🔶890『自然と人間の歴史・世界篇』ウクライナ

2022-02-23 10:55:54 | Weblog
890『自然と人間の歴史・世界篇』ウクライナ

 現在のウクライナ共和国(ウクライナ)は、東にロシア連邦、西にハンガリーやポーランド、スロバキア、ルーマニア、モルドバ、北にベラルーシ、南に黒海を挟みトルコが位置している。なお、クリミア半島については、2014年からのロシアとの争いの中で、ロシアによる住民投票の結果を受けてロシア領に組み入れられる。
 4~6世紀には、東スラブ人のグループが現ウクライナの地に移動してきた。この地での8世紀には、キエフ・ルーシ公国が成立する。ドニエプル川の中流に位置するキエフは、9世紀末の882年にキエフ公国が成立した時からの首都である。後のことだが、1990年、「キエフのソフィア大聖堂とペチェルスカヤ大修道院」ということで、ユネスコ世界遺産に登録される。  
 13世紀の1240年代には、モンゴル・タタール軍の侵略を受ける。この侵略で、1240年、モンゴル軍がキエフを攻略する。これにより、東スラブ人は、ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人のグループに分化していく。
 それから約200年にわたってその支配下におかれる。その後、リトアニア、そしてポーランドへ併合される。
 1340年、ポーランドの東ガリツィア地方を占領する。1349年、ポーランドのガルチ公ダニエルによって、現在のウクライナの西部にあるリヴォフの町が建設される。この町の歴史地区だが、「石畳と格調高い建築群」が伝える美ということで、後のことながら、1998年に世界遺産に指定される。1362年、リトアニアがキエフを占領する。これにより、リトアニア大公国とポーランドの領土に分割された。1569年には、ウクライナ全土がポーランド領土に併合される。
 1648年、フメリニツキーらのコサック軍による蜂起が起こる。これは、ポーランドからの独立戦争であった。1654年、ペレヤスラフ協定が結ばれる。1654年、ペレヤスラフ協定が結ばれる。1764年、ポルタヴァの戦いが起こる。こちらは、ロシアからの独立戦争であった。
 1853年には、クリミア戦争が起こる。この戦争は、なかなかに複雑な構図で戦われた。16世紀末以来のロシアとオスマン・トルコとの戦争の継続・発展なのだが、フランス(ナポレオン3世)とイギリスがオスマン帝国を支援したところに特色がある。実質的には、ロシア軍対フランス・イギリス連合軍の戦争となる。この戦争の舞台は、黒海に南に突き出たクリミア半島で、終戦まで血みどろの戦いが続けられた。
 1914年、第一次世界大戦が始まる。1917年、この大戦中にウクライナ人民共和国が成立する。1917~1921年、ウクライナ・ソビエト戦争。1922年、ソビエト社会主義共和国連邦が成立する。1932年、大飢饉(ホロドモール)が起こる。1939年、第二次世界大戦が起こる。1941年、独ソ戦が開始される。ドイツがウクライナを占領する。1954年、ウクライナがクリミアを編入する。
 1986年には、チェルノブイリ原発事故が起こる。1991年、ウクライナが独立を果たす。そしてソ連邦崩壊、CIS(独立国家共同体)創設となる。1996年には憲法が制定され、通貨フリヴニャを導入する。

 1996年には、憲法を制定し、同年中に戦略核兵器のロシアへの移送を完了したことになっている。

 2004年には、政変が起こる。それを、オレンジ革命と呼ぶ。そこでは、同年11月の大統領選挙と12月の再選挙において親欧米派の野党候補ユーチェンコ元大統領が勝利する。ユーチェンコ政権下では、ガス供給、ロシア黒海艦隊、NATO(北大西洋条約機構)の見方などを巡りロシアとの関係が冷えていく。

 2010年には、大統領選挙の決戦投票で、地域政党のヤヌコーヴィチが勝利し、新政権はNATO加盟方針を撤回(2010年の国内法で非同盟を決定)、ロシア黒海艦隊の駐留期限の延長などで、ロシアとの関係を一部修復する。
 2014年には、マイダン革命(尊厳の革命)が起こる。こちらでは、同年2月に反ヤヌコーヴィチ派の大規模デモが発生し、80名が死亡したという、ヤヌコーヴィチ大統領は国外に逃れた。同月中に、暫定政権が発足する。翌3月には、南部のクリミア自治共和国でロシアへの編入の是非を問う住民投票が実施され、賛成が多数となり、ロシアに編入された。かたや東部では、同年3月以降、親ロシアの独立派の武装勢力が台頭していく、これに対して政府は軍隊を投入し、内戦となる。同年5月には、大統領選挙が行われて、ポロシェンコ元経済発展貿易大臣が当選する。

○2014~2015年にかけては、ロシア・ウクライナ・ドイツ・フランスの4カ国が参加して、ロシア和平プロセスを定めた、ウクライナ東部に関わる「第1次ミンスク合意」(2014)及び第2次ミンスク合意」(2015)を締結した。
 それらの経緯としては、2014年9月に締結された前者は12項目から成る。OSCE(欧州安保協力機構による停戦監視や、分離派が支配する地域への暫定的な特別地位の付与、地方選挙の実施、当事者の恩赦などが含まれていた。ところが、停戦合意は2015年1月に完全に破られ、大統領は逃亡しまう。
 その後の歩み寄りにて、後者がまとめられるのだが、13項目で構成されている。主なものとしては、武器の即時使用停止、外国部隊の撤退、OSCEによる武器使用停止の監視、ドンバス地方の「特別な地位」に関するウクライナの法律採択、それにOSCEの基準に基づく前倒し地方選挙の実施などの項目がある。

 2022年1月15日、ロシア下院は、ウクライナ東部の2州(ドネツク州とルガンスク州)のそれぞれ一部地域の独立国家として承認するようプーチン大統領に求める決議を採択した。

 2022年2月22日、ロシア連邦議会上院は、プーチン大統領が要請した、ウクライナ東部の親ロシア派2地域における平和維持活動に向けた措置の名目で、国外へのロシア軍派遣を全会一致で承認した。
 これと同じ2月22日、ロシアのプーチン大統領は、ウクライナ東部の停戦と和平への道筋を示した「ミンスク合意」はもはや存在せず、履行すべきことは何も残っていない旨を述べた。

(続く)

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🔶1175『自然と人間の歴史・世界篇』中国の景気そして労働動向(2020~2022)

2022-02-19 20:56:55 | Weblog
1175『自然と人間の歴史・世界篇』中国の景気そして労働動向(2020~2022)

 中国の2021年10~12月の実質GDP(国内総生産)成長率の速報値は、前年同期比で4.0%に鈍化した。参考までに、その前の2019年第4四半期からの歩み(前年同期比)をたどると、同5.8%、同マイナス6.8%、同3.2%、同4.9%、同6.5%、同18.3%、同7.9%、同4.9%(同7~9月期、この時時点で6期連続のプラス成長ながら、伸びは2期連続で減少、電力・移動制限が響く)と推移している。
 これを前期比年率ベースでいうと、6.6%のプラス。昨年通年の同成長率は、8.1%のプラスと10年ぶりの高成長となった。なお、その前の2020年は同2.3%、2019年は同6.0%であった。
 同年7~9月の4.9%増から減速し、20年4~6月の3.1%以来の低さとなったのは、新型コロナウイルスの感染再拡大をうけた行動制限が経済活動の足かせとなった。環境や不動産など政府の規制強化も響いた形だ。
 次に、月次統計をみよう。こちらでは、12月の小売売上高は名目ベースで前年比+1.7%、実質ベースでは同0.5%のマイナスだ。こちらでは、雇用の回復の遅れや当局の「ゼロ・コロナ」戦略が影響しているとみられている。
 他方、鉱工業生産は、前年比4.3%のプラスと底入れしてきているのではないか。こちらの方は、世界経済の回復が輸出を押し上げるとともに、同期に入っての当局による電力不足解消に向けた動き(石炭出荷増など)もあろう。なお、固定資産投資は、当2021年初来伸びがペースダウンしているものの、金融当局による金融緩和の動きにも助けられて投資活動が持ちこたえているを模様である。

 さらに、失業者統計によると、2021年からは5%前半に持ち直してきていて、なんとか雇用状況の全面的悪化を防いでいる最中のようである(注)。

(注)その定義としては、完全失業率は分母に就業者と完全失業者の計、分子に完全失業者をおくのはよいとして、中国の完全失業者となる者は、都市戸籍者のうち一定の期間継続して企業等に雇用されていた者のみであって、約2億9千万人以上の農村戸籍者のうち企業等に雇用されていた者(農民工失業者)は、調査からはずされてしまうとのこと。農民には農地があり、農業所得がある、つまり自営業者という扱いであることを考えると、仕方のないのとなのかも知れない。
 ちなみに、2019年時点の中国の都市労働者数は約4億4千万人だというから、その5%ということでは2200万人という話になろう。年代別では、16~24歳の都市住民若年層の失業率は、2018年以来10%を超えているとのこと。特に、2020年7月と8月には16.8%を記録した、これは新型コロナ禍が深刻になったことと関係があろう。
 それから、こちらにつき、2021年4月21日付け中日新聞による試算では、その実態は、次のように見積もられている。
 「全部の関係統計が分かる2019年12月の失業率はまだこれよりやや低かったのですが、12月には12.2%を記録していました。高失業率はコロナ禍以前から起きていることです。
 2019年の16~24歳の都市住民人口は8800万人*と推定されますが、その12.2%というと、失業者数は約1070万人**にも上ります。
 *8800万人:総人口14億人(2019年)のうち同世代人口比は11.1%なので実数は1億5540万人、このうち都市人口比は57%なので実数は約8800万人。
 **1070万人:8800万人×12.2%」(2021年4月21日付け中日新聞より引用)
 続いて、それからしばらく経っての2021年11月の全国都市調査失業率は5.0%となり、前月の4.9%から0.1ポイント上昇しての5.0%となった。同年11月での本地戸籍人口調査失業率は、5.1%(前月は4.9%)、外来戸籍人口調査失業率については、同月が4.8%、前月が4.8%となった。その中でも、16歳~24歳の失業率は、同年10月に14.2%であったのが11月には14.3%、同じように25歳~59歳の失業率は4.2%から4.3%に微増した。週平均労働時間については、同年10月に48.6時間だった、それが同年11月には47.8時間に減少。それから、同年11月の新規雇用増加数は、1207万人で政府の2021年年度目標を達成した形。

(続く)

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🔶1173『自然と人間の歴史・世界市篇』社会主義経済の進行中の事例はあるか(~2022)

2022-02-18 19:01:00 | Weblog
1173『自然と人間の歴史・世界市篇』社会主義経済の進行中の事例はあるか(~2022)

 社会主義経済とは何であるかを決める要素とは、いったい何だろうか。ソ連や東欧の社会主義がまだ健在もしくは命脈を保っていた間は、公有制や計画経済、資本主義とは異なる労働市場のあり方などを挙げ、それらの要素が合わさって社会主義経済を構成させている、と言われていた。だが、それらは1990年代初頭までに大方瓦解・消失してしまい、今はほとんどが存在しない。
 そうなると、現在、社会主義国は皆無なのかというと、「中国があるではないか」という向きがあるかも知れない。だが、現時点で見るに当たっては、かつての社会主義というものへの理解とかなり違った形となってくるのではないか。筆者としては、新しい観点が導入されないかぎり、従来思考に固執していては、なかなかその資本主義に対する優位性を理解し難い。というのも、新たな要素が色々と国民経済に混入してきていると考えている。
 それと、その体制が全体としてどの方向に向かっているかにつき、政治権力の動きに大きく影響されることもあろう。すなわち、これからは国家の果たす役割との兼ね合いがどうなっているか、「堅忍不抜」とでも形容しようか、その方向性を読み取ることが重要だと考えている。そして思うに、そうした意味をも込めて現在中国は、一個の実験場となっているのではないだろうか。
 と、いささか回りくどくなってしまったが、私見として提案したいのは、21世紀の魅力ある社会主義というのは、公有制や計画経済(市場を活用してよい(注))、資本主義とは異なる労働市場のあり方に加え、構成員全体への生活保証が伴ってはじめて実質的な意味をもつ、それと、政治・経済がそのことに向かって前進しているという姿勢を安定持続していることが必要なのではないだろうか。

(注)市場の一部利用によって引き起こされる競争は、そのことによる利益(効用の増大)ばかりに目が行きがちだが、同時に当該市場の独占傾向が強まり格差を拡大するなどの弊害も伴うことに留意するべきだ。そのことは、体制の如何を問わず起こり得る。

 こうしてみると、今の中国を、「新しい形での社会主義」とは名付けることはできなくなっている(ただし、どちらかというと資本主義の方を向いている「国家資本主義」とは違う方向性をもっていると思われる。またサミュエルソン(米・経済学者)が述べた、私有財産制度を前提とした「混合経済」とも異なる)。とはいえ、現代中国は、その官民合わせての集中力が持続するかぎりにおいて、市場の力を活用することで新たな時代の要請(前述)に応えるべく、そちらに向かって歩んでいる経済、いうなれば「準社会主義経済」とでも呼んだらいいのかも知れない。

(2022.2.18~続く)

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🔶1171『自然と人間の歴史・世界篇』中国の住宅事情と住宅政策(~2022)

2022-02-15 10:10:27 | Weblog
1171『自然と人間の歴史・世界篇』中国の住宅事情と住宅政策(~2022)

❮はじめに❭
 中国では、2021年に不動産大手企業の経営問題が大きく浮上し、様々な「膿」が顕在化している。それらを受けて、この年の1~11月では、全国31省・自治区・直轄市のうち13地域が前年同期に比べ値下がりした(注)。

(注)参考までに、過去10年位を振り返ると、住宅価格(前年同月比)は2012年と2014年にはマイナスに振れ、それからも2017、2020年にも上昇から横ばいに転じたことがあり、一辺倒の上昇基調ということではない。特に2014年の下落場面では、景気への下押し効果が心配されたことがある。

 経済情報サイトの中新経緯が伝える、不動産プラットフォーム事業を手掛ける易居企業集団傘下の易居研究院シンクタンクセンターがまとめたリポートによると、住宅価格が下落したのは黒竜江(10%)がトップ、次いで青海省(7%)、吉林省(同)、甘粛省(同)、広西チワン族自治区(同)、雲南省(5%)、山西省(同)、チベット自治区(3%)、河北省(2%)、内モンゴル自治区(同)、新疆ウイグル自治区(同)、江西省(1%)、貴州省(同)。そのほか、四川省、陝西省、遼寧省、河南省は横ばいだったという。
 一方で、浙江省の住宅価格は13%、海南省と重慶市は各8%、広東省は6%上昇したという。
 これを受けて、件数住宅取引額は、10省区市が前年同期に比べ減少した。減少幅は青海省が25%で最大。雲南省が21%減、黒竜江省が18%減、遼寧省、広西及び内モンゴルが10%減となっているとのこと。
 これらの背景には、冒頭でのべた市場の激変(こちらが主な要因)とともに、政府が、2022年の経済運営方針を決める中央経済工作会議で、都市ごとに適切な不動産政策を打ち出すなど、引き締めをしていることがあろう。

❮経緯❭

 中国での住宅取得が本格的に始まったのは、1990年代の後半であった。1990年代半ば以降、土地の所有権と使用権(定期借地権:宅地の場合、最長70年間)が分離され、土地の使用権が払い下げされるようになったのが、住宅ブームの後押しとなる。特に、胡錦涛(フージンダオ)政権(2003~2013年)になってからは、土地使用権払下げによる売上げは各々の地方政府の財源にしてよいことになった。

 今世紀に入ってからは、2005年頃から急激に増加している。これに関連して、中国の住宅ローンについては、1996年に、国有商業銀行が個人住宅ローンが解禁する。そうしたローンの解禁とともに多くの国民が一斉に住宅取得に向かっていく、その動きが他の要因に加わっていく中、家計債務を押し上げていく。
 これで勢いづいたこが住宅開発業者である、彼らは、債務を膨張させて不動産バブルを作り出していくのだが、不動産からの収入に大きく依存する地方政府がこれを後押ししていく。これに「暗黙の承認」を与えることが、結果的には住宅市場において「暗黙の保証」の役割を果たしていく。
 なぜなら、開発業者による住宅地の確保のためには、地方政府から土地の使用権を得なければならず、そのコストは住宅取得者の購入する住宅価格に組み入れられ、ひいては地方政府の重要な収入源となっていく。その流れにて、地方政府の収入に占めるウエイトは、2021年1~10月には、土地の使用権を与えることでの譲渡収入(土地所有権は、憲法で国のものであり、譲渡できない)は地方一般公共予算収入比で約61%という、「持ちつ持たれつ」の関係へと発展していく。
 ところが、2020年頃からは、恒大集団などという個別企業(開発業者)の経営問題が浮上してくる。2021年7月末になると、中国共産党中央政治局は、下半期の経済運営をめぐる会議で「不動産価格を安定させる」と方針に盛り込み、地方政府は、中古マンションの「参考価格」を作って価格を事実上統制し、マンション購入を許可制にするなど、様々な規制を始めている。
 それらの経済に対するインパクトを考える上では、顧みるに、日本の資産バブル崩壊を思い浮かべればよい。当時は、金融政策の転換や外圧などもあったのだろう、しかし、不動産バブルそのものがかなり積み上がっていたことがあろう。そこで当時の日本政府は、土地の高騰を抑制するための施策を行った。それには、土地取引価格の上限を事実上国が管理する「国土利用計画法(通称国土法)」と、金融機関の不動産関連融資を制限する「総量規制」が含まれていた。これらの結果として、住宅を売る側とそれを買う側の双方においてブレーキがかかることで不動産流通・取引は急激に減り、市場価格を押し下げることになった。ちなみに、1980年の市街地における地価を50とした場合の1991年の同価格は110にまで高騰していたのが、その後は下がり基調に推移して2004年3月には60程度に落ち着いた。また、同じ期間でみた都市部の地価変動はさらに激しく、同3月にはピーク時の約5分の1と言われている(増澤俊彦「経済学の世界」八千代出版、2004など)。

 経済統計で中国の住宅市況の減速が鮮明になったのは、2021年7~9月期の報告位からであって、前年同期比でみた1~9月期の不動産開発投資は8.8%の増加。また、インフラなどの固定資産投資は前年同期比で7.3%であり、いずれも1~6月期に比べて低い伸び率にとどまった。

 そして、これが広がっていくうちに、地方政府発の成長モデルは、そのうちに破綻していくのではないかと、国内外で取り沙汰されるようになっていく。そうした流れにおいて、中央政府としても、旺盛な不動産投資でマクロ成長を牽引(2021年1~9月での不動産投資対GDP比14%))という成長モデルからの転換を模索していかねばならぬ、という認識になり変わっていく。つまり、事ここに至ると、個別企業の問題に止まらず、中国経済全体の安定成長を続けなければならぬという観点からも、マクロの経済での急激な成長率の落ち込みを回避しつつ、住宅問題を克服していくことが求められるようになったと考えられる。

❮地方政府債務の抑制策に動く政権❭

 そして迎えた2021年4月には、政府が「地方融资平台和政府的关系该如何理顺」を発布して、かかる動きに歯止めをかけようと動く。その紹介記事には、こうある。

  「4月13日,国务院印发《关于进一步深化预算管理制度改革的意见》(以下简称《意见》)。《意见》指出,要清理规范地方融资平台公司,剥离其政府融资职能,对失去清偿能力的要依法实施破产重整或清算。(中略)
此次发布的《意见》对地方融资平台与政府的关系问题提出要求,进一步强调要清理规范地方融资平台公司,剥离其政府融资职能,就是针对个别地方没有真正理顺好政府与融资平台关系这一问题。这既是规范地方债务和融资平台运行的关系,也是对地方融资平台可能出现风险的警示。尤其是要求“对失去清偿能力的要依法实施破产重整或清算”,就是责令地方政府必须理顺与融资平台的关系,不能让地方融资平台成为拖垮政府的“灰犀牛”。」(2021年4月15日付け北京青年报の電子版)
 これにある、地方融资平台公司(LGFV)というのは、地方政府傘下の投資会社であって、それが放漫経営で溜め込んだ債務に対し地方政府は関わりをもってはならないと通知した。平たくいうと、「LGFVの債務不履行には政府が責任を持つ」という、法で明文化されていない約束に対する市場の期待を黙認すること(「暗黙の政府保証」)を改めて(2010年通知に続き)禁止するというもの。また、「尤其是要求“对失去清偿能力的要依法实施破产重整或清算”と引用されているように、支払能力のないLGFVに対しては、救済ではなく法律にのっとり破産もしくは清算を進めるように要求している。

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 マクロ経済ベースでは、2021年7~9月期の実質GDP減速を受ける形で、住宅ローンの制限や土地の入札規則を緩和するとともに、デベロッパーが債務を返済しやすくするための措置を打ち出した。あわせて、金融政策として、市中銀行に義務付ける現金保有比率を引き下げることを通じて、企業の資金調達コスト低下を期待することで、景気の底割れを防ごうとしているのであろう。
 また、住宅関連の個別資本のレベルにおいても、債務縮減などへ向けての動きもみられる。例えば、2022年2月25日、経営難に陥っている中国の不動産大手、中国恒大集団は、同グループで開発を進めていたマンションやテーマパークに関連する住宅関連プロジェクト合計4件について一部権利を売却するとは発表した。売却先は国有資源大手、中国五鉱集団傘下の五鉱国際信託、そして中国光大集団股傘下の信託会社の、つごう2社だという。
 現地の報道によると、信託2社は建設を引き継ぎ、住宅の受け渡しを保証するとしている。 これにより、70.1億元(約1300億円)の債務を解決でき、当該プロジェクトへの初期投資の一部である19.5億元を回収できるという。
 恒大グループはこれまで、債務弁済期限の度に苦しいやりくりを露呈してきたところ、物件引き渡しの遅れや、工事に関わる代金の支払い遅延をも引き起こしている。ついては、建設中の物件を購入者へ引き渡すことで、経営問題の改善を図る方針だと伝わる。

(続く)

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🔶707『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連の政治経済(~1988)

2022-02-13 22:57:20 | Weblog
707『自然と人間の歴史・世界篇』ソ連の政治経済(~1988)

 1988年6月28日から7月1日にかけて、第19回ソ連共産党協議会が開催された。討論の実況が初めてテレビで全国に公開された。
 この会議でソ連共産党の書記長であったゴルバチョフは、政治改革の必要を訴える。具体的には、ソ連の最高の権力機関としての人民代議員大会の創設を提案する。これまでの最高会議に変えて自由選挙地方選局、民族地方選挙区、社会団体からそれぞれ750名ずつ選挙された2250名からなる人民代議員大会と、そこから選ばれる4004~450名の最高会議議員でもって新たな連邦議会を構成するというもの。しかも、議員の3分の2の選出に当たっては、それまでのような共産党の推薦した唯一の候補者の信任投票によるのみでなく、複数候補の立候補によるロシア革命以来の自由選挙で選ばれるという仕組みに取って代える。
 また、人民代議員大会の中から選出される最高会議(最高会議議長職の創設を含む)については、共産党政治局の決定を破棄する権限をもつことが決定される。
 1988年10月、ソ連邦最高会議幹部会議長(元首)を兼任したゴルバチョフは、同年11月に憲法改正案と新選挙法案を提出する。国権の最高機関としての連邦人民代議員大会と強力な権限をもつ連邦最高会議議長の創設、それに常設の立法機関としての連邦最高会議の創設などが盛り込まれた。同年12月、憲法改正案と新選挙法案はソ連邦最高会議で採択される。
 1988年11月、ソ連の一共和国であるエストニア共和国最高会議は、主権宣言を採択するとともに、共和国憲法を改定し、ソ連邦の法令は享保国最高会議の批准によってはじめて効力を持つことに変えた。これを受けたソ連邦最高会議幹部会は、エストニア共和国のこの決定はソ連邦憲法に違反し無効であると宣言する。翌年になると、エストニアの近くの共和国であるラトヴィア共和国とリトアニア共和国もエストニア共和国と同様な決定を行うに至る。

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 当時において経済改革の主要課題とされていたのは、やはり、卸売(資本財)市場の創設と消費財の安定供給、インフレーシヨン(そのために、「国民は毎日貧しくなっていた」とも解釈できるほど)を克服することであったろう。
 そこで前者について、まずみていこう。ペレストロイカの経済面の実務を務めていた経済学者アガンベギャンは、こんな話をしている。

 「私たちは、経済メカニズムの立て直しが、単に企業管理部やその研究開発部門にとどまらず、従業員全体にまで及ぶようにするため、独立採算制に基づくあらゆる集団請負制の適用範囲を広げることを決めた。とくに、その最高形態である賃貸借(アレンダ)制の適用範囲を拡大したいと考えている。この賃貸借制は、生産物の品質改善とあらゆる資源利用の効率向上を狙った複雑な奨励措置制度と結びついている。第19回党協議会では、卸売商業の導入を促進するとともに、各企業による営業収益の管理権に今なお加えられている制限をできるだけ早急に撤廃することが決定された。また、ソ連経済の財政健全化を目指す特別計画の策定をもはや延期できないことが改めて指摘された。
 この面での成否は、私たちが社会主義市場をどの程度利用できるかにかかるところが大きい。私たちは、消費市場とともに、資本財の市場を近い将来に我が国に創設することを目指している。(中略)
 現在のような時期にはインフレ傾向を阻止することが重要であり、そのためには競争が盛んになるような市場の状況を作り出し、独占行為をやめさせ、インフレに抵抗する財政・信用機構を作り出し、通貨の流れとの適正な相関関係を確保するようにしなければならない。」(アベル・アガンベギャン、大朏人一(おおつきじんいち)訳「ソ連経済開放への道」読売新聞社、1991)

 これにもあるように、当該の党議会においては、政治ばかりでなく経済面での困難(それらは、当時の諸般の差し迫った状況から見て、もはやソ連の社会主義経済が暗礁に乗り上げるレベルに達していたに違いないのだが)を打開しようとの意気込みも見られたようなのたが、その後の経緯からすれば、「遅きに失した」の感を免れなかったようだ。

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 そこで古今東西、それに現在においてもよく言われていることなのだが、やはり「衣食住」が大事であるのは、ほぼ共通しているのではないか。ソ連のペレストロイカにおいても某かそのことに気がついていたのは、当時の用人、アガンベギャン(経済学者)の次の指摘からも、窺えよう。
 「商品とサービスの供給となると、これまでに収められた成果はきわめてわずかなものだ。物的財とサービスの量は1986年に5.7%、1987年に3.3%、1988年には7%だけ増加した。第12次5か年計画の最初の2年間に、小売販売高(アルコールを除く)は10.5%、1988年には7.1%だけ増加した。同期間に有料サービスは19.2%および17%も増加した。国家統計委員会によると1人当たり実質所得は、第12次5か年計画の最初の2年間に4.6%、1988年にはさらに3.5%それぞれ増加している。」(アガンベギャン、前掲書)

 とはいえ、こうした数字を額面どおりに受け取ってよいのだろうか、同時に、食糧供給の隘路(あいろ)について、次のように言及している。

 「以上の統計数字(不変価格で表示)に評価を加えるにあたっては、ソ連には隠れたインフレがあり、それが消費市場に影響を与えていることを念頭に置くべきである。現行の価格統計は一定の品目の定価表を基礎にしていて、品目の変更による価格の上昇を考慮に入れていない。実際には、安価な商品が姿を消し、代わりにもっと高価な商品が現れるという動きが絶えず進行しているのである。この隠れたインフレは年率3~4%と見積もられている。これに応じて上記の数字を修正すると、物的財とサービスの消費の実質的成長率は、1986年で2%前後、87年にはゼロ成長、88年にはわずかに上昇した計算になるだろう。(中略)
 一般に、ソ連は食糧消費に関する限り、世界の先進15か国の一つであるが、住宅条件、幼児死亡率、サービス産業の発展、耐久消費財の供給その他多くの指標に、ついては、50番目あたりに位置している。しかも、食糧供給の点で高い位置にあるとはいえ、その供給体制がきわめて悪いために、需要が満たされない部分が多く、地域差も大きく、食料品の種類は非常に貧弱で、品目によっては非常に品質がお粗末だ。それから見ても、基礎食糧の輸入を最小限に減らし、食糧供給を改善するためには、農業生産と食品工業を発展させるだけては不十分だと結論せざるを得ない。それに劣らぬ努力を食糧供給体制の改善に注がなければならない。つまり、根拠のある食糧価格を復活し、食糧の品質を向上させ、豊富な種類の食料品を生産し、販売するように、しなければならないのである。また、公共外食制度や食糧の輸送、貯蔵、販売の根本的改善を考えなければならない。(中略)

 次は、日用品の問題だ。第12次5か年計画期におけるこの分野の進展は全く不十分だった。1986~87年に消費物資の生産量は7.8%増加した。そのうち、軽工業は3%、縫製工業は1%の生産増加しか見せなかった。1988年には、消費物資の生産増加率は5.1%、そのうち軽工業は4.3%だった。しかし、軽工業で主たる問題になっているのは生産量ではなく、品質と種類である。国民一人当たりの生産量では、わが国は織物と靴で久しく世界第1位を占めている。ところが、需要は満たされていない。なぜなら、製品の品質と種類が国民の要求に合わないからである。それはもっと伝統的な日用消費製品、たとえばテレビ、冷蔵庫、洗濯機、電気製品、ラジオなどにも当てはまることで、この場合も生産量は十分なのに、品質と種類が国民の要求に合わないのである。」(アガンベギャン、前掲書)

(続く)

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(続く)

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新185『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備前の干拓、児島湾、近世~戦後)

2022-02-12 19:01:20 | Weblog
185『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備前の干拓、児島湾、近世~戦後)


 さて、近世もかなり大詰めになっての江戸時代の後期まで、封建時代の生産関係の下で基本となる生産力のは発展は、およそ次のような推移をたどったようである。

 「1661~1670年代の貢米(単位は100石)は1992、1665年の人口(単位は100人)は2472。1671~1680年代の貢米(単位は100石)は1908、1679年の人口(単位は100人)は2442。 1721~1730年代の貢米(単位は100石)は1821、1721~1726年の人口(単位は100人)は3418。1751~1760年代の貢米(単位は100石)は1878、1750~1756年の人口(単位は100人)は3243。1781~1790年代の貢米(単位は100石)は1831、1786年の人口(単位は100人)は3216。 1861~18706年代の貢米(単位は100石)は1738、1872年の人口(単位は100人)は3319。(山崎隆三「江戸後期における農村経済の発展と農民層分解」、岩波講座日本歴史12・近世、1963.12に所収)

 さらに、戦国・近世からの干拓の延長線上にあるのが、現在の児島湾の西の端、湾奥には締切堤防の建設なのであって、その西は児島湖となっている。岡山県岡山市南部の児島半島に抱かれた児島湾中部に位置し、江戸時代以来の干拓でやや縮小していた地帯である。
 この堤防建設を計画したのは農林省で、土地改良事業として、1951年(昭和26年)に着工する。この事業の中身は、児島湾干拓地の水不足解消と灌漑(かんがい)用水の供給が主目的。つまり、農業用水の確保が本命であったらしい。用水確保のほか、塩害・高潮被害の除去などの目的も含まれていたという。
 計画では、総延長1558メートル、幅30メートル(現在の岡山市南区築港から同区郡(こおり)まで)をつくる。これに沿って工事が進み、1959年(昭和34年)には潮止めが、1959年(昭和34年)には完工となる。こうして、淡水湖としての児島湖が誕生した。
 この人工湖の面積は10.9キロ平方メートルで、ダム湖を除いた人造湖としては建設当時世界第2位、ただし水深は浅い。笹ヶ瀬川(ささがせがわ)と倉敷川、妹尾(せのお)川などが、これに流入する。これらから流入する水、土砂などによって湖水の汚染が進んでいるともいわれるが、この締切堤防は岡山市中心市街地から児島半島東部への短絡路線にもなっていて、このあたりの人びとの交通の利便の役割も果たしている。

 こうして海を仕切って我が国において最初にできた児島湖なのだが、その後の展開でいうと、やはり湖沼法との関連で岡山県にスポットが当てられるようになったことではないだろうか、そのことは、環境行政に詳しい由比浜氏により、次のように語られている。

 「国の責任官庁が不明では、県が浄化事業を実施しようにも補助金申請先がない。したがってこれまで県が実施できたのは工場などの排水規制指導、河川への清水導入、流域下水道建設、合成洗剤問題PRなどであった。
 1985年(昭和60年)暮れに湖沼法が制定され、県は水質保全計画を翌年春にまとめ、国と協議のうえ、全国に先がけて1987年(昭和62年)に計画決定をみた。1985年度(昭和60年度)のCOD10ミリグラム/リットルを5年間で8.8ミリグラム/リットルにまで改善する目標で、下水道整備、底泥凌渫(しゅんせつ)、排水対策等々を講じようというのである。目標達成自体、大変な努力を要するし、流域下水道は第一期工事が完成しても流域の一部をカバーするにすぎず、加えて処理場からの大量放水を湖沼・湖外のいずれに行うのかは地元との大争点である。
 1987年(昭和62年)5月に農林水産相は農林水産省を児島湖管理者とし、管理を岡山県に委託する旨決定した。農林水産省所管ということは、土地改良法にもとづく事業が主体となる関係上、委託を受ける県側の主役は水質保全課ではなくて耕地課である。そのため、どこまで環境改善が達成されるか不安がる向きもある。しかしともあれ、行政として児島湖問題に取り組む体制ができたといえる。」(岡山大学教授・由比浜省吾「大干拓の歴史と再生への努力ー児島湖」ー「日本の湖沼と渓谷11ー中国・四国、宍道湖と帝釈峡・祖谷渓」ぎょうせい、1987に所収)

(続く)

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新♦️930の1『自然と人間の歴史・世界篇』グローバル資本主義における所得分配(おおよその見当)

2022-02-12 09:50:49 | Weblog
930の1『自然と人間の歴史・世界篇』グローバル資本主義における所得分配(おおよその見当)


 2022年2月現在、新型ウイルス感染拡大は、まだ、止まっていない。同時にこの問題は、現代世界で、一部を除いて支配的な社会経済体制である資本主義の運営や仕組みにも、大いなる課題や疑問を投げかけている。

 例えば、2020.10.3のNHKのBSニュース(フランス放送局発の部分)によると、「フランスでは、救援センターの利用者が3月以来3倍に増えています」とのこと。
 同センターは、食事に事欠いている人々に食べ物を無料で提供する活動をしており、フランスでは新型コロナウイルス下で貧困者が増大していることからこのような急増になっている、と分析している。

 このような話はいま、世界のいたるところで、その有効性がわかっていても行われていないか、目指されていたり、様々なかたちで行われているところなども散見されよう。

 それにしても、この問題はその発生からすでに10か月目を迎えつつあり、その根は深く、新型ウイルス感染拡大は、各人の「命の値段」にも波及してきているのではないだろうか。

 ついては、かかる新たなかたちでの貧困、「社会的弱者」などへの経済的なしわ寄せがなぜ避けられていないのか、しかも、そのような社会になっている根本的理由をあきらかにしようとの取り組みは、まだそう多くないように感じられる。
 ここでは、そのような取り組みの一助として、資本主義社会における所得分配の階級的性格について、すこしなりとも、「なぜそうなっているのか」を中心において考えてみよう。

 所得が増加(減少)するにつれ人々の消費の割合が減って(増えて)いくのは改めて証明を必要としない自明の事柄だと言われる、はたしてそれは心理法則であろうか、いや、そうではないと考えられよう。
 その理由は、同じ「所得」でも労働者の所得と資本家の所得ではそのあり方が異なるからだ。

 いま貯蓄をS、労働者の所得をW、資本家の所得をP、労働者と資本家の所得に占める貯蓄の割合をそれぞれsw、spとすると、Sは両方の所得の合計したものなので、次式が導かれよう。

S=swW+spP  ①
さて国民所得はY=W+Pなので、①式をこのYで割ると、

S/Y=sw+P/Y(spーsw)  ②
この式においてS/Yは国民経済全体に占める貯蓄の割合(貯蓄率)、
P/Yは資本分配率。

 ここで資本家の貯蓄率(sp)は労働者の貯蓄率(sw)より大きいと考えられることから、国民所得の分配問題とは優れて階級的な問題であることが分かる。

spーsw>0  ③


 もちろん、これには「資本家の貯蓄率(sp)は労働者の貯蓄率(sw)より大きいとは思わない」との反論が出されるかもしれない。


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 次は、現代の多くの人々が日頃大きな値の方がよろしいという評価をしている経済指標の中から、国内総生産と労働生産性を中心に、それらの相互関係を考えてみよう。

 粗国民国民所得、経済成長、労働生産性などの関係式について(拙ホームページから転載)

 まずは、数学公式z = xyの中の変数x,yについて、{(x+Δx)+(y+Δy)-xy}/xy=Δx/x+Δy/y+ΔxΔy/xyとなり、Δx,Δyが十分に小さいときは最後の項を無視できてΔ(xy)/xy=Δx/x+Δy/y(2変数の積による合成関数の変化率式)となる。

 上記の変化率の公式を導き出すには、z=xyの対数をとって(logz=logx+logy)、両辺を微分してもΔ(xy)/xy=Δx/x+Δy/yを導ける、その導出方法はこうなる。
log z = log xy
log z = log x +log y
両辺を微分して
Δz/z= Δx/x + Δy/y
Δ(xy)/xy = Δx/x + Δy/y
よって、2変数の積による合成関数の変化率式が示された。

ただし、
Y=L・y:(4.1)
Y:粗国民所得
L:生産部面の年間平均労働者数
y:平均労働生産性(生産部面の平均労働者数で粗国民所得を割ったもの)
(4.1)式を微分して変化率をとると、
△Y=L・△y+△L・y+△L・△y
右辺の3項目目は微小数なので省略して、
△Y=L・△y+△L・y:(4.2)
(4.2)式を(4.1)式で割ると、
△Y/Y=△y/y+△L/L:(4.3)
粗国民所得の成長率△Y/Yを=r(アール)、労働生産性の向上率△y/yをα(アルファ)、雇用の増大率△L/Lをβ(ベータ)とおくと、
r=α+β:(4.4)
次に、人口一人当たりの粗国民所得(Z)の増大率に対する雇用の増大と労働生産性の向上をみる。一国の総人口をN、人口の自然増加率をλ(ラムダ)=△N/Nとおくと、
Z=Y/Nの変化率△Z/Zは、(4.4)式を動員して
△Z/Z=(△Y/Y)/(△N/N)=r-λ=α+β-λ:(4.5)
この式から、労働生産性の向上率が大きいほど、雇用の増大率が大きいほど、人口の自然増加率が小さいほど人口一人当たりの粗国民所得(Z)の増大率は大きくなる。この中の雇用の増大が賃金上昇に通じて資本の利潤増大を脅かすのであれば、資本家が利潤のために一番に取り組もうとするのは、労働生産性の上昇による利潤の増大ということになる。

 一方、労働生産性に一番に寄与するのは、資本装備率であって、それは生産関数に表される。

(この後、追加予定)

 しかして、労働生産性向上の要因については、次に列記するように様々ある。

(1)技術的生産条件、労働の技術装備度(労働者定員一人当たりの固定生産価額)
(2)労働者の熟練度、専門的知識、生産上の経験
(3)労働と生産の組織形態
(4)生産の集約度
(5)自然的条件
(6)国民経済の構造変化へのシフト
(7)生産条件の動的要因(エネルギーなど)
労働生産性は、大まかに技術的要因と非技術的要因とに分かたれる。 
(1)技術的要因(労働の技術装備度の引上げなど)
(2)非技術的要因(基本的に投資要因以外)


🔺🔺🔺

ハロッドの経済成長率に関する見解について

 経済成長の推進力はどの要素に依存するのだろうか。というのは、ケインズが扱ったのは短期(生産力、すなわち生産設備が一定と仮定)であったので、中・長期スパンでみた場合の供給面の増加は考慮に入っていなかった。
 とはいえ、財・サービスの生産が拡大するためには、需要と供給がともに増大することでなければならない。前者は、消費と投資(閉鎖体系でいうと)を増やせば増加するのだが、供給は、労働や資本を増やし、技術進歩があれば増加する。あわせて、需要の一部である投資は、資本に追加されることにより資本ストック(K)を増加させ、そのことをもって供給能力の増大をもたらすのが知れている、これを「投資の二重性」と呼んでいる。
 そこで、イギリスの経済学者ハロッドは、この投資の供給能力増大効果に着目して、ケインズ理論を基礎とした独特の成長理論を構築しようとした。

 これについては、現実成長率(G)、保証成長率(適正成長率)、自然成長率の3つから成り立っている。
 まずは、保証成長率の導出(資本を完全に利用した場合の均衡生産量の成長率)
は、次のとおり。

1、「財市場」が均衡しているときの経済成長率を「保証成長率」(Gw:warranted rate of growth)という。この「保証成長率」(Gw)が達成する条件は、「貯蓄率」(s)と「資本係数」(ⅴ)で表すと次の形になろう。

Gw = s/v (保証成長率=貯蓄率/資本係数)

ここに「Gw = s/v」の導出のために、単純化して、政府部門と海外部門がないと仮定して、話を進めていく。
財市場の均衡条件は、「Y=C+I」と「Y=C+S」より、次の形になる。

(財市場の均衡条件)
I=S ・・・①

「貯蓄」は「国民所得」に依存すると仮定しよう。そして、この関係を、「貯蓄率」(s)を用いてあらわすと次の形になろう。

(貯蓄関数)
S=sY ・・・②

2、次には、①に②を代入すると。

I=S=sY ・・・③

次に、「投資」(I)について考えてみよう。

「投資」とは、「生産」をおこなうために生産要素を投入すること、ここでは、「資本」を増やすことであると考えよう。

「資本」(K)の「変化分」を「⊿」であらわすと、次のとおり。。

I=⊿K ・・・④

ここで、「資本係数」(v)について考えよう。

「資本係数」とは、生産量1単位当たりに必要な資本量、これを式でいうなら、「資本」(K)と「国民所得」(Y)から、次の形であらわされる。

ⅴ=K/Y

これを変形すると、こうなる。

K=ⅴY

ここで両辺の変化分をとろう。

⊿K=ⅴ⊿Y ・・・⑤

3、
⊿K=ⅴ⊿Y ・・・⑤

これを、④(I=⊿K)に代入しよう。

I=⊿K=ⅴ⊿Y ・・・⑥

これを、③(I=S=sY)に代入すると

sY=ⅴ⊿Y ・・・⑦

これを整理すると、こうなる。

⊿Y/Y=s/v ・・・⑧

この「⊿Y/Y」は、国民所得の変化率、つまり「経済成長率」となっている。
この式では、「財市場の均衡」が達成されている状態で求められたもの、だから、この経済成長率は「保証成長率」(Gw)となる。

ハロッドの自然成長率(資本が完全に利用されているばかりでなく、労働人口の増加、技術進歩が完全に吸収されている場合の成長率。この成長率においては、ケインズのいう非自発的失業は存在しないことから、完全雇用成長率とも呼ばれる。)


4、固定資本減耗を入れるとどうなるだろうか。ここまでは、単純化のために、機械や設備などの「固定資本」の価値は低下しないと仮定して話をしてきた。だが
もし、このような価値の低下(固定資本減耗)がある場合を仮定すると、「保証成長率」(Gw)は次の形になろう。
Gw = s/v-資本減耗率
つまり、機械や設備が古くなる分だけ、成長率は低下すると考えている。
そこで、あらたな概念を考えて、

「労働市場」で「完全雇用」が達成されている「自然成長率」(Gn)は次の形になる。
Gn = 労働人口増加率
これは、「労働人口が増加した場合、同じ比率で経済が成長すれば、失業は発生しない」ということをあらわしている。
「技術進歩」があると仮定すると、「自然成長率」(Gn)は次の形になる。

5、
技術進歩」があると仮定すると、「自然成長率」(Gn)は次のとおり。。

Gn = 労働人口増加率 + 技術進歩率

 これを評して、労働人口の減少は「技術進歩」でおぎなうことができる。どちらかというと、経済成長率の最大要因は、技術進歩による労働生産性の上昇ではないか、というのであろうか。

最適成長条件

これらをまとめると、「最適成長条件」(Gw=Gn)は次の形となる。

  s/v = 労働人口増加率 

「資本減耗」と「技術進歩」がある場合は、次のようになろう。

s/v-資本減耗率 = 労働人口増加率 + 技術進歩率

6、ハロッドの提唱した3つの成長率の総括としては、次のとおり。

 こちらは、不安定性原理と呼ばれている。

 ここにあげた「貯蓄率」(s)、「資本係数」(v)、「労働人口増加率」の3つは、それぞれ別々に決まる値だとされている。
また、「ハロッド=ドーマー・モデル」では、「資本係数が固定的」と考えている。ついては、最適成長の条件である「s/v=労働人口増加率」の関係が成り立つような値が見いだせるかどうか。
 また、たとえ最適成長の状態にあったとしても、いったんバランスが崩れるとなかなか回復しにくいことも考えられている。このように「ハロッド=ドーマー・モデル」では、最適成長は「達成しにくい」ことを説明する。このことを、「不安定性原理」(ナイフエッジ原理)という。

 この関係について、教科書的には、例えばこう説明されている。
 「ハロッド成長モデルの基本的な考え方は、すでに説明した国民所得は投資の増加分に限界貯蓄性向の逆数を乗じたものだけ増大するという乗数理論と、所得の増加は新たな投資を誘発するという考え方を理論化した加速度原理の2つを結合したところにある。
 ハロッドは、3つの成長率概念、すなわち現実成長率、適正成長率、自然成長率を使って、これら成長率の相互関係から経済成長の不安定性を明らかにしようとした。これは、前章でも少しみたように彼の不安定原理(アンチノミー理論)として有名である。」(小渕洋一「イントラダクション経済学」多賀出版、1990)

🔺🔺🔺

(続く)


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◻️136『岡山の今昔』1980年代の岡山県

2022-02-11 10:46:25 | Weblog
136『岡山の今昔』1980年代の岡山県

 ここでは、1980年代の「岡山都市圏」(定義としては、全市と関連自治体)の暮らし向き(実生活)を、若干ながら観察してみよう。まずは、前提としての産業構造は、前段としての高度成長期(概ね1950年代半ば~概ね1960年代)から低成長への過渡期(概ね1970年代)の激動期を経て、全産業にわたりそれなりの知識集約化、そしてサービス業へのウエイト増加が見られる。
 それと相俟っては、人口動態に少し触れておこう。それというのも、同都市圏の出生数(5年間)は、1980~1985年の70千人が1985~1990年には63千人と減少している。
 では、これとの関連での就業の状況は、どのように推移したのだろうか。これをみると、1980年には全体が534.9千人のうち、第一次産業が12.9%の69.2万人、第二次産業が32.8%の175.2千人であるのに対し、第三次産業は54.3%、290.5千人とされる。これが1985年までくると、全体が544.2千人のうち、第一次産業が11.4%の62.0万人、第二次産業が32.3%の175.8千人であるのに対し、第三次産業は56.3%、306.4千人とあり、製造業はほぼ横ばいで健闘するも、農業など第一次産業はウエイト及び就業者数の減少が止まらない。

 二つ目、今度は県内を俯瞰的に見たら、どんな具合なのだろうか。視点を県内工業の重化学工業化比率に変えて見ると、1980~1985年の事業所数では19.8%から22.6%に、従業者数では43.1%から46.4%に伸びている
(下野克己「高度成長期の地域産業構造の変化ー岡山市と倉敷市の場合」岡山大学経済学会雑誌19(2)、1987に引用の統計から引用、以下この文節では同じ)。
 一方、出荷額等の比率は74.4%から73.2%と横ばいである。その中でも水島工業地帯の、同期間における岡山県工業における比率は、それぞれ3.8%から4.0%に、17.3%から15.3%に、58.2%から49.8%変化しており、中核的存在であり続けている。

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 次に、戦後の農業についてはどうなっているだろうか。ここで1980年までの岡山農業の歩みとしては、農家数、農業就業人口、経営耕地面積の変化に触れておこう。
 中でも農家数は、「1960年から1980年の間に3万7734戸がみられた。減少率は21.9%で、全国の23%をやや下回る。この間に専業農家は4万6657戸、率にして70%をこえる75.6%の減少があった。その減少はその数が実に4分の1になるという専業農家数の減少に負っている。他方、兼業農家はこの間8923戸、増加率8.1%の増加があり、専業農家の兼業農家化が進展した。しかし、この兼業農家数も1970年をピークとして減少に転じ、以後減少しつづけている。」(神立春樹「岡山県にみる戦後農業集落の変貌ー「農業集落調査」にもとづく統計的概観」岡山大学経済学会雑誌20(3)),1986)
 一方、農業就業人口については、「1960年には基幹的農業従事者のみであるが、33万3633人てあったものが、70年代には16万7326人へと半減し、さらに80年には8万475人へとまた半減するといつ激しい減少をみせているのである。」(神立、前掲論文)
 さらに経営耕地面積の変化もかなりのものであり、「1960年11万3451haをピークとして以後減少し、80年までに3万1232ha、率にして実に27.5%の減少があった。水田はこの間に1万8982haの減少があり、減少率23%、畑は1万383ha、率にして42.8%の減少があった。他方、樹園地は131ha、率にして2.8%の増加があった。農業の軸である稲作の水稲作面積をみると、1960年から80年の間に2万7896ha、率にして35%という減少があった。この岡山県の動きは、経営耕地面積、水田、畑のいずれにおいても、また水稲作においても、減少率は全国をはるかに上回っている。」(神立、前掲論文)

 それでは、これらを概観するとどうなるか、同論文において、神立氏は次のように語られている。
 「すべての類型農業集落においてその変貌は著しいが、その変貌には対蹠(たいしょ)的な二つのタイプがある。その一つは都市的集落における変貌である。都市的集落は岡山県の場合は岡山市の周辺の岡山平野部にあるものなどであり、そこは元来は豊かな水田農業地帯であったが、都市化のストレートな影響によって変貌している。住宅地化、工業用地化による混在化・都市化の進展は著しく、農業生産基盤は弱体となり、農業集落としてのまとまりもむずかしくなってきている。
 これと対蹠的なのは山地村山村的集落のそれである。山地村山村的集落は従来一定の農業生産基盤があったが、農業生産の担い手の流出により農業生産が衰微し、農業集落もそのまとまりを継続しがたいものともなる。
 この二つを両極とした多様な変化がみられる。この変貌についての立ち入った検討は個別的な地域についての検討によって果たされる。その対象としては、先程の集落変貌のタイプからみて、いまや都市化の進行の著しい県南部の肥沃(ひよく)な干拓地農村、そして一方での過疎的現象が著しい県北部の中国山地農村、これらが格好のもとなろう。」(神立、前掲論文)

(続く)
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♦️1167『自然と人間の歴史・世界篇』米中の国力比較(2020~2022)

2022-02-09 20:58:46 | Weblog
1167『自然と人間の歴史・世界篇』米中の国力比較(2020~2022)

 まずは、2021.2.28の中国側国家統計局発表として、中国の名目国内総生産(GDP)は、同統計局が同日発表した公式為替レートをもとに計算したドル建てのGDPは、前年比3.0%増の14兆7300億ドル(約1550兆円)となった。この換算にあっては、2020年平均でみた人民元の対ドル相場は1ドル=6.8974元と、前年の平均より0.02%のわずかな上昇となった由。人民元建てのGDPは101兆5986億元で、初めて100兆元を突破した。
 中国での新型コロナの状況を振り返ると、年初に新型コロナウイルスがまん延し、早期に抑えこんだ。春以降は生産の回復を急ぎ、不動産開発などをてこに経済が持ち直した形だ。一方、外需も成長を押し上げ、20年は主要国で唯一のプラス成長となった。
 これとは対照的なのがアメリカで、新型コロナ対応の初動でつまずき、経済の足を引っ張った。米商務省によると、米国の名目GDPは20兆9349億ドルと、19年より2.3%減少した。この結果から、2020年、米GDPの7割を超えたことが分かったとされている。


 ついでながら、購買力でみた中国のGDP(それぞれの国内で人々が各国共通の財・サービスをどのくらいで買うことができるかについての、いわば仮定付きの指標)は、アメリカのそれを2014年に抜いており、そのことから、追々市場ベースでのGDP比較でも前者が後者を上回るであろうことは概ね予想されている(注)。

(注)これは、20世紀の初めにスウェーデンの経済学者カール・グスタフ・カッセルが提唱した外国為替レートの決定に関する理論である。具体的には、(Perchasing Power Parity Rate:PPP )レート=(自国の通貨建て物価/外国通貨建て物価)で求められるとしている。
 つまり、様々な財やサービスをそれぞの国の通貨でどれだけ購入できるかという購買力の比でもって当該の為替レートが決まるというもの。この説によると、大多数の人が裁定(異なる市場の間の価格差を利用して利益を得る経済行為)をとるとその財・サービスの価格は同じになっていく、その結果として一物一価の法則が働くと考える訳だ。
 とはいえ、このレートはあくまでも理論値であって、外国為替市場での実際のレート(日々のニュースで伝わる市場為替レート)とは異なっていて、当該の財・サービスでの両市場での価格差が追々縮小し、両国間で一物一価の法則が成立するようになるスパン(中・長期)に至れば、購買力平価説が成立すると考えられる。
 
 したがって、これまでの世界経済での両国の全般的すう勢が大きな変化を来さないかぎり、騒ぎ立てる程のことではあるまい。また、特に日本の保守的政治家などの中には、「今こそ米中のデカップリング」を強調する意見が散見されるものの、大方は経済合理性を無視して主張しているように見受けられ、有益であるとは思えない。

 (参考)「名目GDPについては、アメリカが20.8兆米国ドルなのに対し、中国は14.9兆米ドル。GDPの世界シェア(購買力平価換算)については、アメリカが16%なのに対し、中国は19%。GDP成長率の世界シェア(購買力平価換算)については、アメリカが14%なのに対し、中国は30%。人口については、アメリカが3億3000万人なのに対し、中国は14億400万人。軍事費の対GDP比については、アメリカが3.4%なのに対し、中国は1.9%。研究開発支出の年平均伸び率(2013~2018年)については、アメリカが5%なのに対し、中国は10.6%。ユニコーン企業数(時価10億米ドル超)については、アメリカが233社なのに対し、中国は227社。産業用ロボットの保有台数については、アメリカが29万3000台なのに対し、中国は78万3000台。スーパーコンピューターの保有台数については、アメリカが113台なのに対し、中国は214台。」(国際通貨基金、世界銀行、国際連合、Hurun Global List Report 2020,TOP500,UBS,2021年2月現在、これらを援用しているUBS「中国市場への投資ーグローバル投資家への投資機会」2021年3月から引用)

(続く)

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♦️1156『自然と人間の歴史・世界篇』中国の国有企業(「社会主義市場経済」における、その位置付け、2021~)

2022-02-09 09:04:11 | Weblog
1156『自然と人間の歴史・世界篇』中国の国有企業(「社会主義市場経済」における、その位置付け、2021~)

 2021年10月16日からの報道によれば、中国では国有企業があげる利益と、民間・民営企業(内国)があげる利益(注)が、2021年の1~8月についての比較で逆転したという。


(注)会計上の収益というのは、売上高に利子収入などを含めた全体をいい、これから費用を差し引いたものが利益だとされる。
 なお、国有企業の中での最近の分類については、さしあたり、当局編集の「2020年版財政年鑑」を中心に参照したい。
 また、「社会主義市場経済」というのは、中国独特の経済体制をいうのに中国政府により使われていて、市場を活用することでそれまでの社会主義が不得手であったところを克服しようとの取り組みの一つ(いわば拡張型)であり、そのことは、現代における社会主義を考える上では有益だと考えられる。なぜそうなるかについては、社会主義社会像についての捉え直しを含め、別項で探りたい。
 私見では、今日考えられうる社会主義経済というのは、その複雑系からいって市場抜きには上手くいかない、もっと言えば管理・運営できにくいものとなっているのではないか。もっというなら、そのシステムが分権的であれ集権的であれ、もはや何から何まで計画ですれば上手く事が運ぶというのは幻想だと言って差し支えないのではないか。そうした意味合いでは、ロシア革命からほどなくのネップ(新経済政策)において、食糧徴発にかえて食糧税を設けた時のレーニンの柔軟な発想に多くを学ぶことができるのではないだろうか。

 具体的には、2021年1~8月期の利益総額は、国有企業が民間企業を8%上回ったとされる。この時点で、13年ぶりに通年で国有が民間をしのぐ可能性もあるというから、従来とは異なる展開なのであろう。
 そして、これをもって「政府による国有企業への優遇・強化策のひずみが鮮明」で、なおかつ「資金調達の格差埋まらず」という論調が、日本などで多く見受けられる。さらには、これらをもって、「「国進民退」(注)と呼ばれる習近平(シー・ジンピン)指導部の国有強化のひずみが表面化してきた」と断定しているものもある。

(参考)中国で営業している企業の所有形態別の国民経済に占めるシェア(%)
 都市部就業者数は、1997年に国有企業が53.1%、非国有企業(民営企業)が44.1%、外資企業が2.8%だったのが、2010年には国有企業が18.8%、非国有企業(民営企業)が76.0%、外資企業が5.3%となる。
 工業総生産は、1999年に国有企業が34.9%、非国有企業(民営企業)が39.0%、外資企業が26.1%だったのが、2010年には国有企業が12.1%、非国有企業(民営企業)が60.7%、外資企業が27.2%となる。
 輸出額は、1997年に国有企業が56.2%、非国有企業(民営企業)が2.8%、外資企業が41.0%だったのが、2010年には国有企業が14.9%、非国有企業(民営企業)が30.5%、外資企業が54.7%となる。
(注1)国有企業には国有独資企業を含む。
(注2)非国有企業に外資企業は含まない。
(注3)外資企業には、香港・マカオ・台湾を含む。
出所は、CEICデータベース、「国家統計年鑑」、「中国商務年鑑」をもとに曽根康雄氏が作成されたものを、曽根康雄「「央企」と「国進民退」:高井潔司、藤野彰、曽根康雄「中国を知るための40章(第4版)」、明石書店、2012から引用した。

 そういえば、2020~2021年にかけては、「ゼロコロナ」の新型コロナ対策もあって、当局による中国民間大手企業に対しての規制が矢継ぎ早であった感を拭えない。しかし、この措置については、市場の独占を防ぐ意味合いもあったのではないかと推察されよう。こちらについては、民間企業の多くが、新型コロナ禍で「川下」とされる消費財、サービス関連に多いため原材料価格の高騰や人手不足などで打撃を受けているのは、間違いあるない。また、中国政府がどのような支援措置をとっているのかを具体的に伝えてもらいたい。



(続く)

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新664『自然と人間の歴史・日本篇』社会保障給付の状況(2018年度~)

2022-02-08 09:42:05 | Weblog
新664『自然と人間の歴史・日本篇』社会保障給付の状況(2018年度~)


 社会保障給付は、大きく分けて社会保険と社会保障費の二本立てとなっている。まずは、全体像をつかんでもらいたい。2018年度の社会保険給付の総額は、121.3兆円だ。これをGDP(国内総生産)の564.3兆円との比較でいうと、21.5%と、かなりの比率に違いない。
 そのうちの年金が占める割合がトップの56.7兆円であって、10.1%を占める。次いで、医療が39.2兆円で、7.0%。三番目の介護は、10.7兆円で1.9%を占める。さらに、子育て関係が7.9兆円で1.4%。それから「その他」が6.7兆円で1.2だとされる。


 次には、この給付がどのように負担されているか、つまり財源がどこにあるかが問題となろう。こちらは、大まかな姿としては、保険料によるものが70.2兆円である。たとえば、国民基礎年金においては保険料と半分ずつを、厚生年金では労使で保険料を折半している。
 一方、公費によるものが46.9兆円だという。その合計の給付額と比べての差は、これらのほかに年金制度の積立金を利用していることによる。
 後者の公費の内訳としては、「地方税負担等」が13.8兆円に33.1兆円の国庫負担が加わる。この国庫負担の出どころは、国債発行による収入と税によるものとで成り立たつことになっている(財務省主計局「社会保障について」2019.10)。財源調達手段が国債(内国債)であっても税の徴収であっても、現世代が背負わなければならない(前者ては主に投資が、後者では主に消費が犠牲にされるだろう)。
 この社会保障給付のうち医療費と介護の先行きについては、これに影響を与える、75歳以上の「後期高齢者数」(適切な呼び名とは言えないが)は2030年まで大幅に増加していく、その後ほぼ横ばいのあとの2040年頃から再び増加していく見通しだという。
 その一方で、保険制度の担い手(支え手)としての現役世代(財務省の説明中では、20~74歳)の人口は、今後中長期的に大幅な減少が続く。ましてや、15~64歳のいわゆる生産年齢人口の見通しとなると、さらに大きな減少幅となっていくだろう。たとえ、高齢者や女性などの労働参加が引き続きあったとしても、2030年頃からはそんな努力も虚しく、労働力人口は大幅な減少になっていくのであろう。もちろん、これには海外からの移民を大勢迎えたりすることで、ある程度緩和できるのかもしれない。
 少子高齢化で担い手がますます少なくなると、社会保障財源のうち保険料に関わるところでの財政破綻が取り沙汰されるようになっていく。加えるに、これまでのような大企業や大金持ちの利益を大事にする政府は、その分のしわ寄せを国民にもっていく。年金加入者の減少と受給者の増加への対策として「マクロ経済スライド」をしたのも、その一つだ。そして今回の消費税増税の後、参議院選挙が予定されていることから、その後になるだろうか、年金のさらなる改悪などによる国民負担の増加の企てが幾つも、虎視眈々と準備されている。


 改めていうならば、実は日本は、先進国の中では社会保障に財源をかけていないことで知られている。具体的には、例えば2013年での国際比較(先進5か国、社会保障財源の対GDP比)でいうと、日本は22%(公費負担が8.9%、被保険者本人負担が6.9%、事業主負担が6.2%)、イギリスは26.3%(公費負担が14.5%、被保険者本人負担が3.6%、事業主負担が8.2%)、ドイツは30.2%(公費負担が10.3%、被保険者本人負担が9.3%、事業主負担が10.6%)、フランスは32.4%(公費負担が11.7%、被保険者本人負担が6.8%、事業主負担が13.9%)、スウェーデンは30.6%(公費負担が16.2%、被保険者本人負担が3.0%、事業主負担が11.4%)となっている(資料は、日本が社会保障・人口問題研究所「社会保障費用統計」、他はEurostat「European Social Statistics」)。

(続く)

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新20『岡山の今昔』倭の時代の吉備(吉備の大古墳)

2022-02-07 22:34:05 | Weblog
新20『岡山の今昔』倭の時代の吉備(吉備の大古墳)

 いずれにせよ、当時の首長達が一般住民・大衆を動員して造ったものだ。畿内を中心に列島各地の有力な首長層が競って、またこぞって採用したのは、疑いのない歴史的事実である。その数は、実に多い。分布も広範囲にわたっている。
 これらのうち初期のものは、2世紀後半から3世紀前半の弥生時代晩期、「楯築墳丘墓」が知られるものの、その築造年代の確かな証拠は見つかっていない。被葬者が誰なのかも、はっきりしていない。
 その後の、いわゆる古墳時代に入ってからの前方後円墳の中では、浦間茶臼山古墳と備前車塚古墳は最も古い時期(古墳時代1・2期)の建造とみられている。
 やがては、吉備地方の古墳の中でも、後期の造立と考えられるものに入ってくる。ざっと西の方から当時の海沿いに来て、高梁川、足守川、笹ヶ瀬川、旭川、砂川、そして吉井川が海に流れ込む、瀬戸内の名だたる沖積平野に、実に十数基もの古墳が築造された。
 すなわち、西の方から東にいくと、高梁川河口部には作山(古墳時代5・6期)と小造山、足守川河口部には造山(つくりやま、古墳時代5・6期)、佐古田及び小盛山、笹ヶ瀬川の河口には丸山と尾上、旭川の河口部には神宮寺山と金蔵山、砂川の河口部には雨宮山、西もり山、及び浦間茶臼山(岡山市浦間)、備前車塚古墳(岡山市中区湯迫・四御神)、そして吉井川河口には新庄天神山と花光寺山の古墳がそれぞれ発掘されている。
 これらのうち、最も大きいものとしては、5世紀初めの造立だと推定される造山古墳だが、全国第4位の規模だというから驚きだ。その被葬者が誰なのかは皆目見当がつかないようなのだが、盗掘か破壊された可能性が高いという。ある一説には、雄略大王との関係を取りざたする向きもあるものの、憶測の域を出ないのではないか。
 ここでは参考までに、当時のを振り返り書かれたという「日本書記」吉備に関わる、当該の部分を、しばし紹介するにとどめよう。
 「八月庚午朔丙子、天皇疾彌甚、與百寮辭訣並握手歔欷、崩于大殿。遺詔於大伴室屋大連與東漢掬直曰「方今、區宇一家、煙火萬里、百姓乂安、四夷賓服。此又天意、欲寧區夏。所以、小心勵己・日愼一日、蓋爲百姓故也、臣・連・伴造毎日朝參、國司・郡司隨時朝集、何不罄竭心府・誡勅慇懃。義乃君臣、情兼父子、庶藉臣連智力、內外歡心、欲令普天之下永保安樂。不謂、遘疾彌留至於大漸。此乃人生常分、何足言及、但朝野衣冠、未得鮮麗、教化政刑、猶未盡善、興言念此、唯以留恨。今年踰若干、不復稱夭、筋力精神、一時勞竭、如此之事、本非爲身、止欲安養百姓、所以致此、人生子孫、誰不屬念。
 既爲天下、事須割情、今星川王、心懷悖惡、行闕友于。古人有言『知臣莫若君、知子莫若父。』縱使星川得志、共治國家、必當戮辱、遍於臣連、酷毒流於民庶。夫惡子孫、已爲百姓所憚、好子孫、足堪負荷大業、此雖朕家事、理不容隱、大連等、民部廣大、充盈於國。皇太子、地居儲君上嗣、仁孝著聞、以其行業、堪成朕志。以此、共治天下、朕雖瞑目、何所復恨。」一本云「星川王、腹惡心麁、天下著聞。不幸朕崩之後、當害皇太子。汝等民部甚多、努力相助、勿令侮慢也。」
 是時、征新羅將軍吉備臣尾代、行至吉備國過家、後所率五百蝦夷等聞天皇崩、乃相謂之曰「領制吾國天皇、既崩。時不可失也。」乃相聚結、侵冦傍郡。於是尾代、從家來、會蝦夷於娑婆水門、合戰而射、蝦夷等或踊或伏、能避脱箭、終不可射。是以、尾代、空彈弓弦、於海濱上、射死踊伏者二隊、二櫜之箭既盡、卽喚船人索箭、船人恐而自退。尾代、乃立弓執末而歌曰、(以下、略)
 要は、雄略大王の死後直ぐには、星川皇子(ほしかわのみこ)が母である吉備稚媛(きびわかひめ)の言によりそそのかされて反乱を起こす。そして、これに吉備上道臣(きびかみつみちのおみ)が加勢しようとの動きがあった、というのだが。

 ちなみに、有力説では、その後の吉備のあり方について、つぎのように推察している。

 「「日本書記」は倭の五王の最後の武王すなわち雄略天皇の巻に、吉備一族の反乱伝承を集中させているが、それらの多くは朝鮮での戦争にからまっている。また反乱はすべて吉備氏の敗北に終わるけれども、ちょうどそれを裏付けるかのように、五世紀後半から吉備地方の古墳も急速に縮小、六世紀にはかわって郡小豪族の群集積が発達しはじめる。「書記」でも、六世紀前半にあたる安閑(あんかん)天皇の巻に後城(しづき)・多禰(たね)・来履(くくつ)・葉稚(はわか)・河音(かわと)・胆殖(いにえ)・胆年部(いとしべ)、欽明(きんめい)天皇の巻に白猪(しらい)・児島など、吉備地方に対する諸屯倉(みやけ)の設置を記し、反乱鎮定のあとに在地の郡小豪族を起用して朝廷の直轄領が拡大されたことを物語っている。「吉備の王者」の支配は六世紀にはいって解体されてしまったのである。」(青木和夫「古代豪族」講談社学術文庫、2007)
 また、備前茶臼山古墳(びぜんちゃうすやまこふん)は、備前平野の東の端(旧上道郡)、吉井川を少しさかのぼったところの西岸、砂川の西岸にあって、その規模は全長138メートルというから、これらの川の中州から眺めるとさぞかし壮観だったのではないか。4世紀前半に築造されたといわれるのがもし本当なら、当時の個の列島、倭国レベルでもかなり大きかったのではないか。
 それにしても、この弥生時代に続くのがどのような社会であったのかは、今日どのくらいまで明らかになっているのだろうか。事実というのは、その時々もしくは後代の政権(権力者)によってその内容が惑わされて述べられるものであってはなるまい。
 事実とされるのは、事実でないことを事実とするような権力の所産であってはならないのである。解き明かすべきは、その国家なり共同体の上部構造のみでない、下部構造の基本的理解が肝要となろう。
 5世紀になると、高梁川の支流小田川の形成した沖積平野を眼下に、天狗山古墳が造営された。こちらは、岡山大学によって発掘がなされ、その調査報告書がまとめられているという。
 6世紀末ないしは7世紀初頭になると、日本列島の首長たちは前方後円墳に一斉に決別し、方墳や円墳を築くようになる。きっかけは、有力豪族の蘇我氏が中国から方墳を持ち込んだともいわれるが、確かなところはわかっていない。政治的な背景として、蘇我氏が大層のさばって来て、大王家にたてつこうとしてきたことを挙げる向きもあるが、果たしてどこまでが本当なのだろうか。

(続く)

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新◻️406『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、立石岐、浅部和七郎)

2022-02-05 10:08:37 | Weblog
406『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、立石岐、浅部和七郎)

 立石岐(たていしちまた、1847~1929)は、備中船穂の小野家の生まれ。19歳で立石家の養子となる。まもなく明治維新を迎え、殖産興業の必要を感じ、二宮に1917年(大正6年)に製糸工場をつくる。
 1878年(明治11年)には、21名にて共之社をつくる。そのために、言論による住民運動を進めようと。それを使って、「産業を起こせ、民権を高めよ」、すなわち、ある種の「産業結社」ということであったろう。ちなみに、その産業とは、養蚕製糸業を考えていた。
 続いての1879年(明治12年)には、岡山県内の同志とともに両備作三国親睦会を結成する。あまねく人々に国会開設運動をすすめる。1881年(明治14年)には、国会開設の勅諭が出されると全国で政党結成が相次ぐ。
 その翌年には、美作自由党が発足する。その性格としては、大地主、新興ブルジョアを中心とした勢力の力を強め、封建的な政治経済体制を破ろうというもの。
 そして迎えた1890年(明治23年)、我が国初の衆議院議員選挙が実施される。岡山6区(美作西部)からは彼が選出される。その翌年の第二回帝国議会で政府が提出した「鉄道公債法案」について、こう質問する。
 「この第一条の末項について質問いたしたい。末項に鉄道に要する軍用停車場というものが設計になっておりますが、この説明を見ますと、その工事の費用というものは40万5千円を要すとあります。このことは私どもがちょうど考えてみまするはなはだ不必要なものでーー不必要ではありませぬ、不経済のもので、また国家に不親切なる設計ではないかと考えます。
軍事上にはこういう停車場も必要であろうと思いますけれども、およそ戦争は幾年を期してあることか分からぬことである。しかるにこれにこれだけの金をかけて、東京なり名古屋なり大阪なりその他兵営のある場所というところは、いずれも都会の地にして、この土地はずいぶん貴重な土地である。有要な土地であるから、金を費やしておかねばならぬということであるが、私どもの考えにおいては、もしも一朝事ある時は、かようなものは即ち工兵をして直ちに造ることができるから、平生にこれを備えおくは、はなはだ不経済であると考える。
 しかしながらこれは実際戦争というものは、幾年を期してあるか分からぬことで、あるいは3年、5年の間に大演習などがある場合にも、必要であるとするも、これもまたその時に造ればよろしい。その間は元のごとくにしておけばよろしい。それぞれ軍事に使用するものを造っておかないでも、差し支えないと存じます。私どもはこれを平生備えておくことは、はなはだ不経済であると信ずるのでありますが、政府においては別に我々の思慮の及ばざる必要の事があるのでありますか。この主意を承りたい。」
 これにあるように、鉄道における軍事施設は不要ではないかもしれないが不急だという。なかなかの気骨に違いない。この法案は有名な蛮勇演説のあおりによる衆議院解散のため廃案となったものの、1892年(明治25年)には、鉄道網整備の基本法である鉄道敷設法が制定される。
 地元との関係では、中国鉄道株式会社設立に協力していく。井出毛三(落合町)、中島衛(なかしままもる、鏡野町)、安黒基(あぐろもとい、津山市)内田にぎ穂(加茂町)、菅英治(すがえいじ、中央町)などの仲間とともに、美作における自由民権から身をおこし、その後の岡山の政治にも大きく関与していった大立て者としてある。

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 浅部和七郎(あさべわしちろう、1843~1883)は、実業家だ。窪屋郡子位庄(現在の倉敷市)の生まれ。叔父である忠義と木綿栽培、材木業、漁業を営んでいた。しかし、いずれもうまくいかない。
 そこで迎えた1876年(明治9年)には、開業資金を得て、廃坑となっていた中庄村の猿曳山銅山の採掘に加わるも、出費がかさむ事から採掘事業は解散してしまう、たが、和七郎一人踏みとどまる。事業の起死回生を狙って新抗を試みていたところ鉱脈に接することに成功する。
 また、早島村(現在の都窪郡早島町)の金田山廃坑の再掘を始める。これに平行してか、多くの銅鉱を採掘し、それらの利益で数十町の田畑を買う。更に船舶を買い、海運業を始める。

 やがての壮年期に病を抱えるようになり、本人の人生航路には忸怩(じくじ)たる思いもあったのではなかろうか。その評伝としては、「剛毅で温厚な性格。公共のために尽くし、私財を投じ貧しい人々を救った」と伝わる。

(続く)

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新◻️386『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、箕作佳吉)

2022-02-05 09:10:06 | Weblog
386『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、箕作佳吉)

 箕作佳吉(みつくりかきち、1857~1909)は、動物学の中でも海洋生物学者だ。父、箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の三男として、江戸津山藩邸で生まれる。1870年(明治3年)に、父の友人、福田諭吉が開いた慶応義塾に入り、英語を学ぶ。
 1872年(明治5年)には、大学南校に転校する。1873年(明治6年)の15歳の時、英語教授エドワードハリスに伴われアメリカに渡る。父親の「つて」あってのことなのだろうか、かの地では、ハートフォード中学からレンサラー工科大学に入る。そこでは、土木工学を学ぶ。のちエール大学ジョンホプキンズ大学に転じ、今度は動物学を学ぶ。その後、ケンブリッチ大学でも動物学を学んで、1882年(明治15年)に帰国するのだが、早々に津山の墓を詣でようとしたらしい。その時の話として、蒸気船で岡山の港へ上陸(注)。

(注)当時、岡山の外港として繁栄した三蟠港(さんばんみなと、現在の岡山県岡山市中区江並)からは、三蟠鉄道(さんばんてつどう)による岡山市内への連絡があった。こちらは、国清寺(岡山市中区門田屋敷)および桜橋(同市中区桜橋)とを結んでいた軽便鉄道にして、1915年8月11日に三蟠-桜橋間の敷設に始まる。1923年(大正12年)2月には湊-国清寺間が開通し、全線が開通した。つごう7.25キロメートルの行程のうちに「三蟠」「浜中」「宮道」「下平井」「上平井」「湊」「桜橋」「網浜」「国清寺」の計9つの駅が設けられてあった。その後の経緯としては、従来型の船を主体とするものから県外との鉄道連絡をもってする輸送手段への変化に押されることにより業績が悪化、1931年(昭和6年)6月28日をもって廃線に追い込まれたとしている。

すると、宿屋では白魚の吸い物を出したところ、これに眼をとめたのが縁で、白魚の研究を始めたのだと伝わる。それからは、東京大学動物学教授を務める。1886年(明治19年)には、東京大学三崎臨海実験所を創設する。
 一見取りつきにくい話ながらも、前述の白魚の研究を進めた結果、頭蓋骨の点で、白魚と素魚との区別がかない、また中間魚でないことも立証されたという。「白魚科」が「ハゼ科」から独立することになった。他にも、深海に棲むミツクリザメやミツクリエビは、彼に名前を献上されたと言われ、学者冥利に尽きる話ではないだろうか。
 1901年(明治34年)には、東京帝国大学理科大学学長となる。牡蠣養殖や御木本の真珠養殖に助言を求められ、力を貸す。また、女子教育の大事さを説いて、東京高等女学校の校長も務める。1904年(明治37年)の万国学術会議に、北里柴三郎と参加する。

 ロシアのドストエフスキーやトルストイを連想させるかのようなひげを蓄えている顔は、いかにも優しげに見受けられる。彼はまた、海洋生物学・昆虫学でいわれるミツクリザメ(学名:Mitsukurina Owstoni Jordan 1898)など、約40種の学名にその名前が付いていて、一説にはそれらの大方は臨海実験所の所員なりが佳吉に献上したともののようである。さほどに、学問一途の人には権威に甘んじるのではなく、人徳が備わっての栄誉なのではないだろうか。

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新◻️250『岡山の今昔』吉備中央町(加賀郡)

2022-02-04 21:31:50 | Weblog
250『岡山の今昔』吉備中央町(加賀郡)
 
 加賀郡の吉備中央町は、2004年10月に、加茂川町、賀陽町が合併して発足した。
 南部は、有名な吉備高原に含まれる。楓や漆、紅葉などが生えている、「宇甘渓自然公園」(うかい(うかん)けいしぜんこうえん)もある。交通の便は、岡山自動車道賀陽ICから岡山県吉備中央町の宇甘渓自然公園まで、車で約25分にて、赤い橋がシンボルの「宇甘渓自然公園」には着くという。
 そこでは、旭川の一支流としての宇甘川が極度に狭まり、激流が岩を削って奇岩・音岩のそそり立つ山肌が見える。宇甘川に面した斜面は非常に急峡であり、またツガやモツを主とする天然林でもあることから、吉備清流県立自然公園にも指定されている。そういうことから、「春の桜や冬の雪景色と四季を通じて景観が美しい」という。殊に、秋ともなれば、大勢のウォーカーが訪れるという。
 さて、このあたりの町起こしということでは、昔も今も、人を呼び込むのが近道であろうか。ここで幾つか紹介したい。それというのも、町内の上野地区に、会話は「英語オンリー」を掲げる古民家宿が2013年からあり、世界を旅しながら日本の田舎暮らしを求めて訪れる外国人と、彼らとのふれあいを求める日本人とが泊まり込みで交流する場となっているという。
 その場所は、町のほぼ中心の小高い山を登った先にある「岡山英語村ナノビレッジ」という施設で、ある新聞記者が訪ねると、宿の軒先で外国人ら8人が出来立ての餅をほおばっていたという。聞こえてくる言葉はすべて英語だというのは、なんとも敷居が高い。
 それでも、アメリカやオランダ、フランスなど様々な国から外国人がやってくるらしく、その人たちは、京都や奈良、東京などでの名所旧跡や賑やかな観光地では「お好み」ではないらしい。そんなことよりも、日本人の生活そのものを知りたい、ざっくばらんに国際交流したいというのであろうか。そんな外国人や日本人たちが長い人では2週間~1カ月ほど滞在することが多いというから、驚きだ。
 二つ目に紹介したいのは、山陽新聞デジタル版(2019年11月6日付け)で見つけた、自然を頼みに人を呼び込むにはどうしたらいいのだろうか、その回答らしき一つが、こうある。
 「秋の深まりとともに、岡山県吉備中央町の吉備高原にも雲海の季節が到来した。「雲海の里」として知られる長丸(ちょうがん)集落(同町高谷)では6日早朝も、真っ白い大海原が出現。合間から山々の頂がぽっかりと浮かび、幻想的な情景を描き出している。
 雲海は、放射冷却で地表付近の気温が下がり、空気中の水分が霧になる現象。気温が低く快晴となった山間部や盆地で発生しやすく、明け方の数時間だけ観察できる。
 同町のほぼ中央に位置する長丸集落の標高は約300メートルで、眼下に広がる景観は刻一刻と変化。灰色だった雲海は日の出とともにオレンジ色に輝き、徐々に明るさを増して白色に。山々も黒から緑へと表情を変えていった。
 町観光協会は「見ごろは来年2月ぐらいまで。早起きして、素晴らしい光景を目に焼き付けて」としている。」
 これなどは、今時のテクノロジーを駆使しても、なかなかに得難いのではないだろうか、自然現象にはひとの心を洗ったり、癒したり、あるいは「励起」したりもする。ネットに出てくる写真には泣けるようだし、早朝のトレッキングにはもってこいの場所ではないだろうか。ついでに、景色を眺めながら、持参のおにぎりを食べるのも、良い思い出ができるのではないだろうか。

 この辺りの近世からの歩みでいうならば、やはり、長らくの間農業が重きをなしてきたのであろう。そのことは、つぎの紹介にあるような農具発達の経緯からも窺えよう。

 「中国地方の中央を走る吉備高原・冠山(かんむりやま)山地は、山陽一帯でも最も広い地域で、農耕を中心とした生活が広がっている。それは花田植えの如き華やかな行事が各地に残っているのでも知られる。農耕具は南北を通じて呼称の違いはあっても、形式とか機能はそれほど大きな差はみられない、農耕具や日常生活の諸民具の多くは、この山地高原に自生する草木でつくった自家製品が多く、コウラミノや三八笠(さんぱちがさ)、自然の木の反(そ)りを利用したオイコやネコ車などがある。同時に村の大工・木挽(こびき)・鍛冶屋(かじや)などにつくらせたものも多い。かつて用いた麻(あさ)の山着なども、畑で栽培した麻を各家で繊維にして紡(つむ)ぎ、染めた糸を機(はた)にかけて布とした。
 また、この地帯を訪ねると時折、特に古い長床鋤(ながとこすき)をみかける。なかには牛に引かせないで人が一人で引いた一人鋤をみかける。引き綱を腰にかけて後ろ向きになって引く、いまからすればかなり時代ばなれした農具である。」(早川貞和、坂田貞和ほか制作・編集「グラフィックカラー 日本の民話」12、中国2❮岡山・広島・山口❭研秀出版、1977)

 また、この地では、戦後に酪農が大いなる発展が見られ、ここでは例えば、吉田牧場の取り組みが、次のように紹介されている。

 「30歳を前に就農した当初は乳を農協に出荷していた。(中略)もっと乳を搾ろうと言われた翌日、方針転換から頭数を減らさないとペナルティだと迫られた。吉田さんは「妄想」と呼ぶが、「いずれはちーを作りたい」と頭の中では準備していた。(中略)生産調整とは決別し、借金をしてチーズ工房を作った。乳酸菌は自家培養し、この土地らしい味を目指すことにした。(中略)40代に入り、酪農のルーツを訪ねる旅がライフワークになった。」(編集委員・長沢美津子「輝く人、牛飼い・チーズ職人、吉田全作さん(64)、手本なき世界を探検」朝日新聞、2019年11月24日付け)

 なお、吉田さんは、北海道大学を卒業後、東京でのサラリーマン生活をしていたものの、1984年(昭和59年)に、夫婦で吉備高原で酪農家となる。1988年(昭和63年)には、チーズ作りに踏み出す。ブラウンスイス種を放牧。この牛は、足腰が強く、濃いミルクを出すとのこと。 
 その後は概ね順調なようで、2019年現在は、子牛を含めて約50頭、これを家族9人で事業を展開しているという。 
 ほかにも、チーズの熟成庫は地下にしたり、太陽光発電、雨水の浄化を行う。主力のチーズは、顧客との直接取引を重視し、牧場の売店て販売を行う。総じての「技術がいくら身についても、チーズのおいしさは原料乳の質が絶対だからです」と取材者にいうあたり、文字どおり「簡単な道をえらばない方が後悔はない」(同)という格言もここから生まれる。

(続く)

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