尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

東京の「副校長」には、なりたくない

2011年10月25日 20時42分57秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 10月25日朝日新聞夕刊に「副校長 なりたくない」「都の公立校 選考試験1.1倍」という記事が載っていました。最近の教育記事の特徴として、教育委員会からの取材だけで書くから、事実はわかるけど本質が理解できない記事になっています。そこでもう少し正しく理解するために。

 そもそも「副校長」って何ですか?東京以外では、まだ「教頭」と呼んでいるところも多いと思うので、その点を説明しないのは不親切です。2008年の法改正で「副校長」という職階ができましたが、東京ではもう10年ぐらい前から、教頭のことを(法によらずに勝手に)「副校長」と呼ばせてきました。校長の権限拡大をめざし教育委員会に直結した「教育改革」をすすめる一環として、「教師のヘッド」ではなく「校長の副」であることを強調したのでしょう。

 「忙しすぎて志望激減」は確かにそうだと思いますが、では昔の教頭先生がヒマだったかというと、もちろんそうではありません。教師は、昔は「校長」「教頭」「教諭」しか職階がありませんでした。(教諭以外にもあることはあるけれど。)その時代は、職場の多数をしめる「教諭」(昔は大部分が組合員)と職場の長である「校長」にはさまれた「教頭」は、まさに「中間管理職」そのもので、学校が荒れたときなどは、やはり教頭先生が一番大変だったのではないかと思います。現在は「教諭」が「主幹教諭」「主任教諭」「教諭」に区分されています。都教委が全国に先がけて「主幹教諭」を導入したときには、主幹が管理職を助けるから学校はよくなると大宣伝しました。それにも関わらず「副校長が忙しすぎて成り手がない」のなら、都教委の人事政策が根本的に間違っていたことになります。そういう反省がまずない。(都教委に反省を求めるのは、「木に縁りて魚を求める」ようなものですが。)

 しかし、「忙しいからなり手がない」というだけでは、不十分な理解です。(だから都教委はダメなんです。)「副校長」は永遠に「副校長」ではない。「副校長」として頑張って早く「校長」になればいい。人間はいくら大変で忙しい仕事でも、「それが大切な仕事で、自分が頑張ってやるしかない」仕事なら、成りたい人はいるものだし、頑張れるものです。だから問題は「副校長がやらされている仕事が、時間を惜しまず頑張りたくなるような意味を感じ取れる仕事なのか」にあります。東京ではそれが問題で、次々に「やる意味がわからないこと」「今まで自分が教師としてやってきたことと違うこと」が都教委から押し付けられてきます。自分でも納得できないまま、「こんなことして何になるのか」という仕事を部下に押し付けなくてはなりません

 そういう「ブラック企業」の仕事みたいなことを副校長がやらされているのを毎日見聞きしているのだから、成り手が少ないのも当然です。だから「多忙化対策」などと言ってるのも、全く逆効果。「副校長のサポート役として管理職OBを再任用」だって!そのOBとの人間関係、権限争いでかえって忙しくなるではないですか。(もちろん都教委もそれは判っているでしょうけど、使い道がない定年後の校長の仕事を作って現場に押し付けるということです。そして、「多忙化対策」と書類上書いておく。)

 僕にはそれでも1倍を切らないのが不思議です。それは僕が思うに、「学校を守るため」と「最後は校長で終わりたい」ということでしょう。それともう一つ、管理職試験受験者を出すのも管理職の仕事なので、おとなしくて逆らえなさそうな中堅教員をなんとか口説き落として受験させるということもあります。だんだん管理職に「いい人かもしれないけど、上司としては…」と言う人の割合が増えてきたかも。僕も「学校そのもの」を否定するわけじゃないので、学校がある以上は誰か責任者が必要なのは判ります。では、誰がやるか?年齢も年齢だし、生徒や親との付き合いよりも「学校経営」に関心が湧いてきたという人がいるのは当然でしょう。それで自分が現場を守る方になり、今までお世話になってきた学校のために頑張ろうと思う。「自分は学校を守るために管理職になる」というタイプは、いつの時代にも一定程度いるわけです。また、教員養成系大学を出て、親も校長だった、友達も校長になった、自分も校長で教員生活を締めくくりたいという人もいます。ま、それはその人の人生観ですから。(まあ、そんな悪い管理職も少ないと思ってますので、なっちゃった人は頑張って下さい。)

 僕はその「学校を守るため」に管理職になるというのは、昔はありだったと思うけど、今の東京では無理だと判断しています。自分としては、それ以前に、仕事というのはどの仕事も大変ではあるけれども、できうれば「社会の役に立つ仕事」をしたい。ある程度の給与が保証されているならば、給与が多いより、意味がある仕事の方がいいです。となると、管理職になって都教委や国の悪事に加担するよりも、一教師として生徒と接しているほうがずっと意味の多い仕事だと思うし、悩みが少ないでしょう。そういう意味で、教育政策が根本的に変わり、学校現場の裁量が増え、現場で頑張る意味がはっきり見えるようにならない限り、誰も苦労のみ多い管理職にはなりたくないでしょう。それを職階ごとの給与格差を広げて、主幹や管理職を目指さないと給料が上がらないような仕組みを作る。そうすれば管理職になると思うのか。まさに逆効果。「教育委員会」が一番人間を知らない。困ったもんです。
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