尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

相米慎二-水と再生の映画作家

2013年01月30日 01時19分40秒 |  〃  (日本の映画監督)
 渋谷のユーロスペースで相米慎二(そうまい・しんじ、1948~2001)の特集、「甦る相米慎二」をやっている。前から大好きな映画監督だったけれど、この2年ほどの間に遺された13本のすべての映画を見直すことができた。今見ても、つまらない作品、時代の流れの中で風化した作品が一つもない。今でも心の奥深くを刺激する傑作ぞろいだ。
(相米慎二監督)
 存命中から相米慎二は80年代以後の日本映画で最重要の映画作家だと思っていた。タルコフスキーやユルマズ・ギュネイと同じく、そういう監督に限って早逝する。それにしても、まだ50代前半で亡くなるとは思ってもみなかった。「ションベン・ライダー」「夏の庭」「風花」の3作は、自分のベストテンで1位だった作品。だが、それはめぐり合わせで、「台風クラブ」「お引越し」が最高傑作だろう。

 公開当時ホームドラマ風の作りが性に合わなかった「あ、春」も、今見直すと丁寧なつくりで生と死を描き切った名品だ。ロマン・ポルノの「ラブホテル」も実によくできている。かつては失敗作としか思えなかった「光る女」は、壮大なセットに繰り広げられる運命のドラマが見る者を魅了する怪作だ。黒澤明における「白痴」のように、やがて「映画史に残る偉大な失敗作」とみなされるのではないか。
 (「お引越し」)
 「翔んだカップル」を除き、すべての作品が「水への偏愛」に満ちている。「」と「」が多いが、「魚影の群れ」の大間の海、「台風クラブ」の台風襲撃など大量の水が出てくる。「ションベン・ライダー」「ラブホテル」「雪の断章」「光る女」「お引越し」「夏の庭」など、川や海、雨が物語が進展させていく構造になっている。タルコフスキー、テオ・アンゲロプロスと並ぶ「水映画の三大巨匠」と言うべきだ。

 水は常に流れゆくものであり、登場人物のドラマを動かしやすい。カメラに映えるので映画の背景にもってこいだ。だけど相米映画にあっては、水はもっと神話的な相貌を持っている。日本では、水はかなり凶暴な存在だ。台風、集中豪雨や津波で多くの人命を奪ってきた。一方、人体の大部分は水であり、生命は水から誕生したし、古代文明も川から生まれた。水は人間存在の源泉であり、命を奪う恐るべき存在である。この水の両義性こそが相米映画に必然的に必要とされてくると思う。

 相米映画を貫くテーマとはなんだろうか。それは「イニシエーションの映画」「死と再生を描く映画」である。イニシエーションというのは、人類学で「通過儀礼」と訳される。人間がもう一歩次の段階に上がるときに必要とされる儀式のことである。例えばアフリカの狩猟民族では、ある年齢に達した少年が初めて狩りに参加するときに苛酷な任務を課す。それを達成すれば大人の仲間入りが集団内で承認されるわけである。昔の武士には「元服」があったが、今はそういう儀式がない。

 実質的には、入試や「就活」が「通過儀礼に近い役割」を果たしているかもしれない。しかし、試験は勉強すれば通過できてしまう。「風花」の主人公の高級官僚(浅野忠信)は、「酒乱の反対」と言われてしまう人物で、普段は「性格が悪い」のに酒が入ると人付き合いがよくなる。酒におぼれて失敗するが、そういう性格でも国家公務員になれてしまう。その後の「失敗」で人生を失うような経験をするが、その「失敗」こそが真の通過儀礼だったと言えるだろう。
(「風花」)
 現代社会では大抵のことは許されてしまう。「通過儀礼」の意味を持つものが少ない。しかし、人間は必ず死ぬから、自分自身や家族の大病や死という体験を避けることはできない。そういう体験を通し、自分を見つめ家族のつながりを再確認することが多い。相米映画はそのような意味での、自分や家族の死を見つめ、自己を取り戻し生き直す様子がテーマになっている。

 「死を見つめること」それ自体がテーマなのが「夏の庭」や「東京上空いらっしゃいませ」である。「ラブホテル」「あ、春」「風花」も身近な死(自殺願望)を通して、自己再生を描く。「魚影の群れ」は、結婚を認めてもらうために女の父親に弟子入りしてマグロ漁師になろうとする青年を描くが、このマグロ漁こそ人生のイニシエーションそのものだ。自己の生命をかけて「通過儀礼」に挑む青年の姿を描く、現代日本のイニシエーション映画の傑作である。今回参考上映された「朗読紀行 月山」は「風花」後にNHKハイビジョンのために作られた真の「遺作」で、森敦の「月山」を柄本明が朗読する。「月山」を朗読するということで、まさに「死と再生」が相米映画に通底するテーマだったことが判る。
 (「夏の庭」)
 「台風クラブ」で台風襲撃のため学校に閉じ込められた中学生たち、「お引越し」の両親の離婚に納得できない少女。いずれの場合も「一夜の彷徨」が描かれるが、それは「通過儀礼」の暗喩と言える。いったん死に近い体験をして、そこを通り越して再生する姿を描く構造は共通している。直接的な死を描かない分、象徴としての台風の祝祭性両親の不和に悩む少女の苦悩の造形が際立っている。この二つの映画が相米映画の中でも飛び抜けた傑作となったのは、その象徴の力にあるだろう。中学生のダンスやさまよう少女が現代の神話のように、いつまでも忘れられないイメージを残し続ける。

 相米映画と言えば、方法的には「長回し」と「ロング・ショット」だが、中には「方法のための方法」となっている場合もある。「雪の断章」の冒頭などは、アイドル映画に仕掛けた作家性と言える。成功失敗というレベルで評価しても意味がない。これが「相米印」だと楽しんで見る以外にない。僕が初めて相米映画の特質を楽しんで見たのは「ションベン・ライダー」だった。中学生の誘拐という「ひと夏の冒険」を描いたこの作品も、やはり「一種の通過儀礼」だった。初めて自分の世界を描き切る楽しさを満開させた映画だったろう。永瀬正敏らが子役で出ているが、「無名の子役」をたくさん使った、「水」や「長回し」への偏愛があふれた快作である。僕はその偏向性を愛してその年のベストワンにした。

 相米監督はその前に薬師丸ひろ子の2作、「翔んだカップル」と「せーラー服と機関銃」を作った。有名マンガの映画化「翔んだカップル」は、新人監督によるアイドル映画として作られ、公開後にアイドル映画を超えた面白さだと評判になった。僕も新しい作家の誕生だと思った。男子高校生が大家、同級生の可愛い子が店子で「同棲」してるという設定の奇抜さ。今見ると親が全く登場しないし現実性皆無のファンタジーだが、若かった僕にはとっても刺激的なシチュエーションだった。見直したら薬師丸ひろ子と「同棲」しても、公開当時の衝撃性はなくなったかなと思った。
(「翔んだカップル」)
 「セーラー服と機関銃」もアイドル映画の大ヒット作だが、当時はその大ヒットに目がくらんで作品性を過小評価したように思う。今見ると、相米の「やりすぎ演出」がいっぱいで面白い。「雨」の使い方、父の死をめぐる謎を追い成長する少女という構造など、相米映画の特徴を初めて知らしめた映画。

 「台風クラブ」が第一回東京国際映画祭でヤングシネマ大賞を受賞して、その賞金で「光る女」が作られた。予算があったからか、船に作られた秘密クラブのセットがすごい。主役を演じるプロレスラー武藤敬司秋吉満ちる(現Monday満ちる、秋吉敏子の娘)のセリフが棒読みで、当時は豪華なセットで遊んでいるみたいに感じた。今見ると、時代の空気のようなものが相対化され、シロウトのセリフもあまり違和感がない。ご両人もその後活躍しているようで、若い時の記念碑的な映画になったかもしれない。北海道から幼なじみの少女を見つけに来た熊のごとき大男の「東京物語」。現実性のない物語が展開されるところこそが、「現代の神話」の感じである。今後の再評価が望まれる作品。
(「光る女」)
 93年に「お引越し」、94年に「夏の庭」という、関西を舞台にした児童文学の映画化作品が読売テレビ製作で作られた。いずれも子どもをテーマにした傑作だ。その後は、98年の「あ、春」、01年の「風花」と2作しか作れなかった。最後の2本はカットも多く、ホームドラマやロードムービーの普通の映画っぽい感触になっている。(「あ、春」は唯一のベストワンに輝いた。)相米監督も、方法を前面に出すのではなく、大人を相手にじっくり演出する段階になったのかと思った。だが、「死を見つめて、再生する」というテーマそのものは全く同じである。しかし「出来のいい映画」より、もう少し「破天荒」なエネルギーを発散するのが「真の映画」だと考える。その意味で、僕は「あ、春」よりも、やはり「台風クラブ」の方が好き。

 多くの子役、少女俳優をしごいて、今も代表作になるような映画を残した。大人にとっても、三浦友和のように相米映画に出たことで新しい段階に進んだ俳優もいる。笑福亭鶴瓶を最初に主役で使ったのも相米監督。「東京上空いらっしゃいませ」を見ると、その若さに驚く。「台風クラブ」の工藤夕貴、「お引越し」の田畑智子の若き日の姿も相米映画で永遠に残された。「魚影の群れ」の夏目雅子も、夭折した名女優の代表作の一本。今見ても、どの映画も素晴らしい。「死と再生」の相米映画作品群こそは、「3・11」後の今、再発見されるべきだ。世界でもエジンバラ映画祭、ナント3大陸映画祭などで全作品が上映され、世界の相米が発見されつつある。なお、「台風クラブ」は別に前に書いた。
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5 コメント

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アリア (PineWood)
2015-05-19 01:05:40
相米慎二監督特集で(光る女)を見た。映画(リアリテイのダンス)みたいでアリアが風俗的なプロレスリングやショー・ビジネスと併せて流れるカルトムービーとも見れる。そのミスマッチなアリアが不思議な感じでいて人生を決める中心テーマなのだろう。東京砂漠のごみの海浜の風景といい、なかなか入り込めない寺山修司タッチの異化効果も要所にある!二人の女が電話する舞台セットはアラン・レネの遺作をも彷彿させた。
何といってもプールで競泳するプロポーズ・シーンなどが素晴らしい!アニエス・ヴァルダ監督作品に(歌う女、歌わない女)や、髭男という面構えでは小津安二郎監督の(淑女と髭)やイタリア映画(流されて)みたいな要素も濃厚にある訳だが…。
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コミック (PineWood)
2015-05-20 00:29:37
名画座で常連と再会した。薬師丸&鶴見のコンビネションがかなり面白いかった。常連も、鶴見辰吾の旨さを褒めた。テレビでは桂木文の愛くるしさが、話題だったが、映画(飛んだカップル)は見逃していたので二人の息があっていて、僕には鶴見辰吾が(小さな恋のメロデイ)のマーク・レスターみたいで演技とも言えないような初々しさが佳かった!コミックの持ち味を活かしながら秀才君の思索的な視点もいれて複眼の厚みもある。親が登場しない設定のファンタジーとともに振られた秀才君の密告であえなくお引っ越しとなる現実の厳しさのも青春のほろ苦さとして忘れない。ラストシーンのモグラ叩きのシーンは愛の痛さと嬉しい悲鳴なのか…。象徴的な余韻を残す♪
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寺山修司 (PineWood)
2015-05-20 20:49:18
映画(雪の断章~情熱~)(セーラー服と機関銃)を見た。小道具では機械仕掛けの人形とか道化師とか関西のいらっしゃいませの広告のマリオネット。音楽では、昭和の懐メロソング。テーマでは、親探しとかー。こうみていくと何だか寺山修司ワールドといった趣♪大雨、水辺など死と再生と少女の成長物語的な内面性があって、アイドルの歌謡ドラマと一線を画した魅力があるのだろう。勿論アイドルの斉藤由貴や薬師丸ひろ子などの清純でいて男の子みたいな黒い瞳が輝いていた!後者は赤川次郎原作でタッチでは、映画(2代目はクリスチャン)みたいなユーモアもある。
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バイオレンス (PineWood)
2015-05-21 03:30:44
流れもののヤクザが、現実 逃避 を吐露し生き方が後ろ向きでしか無いことを学園ドラマの形で表明させられるーという正義感が(セーラー服と機関銃)にあった。金と麻薬を巡るヤクザの抗争劇という設定も、バイオレンスを憎む愛のドラマを引き出すための
ものと言えなくもない。
他方、渋谷のイメージフォーラムで上映中のドキュメンタリー映画(皆殺しのバラッド)
は、現実の麻薬戦争をメキシコを舞台に描く。バイオレンスの劇映画やバイオレンスを謳い揚げるバラッドはヒーローを造り出す一方で現実の死傷者を大量に出す…。国境の向こう側の合衆国で用いられる麻薬のための密輸を巡る死の抗争…。その不条理を、その矛盾をマグナムの報道カメラマンが監督した。
少し前に、女性の報道写真家のアフガンの自爆テロ取材を題材にした劇映画(さよならを言わないで)があったが、取材中に矛盾に気が付き…。ラストシーンに至る、ある決意が感動を呼んだー。ジュリエット・ピノシェが熱演!
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天涯孤独 (PineWood)
2015-05-22 00:30:23
映画(雪の断章~情熱~)には天涯孤独な少女のシーンから始まったが、増村保造監督の(女の一生)も森本薫の戯曲の映画化。
孤児の京マチ子が東山千栄子のブルジョア家庭の門を潜るシーンからドラマが展開する。文学座の舞台で杉村春子の演じた当たり役で名高い。増村映画での家族の愛憎劇としてリアルだ。軍国主義に向かって次第に翼賛化していく日本の新聞報道の紙面を逐一挟んでドキュメンタリーのタッチも!イタリアのマルコ・ベロッキオ監督の(愛の勝利)なども思い出させた…。小津安二郎監督の名作(東京物語)での東山の人のいい母親のイメージが定着しているが、アントン・チエホフの(桜の園)などで現実を切り盛りしていく東山の姿は、この(女の一生)に近いかもしれない。
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