1月26日
バカな話。タイムマシンがあったとしても自分が若くなれるわけではないのに。プルーストの本について書いたので、最後はどうしても「~のように」で終わりたかった、だから「タイムマシン」という言葉を使った、それだけです。
ところで、私がプルーストを読み終えた91年は、ちょうど、柳瀬訳「フィネガンズ・ウェイク」も出たりして、文学がにぎやかな年でした(私的には)。――意味なく書けば、ジョイスにも世界文学大系の思い出があります。大系の67、68は、当初「ジョイスⅠ、Ⅱ」に当てられていて、「Ⅱ」は、岩波文庫「若い芸術家の肖像」の翻訳や「ジョイスのための長い通夜」などの著書のある大澤正佳さんを中心としたメンバーによる「ユリシーズ」の新訳になるはずでした。想像してみてください。集英社の単行本で3冊、文庫で4冊のボリュームの長編小説が1冊に収められるんですよ(絶対欲しい)。しかも、大澤さんは、丸谷才一さんたちの世代よりはるかに若く、実現すれば、ジョイスといえば丸谷世代の解釈を通じてしか近寄ることのできなかった私たちが、もっと自分にぴったりくる言葉でこの大作を読めるかもしれないチャンスだったのです。「失われた時~」の大系版全3冊化計画は、それを知ったときにはすでに挫折していました。しかし、「ユリシーズ全1冊化」は、91年前半の時点ではこれから実現される、ものすごく楽しみな、生きた計画でした。ところが、9月に「名詩集」(大系88巻)が出ると、その計画も死んだことを知ります。その巻の月報には、大系の、残る配本は「セリーヌ」(80巻)と「ジョイスⅡ/オブライエン」(68巻)の2冊になったこと、また「諸般の事情により」、「ジョイスⅡ」は(ユリシーズではなく)アイルランド作家の二人集になったことが書かれていました。「諸般の事情ってなに? オブライエンって誰?」。一読頭の中はパニック状態。大げさでなく、それほど楽しみにしていたので。あとになって、この「諸般の事情」とは、これまで河出書房の世界文学全集に収められていた丸谷/永川/高松訳「ユリシーズ」(学生時代に読了)の全面的改訳が進められていたこと(その成果が現行の集英社版です)だとわかりました。おそらく、大先輩の偉業にぶちあてるようなタイミングで新訳を出すのはよくない、ということだったのでしょう。結局、「ジョイスⅡ/オブライエン」(98年刊行)のジョイスの部分は、「スティーヴン・ヒアロー」を中心に編まれました。2020年現在は、この作品(草稿?)にも別訳の単行本がありますが、大系68巻のそれは本邦初訳だと思います。いまになれば、それまで伝説だった「スティーヴン~」が読めるようになったので、これはこれでよかったというところもあります。けれども、「全1冊ユリシーズ」は、あれからもときどき私の目の前にその幻の姿を現わし、人をどうしようもない気持ちにさせて、消えていきます。まるでひと言も言葉を交わせなかった夢の中の女のように――さて、確かに刊行はされなかったけど、途中まで準備されていたに違いない「ユリシーズ」の、新訳原稿はどこに行ったのでしょうか。頓挫したまま陽の目を見ることはないのでしょうか。1冊化はないとしても、完成されて、どこかから出てくれればうれしいのですが。――私はひそかに岩波文庫に注目しています。実は、最初に文庫で「ユリシーズ」の翻訳を出したのは、どこでもない、岩波文庫なのです。そのプライドと、いまや「失われた時~」の新訳を収め終えた同文庫は次の最高峰制覇を狙っているに違いなく、そうならそれは「ユリシーズ」以外ないと思うから。そう考えると大澤訳「若い芸術家の~」がいきなり岩波文庫から出たのもその布石か、という気もしてくるのです。――べつに電子書籍でもかまいません。丸谷才一さんたちの訳は十分浸透したはずです。柳瀬さんも亡くなって、ジョイスの名前を見ることが前より減ったこのタイミングで、どうにかならないものでしょうか。
バカな話。タイムマシンがあったとしても自分が若くなれるわけではないのに。プルーストの本について書いたので、最後はどうしても「~のように」で終わりたかった、だから「タイムマシン」という言葉を使った、それだけです。
ところで、私がプルーストを読み終えた91年は、ちょうど、柳瀬訳「フィネガンズ・ウェイク」も出たりして、文学がにぎやかな年でした(私的には)。――意味なく書けば、ジョイスにも世界文学大系の思い出があります。大系の67、68は、当初「ジョイスⅠ、Ⅱ」に当てられていて、「Ⅱ」は、岩波文庫「若い芸術家の肖像」の翻訳や「ジョイスのための長い通夜」などの著書のある大澤正佳さんを中心としたメンバーによる「ユリシーズ」の新訳になるはずでした。想像してみてください。集英社の単行本で3冊、文庫で4冊のボリュームの長編小説が1冊に収められるんですよ(絶対欲しい)。しかも、大澤さんは、丸谷才一さんたちの世代よりはるかに若く、実現すれば、ジョイスといえば丸谷世代の解釈を通じてしか近寄ることのできなかった私たちが、もっと自分にぴったりくる言葉でこの大作を読めるかもしれないチャンスだったのです。「失われた時~」の大系版全3冊化計画は、それを知ったときにはすでに挫折していました。しかし、「ユリシーズ全1冊化」は、91年前半の時点ではこれから実現される、ものすごく楽しみな、生きた計画でした。ところが、9月に「名詩集」(大系88巻)が出ると、その計画も死んだことを知ります。その巻の月報には、大系の、残る配本は「セリーヌ」(80巻)と「ジョイスⅡ/オブライエン」(68巻)の2冊になったこと、また「諸般の事情により」、「ジョイスⅡ」は(ユリシーズではなく)アイルランド作家の二人集になったことが書かれていました。「諸般の事情ってなに? オブライエンって誰?」。一読頭の中はパニック状態。大げさでなく、それほど楽しみにしていたので。あとになって、この「諸般の事情」とは、これまで河出書房の世界文学全集に収められていた丸谷/永川/高松訳「ユリシーズ」(学生時代に読了)の全面的改訳が進められていたこと(その成果が現行の集英社版です)だとわかりました。おそらく、大先輩の偉業にぶちあてるようなタイミングで新訳を出すのはよくない、ということだったのでしょう。結局、「ジョイスⅡ/オブライエン」(98年刊行)のジョイスの部分は、「スティーヴン・ヒアロー」を中心に編まれました。2020年現在は、この作品(草稿?)にも別訳の単行本がありますが、大系68巻のそれは本邦初訳だと思います。いまになれば、それまで伝説だった「スティーヴン~」が読めるようになったので、これはこれでよかったというところもあります。けれども、「全1冊ユリシーズ」は、あれからもときどき私の目の前にその幻の姿を現わし、人をどうしようもない気持ちにさせて、消えていきます。まるでひと言も言葉を交わせなかった夢の中の女のように――さて、確かに刊行はされなかったけど、途中まで準備されていたに違いない「ユリシーズ」の、新訳原稿はどこに行ったのでしょうか。頓挫したまま陽の目を見ることはないのでしょうか。1冊化はないとしても、完成されて、どこかから出てくれればうれしいのですが。――私はひそかに岩波文庫に注目しています。実は、最初に文庫で「ユリシーズ」の翻訳を出したのは、どこでもない、岩波文庫なのです。そのプライドと、いまや「失われた時~」の新訳を収め終えた同文庫は次の最高峰制覇を狙っているに違いなく、そうならそれは「ユリシーズ」以外ないと思うから。そう考えると大澤訳「若い芸術家の~」がいきなり岩波文庫から出たのもその布石か、という気もしてくるのです。――べつに電子書籍でもかまいません。丸谷才一さんたちの訳は十分浸透したはずです。柳瀬さんも亡くなって、ジョイスの名前を見ることが前より減ったこのタイミングで、どうにかならないものでしょうか。