星のひとかけ

文学、音楽、アート、、etc.
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タブッキの灯台:『レクイエム』『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』ほか

2021-08-31 | 文学にまつわるあれこれ(ほんの話)
 …その原稿は久しく孤独であった。仲間を必要としている。そう私は感じとっていた。八月の終りに読みなおしてみた。そのころ私は大西洋を望む古い一軒家に暮らしていて、そこは風と幽霊が棲み家にしてきた家だった。
          (「いまはない或る物語の物語」  『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』所収)

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前回につづいてアントニオ・タブッキのこと。。




30年前に買った『インド夜想曲』など自分の持っている本に加えて 図書館から借りたタブッキの本、 いくつかまとめてタブッキを読んでいました。 前回、タブッキとポルトガルの繋がりのことを初めて知ったと書いていますが 『インド夜想曲』を読み返したら ポルトガルのことはちゃんと出ていました。 ぜんぜん覚えていなかっただけ…

30年ぶりにタブッキに辿り着き、 今回読んだ『レクイエム』がとても印象的で、 その続編というか 遺稿集のような『イザベルに』をつづけて読んで、、 それで、タブッキという作家のイメージとして感じていた 《夢の断片をつむぐようにして書かれた物語》というものが、 じつは決してとりとめない夢の断片などではなく、 『インド夜想曲』を書いたときから、 そしてそれ以前から、、 つきつめればタブッキが作家として生き始めた原初のときから ずっとずっとタブッキはひとつの《思想》を一貫して追い求めてきて、 それが全ての作品の根底には流れているんだな、と気づきました。 それでいろいろと手に取ってみているのです。

思想、といっても 人に訴えたい主義主張というようなものではなくて、 ずっと当人の心を占めているある想念、 なにかにたいする追憶、 消え去ったものへの追想、 かつてのある地点やある人への憧憬、消息、、 自分への懐疑や後悔といったものも含めて、、 ずっとその答えを探しつづけているもの、、 そういうもののこと。。

だからタブッキの物語には 同じモチーフが何度も出てくる。 最初はそれが 他の作品に出てきた同じものを示しているのかと思って、 謎解きのキーワードを見つけたように喜んだのですけれど、 そういう謎解きを求めるのは無駄だとわかりました。 タブッキの物語に出てくる男の誕生日が 「秋分の日」と書かれているからといって同一人物のことなのかと思ったら(『レクイエム』や『イザベルに』)、、 なんのことはない タブッキ自身が秋分の日の生まれなのでした。。 ついでに『インド夜想曲』にもこの日付は出てきます、誕生日としてではなく。。 

だから 彼(タブッキ)と登場人物たちにとっては重要な意味をもつ日付。 月や潮のうごきに運命を揺さぶられる男、、 そういう象徴としての「秋分の日」

ほかにも何度か登場するのが「灯台」のある海岸。
最初は『レクイエム』のなかでとても美しい回想として書かれていたのを読み、 強い印象を受けました。 男はポルトガルのカスカイスの駅からタクシーに乗ってその海岸へ行き、 灯台守の家を訪ねます。 

 …わたしは一本指で、ショパンのノクターンの主題を弾いた。あの頃、このメロディーを奏でていたのは、べつの二本の腕だった。…

このあと男は この元灯台守の家をめぐりながら かつて自分がここに住んでいたある年のことに想いを馳せます、、とても美しい場面です。 ですが、タブッキの追想と追跡の物語のなかで この文にある《あの頃》や《べつの二本の腕》が明かされることは無い。。 

今回、 『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』という短編集を読んでいたら、 その中の「いまはない或る物語の物語」がやはり灯台のみえるある家を借りて原稿を書いていた男の物語だとわかりました(冒頭にその一部を引用しました)。 そこには19__年と年号も書かれていましたから、 もしかしたらタブッキが実際にそういう場所に住んだことがあったのかもしれません、、 だからといって 『レクイエム』の灯台守の家の描写がそのときのものと決めるのも違う気がする。。
、、 ただ この灯台のある海岸で原稿を書いていた時代、時間、というのは タブッキの作品ではとても強烈ななにかを決定づけた時間だったのだとわかります。

 …いつのまにか九月がやって来て、秋分の候を先がける猛だけしい高潮が押しよせた… (略) …家の前には恐ろしく切り立った断崖があり、その真下では波が逆巻いていた―――私は孤独だった。…
        (「いまはない或る物語の物語」)

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ほかにも タブッキの作品のなかに何度か出てくる共通の名前とか共通の場所、 とかあるのですが その意味を探るのは 本を一度や二度読んだだけではわかりようもないでしょうから、 これ以上は置いておいて、、

これら物語に出てくる 灯台のある海岸を見てみたくなって、、 ポルトガルのカスカイスという地名を頼りに、 灯台を探してみました。

 Santa Marta Lighthouse >>Wiki

Guia Lighthouse >> Wiki

画像検索をするとどちらも美しい海岸の風景が出てきます。 上記の引用文の「切り立った断崖」という場所から察すると、 ギア灯台のほうみたいです。

、、こんな場所に一年間暮らして、、(ショパンのノクターンを奏でる誰かと一緒に)、、 波の音と灯台の光だけにつつまれて幾多の夜を過ごすことができたら、、


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話は少しとんで、、
タブッキは ポルトガルのアソーレス諸島にもしばらく住んだことがあるそうです。 『島とクジラと女をめぐる断片』という本にまとめられています。

アソーレス諸島、って聞いたことはあったのですが、 ポルトガルというから あのイベリア半島の横あたりに(なんとなく長崎の五島列島のように) わりと近い場所にある島々とばかり思っていましたが、 とんでもない、、 ポルトガルとは1,000キロも離れた大西洋のなんにもないところ、、 そのまま真っ直ぐ西へ行ったらニューヨークに突き当たる海のど真ん中にあるんだって、、 今回初めて知りました。

だから アソーレス諸島に暮らす人々の歴史も暮らしも、 ポルトガルとはまた違うのだと知りました。 『島とクジラと女をめぐる断片』もすごく興味深く読める小品集。 タブッキらしい幻想的な物語も含みつつ、 この島独特の文化くらしの色合いもありありと感じ取れる、、 素敵なちいさな本です。

、、 ちなみに 私個人のちょっとした関心事として、、 アソーレス諸島って ヌーノ・ベッテンコートが生まれた島なのです。 もっとも4歳で彼はボストンへ移住したのでアメリカ文化のなかで育ったのでしょうけれど、、 でも ヌーノの風貌、 ギターの腕前、 情熱のなかにどこかメランコリックな湿度をたたえたヌーノの音楽性とあの黒い瞳、、 そっかぁ、、 アソーレス諸島ってそんな場所なんだ、、

、、と、 アントニオ・タブッキさんの本から思わぬ発見をしたのでした。。 『島とクジラと女をめぐる断片』のなかの「ピム港の女」という短編にもギター弾きが登場する、どこかゾクっとする艶のある傑作でした。

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夏がおわります、、


コロナの夏でも蝉はうつくしく鳴いてくれました。 でももう 朝も夕も、 その声は聞こえなくなってきました。


いろんなひとの努力を無にするような そんな残念な出来事も耳にしました。。 一度うしなった信頼は 二度と取り戻せない、、 失われたところに同じ夏はもう来ない、、



明日から9月。

夜と月を想うとき…



うつくしい秋になりますよう…

夢を紡ぐ夏… ひさしぶりのアントニオ・タブッキ

2021-08-19 | 文学にまつわるあれこれ(ほんの話)



  七月のとある日曜日、舞台は人けの絶えた猛暑の町リスボン
               (『レクイエム』はじめに)


  わたしは空を見上げた。考えてみれば不思議なものだ。若い頃はこの碧さが自分のもの、自分の一部のように思いつづけていた。それがいまは、あまりにも碧すぎて、遠い相手になってしまった。
               (『レクイエム』6)

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ひさしぶりにアントニオ・タブッキを読んでいる。 ひさしぶりに、、 と言っても 前に読んだのは 『インド夜想曲』 『遠い水平線』(ともに91年)の頃だから、 なんと30年ぶり ということになる。
 
いま読んでいるのは、 インド夜想曲から7年後に書かれた『レクイエム』と、 タブッキの没後に刊行された『イザベルに:ある曼荼羅』という本。 、、でも 読書記はまたべつの時に書きます、 まだぜんぶ読み終えていないし。。


タブッキを読んでいると、 主人公の語り手(男性)のことが脳内で 俳優のジャン・ユーグ・アングラードにどうしても思えてきてしまいます。 もとはと言えば 『インド夜想曲』が映画化された時の主演がアングラードだったせいもあるのですが、、 30年前の当時 私がジャン・ユーグ・アングラードの映画ばかり見ていたせいなのかも、、

インド夜想曲の映画化は89年で 日本公開は91年だそう。。 ジャン・ユーグ・アングラードを知ったのはもう少し前です。 『傷ついた男』や『サブウェイ』から 『ベティ・ブルー』 『恋の病い』 そして『ニキータ』まで、、 80年代の後半から90年代の初めまでくらいでしょうか、、 彼の出ている映画はずっと観つづけていました。


30年ぶりに読んでいるタブッキの小説『レクイエム』と 『イザベルに』は、物語が繋がっていて、、 つながっている、というか 、、 『レクイエム』で作家が書かなかったこと、、 出版しないままタブッキは亡くなったのですが、 ずっとずっといつか書こうと気にかけていたらしいこと、 書き足りなかったことを、 草稿にしておいたものが 没後にまとめられ、出版され(てしまっ)た、、ということなのでしょう。 だから、 『レクイエム』を読んだ者には とてもとても興味深く感じられる『イザベルに』なのですが、、 果してこの物語を知ってしまうことが正しいのか、 正しくないのか、、 (正しい正しくない、なんて文学には無意味と思いますけれど…)

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『レクイエム』と『イザベルに』で リスボンの町を彷徨う男は、 もう若くはない(らしい)作家。 過去にのこしてきた思い出、 かつて明かせなかった謎、 忘れられない記憶のなかの人々、  喪った友、  決して忘れたことの無い消えた女。。 そんな 遠い夢で見たような面影と出会う、 断片的な彷徨いの物語。。

うしなったものを夢幻のなかに求め町を歩きつづける作家の男、、という姿がジャン・ユーグ・アングラードに重なるのでしょうね。。 30年前の彼が年をかさねて現在を生きている姿。。 ベティを失った彼は小説を書き始めましたね。 ニキータを失った彼はあの後どうしたでしょう、、 彼は船の設計者かなにかだったでしょうか、、 でもそれも定まっていない職業でした、、 大切な人を失ったあとの彼の人生は…?  そんな姿が『レクイエム』の作家と重なってみえてしまうのです。。 
物語のなかの男も年をとったでしょうし、 読むわたしも年を重ねました。

アントニオ・タブッキはイタリアの作家ですが、 ポルトガルを舞台にポルトガル語で小説を書く。 ポルトガルとタブッキとのつながりは今回はじめて知りました。 
ポルトガルという国についても 知っているようでほとんど何も知らないことに気づかされました。 知っていたのはファドという音楽のことくらい。。 リスボンの夏の猛暑、、 町の地名やふしぎな名前の料理や お酒の名前も いろいろ初めて知りました。

タブッキの物語は夢の断片をみているようです。 長い長い 夢の続き。 それは『インド夜想曲』の頃から変わらない印象です。
とてもリアルなのに現実では無いような、 夢幻の街をさまよう物語を コロナ禍の猛暑のなかで読んでいます。 日よけのシェードをおろした部屋のなかで。。

できることなら、、 港がみえる街をそぞろ歩きなどしながら、 この物語を反芻できたら この夏のよい思い出となったことでしょう。 赤レンガ街とか…? 

でも、 いまはじっとして夢を紡ぐ時。 
物語の世界も、 この街でいま起こっていることも、、 どちらも現実の世界のできごとではないような。。 ほんとうに一日に一万人もの人が同じ病に罹患して、 病院が満員になって大混乱して、、 人々は厳重にマスクをして誰とも話さず離れて歩かなければならないの?  まるで小説の世界。。 ふしぎな物語のなかを生きているよう、、。

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、、 嘆いているわけではないのです、、

いまは そうやって物語のような世界で 夢を紡いでいるべき時間(とき)。  状況が日々変化していくなかで 先を急ぎたい気持ちはもちろんあるのだけれども、、 いまは闘いを挑むときじゃない。。 月や星々の運行、 潮や風のうごきを見つめて出航するように、、 時を見究めること。。



物語のジプシー女がおしえてくれたような、、  


ただしい時と場所で、、



そうしたら 待ち合わせは きっと叶うはず。。


人生の終わりを想う…:『最後の注文』グレアム・スウィフト著・『苦悩する男』ヘニング・マンケル著

2021-08-02 | 文学にまつわるあれこれ(ほんの話)
8月になりました。 

感染者が爆発的に増加しつつある中、 オリンピックの競技会場の空間が非日常的なほとキラキラして見えます。 はじまるまでは、 秋以降の開催にしてくれたら心から楽しめたのに… と思ったけれど、 日本国内のコロナ対策の停滞ぶりをみると、 今でも秋でも状況は変わらなかったかも… という気がしてきた。。

徹底した検査とワクチンと予防策がなされれば 五輪だって、 帰省だって、 旅行だって出来るのだ。 すべての人に自粛を、 なんてもう無駄な事。。 この夏 会いたい人に会うためにワクチン接種を頑張った人たちにこの上どう耐えろと言うのだろう。。 どうしてもっと科学的、 合理的な対策ができないの?… 無能すぎます。。

愚痴はやめて、、 個々人が正しい情報に基づいて判断しましょう、 これからは。

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この春 書けなかった読書記を。




少し前のニュースで、 日本の高齢者の約3割が親しい友人がいないと答えた、という調査結果がありました。 ちょうどその話題を眼にしたころ これらの本を読んでいて、 人生の晩年のあり方について考えていたのでした。

私見としては、 本人が納得できる生き方、 往き方さえ出来れば、 人との交流を求めるのも孤独を愛するのもどちらも良し。 親しい友人がいなければならない、とは思わない。

先の調査は4か国の結果が出ていて、 スウェーデンで親しい友人がいないと答えた高齢者はほぼ1割だけでした。(>>news.yahoo.co.jp)
そのスウェーデンのミステリ作品 ヘニング・マンケルさんのほうからいきましょうか。。

『苦悩する男』 ヘニング・マンケル著 柳沢由実子・訳 創元推理文庫 2020年

刑事ヴァランダーシリーズ 最後の作品。 
スウェーデンの社会状況や世界のあり方に視点を置いた社会派ミステリのシリーズ であると共に、 クルト・ヴァランダーというひとりの男の人生を描いたシリーズでもありました。  刑事としてとても有能ではあるものの、 ひとりの男としてはかなりダメダメな部分の多いヴァランダー。 すぐ怒る、 すぐ気が変わる、 すぐ落ち込む、 超淋しがりやのくせに強がり、 ゆえに人に弱みを見せたり助けを求めることが出来ない、、 

これまでの作品を読んだ時に (幸せになって欲しい…)と書いたように、 心の底からほんとうにヴァランダーの幸せな結末を願ってました。 だめだめなおっさんだけど 誰かを愛し愛されて、 幸せと感じる日々を見つけて欲しい。。 と、 思っていたけれど、、 この最後の作品は、、 シ ョックでした。。 そして、、 とてつもなく 寂しかった。。 かなしかった。。

クルト・ヴァランダー 59歳。。 親しい友人がいない、、 そのことを自分自身で感じて暮らしている、、 その淋しさ。。 仕事の仲間はいても友人とは呼べない。 そして心の中を打ち明け合った貴重な数少ない友人が、 ひとり またひとりと この世を去ってしまうつらさ…。。 自分はこれからどう生きたらいいのか、 どうなってしまうのか。。 自らの老後についてここまでヴァランダー自身が苦悩しているとは…。 ミステリ小説という《事件》の部分が(それはそれで読み応えのあるものだったのに) そっちのけになってしまうくらい、、。

決してクルト・ヴァランダー警部が特別な人とは思えない、、 日本の熟年サラリーマンが定年を迎えたら、 クルトと同じ悩みを持つ人はいっぱいいっぱいいるだろうと思う。。 でも、 よくシニアの地域デビューとか言うけれど、 老後の居場所はできても そこに親友をつくるのは難しい、、 幼馴染みとか同級生とか 50年来の友、 というような関係をつくるにはもう遅すぎる。。。

、、 ミステリの、 事件解決についての事はここでは書きません。 このシリーズ最終作は、 クルト・ヴァランダーという男の人生の最終作、、 そちらのほうが読者にはテーマだから。。

ただ ただ、、 ショックでした。。

でも、 ヘニング・マンケルさんがなぜそのような結末を書いたのか、 については理解できる気がしました。 『イタリアン・シューズ』という、 ミステリではない文芸作品をマンケルさんは書いていますが(読書記>>)、 調べたら 『イタリアン・シューズ』が2006年で、 この『苦悩する男』が2009年、、 『イタリアン・シューズ』で孤独な初老の男の生き方をあのように描いていた後だったから、 それとは異なる結末を描くしかなかったんだな、、と。

『イタリアン・シューズ』は もうひとつのクルト・ヴァランダーの老後なのだと、、 私はそう思って納得することにしています。。 お疲れ様でした、、 クルト・ヴァランダー警部。

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『最後の注文』グレアム・スウィフト著 真野泰・訳 新潮クレストブックス 2005年


原題は 『LAST ORDERS』 意味は、、 飲食店などで閉店近くなったときに店主が言う言葉、、 ラストオーダーは? という言葉ですね。

舞台は英国ロンドン。 ロンドンといっても、 昔ながらの商店のある下町、 そこで夜な夜な一軒のパブに集う初老の男たちの話。 肉屋の主人とその息子、 八百屋の主人、 もと廃品回収業の家で育った、いまは会社員の男、 それから肉屋のむかいにある葬儀屋の主人、、 おなじ通りで商いをしてきたオヤジたちの物語。

ストーリーは、 ひとことで言ってしまえば 《亡くなった男の遺言で遺灰を海に撒きに行く話》 、、最初から最後まで、 そのたった1日の 車での道中の話。 

英語で読める人なら、原語で読む方がよいのだろうと思います。 ロードムービーのように、 道中の男たちの会話と回想で成り立っていて、 その会話が終始 ロンドンの下町なまりで書かれているそうです。 でも、 この翻訳はすばらしいです。 商店主のおっちゃん達の会話がじつに生き生きとしていて、 登場人物のひとりがみんなから《レイちゃん》て呼ばれているのですが、 この原文がどのようなのか確かめてはいないけれど、 この「レイちゃん」 「なあ、レイちゃん」 という翻訳がじつに生きていて、 男たちの人となりが会話のなかから浮かび上がってくるのです。

、、 遺灰になってしまった友と、 呑み仲間の男たち。 道中が進むにつれて 彼らの関係や、 商売のこと、 家族のこと、 はるか半世紀も前の軍隊での出会い、 妻たちのこと、、 男たちの人生がだんだんと見えてくる。 何十年もそばで働き、 毎夜パブで顔を合わせ、 悩みを打ち明け、 さまざまなことを融通し合い、、 でも明かさなかった秘密も。。

彼らの関係が友情なのか、、 親友と呼んでよいのかどうか、、 よくわからない。 (え?) と首をひねりたくなる部分もある。 でも、 そういう部分も含めて 人間の関係の複雑さ、難しさをにじませるところがこの作品の深さなんだろうと思う。 ただの《いい話》じゃない。 それでもなお、 人生の終わりに願いを言い残せる相手がいて、 その願いを叶えようとする友がいて、 一緒に来てくれる仲間がいる、、 そのことの貴重さが物語を輝かせている。。 こんな人間関係は、 数年やそこらで築けるものではないよね、、 やっぱり幼馴染みとか、 同級生とか、 同じ地域で育った者とか、、 何十年もの時間があってのものなんだよね。。

そして そこに存在しているのが、 パブという独特の居場所。 イタリアならバールという場所。 


今年の春、、 コロナの感染収束が見えないなかでこの物語を読みながら、 いまの日本でこの小説を映画にリメイクできるんじゃないかと想像していました。。 コロナの世の中になって、 葬送のかたちも大きく変わりました。 県を超えて友を見送ることもできない世の中になってしまいました。 もしそうしたお別れを余儀なくされたとして、、 そのあとで仲間が(ワクチン2回済ませた後でね) 遺灰や遺骨を迎えに行く、 そしてどこかに届けに行く、、 そんなロードムービー。。 できるかもしれない。

最初の話に戻って、、
高齢になってから親しい友が必要かそうでないかは人それぞれ。。 高齢になるということは、 確実に友を失っていくということでもある。 友が多ければ多いほど見送る悲しみもまた増える。 見送った後の淋しさにも耐えなければならない。

でも、、 いい年をしたおじさん(或はお爺ちゃん)同士が、 「なあ、レイちゃん」 て呼べる関係は やっぱりいいものだと思う。。


この 『最後の注文』は 英国で映画化されているのだそうです。 なんとなんと、 マイケル・ケインに ヘレン・ミレンが夫婦とな、、  予告編を見ると しっかりロンドン訛りで何を喋っているのかちっともわからないんですが(笑)、、 サー・マイケル・ケインが肉屋のおやじ、というのは ん~~ なんだかちょっと想像しづらい、、

Last Orders (2001)>>imdb.com

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どんな人生であれ、 せいいっぱい生きた生涯の終わりは尊敬されてしかるべきものだと、 それは強く思います。 その終わりのときに会いたい人に会える、 触れ合える、 言葉を交わせる、、 その時間は守られなければならない。。

そんなときの自粛はあってはならないと思う。


いろいろ思うところもあって、 なかなか読書記が書けませんでした。。 それに、 この読書記を書いたあとで もし自分がワクチン接種の副反応かなにかで… なんてことになったらシャレになんないし… などと思って…


でも たくさん本は読んでいます。 体力つくりの毎日のトレーニングもしています。 体重もちゃんと増えました。


せいいっぱい 生きてます。


夏・・・