麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第100回)

2007-12-31 00:30:01 | Weblog
12月31日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

更新が遅くなってすみません。

100回目ということで、なにか新しく作ったものを載せたかったのですが、やはり、時間が取れませんでした。

2004年には、「風景をまきとる人」を書き上げ、2005年には、それを本にし、2006年には、宮島径さんとコラボ展を開き、2007年は、「画用紙の夜・絵本」を作りました。自分としては、1年にひとつだけは、なにかやるようにしてきたつもりです。

来年になにかできるのかどうか。
不安ですが、模索するしかないと思っています。
そうでなければ「無」なので。

それにしても、ついこの間2000年代に入ったと思ったら、もう最初の10年の後半になっている。おそろしいですね。だけど逆に、だからこそ、立ち止まってひとつだけでも書いておいてとてもよかったとも思います。「風景~」がなかったら、いまよりもっとむなしかったと思うので。

もし、来年なにもできなくても、ここで書くことだけは続けてみようと思います。自分がまだ生きているということに気づく場所はここしかないので。

では、また来週。
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生活と意見 (第99回)

2007-12-23 21:57:57 | Weblog
12月23日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

明日はクリスマスイブですね。

ということは、去年ここに「風景をまきとる人」の最終回をアップしてから1年。早いですね。
今年は、なんとか、少部数ながら短編集を形にしました。麻里布栄としての活動といえばただそれだけになりましたが、いちおう、やってよかったと思います。

すでに動物としては、私に生きている意味はありません。
ただ、死ぬまでに、できればもう一つ二つ、仕事をまとめてみたいということだけが、私の願いのすべてです。



クリスマスが近づくと読みたくなる作品をいくつかあげてみます。

クリスマスキャロル。
説明は不要ですね。天才・ディケンズの不朽の作品。私は、ちくま文庫、小池滋訳の落語調のものが好きです。ディケンズは、自作を朗読するのが好きだったといいますから、この本も、きっと原文はなによりリズムがとてもいいのだろうと思うからです。

天使レヴィン。
少し前にこのブログでもふれた、バーナード・マラマッドの短編集「魔法の樽」の中の一編です。はじめて読んだのは大学生のとき。卒業間近のころ。日刊アルバイトニュースを見て面接に行くのですが、そのたび、すべての質問に正直に答え、すると、必ず先方は「あなたは、社会に適応しようという気がない」とかなんとかそんなことをいい始めて終わり、というようなことを繰り返していたころです。私はよく、子どものころから「大人という時期を飛ばして老人になりたい」と思っていましたが、このころほど痛切にそれを夢想したことはありません。できれば、レヴィンに別の世界へ連れて行ってほしいと思いました。いまも読むたびに、そのころの自分を思い出します。

清潔で明るいところ 世の光
これも有名な、ヘミングウェイの短編ふたつ。「なんにします?」「無を」「またキチガイだ」。いいですね。いまでは、この二つに、若いときはそれほど好きではなかった「キリマンジャロの雪」も加えたい気がします。

南方郵便機
これも説明はいらないでしょう。サン・テグジュペリの処女作。現在読めるのはふたつの翻訳で、どちらかといえば堀口大学訳がいいと思いますが、できれば若い訳者に訳しなおしてほしい作品です。私には、自分の中に、この作品がなぜか映画のように、絵物語として入り込んでいて、それを何度も見直しています。「星の王子さま」とまったく同じ主題を持ち、ひょっとすると、「星の王子さま」以上のファンタジーである、と思います。

福音書
当たり前といえば、当たり前ですね。まだ一度も読んだことがないという方は、角川文庫の新約聖書の「マタイ」を読まれることをすすめます。ここでは、スコセッシ監督「最後の誘惑」のイエス像に近い、活動家としてのイエスの姿を感じ取ることができます。しかし、本としては、ルカかどこかに(内容に大きくかかわる)完全な校正ミスがあり、いい本とはいえません。ただ、マタイの訳文は、他では絶対に読めない、すばらしい訳文です。

風景をまきとる人
わかりやすいオチで、すみません。第15章は、1985年のクリスマスイブの四ツ谷が舞台です。クリスマス、四ツ谷といえば、私の二大好物といっても過言ではないでしょう。子どものころから「あの時に本当の時間は止まり、世界はにせものになったままだ」と感じる瞬間が何回かありましたが、その最後が、1985年12月24日です。私の時計は止まり、もはやそれ以降、夢を見ているのに過ぎません。



メリークリスマス。

また、来週。
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生活と意見 (第98回)

2007-12-16 03:01:06 | Weblog
12月16日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

「存在と無」の文庫化と同じくらいびっくりしました。
なんと、プルーストの「失われた時を求めて」のマンガが出ました。
フランスのマンガ家が描いたものの翻訳です。

ちょっと迷いましたが、やはり買ってきました。

感想としては、マンガだからとりあえず読むのは簡単だけど、最初にこれを読んで「失われた~」に入っていくのは、かえって難しいだろうということ。これは、逆に、私のように、いちおう原作を通読した者がときどき別の楽しみ方をするために手元に置いておくサブテキストだと思います。ヴィスコンティのシナリオもしかり。映画「見出された時」のビデオもしかり。ユリイカの増刊「プルースト」もしかり。プルーストの家政婦だったセレストの回想録「ムッシュー・プルースト」もしかり。海野弘の「プルーストの部屋」もしかり。ただ、ほかのなによりもすばらしいのは、イリエ(=コンブレー)の風景が、古ぼけた写真でもなく、時代がかった絵画でもなく、現代のマンガ家の目を通して描かれていて、距離感なく見られるところです。

鈴木道彦訳が文庫で完結してからも、すでに1年くらい経つと思いますが、このマンガの訳者のあとがきを読んでいると、いまでも「失われた~」は、読み始めた人は多くても通読した人は少ないということらしいです。訳者もある程度義務感で読んだと書いています。私には、それがとても不思議です。たしかに、「ソドムとゴモラ」の、ラ・ラスプリエールでの会話のシーンでは、かなり退屈になって読書を中断していたことはありますが、そこだけです。他は、すべてどのページも夢中で読みました。そうして、このマンガの訳者同様「この小説には人生の全てがある」と思いました。「見出された時」を読み終えたのは、新幹線の中だったのですが、3年間その中に入り込んでいた世界が完結したのが信じられず、もう一度その中に戻りたいと思い、同時に現実と呼ばれる自分の周りの世界が紙くずになったように味気なく、価値のないものに感じられました。「悪霊」「罪と罰」「魔の山」「豊饒の海」「ユリシーズ」などを読了したときにやはり、こんな転倒はありましたが、これほどの転倒が起こったのは、このときだけです。新幹線を降りて、自分がどこへ帰るのか、誰に会うのか、なんのためにそんなことをするのか、理由がわからず、冗談でなく、途方にくれてしまいました。

考えがまとまっているわけではないのですが、今度、なぜ多くの人がこの本を退屈だと感じるのかについて、最近、このブログでも触れてきたスタンダールとサルトルの話にひっかけて書いてみたいと思います。

では、また来週。
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生活と意見 (第97回)

2007-12-09 23:29:28 | Weblog
12月9日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

マルセル・プルーストは、
「作家は一生にひとつの作品しか書けない」
と言っています。

これは、よい作品はそんなにたくさん出来るものではない、という意味ではなくて、どんなにたくさん作品を書いても、一人の作家が書けるのは、同じ主題であるという意味です。

フローベールなら、「ボヴァリー夫人」「サランボウ」「感情教育」「聖アントワヌの誘惑」「ブヴァールとペキシェ」のすべてが「感情教育」というタイトルを持つ長編小説の一部であり、ドストエフスキーなら、「貧しい人々」「虐げられた人々」「罪と罰」「白痴」「悪霊」「未成年」「カラマーゾフの兄弟」などのすべてが「罪と罰」という総タイトルの元に集約される。

フローベールとドストエフスキーについては、プルースト自身がそう書いていたことですが、これに付け加えて、たとえばジョイスなら、すべては「若い芸術家の肖像」ということになるでしょう。(「ユリシーズ」は、スティーヴンが、自分の考え出した作中人物のブルームと作品の中で出会う、というメタ的な話だと考えれば、やはり主人公はスティーヴンなのだから。また「フィネガンズ・ウェイク」は、勉強を続けるスティーヴンの夜の夢と考えれば、やはりこれもスティーヴンが主人公なのでしょうから)。

もちろん、プルーストは、こんなふうにいうことで、自分がただ一作しか執筆しないことの正当性を主張しようと(言い換えれば「言い訳」を)しているわけですが、それを超えて、至言だと思います。

ということは、当然、私の書くものはすべて「風景をまきとる人」である、と。

まさにそのとおりですね。

そんな見方をほかの作家にも適用してみれば、なにか新しい発見があるかもしれません。

では、また来週。
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生活と意見 (第96回)

2007-12-01 22:55:56 | Weblog
12月1日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

いろいろな方が、このブログを読んでいらっしゃるのですね……。

せめて、ここに書いている間は、ただ「風景をまきとる人」の著者として、この本の読者でいてくださる方と、またこれから読者になってくださる方にだけ向かっていたいと思うのですが。



「海流のなかの島々」に続いて新潮文庫「誰がために鐘は鳴る」が改版になりました。たぶん二回目の改版です。二年前、入院中にこの本と「海流~」を読みました。いまでも、まったく違うふたつの世界のふんいきを胸の奥からすっと取り出して味わうことができるくらい、感動しました。「誰がために~」は、ちょっと甘いですが、以前も書いたようにパブロという人物の造形が見事で、彼がいるために、その甘さに抑制が効いています。おそらく、あまりに有名で、いまさら読むのはバカバカしいと思っている方もいらっしゃるかもしれませんが、字が大きくなったのを機に読まれてはいかがでしょうか。私もまた買ってきました。



芥川龍之介の本では「お時儀(原題まま)」という短編を初めて読みました。すごく、いいですね。また、「蜜柑」は高校生のころからずっと好きで何十回も読んでいます。これを読むと、田舎の高校で、ほぼ1日一冊のペースで本を読んでいたころの自分を思い出します。数学だけが好きだった自分が、文学部志望に徐々に変わっていったあのころ。あのころの集中力があれば、と思わずにいられません。



ちまたでは、ドストエフスキーがちょっとしたブームのようですが、「カラマーゾフ~」だけを見ないで、「虐げられた人々」のようなシンプルな作品を読んでみるのもいいと思います。講談社文芸文庫から「鰐」などの短編集も出ましたが、いまさら「笑えるドストエフスキー」とかいっても、どうでしょう? 笑いたいならニコライ・ゴーゴリのほうが何倍も笑えると思いますが。以前は椎名麟三や埴谷雄高の、あまりに深刻すぎるドストエフスキー解釈に「それはどうでしょう?」と首をかしげましたが、いまはいまで、なにかバランスを欠いたブームのように思えてなりません。

では、また来週。
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