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advice for consumer

“Presentation Pre-View” ('18-11-23)

2018-11-26 19:03:37 | Massy's Opinion

★Megu's Sports 

・今週は、Thanksgiving Week。木曜日が、祭日だったので一週間休みをとっている人もいれば、4連休の人もいる。私の仕事は、軽め。ちょっとした息抜き。アメリカのホリデーは、日本で言う‘食べ正月’のようなもの。友達に恵まれていると言う意味で、a nice problem to haveなんだけど、3日間、ディナーが続くとちょっと疲れる。Thanksgiving Dayの翌日は、Black Friday。大きなセールの日。日本でもあるの、今?Thanksgiving自体ないのになんでも、マネしてる? と言うことで、今日は、午前中、トレーニングの後、予定を入れずに、Check Listの事柄を片付けると。ブログも、そのうちのひとつ。家にいると、他にするとこを見つけて、後に回しがちなので、近所のPeet’s Coffeeに来たところ。

・さてさて、来月、東京訪問。知り合いの法政大学スポーツ健康学部の泉先生に、彼の生徒さんに、「アメリカ留学、生活、キャリアについて」の話をすると言う、貴重な機会をいただいた。勝手に、20人程のグループかなって思い込んでいて、Agendaを作らずに、Interactiveなセッションにしようって、気楽に考えていたんだけど。160人ぐらいって言われたので、ちょっと前から、プレゼンテーションの準備をしている。

・大学院の卒業プロジェクトで、“A Guide For Future Japanese Athletic Trainers”と言うものをまとめた。理由は、留学して公認アスレティックトレーナーになるまでに、どのくらいの時間と費用がかかるか知らない人が多くいると思ったので。私自身もそのうちの一人。自分なりに調査したと思ってたんだけど、予想以上に費用がかかる。親・家族に色々な面で協力してもらうのだったら、彼らも、そのプロセスを知っておく必要があると。このプロジェクトのためのリサーチをしたのは、2000年。それ以来、かなり物価・地価も上がっているので、改めて、数値を調べてみた。

 ・過去に、“200万円貯めたんですけど、1年間、アメリカで勉強できますか?”のような質問を何回か聞かれた。答えは、“NO”。授業料入れたら、3ヶ月ももたない。一例を挙げてみよう。あるアスレティックトレーニングで良しと知られている大学の1年間の “Out of State” (もちろん留学生を含む)の授業料(教科書やその他のサプライは、別)は、$43,000 (1ドル=100円で換算したら、430万円)以上。その上に、住居費、交通費(車)、保険、生活費が加わると、想定年間600万円は、かかるはず。渡米の前に、英語が大学にスッと入れすぐらいできていたとしても、1年間だけ勉強したところで、資格も学士・修士も取れない。親にとっては、子供への大きな投資。今の若者たちに、Discourage/ Disappointment してもらいたくないんだけど、現実も知ってもらいたい。そこで、将来何がしたい、何ができるってことも知ってもらいたい。ま、こんな感じで、プレゼンテーションの準備をしてるわけです。


”緊急、ゴーン問題“     ‘18-11-23

2018-11-25 10:19:35 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

・この3日位前から ゴーンさんの問題が、話題を賑わしている。今日の産経デジタルに自民党の奥野先生が記事を出している。今度の問題は、OBの意見が全然出てこない。もっとも発端が20~30年前に遡るのだから、生きている人も少ないしやむを得ないかもしれない。奥野先生は僕のやって居たデイ―ラーの担当でもあり、学校も同窓(僕が10年位先輩)良く食事をしたが、非常に健啖家である。乏しい記憶を思い返しながら、僕の意見を記してみよう。もう僕位しかこう言う事を知っている人間はいないだろう。

 ・アメリカ車の事はさておいて、1960年代にトラックから乗用車へ需要が大きく変化し始め、日本の各自動車メーカーも技術習得のため日産は英国のオースチンと提携してノックダウン(部品は輸入、組み立て国内)して、2年位で全部内製にした。いすゞは同じく英国のヒルマンを・・・ 日野はルノーの4cvと言うモデルを同じような作り方をした。やがて、技術の習得が終わると元の様にデイ―ラー探しが始まる。米車は兎も角、ルノーは扱うデイーラーが無かったのである。そして、タバカレラ貿易会社が輸入元になった。日本の中ではオースチンの輸入代理店だった日新自動車と言う会社があったが、ここは、オースチンだけの販売権を持っていた。英国のオースチン生産中止で売る車が無く成って居た。

 ・たまたま僕の野球部の友人がタバカレラからルノー公団の東京副支社長にスカウトされ、日野の乗用車部隊を引き連れて、三井物産がルノーの自動車部門を作ったのである。然し、自動車部門は金も掛かるし、結局10年やってギブアップをしてしまった。そこで、丁度売る車のなかった旧日新自動車=キャピタルモーターに紹介をしてキャピタルがルノーを売ることに成ったのである。僕の野球部の友人は九州小倉高校の出、キャピタルの社長は佐賀商業―満鉄―阪急ブレーブスの野球選手、兄上は東京日産の社長と言う背景もあり、その後10年はルノーを売っていたのである。然し、売れなかったし、当時すでにルノーは公団に成っていた。当時のフランスルノーの総裁がキャピタルの親会社である東京日産の社長に表敬訪問に来ることに成ったが、初めは六本木の本社で会う予定が、間じかにメーカーからストップが掛かり帝国ホテルに場所を変えた事が在った。

・こんな経緯があり、これが日産とルノーの提携に何らかの影響があったわけではない。然し、僕は当時のルノー公団のスタッフには随分と日本のマーケットを教えたりしたものである。「何%のシェア―が欲しいのか?今ルノーは1%もないよ」「10%が目標だ。大きく考えて、小さくスタートだ」と当時の日本支社長Mr,Depreが言って居たが僕には印象的な言葉だった。結局、キャピタルも10年間で満足に売れず、日英自動車に販売権は移動した。1999年日産の中の空気は悪く、僕は仕事の延長を言われたが、もう8年もやって居るし、これからの再建は、お世話になった役員と仲間の首切りをしなくてはならず、自分の年齢も考えてお断りをした。然し、ルノーとの事は割合に良く知っている方だと自負している。

 ・さて、企業の再建には次の方法しかないと思う。

1、資本の増加  増資、

2、資産売却

3、固定費の削減 人員整理

損益のバランスの取れる処までこの3点を推し進めることだ。

日産は、海外進出についても、川又、石原両社長の間に意見の違いがあり、そこに労働組合が絡み、議論が分かれた。英国問題である。結局は、世界の情勢に押されて、イギリスに進出した。中国も東風と提携してサンタナを作った。勿論、アメリカにもスマーナに進出をした。世界の国々から見ればそれだけ日本の経済は好調だったのだろう。今、ルノー、日産、三菱連合が世界1,2位を争うと言っても日産の海外投資が今実って来ただけで、ルノーは一つも成果を上げていない。

 ・僕は、三菱の統合以来、「ああ、フランスはルノーを何とかしたいだろうな?」思っていたし、最後にはゴーンはフランス政府の言う通りにすると思っていた。西川社長がこのような動きに出るとは思はなかった。それにしても、ゴーンの前妻のレバノン料理店だのポルシェに乗っての事故だの、ポケットマネーから、デイーラーの経営者に恩恵的にボーナスを払っている様だとかいろいろな噂は風の便りに聞いていた。然し、そんな事よりもルノーに株を持ってもらう時に「あの比率は何だろう?」「日本政府は何にも言わない」あるいは「アドバイスもしない」こんな問題の解決の仕方より「トヨタに日産の株を持たせるとか?もっと日本の産業に対する方針があるべきだったのではないだろうか?」何か世耕大臣がフランス政府と話あうらしいが、今の安倍さんのレベルでは日本が如何して立国していくか?全然見えてこない。歴史、世の中と言うのはこんな動きしかしないのか?新天皇の即位オリンピックそんな目先の問題ではなく、願わくば、安倍さんと政府にしっかりと日本の立国の為、如何あるべきか?きっちりと指導してもらいたい。特に日産とルノーの資本比率の是正を指導してもらいたい。もう日本の自動車メーカーはトヨタの傘下で他国と競争をして行った方が良いだろう。

 

 


“スポーツ・コーチあれこれ...”   ‘18-11-20

2018-11-19 14:44:36 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

毎週 日曜日は、NHKの政治討論を見ている。「サンデースポーツ」は見れない。

ワイフとゴルフの話。話題は松山の誤球の2ペナルティー問題 「プロとして恥ずかしいミスだよね...」と僕も22歳から元大毎オリオンズの監督で先輩でもある別当さんにドライバーとブラッシーとパター一本づつ頂き、更に「ベンホーガンの名著『モダンゴルフ』と摂津茂和のゴルフの本を頂いてゴルフを始めた。川奈、狭山、日高、大箱根、箱根カントリー等の名門コースに連れて行ってもらった。早い話が運転手替わりとゴルフのお相手である。

それでも、一生懸命紳士のスポーツ「ゴルフ」のマナーを勉強したもんだ。丁度、会社でもゴルフが流行りだし当時はのんびりしたもの、砧のパブリックゴルフ場に行き、1ランド周り、会社へ行き近所の定食屋で朝食を取り、業務についたものだった。勿論、他の人は先輩ばかり、ある人とラウンドした時ボールを間違えられた。僕の方が良い所へ飛んでいたのに。

それ以来、ボールに必ず「H」の字を書きこむ事にした。当時の人事課長に「君は良いゴルファーに成るよ」と褒められた事がある。「上手くなるよとは言われなかった...」

さて、こんな事から「誤球」だけはしない様にしているが、それでも今までに1000ラウンド位しているかな?その内で2度誤球をしている。よく覚えいるが。大箱根のイン16番打ち下ろしのホール右側のラフに打ち込んだ。当時はカラーボールが流行って居て黄色のカラーボールを使って居た、ラフは深かった。打球はよく見た居たので、その場所へ行ったら黄色いボールがあり番号も見ないで打ってしまった。ホールアウトをして番号を見たら僕のとは違う。いやー驚いた同じ色のボールが同じような場所にあるなんて当時はまだカラーボールが珍しい時代である。この時は、友人同士だったので、メンバーに謝ってペナルティーを追加して許して貰った。もう一度は、会社のお客様招待のコンペで最終ホールの第3打がグリーン横の浅いラフへお客様の打球同じような所へ飛んだ。優勝が掛かって居たのでお客さんも真剣彼が先に打った。僕は「タイトリスト」までは確認したが番号までは確認していなかった、ホールアウトしてボールを拾い上げると番号が違う。其のコンペは、タクシー会社を招待したコンぺでかの会社は、オールクラウンの会社である。しかも、先に打ったのはお客様。この時も随分考えたが、僕は「誤球をしましたペナルティーです」と言って優勝はそのお客様になった。後日、個人のご婦人を会社まで連れた来て、自家用を1台買ってくれた。「誤球」油断は冷静さを欠くと起こる。僕の野球部の友人が責任者に成って作った「千葉夷隅グリーンクラブ」と言うコースがある。キャディーの躾が素晴らしい。何回も表彰されているコースである。そこではキャディーがスタート前にお客様に挨拶をして「お客さまのお使いになるボールをお教えください。探すときに覚えておかないと...」と言う。同伴プレイヤーには中々言いにくい。僕はいつもキャディーさんに「僕のボール これを使うよ」と言う事にしている。すると他のメンバーもボールナンバーを言うようになる。ずいぶん昔の話だがこれもゴルフの大事なマナーだと思う。松山選手も相当気が入って居たか、油断があったのだろう。

 

・野球コーチ

ストーブリーグもトライアウトが終わり、ほぼ来シーズンの体制が決りつつあるようだ。

何か今年は各チームコーチ陣の人数が増えたような感じがする。特に僕が注目するのはロッテの元ライオンズの伊東監督のヘッドコーチ就任だ。一体井口監督の意向か?フロントの次期監督をにらんだ配置か?広いようで、狭いプロ野球界毎年多くの選手が契約外に成ってゆく。ジャイアンツなんてあんなコーチ陣はいらないだろう。MLBでもコーチの移動は多いが、本当にどんなやり方をして行くのか?会社の組織と同じような人間関係の問題も生じるだろう。巨人軍の昔の9連覇なんて川上監督のような相当卓越した管理能力のある人は現在の球界には見当たらないように思う。会社でも学校野球でも人が集まってやる活動は組織の中の人のつなぎ役が必要だ。今から20年前塾高をコーチに行ったとき学生コーチに話した資料が残っている。

★     人を良く動かすには (ブリジストン創業者の言葉少しアレンジ)  

・選手から信頼され…存在感がある事、技術、知識、情熱、等の選手から肩書だけでなく、 一目置かれること。

・威服(権威で人を動かす)

・理服(理屈で人を動かす)本当は利服(報酬を与える)この場合野球の理論

・心服 (心で人を動かす)          

こんな事の出来るコーチが必要だ。

・音楽コーチ

先日我が家へシマコ・大島君と言うジャズピアニストとボーカリストのハービー・トンプソンが訪ねて来た。大島君は保険会社を定年引退して、昔学生時代に弾いていたピアノに戻り、プロとして活躍している男。昔は鈴木章治のリズムエースに2年位いたという。

僕の親友の三保敬太郎君に幼稚舎から憧れていたと言う。彼は弟子を取るような」男ではないし…大島君のライブを数回、聞きに行って居る。矢張り、ピアニストにカンバックして以来,日を追うごとに腕前は元に戻って来たと思っている。

「おい、どんな練習しているの?この頃、大分調子が良くなったね」

「勿論、練習していますよ。チャンとコーチについているんですよ」「本当かよ?君を教えるコーチなんていないだろう?」「若い子に見てもらうんですよ」「へえっ!」「聞いて貰って早いか、遅いかとか音が小さいとかね」「なるほどね。うん、そうだよな、野球でもゴルフでも仲間とやるのが一番面白いよな」「おい!チョットこの所見ていて…なんて言えるものね」ゴルフの松山が先輩キャディーと契約を切ったらしい。誤球問題が原因か?いい友人、いいコーチが人生には大切だ。そして、勿論、コーチを受けようと言う気持ちも大切だ。

 

 


“Letter to Kaizo Yamaoka “ ’18-11-13

2018-11-12 14:50:43 | Massy's Opinion

★Massy'sOpnion

前略

海三山岡君今年もカレンダーの季節に成りましたね。又作りました?最近あのタイプのカレンダーが少なく成り、自動車屋のカレンダーがあまり楽しくない。又送ってください。

さて、相変わらずの貴君のスタイル、アッチヤ、コッチヤ具合が悪いとは言いながら仲間の中では一番元気なように見受けられますよ。みんな高校の仲間は残っているメンバーは耳の遠いいのが多くなったが、その他は元気ですね。大学の仲間は野球の巧かったプロへ行った3人を始め結構早く亡くなりましたね。先日古い「六球会」の写真をブログにアップしたら、結構見てくれた人が多かったですよ。でも「日石」の戸谷さん、「大昭和」の徳丸さん、「ビール梅垣さん、松本悦雄さん等こわい先輩も居なく成り寂しいですね。昔、お宅のお父様が「三田倶楽部」の会長をされて居た頃、よくお宅で「すき焼きパーテイー」をやっていましたよね。確か僕が一番初めに呼ばれた時は、梅垣さんが一番上級生であれ以来梅垣さん=梅さんに可愛がられたのもあの時以来の様な気がします。会社に入ってから車をズット僕から買って呉れました。貴君のお父様はあの時、三田倶楽部の会長をされて居たんですね。松尾さんの力作「慶応義塾野球部史」を読んで早慶戦の18年間の中断、復活早慶戦に至るご努力等を知り改めて貴君、御父上の野球、特に早慶戦に対する熱き想いを感じました。今日多様化するスポーツの多い中、早慶戦だけは我々塾員、塾生の力で守り続けたいものだと思います。今秋は残念ながら早慶戦に敗退し、優勝を逸しましたて残念でした。

・慶応高校、大学野球部の近況

秋のリーグ戦は相変わらず、全試合見ましたがテレビ観戦が3試合ありました。高校野球部が2回連続の甲子園出場、大学が昨年秋と今年春と連覇。まあ「慶応野球此処にあり」という好成績でした。三田倶楽部の会費納入率が約83%と異常な高さです。OBも色んな年代に別れますが、一番年長組の「六球会」の野球年1回、ゴルフ2回の定期会合も優秀な成績で他校を圧倒しています。基本的には60歳以上ですが、80歳が限度でしょうか?

昔はメンバー集めに苦労したものですが、今は六球会の参加費(神宮球場の借用料)も三田倶楽部の予算に組み込まれているし浜 元監督、小西マネージャー等がしっかりコミュニケートして呉れているし、我々の代では幹事会には河内君が頑張ってくれていますので、万全でしょう。随分長い間(70年位?)神宮球場で野球を見ていますが今年は初めての事を二つ見ました。一つは、1塁ゴロの太陽安打です。人工芝なのでイレギュラーバウンドはしない筈なのに慶応の一塁手の前で高く跳ねあがり、丁度夕方の落日の中に入りライト前に飛んでいきました。あの時間、あの角度あのイレギュラーのバウンドが全く重なるなんて、全く初めてでした。もう一つは、慶応高校の出身の投手が津留崎3年、木澤2年、森田1年と続いて一試合に登板した事です。まあ出来はそれぞれですが、最近は志木校も藤沢も一軍で投げる好投手も随分いますが、こんな順番で登板したのは初めて見ました。これで。貴君の父上や石丸部長先生、特に長尾部長先生がご覧に成ったら皆さん非常に喜ばれるでしょうね。

・昔の話

確か、高校2年の秋でしたか?急に長尾部長先生から「教員室に来い」と呼び出されました。担任でもないし、英語も教わって居ないし、悪い事をした覚えもないし、こわごわと教員室に行くと、長尾先生が一人のご婦人と話をされて居ました。「おいこっちに来い」と呼ばれて「こちら三田倶楽部会長の奥様だ」「今度、お子様を野球部に入れたいとおっしゃる。君と同じ学年だから、良くお世話して、友達になって呉れ...」と言う話で安心した。クラスは違うしそれから君が練習に出て来るようになった。守備は同じ外野、で右投げ左打ち、まあライバルの参加である。幸い、僕はライト、君はセンターだったね。あの当時は、先輩の2回生、3回生が大学野球部に入っても、直ぐ辞めてしまうので君のお父様は高校から入らないと「慶応は強くならない」と良く言われていたね。2月学校の試験が終わると直ぐ合宿にいれられた。ご飯はどんぶり飯一杯、にオカズは味噌汁と一品、沢庵が大きなどんぶりに山盛りに成って居て、お腹に足りない分は良く沢庵を食べて我慢したっけ...4月に入ると地方勢が予想以上に入学してきて、慶応高校は自宅から通えと言う事になったんでしたね。

まあ、当時の部長、監督は内部進学の途絶えるのを心配されていたのでしょうね。当時、最強と言われるメンバーを揃えていながら、9シーズンも優勝できなかったので、阪井監督も相当プレッシャーを掛けられていたのでしょうね。一度、2軍の練習でバッテイングの時に、「慶応高校は打たんでいい」と言われて頭に来たことを今でもよく覚えて居ます。僕は阪井さに「増田打たんでいい...」と言うのなら良いですが、学校を名指しで言うのは困ります。未だ、他にも居るのですから...」と口答えをしました。其の1週間位後に山岡さんから「どんな練習をしているんだ」と聞かれたので、その話をしたら、山岡さんは直ぐ阪井さんに電話して怒ったようです。翌日、練習が終わった後監督に呼ばれて「本科の3年まで外野の後ろの小川で球拾いをしていた宇田川さんを使ったら名ショートになった話とか、全部俺は見ている...」一時間半お説教をされました。この話は山岡さんにはしませんでした。兎に角いろんなことがありましたね。部員も少なかったから、山中湖の清遊、とか葉山海岸遊泳とか...僕らはマネージャーを含めて、6人大学に入りましたが結局4人は最後まで居ましたよね、次の学年は甲子園へ行って、殆ど一チーム入ってきましたから心強かったですね。

あれから、50年前記したように塾高出が中心で良い野球をやって居ます。いい仲間も沢山出来ました。貴君と「菊正宗」を焼酎と知らず渋谷で飲んで、四の橋の君の家まで送って行ったことや、君の親戚の芦ノ湖の「松坂屋旅館」に遊びに行ったのも覚えています。あの時から貴君は写真が好きでしたね。「ファインプレーをファイプレーでなくするプレー」とが大事とか、長尾先生の「当たり前のことをやれば、当たり前のことが出来る」とかあの時代の人は謎かけ問答の様な話し方が好きでしたね、巨人の藤田監督の座右の銘は長尾先生の言葉でした。

早々


“Diary 142”  ’18-11-6

2018-11-05 16:19:35 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

・10. 1 豊川稲荷

毎月同じことの繰り返し、菊屋の女将さんいつも僕たちの行くのを待っている様...と言うのはお店が空いているから。外国人の参拝が此処も目立つように成って来た。外国人でも年配のカップル、少人数ツアーが目立つ。やっぱりこの周辺地区、赤坂、銀座、新橋、青山等の個人商店が無くなり「商売繁盛」のお参りが減って来たのも理由か?ご寄進の名札を見ても木の新しい物は目立たない。兎に角、街の様子は変わって来た。

 ・10.5 趙君 来宅

何回もこのブログには登場している北京から慶応工学部大学院ヘ留学して来て、無事卒業。専門は「触媒」日本での就職希望はあったが、巧い具合に就職できず。仲間とソフトの会社を始め、約10年、その後「Adobe」に入り、3年位前に「Adobe」の本社にうつりサンノゼのMegumi の近くに引っ越した。今度は自分のチームを引き連れて、東京との業務連絡に1週間の予定で来日。チームメンバーを箱根に連れて行ったそうだ。帰米前に我が家へ一日寄ってくれる。Tシャツに短パン姿、昔、結婚前の様な雰囲気で来宅、午後昼から、夕方5時頃まで久しぶりで、昔話や今度のアメリカ行きでMegumiの傍に行くなんて人の縁のつながりの不思議さに感じ入る。サンノゼは物価が高いそうだ。慣れれば兎も角、この2~3年では日本の方が暮らしやすいと...特に子供のミフイ―は9月から学校にだ行って居るので友達が出来たかな?友達が出来にくいらしいと言っていたが...「将来何処で暮らすの?」「やっぱり東京かな」奥さんは北京の友人とPCで買い物を頼まれたりして、自然にビジネスになるらしい。今、アメリカでは物価の高い順は、ニュヨーク。ハワイ、サンノゼの順だそうだ。もう、趙君との付き合いも25年に成る。学生の時、僕のネクタイを120本位上げた。慶応読書会入りたいと言うので連れたいった時に、「あれ、見た事の或るネクタイだな」と思ったら、僕の上げたネクタイだった。趙君は185CM位あるので背広はぜんぜん着られない。背広はミヤンマーから留学してきていたTun君に10着位上げた。彼はピッタリだったが、今はもう中年太りでその背広は着られない。此の両君も皆Megumiとほぼ同じ年。振り返って見れば、「光陰矢のごとし」特に僕たち夫婦に野心が有った訳ではない金銭的援助は勿論して居ない。頼まれたこと、相談とアドバイスと人を見る目が有った事かな?何よりも皆、いつもリアルタイムで話できるのが楽しい。

・10.10 シマコ大島&ハービー・トムプソン ライブ 於 新宿OneNote

OneNoteと言うライブハウスは、サラリーマン退職者ご夫婦が始めた新しい小さなライブハウス。新宿3丁目御苑の近くである。狭い店なので出演は基本的にソロ、デュオ、トリオまでか?僕の友人S君が同級生の大島君が出演するから、行きませんか?と誘われた。その日はハービー・トンプソンと言う黒人歌手が出ると言う誘い。アメリカはシカゴとか?MLBの試合で国歌斉唱をやったことも有るとか?色々NFLや大きな試合の始めにやるが、基本的にはバックなし... 2ステージ聞いてきたが中々エンターテイメント性に優れたジャズ歌手だった。

「何処から来たの?日本何年?住まいは?」拙い英語で話をしたら「調布」に住んで居ると言う。そして、「明日メールを書くよ」と言う返事。明朝メールが来た。「家へ遊びに来たい」と... 断るわけにも行かないので、早速、大島君に電話して日取りの検討と付き合いを頼む。大島君は幼稚舎から大学まで、学生時代は我が親友三保敬太郎君憧れてピアノを始めたとか、英語の援助も必要だし、と言う事で22日に二人で我が家に来た。写真は、FaceBookに載せてある。久しぶりで良いライブだったし、我が家でジャズ談義。大島君も損保勤め退職後、昔取った杵でジャズピアノにカンバック。昔は、鈴木章治のリズムエースに参加していたとか。

 ・10. 11吾郎ちゃんを囲む会 於 かに道楽

畑中吾郎ちゃん高校3年の時18クラス中一番程度の悪いと言われたクラス。吾郎ちゃんがボスで、先生が5分遅れると吾郎ちゃんの号令一下総サボ、先生が目に涙を浮かべながら迎えに来る。机は僕の横隣試験の時は僕の回答を待っている。生まれは勿論東京新橋 家は運送会社要するに番長。

此の所、3回ばかり当時の体育会の顔馴染み20人位を集めて「ご馳走」をして呉れる。大体「新橋亭」か「かに道楽」吾郎ちゃんは泰明小学校、慶応商工、慶応高校大学でレスリング部、レスは強くて吾郎ちゃんは全日本でウエルター級の3位に成って居た筈。集められたメンバーは泰明小学校出が4人位いる。随分吾郎ちゃんには世話になった連中が多い。僕だって車は会社の車もズット買って貰っていた。まあ、懐かしい顔ぶれで人数も丁度いい20人位で話が弾むし、後を引いて交詢社で5時ごろまで懇談。さすがに酒は皆ストップ。

・10.24年金事業団

何か良く解らないが、呼び出しがあった。要は増田商会の役員をしている僕が名義貸しか?実際に仕事をしているのか?と言う確認の調査の様だった。初めての事でこわごわと行ったのであるが、政府もいろんな事の実態調査をしているんだなと思った。

 ・10.25 自動車振興会 健康セミナー 於  アイビーホール

我が社は親父が死んだ時から、自動車振興会の健康保険組合に入っている。会社の加入番号は189番である。此の組合は費用負担が自身35/1000 事業主37/1000で企業負担が多い組合である。親父が死んだ時に従業員の健康を考えて此の組合に加入した。企業負担は多いのである。当時は自動車業界の景気も良く、組合の給付も良く内の番頭さんが死んだあと奥さんから「年金の給付が多く有難かった」とお礼を言われた。未だに昔ほどでは無いが色々な啓蒙活動は活発である。今回は「高齢化と自分で出来る健康維持」と言うテーマで講師はライズアップの女子トレーナー。Megumiの同業である。「どんな話をするか?」と興味があり参加した。まあ、今流のパワーポイントを使った一時間の講義。内容は僕には新味のあるものでは無かった。何時もMegumiから言われている話。でも、聞いている人は熱心だった。

 ・六大学野球 秋季リーグ戦終わる

残念な早慶戦の敗戦でシーズンは終わった。塾高の甲子園連続出場、六大の3連覇、「慶応野球此処にあり」と期待したシーズンだったが、やっぱり10連勝は至難の業だ。勝ち点勝負はトーナメントと一緒、一敗が響いてくる。昨秋から選手が良く纏まっている事、大学では特に投手陣のレベルが上がったと思う。 長い間、本当に長い70年近い間神宮に通っていて、初めての事が在った。先ず、津留崎3年、木澤2年、森田1年の3人の塾高出身投手が一つの試合で投げた事。早慶戦での一塁ゴロの弾みすぎによる太陽安打。秋の神宮のあの時間、太陽はつるべ落としフライの太陽安打は良くあるがゴロは本当に初めてだ。何か、神宮の球場が良く弾む?ボールが飛ぶ?何時もとは違ったような気がする。ネット裏の常連の顔ぶれも大分変わって来た。ブラスバンドも女子学生が増えて来た。ベンチに女子マネが入る様になって来た。フレッシュリーグも面白い試みだ。