尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

生活指導記録の問題-広島県の中学生自殺問題③

2016年03月14日 23時09分09秒 |  〃 (教師論)
 「モジュラー型ミステリー」というジャンルがある。主に警察小説で「同時多発型」に事件が起きるタイプのミステリーである。(僕が好きなのは、英国のR.D.ウィングフィールドによるフロスト警部シリーズ。)「モジュラー」(modular)とは、電話やケーブルなどの端子のことで、「モジュラー型」はもともとは工業用語らしい。規格化された製品を組み合わせて使える「組み合わせ型」のことで、英語を見ると「モデュラー」と表記するべきかも。さて、学校は典型的な「モジュラー型」職場で、多くの生徒(だけではないが)が同時多発的に多くの「事件」を発生させている。

 学校をめぐる「何でこんなことが起きたのか」というようなケースを見て、僕は「同時にもっと大きな事件が別に起きていたのかもしれない」などと書いたことがある。今回のケースでは、もう報告書が出来ていて、そのことが証明された。1年時の万引きが起こった翌日に、「対教師暴力事件」が起き、万引き指導の方はおざなりになったのである。万引き事件に関しては、他の指導の場合には残っている反省文等が残されていないということだが、「残っていない」のではなく指導を行えなかったのである。

 この問題では、当初「1年時の非行歴を進路指導に用いた」「その際、当時の資料の誤記が訂正されていなかった」と報じられた。ニュースでは、「誤記を訂正する担当も決められなかった」などと報道されていた。「非行歴」という表現に関しては、「非行」には当たらないので、学校としてはあくまでも「生徒指導歴」であると一回目に書いた。ところで、問題はもっと深いものがあり、今書いたことを見れば、「生徒指導歴」にカウントしても良いのかどうかに疑問がある。生徒を指導するというのは、単に万引きを確認するだけでは終わらず、事情聴取や家庭との連携を通じて、反省を促し今後につなげていく筋道を立てないといけない。もし、そこまでやる時間的余裕がなかったとしたら、「指導した」とは言えず、単に外部情報が寄せられたというに止まるのではないか。そういうケースの場合、そもそも「生活指導1件」とカウントするのが許されるのだろうか。

 もっとも、教育委員会への報告では正しい名前で書いてあったということだから、生徒への事実確認はなされていたのだろう。というか、万引きの連絡は学校にあって学校から引き取りに行ったのかもしれない。本来、放課後に生徒が私服で起こした問題は、「学校の指導範囲ではないから警察に連絡してください」と言ってもいいはずである。だけど、実際にそんなことを言い放つことは不可能である。学校に連絡があるのも、一定の信頼がある証でもあるから、地域からの連絡をむげにはできない。だけど、憂さ晴らしのような電話も結構あるし、万引き事件の場合、(特に今回のコンビニなど)被害額そのものが小さい事が多く、警察に通報して被害届を出して調書を作るのは店の方でも面倒である。要するに二度とないように叱りつけて欲しいわけで、学校に連絡するわけである。

 そういうことだとすると、引取り時に名前と事実経過を把握できたわけで、「背景のない事件」と判断されたのだろう。万引きという「窃盗事件」は、大体は遊び半分の愉快犯のようなものだと思う。ただ、表面上は万引きとして発覚したが、実際は「クラス内のいじめ事件」(弱いものに無理やりやらせる)だったり、万引き商品を校内で売買している「盗品売買グループ事件」だったりすることも時々ある。今回のケースではそうではなかったと確認できていたから、対教師暴力事件のさなかに忘れられたのだろう。だけど、対教師暴力が起きるような学校では、教師の注意がそこに集中した裏で、問題を起こすとは思ってなかった生徒が事件を起こしたりするものである。

 次は「誤記が訂正されなかった問題」だけど、これも本質は誤記が訂正されなかったことではないように思う。会議後に作られた正式報告書類では正しい名前になっているとのことだから、むしろ「訂正された」というべきではないか。だけど、その「正式報告」はどこかに綴じこまれていて、共有サーバーにあった古い資料が発掘されてしまった。それは本来、生活指導部会か学年会のための内部資料と思われる。普通は会議終了後に(主任などは除き)回収されるもので、「会議のたたき台」的なものだと思う。もともとが「正式な資料」ではないもので、会議を経て正式資料が作られる。そういった性格のものではないだろうか。しかし、その正式な書類の方が受け継がれなかった。

 担任や学年主任が1年時からその学年を担当していれば、当然ことの経緯が覚えていただろう。恐らく途中で異動があり、1年時を知らない人が担任だったのだろうけど、学年の生活指導担当がきちんと資料を受け継いでいれば、本来起きるはずがないケースである。仮に「1年時からの指導歴を進路に使う」という方針が決まったとすれば、生活指導担当が正式に残された指導資料をあたるはずだが、一体どうしてしまったのだろう。問題多発と多忙の中で、指導資料の引継ぎがうまくいってなかったのだろう。こうなると、何でもかんでも正式書類を作って管理職の押印を経ないといけない東京の方式も、やはり必要なのかという気もしてしまう。とにかく、問題は「会議資料の間違いを訂正しなかった」ことではなく、「生活指導資料の引き継ぎの不徹底」にある。最後にもう一回、ではどうすればいいのか、教師のあり方について考えておきたい。
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