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"Reopening" '20-6-30

2020-06-29 15:52:39 | Megu's Sports

★ Megu's Sports

あっという間に夏至だ。今まで、一日づつ陽が延びていたのに、今日から陽がちょっとづつ短くなってしまう。陽が長くなりつつある、春分の日から夏至にかけての日々が好きな私。でも、今年は、COVID-19のおかげで、いつもとは違う夏。よく友達と、“昨年は、ほんとに楽しい年だったね”なんて話している。旅が容易にできない現在。昨年、楽しい旅をしておけて、良かったなとつくづく思う。

今月何を書こうかと考えて、COVID-19関連のトピックが続いたから、何か他のことを書こうと思ったんだけど、どうしても、COVID-19関連のトピックに頭が言ってしまう。Shelter-In-Placeが始まってから、3ヶ月。アメリカでは、州によってReopeningのタイムラインが違い、さらに州の中でも地方自治体によってタイムラインが違う。ヘアサロン・ネイルサロンなど、車で20分離れた隣の地方自治体ではオープンしていても、その隣の地方自治体はまだだとか。Bay Areaは、人口が多いこと、感染数が多いことで、他のカリフォルニアの地方自治体に比べるとReopeningが遅れている。

1ヶ月前、Pebble Beachの友達のを訪ねたときは、Pacific GroveのOpen Water Swim Groupと一緒に泳いで、その後、ランチをテイクアウトして、友達の家の庭で食べた。この時は、8週間ぶりの外飯。友達が、泊まっても良いよって言ってたんだけど、日帰りで訪ねて様子を見に行ったって感じ。私の友達の周りの人たち、ほとんど毎日のようにお互い会っているので、みんな健康だってわかってるせいか、Monterey Countyでは、感染者数・死亡者数がかなり低いからか、Bay Areaの人・私の周りにいる人に比べると、Social Distancingの感覚がリラックスしている。ちょっと、違う感覚の人に会うと微妙にUncomfortableになった。

この2−3週間前から、カリフォルニアで少しづつ、レストランのアウトドアダイニングや、Essential Stores以外のIn-storeショッピングができるようになってきた。で、今週末は、友達と”Hang out”することがそんなにできなかったし、私の友達も健康だし、環境を変えるという目的で、Pebble Beachの友達のところに、いつものことながら一泊自己招待で訪ねてきた。今回も、一緒にOpen Water SwimとTrail Run。Bay Areaでは、まだレストランの中での食事は許可されていないんだけど、Monterey Countyでは、許可されていて、いくつかのレストランはインドアダイニングができるようになっている。ので、3ヶ月で始めてのインドアダイニングを体験。レストランでは、テーブルが離れて設置されていたり、次の客のために念入りにクリーニングしていた。それでも、不思議に、抵抗を感じる。友達とアペタイザーシェアするのも、抵抗を感じる。今までの“普通”が“普通”でなくなってて、人によって、”comfort”のレベル・神経質の度合いが違う。早く以前の“普通”に戻ればいいな…。

 


”世情雑感”...想い出すままに”    ’20-6-23

2020-06-22 22:19:28 | Massy's Opinion

massy’s Opinion

・安倍晋三総理、小池知事、河合夫妻

まあ、此の処、マスコミを賑わして居るので、少し違った視点で感想を書いて見よう。

僕は、余り隠し事をするのは好みではない。又、宣伝するのも余り好みではない。然し、Face Bookのプロフイルも写真もありのままである。成蹊中学~慶応高校~大学と野球と勉強と麻雀で明け暮れたかな?今から20年近く以前、友成君の「アフリカ野球友の会(本年度解散)」の練習が始まった時、若い人ばかりで自己紹介から練習が始まったが、自分の年齢を言うのも恥ずかしく、又、アフリカ人にも解るように英語で、I Was Born In 1934と言うようにした。握手するのも結構、馴れるまではためらいが在るものだ。「馴れと言うのは怖いもの」いつか自分が解らなくなる。馴れて来ると或いは、取り巻く環境により、人は変わって来る。僕も友人には成蹊の小学校から大学までの仲間が多い。特に小学校は家庭的に恵まれている連中が多く、その点では、慶応によく似ている。安倍さんも人間的には悪い人ではないと思うし、矢張り長く同じ環境に居ることが判断力を傲慢に独裁的に変えてしまったのではないか?こうなると外交もまめに動き回って居ても一つも成果が挙がらない。もう矢張り塩時だろう。国民に「申し訳ありませんが、もうこれ以上出来ません」と言って「解散」「選挙」にした方がいい。小池さんも初めは「クールビズ」にも感心したが、「カイロ大学問題にどうしても引っ掛かる」もっと堂々と「初めに発表した経歴に引きずられて居ました。私の本当の学歴は...」と言った方がいい。「フレーズ造り」は巧いが、一つも成功しないし人間的には、「厚み」が感じられない。もう一つ「日本の中の東京はこうあるべき...」と言うような大きなビジョンが考えられないものか?こんなに一極集中した東京は必要なのだろうか?今度の選挙活動は、石井妙子さんとの対談をスタートにやって貰いたいものだ。河合夫妻も酷いものだ。福沢先生にどんな顔向けができるのか?全く慶応の恥さらしである。僕の好きな本当に良い先生方にご指導いただいた成蹊、慶応のOBが卒業したての時は、モット「良し、悪し」が解って居た人間だったと思う。残念だ。

 ・麻雀

僕が麻雀を覚えたのは、中学2年の時、親友のM,T君の家で教わった。勿論,賭けなしで家庭麻雀である。初めての時のM,T君の家の部屋もメンバーもよく覚えて居る。高校時代は3年の冬位から誘われるままに休講の時なんかにやった事がある。大学に入ると合宿所では流石にやらなかった。雨が降って練習が無くなると上級生に誘われて雀荘へ行ったものである。地方から来た学生は、殆ど麻雀が出来る奴は居なかった。高校から来た仲間も麻雀が出来る奴は居なかった。同期の中に甲子園で全国制覇した芦屋高校の4番が居た。彼は、麻雀が出来たし何となく気があって仲良くしていたが、或る時、雀卓を囲んで、ルールは、開きリーチあり、何とラスパイしかないペン7万で残り10山位でリーチを掛けた。

それで、牌底でその7万を自模ったのである。彼は甲子園の決勝で優勝の3塁打を打った男だった。其の勝負強さには、本当に驚いた。それで、この時に「ようし、どうせレギュラーには成れないし。この連中には負けたくない」「麻雀だけは6割5分の勝率を目指そう」と心に決めた。会社に入ったらこれまた麻雀の好きな人が居て、昼休みに1荘やるなんてことも有った。「芸は身を助ける」ではないが、我が家でも随分徹夜をしたことも有る。大体会社でやるのは、勝ち負けは、月末清算なので、部下がやって居るとその中で勝って居る奴を入れて、その時に勝てば一番勝つことに成る。鵜飼と同じである。お客様とはお付き合いをしたが、レートも大きく部下には怪我をさせたくないので自分でやったこともある。基本的には僕の前任の社長は酒も飲めないので部下と麻雀をやって、コミュニケーションを取っていた。僕は胡麻をするのも嫌い、胡麻すられるのも嫌いである。胡麻の判断は相手の身に成る事、が相手の胡麻かどうかを判断するポイントに成るだろう。東京六大学野球のOB会で六球会と言うのがある。麻雀、ゴルフ、野球の懇親会である。521日付けのFaceBookの記事に書いてあるが、散々議論して麻雀会は止めにしたのである。東大の幹事が「姿勢論」を強く主張して止める事にしたのである。懲罰も甘く全く情けない。

 ・無観客試合

ヤットプロ野球もリーグ戦が始まった。新聞もにぎやかに成って来た。慶応からプロに入った中では、楽天の津留崎君が1イニング登板した。彼の努力を知って居るので2個の4球は内容を見て居る訳ではないが、失点なしは良かったと思う。僕は、無観客試合の方が集中できて結構、気に入っている。

 ・嬉しかった事 高村君の一言

慶応高校の後輩で高村君と言う子がいる。一頃、会社を辞めてから高校の野球を随分と見に行った。大体、1学年40人位の部員が居るが、昔は、塾内体育会の中に硬式野球部もあったが今はグラウンドの事とか諸事があり、硬式野球のクラブは無くなって仕舞った。大体15人位が大学の野球部に進むし、高校のコーチをする学生、他のスポーツに進む者も居る。2003年頃は、良く日吉へ行ったが学生コーチの連中と顔見知りに成る。その内の一人が高村君である。僕は、大学の野球部に入らない学生には「ゼミ」を取れと言う。高村君には必ずゼミを取れと言って居たが、偶々、その時に選抜で甲子園に行くことに成った。「高村君、甲子園に行ってもゼミの先生の本を読んで置け、目次と後書きは必ず読めよ」と言った。「甲子園で一回勝って2回戦に勝つとゼミの試験が受けられなくなるんです」と電話が掛かって来た。先生に事情を話して「帰ったらゼミの追試をおねがいします」とメールして置けと言った。残念ながら2回戦で負けてゼミの試験には間に合ったのだが、その後、ゼミの先生が学部長に成り、高村君はゼミの代表に成った。我が家へ挨拶に来た時に、甲子園の砂を持って来てくれた。明るい良い青年である。チョット用事があり電話をしたら「マッサン、僕はあの時コーチをやって居て、今、凄く役に立っています」「そうだろう、人を動かす時に役立つだろう」と言った。僕たちの世代はこんな事で学校に恩返しをすることが、大事だろう。とても嬉しかった。

 


"送付状...”   ’20-6-16

2020-06-15 16:36:09 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

昨日、浅妻教授から 下記 送付状と共に6冊の(論説) 「ミヤンマーにおける自動車リユース市場の形成と展開」と言うタイトルの小冊子が送られて来た。北海学園大学経済論集 第67巻第4号 別冊である。

 

・お礼状:北海学園大学 経済学部 浅妻 裕教授殿

前略 

こちらこそご無沙汰をしております。コロナ騒ぎ出ですっかり頭の中も「Stay Home」で世の中も世界もどうなるのかとスッカリ空っぽになって居りました。今回のレポーと緊急事態宣言の解除とほぼ同じ時期で、意識が正常に戻った様に感じました。ミヤンマーの事もすっかり時間のかなたに過ぎ去って居りましたが、レポートを拝読するうちに色んな事が思い出されました。 Tun 君は、本当にお役に立ちましたか? 僕たちが350台のタクシー車の中古車をヤンゴンに収めた時は、政府は軍事政権で経済的には苦しい時代でしたので、特例の形で、右ハンドル車で許可を得た訳です。矢張り、市場規模は大きくなっても基本的な部分はアングラな輸入がまだまだかなり多い様ですね。スーチーさんの体制に成ってもまだまだ、体制は大きく変わらないようですね。このstay homeの期間、僕が、大学3~4年の時に何かの本からコピーして抜き出した「福沢諭吉の経営思想」と言うのを読み直しました。その中に混迷の現代にピッタリする様な言葉が書かれて居ました。解説は、名誉教授清水龍瑩と言う方です。今から65年~70年前に書かれたものです。僕のブログ“Diary 161”の中に書いてあります。世の中は本当に時間が掛かるものですね。熊本大学の外川先生とお二人で我が家へ来られてからもう20年位過ぎる訳です。もう、京大の塩地先生も研究は続けられると言われて居ましたが、これからは貴職が中心になられる時代でしょう。何時も豊富なデータを駆使したレポート解りやすく説得力のあることに敬意を表します。絶対に研究を続けられることを願って居ります。

益々のご活躍とご健康を祈りつつ...

                                     早々

向かって右側から 北海学園大学 浅妻教授、熊本大学 外川教授 ’10年 我が家にて。


"新しい生活様式”   ’20-6-9

2020-06-08 23:16:32 | Massy's Opinion

“新しい生活様式”    ‘20-6-9

★Massy’s Opnion

・このコロナ騒ぎがもたらした 「新しい生活様式」

わが身が遭遇した此の3,4,5、そして6月も半ばを迎えている。

早いもので、もう100日を超えようとしている。考えて見るとこの遊び好きと言おうか、好奇心旺盛と言おうか出掛ける事の好きな僕が浜田山から電車に乗って出掛けたのは、吉祥寺へ1回買い物に行っただけ。後は、自動車でヘアーカットに麻布迄行き、帰りは、天気も良かったので、久しぶりに車をオープンにして、新橋、銀座、日比谷、新宿と何時ものコースをドライブして来ただけだ。まあ、こんなに井の頭線の乗らないのは、中学以来、初めての事。小池さんに「Stay Home」の模範で表彰して貰いたい位だ。

・それでも結構忙しい。これが僕の「新しい生活様式」なのかもしれない。

3月のワイフの骨折は、親しい友人にも話すまいと思っていたが、Meguがブログに書いたので、マア、読まれている人にはわかったなと思って、少しずつ話すことにした。

・キッチンでつまずいて倒れ、チョット起き上がれないので、近所の小林整形の先生に電話したら、先生が直ぐ往診にきて呉れた、朝、8時45分である。「家のレントゲンでは、小さいので、久我山病院の大きいレントゲンが良いですね」と言われて救急車を手配して直ぐ入院した。レントゲン診断の結果、骨頭部の骨折と言う事で、幸いヒビの状態で骨がずれてはいないので、夕方の手術が決った。夕方まで病院で待っていたが、手術の時間は45分程度で無事に終わり、本当に僕も良く知って居る小林先生のご手配は的確迅速、で感謝である。

・病院は折からのコロナで外来禁止、面会も禁止である。然し、救急外来なのでスムースに入院が出来た。さあ、これから僕は留守番も要るし、義弟に連絡して助けを要請した。

・無事手術が終わり、一区切り、慌ただし一日が終わった。久しぶりの病院通いがこれから始まった。この期間何処の病院も同じだが面会禁止、必要な着替えなどはナースステーションに預ける形である。患者との会話は、携帯電話一本である。

・病院の通い方の要領は解ったが、さあ、僕の暮らし、兎に角、普段、朝は何時も、コップに一杯の水から始まる。次に養命酒小さいカップに一杯、これが凄く美味で、ピリーッと目が覚める。食パン一枚のトースト、ミルク一合、フルーツである。

昼は、コーヒー一杯と菓子パン一個。夜が問題殆ど外食で大体酒一合。

・兎に角、「危ないからガスは使うまい」 と決めた。使うのは「レンジ」「トースター」と「電気ポット」日本茶は「テイーバッグ」と決めた。そして、夜は殆ど外食で家の近所のお蕎麦屋さん、モスバーガー、中華料理、具合の良い事に親子丼の美味い焼き鳥屋さんや天丼の美味いビストロがテイクアウトを始めた。これは大助かり、偶には、カップ麺とナッツをおつまみに家で焼酎を飲んで食べる、と言うような暮らし方である。

・夕食は、殆ど外食。僕の野球部時代の親友、故内藤治夫君が、「年金暮らしは夕食予算1300円(酒込み)にしないと駄目だ」と晩年よく言って居た事が、妙に思い出されて来た。

・兎に角、3月は家を開ける事が出来ない。一応「増田商会」の仕事があるし、来客もある。病院から何かの連絡もあるかも知れない...てなことで、テレビ、パソコンで時間を潰していた。

・4月ワイフが退院して来て、リハビリが必要になる、病院のリハの先生が来て呉れる予定だったが、コロナ問題で出張禁止に成ってしまったので、急遽、Skype でMeguのコーチを受けることにした。幸いに彼女の住んで居るサンノゼと時差が8時間、こちらの午前中は向こうの夕方に成る。Skypeは何時も使って居るので、難なく出来る。唯、カメラを移動させるのは、アシスタントの僕の役目。此のリハの時間を濃密にするために、当然ウオーム・アップ、ダウンが必要になる、結構これのお相手も疲れる。然し、良くなることが見えているので頑張る気も起きて来る。

・一週間が瞬くうちに過ぎてしまう。幸い、区民センターのプールも年間の補修の一月とコロナ問題で約半年の休場である。再開したら週一回は行こうと思っているが、今度は今まで通り泳げるか心配である。

・こんな形で3,4,5月と瞬く間に過ぎてしまったが、考えて見るとこの暮らし方が、これからズ~ッと続くのだろうと思う。老々介護の暮らしへの切り替えが、無我夢中の内に出来てしまったように思える。テレビも古い物の再放送が多いし、新聞もやたらに大きい広告が多くて詰まらない。コロナウイルス以外の世界の記事を見ると、どこも政治に対する不満が積もっている様だ。地球2000年の歴史の中では、この今直面している情勢も僅かな期間に成るのかも知れない。やっぱり人類には、力の及ばない神の力が存在するのか...?


"Diary 161" '20-6-2

2020-06-01 16:09:01 | Massy's Opinion

★Massy’s Opnion

・先月に続いて、あらゆる外での会合が無くなった5月のDiaryも、パターンを変えたDiary に成る。

・本当は躍動の五月晴れ、スポーツも華々しくなるのに、日刊スポーツ等スポーツ紙は紙面造りに苦労している見たい。まるで、ギャンブル紙みたいだ。

・5月は読書に精をだして、単行本を2冊読んだ。読後感を綴ろう。

*門田隆将著 「汝、ふたつの故国に殉ず」

帯 英雄が歩んだ苦難と感動の物語

久しぶりに隆将先生の文庫本をかった。帯の二つの故国...に魅かれたのと上皇陛下のご親友、僕の先輩、明石さんが如何絡んで居るのかな?という興味もあった。物語は、戦後の台湾で「日本人として死んだ一人の英雄」の物語、もう一つ僕も台湾には、観光、大気汚染対策としてのタクシーのLPG化の講演会で‘90年代に4度も行って居るので興味も強く、隆将先生の本はよく読んでいるからだ。主人公の坂井徳章さんと言う人は、本を読むまで知らなかった。所謂、ハーフの日本人だが台湾の民主化のキッカケを身を挺して作ったと言う人の物語。台南に行かないと今でも解らないのかも知れない。それ程、世の中の動きが早く成って居るのだろう。著者は、先生のやり方通りに克明に史実を追い坂井徳章の人生録を書き上げている。「ああ、こんな人も居たんだ...」と言う読み応えの読後感である。

*四家秀治著 「発掘!西本・阪急 最強伝説」

帯 「西本野球はなぜ語りつがれるのか」

僕は、プロ野球は、昔の阪急が一番好きだ。中学の頃かな、生まれて初めて後楽園スタジアムに行った試合が、阪急~巨人 3塁側がビジターで阪急。当時のブルペンはグラウンド内しかなかった。そこで、ピッチングをしていたのが「岡村」という二線級のピッチャ―だった。塀越しに体を乗り出してピッチングを見ていたら「坊や危ないよ...」と声を掛けてくれた。それから、話し合うように成って、家へ帰ってからファンレターを出した。そうしたら丁寧に葉書で返事をくれた。その後、2~3年文通を続けた。当時の阪急は、ヘソ伝こと外野手の山田伝、上田、外野の玉腰、天保。今西、野口二郎なんか個性派が多く居て、面白いチームだった。大学の野球部は関西出身が多く、当然、阪神か阪急フアンが多かった。特に芦屋が甲子園大会で優勝した後で、4番だった土河、それと決勝で戦った鳴尾のエース中田も同期に成った。「なんし、お前は阪急が好きなんや...」と良く言われたものである。

僕の学年では、湘南の衆樹(毎日)、鳴門の日野(中日)、中田(阪急)と3人がプロ入りしているが、3人とも六大学リーグで首位打者を取っている。中田君の事は「さよなら中田昌宏君」と言うブログに詳しく書いてあるが、ご子息がそれを読んで「親父の知らない部分を読んで嬉しかったです...」とメールを貰った。僕にすれば阪急に入った中田君は羨ましかった。前置きが長くなったが。そのご子息さんに学生時代に会ったことがある。彼は今、NHKでこの間は、「呑み鉄本線」と言う1時間番組のディレクターをしていた。FaceBookのお友達に成って居る。彼が、この本を「親父の名前が出て居る」と推奨して居るのだ。

西本監督は地味な選手だったし、猛練習を主体にチーム造りをしたのだが、当時、衆樹がトレードで阪急に来ていた。慶応の3番、4番が一緒に成ったのである。そこで、西本さんは、シーズン初めに自分に対する信任投票を遣ったのである。この時、反対4票白票3票とか言われている。この反対と白票は、西本さんの見通しと大分違ったのだろう、監督は辞意を表明して相当問題になった。結局、辞意を撤回して阪急を強いチームにしたのだ。実は、僕らが大学3年の時に、阪井監督の交代論が出て、現役4年生の意見をOB会から求められた。4年生だけ集まって意見の交換をしたが、当時主将の衆樹君は交代論の先鋒だった。確かに阪井さんはグランドでも歯を見せた事がない、凄いスパルタで寄り付けない程だった。こんな前例を経験しているので、この「信任投票問題」が西本監督論の中に書かれているかな?と言うのが大きな興味ですぐに買って読んだのである。晩年、中田君に「衆樹は如何したの?」と聞いたら、「あれはモロや...」と言って居た、中田君は精々入れたとしても白票だろうと思う。色々人生の節目で聞きたいことも有るし、結構中田君とは話をした。オリックスに成った時とか「リースって、何や、これから宮内社長に会いに行くんだ。俺は、そんなものチットも解りやせん」「リースって、金貸しよ、率直に野球しか解りません」と言った方が良いよ。と言う話もした事がある。中田君には一度一軍の監督をやって貰いたかったな。さて大分横道に逸れたが、そういう意味では、西本さんのこの事件については、僕の期待に反して、僅かしかこの本には書かれて居ない。阪急の記録は良く集められているが、読んだ後、僕には、物足りなかった。著者の年齢から言ってもギャップは仕様が無いのかなと思う。阪急と言うのは色々魅力のある企業体だ。西本さんの後、「上田阪急」もいいチームだった。梶本、中田がコーチで支えて、福本、山田、蓑田らと一つに纏まり西本ラインを繋いだのだろう。この辺は当時日経のスポーツ記者浜田昭八さんが客観的に良く書いて居た。

僕は、大学3年まで阪井監督、4年の時は稲葉監督の時代今で言う「先乗り、スコア―ラー」をやらされた。立教、明治、早稲田を中心に練習を見に行って、ピッチング練習の時に打者一人5球3ボール2ストライクx3アウトx9回=135球をベースにシュミレーションを作りピッチング練習をするようにした。

当時、立教の砂押さんは長島一人に2つのゲージの内1つのゲージで、ズッート打たせていた。兎に角凄いスパルタで、遂に、故大沢親分以下の合宿脱走事件が起こった。明治の島岡さんも凄かった。お二人ともその後お会いする機会があり、その話をすると「あの時は、若かったなー」と言われた。当時のリィーダーは皆さん心構えが違ったのだと思う。読後感とは、大分逸れてしまったが、最近は、世の中大切な、ものが失われて行くような気がする。

*「福沢諭吉の経営思想」 

解説 慶応大学 元商学部長 名誉教授 清水龍瑩(りゅえい)

(1958年経済学部卒 1928年生~2001年没) 

これは清水先生が何かの本に書かれた「小論」401ページから447ページ迄をコピーした物である。僕は、1957年卒であるから、僕の方が一年卒業は早い。然し、僕は1934年生まれだから先生の方が6歳年上である。このコピーを如何して、どこから手にしたのかは、もう記憶にない。懐かしく成って読み直した。驚いたことにその中に、「ところで時代のはげしい変わり目には、誰でも先が見えなくなるものである。今日のIT化時代・グローバル化時代への大きな変わり目...先が見えずに従来の経営スタイルの何処をどの程度変えたらいいのか、日本の多くの経営者が戸惑って居るように思える」と言う一節がある。福沢諭吉の経営思想の解説である。此のパンフの表紙は僕が書いた物であるが、多分大学3年か4年の時に作ったコピーである。確か日本IBMが出来た頃か?しかし、65年位前の時代と今の時代と全く変わらないと言う事は、何とも言いようのない感じがすると同時に改めて福沢先生や清水先生の教えをこれからの時代をリードする人たちに学んで欲しい。特に「実学の尊重」を...

・テレワークとワイフのリハビリ

順調にリハビリが出来ている。アメリカでもskypeの接続の調子は色々ある様だ。スムースに何とか時代の流れには載っている様だ。

・最近の生活と町の変化

僕の生活のスタイルが全く変わってしまった。兎に角、Stay Home。同じ年頃の仲間は、夜に成ると電話が掛かって来る。一体何時に成ったら以前のようになるのだろう?一つは学校の休校が町を静かにしている様だ。食べ物屋さんがTake Outをやって呉れるのは我々には有難い。スーパーで売っている食料品のカップ麺やインスタント物が旨くなった。

食料品でもなんでも包装が非常に良くなった。僕は、ワイフの入院している間、40日間ガスを一度も使わなかった。レンジと、自動湯沸かしと。トースターだけで食事が済んでしまう。衣料品はネットで購入、一番気を付けるのは、ブランドだ。製造は中国でも製品の保証はブランドがして呉れると思う。我が家の周辺では、蕎麦屋さんでも、豚カツやでも我々と同じスーパーで食材を買って居る。魚屋さんは小売りやと卸売りの中間の位置付けに成っている様だ。兎に角、変化してきている。

・どうなるだろう?リーダーシップの無い政治

賭け麻雀の処罰は、酷すぎる。あれでは世の中、本当に物事の良し悪しが解らなくなってしまう。僕は、性善説派だが車のスピードでも制限速度を解って居てオーバーするのと、解って居ないで飛ばすのでは注意の仕方が違うだろう。世の中で良し悪しが解らなくなるのが怖い。改めて、福沢先生の「経営思想」を読んで欲しい。

P,S

再び野球の話に戻って、大学4年間野球部に居たと言う事は、上下で7年間の部員を知って居る訳。それで、首位打者が同期の3人と2年下の赤木君が首位打者を取っている訳。赤木君は新制慶応高校の初めてのプロ入り。そして、中田君の子息も赤木君の子息もNHK勤め、首位打者の子供はNHKで取るのかな?...