星のひとかけ

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”のっと”のお陽さま:漱石と芭蕉と、、 オールコット

2021-01-29 | 文学にまつわるあれこれ(漱石と猫の篭)
しばらく前の新聞に、 芭蕉の句が載っていました。

  梅が香に のつと日の出る 山路かな

、、俳句に疎い私は この句をたぶん初めて読んだと思うのですが、 読んだ時すぐに漱石先生のことを思い出しました。 それは お日様が出てくる様子を芭蕉が (そして漱石も) 「のっと」と表現していたからなのです。


俳句を嗜んでいた漱石は 当然 この芭蕉の句を知っていたのでしょうね、、 春の山道を旅している朝に 梅の香りがふわっと湧き立つように 「のっと」顔を出したお日さまの様子、、 なんだか温かい やわらかい のんびりした感じもする そんな情景が浮びます。 「のっと」お日様が出てくるのは やはり春だからこそ、、 と思えます。 夜明けの早い夏のきらきらした太陽では 「のっと」日の出るという擬態語はそぐわないような、、

じゃあ、 「のっと」 ってどんなだろう。。

辞書にあたると 「突然あらわれる様子」 だといいます。 「ぬっと」 というような。

でも、 突然あらわれる、なら 春じゃなくても良いのでしょうけれど、 私の感覚だと「突然あらわれる」ことだけが 「のっと」ではなくて、 そのお日様の「色」とか、 昇ってくる「形」だとか、 昇ってくる「スピード」とか、、 それらが整って 「のっと」になるんだと思うのです。。 

春の水蒸気の多い、 靄のなかに 杏のような、 あるいは半熟卵の黄身のような、 とろんとした太陽が昇ってくる、、 そんな感じが一番 「のっと」に近い気がする。。 「ピカー」と輝いていてはいけないんです。。

 ***

漱石は 『夢十夜』の「第一夜」でこのように表現しています。

 そのうちに、女の云った通り日が東から出た。大きな赤い日であった。それがまた女の云った通り、やがて西へ落ちた。赤いまんまでのっと落ちて行った。一つと自分は勘定した。

、、漱石は 日が昇るさまを「のっと」と表現しているのではなくて、 日が西に沈むさまを 「のっと落ちて行った」と書いています。 これだと、 先ほど辞書にあったように 「突然あらわれる様子」という意味では解釈できなくなります。 そして漱石は 「赤いまんまで」 と書いているのにも注目。。 「のっと」沈む太陽は 赤くなくてはならないんです。

、、もうひとつ 『野分』という作品の中にも 「のっと」の太陽が登場します。

 高柳君はまた自由になった。何だか広い原にただ一人立って、遥かの向うから熟柿のような色の暖かい太陽が、のっと上ってくる心持ちがする。小供のうちはこんな感じがよくあった。

、、今度は のぼってくる太陽です。 色は 「熟柿のような」色の「暖かい」太陽。。 
さきほどの「第一夜」の「赤いまんまで」落ちて行った太陽も、 きっと「熟柿」のような 朱の濃い色の太陽なのでしょう。

漱石先生の影響のせいか、 どうも私も 「のっと」の太陽は ぽったりと丸くて大きくて、 そして柿のような 杏のような、、 そんな色をしている太陽を思い浮かべてしまうのです。。


これは 「のっと」出てくる太陽に近い感じがしませんか…?



ほとんど同じ場所の ほぼ同じくらいの時間なのに、 水蒸気が少ない快晴の朝陽は輝き過ぎていて あまり「のっと」した感じがしません…

やっぱり 「のっと」には 色味の暖かさが必要。。 


 ***

漱石先生は『夢十夜』の「第七夜」で こんどは別の太陽の描写をしています。

 ただ波の底から焼火箸のような太陽が出る。それが高い帆柱の真上まで来てしばらく挂っているかと思うと、いつの間にか大きな船を追い越して、先へ行ってしまう。そうして、しまいには焼火箸のようにじゅっといってまた波の底に沈んで行く。

、、この 「焼火箸のような」太陽は、 決して「のっと」出てくることは無いのだと思います。 水平線から昇ってくるときも、 沈んでゆくときも、 まるで波を沸騰させんばかりに「じゅっと」あらわれ、 「じゅっと」沈んでいくのだと思います。 この「第七夜」は 船から身を投げる男の話ですが、 その焦燥感とか 苦しさとか、、 「焼火箸」の太陽という語によく表れていて、 漱石の描写の的確さには感嘆します。。

漱石先生の英国留学は、 じつに「不愉快な」二年間だったと言われていますけれど、 船上から幾度も眺めたであろう日の出や日没の太陽は、、 「熟柿」ではなくて やっぱり「焼火箸」のような太陽だったのかしら、、 ね。。

 ***

話はとびますが、、
このところ 『若草物語』をもう一度 時代的に見直しながら 文化史の側面を読み直してみたいな、、と思うようになっていて、、 というのも


ルイザ・メイ・オールコットは二度 ヨーロッパ旅行に出かけていて、 その経験などが『続・若草物語』のエイミーのヨーロッパからの手紙に反映されているのですが、 上記の漱石先生の留学が1900年のことで、 片やオールコットのヨーロッパ旅行はそれよりも35年も以上早い(!)1865年のこと。 オルコットの二度目の旅行が1871年で、 これは日本で初めての女子の官費留学生の津田梅子や山川捨松がアメリカへ渡ったのと同じ年、、
、、 二度と会えないかもしれないと 娘を「捨て」たつもりで「待つ」と 名前を「捨松」と変えて旅立った決意の重さ。 一方、 自分で小説を書いて稼いだお金で妹とヨーロッパに旅立ったオールコット姉妹。。 『続・若草物語』で書かれた エイミーのヨーロッパからの手紙のなんと楽しそうで生き生きとしていること! 

 甲板の散歩、夕やけの美しさ、すばらしい空気と波! 船が波をけって堂々と進んでいくときは、まるで馬を全速力で走らせているような壮快な気持ちでした。 ベスがいっしょだったら、あのひとのからだのためにどんなによかったことでしょう。 ジョーさんだったら大鐘楼とかいう高いところに登ったり、機関士たちとお友だちになったり、船長さんの伝声機を鳴らしてみたり、さぞかし大喜びだったろうと思います。
       (『続・若草物語』より 吉田勝江・訳)

、、 実際のオールコットの船旅は 船酔いなどもあって余り楽しくなかったように日記にはありましたが、 それでも 英国からフランス、 ドイツ、 イタリアなどを巡り 名所や美術館や美しい大自然を満喫した様子が日記にも『続・若草物語』のエイミーの手紙にも表れていて、 漱石先生の「不愉快な」英国留学の二年とは だいぶ趣きが違っていて、 これが150年前のアメリカ人女性の姿だったと思うとあらためて驚いてしまったのでした。。


、、 松尾芭蕉の 「のつと」のお日さまから 話が逸れてしまいましたね。。 


夜明けの遅いいまの季節、、 毎朝 日の出を眺めています。



海からのぼってくる朝陽を見ながら こんなことを考えている日々。。



良い週末をお過ごしください。

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