麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第247回)

2010-10-31 08:45:18 | Weblog
10月31日



「とげぬきばあさん」


疲れ切っていた。
心臓にやる気がなくなって
入院して、退院して、しばらくたったころ。

誰にも会いたくなく、なにもしたくなかった。
だが、死ねないかぎりは生きないといけない。
生きるかぎりは働かないといけない。

事務職の面接に出かけて、完全に失敗して
三田線で四時ころ巣鴨まで戻ったとき、
なんとなく、とげぬき地蔵にお参りしようと考えた。

平日だが、老人や観光客はけっこういて、
大した長さではないが順番待ちの列ができていた。
しんがりに並び、ゆっくり前進していく。

地蔵に向かって左手には、店が出ていて、
70くらいのおやじさんが、ピップエレキバンそっくりの
でもそうではない磁気治療器を売っていた。
「厚生労働省認可の……。足、腰のしびれる方、調子の悪い方はぜひお試し……」

そのとき、向こうの門のほうから
小さい、ほとんど直角に腰の曲がったばあさんが現れ
アヒルみたいにこっちへ歩いてきた。

口上を述べるおやじさんの店の前を過ぎ、
ばあさんは笑いながら、なぜか俺の顔をずっと見て
近くに来ると、言った。自分の頭を指さして。
「足腰が悪いったって、一番悪いのは、ここの中身だよ。ねー」

たまらなくおかしくなって、俺は、ハッ、ハッ、ハッ、と声をあげて笑った。
ばあさんも笑いながらそのまま反対側の門のほうへ消えていった。

俺の心のとげは、一瞬、完全に抜けた。
俺は誰でもない。俺はいくつでもない。俺はなんでもない。
俺はただの白紙だ。


とげぬきばあさん。
あのときのあんたのひと言は
地蔵さんの何倍もご利益があったよ。
いや、それともあんたが地蔵だったのか。
そうかもしれないな。
ありがとう。


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生活と意見 (第246回)

2010-10-24 09:44:47 | Weblog
10月24日



「もういちど読む世界史」


「時間」は、根を引き抜いた時点で「枯れる」という時限爆弾をかかえた生き物が生み出したもの。時間が生まれたとき(へんな言い方だが)、食い物を確保するために意識が生まれ、意識はサルトルがいうように、つねに「なにものかについての意識」だった。それはほとんど「獲物」と同義だった。それだけが目的で意識の全部だった。だが、人間は言葉を生み出し、言葉は記録を生み出し、ある一時の観察を、その観察をしている自分とは別の時間の自分に提供することができるようになった。その記録を利用して、記録に従って自分の体を機械的に使役していれば向こう10年、食うには困らない。毎秒「獲物」という言葉と同義だった意識に「ひま」ができた。ひまになった意識は「なにものか」を求めてさまよう。「なにものか」がなければ空虚だからだ。たとえば直接「食う」に関係ないことでも観察しはじめる。執拗に観察をする。やがて観察している自分まで観察し始める。「俺はなんだろう」。一度この疑問にとらわれると自分にそれを説明しないではいられなくなる。まず「俺はどこにいるのか」を説明しなければいけない。どこにいるのかを説明するには世界地図が必要だ。だが、観察記録をかき集めても、世界は「暗黒地帯」だらけで、ここがどこなのか正確に言うことはできない。不安だ。息子にも「俺は自分がどこにいるのかもわからない」と正直に言ってしまっては威厳を保てない。「暗黒地帯」を説明するために「お話」が生まれる。神。悪霊。天国。地獄。自分の村は、神に選ばれた、天国に近い場所にある。お話を作っていくうちに自分の存在理由もわかったような気がしてくる。ところが隣の村の連中は別のお話で世界を説明しているようだ。そのお話の中ではうちの村は彼らの村より天国から遠いことになっている。そんなお話は許せない。そんなお話を語るやつらは皆殺しだ。神よ、力を。惨殺。強姦。惨殺。悪魔は滅びた。俺たちの世界地図は正しい。一時の平和。しかし、よく見ると隣の家のあいつの世界地図は俺と違うようだ。あいつの地図では俺があいつより劣ったものとして記録されている。そんなこと許せない。村のおきてがあるから殺しはしないがあらゆる手を使ってその地図が間違っていることを証明してやる。見ろ、俺の富を。見ろ、俺の女を。見ろ、俺の酒を。見ろ、俺の豪華な食事を。だが、隣の家の男からすれば、ガラクタの山、ただのブス、カエルの小便、象のウンコ。がんばったおかげで胃がいたい。ストレスかな。「ガンです」。マジ? 俺はなんのために生まれたのかな。永劫回帰。

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生活と意見 (第245回)

2010-10-16 14:56:02 | Weblog
10月16日



「恋のはじめ・続あるいは前半」


その女をはじめて見た時、口の中に甘酸っぱい唾液が込み上げてきた。上司である編集長のAと打ち合わせをしている時で、女は突然、Aのデスクの横に立っている僕とデスクについている彼のあいだに割って入った。その時、女の体臭がした。「いきなりくるんじゃないよ。馬鹿。打ち合わせ中だぞ」。Aは言った。非難してはいるが、本当に気分を害しているのではないことがはっきりわかる口調で。「すみませーん」。若い女だから許されている、ということを知り抜いています、ということを表明する儀式的な甘い口調。僕の顔は自然曇った。というのは、女が常に自分の価値を計算し、たくましく世の中を渡っていく、その姿勢、そしてそれが、結局その女のためでも誰のためでもなく、女がやがて子どもを産み、本能の満足を得るために組み込まれた姿勢であり、初めからできあがった回路に電気を流すのと同じことであり、そのことで誰が得するわけでもない、自然の摂理が成就されるだけなのだとわかる時には、いつも憂鬱になったから。しかし、その気分とは別に、僕自身の本能も動き出していた。なぜなら、その女の体臭が、たぶん、本人も気づかず、誰に向けるでもなく、自分という個体を、やがて滅び行く個体を生殖という再生行為で保とうとさせるために準備された動物のシステムが発したにおいが、人間の空しさを客観的に透視し、生物としては、マイナスの認識を得ているいまの僕の体の中に、理性による認識とはまったくべつの反応を呼び起こしていたから。



とてもまずいことになった、と陽一は思った。
俺はあの女とやりたいらしい。だが。
だが、という音のない言葉が、コーヒーを飲むためにわずかに開いた口からカップの中へ滑り込んだ。一口だけすすると、砂糖も入れていないのに甘い味がした。
ほらみろ。もう、周りの世界が変化し始めている。これから、もっとひどくなっていくぞ。この馬鹿。
心の中で自分を罵りながらも、陽一は、自分の唇がかすかに微笑んでいることを、それに、ひょっとすると、目も輝いているかもしれないことを知っていた。店にはほかに客がいなかった。それでも陽一は手放しで喜びの表情をしているのが恥ずかしくなって、どこにもいない誰かに向けて背中を曲げ、テーブルにひじを突いて右手で頭を抱え、悩んでいるような演技をして見せた。
もうわかっているはずじゃないか。いい年をして。しかも相手は自分よりかなり年下だし、ひょっとすると上司の愛人かもしれないというのに。


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生活と意見 (第244回)

2010-10-10 12:26:18 | Weblog
10月10日



「恋のはじめ」


 なにか、どこかに裏があるようだ。と、陽一は思った。なぜあの女は、あんな事を言ったのか。「私とあの女は幸せじゃない。それはちょうど、西日のさす部屋から眺めた人のいない公園のように」。それとも単なる聞き間違いなのか。「私はあの女のしわ寄せではない。橇は、ちょうどニキビの先、ヘアから舐めた人はいない高円寺のように」そんなはずはない、と陽一は思った。だが、陽一のキャパシティは狭く、子どものころから、自分で世界を単純化しないと落ち着けなかった。その世界の中ではいつも自分は王様のようだった。ある日、陽一は、「人は死ぬ」という認識したくないことを認識した。だが、そんな知識には耐えられなかったので、「自分ひとりは、これまで生まれてきた人間とは違い、死なないのだ」と考えた。実をいうと三十歳になる今もそう考えていた。自分だけは死なないのだ、と。単純化しなければ。早く単純化して「そういうこともあるさ」といういつもの状態にならなければ。そうしないと俺は安心していることが出来ない。雨が降っている。どしゃ降りではないが。だが、陽一は濡れてはいない。あの女のことがどうしてこんなに気になるんだろう。それは、あの女とやりたいからだろうと思った。やりたくない女が何を言っても関係ないから。でも不思議なことだ。どんな女にもやりたいと思う男が必ずいる。相性。実にうまく出来ている。それは生き物の本能なのだ。自分の遺伝子を残そうとする。生き物の本能という客観的な事実を認識した瞬間、陽一の、あの女への執着は消えて、まるで新学年になってもらったばかりの教科書のページのように心が静まった。しかし、心は揺れることを望んでいるのだろうか。しばらくすると、あの女への気持ちが、戻ってきた。煩悩の固まり。俺は時々岩波文庫の「ブッダの言葉」を読む。犀の角のようにただ一人歩め。俺にはその心がわかる。だが、いまはわからない。わからないのが心地いいのだ。あの女の声を聞きたい。そう思った時、雨が降っているのを感じた。なぜなら、シーツから雨の日のにおいがしたからだ。雨か……。雨か。何で俺は「雨か」なんていうのか。誰も聞いてはいないこの部屋で。あの女の足を見るのはいい。あの女の歩くたびに、短いスカートが腿のところで跳ね上がる。スカート自身にも執着はないし、女の腿だけでも足りない。スカートが、腿のところで跳ね上がるのがいいのだ。それが女のいる意味だ。結局のところ、うまく口説けたとしたら、またお決まりの場面があるばかりだ。女は下着を脱ぐ。そして、俺は勃起したものを女に入れようと最高に興奮しながらも、頭の片隅で考えるのだ。「あの、スカートが腿のところで跳ね上がっていた感じが、今はもう、ない」と。そうして、その女と付き合えば付き合うほど、失われた感覚が大きくなっていき、やがて、女への愛情が冷めていくのだ。なぜ俺はそんなことまで考えてしまうのだろう。前は、こんなことはなかった。ひとりの女とやりたいと思えば、その気持ちをずっと持ち続けて、熱に浮かされる自分を感じるのが心地よかった。だが、いまは違う。この気持ちはやっかいな病気のようだ。そして心は病気になりたがっている。こうして悩むこと自体、つぎにあの女に会ったとき、すぐに欲望を沸騰させられるように準備をしているだけなのかもしれない。やりたい。ほかの方法があればもっといいが、それしかないつまらない行為を。やりたい。陽一は思った。あまりに月並みで恥ずかしいが、つまり、俺は恋をしているのだ。この恥ずかしさもうれしいくらい。

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生活と意見 (第243回)

2010-10-03 09:58:25 | Weblog
10月3日


「朝」


演説を終えた大統領のような顔で
でかいおばあさんが自転車をこいでいく。

いいなあ。

俺も小学生、いや中学2年ころ、いやよくわからないけどいつかまでは
一日中あんな顔をしていたはず。

いまはそれができないのか。なんで?
なにか変わったのか。

そりゃ変わったさ。あれもこれも。

あれもこれもってなんだ?
大したことじゃないだろ。なにもなかったのと同じくらい。
少なくともなにも思い出さなければ
なにもなかったのと同じだろ。

そうだな。
大したことはなにもなかったな。
ただ後味の悪さが残っているだけで
具体的にはなにも思い出さないし。
そうだな。なにも変わってないな。

中央公園まで遠ざかっても
でかいおばあさんの背中はでかいままだ。

よし。
俺も今夜は演説を終えた大統領のような顔で寝るぞ。
なにも思い出さずに。寝るぞ。

いいなあ。


仕事、したくないなあ。


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