マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

情報公開(01、ブログとホームページの作り方)

2008年07月14日 | サ行
1、静岡県知事選挙の争点(その1、情報公開)

 来年(2009年)の7月には県知事選挙があります。それが極めて大切、と言うか、県政転換のようやく巡ってきたチャンスであることは少し前に書きました。

 これから静岡県政の課題をいくつか取り上げて論じ、それによって我々の目指す改革県政の方向について提案したいと思います。

 第1回は「情報の公開」です。しかし、これは今後取り上げるであろう財政改革、教育改革、地震対策、富士山静岡空港問題、医師不足、中山間地対策と比較して考えますと、それらと「並ぶ」諸問題の中の1つではないことが分かります。

 言わば情報の公開はその他の内容上の問題に対して形式的な問題と言うか、あるいは他の問題の前提と言うか、そういう問題なのです。つまり、県政を云々(うんぬん)するためには、県政の現状を正確に知らなければなりませんが、その前提に問題があるということなのです。

 県政に関心のない人ならいざ知らず、県政を考えたことのある人なら、静岡県庁の情報公開が言葉ばかりで極めてお粗末であることを知らない人はいないと思います。オンブズマンネットワークが毎年発表する情報公開度のランキングでも、1度10位になっただけで、いつもビリ争いを演じていますし、「失格」(順位を付けることすら出来ない)となった事も何度かあります。

 役所の裏金作りでは県庁も教育委員会も悪名をはせていますし、県警は最高裁の判決でついに裏金作りを認めるところまで追いこまれました。警察や検察の裏金作りを告発する内部通報者の言うところでは、「全国どこでも(どこの警察でも、検察でも)やっている」そうですから、静岡県警の裏金作りではそれを追求した服部寛一郎氏の功績が大きかったのでしょう。

 県の情報公開と言えば、まずその中心は今ではホームページでしょう。次に「県民便り」、次いでテレビやラジオでの広報、最後にメルマガでしょうか。私の知っているものを重要性の順に挙げるとこうなります。

 まず、広報局長の挨拶をホームページで読んでみましょう。

        記(広報局長の挨拶)

 広報局長室へ、ようこそおいでくださいました。平成20年4月に、広報局長に就任いたしました岩崎富夫(いわざき・とみお)です。

 広報局では、安心・安全、健康長寿などの分野で「県民くらし満足度日本一」を目指す県政の取組状況を、「県民だより」をはじめ、テレビ・ラジオ番組、CM、新聞広告、インターネットなど、さまざまな方法で県民の皆さんに分かりやすくお伝えできるよう努力してまいります。

 とりわけ、平成21年3月に、富士山静岡空港の開港を控えておりますことから、空港関連テーマは、重点広報の対象の1つとして取り組んでいきます。

 こうした広報を通じて、県民の皆さんが県行政へ関心を持っていただくとともに、「魅力ある“しずおか”」づくりに1人でも多くの方がご参加いただける、そんな広報を目指して、職員とともに一所懸命取り組んでまいりたいと考えております。

 どうぞ、お気軽にお気づきの点や県政へのご意見ご質問をお寄せいただくようお願い申し上げます。(2008年05月09日更新。引用終わり)

 こういう「就任の挨拶」は、区長その他の場合でも同じですが、これこそが「従来のやり方を踏襲し、仕事はみな部下に丸投げします」という「消化試合宣言」です。その特徴は、これまで行われてきた事に対する「自分の判断がなく問題意識がない」という点です。

 岩崎さんは3月までは何をしてきたのか知りませんが(書いていないのが悪い)、静岡県丁のこれまでの広報について何の疑問も考えも持っていなかったのでしょう。現に、その後、局長の発言は全然なく、活動報告もありません。

 大臣の就任挨拶でも、現下の問題点に触れることくらいはするものです。

 広報(情報公開)がなぜこれほどお粗末なのか、改めてその原因を考えてみました。すぐにも考えられることは、「やる気がない」ということです。これが第1原因であることは上の広報局長でもそうですが、しかし、ホームページやブログなどを見ていますと、やる気はあるし、それなりに活動報告をしている人々(公務員に限らず)でも、本当の意味で情報公開になっていないのが多い、と言うか、ほとんどが不十分です。それはなぜなのでしょうか。

 思うに、第1の理由は、本当の情報公開(広報)とは何かが必ずしも分かっていないのではないかということです。

 それはさらに具体化して言いますと2点あります。第1点は、「個々の事実を伝えるのではなく、全体的真実を明らかにする」という目的が必ずしも自覚されていなのではないかということです。しかし、これは今までにも述べましたので、1点付け加えるだけにします。

 その追加点とは、「ブログに索引を付ける」ということです。政治家とか社会的活動家のブログは単なる日記ではありません。論文ないし小論文です。過去の記事でも何年も生きています。ですから、事項索引を付ける必要があります。そして、それは技術的に簡単にできます。それなのに、ブログに索引を付けている人はほとんどいません。これはどうした事でしょうか。理解に苦しみます。

 第2に、今回考えた事は、では全体的真実とは何かと言いますと、それは「学問的に正しい理解」ということですが、それを学術論文のように発表されては困ります。ですから、本当の広報とは「学問的に正しい理解をジャーナリスト的センスで説明したもの」となると思います。これが理解されていないと思います。あるいは学問的に正しい理解についても、ジャーナリスト的センスでの説明についても、能力が不十分だと思います。

 これをホームページについて言いますと、ホームページは線的に、上から下へと見ていけば全部漏れなく探せるように作るべきだということが理解されていないと思います。

 ホームページはほとんどが面的に(面として)作られています。ですから、縦横に眼を動かさなければならないので、見にくい、と言うか、探しにくいです。私はこれは間違っていると思います。

 サイト内索引があるからいいだろうと反論するかもしれません。しかし、それは違います。アマゾンがあっても本屋で棚に並べられている本を見ることの意義は消えません。なぜなのか、それを考えてみると分かるでしょう。

 最後に、本当の広報とは一方的に「お知らせ」して「ご理解とご協力を求める」ものではなくて、県民の「議論を促し議論の場となるような広報」ではないかということです。

 これは学級通信でも学年便りでも教科通信でも同じだと思います。私が何人かの外国人に聞いたいころでは、学級通信の習慣のあるのはどうも日本だけらしいです。これは大いに誇るべき習慣だと思います。しかし、その内容には大分問題があります。

 議論の場となっているものが少ない(ゼロ?)ということです。人間は議論を通して成長するのです。議論があるから関心を持つのです。

 本当に県民に関心を持ってもらいたいと思っているなら、知事以下の全職員も参加して議論をするようなブログを出すといいと思います。地方分権の進んだ北欧の首長などにはそういう事をしている人もいるそうです。