尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

グルーズの絵、漱石映画の話-「三四郎」もう少し

2017年07月19日 21時40分52秒 | 本 (日本文学)
 今日(7.19)に梅雨明けした。でも、もう7月初めから、つまり都議選開票の頃から、ずっと東京では30度を超えている。「もう、梅雨明けしてるよ」と会う人ごとに大体みんなそう言ってた。暑い日がずーっと続くと、政治の話題などを書く気力も失われていく。

 各マスコミの世論調査では、安倍内閣の支持率がどんどん下がっている。あれほど「岩盤」のように5割を維持し続けたんだけど、今や調査によっては3割を割っている。稲田防衛相のこと、「残業代ゼロ制度」をめぐる問題など、ちゃんと書きたいと思いつつ、どうも面倒だなと思う。

 2週間前に、九州北部で大水害が起こり、多くの犠牲者が出た。その頃、関東も通り過ぎて行った台風があり、都議選で自民が大敗したといった話題も、テレビでは後景に退いた。国際問題でも多くの問題があるし、加計学園、森友学園問題もあるが、日本ではすぐに「気象ニュース」が中心になる。良くも悪くも、それが日本という風土で生きるということなんだなあとあらためて思う。だからと言って、何でも「水に流す」という風にしてはいけないと思う。

 ということで、今日はちゃんと書く気がしないんだけど、「三四郎」をめぐって書き残しがあるからそれを書いておきたい。昨日は昨日で急いで書いたから忘れてしまったのである。本を読んでるだけでは判らないことが、今はネット上ですぐに判る。三四郎の憧れの君、やがて「里見美禰子」(さとみ・みねこ)と名前も判明するが、この人はどういう容貌の人なんだろうか。

 三四郎は広田先生の引っ越しを手伝いを頼まれてやってくる。その日は「天長節」とある。明治時代の天皇誕生日だから、11月3日である。そこへ「池の女」も手伝いにやってくる。その場面を「青空文庫」から引用すると以下のようにある。(太字は引用者)

 二、三日まえ三四郎は美学の教師からグルーズの絵を見せてもらった。その時美学の教師が、この人のかいた女の肖像はことごとくヴォラプチュアスな表情に富んでいると説明した。ヴォラプチュアス! 池の女のこの時の目つきを形容するにはこれよりほかに言葉がない。何か訴えている。艶えんなるあるものを訴えている。そうしてまさしく官能に訴えている。けれども官能の骨をとおして髄に徹する訴え方である。甘いものに堪たえうる程度をこえて、激しい刺激と変ずる訴え方である。甘いといわんよりは苦痛である。卑しくこびるのとはむろん違う。見られるもののほうがぜひこびたくなるほどに残酷な目つきである。しかもこの女にグルーズの絵と似たところは一つもない。目はグルーズのより半分も小さい。

 この「ヴォラプチュアス」(voluptuous)を検索してみると、「豊満な体をした, グラマーな;官能的[肉感的]な;好色な;みだらな」と出てくるのである。じゃあ、グルーズっていう画家は何だろう。ジャン=バティスト・グルーズ(Jean-Baptiste Greuze)という18世紀フランスの画家である。(1725~1805) 当時の市民生活に材を取った「風俗画」で人気を誇ったが、大革命後には忘れられた画家になったという。どんな絵を描いたのかと、画像検索してみると、以下のような感じ。
 
 まだまだ出てくるが、一応2枚だけ。「美禰子に似たところはない」とあるけど、そして「目は半分」だともあるけど、「肉感的」「官能的」という時のグルーズの絵を言うのは、こういうものだった。ちょっと意外な感じがするけど、なんとなく「高嶺の花」的な感じは共通しているのかもしれない。

 「三四郎」は1955年に東宝で映画化されている。今や「東海道四谷怪談」など新東宝で撮った怪談映画で一番評価されている中川信夫監督。中川信夫は戦前以来、なんでもござれの娯楽映画をたくさん作っているが、文芸映画も多い。「虞美人草」(1941)も撮っている。「若き日の啄木 雲は天才である」などホラー以外の名作も多い。「夏目漱石の三四郎」(1955)も昔見たけど、悪くない。

 キャストを紹介すると、三四郎は山田真二という今は忘れられた俳優で、当時は美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの「三人娘」の映画にたくさん出ている。紅白歌合戦にも一度出たという。美禰子は八千草薫。広田先生は笠智衆。なかなかうまいキャスティングだけど、八千草薫では清楚イメージが強くなるのかもしれない。でも映画としては、八千草薫の美禰子、笠智衆の広田先生というのは、今でも見てみたいと思わせるんじゃないか。

 漱石の映画化としては、森田芳光「それから」が圧倒的にベストだろう。市川崑が「こころ」と「吾輩は猫である」を映画化。新藤兼人も「心」と漢字名で映画化している。でも、まあそれなり。それなら5回映画化されてる「坊っちゃん」の方が面白いか。鴎外、藤村、潤一郎に比べて、映画化には恵まれていない。そこが漱石作品の特徴をも示していると思う。ストーリイで売る話ではなく、歴史小説もほぼない。恋愛というほど発展することも少ないし。それが漱石文学だということでもある。
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