10月29日
身体的欲望がすべて。生まれてすぐは。意識はそのつどほしいものとまったく同じ。よく、相対性理論の啓蒙書の中で相対性原理を説明するところに出てくるように、等速直線運動を続ける人は、その系から外を見ない限り自分が動いていると知ることはできない。それがこの場合たとえになるかどうかわからないが、意識が欲望の対象とぴったり重なっている間は自分が生きているとは確認できない。というか、自分は存在しないし、世界もまた存在しないというほうが正しいだろう。だから思い出は残らない。意識を意識する意識の余裕がない以上記録係は存在しないのだから。相対性原理の話はなにかのたとえになったのか。わからない。雰囲気としてはなったかもしれない。どうでもいいが。この文章は人間がまったくとりとめのない存在であるというところを示そうとして書くのであり、なにかうまくまとめようとかいう意図はない。ないのだ。俺よ。自由なのだ。俺は。奴隷だから言い聞かせるのだが。なんの意味もないのだ。
身体的欲望がすべて。生まれてすぐは。意識はそのつどほしいものとまったく同じ。よく、相対性理論の啓蒙書の中で相対性原理を説明するところに出てくるように、等速直線運動を続ける人は、その系から外を見ない限り自分が動いていると知ることはできない。それがこの場合たとえになるかどうかわからないが、意識が欲望の対象とぴったり重なっている間は自分が生きているとは確認できない。というか、自分は存在しないし、世界もまた存在しないというほうが正しいだろう。だから思い出は残らない。意識を意識する意識の余裕がない以上記録係は存在しないのだから。相対性原理の話はなにかのたとえになったのか。わからない。雰囲気としてはなったかもしれない。どうでもいいが。この文章は人間がまったくとりとめのない存在であるというところを示そうとして書くのであり、なにかうまくまとめようとかいう意図はない。ないのだ。俺よ。自由なのだ。俺は。奴隷だから言い聞かせるのだが。なんの意味もないのだ。