マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

自信過剰バイアス

2011年03月01日 | サ行
    勝間 和代(経済評論家)

 「行動ファイナンス」という学術分野があります。

 これは、人間が合理的存在であるという前提を否定し、さまざまな感情的バイアスがかかったなかで金融行動の意思決定を行っているとする考え方です。

 例えば、なぜバブルが生じるかについての論拠のひとつに、「自信過剰バイアス」と呼ばれているものがあります。

 これは、人は自分の能力を、客観的な見方より高く見積もる傾向があるということです。平たく言うと、ほとんどの人は自分の能力を、その人が所属するグループの平均よりも優れていると考えているのです。

 だからこそ、統計的には負けるとわかっている競馬やパチンコにも、自分だけは勝てると思って手を出してしまいます。また、専門家がしのぎを削っている株式市場でも、自分だけは、みんながまだ気づいていない、割安な銘柄を見つけられると勘違いしてしまうのです。

 この自信過剰バイアスについては、オプションの計算式であるブラック・ショールズモデルを開発したことで著名な米国の経済学者、フィッシャー・ブラック氏が1986年に論文の中で指摘し、その後もさまざまな追試が行われています。

 日本で行われた実験では、運転免許を持っている人のグループで、自分の運転テクニックがそのグループの平均より上か、平均並みか、下かと各人に評価してもらうと、統計的にはあり得ない、7割の人が「上」と答える結果になりました。

 実はこのバイアスは、私たちがついつい他人を批判しがちになることにもつながります。すなわち、他人の行動を見て、自分がもし同じことをすればよりうまくいくと、自信過剰になってしまうからです。

 しかし実際には、当たり前のことですが、株式市場や運転テクニックと同じく、自分でやってみると意外とうまくいかなかったり、初心者のうちは平均以下だったりします。

 自分は無意識のうちに常に自信過剰になっている──このことさえ理解していれば、他人に対して過度に批判的にならず、自分に対しても、うまくいかなかった場合にむやみに落ち込まずに済むと思います。心の安定剤として、ぜひ、覚えておいてください。

 (朝日、2011年02月26日)

感想

 「人間は誰でもナルシストである」という説を聞いた記憶があります。これはそれと同じなのではないでしょうか。私も同じようなテーマで論じたことがあります。題して「幻想を持つ権利」。以下の通りです。

幻想を持つ権利

 鶏鳴学園の生徒に川口はじめ(筆名)という人がいる。方言のことが話題になった折に、「川口さんは少し発音が違う所があるね」と言った所、「いや、そんな事はない」との返事であった。「僕はNHKのニュースの発音を基準にして考えるんだけど、あまり違うことがないので、自分のでいいと思っている」と続けたら、「自分も違わない」と頑なに主張した。私は「あヽ、そうかね」と笑って応じながら、「開き直ったな」と直感した。

 今、私はこの直感を更に反省して考えた事を書きたいのだが、その前にもうひとつの問題を述べておかなければならない。つまり、方言は悪いことか、恥しいことかという問題である。私としては、方言を悪いとも低いとも思っていないし、方言をからかうなどは最低だと思っているが、方言を異にする人々が話すには共通語が必要だということも認めている。そして、その共通語教育が日本の小中学校の国語教育の中で正しくなされていないことには大いに不満である。だから、川口さんの発音が共通語と違うと言っても、別に悪いとか低いという意味ではなく、まして川口さんに全責任があると言うのでもないのだが、川口さんは自分に方言を認めること自体を快く思わなかったらしいのである。

 さて、先に触れた「開き直り」の件である。なぜ私がそう直感したかというと、その時の彼の言い方の頑なさも一因ではある。しかし、それと共に、丁度その頃迄続いていた鶏鳴学園の「現実と格闘する時間」で、私は川口さんには問題意識がないと批判し、更に、彼が問題意識として述べた発言に対しては、「それは問題意識ではなく、『私には何でも分っています』と言うのと同じである」と批評していたという背景があるのである。川口さんとしては私の批評の正しさを認めずにはいられなかったので、今度は「自分は正しい。だから自分には問題はなく、従って問題意識を持つ理由も必要もない」と開き直ったのだと思う。

 私は、川口さんという人は社会人として標準以上のマナーを身につけた人だと見ているので、この頑なな態度はこうとしか説明できなかった。すると、今度は、私が鶏鳴学園のゼミの中に「現実と格闘する時間」を設けて、無理にも発言させ、問題意識を出さない人をそれとして指摘し、問題意識でない発言を批判したことが正しかったかという事が問題になってくる。これはやはり一種のオルグであり、間違いだったと思う。

 人間は誰でも、余程の例外的な人を除き、又、余程ひどい自己嫌悪にでも陥って『人間失格』のような気分になっている時を除き、あるいはそういう時ですら心の奥底では、自分を過大評価しているのではあるまいか。分りやすく数字で表現するなら、10の力を持っている人間が自分を11と思い12と考えているのである。これが普通だと思う。

 その時、「お前の本当の姿は10なのだ」と言ってやる必要がどこにあるだろうか。問題意識を持っていると思い込んで幸せに生きている人が、それで何も悪い影響を与えていないのに、「お前には問題意識がないのだ」と、鏡を目の前に突き付ける権利が誰にあるだろうか。

 私が他人を批評する時、私を支持して下さる人々にさえ「きつすぎる」という印象を与えているようだ。父を批評した文については「よくあそこまで書けるな」という感想も伺った。

 確かに私にも言い分はある。まず第1に、私の言葉が「きつく」見えるのは、それが客観的で全面的であり、しかもそれを立体的に構成して、その人の実像を浮かび上がらせているからだと思う。私がこういう態度を取るのは、「汝の敵を愛せ」とは、その人が正確な自己認識を持って正道に帰るのを助けることだと考えているからである。それに思考力と文章力が加わって効果を大きくしているだけのことである。

 第2に、私が批判する人は、10の自分を20と思い30と考えている人であって、11や12と思っている人ではない。そして、それが社会的にマイナスの働きをしている限りで、止むを得ず批判するのである。

 そして、私が特に注目し考えていることは、この「自分の極端な過大評価」が、革命運動家とか社会運動家とか、慈善家などに多いということである。統計がある訳ではないが、私は自分の経験から、社会運動をやっている人はとかく他人の間違いを批判するのに急で、自分に対する批判を嫌い、感情的に反発する人が多い、という印象を持っている。

 つくづく人間の罪は深いと思う。人を裁くことが、社会改革運動をすること自体が、その運動の担い手自身を思い上らせ、堕落させる働きをも持つのである。この最悪の実例がスターリンであった。

 このように私にも言い分はあるし、それはそれで正当だと思ってはいるのだが、時々「悪い事をしているのではないか」と考えることがあるのも事実である。そして、必要もないのに「幻想を持つ権利」を犯したことがあるのも事実である。(1985年09月28日)