がないのだ。しかも学校5日制の導入でますます授業時間が短縮された。先生も長年授業や受験と向き合ってきてこその授業をしているはずだ。

 もっと興味がわく授業にしたいなら、生徒自身が意見を言い合えばいい。もっと知識を深めたいなら、待っているだけではなく、自分から先生に会いにいくべきだ。もっと知りたい、という生徒に教えてくれない先生はいないのだから。

 今、高校で手をあげる生徒はほとんどいない。授業をつまらなくしているのは「つまらない」と嘆いている私たち自身ではないだろうか。もう授業がない今になって本気でそう思う。(朝日、2003年02月03日)

 感想

 これも典型的な反論です。先生も悪いが生徒も悪い、というものです。この考えは正しい面もありますが、根本的には間違っていると思います。なぜか。授業の質を決める事で先生と生徒の責任の度合いは決して半々ではないことを見逃しているからです。ではその度合いは本当はどうでしょうか。

 先に述べた通り、「組織はトップで8割決まる」のです。つまり、この場合では「授業は先生の実力と情熱で8割決まる」のです。断っておきますが、この場合、校長がしっかり教師集団をまとめていることは前提されています。

 もうひとつ、教師と生徒の責任の度合いを考える際に忘れてならない事は、「サーブ権は先生にある」ということです。あくまでも、まず先生が好い授業をすることが先です。その場合にのみ初めて、生徒のレシーブが適当かが問題になります。サーブがコートの中に入っていないのでは、レシーブのしようがありません。生徒が質問しないのも、手を挙げないのも、先生のサーブが悪いからです。

 03、神奈川県の高校教員Wさんの意見

 「本当の授業を見せてほしい」を読み、胸をえぐられる思いがした。教員となって30年以上になるが、正直言って「うまくいった」と思える授業は年に数えるほどしかない。これも、生徒たちが「本当の授業」と受けとめたかどうかはわからない。

 どうすれば良い授業を作れるか、同僚の教員と何回も議論しながら、教材研究に取り組んだこともあった。今でも「わかって楽しい授業」を目指し様々な工夫を試みているつもりだが、空回りすることが多い。生徒から酷評されることもある。授業中に漫画を読んだり携帯電話とにらめっこしたりしている生徒もいる。授業から「逃走」してしまうのかもしれない。

 「高校生の私にこんなふうに言われる先生たち大人は、恥ずかしいとは思わないんですか」と鋭い問いかけを発しているが、恥ずかしいけれど、すぐには答えを出せないでいる。このように書くと、「指導力不足」のレッテルを張られてしまいそうだが、多くの教員仲間との実践交流や研究活動を重ねながら、本当の授業、本当の教育とは何かを追求していきたい。(朝日、2003年02月04日)

 感想

 これも典型的な意見です。教師全体がどうかを見ないで、「私はこうしている」という意見だからです。これでは何も解決しません。先生がこれでは希望がありません。


 牧野紀之の浜松市長選への仮立候補宣言
コメント
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