星のひとかけ

文学、音楽、アート、、etc.
好きなもののこと すこしずつ…

Winterreise『冬の旅』:第十九章「惑わし」Täuschung

2019-02-28 | 文学にまつわるあれこれ(詩人の海)



さきほどの「嵐の朝」から 一瞬のうちに もう夜になっています。 

「惑わし」の曲では リズミカルなピアノが踊り出します。 それは 旅人の前にあらわれた freundlich=優し気な 《光》のダンスです…

幻のような光のダンス… 第9章の「鬼火」のことが頭をかすめますが、 曲調は全く正反対、、 「鬼火」は疲れ切って倒れそうになりながら歩を進めていた旅人が見た 《地獄》への誘いの火でした。重い、 重い、 ひきずるような曲でした。 この「惑わし」の《光》のダンスはワルツ、、 脳裡に見えてくるのは手と手をとってくるくる回るテンポの良い輪舞です…

この踊る光は 旅人が実際に見ているものでしょうか…

楽し気に旅人を誘いこむ《光》

… 寒さと孤独の この夜のむこうへと 《光》が誘いこむ、 その先にあるのは…


 ein helles, warmes Haus= 明るく暖かい家

 ***

ボストリッジさんは、 シューベルトの時代の少し前から社交界に急速に流行しはじめた《ダンス》の歴史について 詳しく解説をなさっています。
人々を熱狂させた 新しい流行であるダンスに対する《当局》の反応、についても、、

… それらについては 本書の内容に触れるので書きませんが、、

先ほどの愉しげな《光》が旅人を誘っていた先の 「明るく暖かい家」の中では おそらく人々が集って (もちろん紳士と淑女が手に手をとって)軽やかなダンスをくるくると回ってはしゃいでいることでしょう…

… 一曲踊り終えては ふたりで顔を見合わせて笑い合い、 また曲が奏でられると 踊らずにはいられなくなる…  、、映画でみるような恋人たちの姿が この「惑わし」のピアノの調べからは見えてくるようです、、

旅人が《光》のむこうに見ている そういう楽し気な家は 現実のものでしょうか… それとも ありし日の自分と誰かとがそうやって踊り、笑い合っていた《記憶》なのでしょうか…


この曲も ほんの1分ほどの短い曲です。 その短い楽しそうなリズムに乗って、 旅人が終わりに呟くのは

 nur Täuschung ist für mich Gewinn! =私が得られるのは惑わしだけだ!

、、 という 拒絶の言葉です。


第17章の「村で」以降、 旅人の様子があきらかに変化したことが分かります。 、、より厳しく、 頑なに、 甘い安らぎを拒絶する姿になっているのです、、

 ***

2月も今日で終わり、、 (早っ…)


『冬の旅』の読書が 春の旅になってしまうゎゎ…


(シューベルトにはまったくかんけいないですが…) 3月いっぴは Hozier の新譜の発売日。 タイトルは…
  
  
  Wasteland, Baby!


… 暖かな家の安らぎを拒絶して 旅人が自ら求め行く「冬の旅」、、 ここから旅人は《荒野》へと向かうのでしょうか… 

 Wasteland へと……

Winterreise『冬の旅』:第十八章「嵐の朝」Der stürmische Morgen

2019-02-28 | 文学にまつわるあれこれ(詩人の海)


前回の「村で」のところで、 この旅人の心理に何か変化が起きていた事を書きました。 そして彼が 「《眠り》を拒絶し、 先を急ぐことを望」んだ… と書いていますが、、

「村で」の曲の最後は 旋律がゆ~っくりと引き伸ばされ、 どこか後ろ髪を引かれるような 旅人が人の気配のある村に まだほんの少しだけ気持ちが引きずられつつ 身体を前のめりにするように先へ先へと重く進んでいるような様子が感じられました。

旅人は思いを断ち切って、 その晩を夜じゅうひたすら歩き 朝を迎えたのでしょうか。。 「嵐の朝」です。 曲調は「村で」のラストの引きずるような重さから一転して、 猛々しい足取りに変わっています、、 もしかしたら 「村で」以降、 すでに幾日かが過ぎているのかもしれません。 そのうち嵐の夜が来て、 でもさらに旅人は風の中を歩きつづけ、 「嵐の朝」を迎えたのかも…

旅人の頭は毅然と見据えるように 空を向いています。 
… 嵐が裂いた雲… その切れ間の rote Feuerflammen=真っ赤な焔

その空が 自分の姿だと。 

それは es ist nichts als der Winter= 冬以外の何ものでもなく

    der Winter, kalt und wild! = 寒さと荒々しさの、冬なのだ

 (訳はわたしの直訳です)

 ***

ボストリッジさんのこの章の解説は3頁にも満たない短いものです。 そこでは 曲と曲との間合いについても述べられています。 … この「嵐の朝」も47秒の短い歌ですが、 この曲と 次の「惑わし」のあいだには全く間隔がおかれていません。 間髪を入れず「惑わし」の曲に入ります、、

それにならって ここは次へと進みましょう、、

Winterreise『冬の旅』:第十七章「村で」Im Dorfe

2019-02-26 | 文学にまつわるあれこれ(詩人の海)


旅人は村に着きました。 
…氷の道を歩き、 山を越え、 孤独の森を一人歩いて、、 前の章では 占いか賭けでもするように 散り残った木の葉に《最後の希い》を託していました。。 そのときの木の葉が散ったのか 散らなかったのかは 歌に表れてはいませんが、、

夜、 村に辿り着いたこの旅人には何か これまでとは変化したものが感じられます。 振り切ったもの…? 決意したもの…? なにかしら新たな闘志…?

 ***

村の家々は眠りについていますが、 番犬が見知らぬ旅人に吼え立てます。 ピアノのドロドロ…と鳴る響きが 犬の吠え声と引っ張られた鎖の様子をあらわしている、 という位は私にも分かります。

ボストリッジさんは さらに、 ピアノの音階と言葉の発音などから詳細に この村の人々の《眠り》 《あくび》 《夢》の内容、、 そしてその家の前で犬に吼えられている旅人の《動き》などまで 読み解いていきます。

その解説をしっかりと読んでいくと、 音の長短や音程、 歌の語感、発声などがイメージさせるものが、 洋の東西や言語の壁を越えて ちゃんと理解できてくるから 不思議です。。 村の人の眠りや 旅人の様子が だんだんとあきらかな形で想像されるようになってきます。。




第15章の「カラス」のところで、 カラス(または鳥)のモチーフがそれまでの歌曲の中に繰り返して出てきていたことを書きました。 それと同様に、 この「村で」の章の《眠り》と《夢》のモチーフも、 繰り返されている事に気づきます。

第1章の「おやすみ」では、 旅人は女性の元を去る時、 「君の夢を妨げない」ように出て行きました。
それよりも以前の日々に 女性と共に過ごしていたかつての旅人は、 「菩提樹」(第5章)の木陰で 「たくさんの夢」を見た、と言っています。

第11章「春の夢」では 旅の途上の炭焼き小屋で、 一夜の「愛の夢」から現実の声(鳥とカラス)に目覚めさせられました。

そして この章では、 もう《夢》は見尽くした、と言い、 犬たちの吠え声をさらに煽るように一身に受けながら 《眠り》を拒絶し、 先を急ぐことを望みます。

《夢》… というものが何を象徴しているのか、、。 
眠りに就いている村人たちは 「己が持っていない多くのものを夢見ている」 という意味の詩があることから、 「豊」や「財」や「愛」など、、 まだ手にしていないものを意味しているように思われます。 人がそれらを夢見ることは悪いことでしょうか…? 

此処へ来て旅人が《眠り》を拒絶するのは、 一般に「惰眠を貪る」という言葉が意味するような、 安易な甘い夢にのぼせたり 現状を甘受したまま何もしないでいる村人(=これまでの自分)との 決別の意志を意味しているのでしょうか…

ボストリッジさんは、 詩人ミュラーとシューベルトの生きた時代の政情、 彼等の政治的信条などに絡めて、 この『冬の旅』の時代的な意味を 《眠り》や《夢》の中に見て考えていきます。。 当時の政治的な背景が『冬の旅』の詩の中に隠されているという点は これまでの章でも解説されていましたが、 村人の《眠り》から …そんな風にも読めるのか… と思いました。
、、21世紀のコンサートホールで シューベルトのこの歌曲を聴くのを楽しみに座っている大勢の聴衆を前にして ボストリッジさんは、 1820年代の「政治的な思想」と今=21世紀の現実についてもお考えになっているとは… 

 ***

旅人は、 ここから新たなバイロン的闘士に変わっていこうとしているのでしょうか…

ボストリッジさんの言葉でいう 「社会の除け者」という存在が、 この『冬の旅』の歌曲の中では重要な意味を持っているとあります。。 旅人自身がそうなのか、、 或は、 旅人はその「社会の除け者」の側に共に立とうとしている者なのか、、 私にはまだ不明です。。

 ***

「おやすみ」から この歌が始まったとき、 眠る女性を残して旅立つ男に 私はボブ・ディランの歌「いつもの朝に One Too Many Mornings」と似たものを想像しました。 『時代は変る The Times They Are a-Changin』(64年)のアルバムに入っている曲。

、、 ここへ来て、 社会、 眠り、 除け者… そういった言葉と旅人のことを考えていくうちに 今度は頭の中に、 ジェファーソン・エアプレインの「we can be together」(69年)が浮かんできました… (ボストリッジさんが“60年代”という言葉を使っているから、なのですが…) ベトナム戦争とウッドストックの69年…

jefferson airplane - we can be together/volunteers - 19/8/69


あるいは、、 「社会の除け者」… と言ったら浮かぶのが 、、 Outside of society... と繰り返されるこの歌
Patti Smith - Rock 'n' Roll Nigger 1979


、、 不思議なことに これらを歌った変革者=旅人は 両方とも女性なのですが…


冬の旅人は このあと何処へ…

チェコ国立 ブルノ・フィルハーモニー管弦楽団@東京オペラシティのこと、他…

2019-02-23 | LIVEにまつわるあれこれ
少し経ってしまいましたが… 17日はオペラシティコンサートホールへ 「チェコ国立 ブルノ・フィルハーモニー管弦楽団」を聴きに行ってきました。




「モルダウ」が聴きたかったので 迷わず“ボヘミア”プログラムのAプログラムを。。 出来れば 「わが祖国」全曲聴きたかったので みなとみらいホールへ行ければ良かったけれど、 平日だし それにチェロのマシュー・バーリーさんも聴いてみたかったし…

詳しくは招聘元のサイトへ⤵
https://www.koransha.com/orch_chamber/brno2019/

チェコの楽曲にはチェコのオーケストラ、、 というような心の籠った正統派の演奏でした。 モルダウも、 ドヴォルザークも、、
 
モルダウは 最後の最後のしずかなさざなみの弦がすごく美しかったなぁ… もちろんそこまでの演奏があって その最後の穏やかに鎮まったさざなみに 心が震えたのですが…

マシュー・バーリーさんがソリストの チェロ協奏曲は わりと優しい音色で オケに合わせてでしょうか、、 穏やかな印象。。
むしろ アンコールで奏でた初めて聴く曲のほうが似合っている感じがしました。 バーリーさん、 どちらかというと現代音楽に近い感じのものの方が得意なのではないかと…

そのアンコールで演奏した曲、 こちらの曲ですね⤵(これ、ご本人のオフィシャルアカウントで良いのかしら?)
Matthew Barley plays Sollima's Lamentatio
ご自身でも声を出しながら、 なんだかホーミーのようにチェロと共鳴する、、 聴き応えある曲でした。

休憩後は 「新世界より」
なぜだかは上手く説明できないけれど、 4名のホルン隊が素晴らしくチェコ的でした。 金管隊 すばらしかった。

 ***



この日は 14時からのコンサートだったので、 オペラシティの中庭でひなたぼっこ&クロワッサンを齧って… 、、2月とは思えないような陽射しがきらきらと肌に熱いくらいで、、

この前日だったか、、 ピアニストのアリス=紗良・オットさんの難病のニュース(>>日刊スポーツ)や、、 他にもご病気のニュースとかが続いてて、、

オットちゃんは一昨年の3月、 クシシュトフ・ウルバンスキ君との公演を観ていたので(>>NDRエルプフィル@ミューザ川崎)、、、あのときの感想をきちんと書けていなかったけど、 技巧的にも優れて 表現力もあって、 しかも ほんとうに綺麗ですらりとして可愛らしくて、 ピアノを弾く姿も、 それから拍手に応えて裸足でパタパタと駆けてきてお姫様のようにお辞儀をするのがなんとも素敵で、、
(あのとき、 本番前の楽屋でウルバンスキ君とオットちゃんはゲーム対戦してたんですよね・笑)

そんなだから 演奏が終わるや否やファンのかたが花束を手に舞台に駆けつけるのも頷ける魅力で…

、、 そんな才能豊かで輝きに溢れていた演奏家に 一番大事な演奏の機能を奪うような病がとりつくなんて… どうしてそんな悲しいことを天はなさるのだろう、、 と心の奥でいろんな思いが痛く疼いていて、、 でも 空はこんなに綺麗で 暖かくて…

自分のように 生まれた時から病を運命づけられた者ならば 悔やむことも 恨むことも 必要が無い、、無駄だから。。 だけど、、 予想もしていなかった病が、 それも自分が生涯を懸けて情熱を注いでいる大切なものを奪うように襲ってくるのは どんなにつらい事かと…
、、でも 治療をしながら演奏活動は続けていく、、とあったので ほんの少しほっとしました、、 負けないで欲しいです、ね。

 ***

話が逸れてしまいました…

来月の ウルバンスキ君のショスタコーヴィチ 4番、 とても楽しみです(>>東京交響楽団)。 いつも彼は音楽を演奏することについて 人々の歓びの為に、 人々の幸せの為に、 という風に語ります、、 彼の指揮にはそういう気持ちがほんとに溢れている気がするから 見るのが楽しみです。

ショスタコーヴィチ 4番を演奏するに当たっての 彼のメッセージがありました⤵
Music Notes - Shostakovich 4 

いつものように 瞳きらきらさせて喋ってますね (笑

 ***

、、 避けられない病、 治せない病、、 はあるけれど

元気をくれるものが病より多ければそれでいいの…


音楽も、、 文学も、、 友情も、、 ね。。

Winterreise『冬の旅』:第十六章「最後の希み」Letzte Hoffnung

2019-02-21 | 文学にまつわるあれこれ(詩人の海)



この『冬の旅』は これまで凍りついた川や凍った窓の霜模様などを見てきたために、 厳寒の真冬の旅のように思ってきましたが、 晩秋… に近い冬なのですね。。 樹々にまだ色づいた葉が残っているとは…

旅人は 幾枚か残っている葉のなかから 一枚を選んで、 その葉に自分の《希い》を託します。

この第16曲は まさに気まぐれな風があちらこちらと木の葉をもてあそぶように、 音符も木の葉がランダムに震えるかのようにばらばらに聞こえ、 ピアノが震える木の葉だとしたら、 歌はそこへさらに不意をついて吹いてくる風のように (ピアノと無関係のように)強まったり弱まったりします。 
ボストリッジさんも 「このありえないような音楽」… と書いています。

最初、、 「最後の希い」という題と、 木の葉に自分のねがいを託す、という詩を読んで、 どうしても O・ヘンリーの小説『最後の一葉』のイメージがまとわりついてしまい、、 その木の葉が落ちる時、 自分の命も絶えるのだろう… と旅人が考えているように想像してしまいました。

でも、、 この摩訶不思議なピアノと歌を何度か聴いて詩を読んでいるうちに、 最初思ったような 生死という自分の運命を木の葉に託しているのではなく、 旅人が 何枚かの葉のなかから一枚を選んで そこに《願をかける》ように想いを託して、、 それで風が葉をふるわすたびに 自分も精一杯の力をこめて一緒にからだをふるわせている… それは なんだか旅人がゲームをしているようで、 一枚の葉を必死にみつめながら 落ちないように念を送っているみたいで、、 その様子が可愛らしくも思えてきました。。

この章で ボストリッジさんも旅人の《希い》という点には殆んど触れず、 「確率論」とか「統計学」について論じています… (笑) 、、そうなのです、、 自分が選んだ木の葉がつぎに吹いてくる風で落ちるか落ちないかは、 旅人の運命が関わっているのでもなんでもなく 要は「確率」の問題なのですから…





旅人が 一枚の木の葉に託した Letzte Hoffnung=最後の希望 って何なのでしょうか…

もしその葉が地面に落ちたら 自分の希望もついえる、、 と詩にはあります。 そして 希望の墓の前で泣き伏すのだ、、と。 歌はそこで終わっています。

…… 泣き伏した後は、、 どうするんだろう…… 


やっぱり、、 最後の希望とは 断ち切れない女性への想い、、 なのかしら…。 幾つかの葉の中から一枚を選んで 落ちるな、落ちるな、、と念じている様子は どこか花占いのようでもあります。 来る、来ない… 逢える、逢えない… と花びらをちぎっていく、、

だけど いつまで旅人は木の葉を見つめているつもりなのでしょう… 何時まで葉が風に耐えて残っていれば希望が叶うって決めたのでしょう…? 
葉がもし地面に落ちたら その墓の前で泣き伏すのだ… と歌う旅人は、、 すごく すごく 穿った見方をすれば、、 願わくばそうやって泣き伏したいんじゃないかしら…
、、自分が願をかけた木の葉が落ちるのを目撃して、、 自分では諦めきれない想いを 風と木の葉の気まぐれにどうにかして欲しくて、、 ほんとうは 木の葉に落ちてもらいたい の…… かも?


きっと

もし木の葉が落ち ひとしきり地面に伏してわが身を憂いて泣いた後は、、 旅人はやっぱりまた立ち上がって歩き出すのでしょう。。 それしかないのだもの… 


昨日の「カラス」も、、 じつはずっと付いてきて欲しかったのかもしれないし、、

立ち止まって じっと木の葉が風にふるえるのを見つめて まだあの人が自分を想ってくれているんじゃないか… あの人ももしかして自分を想ってふるえて泣いてるのじゃないか… そういう物思いにひたる時間が欲しかったのではないかしら……


淋しがり屋の 旅人さん。。


そんな気も してきました…


Winterreise『冬の旅』:第十五章「カラス」Die Krähe

2019-02-20 | 文学にまつわるあれこれ(詩人の海)


『冬の旅』の歌曲のなかでは この15曲目の「カラス」から次の曲のあたりが 旅の最も厳しい部分のように思えます。。 肉体的に、ではなく 精神的に…
肉体的には凍った川を渡ったり、 炭焼き小屋を見つけるまで かじかんだ手足で雪道を歩いていた夜の方がきびしかったはずです、、

今、、 旅人は精神的にいちばん辛い試練の旅をすすめているように思えます。 試練、というか 錯乱に近いような とても脆い状態に思えます、、

「カラス」の伴奏にはずっと同じリズムの くるくる回転するようなピアノの伴奏がついています。 それをボストリッジさんは 《カラスの視点》としてとらえていますが、 旅人の頭上をずっと同じ一羽のカラスが ぐるぐると回りながら付いてくる…… ピアノの伴奏と カラスの旋回と それを見上げる旅人の視界の中でざわめく 烏の飛翔と森の樹々…  眩暈のしそうな苦しさが感じられます。

カラスは何の為に旅人の頭上を旋回しているのでしょうか…?
、、詩の中で旅人が自虐的に言うように そのうち(行き倒れることになる自分の)肉体を捕える機会を狙ってついてきているのでしょうか…


ボストリッジさんの指摘で、 これまでの歌曲の中に二度 《カラス》が出てきていた事に気づかされます。 初めのほう、 町を去る旅人に屋根の上から雪玉を投げつけていたカラスたち(「かえりみ」) 、、そして 炭焼き小屋に泊まった翌朝、 夢で春の野原を見ていた旅人を現実に引き戻すように鳴いていたカラス(「春の夢」)
「かえりみ」のカラスは die Krähen=The crows ハシボソガラスたち
「春の夢」のカラスは die Raben=the ravens オオガラス(ワタリガラス)たち
… この違いは詩の中でなにか意味があるのでしょうか、、

今 旅人の頭上を回っている「カラス」は Eine Krähe=A crow 単数形、、一羽のハシボソガラスのようです。




ボストリッジさんは 文学作品や絵画に表れる《カラス》を取り上げ、 それらが象徴するものとの関連についても考察しています。

… ごく私的に、、

あくまで私的に、ですが アラン・ポーの「大鴉」や(詩人ミュラーの時代にはまだポーの大鴉は書かれていません)、 ゴシック・ファンタジーの映画『The Crow』などを愛するカラス好きとしては、、(確かにカラスは冥界の使者というイメージがつきまとっていますが) 、、旅人の頭上をずっと付いてくるカラスは 旅人が倒れるのを待ち構えて狙っているようにはなんだか思えない。。 旅人自身もそう想像しているけれど、 恐怖に震えてそう言っている詩ではないですし…

『冬の旅』にこれまで現れたカラスたち、、 女性の住む町から追い払うように雪玉を投げつけたカラス、 女性と過ごした日々の夢を現実に引き戻すように目覚めさせたカラス、、 そして 孤独に歩き続ける旅人にずっと付いてくるカラス、、 考えように依っては 男の旅を先へ進めさせる陰の同伴者の役割をしているようにも思えてきます、、

そして男も、 内心ではカラスを忌み嫌ってはいないはずです。。 たとえ自分の肉体を喰らう者であろうと、、
 Treue bis zum Grabe!

、、《墓》に着くまで私に忠実であれ! と、、 カラスに呼び掛けるのですから…


男は弱っているし 疲れてもいる、、 けれども少なくとも《今》が死地だとは思っていないし、 行き先が《墓》であろうと 旅の歩みを進める気ではいるのですね、、


Supermoon に願いを…

2019-02-18 | MUSICにまつわるあれこれ


お月さま 綺麗です。。
平成最後のスーパームーン、 明日の深夜が最大だそうですが もしかしたらお天気悪いみたいなので先程 眺めてお願いごとしてみました…

 ***

いつも見る amassさんに「最も偉大なスロー・ギターソロ TOP10」というのが載っていました(http://amass.jp/117155/) 
、、名曲ばかりでほぼ異論は無いのですけど 哀しみの恋人達 って《ギターソロ》に入れるのだろか…笑

でも2位が「Something」なのは嬉しいな♡ 、、泣きのギターソロや熱いチョーキングばりばりのソロではなくて ジョージの音色と微妙なニュアンスの 誰にも弾けないこのソロが2位なのは うれしいな…

曲はそれこそ何十回となく聴きましたけど もしかしたらこのPV見たの初めてかもしれません、、(これはオフィシャルなので載せておきましょうね⤵)
https://www.youtube.com/watch?v=UelDrZ1aFeY

、、ジョージ、ジョン、ポール、リンゴ それぞれがそれぞれのパートナーと一緒に歩いたり 見つめ合ったりしている映像、、 ジョージは ゲットバックの屋上ライヴの時と同じふわもこコート着ていますね、、 パティが革ジャンで、、

、、でもなんとなくこのPVを見ているのはちょっと苦しい…  、、同じTOP10のなかに Bell Bottom Blues があったりするから尚… 人生って複雑ですね、、

 ***

PVではなくてライヴ映像のほうが見たくて それで探したりしているうちに ブライアン・メイ先生のサムシングを見つけました、、Kerry Ellis & Brian May - Something (Beatles cover)で ブライアンがアコースティックでジョージのソロを弾く… すごく素敵。。 最初のほうに Love of My Life 風のメロディが入ったりして(笑) でもソロの部分はジョージリスペクトで…

あんな風に弾けたらいいな、、 アコギまた練習しなくちゃ。。

それで同じケリーさんとのデュエットの「Somebody To Love」もあって これもアコースティックですごく素敵♪ こちらはブライアンオフィシャルなので⤵
Brian May & Kerry Ellis - Somebody To Love (Live at Montreux 2013)
ブライアンの歌い出しのところだけでもう泣いてしまいました…… 

 ***




唐突ですが 苺のフォト。 アロエとプルーンとヨーグルトと一緒に。

アロエってね、 痛めた組織を修復してくれるの。 鳥さんがアロエの葉を食べに来るのはそういう理由からだそうです。 ちゃんと根拠もあって、 アロエステロールというのがコラーゲンを創り出す機能を高めてくれるんだそうです、、

苺には忘れられない思い出があって、、 13年前 手術をした時、 術後の合併症で心臓が止まってしまったりして二日つづけて緊急処置に連れていかれたりした時、、 急にそうなったから絶食しなくちゃならなくて何も食べれなくて 手術で血液もぎりぎりまで失っていて、、

その朝の食事にイチゴが添えられていたのを見たの。。 でも緊急処置に行くことになって 看護婦さんに「お願い! あのイチゴ取っておいて~!」って頼んで…  やっと処置が終わって、 夕飯も食べられなかったと思うけど 夜 看護婦さんがイチゴ食べる? って持ってきてくれて、 その苺で生き返る思いがしました。。 苺一会です…


アロエベラは血管や細胞組織を強くしてくれることを願って… (パウチ入りのアロエ、今たくさん出ていますよね)、、コラーゲンの素になるタンパク質(ヨーグルト)と一緒にね、、 ダメもとでも良いと思って…


美容の為じゃなくってよ、、。 


砂漠の鳥さんの智慧を信じているんです。。。


A Bowie Celebration Tour ♪

2019-02-16 | MUSICにまつわるあれこれ
さっきから 女子高生のように やばい… やばい… やばっ… って繰り返してばっかりなんですが、、(焦っ) 偶然みつけた…

ボウイのバンドメンバーだった マイク・ガーソンや アール・スリックなどが ボウイの楽曲をトリビュートするライヴツアー、 日本にも Celebrating David Bowie Japan の名で2017年2月に来日ツアーがありましたが (もちろん行きましたよ、 我らが吉井和哉氏も参加で…)

そのツアーが今年も行われているようで、 な、なんと 今年はチャーリー・セクストンさん参加!
http://www.abowiecelebration.com/

どうやら 2月9日あたりからチャーリー参加しているようで…

もう やばい… やばい… (小さく書きます… チャーリーの歌う火星の生活…) もう ほんと やばい…

ディラン御大の横で弾いているチャーリーとは 全く違うチャーリー(本来のチャーリーとでも言いましょうか?)がいました。。 このところ誰かほかのアーティストとの共演でももっぱらギタリストに徹していたチャーリーだけど、、 ヴォーカリストの しかもボウイを歌うチャーリーだもの。。 心臓どきどき…
チャーリーも50歳になったというのに いい男は永遠にイイ男なのかしら…  アール・スリックさんもツンツン頭で相変わらずカッコ良くて、 ガーソンさんのピアノ前奏や アールのギターソロの間には あの長身を隠すように後ろに引っ込んでいるチャーリーはなんともチャーリーらしくて、、 でも 今でもこんな風に歌うんだね、、 マイクスタンド傾けて お客さんの前で跪いたりして…  自分がいい男だということをわかっているチャーリー、、 絶対。。 あ~~ 体温上がった~~、、笑

オフィシャルtwitter からのフォトはこちら>>https://twitter.com/BowieTour/status/1095746873841709056
これはチャーリー、 アール・スリックさんと向かい合って何を弾いているんだろう… いいなぁ… 見たいなぁ…

 ***

二年前の  Celebrating David Bowie Japan  楽しかったな、、 ほんっとに幸せだったな~~ (ライブ日記はこちらです>> 結局全部書けなかったね、ゴメンなさい)

Ziggy Stardustを歌う吉井サンも チャーリーに負けないくらいカッコ良くて、、(今度はライフ・オン・マーズ歌って欲しい… チャーリーより吉井サンの方がキーが高いのかもネ、、 チャーリー苦しそうだもの… 笑)

アール・スリックが近づいてきて吉井サンとのツーショット、、 あれは生涯忘れられない素敵な瞬間でした。。

 ***

アメリカの A Bowie Celebration Tourは3月まで行われるようで、 最終地がテキサスなのでたぶん最後までチャーリーも参加するのでしょう、、 ディランバンドは3月末から欧州ツアーのようで、、 ギリギリ間に合わせるのね。。 

また観てみたいなぁ、、 ボウイトリビュートツアー、、 日本でこんなチャーリーを見るのは難しそうだけど、ね。。

、、チャーリーの話題、 他にもあるんだけどまたにします。。


素敵なスイートなバレンタインチョコ貰ったみたいな どきどき♡なプレゼントでした。

Winterreise『冬の旅』:第十四章「霜雪の頭」Der greise Kopf

2019-02-15 | 文学にまつわるあれこれ(詩人の海)


昨日書けなかった 『冬の旅』のつづきを…

第14曲の「霜雪の頭」は すこし分かりにくい歌です。 曲調も 詩も。

前の曲の「郵便馬車」の駆け抜けていく タッタタッタタッタ… というリズムがすとん、と終わって…
とたんに歩みが遅くなったように 悲嘆にくれた伴奏がとぼとぼと…。 
疾風のように消えていった郵便馬車はもう影も形も見えなくなって、 旅人はまた独り、 凍った山道に取り残されている、、 その急に静まり返った路上の自分に気づき、、 はーぁ…と溜息をついたかのように歌がはじまります。

最初に 分かりにくい、と書いたのは ボストリッジさんも同様に文中で触れていますが、 この主人公は自分の頭が霜で真っ白になったことをどうやって《客観化》できたのか… 山道や森の中という 鏡もない場所で…
そして 自分の頭が真っ白の老人になったように見えたとして それが「うれしかった」と他人事のように歌うこと… これも自嘲的な《客観化》のひとつ。。

でも、 その頭は単に霜がついていただけで 実際は黒髪のままでした。。 そのことに対しても旅人は、 (老人になったのではなかったなら)「棺に入るまでにはまだどれくらいあるのか」 と自らの《若さ》をよそ眼で客観視している。。 一夜のうちに白髪にならなかったことが 彼は嬉しいのか、嬉しくないのか、、 死に急ぎたいのか、 そうではないのか、、

終わりの詩連での、 「一夜のうちに白髪になる人も多いというが (誰が信じようか)私がこの旅の間にそうはならなかったことを」 、、という分かりにくい独白は どんな気持ちを表しているのだろうか… 




ボストリッジさんは譜面に基づいて専門的に音楽面でのこの歌の解釈をなさっていますが、、 そちらのほうは私には難しいので、 ボストリッジさんが全然書いていないこと、、 単純に 私が想像したことを書いてみます。

ボストリッジさんも この旅人が自分の頭が霜で真っ白になったその姿を どうやって《客観視》できたのか、と書かれていますが… 私、思ったんです。。 前の曲で 旅人の横を郵便馬車が通り抜けて行きました。 郵便馬車には小さなガラス窓があるはずです。 そして馬車の車体はたいがい艶やかな黒塗りかと思われます。 [mail coach] で画像検索をすると ほとんどどれも似たような郵便馬車の画像がたくさん見られると思います。

旅人は、 横を通り過ぎた郵便馬車に映った自分の姿を見たのではないかしら…。 ちらと映った姿は 疲れ切って年老いたような自分の姿で、、 走り抜けていく郵便馬車の風で屋根から、 あるいは周りの樹々から 雪が舞い落ちて旅人に降りかかり、 一瞬 彼の頭は白く見えたのかもしれません。。 その郵便馬車が遠く去っていって、 静まり返った道に一人、 旅人は残される… 脳裡に残像のように さきほど見た自分の姿が残っている…

その姿… 郵便馬車に映った自分の姿は まるで白髪の老人のようだった、、 ならば死も近いということだ… それもいいだろう… 
、、「郵便馬車」の前は「孤独」の歌でした。 強い孤独を感じながら歩いていた旅人は 自嘲的に死へのやすらぎを感じてしまったのかもしれません。 でも…

… 頭に降りかかった霜はすぐに溶けて 髪に手をやって見てみれば昨日と変わっていない黒髪、、

一夜のうちに白髪に変わってしまうような恐ろしいほどの精神の打撃も 結局自分はまだ受けていないのか…  自分の若さは墓に入るまでにまだまだ長い時間があるようだ、、 自分のこの旅の苦しみは、 自分を憐れんで悲嘆したほどには実のところ まださほど己を苛んではいないということか…

己の試練は まだこの程度か… と。。 そんなふうに旅人は今の自分を《客観視》してみたのではないかしら…

だからまだ旅はつづくのです、、 まだ何も変わってはいない…


 ***



きょうはとても寒い日でしたね。 、、空も寒そうだけれど美しい冬の空でした。 「喜びは分けあえる、 愛もそうだ」 というロバート・ネイサンの言葉を 以前ここに書きましたけれど… 、、生きるという旅の中では 一人で味わう厳しさや 孤独のなかでしか得られない美しさも また あると思うのです。。


一週間おつかれさま…

あたたかい週末をお過ごしください…


月の独奏… : 『ラフォルグ抄』

2019-02-14 | 文学にまつわるあれこれ(詩人の海)
私は乗合馬車の屋上で
仰けに空を眺めて煙草を吸っている。
……

、、ジュール・ラフォルグの「最後の詩」(Derniers Vers) と題された連作の中から、「Ⅶ 月の独奏」の冒頭です… (『ラフォルグ抄』吉田健一訳 講談社文芸文庫 から。 昨年12月に出たばかりの、 冒頭にはこの連作詩が載っていますが、 この本はラフォルグの短篇小説を集めたもの。 詩人ラフォルグの小説を読んでみたくて手にしました、、 でもまだ開いたばかりなんです… 目についた詩をちょっと…)


、、乗合馬車について、 前回「冬の旅」のところで書いたのは ラフォルグよりも半世紀ほど昔の郵便馬車でしたが、 ラフォルグの詩にも《角笛》や《森》や《馬車》が出てきたので なんとなくつながりを感じて…。 こんなふうに旅人が、過ぎし日の女に想いを馳せるあたりなども…


 今あの女はどこにいるだろう。…


「月の独奏」… 長い詩です。 ところどころ…

 月が昇る。
 街道は夢のようで
 どこまでも続き、
 駅があって馬を換え、
 馬車に明りを付け、…

 ***


 …
 もしこの同じ時間に
 あの女がやはり森にその不幸を
 月光に沈めに…

 ・・・
 きっと襟巻を持って出るのを忘れて、
 こんな晩だから、戻る気になれなくて体を壊すに違いない。
 ああ、体に注意してくれ。
 私はあの咳が聞きたくない。…


、、ラフォルグ自身 結核で27歳で亡くなっています、、 咳、が意味するものはあの当時 《別れ》を意味するものでもあったのでしょう…

、、悲しい詩かもしれませんけれど、 ラフォルグが「体に気を付けてくれ」 と、前の方でも繰り返していて、、 その言葉に胸を打たれます… 愛している、でもなく、 忘れられない、でもなく、、
 「体に気を付けて…」


その一方で、、 旅をつづける詩人は 「どの位私は放蕩に耽ることだろう」とも…… 笑

 ***




… きょうは「冬の旅」のつづきを書くつもりでしたが、 ちょっと体調おもわしくなく、、さきほどまでお薬のんで眠っていました…

それで今、、 なにかフォトでも挙げようとラフォルグを開いたら、 詩人が乗合馬車の上で月を見上げながら、 「体に気を付けて…」と呟いてくださったので、、


ありがとう… と。


貴方もね… 

 

Happy Valentine's Day...

Winterreise『冬の旅』:第十三章「郵便馬車」Die Post

2019-02-08 | 文学にまつわるあれこれ(詩人の海)


イアン・ボストリッジさんのCDで聴く この第13曲「郵便馬車」とその前の「孤独」との間には 少しの空白があります。 それはもともと シューベルトの『冬の旅』の作曲スコアが 第一部、第二部、と分かれていたからなのでしょう…

この13章ではそのことについての説明がまずあります。 一部と二部の間で休憩を取るべきなのか、 続けて演奏するべきなのか、など。。

前回の「孤独」では、 その前の炭焼き小屋で目覚めた旅人が、 青空のもと歩き出した様子を想像しました。 …だから、 この「郵便馬車」は、 そうして旅を再び始めた男の背後から 遠く郵便馬車の響きが近づいてくる… そんなふうに想像します。。 であるとすれば、 私の想像では 休憩を入れずにCDで聴くように少しの間をおいて 「郵便馬車」へとつながった方が良いような感じがします。


ボストリッジさんは 次に、 この「郵便馬車」の《角笛》に注目し、 そのことと第5章の「菩提樹」の中で聞こえてきた《角笛》との関連を説明するのですが、、 「菩提樹」に角笛が出てきたということを全く私は覚えていませんでした、、 (角笛?)… 第5曲を聴き直してもよく分かりません、、 本をもう一度遡って「菩提樹」のところを読むと、、 
 
 「この角笛をおぼえておいてほしい」 とちゃんと書かれています…

……「菩提樹」のピアノ、、 風のそよぎ… 葉のきらめき… 、、、角笛… つのぶえ…??

、、何度も聴き直して、「郵便馬車」と聴き比べて、、 ようやくこれかなぁ… と感じるものはあるのですが、、「菩提樹」の野に遠くからひびく角笛…  あぁ むずかしいですぅ…

「郵便馬車」の角笛はすぐに判ります。 駆けてくる馬の蹄の響きのあと、 高らかに鳴り響く角笛(ラッパ)の音。。 ほとんど(どいた、どいたーー!!)と叫びながら疾走してくるかのようです。 御者は角笛を吹き鳴らしながら 山道を疾走してくるのでしょう。。



「イギリスの郵便馬車」トマス・ド・クインシー 高松雄一ほか訳
   『トマス・ド・クインシー著作集Ⅱ』国書刊行会

ボストリッジさんもさすが英国人、 この章でやはりド・クインシーの描いた郵便馬車にも触れています。
ド・クインシーが郵便馬車を利用したのは オックスフォード時代、と著書にありますから1804年ごろでしょうか、、 上のフォトに抜粋した部分にもド・クインシーらしい諧謔にみちた文章で書かれていますが、 郵便馬車の御者が吹き鳴らすラッパの音を聴くと 道の荷馬車やほかの馬車があわてふためいて道を開けた… とありますから、 郵便事業をになう公共の郵便馬車はなにより最優先で時間順守で街から街へ、 疾走していたものと思われます。

、、 旅人はきっと 背後から迫ってくる馬車の響きと角笛の音に振り返り、 それが郵便馬車であると気づいて、 またふたたび心の中に あの去って来た町、 あの女性の住む町、、 そして 有り得そうもないのに自分への手紙があの郵便馬車に積まれているのではないかしら… などと 断ち切れない想いがまた頭をよぎってしまうのです、、

、、 すべての通信が《郵便》しか無かった時代、、 そういえば ブロロロロ… と郵便屋さんのバイクの音がして、 ゴトッと玄関のポストに何かが落とされる音… そういう《音》が気持ちを高鳴らせた時代がたしかにあったような気がします。。 恋をしていれば一瞬のスマホの震えにだって 胸がざわめくものでしょう… きっと。。



楽曲を聴いていると、、 たぶん 旅人の背後から迫って来た郵便馬車は 第3連の前のピアノの間奏あたりで 旅人の横に並び、、 旅人はそこに積まれているであろう誰かの郵便に胸を締め付けられるような気持ちで御者と馬車を見つめ、、 
、、 でも 曲の最後には 旅人を置き去りにして 郵便馬車は先へ遠ざかって行ってしまうのです。。

 ***

この歌とは関係はとくに無いですが、 ド・クインシーの筆によれば、 郵便馬車には旅客も乗ることが出来たそうで、 馬車の室内には4人乗ることが出来て、 そのほかに 御者台の後ろに(屋外に)2人乗ることが出来たそうです。(スコットランドでは屋根に3人乗れたそうです) 、、オックスフォードの学生だった著者は、 (旅費も割安なので)もちろん外の席で御者と馬たちが疾走するのを興奮して眺めながら、、 猛スピードで走る郵便馬車と前方から来るアベックの乗った小型馬車とが すれ違いざまにまさに衝突しようとしている様子をスリリングに描き、 たぶん史上初の《交通事故》の恐怖を描いた散文になっているかと思います。

、、夏目漱石先生が好んだトマス・ド・クインシー、、 『三四郎』では明治期 急速に張り巡らされた鉄道網による列車事故、 鉄道への飛び込み自殺という《轢死》を描いてますね。。 ド・クインシーの恐怖に学んだ点はあるかと思います。。 以上余談でした。

 ***

今日は 私にとっては嬉しい知らせが一つ 届きました♡ チケット取れたよ♪


明日は朝から雪になるのかもしれません…

お出かけでなければ 雪景色もたまにはよいかも…


空からの うつくしい便り…… とどくかな…?

夢は現在を夢みること…

2019-02-05 | …まつわる日もいろいろ
もこもこであったかくして… と前回書いてから 月を越えたらはや 立春でした

2月という月は ここ東京ではあたたかな陽射しの日が増えてきて春の訪れを感じるようになりますが、 北国、山国では 長い長い冬のようやく折り返し、といった感じ。。 5月の連休を迎えるころにようやく待ちに待った春がくる、、 という 「春は名のみの…」微妙な時季です、、

《寒暖差》という言葉がこのところよく聞かれます、、 昔はそんなに無かった言葉。

気温や天気のアップ&ダウンは 心の寒暖差にも影響するようで、 もともとの情緒不安定が一層… (笑

 ***

今 読んでいる本の影響で故郷の夢を見ました。 (20年ぶりに故郷へ帰ってくるという、ミステリー作品にはよくある設定の…) 、、本のことはまたにしますが、 そういう故郷の昔の自分が住んでいた家や、 隣人や、、 過去の消えない謎や、、 という話のせいで、 私が見た夢には隣のおばちゃん、おじちゃんとその家の間取りまで鮮明に出てきておどろきました、、 

、、 かつて自分が住んでいた家の夢もたまに見ます、、 たまに、というか 見るのは決まって今はもう存在していない子供の頃の家。。 でも その家の夢を見た翌朝は 少し憂鬱な気持ちになります。。 決して その当時の家がキライだったわけでもないけど、、 たぶん 帰っていないうしろめたさとか、 もういない父や母へなにもできなかった心残りとかが ずっと心に巣食っているんだろう…と。 それを夢が暴露しているようで どうしても憂鬱になってしまう、、
、、 20年ぶりの帰郷をするミステリーの主人公も 似たような後悔を引きずっていて、 そのせいで自分に置き換えて夢を見たんだ、って解っているんだけれど、、

、、 頻繁に引っ越しをしたり 転勤であちらこちら居を移して成長した人は、 夢でどんな家を見るんだろう… とちょっと思ったので それとなしに友に訊いてみたら 自分が住んだ家の夢って見た記憶が無い、って言われた。。 いつもどこか旅先だったり、 どこかわからない未知の場所だったり、、。 巨大生物と戦ったりする荒唐無稽な夢ばかり見る想像力豊かな友だからなぁ、、

、、 夢に今はもう無い昔の家がでてくるのはまぁ仕方ないとして、、 現実の話、、 故郷を離れてからの時間が 故郷で暮らした時間を越えて 此処での暮らしの方が長くなるのが現在の 現実の《夢》。。 たいした夢じゃないけど 自分にはだいじな大きな目標でもある夢。。

、、 今回のミステリー小説で20年ぶりの帰郷をした《彼》も、 きっとこの小説の後からが ほんものの彼自身の人生の始まり、、。 前にも同じことを書きましたね、、 M. L. ステッドマンの『海を照らす光』について書いたときに…… 書かれていない空白の年月こそが 本物の人生、だと。。 もちろん すべての時間、 すべての記憶、 すべての人のつながりがあって、 今の自分があるのだけど、、 自分で選び取って 自分で乗り越えて 自分の手で日々を築いていく… ただ当たり前のことで小説の種になるような物事はなにも無いかもしれない、 でも 現在の此処が自分の生きる場所。 今は存在しない家は夢の中だけ、、 存在しているのはいまこの場所、だけ。。 そう信念を持って生きていたい…

 ***

、、 と なんだかつまらない独り言ちになってしまいました。。

さっき見た ベックの素晴らしい映像♪ 映画「ROMA」にインスパイアされた、という楽曲ですね、、
、、LAフィルの前奏の素晴らしさに(イヤホンを思わず取り出し音量を上げて…) 、、そして (え?! ドゥダメル!?) すごい!! ドゥダメルが指揮してるなんて、、 TV出演のベックの為に ドゥダメル!!! 

もう 鳥肌立ちました。。 LAフィルにも ベックにも。。 
https://www.youtube.com/watch?v=y3avkM0_l0o


これで一気に憂鬱な気持ちがふっとんでいきました…


ありがとうベック、、 貴方はいつも素晴らしいゎ♡