星のひとかけ

文学、音楽、アート、、etc.
好きなもののこと すこしずつ…

今年はミュージシャンによる舞台が私にいろいろ教えてくれます。

2003-05-26 | 文学にまつわるあれこれ(鴉の破れ窓)
 6月に引越しをすることが決まり・・・メールでお知らせ出来る方には追ってご連絡するつもりですが、なかなかページの更新も出来ない状態でゴメンなさい。
 新しく住む(といっても同じ都内ですが)街の暮らしはどんなだろう、と不安なようでいてとても楽しみにしているのです。まず最初にチェックするのは図書館・・今度は最寄の図書館が大きな公園のすぐ隣。家からは少し歩くけれど、その公園は私が都内でも最も愛している場所でとても落ち着ける場所なのが嬉しい。大きな樹木と自然の花々の咲く遊歩道を通り抜けていけば、買い物やお茶を楽しめる街へもつながっているし、これから暑くなっていく季節だけれど、大好きな森の匂いに包まれに出掛けよう。

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 今年はずっとルー・リードのことばかり書いてきたけれど、そんな時に嬉しい番組が見られて、、NHK-BS1の「地球ウォーカー」で取り上げられたルー・リードの話題はまさに「E・A・ポーを歌うロック詩人」というテーマで、アンディ・ウォーホールとのツーショット写真を飾ったオフィスですっかり逞しい風貌になったルーがインタビューに答えていた(ルーは今カンフーで鍛えてるから)。現在のLIVEの模様も短かったけど見ることが出来て、嬉しかった。今回は語りに中心をおくためにギターとベースだけの編成になって、大鴉の叫びも、嵐も、アッシャー家の崩壊も、歪んだギターの音で表現されていた。こんなシンプルなステージも一度は見てみたい。60代のルーが10年前にポーを「理解した」と語っているのだから、私にはそれまでにもう少し時間があるんだし、じっくりとポーとルーの足跡を追ってみればいいよね、と少し自分を励ましてもみたり。。

 週末にはチェコの映像作家ヤン・シュヴァイクマイエルの短編で「アッシャー家の崩壊」をビデオで見て、チェコ語(おそらく)の語りでポーが低く朗読され、泥や木工でつくられた家具や棺のモノクロのアニメーションがとても想像力豊かな変化を見せた。そう、ポーの世界は言葉と音の想像の世界。。。

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 「ヴォイツェク」・・(ベルク作曲の歌劇『ヴォツェック』として有名なのだそうですが不勉強な私はこちらを知りません。今度CDを探してみましょう)・・戯曲のテキストが見つかったので読み返してみました。

   自分たち貧乏人。つまり、中隊長どの、金(かね)、金なんであります。
   金のない者。そのくせ子供だけは、道徳的にこしらえろったって。
   貧乏人にも、血があり肉がありまさ。自分たちのような者は、
   どうせこの世でもあの世でも罰あたりですよ、たとえ天国へ行けても、
   まあ雷さまの子分がせきのやまで・・・

 このヴォイツェクは妻マリーと子供のために医学の人体実験の被験者になります。豌豆を食べ続けることによって次第にロバ化していく人間の実験。。そしてやがてヴォイツェクはマリーを殺害してしまうことになるのですが、、、彼らのように生きなければならない人間を象徴するようなお伽話を、老婆が子供たちに語る部分があって、それがこの戯曲の主題でもあるようなやりきれない悲しさなのです。

   むかしむかし、それはかわいそうな子供がいたんだよ・・・(中略)
   この世にはもう誰もいなかったので、その子は天にのぼろうと思ったんだよ。
   するとお月さまがやさしく照らして下さった、
   やっとその子がお月さまのとこまで来てみるとね、
   それは腐った木のかけらだったのさ、
   こんどはお日さまのとこへ行こうとした、
   その子がお日さまのとこまで来てみるとね、それは枯れたひまわりだったのさ、
   こんどはお星さまのとこまで来てみたら、
   それはちいちゃな金色の油虫だったのさ、
   まるでもずがすももの棘にさしとくように、串ざしになっていたんだよ、
   仕方がないのでまた地上に帰ってみるとね、それはひっくり返った壺だった、
   だからその子はほんとにひとりぼっちになって、
   そこに坐って、泣いたんだよ・・・
                     「ビューヒナー全集/内垣啓一訳」

 ロバート・ウィルソン演出の「ヴォイツェク」がどのようなものになるのか、まるで20世紀、今世紀の人間をあらわしたかのような、1830年代の作品と知って驚いてしまうこの作品。そしてこのヴォイツェクや子供たちの悲しみを、トム・ウェイツさんがどんな音楽に仕上げてくれたのか、上のお伽話は余りに悲しいけれど、きっとトム・ウェイツさんならその悲しみを包んでくれるような気がする。。。

雨の匂いとジャスミンの香

2003-05-13 | …まつわる日もいろいろ
今日は所用のためにあちらこちらへ出掛けなければならなかったのですが、自分の住む街の、ふと通り抜けた路地に、ジャスミンの香りがみずみずしくあふれていました。余裕のない早足の自分を、栗の木やジャスミンの湿度ある香りがふいに呼び止めます。雨の近づく大気、灰色の空、とりとめのない街の色の中で、緑は呼吸して鮮やかになり、この国が雨の多い鬱蒼とした森の国だったことを思い出させてくれます。私を呼び止める香りは、森の精霊の声なのでしょう。ほら、きりきりしないで、あわてないで、少し話をしていかないか・・? 昨夜の雨は聞いたかい・・? 雨は降り出しの時が肝心なんだよ・・・などと葉っぱの蔭で。
 
 そんなことで思い出して、今夜はジョン・ケイルの「fragments of a rainy season」を聴いてみました。

予兆は「すでに起こったこと」へ

2003-05-05 | 映画にまつわるあれこれ
 スティーブン・キング原作の怖い映画を見に行く友と駅で別れて、私はGWまっただなかの丸ビルへ。赤レンガのステーションホテルから人はただただ丸ビルへ一直線に続いていて相変わらずの人気ぶり。でも私はファッションフロアもレストランフロアも足を止めずに一直線にホールへ。。だって人ごみは苦手なんだもの。

 先日『エルミタージュ幻影』という、エルミタージュ美術館内で撮影された90分ワンカットの信じられないようなロシア映画を見たのですが、(その映画も素晴らしかったですが)その会場でいろんなチラシを眺めていると、「あら?この人ルー・リードに似てない?」「・・ってそれルー・リードだよ」・・というわけで丸ビルで上映されるドキュメンタリー映画特集の中の『ポール・オースター』のひとコマなのでした。

 NYの作家ポール・オースターとルー・リードは古い友達らしく、今回のドキュメンタリーでもNYという街についてふたりで語ったり、オープニングテーマは「I'm waiting for my man」で、エンディングは「毛皮のヴィーナス」だったし。ポール・オースターが関わった映画のワンシーンにもNYから離れられない男としてルーが出演していたり。

 ポール・オースターの写真は何度か文芸雑誌で目にしたことがあったけれど、映像で見る彼は大変に端正な顔立ちで、ジュード・ロウが年を重ねたような感じの薄いグレーの透き通った瞳の持主でした。NYで多くの不動産を所有していたかなりの資産家の父のもとに育った彼が、幼少時に父のあとに付いて家賃を徴収に行った時の貧しい人々の暮らし、匂い。富裕な人間と貧しい人間を隔てる匂い。自分の小説を朗読する彼の声もまた端正な、俳優がナレーションをしてるかと思うようなクリアな言葉で。インタビューから伝わってくるのはビジネスの世界で生きるのを拒否した作家としての醒め切った自我。この世界、この都市NYで起こりつつある、一般の人にはまだ予兆とも気づかれていない気配が、彼にはもう「すでに起こりつつあること」として感じられ、それを言葉にする段階ではそれは「すでに起こったこと」として書かれる。オースターの父は、60代の年齢で突然の心臓発作で亡くなったそうだが、その訃報を聴いた時、彼は何故だかわからないうちに机に向かい一心不乱に書き始めていたのだそう。それが作家というものの残酷さだ。

彼のドキュメンタリーを見て、そして偶然読むことになって一晩で読んでしまった彼の作品『最後の物たちの国で』という世界の果ての物語に触れて、なんだかとても近いものを感じた。ルー・リードに心酔している今の自分が引き寄せた作家。ブルックリンブリッジの向こうにはまだ2本のビルが聳え立っていた。