麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第648回)

2019-05-26 07:37:39 | Weblog
友だち

3

 彼がいまこんな言葉を口にしたのは、ジャンパーの左側のポケットに入っている「このようにツァラトゥストラは語った(上)」という文庫本の影響だった。最近はどこに行くにもこの本を携えていた。さっき、下宿の部屋でうたた寝から目覚めたときにもこの本を手にしていた。9月頃、初めて行った高田馬場の古本屋で(彼はこの町で生活するようになった四月から半年間、古本屋街に行くのを自分に禁じていた)買った本だった。その著者については、高校時代に読んだカミュの文庫本で名前は知っていたが、著書を読んだことはなかった。「ツァラトゥストラは、三十歳のとき、彼の故郷と故郷の湖とを去って、山に入った。」。なにげなく手に取って冒頭の一文を読んだとき、首のうしろに電気が流れたように感じた。というのも、彼は高校二年生のころからずっと「山に入る」のを理想としていたからだった。とにかくこんな場所にいるのはいますぐやめて山に入ろう。そう自分に言い続けてきた。いまもそうだった。すぐに300円で上下巻を買った。以来つねに持ち歩き、何度も何度も読み返していた(上巻のみだが)――このときの彼が、「超人」「永劫回帰」というこの本のテーマを深く理解していたとはとてもいえない。いまはただ「最後の人間」の節や「市場のハエどもについて」の章に見られる、パンクといってもいいような過激な言葉に酔っていたというほうが正しい(この本のテーマが切実に彼を襲うのは1~2年後になるだろう)。
 没落した人間。青年はこの本にならって自分のことをそう呼んだ。だがその「没落」という言葉も、書かれている意味とは違い、ただ自分流の解釈で使っているだけだった。本の中でこの言葉は主に、やがて地上に出現する「超人」のために自分を低めて(没落して)生きる、自分個人の生は度外視して「超人」登場の舞台を作り上げるために(没落して)生きる――という積極的なニュアンスを持っている。だが、青年の言う「没落」はただ単純に、ある高みから転落し、その転落を招いたのは自分の弱さだという否定的な自覚を表しているだけだった。彼は山に入ることを理想としながら、実際には故郷を去って都会に――山とは正反対の場所にきていた。それは彼が「没落した人間」になったから、というわけだった。それなら、「堕落」と言えば足りたろう。だが、彼は個人的な理由から「没落」という響きが気に入っていたのだ。
 彼が何から「没落した人間」なのかは他人からはわからない。だが、彼が今年の二月三月に、大学入試に「没落した(落ちた)」ことは、彼を知っている人間なら誰でも知っていた。それはいまジャンパーの右ポケットに、セブンスターや100円ライターといっしょに入っている新書判の参考書「試験にでる英単語」に、「ツァラトゥストラ」より余計に手垢がついているのを見てもわかる。彼は受験生であり、代々木にあるあまり有名ではない予備校に通っていた。もはや説明する必要もないだろうが、第一志望は早大で、喜久井町の川島荘という、昔病院だった建物の、元入院患者用の部屋(板張り四畳、家賃2万円)に下宿していた(大家である、元病院長夫人・川島たみえが、院長が亡くなったあとここを学生下宿にしたのだ)。
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生活と意見 (第647回)

2019-05-19 22:09:53 | Weblog
5月19日

けっこう本を読んでいます。新刊でいいのが出たからです。

ひとつは「物語として読む 全訳論語 決定版」(トランスビュー)。私と同い年の、弘前大学の先生による論語の新訳です。この訳文がとてもいい。論語は、いまでいえば、孔子の塾の日常をボイスレコーダーで録って、おもしろい発言をセレクトしてまとめたライブ盤のようなもの。だから、もっともっとくだけた話し言葉のはず。これまで、スタンダードな金谷訳などを読むたびにそう思い、頭の中で訳文を自分なりに作り替えたりしていました。それが、この本ではまったく必要ありません。そのままで、すっと入ってくる。まさに「これがほしかったんだよ」と言いたくなる新しい論語です。本のつくりも堅苦しくないソフトカバーでとてもいい。難点は、ときどき訳者の解説が暴走気味になるところで、「あんたは孔子か」とツッコミを入れたくなることも。そこはまあ飛ばして読んでもいいでしょう。この本をメインに、岩波の井波律子訳をときどき参考にしながら読むと、新しい孔子体験ができます。

次に、「マハーバーラタ」の新刊。「インド神話物語 マハーバーラタ」(上下巻、原書房)です。1970年生まれのインドの学者が語り直したものを、原典訳を手がけながら惜しくも途中で亡くなられた上村勝彦さんの弟子といえる監訳者が、もう1人の翻訳者の協力を得て和訳したもの。レグルス文庫とはまた違う語り口で、とてもわかりやすい「あらすじ本」になっています。私はこれを読みながら、山際版(英語からのほぼ全・重訳)を読み返しています。いちおう、「万年入門者」の域は超えたと自負していますが、とにかく同じエピソードでも、何度読んでも面白い。今回の本は最初に読むマハーバーラタとしてもいいかもしれません。見てみてください。

そうして、うれしすぎてまだ少ししか読んでいませんが、古典新訳文庫より、「パイドン」の新訳が出ました。「友だち」という創作のために、浪人時代に買ったツァラトゥストラを最近はずっと携帯していますが、その作者に言わせると、ソクラテスはニヒリストで、プラトンは「死を説教する者」ということになるのでしょう。それはわかっていますが、私は、ツァラトゥストラも心底好きだけど、ソクラテス・プラトンもすごく好きなんですよね……。日向の、強烈な光をながめながら日陰のベンチのひんやり感を楽しむというか。日向と日陰のどちらが本当にほしいのかと言われても、それはダイヤモンドゲームのコマみたいに、赤がいいと思える日は絶対に赤で、緑がいいと思える日は絶対に緑なんですよね。ただ、老いが深まるにつれて、「すっきりしたい」という感じがなによりも大事になってきているのはたしかで……。とりあえず、読んでから書きます。
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生活と意見 (第646回)

2019-05-12 20:14:59 | Weblog
友だち

2

 1978年11月初旬の朝9時過ぎ、八百屋の横の狭い駐車場とパン屋の間の、その支流の坂道――ちょうど喜久井町の踊り場が終わり、早稲田までの下りが始まるあたり――から、ひとりの中肉中背の(ひどい猫背の)青年が夏目坂に姿を現した。父親からもらい受けた薄手のカーキ色の作業ジャンパー(いまでも作業服専門店で1000円で手に入る)にジーパン。長くのばした髪を額の真ん中で分けて(当時はすけべえ分けと呼ばれた)銀縁のめがねをかけている。両手をそのポケットにつっこんだジャンパーはあまり年齢にふさわしいとはいえないが、場所柄、誰が見ても大学生か、そうでなければ予備校生だろうと察しがつく。自分ではひどい醜男だと思いこんでいたが、客観的に見れば並の容姿であり、まったく普通の、よくも悪くも人の注意をひくような見かけではない。
 空はまったく申しぶんなく晴れて、さわやかな秋の朝だった。青年は狭い歩道に立ち止まり、軽く上体を起こして深呼吸をした――上ってきた坂道はわずか30メートルほどで、傾斜もゆるやかなのに息が切れたから――と、とたんに喉の奥から嗚咽のような声と咳が出て、続いてしばらく息ができないほど咳き込んだ。昨夜からほとんど眠れず、しかもずっとタバコを吸い続けてきたからだった。咳をするたびに、まるで飛び出そうとする自分の魂が頭蓋骨のてっぺんにぶち当たるような衝撃を感じる。重い、厚い水色の板戸の隙間から彼の部屋をのぞきこむ老婆の顔が浮かぶ。「おたくはタバコを吸いなさるわね」。新宿区生まれ新宿区育ちの(しかし新宿駅周辺にはほとんど行ったことがないという)川島たみえは言う。「ほら、壁があなたの部屋だけあんなに黄色くなって。がんになりますよ」。さっき出てくるときも庭を掃除していた。目を合わさずに、「いってらっしゃい」。かばんも持っていないし、最近俺がまともに予備校に行っていないのをうすうす知っていながら皮肉な感じ。きっと俺が来年も受かるわけがないと思っている。くそばばあ。――ようやく咳が止まり、彼はまた体を起こした。道の向こうに中華料理屋ととんかつ屋が並んでシャッターを下ろしているのがにじんで見えた。車はまったく通っていない。
 青年は涙目をジャンパーの袖でぬぐい、しばらくどちらに行こうか思い悩むように左手のパン屋のほうと右手の八百屋のほうへ頭を向けたあと、結局右へ体の向きを変えた。
「そうだ。俺のように没落した人間は下降するしかないのだ」
 彼はそう小さな声でつぶやいて、この1年、もはやお家芸となった自虐的な笑顔を浮かべると、夏目坂を下り始めた。

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生活と意見 (第645回)

2019-05-06 18:43:52 | Weblog
5月6日

小沼文彦訳の、旺文社文庫特製版「戦争と平和 縮訳版」(上下巻約800ページ)を読みました。以前、ポケットマスターピースで読んだ、ダイジェスト+抄訳版よりはるかに長く、これで全編の雰囲気はある程度わかったと思います。実はポケットマスターピースを読んだあと、全訳も読み始めたのですが、最初の「戦争」の章で挫折していたのです。今回感じたのは、トルストイはどちらかというと理系の人なのかな、ということ。繰り返し現れる「歴史論」の口調や、ボルゴンスキー老公爵を数学好きに設定するところなどにそれを感じました。――とても感動しました。しましたが、読み終わると、無性にドストエフスキーを読みたくなりました。トルストイはドストエフスキーを「書き始めはいいが、下手な作家」だと考えていたらしいのですが(私も、トルストイの構成力はドストエフスキーのおよぶところではないと感じますが)、トルストイには、ニコライ・スタヴローギンのような人物を作り上げることは絶対にできない。というより、ニコライのような人間が存在するということを想像できないのではないか、と思います(その高潔さのせいで)。「戦争と平和」に登場する人物にも、いわゆるクズは何人かいますが(たとえばアナトーリ・クラーギン)、ニコライのようなクズのクズ、どうしようもないニヒリストは出てきません。そのクズのクズのクズさをある程度まで共有する自分(クズ)には、「アンナ・カレーニナ」にも「戦争と平和」にも、学校に提出する感想文を書くのに適した感動はできても、自分を根っこから揺さぶり、感想文なんて書く気にもならない、書くとすれば下手でもなんでも自分で物語を書くしかない――そういう感動(もはやその言葉は当てはまらないのかもしれませんが)の仕方はやはりできないですね。いまさらながら、そう思いました。
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生活と意見 (第644回)

2019-05-01 13:03:36 | Weblog
5月1日

私は、労働者階級に生まれたのに
芸術という、似つかわしくないものにとりつかれて
人生を誤まった馬鹿者だと
自分を考えています。

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