マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

高柳健次郎

2008年07月07日 | タ行
2、浜松市のメルマガより

     世界に知られる「テレビの父」 - 高柳健次郎

 小学生のころ、健次郎は体が弱く、勉強も運動も苦手でした。しかし、機械の仕組みを考えたりするのは大好きで、やがて科学に興味を持つようになりました。

 大学に進学した健次郎は、先生に言われた「今は知られていなくても、10年後、20年後に世の中に役立つ技術を見つけ出して勉強しなさい」という言葉に感銘を受け、自分もそんな研究に取り組もうと決心します。

 研究テーマを探すにあたって、まずは外国の様子を知ろうと、フランス語やドイツ語を勉強し、外国の本を読みあさりました。するとある日、本屋で立ち読みをしたフランス雑誌で「未来のテレビジョン」の漫画を見つけました。

 無線やラジオに関心を持っていた健次郎は、この時「漫画になるほどだから、ヨーロッパの科学者は何か始めているかもしれない。おちおちしていられない」と、テレビの研究に取り組むことを決めたのです。1923(大正12)年のことでした。

 1924(大正13)年、浜松高等工業学校(現在の静岡大学工学部)の助教授として赴任した健次郎は、校長から何を研究したいかと尋ねられると、「テレビジョンです。東京の歌舞伎を浜松の家庭で見ることができるようにする技術です」と答えました。校長が驚くのも当然。まだラジオ放送も始まっていない時代です。

 それでも校長は研究の準備を整えてくれました。こうして1926(大正15)年、ついに世界で初めてブラウン管の上に「イ」の字を映し出すことに成功したのです。そして1935(昭和10)年には、全電子方式テレビジョンを完成させました。

 そのころ、開催が決まった東京オリンピックのテレビ中継が計画され、健次郎は「NHK技術研究所」で研究を進めます。1937(昭和12)年、テレビ放送システムを作り上げ、戦時中いったんは研究を中断するも、1953(昭和28)年のテレビ本放送実現を支えました。

 さらに1959(昭和34)年、世界に先駆け2ヘッド方式のビデオテープレコーダーを発明。健次郎は常に一歩先を歩む科学者として、研究を続けたのです。

 (浜松市のメルマガ、2008年12月05日号)

1、記念館のパンフより

 高柳健次郎は明治32年(1899)静岡県浜名郡和田村(現・浜松市安新町)に、高柳太作・みつの長男として生まれました。小さい頃は体が弱かったのですが、母親の手厚い養育の結果、和田尋常小学校を卒業しました。

 健次郎は、教師になりたいと思い、静岡師範学校(現・静岡大学教育学部)に進みました。そこで、物理学ことに電子による蛍光発光に強い興味を持ち、東京高等工業学校(現・東京工業大学)に進学し、大正10年同校を卒業しました。

 その後、神奈川県立工業学校の教師となりましたが、これは、高柳の希望を満足させるものではありませんでした。

 大正13年、浜松に新設された浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)の助教授として迎えられ、かねてより考えていたテレビジョンの研究をしたい、という希望を校長に申し出て、ここで「無線遠視法」(テレビジョンの日本語訳がないので高柳が付けた名)の研究を始めました。当時ラジオ放送も未だ一般的には普及していない頃で、普通の人には想像もつかないものでした。

 大正15年(1926)ニポー円板による撮像とブラウン管による表示方法で「イ」の字の表示に成功しました。電子式テレビジョンの世界最初の実験でした。

 昭和05年(1930)には昭和天皇にもテレビジョンの実験をお見せすることができました。

 その後、昭和10年にはアイコノスコープによる撮像方式を取り入れ、全電子式テレビジョンを完成させました。この頃、テレビジョンの将来性に期待がもたれ、昭和15年に予定されていた東京オリンピックをテレビ放送するという計画が国家プロジ工クトとして取り上げられ、研究が大きく加速されました。

 高柳は昭和12年浜松高等工業学校教授のまま、NHK技術研究所に出向し、日本のテレビ技術開発のリーダーを勤め、昭和13年には現在のテレビ規格に近い走査線数441本毎秒25枚の技術を完成させました。その後、第2次せ界大戦の勃発によリテレビジョンの研究は中断されました。

 戦後、高柳はテレビジョンの研究を進めるために、日本ビクター(株)に入社し、テレビジョンの技術革新とテレビ放送の実用化に尽力しました。

 昭和24年(1949)にはテレビジョンの放送が始まり、昭和35年(1960)にはカラーテレビの放送も始まりました。この間、高柳は日本のテレビ開発、テレビ産業技術のリーグ⊥として活躍しました。

 昭和34年(1959)には世界に先馬区けて、2ヘッド方式のビデオテープレコーダーを完成させ、ホームビデオの世界的普及と∨TR産業の発展に貢献しました。

 このように、高柳はテレビジョンに関する技術の礎を築き、さらに、大きなテレビ産業として発展する技術のリーダーとしての役割を果たしました。その結果、日本のテレビジョンの技術は世界で最も進んだものとなりました。

 こうした功績により、昭和56年(1981)文化勲章を受賞、昭和62年浜松市名誉市民に推挙され、昭和63年日本人では初めてアメリカSMPTE(映画テレビ技術者協会)の名誉会員に選ばれました。

 平成元年(1989)勲一等瑞宝章を授与されました。

 平成2年(1990)、死去、享年91歳
   (記念館のパンフより)

     高柳記念未来技術創造館

 静岡大学浜松キャンパス内(浜松市中区城北3丁目)にある高柳記念館(昭和36年09月設立)をリニューアルしたもの。

 この際、展示を充実させた。

 時代を創る技術開発によりマスコミに取り上げられた卒業生、およひ性能・サイズ・生産量などで世界一といわれる部品や製品、企業の紹介、学内で取り組んでいる最新技術や未来技術などを紹介・展示している。

   藤岡コレクション

 長野県上田市在住のテレビジョン技術者である藤岡清登氏が長年にわたって収集されたテレビジョンに関する歴史的所蔵品を寄贈していただいたもの。

 すべてにわたって丹念な整備が行われており、ほとんどが作動できる状態であるうえ、ブラウン管やテレビジョン等の構造を知ることができる装置も多く、テレビジョンの発展の歴史を直接目で見て知ることができます。

 入場無料。
 午前10時から午後4時までで、月曜(祝日の場合は翌日)と大学が決める日が休み。