マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

福岡正信

2008年10月26日 | ハ行
 大病を経て「人知や人為は一切が無用」と20代で思い至った。それ以来、人手をいかに省き、自然の力にゆだねて米や野菜を作るかを追究してきた。

 愛媛県伊予市の地主の家に生まれた。高知県農業試験場などに勤めた後、20代で帰郷。戦後の農地改革で田畑の大半を失い、残ったミカン山と5反(50アール)の田で、「自然農法」の実験を繰り返すことになる。

 種籾をじかにまいて米を作り、刈り取る前に麦の種をまく「不耕起直播(ちょくはん)」の米麦連続栽培を考案した。野生の稲が穂をそのまま地面に落とす姿から着想し、稲穂のまま田にばらまく「穂まき」を90歳を過ぎてから試みた。

 ミカンでは根元の雑草を除くため、くわで土を削るようにしていた時代に、下草を生やして栽培した。今では普通の栽培法だ。さらに下草刈りの手間を省くため、緑肥となるクローバーをまいた。春にはクローバーの花が咲き乱れ、無数のチョウが舞った。

 地球規模の環境破壊に危機感を抱いていた。約100種の植物の種子を粘土で固めた「粘土団子」を使って、アジアやアフリカの砂漠緑化に奔走。それらの成果が評価され、1988年に「アジアのノーベル賞」と言われるフィリピンのマグサイサイ賞を受賞した。

 地元より全国で、日本より世界で、その名は知られた。著書「わら一本の革命」は世界各国の言葉に翻訳されている。

 昨年末に入院するまで、不自由な体で田をはいまわり、観察を続けた。08月06日、往診の医師に「もう何もせんでいい」と点滴をやめるよう伝え、14日、「わしは今日死ぬる」と家族に告げ、16日朝、すり下ろした桃を3口すすってまもなく亡くなった。

 「一生『自然』を追い求めて、死を意識しながら死んでいった。自分の人生を貫いたような気がする」。長男の雅人さん(65)は語った。

 (朝日、2008年10月17日。藤井満)
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