10月14日
「七破風の屋敷」、けさ4時ごろ読了。すごい。なんか、ホーソーン、変わってる。すごく変な感じ。でもまた読むと思います。私には「緋文字」よりはるかにすばらしい作品と感じられます。なんだろうこれは。くそくだらない言い方をすれば、ヒューマニズムなのか。とにかく、世界(自然)は人間たちが作り出すお話に必ず介入してくる・・・つまり神は人間を忘れたりはしないという安心感・信仰、それがあるんでしょうね。作者は敬虔な人だと行間からも伝わってくるような感じ(ホーソーンはヨーロッパの美術館で裸婦像を見て不愉快になったそうです)。でも、勧善懲悪の説教になっているわけではない(古典として生き残っているのだから当然ですが)。一族の「血」の問題をテーマとして追いながら、老いた兄妹が、突然死した・いとこのピンチョン判事を屋敷に残して一日だけ逃亡する時、汽車の中で、兄クリフォードはあるインスピレーションにとらわれます。人間が定住せず、毎日汽車で移動し続けるなら憂うつになることもなく、一族の罪の伝承などといったものは存在しないのではないか。もちろん、そんなことは不可能なわけですが、建物はどんどん新しくなり、「家」という観念がうすれた現代、「あの屋敷には昔こんな人がいてこんな事件があり、そのときの怨念がいまでもこもっているんだよ」。そんな文は死んでいますよね。死語ではなく、死文脈です。私が子どもだったころにはまだわずかに残っていた無人の「幽霊屋敷」なんかがぎりぎりそういう観念を連想させますが、そこにもすでに笑いがありましたからね。――先祖に、魔女裁判の裁き手がいるという家系の罪。その、自分自身の問題を正面から取り上げて自分の世界観で分析しつくし、なお新しい世界の予感にまで触れている。プライベートな、そしてとことんプライベートだからこそ普遍の価値をもった(世界はプライベートの固まりでしかないわけだから)、すごい仕事だと思います。
形式的には、ホーソーンは詩的散文のもつあいまいさと自由さを利用しまくっています。遺体となったピンチョン判事の周囲で時が流れていく――その瞑想的で、ときに落語みたいな語りは、いまなら編集者に、少なくとも五分の一に縮めろといわれそうな、猛烈に長い一節になっています。
もうひとつ。「緋文字」ではわからなかったのですが、「七破風の屋敷」を読むと、メルヴィルの「白鯨」の世界を自然に思い出します。詩的散文の自由さを、メルヴィルはこの作品から学んだのだと思います。