舞台の上では、奇妙な劇が演じられていた。
スポットライトの円の中に、ひとりの背の低い男が立っている。男は右手に刃の鋭そうな斧を握っている。
「俺はこのハエに、もうがまんがならないのだ!」
突然、男はそう叫んだ。
彼の頭の上に、ショウジョウバエが一匹止まっている。そんなに小さなものが、なぜこんなにはっきりと見えるのかわからないが、たしかこの劇の原作では、そのハエはそこに、もうかれこれ三十年もそうして止まっていることになっていた。
男は、さっと斧を振り上げた。次の瞬間、男はその斧で自分の首を切り落とした。同時にスポットライトが消え、劇場全体が暗闇と化した。
劇はそれで終わった。
客はみな、拍手を始めた。パチパチという音が闇の中に響き、そのうち、それは音の渦になった。
僕は、
「こんなくだらない劇に拍手なんかしてやる必要はない」
と思っていた。
原作を読んだとき、少しだけ「おもしろいな」と思ったからきてみたのだが、いまは後悔していた。
「完全に評価を誤ったな」
と考えて、僕は席を立とうとした。すると、そのとき、舞台のほうから、
「殺人だ! 殺人だ!」
という叫び声があがった。拍手がぴたりとやんだ。
舞台の上が明るくなると、そこに十人ほどの男女が円陣を作るようにして立っているのが見えた。
その中のひとりが客席のほうに向きなおした。
「みなさん、大変なことになりました。Fが実際に死んでしまいました」
Fというのは、さっき、自分の首を切り落とす役を演じた役者の名前である。
「おもしろいことになってきたな」
僕は心の中でつぶやいた。劇が退屈すぎたのだ。なにかおもしろいことがなければ、ここにきた甲斐がないというものだ。
ところが、そんなふうに思っているのは、僕ひとりのようだった。
ほかの客たちはみんな、なぜかしらシクシクと泣いているのだった。
「偽善者め」
僕は気分が悪くなって立ち上がった。すると、周囲の客の目がいっせいに僕に集まった。暗闇の中で、彼らの目はまるで猫の目のように異様に光っている。
「疑われている」
と、僕は思った。このまま外へ出てゆくと、不利な立場におかれてしまうだろう。
思い直して僕は席に着いた。
「このままじっとしていよう」
そう決めて、僕は再び舞台のほうへ目をやった。
すると、舞台の上を照らしていたライトがふっと消えた。
劇場は、また暗い宇宙空間と化した。
「どうなったんだろう、いったい……」
不可解な気持ちのまま、僕は舞台のある方向を見守っていた。
突然、まばゆいばかりの棒状の光の束が視界に入った。
それは、客席の最前列あたりだった。
ひとりの美しい女の人が、そこに立っていた。光はその女の人の体から発せられたものだった。暗い闇の中で、彼女はまるで青白い炎の柱のように見える。
女の人は、ゆっくりと前を横切り、出口のほうへ向かって歩いてゆく。
僕は、吸い寄せられるように席を立った。
「あの女の人を追おう」
そう思った。
せまい客席の間を一度もつまづかずに通り抜け、僕は急いで女の人が消えていった出口へ向かった。
ほかの客たちも今度は誰一人、僕に注意していなかった。
入場したとき、日はまだ高かったと思うのだが、いま、ロビーを通って外へ出ると、もうすっかり夜になってしまっていた。
舗装されていない細い道を、女の人は歩いている。歩いている、というよりも、地面すれすれに浮かんで空を滑っていくように見える。
道の左右は雑木林である。
僕は五メートルほどの間隔をあけて、女の人の後ろをつけて歩いた。
やがて、月の光の中に、腐りかけた木製のベンチが見えてきた。
バス停に着いたのだ。
女の人はなおも発光しながら、そのベンチに腰掛けた。
僕も女の人の隣に腰掛けた。
女の人は、まっすぐ前の雑木林のほうを向いて微動だにしない。
僕は、ときどき、女の人の横顔を盗み見た。
夜気に冷えたベンチから尻へ、その冷たさが伝わってくる。しかし、その冷たさ以上に女の人の美しさは冷たい。
いま見てきた劇の話でも女の人としたいと思ったが、どういうわけか、僕はもうストーリーを忘れてしまっていた。
バスが来た。
夜ではあるし、このバスは街のほうへ向かうのだから、客はほとんどいないだろうと思っていたが、意外にも車内は満員に近い混みようだった。
女の人に続いて、僕は乗りこんだ。
車内には電気がついていない。
乗客たちは、みんな立ち上がった影法師のように見える。女の人が発する光の領域に入っても、彼らは影法師のままなのだ。
僕は女の人を斜め後ろから見れるような席に座った。
彼女の白い足首や、うなじをゆっくりと観察したかったからだ。
音も立てずに、バスは動き出す。
道が三筋に分かれている場所で、バスが停まり、女の人は降りた。
僕も降りた。降りたのは二人だけだった。
「ここは……」
僕の心の中に、不安が少しずつ広がってくる。
真ん中の道を行けば、その先に変電所があることを僕は知っている。
見ると、女の人はためらうこともなく、変電所に続く真ん中の道を歩き始めている。
「だめだ」
僕は心の中で叫んだ。
女の人の背中は、どんどん僕から遠ざかってゆく。
「だめだ」
僕はその場に立ち尽くし、女の人を見送った。これ以上、彼女を追うことはできない。理由はわからないが、僕は変電所へは行ってはならなかったからである。