尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「ほめられると伸びるタイプだから」問題

2011年10月20日 22時23分40秒 | 自分の話&日記
 昨日は他のことを書いていて投稿できなかったけれど、「困ってる人」にコメントがあったので応えておきたいと思います。他のことは書きだすと数回続くようなテーマが多いので、まずこれを先に。コメント者の理解と逆に、今まで「否定的なコメント」にしか応えていません。肯定的なコメントはそれ自体で自立しているので、わざわざ「その通りですね」などと書く必要がないけれど、否定的なコメントは反応を待って初めて自立するものだと思うからです。

 では、ちょっと長くなるけど。まず、「困ってる人」の構造について。「難病もの」は書くのが難しいと思います。本人にはとても辛い体験でも、それを周りの人に読んでもらうように書くのは大変でしょう。病気関係の本や映画はもうたくさんあって、もちろん一つ一つが本人には大切な体験で、読めば感動するようなものが多いわけですが、正直他人としては読んでて辛くなるような、しんどい本は敬遠したい気があります。震災や戦争の新聞記事など、読んでて辛くなるけど「これは知っておかなくては」という気持ちで読むことがありますが、難病と言う「個人の苦難」は敬遠したいと避けるのは簡単です。
 著者の大野更紗さんはもちろん存じ上げませんが、それまでの活動を読めば、驚くべき「頑張り屋さん」のように思われます。大学院生なんだから、当然硬い論文にまとめることもできるはずで、難病体験を通し日本の医療を考える、なんてすごい大論文を書くこともできたでしょう。でも、それでは誰も読まない。著者の体験はあまりにすごく、これは是非周りに伝えたいと思うのは当然です。そこで著者が取ったのは、「自分を低い位置において、そこから周りを観察する」という、饒舌体の「戯作」(げさく)です。これは日本の文学の伝統にのっとったものでしょう。その結果、まるで奥田英朗の傑作小説「最悪」のような、あるいは映画の「嫌われ松子の一生」(原作山田宗樹)のような、あれよあれよと言う間にどんどん「転落の一途」をたどる主人公の運命に一喜一憂する、驚くべき「ページ・ターナー」本が誕生しました。これは今年出た本の中でも、極めつけに「面白くてためになる」本でしょう。その成功の秘訣が、著者の「ローアングル」による「戯作調」にあるわけです。普通「病人は王様」になっちゃうときがあるけど、ここではこれだけの難病にも関わらず、読者より著者の位置の方が低いので読む側は安心して読めるわけです。これは著者の戦略でしょうが、読めばいろいろ考えるし、とても勇気を与えられるので、「大成功」でしょう。

 で、そうした「饒舌」の「戯作」で筆がすべったのだと思っていますが、「現代っ子だから、ほめられると伸びるタイプ」と書いてしまったのでしょう。ここだけ自分の位置が低くなく「上から目線」になっています。でも別にそれほど本質的な部分ではないでしょう。だから僕の方も、軽く「上から目線」で「これはいけません」と軽くジャブを放っておいたということです。このこと自体は、そういう問題です。この本の評価の本質的な部分ではありません。

 さて、問題は「ほめられると伸びるタイプ」が「上から目線」であることが理解されるかです。ネットで検索すると、ホントによく判らないという人がいるようなのです。これはある年齢以上の人なら誰でも判っている違和感のある表現で、説明の必要もないようなことです。しかし、最近は若い人の中で「私って、○○の人だから」と自分で言ってしまい、それを言い訳的に利用する人がかなりいます。そのたびに、会社の上司や学校の先生が苦々しく思っていることを知っていますか?「あの人もそんなことを言う人だったのか」と失望を与えてしまうのです。

 「ほめる」「叱る」は「目上の者」が「目下の者」を評価するときの「評価の中身」に関する言葉です。上司や教師は、部下や児童・生徒を評価するのが仕事です。だから「ほめて伸ばす」のもよし、「思い切って叱り飛ばす」もよし、いろいろな評価を行います。被評価者は納得いかない評価に異議申し立てをすることは出来ますが、「評価されること」それ自体を拒否することはできません。そもそも神ならぬ人間に公正な評価が可能かとか、部下や生徒が納得できる評価をできる力量を備えた上司や教員がどれほどいるかというような問題はありますが、それは今の論点には関係ありません。上司や教師は評価するのが仕事だから、「ほめて伸ばす」とか「叱り飛ばす」などの「物言い」をしても差し支えありません。しかし、被評価者の側が(評価の中身に苦情を言うのはいいけど)、「評価者と同じような評価方法の物言い」をするのは「越権行為」なのです。誰だって頑張ったらほめられた方がうれしいでしょうが、実力と期待と努力と結果を考え合わせ、評価者の側がどうするかを考える問題です。評価される側が「私はほめられると伸びるタイプ」などとあらかじめ評価に枠をはめるのは、おかしなことなのです。

 しかしこの言い方をきちんと注意されたことは最近あまりないのではないかと思います。それは「私はほめられると伸びるタイプ」=「ほめてくれないとすねちゃうタイプ」=「頑張ったのにほめてくれないと、恨んじゃいますからね」という「含意」が入っていることが多いからです。大した問題じゃないのに恨まれてもかなわないから、こういうことを言う人は放っておいて、テキトーにほめておこうということなのです。きちんと「叱るべきことは叱る」、ちょっとうっとうしい上司、教師こそ、付いて行けば実力が伸びる「本当の味方」なのだということは理解して欲しいと思います。(むろん、怒鳴り散らすだけとか、言うことがコロコロ変わるだけ、と言ったどうしようもない「目上」も一杯いると思いますが。)
  
 このような言い方を変に思わない若い人が多くなってきたのは、「評価」の方法が変わってきたこともあると思います。「説明責任」が重視され、学校だったらテストの点数、授業参加の状況、出席数、レポートや宿題の提出回数などを点数化するやり方が事前に公開されるようになりました。そうすると教師の評価という仕事が、単なるエクセル数式への入力事務員になってしまいます。このようになれば、評価者としての教師の尊厳性が損なわれるようになるのは間違いありません。しかし、今でも上司も教員も「チームの一員」としての部下、上司の「人間力」を見守って評価しているのは間違いありません。

 では、どういう言い方をするならいいのかと言われても、ケース・バイ・ケースでしょうが、「自分からは口にしない」が基本で、酒席などでは「私、頑張ったんですよー」程度ならOK。結果が良かったからほめられて当たり前の時も、きちんとほめてもらったらちゃんと礼儀正しくお礼を言う。自分から見て不公平な評価だと思う時は、きちんと説明を求めに行く。そんなところでしょうか。自分で言わなくたって、見てる人は見てるので、時に悔しい思いを飲み込んで仕事や勉強に打ち込んだのは誰にでもあること。「お天道様が見ていてくれるさ」というような「達観」も必要で、地道に目立たぬ場でも力を尽くすということですね。自分で言っちゃえば「それを言っちゃあおしまいよ」っていう言葉もあるのです。

 ということで、「ほめられると伸びるタイプ発言」がなぜ「越権行為」で「上から目線」であるかの説明は終わりますが、果たしてガッテンしていただけましか?

 また、「私って○○の人」という言い方も、違和感があると多くの人が思っているでしょう。もちろん、単なる事実の問題ならいいですよ。でも価値観を含む表現を自分で自分にしてしまうのは、自分で自分を決めつけ、その最終結果を他人にも共有を強制することです。こういう言い方に触れると、言われた側は「あんたは押しつけがましい人」と内心思ってしまうわけです。

追伸1.「現代っ子」と言う表現にも違和感があります。この言葉は昔1960年代に高度成長時代の子供たちを言う「歴史的用語」でした。教育評論家の阿部進さんが肯定的に使いはじめましたが、戦前世代には悪い意味でつかわれることが多かった言葉です。いわゆる「団塊の世代」、今60代の人たちが「元祖現代っ子」で、80年代以後はあまり使われていません。いつでも現代だから「現代っ子」だというような言葉ではないと思います。ウィキペディア等を検索して見て下さい。

追伸2.コメント者の方が「何かを否定するためのブログ」と書いていたと思いますが、このブログは「何かを否定するためのブログ」ではありませんよ。「教員免許更新制に反対するために始めたブログ」という始まりはありますが、「反対」と「否定」は違いますよね。「反対」意見は、通れば「肯定」になりますから。反対意見が通じて自分の方が「肯定」になる世界があると信じ、言語表現が通じると信じ、現代の政治経済等のシステムを信じてブログを開設しています。「否定」するだけなら、ブログを書く人はいないから、すべてのブログは「何かを肯定するためのブログ」なんだろうと思います。
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1 コメント

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Unknown (呉一郎)
2011-10-21 23:27:22
「被評価者は納得いかない評価に異議申し立てをすることは出来ますが、「評価されること」それ自体を拒否することはできません。」

■もちろん、評価されることは、評価される側にとって不可避ですし、また、評価されるということは、それが他者に於いて自己を認識するということの、ほぼ唯一の方途に他ならない以上、なくてはならないことであり、そのことなくして人は「ただの人間(ホモサピエンス)」(ハンナアーレント)でしかなく、人間ではありません。
■しかしながら、そのホモサピエンスから評価された場合、反応が「上から目線」や「越権行為」的な発言、態度になるのは致し方ないかと思われます。而も、近年はそのホモサピエンスの多いこと。その背中を見て育った子供に対し、「最近の若い者は」というようなことは、言ってよいものかどうか甚だ疑問です。
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